このブログ、平日は毎日更新していたものを週3回の更新にしてから随分経つ。人間の能力ってダメなもので、週3回になったらなったで、お気軽になった感じはない。
更新頻度が変わったのだから、以前よりも書きためておけそうなものだが、それができない。つくづく不思議だ。
一応、1~2回分はストックしてあるのだが、ちょっと油断すると在庫切れだ。3回分のストックがあったとしても1週間しかもたない。
夏休みを取ったら即アウトだ。実に不甲斐ない。
ちなみに記者稼業の常識のひとつが、原稿締切りについての認識だ。一般的な日本語解釈なら、締切りとは「その日までに書きあげる」という意味。ところが、我々の感覚だと、締切りは“その日に書く”という意味になる。
締切りが3日後だろうと2週間後だろうと、はたまた半年後であろうと、結局、締切日に慌てふためいて書く。
締切りまでの時間がたくさんあろうとなかろうと関係ない。問題なのは締切日として指定された日がどんな日なのかということ。その日が多忙なら、遙か以前に依頼された原稿でも書けないという理屈だ。
実に愚かな話だ。それって人としてどうなのかと思う。
ということで、原稿を書きためられなかったので、多分来週まで更新をお休みします。
また来週よろしくお願いします。
2010年8月4日水曜日
夏休み
2010年8月2日月曜日
プールと沖縄
猛暑が続くと水が恋しくなる。わが家にも大きめなプールを導入してみた。「わが家のプール」などというと、まるっきり富豪のようだが、5千円で買ったビニール製だ。
タテ1.8、ヨコ2.5メートルほどのサイズだ。大柄な私が全身を伸ばしても余裕だ。わが家の下の子なら溺死できるほどのサイズだ。
電動空気ポンプのおかげで10分もあればふくらむ。ただ、それなりに水を溜めるには20分ぐらいかかるので、今後の水道代が恐い。いや、富豪なので水道代なんか気にしないことにする・・。
晴れた週末にはベランダにパラソルやビーチチェアを用意して束の間のリゾートプールの完成だ。一応、優しい父親として子どもと遊ぶ。この時間を頑張ることが大事だ。
子どもはそのうち、プール遊びに飽きるし、母親の用事を言いつけられたりして、撤収してくれる。そこからが私の時間だ。
「ガリガリ君」をかじって、缶ビールをグビグビして、葉巻をプカプカしながら、くだらない雑誌をパラパラ。混雑した街に出るより快適だ。
BozeのIpod用スピーカーをセットし、BGMはラテン系もしくは沖縄民謡だ。真夏の日射しを浴びながら聞く沖縄民謡は最高だ。
民謡に限らず、りんけんバンドのボーカル・上原知子のアルバム「小夏」とか、ハワイアンと沖縄音楽をミックスしたような独特の世界を持つ“チュラマナ”のアルバム(超オススメです。確かiTunesでも購入可能)を聞いていると、束の間の南国気分だ。
そうこうしている間に無性に沖縄料理が食べたくなり、プールを引き払ったあとは、デパ地下で購入したジーマミ豆腐、豆腐よう、真空パックのソーキの煮付けなんかで、泡盛タイム。
こんなことを毎週のようにやっていると、無性に沖縄に行きたくなる。多分、今月中には沖縄の土を踏んでいるはずだ。つくづく思考回路が単純な私だ。
わが社のある池袋も最近は沖縄料理屋というか沖縄居酒屋が増殖中だ。大型飲食業チェーン店が手がける「沖縄風」が大半だが、そんなかにあって独特な雰囲気を醸し出すのが「みやらび」だ。
池袋で50年以上の歴史を持つ筋金入りの店。今風の「オキナワンフード」とは一線を画す老舗だ。壁には昔訪れた著名人の色紙が飾ってあるのだが、新田次郎や壇一雄、江戸川乱歩に山下清など、もはや歴史上の人物ばかり。渋すぎ。
他にも当時はきっと有名人だったであろう人々の色紙が保存されている。私のような若者には聞いたことのない名前ばかり。
現代の著名人はまったく来ないというイジワルな見方をしてはいけない。池袋というビミョーな街で何十年も頑張っているだけでエラい。
味付けは独特なので、好き嫌いは別れそうだが、他の店にはないメニューもあって楽しい。

画像は塩ソーキとミヌダル。泡盛との相性バッチリだ。こういうつまみがあると痛飲しすぎて通院寸前だ。くだらないシャレですいません。
