2011年7月1日金曜日

アナログおやじ

年甲斐もなく、なんとかデジタル時代に取り残されないように悪戦苦闘している。そうはいっても、無理なものは無理みたいで何かと危なっかしくてしょうがない。

つい先日もメール誤送信というトンデモない大失敗をしでかした。仕事上のメールではなかったのだが、一歩間違えば大騒動だ。人生でも3本の指に入るぐらい恥ずかしい思いをした。自己嫌悪ブリブリだ。

詳細は都合により割愛する。。。

最近、facebookをいじっているのだが、ああだのこうだの書いた内容が「すべてのユーザーから閲覧可能」状態になっていたことに気付いた。さすがにビビッた。

「友達」という機能があるわけだから、その範囲に限って公開されているとばかり思っていた。ちゃんとチェックしないとまずい。

自分の行動に一切後ろめたいことはないのだが、少なくとも身内が読んだら「オイオイ!」みたいな内容も無くはない。

忙しくて大変でパンパンだ、とか言いながら、なんで仕事をさぼって美術館で絵を見ているのか等々。デジタル的履歴日時表示の前ではゴマしようがないじゃないかコノヤロー!って感じだ。

実に危険だ。実に脇が甘い。馴れないことはするものではない。

そうはいいながら、facebookは思っていた以上に楽しい部分もある。何年か前に友人に招き入れてもらったのに今まで活用しなかったことが悔やまれる。

まだまだ使い方がよく分からないのが問題だが、古い友人などが次々に見つかる。懐かしい人を発見して嬉しくなる。

この年代でそう感じるのだから、若い世代の人は色々な使い方が出来ているのだろう。災害時のインフラとしてツイッターが活躍したみたいだが、この手の情報ツールは最低限経験しておいたほうが何かと便利なんだろう。


話が変わる。先日、「頑張ろうデジタル対応・オレ編」の一環でついにスマートフォンを入手した。iphoneは電話が切れやすいという評判なので、ドコモの最新型を予約の上、発売当日にさっそく機種交換してきた。

お恥ずかしい話だが、その後3時間いじってみて、のこのこドコモショップに舞い戻って、「元の機種に戻してくれ!」と叫んできた。

わすか3時間で「卒業」だ。われながら潔い決断?に感心する。というか、闘いを前に敵前逃亡したみたいでチョット情けない。

スマートフォン、大したやつだとは思ったが、私としては「こいつは電話ではない」が結論。当たり前と言えば当たり前なのだが、あれは純粋にタッチデバイスとやらだ。

「携帯電話を新しくしよう」と思っていた私にとっては、「電話じゃない」という事実はサギにあったようなものだ。

たった3時間で機種を元に戻しに行った時、ドコモショップの店員に「これ電話じゃないからいらない」とその理由を語ってしまった。実に情けない言い分だ。世の中について行けていないオッサン丸出しである。

ついでにいえば、ドコモのアンドロイドは、G-mailのお節介機能がブリブリ働いているため、履歴というかプライバシーの部分がなんともハイリスクな点も気になった。

ロックをかけておくのもわざとらしいし、脇の甘い私にとっては「悪魔の機械」みたいな印象が強かった。やはりITの進化はボケッとしている私の平穏をかき乱すから困ったものだ。

通話やメール送受信の履歴が表示されずに、勝手にお節介な編集機能が働かない便利な?携帯は売ってないのだろうか。まあ、そんなものをわざわざ買おうという発想自体が怪しいから、成り立つはずもないか。

インターネット、Eメール、ケータイ、パソコン、カーナビ、GPS、おサイフケータイ、パスモ、電波時計、音楽配信、ちょっと思いついたものを羅列してみた。すべて20年前は無かったり身近ではなかった。

懐古趣味が強いわけではないが、最近の便利さと昔のアナログ型の情緒を比べると妙な感慨も覚える。良い悪いではなく、気付かぬうちに変わっていく「時代」という得体の知れない魔物が妙に恐い。

ちょっと大げさになってしまった。

河島英五の「時代遅れ」という名曲がある。あの歌が世に出た頃は時代遅れであること自体に男の美学が潜んでいた。今の時代、そんな悠長なことを言っていると痛い目に遭うから困りものだ。