先日、「通院のため出社が遅れる」と会社にメールすべきところを「痛飲のため・・」と間抜けな変換ミスをしてしまった・・。
おっと、話がそれた。
この店、週に3回ほどちょっとした沖縄舞踊をステージで披露する。そんなに面白くないが、初めて見る人やそういう出し物が好きな人には悪くないのだろう。
正直なところ、勇壮な舞踊を見せられるより、三線の生演奏でノホホンとした沖縄民謡を歌ってくれた方が有難い。
最後はソーキそばだ。「泡盛を飲み過ぎたあとの沖縄そば」。これまた最高だ。この店の沖縄そばはかなりのレベルだと思う。
私見だが、最近の沖縄そばはトッピングの肉の味にかまけてスープの味が頼りないパターンが圧倒的に多い。辛味調味料のコーレーグースをドバドバ入れないと食べられないようなものも多い。
その点、こちらの店はダシがしっかり効いていてパンチのある味付け。コーレーグース要らずの完成した味だと思う。
エラそうに書いてみたが、時たま訪ねるだけで、おまけに毎回酩酊状態で食べているわけだから、はたして記憶が正しいのかどうだか怪しい。
あまり信用しないで下さい。
ああ沖縄行きたい・・・。
2010年7月30日金曜日
キャッチボール

中学生の頃まで野球少年だった。炎天下でヘトヘトになりながら投げたり売ったり。練習後のコーラやジュースが泣きたいほどウマかったことを今でも思い出す。
ポジションはピッチャー。中学の野球部あたりだとピッチャーは自己中心的な鼻持ちならないヤツが多い。私もそんなタイプだった。
味方がエラーすれば、平気でマウンドで怒ったりするような生意気なバカだった。中学生のクセに審判の判定に文句をつけたりもした。恥ずかしい過去だ。
大人になってから草野球を随分とやった。おかげで子ども時代の自分のアホぶりを思い知った。チーム力というか、参加している全員で楽しまなければ勝てないし、面白くない。
ある意味、大人になってからの草野球が野球の奥深さを教えてくれた。綺麗事のようだがそれが野球の真理だ。つくづく独り相撲状態で野球をしていた子どもの頃を後悔した。
我が草野球チームは、「ベースボーズ」という卓越したセンス?のチーム名だった。アトランタ・ブレーブスのユニフォームを基にした洒落たユニフォームを揃えたもののプレー内容はヘロヘロな軍団だった。
中学高校時代の友人達で結成。とはいえ、試合をしたくてもなかなかメンバーの都合が合わない。メンバーの知人、同僚、部下などが助っ人で参加するようになった。
ごった煮状態のチームになっていたのだが、部活で野球経験があるのは私以外に一人か二人。当然、勝ち負けより楽しみ優先だ。
さかんに活動したのは30代の前半から中盤ぐらいだったか。あと10年若ければもっと強かったのだろうが、大人になった分、純粋に野球が楽しめた。6チームから成るリーグ戦に加盟して春と秋は毎週のように試合をこなした。
東京ドームをリーグで借り切って真夜中に試合をしたこともある。まあ正直なところ、試合後の宴会が主目的だったような時もあった。
試合のあと、昼間からガブ飲みする生ビールはどうしてあんなにウマいのだろう。大げさではなく、あれほどウマい生ビールは今後の人生で経験することは無いと思う。
年齢のせいでケガが多くなり、メンバーの転勤なども重なってリーグ戦から脱退。なんとなく活動休止状態になってもう7,8年が経つ。
まだユニフォームは捨てていない。当時のメンバーとはよく飲むのだが、再結成の気配はない。まあ再結成してもケガ人が続出することは間違いない。
急に野球ネタを書き始めたのには理由がある。最近、自宅からクルマで5分ほど行った公園で「ボール投げ」をはじめた。キャッチボールではない。「ボール投げ」だ。テニスの壁打ちならぬ「壁投げ」だ。
いい感じの壁投げポイントを見つけたので、週末の朝、せっせと1時間ほど投げ込んでいる。思った以上に運動量もある。ただ散歩しているより楽しい。
小学生の頃、近所に学校の友達がいなかったせいで、空き地の壁に向かって毎日のようにボール投げをしていた。
壁の一部にチョークで印をつけてコントロールを磨いた。当時、人より少しばかり野球がうまくなったのは間違いなく延々と1人で熱中した壁投げのおかげ。