まあ、先端技術に翻弄されているうちが花だろう。あと10年も経てばチンプンカンプンになって翻弄すらされなくなるかもしれない。

夜更けの部屋で一人、ちびちびと寝酒を楽しみながら、一通のメールを心待ちに胸を焦がすなんて楽しみは今の時代ならではだろう。

そういう時に限ってクレジットカード会社から「ご利用金額のお知らせ」メールが飛び込んでくるから切ない。

そんなものだ。

2011年6月29日水曜日

ローマの休日

体調不良だったある晩、酒も飲まずに「ローマの休日」を見た。わが家にはホームシアターが2箇所に設置してある。ちょっと富豪っぽい。


100インチと80インチなので、凄く本格的というほどではないが、一応それぞれサラウンドスピーカーも設置してある。その気になって見れば、かなり映画の世界に没頭できる。

子どもの頃、テレビの洋画劇場とかで、昔の映画を随分見せられた記憶がある。母親の思い出の映画だったりすると、半ば強制的に見るように段取られていた。

ジュリー・アンドリュースの「サウンド・オブ・ミュージック」とか、ウィリアム・ホールデンの「慕情」とか1950年代の映画だ。「ローマの休日」もそのひとつ。

私の場合、子どもの頃から故郷の街で「グレゴリー・ペックそっくり」と言われて育ったこともあり(大ウソです)、この映画には思い入れがある。数年に一度は見たくなる。

いまさら白黒映画は見る気にならないが、この映画の不思議なところは、モノクロであることが気にならない点だ。なんでだろう。普通の色彩感覚の中で見ているような感じがある。ストーリー性、役者の輝きを始め映画の出来すべてが高い次元にあるから違和感がないのだろうか。

先日は、同じくオードリー・ヘップバーンの「ファニーフェイス」という映画を見たのだが、カラーなのにちっとも見ていて身が入らない。ストーリーのペケペケ感と相手役のフレッド・アステアが年を取りすぎているのが気になって、結局途中でやめてしまった。

「ローマの休日」はどう逆立ちしてもオードリー・ヘップバーンの映画として認知されている。今更何を言うかという感じだが、今回見ていて印象的だったのはグレゴリー・ペックの素晴らしさだ。

実にいい感じだ。知らないフリして王女をパパラッチして一儲けしようとするマスコミ人のうさん臭さ、図らずも王女に恋をしそうになる段階の戸惑い、その後の別れに至るまでの男の揺れ動く心理がバッチリ表現されている。

「ホレてまうやんけ」

「ホレてしもうたやんけ」

「お別れせにゃアカンのう」

「もうチューでけへんけど、忘れへんで」

という段階ごとの葛藤を実に巧みに演じている。ペックおそるべし。

たいていはオードリーだけが賞賛される映画だが、ポイントはペックだろう。ラストシーンで王女との共同会見を終えて一人宮殿を去っていくペックの素敵さには身震いする。

一度だけ王女のいた場所を振り返り、思い出を消すかのように改めて前を向いてゆったりと歩き出す。

ペッ~ク~!と叫びたくなった。

「抱かれたい!」と思った。

それにしても、この映画ほどハマリ役という言葉が当てはまる配役は無いと思う。どんな男優、どんな女優をもってきたところでこの素晴らしさにはつながらなかったと思う。

というより、この映画が作られた時、オードリーはまだ「どこぞの馬の骨」だったわけで、言ってみればぺーぺー。あくまで主役はペックだったのが事実だ。

実際、あの伝説のラストシーンだって、そういう目で見れば「ペックのための映画」を象徴するシーンだと思う。結果として、ペック的には「あの新人女に全部待ってかれちゃったぜい」と思ったはずだ。

妙に熱弁をかましてしまった。

話を変える。

もともと、私が映画に求めるものは、非日常的なストーリーに尽きる。48作すべてを何度も何度も見ている寅さんは別として、とくに洋画の場合、「奇想天外モノ」が好きだ。


B級ラブコメディというカテゴリーでくくられてしまうのだが、レンタルに飽きたらず、DVDをわざわざ買ってまで持っているのが、「スプラッシュ」と「ビッグ」だ。

トム・ハンクスが大御所俳優になる前の映画だ。彼の髪もふさふさだ。前者は人魚と恋に落ちる話。後者は子どもが間違って大人の身体を持ってしまい、大人社会で恋愛したり活躍する映画だ。

何度見ても心がウキウキする。「ショーシャンクの空に」とか「ライフ・イズ・ビューティフル」とか「ニュー・シネマ・パラダイス」とか、名作ランキング上位に来る映画もそれは素晴らしいのだが、私的には「B級ラブコメ」がイチオシだ。

成仏できなかった男が恋人を守りに出てくる「ゴースト」も大好き。何度見ても号泣する。ちょっとマイナーなところでは古代エジプトの女性がデパートのマネキンに乗り移って、現代人と恋をする「マネキン」も変な映画だけどおすすめ。

この映画はテーマ曲(「Nothing Gonna Stop Us」/STARSHIP)が最高で、いまだに「私が好きな洋楽トップ10」にランクインしている。残り9曲をすぐに思い出せないからいい加減な話ではあるが。

「ローマの休日」も考えてみれば非日常的だ。脱走した王女様とのデートだ。さすがに人魚やマネキンよりは現実的かもしれないが、絶対にあり得ない設定だ。

へたしたら人魚やマネキンのほうがあり得そうだ。そのぐらいスーパーVIP王女が夜中の路上で二枚目新聞記者に拾われるというシチュエーションには無理がある。

B級ラブコメの大原則が「そんなことアリエネ~」であるならば、ローマの休日はその元祖かもしれない。

最近はCGが進化したせいで、妙に大がかりなドッタンバッタン映画が増えているように思う。80年代の底抜けに明るい奇想天外ラブコメディー映画はもう流行らないのだろうか。

「ローマの休日」から随分と話がそれてしまった。

洋画、邦画を問わず、奇想天外ラブコメ映画のおすすめがあったらゼヒ教えてください。

2011年6月27日月曜日

葉巻の香り

一時期ほど狂ってはいないが、葉巻をモクモクするのが好きだ。

葉巻をくゆらせる時間はなかなか捨てがたい。昨年の増税値上げをきっかけにタバコも吸い始めてしまったため、まさに煙まみれの日々だ。

仕事とか家族とか、さまざまな厄介事もケムに巻いて逃げ出したいのだが、そうもいかない。タバコや葉巻に逃避してばかり。もうすぐ私自身が燻製になりそうな気がする。


昨年、葉巻好きだった知人が咽頭ガンで逝ってしまい、さすがに控えるようになった。それでも先天的に煙が出るものが好きなので、懲りずにプカプカしている。以前のように1日3本みたいな乱暴なことはなくなったから良しとしよう。

産地の気候特性から考えて、葉巻がウマく感じるのはやはり今の季節だ。ヒュミドールでしっかり湿度管理していても、真冬の乾燥した寒風の中では一段階も二段階も楽しみが劣る気がする。

葉巻の良さは何と言っても、くゆらせはじめた途端に自分を取り巻く空気が急激にスローテンポに変わるところだ。

こればかりは不思議だ。未体験の人にはぜひ試してもらいたい。必然的に時間にそれなりに余裕がない時にしか葉巻に火をつけられない。

いわば葉巻に火をつける行為自体が、そこから数十分~一時間ぐらいは、何にも邪魔されずにホワホワできることを意味している。

暇そうにしていても、都会で働くいっぱしの中年男であれば、やれ会議だ、来客だ、原稿の締切りだ、訴えられたの訴えてやるだの等々、何かと慌ただしい。

仕事以外にも、もっと稼いでこいとか、子供の学費を納めたのかとか、学校行事に行けとか、自分の部屋を少しは片付けろとか、なんで最近身綺麗にしているのか等々、うっとおしい騒音が洪水のように押し寄せる。

そんな喧噪を外れて、一人の時間にしっぽりと葉巻の煙を眺めていると束の間ではあるが、自分の魂が異次元にワープする。

冒頭の画像は、銀座のシガーバー・コネスールで異次元ワープしていた時のひとコマ。グラスシャンパンにチョコレートを相棒にして昼間の衣が脱げていく場面だ。

中途半端な時間のシガーバーは客もまばらで思考停止するにはもってこいだ。葉巻にどうしてもつきまとう「目立っちゃう感じ」もガラガラの店なら心配ない。他人様の眼が気にならない。

葉巻ラバーにとって「他人様の眼」はちょっと厄介。どうしても「ギャングのボス」みたいに思われる。私のように見た目がヒヨコのように可憐でも葉巻を咥えると一気に「悪い人」だと錯覚される。