この歳になって壁投げをはじめるとは思わなかったが、やってみると無性に野球がしたくなる。いまさら知らないオッサンチームに混ざるのも面倒だ。やはりベースボーズ復活を企てたい。
ちなみに壁投げを黙々とこなしているとキャッチボールの尊さに気付く。
野球を少しかじった立場から言うと、キャッチボールは「たかが」であり「されど」の代表のような行為だと思う。
ただボールを投げ合う。面白くも何ともない。とはいえ、あの単調な繰り返しに色々な要素が詰まっている。
相手と呼吸を合わせて、相手が捕りやすい球を投げないといけない。自分が暴投しても拾いに行くのは相手だ。相手が暴投してもこちらが拾いに行く。相互扶助、持ちつ持たれつだ。
迷惑をかけないように丁寧に投げる。相手がちょっと失投しても難なくキャッチする気配りも必要だ。こっちがヘバっても相手がいるから勝手にやめられない。
野球の技術や経験もほんの1分もキャッチボールすれば分かる。大げさに言えば5分程度キャッチボールすれば相手の性格だって想像できる。
当たり前だが、壁投げだと相手が壁だから気遣いの心配はない。その分、通い合うものもない。やはり「ゴメン」とか「すまん、すまん」とか言いながら白球を追っかけたい。
つくづくまた野球がしたい。試合後の生ビールを浴びるように呑みたい。
2010年7月28日水曜日
Tバッカー求む
「もともと、ブラジルの先住民がアマゾン川で漁をする際にカンディルと呼ばれるナマズの一種が尿道や膣、肛門から侵入することを防止するために穿いていたふんどしのようなものが、その源流とされている」。
いきなり引用でスイマセン。ウィキペディアから抜粋してみました。
このオドロオドロしい“防御服”の話は、実は私が愛する「Tバック」の解説の一部だ。
紅茶をお手軽に飲むアレではない。女性の下着とか水着のTバックだ。
Tバック好きと広言するのは少し勇気がいる。でもTバックが嫌いな男はいないだろうから別に恥ずかしがることではない。
「私は誰が何と言ってもTバックが好きだ!」。こういうことは堂々と宣言すると何だかスッキリする。
今は亡き飯島愛が、晩年に文化人然とした様子でテレビに出ようと、40代の男性なら全員が全員「ギルガメッシュナイト」のTバック姿を脳裏に思い浮かべていたはずだ。
あの時代、その名も「T-BACKS」というセクシー路線のグループもいた。今思えば滑稽だ。異常なネーミング。そのまんまだ。変な時代だった。
パンツスタイルの女性が下着のラインを隠す目的で着用しているなどと聞くと、街を歩くパンツ姿の女性にあらぬ妄想を抱く若い頃の私であった。
その後、とある女性に「私はTバック世代じゃないから」と言われたことがある。真相は知らないが、世代によってTバックが敬遠されているとしたら由々しき事態だ。実際はどうなのだろう。私にとっては地球温暖化の動向より気になるテーマだ。
若い女性に「ワタシ、Tバック派で~す!」などと言われたら、もうダメだ。たとえ土偶や埴輪みたいな顔付きの人でも一生懸命親しくなろうと試みてしまいそうだ。
今日こんな話を書き始めたのには理由がある。先日(7月16日付)のブログで紹介した昔のフィルム整理をしていたらムフフ画像が出てきた。
マレーシアのとある小さな島で知り合った“Tバッカー”の写真だ。
お互い一人旅同士、日本人は他にいない島だったため、必然的に言葉を交わすようになり、浅瀬のサンゴ撮影の際にモデルになってもらった。
この女性、常に水着はTバック。私にとっては神だ。ブラジル人にとってのペレ、アルゼンチンの人から見たマラドーナみたいなものだ。
人も少ない寂しい離島でTバックで闊歩している姿はかなり変だ。何が目的で、はたして何者なのかが気になった。
気になったものの、なんてったってTバックモデルだ。細かなことは気にせずいっぱい写真を撮った。

まだ20代だった可愛い私は、大胆に接近撮影できず、最初のうちはあくまでサンゴがメインの真面目な写真を撮っていた。それでもなかなか貴重な体験なので萌え~!って感じだった。デジカメなどない時代だ。とにかくフィルム枚数が気になった記憶がある。