わが家の軒先でときどきアウトドアチェアにふんぞり返って葉巻を吹かしていることがある。基本的には、上階のベランダが指定席なのだが、面倒な時は、玄関先でプカプカだ。道行く人からチラッっと見えてしまうようで、困ったことに近所で私を「ギャングのような人」と認識している人がいるらしい。

どうも下の子の保育園の父兄が発信源らしく、穏やかな地域住民を目指す私にとっては頭が痛い問題だ。

下の子は、ダウン症児という物珍しさと保育園のおかげで近所ではちょっとした有名人である。週末チビと二人で散歩していると、歩いている子どもやお母さんがたに結構な頻度で声をかけられる。

人嫌い?な私としては、知らない人にやたらと挨拶するハメになるので自宅近くの大きな公園にはつい背を向けたくなるほどチビのネットワークは広い。

なのに父親が「ギャングのような人」だったら、やはり問題だ。イメージ払拭のため、散歩中は咥えタバコもやめて、一生懸命温和そうな表情をこしらえて歩く日々だ。

葉巻の魅力は、一人しっぽりと魂をワープさせる点だと書いたが、何も一人きりを前提にする必要はない。

たとえば、銀座あたりでのクラブ活動中にプカプカするのも悪くはない。あの世界は大人の男性のために存在するので、必然的に煙り方面には寛大だ。

分煙、禁煙などという無粋な発想もない。パイプをくゆらす御仁もいるし、葉巻オヤジもよく見かける。珍しくない光景だから、他人様の目線も面倒じゃないし、ことさら葉巻の話題に話を振られることもない。

持参していなくても、そこそこの店ならハバナ産を数種類は用意してある。綺麗に着飾った女性をボンヤリと眺めながら、さんざん浴びせてもらうお世辞を肴にプワ~っとする一時も捨てがたい。

どうも最近は「勤勉」とか「ヘルシー」とは対極のライフスタイルにどっぷり浸かっているような気がする。

Facebookとかでバリバリとランニングに励んでいる旧友の近況を見るたび、絶対オレのほうが早く死んじゃうんだろうなとか思ってしまう。

そうはいっても、私が急に走りはじめたら突然死確実だ。

煙はしばらくやめられそうにないので、せめて少しは健康に注意しよう。

歩くぐらいしか思い浮かばない。まあいいか。

2011年6月24日金曜日

赤身

自分の身体がカルビとか大トロ状態のクセに私の好物は「赤身」だ。無いものねだりみたいだ。


男は赤身、大人は赤身だ。お寿司屋さんに行くとそんな一方的なフレーズを叫んでいる。デブが言うとヤセ我慢みたいに思われるのだが、上等な赤身はやはり極上の味わいだ。

香り、食感、後味ともに寿司ネタの王道だ。ちょっと大袈裟だが、あの鉄分の香りと舌触り、味わいは他の魚とは一線を画す。

そうは言っても、なかなか上等な赤身に出会わないのが現実だ。トロ人気のせいで赤身に力を入れない店があまりに多い。

一見するとウマそうに見えてもビチャっとして味がない赤身ばかり。あれを頻繁に食べさせられていたら、赤身ファンが絶滅危惧種になるのも仕方ない。

考えてみれば、日本人は世界第一のマグロ食い人種である。どんな山の中の温泉宿にいてもマグロの刺身が出てくる。これは凄い話だと思う。

世界中からあらゆる種類のマグロが日本を目指してやってくるわけだし、テキトーな値段で流通させないとあれほどポピュラーな存在にはならない。

当然、マズいものも大量に出回る。上等な赤身を食べたければ、然るべき店でそこそこの値段を覚悟しないとならないのがつらいところだ。

詳しくは知らないが、同じ極上本マグロの赤身でも、少し部位が違うだけでも味は変わるらしい。熟成度合いや包丁の入れ方にも左右されるだろうから、絶品赤身に出会うのは意外に難しい。

画像は高田馬場の鮨源にて。ここはたいてい上物の赤身があるので、ほぼ欠かさず注文する。握りではなく刺身で食べたくなる。ゆっくりじわじわ味わうと陶然とする。

若い時はトロ一辺倒だったのだが、年々苦手になってきた。たくあんと一緒に巻物にしてムシャムシャ食べることもあるが、トロ単体だとクドい。

トロに限らず、脂の乗りまくった白身も敬遠する機会が増えた。別に気取って正統派を目指すつもりはないのだが、選ぶネタがオーソドックスな路線に偏ってきた。こんなことでは枯れていきそうだ。もっとアブラギッシュでいたほうが良いのだろうか。

この店では白身もあれこれ用意されているのだが、常時2種類は昆布締めがある。昆布と抱き合わせたのがいつの時点だったかによって、昆布風味の染み具合が大きく異なる。


個人的には、その日の朝に昆布締めにしたような浅めの状態が好みなので、タイミングが合えばこちらもたいてい注文する。

味の善し悪しを理論的に語るほど執着があるわけではないが、最近は「淡い」感じに惹かれる。だから必然的に和食が多くなる。

お寿司屋さんなら、当然だが醤油のつけ加減も自分の好みで済む。塩辛や珍味系で充分しょっぱいモードになった後は、あっさりと淡い旨味を噛みしめたい。

焼肉屋に行く機会もめっきり減ったが、たまに行ってもロースとかタン塩とかを頼んで、あとは珍味でチビチビだ。下手をすると海老あたりを焼いて喜んでいる。すいぶん軟弱になってしまった。


こちらの鮨源で、すっかり定番人気商品になったのが馬刺し。クセのない上物がロース、霜降り、赤身と三種類揃っている。私の場合、馬に関しても赤身が好きだ。赤身だと酒の種類を選ばないというか、他の食べ物の邪魔をしない感じがある。

精力も落ちてきた今、上物の馬刺しが常備してあるお寿司屋さんは私にとってはオアシスみたいなものだ。意外に貴重なメニューだと思う。

ちなみに、トロから赤身、カルビから馬刺しの赤身へと好みが変化してきたわけだが、性格も昔とは大分変わってきたように感じる。

単に加齢のせいなのだろうが、肉食獣のような攻撃的な面がすっかりしぼんだ感じがする。

良い面もあるが、いっぱしの社会人として闘っている以上、あまりポワワンとしているのは間抜けみたいで困る。

「いいひと」とか「おだやかなひと」がエネルギッシュで向上心バリバリだった例はあるのだろうか。なんかピンとこない。

そうは言っても、いい年をした大人がいつでもブリブリ怒りまくって攻撃一辺倒というのもバカみたいだ。やはりバランス感覚が大事なんだと思う。

「冷静で穏やかでありながら、必要な時にはメラメラと熱く燃えたぎる」。

上等なマグロの赤身みたいだ(全然違うか)。

そんな人間に私はなりたい。

2011年6月22日水曜日

血液型 絵の世界

人間のタイプをたかだか4種類に分けてアーダのコーダの指摘するのが血液型の話。うっとおしい、どうでもいいよと思いつつ、結構気にしたりする。

その理由は私がB型だからだ。ABは別格として、AとOの人に比べると、B型はだいたい変人扱いされる。

私の知り合いのB型も確かに変人ばかりだ。この事実は重い。私も少しぐらいは変なところがある。

凝り性というレッテルを貼られることが多いB型だが、確かにそういう傾向はある。興味のあることには没頭して、興味のないことは完全に無視してしまうところがある。

幼い頃からの勉強や人付き合いにいたるまで、「まんべんなく」ということがどうしても出来ない。一点集中主義みたいな感じだ。

靴を綺麗にしたいと思い込めば、週末の夜に平気で5時間ぐらい靴磨きに没頭する。バッティングセンターに行けば、最速のスピードに挑戦したくなって、いつも300球ぐらい打ち込んでしまう。

寿司屋のカウンターで大人ぶってみたかった30代の頃には、開拓と称して週に一度はひとりで見知らぬお寿司屋さんに飛び込んでアタフタした。

そういう変なところがある。執着しはじめると深く深く追求したくなる。

最近、突然「絵」にはまった。もちろん描くほうではない。私が描ける絵など、猫のように見えるライオンとか、新種の生き物にしか見えない犬とか、墓石の横にうっすら顔らしきシルエットが浮かび上がっている心霊写真のパロディースケッチぐらいだ。