そうはいっても、翌日あたりになると途端に図々しくなって、徐々に接近撮影だ。だんだんサンゴなどどうでもよくなる。順光や逆光すら気にせず、出歯亀カメラマンに変身だ。


最後の画像なんて、一体何をしてるんだって感じだ。我ながらバカ丸出しである。
Tバックへのこだわりを文章にすると、どうしても話があられもない方向に滑っていく。いい加減にしておこう。
夏だし、暑いし、今日はこういうくだらない話でスイマセン。。。
2010年7月26日月曜日
美談 インチキ
なんとなく立派な話に聞こえるけど、ウサン臭い話が国会議員の定数削減だろう。民主党政権が比例代表の定数を80削減するという具体的数値目標を打ち出している。
「国会議員が減るイコールその分の税金が減らせる」。まあ単純にいえば悪い話ではないが、ことはそう簡単ではない。
定数削減を比例部分だけでこなそうという民主党案が実現した場合、分かりやすく言うと先の参院選での「みんなの党」の躍進は起こりえない。民意による風が吹きにくい構造になる。
80人程度の国会議員を減らしたところで、削れる税金はたかがしれている。それこそ「国会議員自ら痛みに耐えて奮闘してます」というポーズに過ぎない。ポーズにしてはインパクトがあって大衆受けする政策だが、コスト削減額は大したことはない。
「国会議員自ら痛みに耐える」という姿勢をポーズでなく本気で示すのなら政党交付金の大幅削減を打ち出すのがスジ。そこを突かれたくないばっかりに比例の定数削減でごまかそうという感じ。イヤらしい話だ。
政党交付金(政党助成金)は平成5年に小選挙区制の導入とともに実施され、国民1人あたり250円が思想信条に関係なく吸い上げられる。
国会議員数に応じて各政党に配分されるもので、これまでの15年間で5000億円以上の税金が使われている。
政党別累計額では自民党に2378億円、民主党に1358億円が振り向けられている。大政党であれば毎年100億円以上の“手取り収入”が天からふってくる。
ちなみに共産党が大嫌いな私だが、共産党だけはこれまで政党交付金を一切受け取っていない。この点だけは率直に評価したい。とはいえ、辞退した金額は国庫に入らず他の政党に配分されてしまうあたりがビミョーではある。
受け取った政党は所属議員に配分するわけだが、「政治活動」に使ったと言われれば、超高級料亭での会食だろうとキャバクラでの飲食だろうと問題にならない。実にお気楽な話。
支持政党に関係なく貴重な税金を吸い上げ、政党にバラまき、おまけにその税金が見たくもないテレビCM制作費に回されたりするわけだから、実にアホみたいな話。
企業団体献金の廃止が一種の導入条件のようなはずだったのに、そっちはそっちで相変わらず続いている。異常なまでにヌルい話。
政党交付金制度を根本的に見直すのなら国会議員の定数など増やしたっていいぐらいだ。
定数を増やす代りに、きちんと国民各階層からの代表を選ぶという意味に立ち返ってもらえれば尚結構なこと。
中堅、高所得者階層ばかりイジめる政府の社会主義的暴走に対抗するような代表者が選ばれるような仕組みもゼヒ作って欲しい。
素人の暴論だが、国会議員定数を増やす代りに、納税額別の立候補基準でも作って、税金すら納めないエセ弱者だけにおもねった選挙の在り方そのものを見直して欲しい。
変な話、その昔の貴族院議員制度なんか実にまともな発想に基づいている。高額納税者のなかから議員を選んでいたわけだから、ある意味分かりやすいスタイルだ。
“会費”を多く払った人の発言権は強くて当然。こんなことをいうと傲慢とか言われがちだが、自由主義社会なら普通のことだと思う。
2010年7月23日金曜日
5千円のやきそば
5千円のステーキ、5千円のフカヒレ姿煮。そんなに珍しい話ではない。そこが高級レストランだったらメニューを見てもギョッとはしない。場合によっては、平気な顔して注文する。
同じ5千円でも「ヤキソバ」となると事情が変わる。「5千円のヤキソバ」。ペヤングなら百数十円で買える。縁日の手作りだって500円ぐらいだ。その10倍もの値付けだ。
そんな強気なヤキソバを食べてきた。一応、富豪を名乗る以上、そんなことをわざわざテーマに取り上げること自体ちょっとダメだ。本当は「そんなもん毎週食べてます」と言いたいところだ。
まあ、5千円ヤキソバが初体験ではないという点で、かろうじて富豪っぽい(はずだ)。一応、人様に「ここのヤキソバはオススメだよ」とか語れるのだから大したものだ。
場所は、ホテルニューオータニの「トレーダーヴィックス」。トロピカル系飲食店?の元祖だ。南国っぽい造りを30年以上前から取り入れている老舗。
初めて訪れたのは中学生時代。友人の父親に連れてきてもらった。スペアリブを初めて食べたのもこの店だった。今だに私にとってワクワクする店のひとつ。
昔の日本人が喜んで食べたオーソドックスな西洋料理がメニューの中心。うなるような料理はないものの、何を頼んでも無難に美味しい。
酒を呑むことが食事の最大目的になってしまった私にとって、メニューのメインディッシュ欄が厄介な存在。前菜だけ頼んでグビグビ呑んでいたいのだが、バーコーナーではなく、レストランスペースにいる以上そうもいかない。
ドカンとステーキが来ても胸焼けしそうだし、羊だ鴨だといわれても、フォークとナイフで両手がふさがることを想像するだけで気分が乗らない。
そんなスマートではない私にとって有難い存在が「皇帝風やきそば」だ。5千円といえば大金だが、メニューのメイン料理の欄には5千円前後の料理ばかり並んでいる。だからヤキソバのアホみたいな?値段も、たまにだったら許してしまう。お箸で食べる点がまたいい。
要は、プリプリの大ぶりな海老や上等な牛ヒレ肉、ホタテ貝なんかがどさっと載っているスペシャルヤキソバだ。
量がまた多い。2人前という表現でもおかしくない。中途半端な中華料理屋で中途半端な量のヤキソバを注文することを思えば、あながち「皇帝風」は高すぎないのかもしれない。くどくなく、あっさりすぎず適度な味わい。
味がどうだとか、具材がどうしたというより、「5千円のヤキソバを食べた」という珍事がネタとして楽しい。だからつい注文してしまう。
飲み屋のママさんからお礼状をもらってもネタにはならないが、見知らぬ女性からラブレターをもらったら、私の場合、その話題で1週間は生きていける。ネタとしての有り難さはそういうことだ。
5千円のフカヒレを食べたところで、日常会話のネタにはならないが、ヤキソバだったら結構ウケる気がする。
意表を突いた高いものというジャンルで有名なのは資生堂パーラーの「1万円カレー」とか、伊勢志摩のどこかのホテルの伊勢エビカレー、アワビカレーあたりだ。1万数千円の値付けをするカレーライスだ。
まあ、率直に言って、注文する人の頭の中は、味がどうこうではなく「話のネタ」として割り切っているのではないか。そういうジャンルはもっとあってもいい。
1万円のカツ丼とかがあったらゼヒ食べてみたい。どう逆立ちしたってマズいはずはないし、おまけに話題性抜群。変な話、向こう10年はその話を大げさに自慢できる。
1個3千円の鯛焼きとか、1本3千円のソーセージとかも楽しそうだ。
インチキな寿司屋でちょろっとボラれるのは許せないくせに、ネタ的にアリなら突拍子もない値段も許してしまう。こういう感覚っておかしいのだろうか。
考えてみれば銀座のクラブでコーラだけ飲んで、いつもと変わらぬお勘定だったことがある。スーパースペシャルコーラだ。充分おかしい。結局、普段からバカみたいな私だ。
2010年7月21日水曜日
野菜

年をとったなあと痛感する瞬間が増えている。動悸、息切れ、不眠とか、物忘れ、倦怠感、あちこちが痛いとか、下半身関係の問題とか、お決まりパターンばかりだが、先日、変な場面で高齢化?を実感した。
「野菜を喜んで食べている自分」。これには我ながらビックリだ。つくづく年をとったことを痛感した。
男の子は基本的に野菜が嫌いだ。レッキとした男の子であった私は、ライオンのように肉しか食わずに成長してきた。野菜は敵とばかりに一切目もくれなかった。
若い頃親しくした女性の数は、それなりに多かった方だと思うが、その人達が今の私の食生活を見たら皆さん大げさに驚いてくれると思う。
「野菜を注文している!」、「ごぼうにお金を払ってる!」・・・。そんな感じでビックリするはずだ。ついでに「オトナになったのね」とも言ってくれるだろう。