絵画鑑賞などというとガラではないのだが、突然ビビビっと興味のアンテナが鬼太郎の髪の毛のようにピンピン張り詰めている。


ここ2~3ヶ月で絵画関係の本やらムックをやたらと買い込んだ。数えたら21冊もあった。もう10冊以上は読んだ。このあたりが典型的なB型気質なのかもしれない。

来月行く予定のフランスでも、熱病のように美術館めぐりに没頭しそうだ。どうしちゃったのだろう。

古い友人なら私の趣味が「絵画鑑賞」などと聞けば腹を抱えて死ぬまで笑うはずだ。気が狂ったとか、誰かにだまされているとか、真剣に心配してくれるはずだ。

自分でも突然の変貌ぶりが気持ち悪い。

日本人が好きなモネとかゴッホあたりの絵画が総じて日本の影響を受けている話なんかを読んだり聞いたりすると妙に背景などを知りたくなる。

その昔、日本人が有難がるマイセンあたりの西洋磁器のルーツが実は日本の伊万里焼につながるという事実を知って嬉しくなり、ちょっとした焼物マニアなってしまったのと同じような感覚だ。

モネの「睡蓮」の背景が日本庭園だというだけで変に興奮する。偏狭な右翼男みたいでイヤだが、そんなきっかけではまっていくのも悪くない。

何かを急に好きになることに理由は不要だ。心が命じるままに突き進めな良いのだろう。人を好きになるのと同じだ。理屈ではない。魂が求めるわけだからその流れにあがらっても仕方がない。

先日、長々と呑んだ仕事関係の知人。御年76歳。この人は、本業の他に源氏物語の研究ではプロレベルなのだが、その道に入り始めたのは50歳を過ぎてからだったそうだ。

中年になって突然、何かに目覚める人は少なくないようだが、私の「絵画鑑賞」もそんな「老化現象」の一種なのだろうか。

さてさて絵だ。西洋画の王道?のような宗教画はあまり興味がない。乱暴に言えば、キリスト教に畏怖を感じていないせいだろうか。学生時代「宗教」という授業がただただ熟睡のための時間だった不真面目さのせいで、どうにも聖書の世界に興味が湧かない。

普通の人間が暮らしていく上の喜怒哀楽やそれを生む背景を淡々と描いているような作品に興味がある。そうはいっても、抽象画みたいな難しいのも苦手だ。

単純に見ていて安堵する絵で、ついでに言えば時代背景や作者の境遇や環境なども予習できていればかなり作品の世界に入り込めるように思う。

というわけで、国立新美術館で開催中のワシントンナショナルギャラリーの展示会に出かけた。


印象派の有名どころが勢揃い。光や陰の表現が実に「印象的」だ。木漏れ日の描写や雲に映る西日の輝きなど、自然の景色の瞬間瞬間が巧みに彩られている。

まさに圧巻。奇跡のコレクションという表現は決して大げさではない。あれで1500円は格安だろう。音声ガイドを借りたり、図録集やグッズを買ってしまったので結構散財したが、それでもあんな値段で心が満たされるのなら悪くない。

力を持っている絵に出会うとエネルギーをもらえたり、逆にエネルギーを吸い取られたりする。実に面白い。もっと早く足を踏み入れておけば良かったと後悔。

やはり絵を眺めることは人生後半戦の趣味として悪くない。描くわけではなく、ただ眺めているだけだからお金がかからないところがまた良い。

いやいや、見たい絵があったら、居ても立ってもいられずに世界中の美術館に飛んで行ってしまう恐れがある。B型気質だから予算を考えずにそんな無謀な行動をしそうで少し心配ではある。