仕事上の付き合いで会食する機会は多いが、そういう場面、すなわち無理やり会話のネタを探り合うような状況では、必ず私の野菜話になってしまう。迷惑な話だ。
これまで野菜をまったく食べないことを指摘されれば、「宗教上の理由で食べられない」とか「死んだ親の遺言で食べない」とか抗弁してきた。
今も無理して野菜を食べようとは思わない。いやいや食べたところで、それ自体がストレスになって、きっとガン細胞が生まれてしまう。
そんな私だが、なぜか時に無性に野菜を食べたくなる。身体の中の奥深くからの叫びなのかもしれない。
かといって、ピーマンにセロリだとか、インゲンだとか、オクラだとかニンジン、かぼちゃあたりは今でも許せない存在として敵視対象ではある。
野菜すべてに門戸を開いたわけではない。あくまで一部解禁である。
群馬の人からいただいた上物の下仁田ネギをすき焼きに投入した時には、肉なんか無視してネギばかり食べた。
トンカツのキャベツが無性に食べたくなって何度もオカワリしてソースまみれのウットリした時間を過ごした。
某高級串焼店で出されたトマトの串に感激して2回もオカワリした。
天ぷら屋のカウンターで椎茸と小玉葱の天ぷらが気に入って、そればかり追加注文した。
しょせん、その程度だ。でも、まごうことなき野菜だ。それを喜んで、金まで払って食べている事実は、私にとって人生の一大事ではある。
5年ほど前から「青汁」を飲むようになった。まずくもないが、うまくもない。会社に常備してあるので、平日は1日500ミリリットルほど摂取。これも立派な習慣だ。誰も誉めてくれないから自分で書いておく。「立派だ」。
青汁を飲むようになったのは、もともと野菜を断固拒否するためだ。青汁を飲んでいる以上、申し訳程度に皿に載っている野菜なんか無視しても問題ない。
出された野菜を残した時、ついつい後悔というか、罪悪感みたいな感覚にとらわれがちだ。でも、そんな時は「オレは青汁を飲んでいる」という事実を思い出してみる。すると、あっと言う間に心が晴れやかになる。青汁の効能だ。
カレーに入っている野菜も、ピラフに入っている細かな野菜も上手によけるのは簡単だ。私には何十年も培ってきた職人技がある。「蓮舫の事業仕分け」にも負けないぐらいスパッと野菜どもをやっつけることができる。
おっといけない。野菜を好んで食べる話のつもりが、いつもの野菜嫌い自慢話になってしまった。
軌道修正。
そういえば、青汁を飲んでいるにもかかわらず野菜を食べるようになったのは「おでん」に多大な責任がある。
もともと、おでん嫌いだったのに、30代後半ぐらいだったか、突然、おでん屋さんのツボにはまった。
“銀座あたりのシッポリしたおでん屋で酒を飲む”というシチュエーションに身を置きたいばかりに無理しておでん屋に通うようになった。おでんが食べたいというより、その気配を楽しみたかったわけだ。
そうはいっても、刺身と枝豆、小鉢の珍味あたりでカウンターでチビチビやっていると、そのうち板前さんがおでんダネをあれこれ勧めてくる。おでんだから当然、野菜系が中心だ。
勧められるものをそうそう断るのもイキではない。“カネがない客”だとか思われるのもシャクだ。食べたくもない野菜なんか断りたいのだが、そうもいかない。
なにしろ“シッポリとしたおでん屋でゆるりと酒を飲む余裕のあるオトナな感じ”に浸りきっている私だ。大嫌いな野菜が出てきても「おお、もうそんな季節か」と感慨深そうにポツンとつぶやかないといけない。
そんなバカげた理由で野菜のおでんをつまんでいた。初めは吐き出しそうな思いをこらえて食べていたのだが、さすがにそのうちウマく感じるものも出てきた。ちょっと屈辱的だが、一部の野菜どもの軍門に下った格好だ。
冒頭の画像で左奥に映っているのは、ごぼう巻きだ。“ごぼう”だ。土みたいなドロみたいな味がする“ごぼう”だ。それこそ20年、30年前には親のカタキぐらい憎んでいた相手だ。
いまだにごぼう自体はマズいものの代表だと確信している。それでも、おでん汁が染みたあの独特なごぼうだけはナゼかウマく感じて注文してしまう。新興宗教の洗脳みたいなものだろう。恐ろしい話だ。
今日は長文になってしまった。携帯で何気なく撮影した冒頭の画像を見ていたら、ついついダラダラ書いてしまった。