大西洋の固有種の魚の写真が撮りたくてカリブ海に何度も出かけたような私だ。

ハマショーのライブのためだけに一人でふらふら日本中に出かける私だ。

来月のフランス行きも、そもそも靴を買うためだけに企画したような私だ。

どうも理由を見つけてはどこかに飛んでいきたい習性があるようだ。この点は自制しないといろいろと大変だ。

今度のフランス行きは、結局「靴屋を訪ねる」、「名画を観る」。この2点だけで時間がすべて無くなりそうだ。

なんかそう書くと、ちょっと文化的だ。人様から見ればいっぱしの教養人のように錯覚してもらえそうだ。ウッシッシ。

行きと帰りに一泊づつ立ち寄るドイツ・フランクフルトのスーパーエロサウナ情報を収集中だったりすることは隠しておくことにする。

2011年6月20日月曜日

デブ 「おでん国見」

最近デブで困っている。前からデブはデブなのだが、巨デブの域に迷い込んだ感じだ。
いかんいかん。

基礎代謝がゼロなんだろう。かなり我慢したつもりでも体重が減らない。ほんの少し油断するだけで、簡単に体重計は私を裏切る。今度ぶっ壊してやろう。

2~3年ぐらい前に割と短期間に15キロ近く絞ったのだが、既に「今や昔」状態だ。

20代の頃は1週間もあれば5キロぐらい落とせたが、今となっては10グラム減らすのに1ヶ月ぐらいかかる。

私の身体は皮下脂肪とか内臓脂肪とかが大好きらしく、私の眼を盗んでヘソクリのように貯めまくる。

そのうち、対策を練らないとなるまい

先日、旧友が経営する芝・大門にある店に行った。この友人は私より太っているので、会うたびに勇気づけられる。持つべき者は太った友人だ。

店の名は「おでん国見」。店主がデブだから、デブが喜ぶようなメニューが多い。必然的に私も嬉しい。

そもそも「おでん」は一種のダイエットフードと言っても過言ではない。大根だの昆布だのをハフハフしながら食べている分にはカロリーは相当低い。

店の名誉のために誤解のないように書いておくが、「おでん国見」にはデブしか行けないわけではない。また、行ったから太るわけでもない。おでんを中心に攻めればローカロリー。問題なし。

このお断りを書いたことで、ここから先はデブ好みに話題を移す。


最近加わった新メニューがエビマヨサラダだ。サラダと聞くとヘルシーイメージだが、コッテリした揚げ海老がゴロゴロ入っている。ドレッシングもたっぷりでデブ大喜びメニューだ。

デブはデブであることの反省から、ついついサラダを注文することを自分への免罪符にしたがる。その心理を逆手にとって更なるデブを目指せるぐらいガッツリとしたサラダだ。ウマい。

おでん以外の一品料理は沖縄料理が中心。必然的に豚肉方面のメニューが充実。ガッツリ食べたい時にもバッチリだ。

ちなみに沖縄料理は長寿食と言われるが、この方程式には大いに誤解がある。正しくは「昔の沖縄料理が長寿食」なのであって、最近の油コテコテ肉ガッツリ系のオキナワンフードが長寿食なのではない。

実際に沖縄県の男性の平均寿命が物凄いスピードで短くなっているという笑えないデータもある。

油バッチリの炒めものや揚げ物、タコライスだってそうだ。スパムなんてものも不純物だらけらしい。イマドキのオキナワンフードの現実だ。

偉そうなに書いてみたが、健康に悪いモノほどウマいのは古今東西老若男女、当然の真理で私はイマドキの沖縄食が大好きである。長寿食専門料理屋などお金をもらってもいかない。

大体、今の世の中、普通に歩いているだけで放射性物質を吸収しまくっているのだから、油がどうだ、不飽和酸がどうだ、塩分がどうだなどと心配していても仕方がない。


こちらの店では、ソーメンチャンプルーもしっかり正しく油を使っている。この部分が大事。ヘルシーに油少なめなどという呪縛が絡むと、ソーメンだって玉状に絡まってマズくなる。

テビチ(豚足)の唐揚げも相変わらずウマい。揚げ加減もタレの味も酒のお供にバッチリだ。これ以外にも美味しいソーキそばもあるし角煮もあるし、ソース焼きそばもある。

おでんで軽く済ませたい人にもカロリーを過剰に摂取したい人にも使い勝手はいい。

この日は、シメに「ボロボロジューシー」なる一品を注文してみた。平たくいえば味噌味の雑炊。汗をかく夏の塩分補給には十分すぎる濃い味。


酔っぱらっている私は、カロリーとか塩分
に寛大になる習性がある。「えがおの黒酢」を毎日欠かさず摂取している私の生真面目さは、こういう時のためだ。

最近、食べる量が減ってきたのだが、やはり旧友の店を訪ねれば、ドカドカ注文したくなるのが江戸っ子心理だ。

そんなに空腹でなくとも、ついつい酒を呑み、太った友人のお腹を眺めていると注文したすべての品々をキレイさっぱり胃袋に納めてしまう。

デブ太郎特有の悪循環だ。

ちなみにこの店、生ビールにこだわりがあって、日本酒の品揃えも良く、真っ当な焼酎や泡盛もいろいろある。泡盛のコーヒー割りというディープな注文も可能だ。普段使いには最適な店だと思う。

近くにある立ち飲みの殿堂「秋田屋」のように繁盛していない点も好感が持てる?。

行ける人は行ってみてください。店主の腹を見れば自分がスリムに思えます。

2011年6月17日金曜日

プルメリア 

女性の美は花や蝶に例えられるが、男を例える表現はあるのだろうか。考えてみたが思い浮かばない。

強いて言えば「虫」か。アリとかハタラキバチとか、交尾の最中にメスに喰われちゃうカマキリとか。

森高千里が昔「ハエ男」という歌を熱唱していたし、しょせん男の例えは虫なんだろうか。

生き物の本能として、女性を追っかけ回す役割だから、美しく例えてはもらえない。少し切ない。

「立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿はユリの花」

美女を表現する言葉だが、はたしてボタンの花って綺麗だろうか。なんかドテッとしている。アグラかいて座っているお婆さんみたいなイメージがある。蓮の花のほうが気品がある。開いたばかりのみずみずしさ、美しさのほうがシュッとしている。

ユリの花も個人的に苦手。あの匂いがイヤだ。あの匂いは「香り」とは書けない。「匂い」というより「臭い」だ。呑みすぎて気持ち悪い時にキツイ香水の香りを嗅がされるような不快感がある。

シャクヤクの花も考えてみたらよく知らない。一度しか見たことがない。確かに美しいのだが、あまり馴染みがないのでピンとこない。

というわけで、私にとっては上記の花の例えは残念ながら共感できない。もっと的確な例え花があるはずだ。

ところで、花の名前に詳しい男性はオシャレだと思う。最近そう思う。私はちっとも詳しくない。母親が昔、趣味が高じてアートフラワーの先生をしていたので、随分と生花、造花に囲まれて暮らしたはずなのだが、ちっとも興味がなかった。惜しいことをした。

それでも好きな花はいくつかある。カメラを持っていればついついシャッターを切る。


これはバリ島のホテルのプールに浮かべたプルメリア。南国の代表的な花だ。バリでは「フランジパニ」と呼ばれ、あちらこちらに飾られている。私の好きな花のひとつ。

甘い香りが強すぎない。まわりの空気を邪魔せずにほんのり香る感じがいじらしい。白い色合いも優しく深みがあって、南国の花特有のうるさい存在感とは違う。華やかなだけど派手すぎず、主張しすぎない存在感が実に魅力的。


これが実際に咲いている姿だ。ポワンとして愛らしい。風が吹くとはらっと花が落ちる。微妙な色のグラデーションとトゲトゲしていない穏やかな風情が素晴らしい。誠実そうで真摯な感じとでも言おうか。いつもそばに置いておきたい。


一部では「くちなし」と同類のような扱われ方もされている。違う品種だろうが、確かに似ている。正確なことは知らないが、昭和の女性が「くちなし」で、平成の女性が「プルメリア」と考えればいいだろう(滅茶苦茶な分類だ)。

懐かしの昭和歌謡「くちなしの花」で描かれる女性は寂しく不幸な感じで、熱唱する渡哲也に捨てられた情景が確かにピンと来る。

プルメリアはもう少し快活な感じだ。「捨てられた女」というより、「健康的に恋する女」とでも言おうか。

くちなしもプルメリアも出しゃばった感じがしない点では確かに似ている。さりげない雰囲気は、ひまわりとかハイビスカスとは全然違う。ハイビスカスなんて花弁をあんなに突き立てちゃう姿が下品だ。

プルメリアの花言葉は「気品」。さすがだ。近所に咲いていないのが悲しいが、南国に行ったらもっとじっくり眺めていたいし、撮影しまくってみたい。

そのほかに私が好きな花は「梅」「水仙」「螢袋」あたりだ。プルメリア以外では、どちらかといえば和花が好きなようで、派手派手しくない「シュッとした感じ」に惹かれる。

やきもの収集に熱心だった頃は、備前や唐津、丹波、信楽、美濃とった窯場にしょっちゅう旅をした。ぐい呑み、徳利に飽きたらず、花入れや一輪挿しにビビビっとなってしまったことも何度かある。

そうした花器には和花がピッタリだ。花を愛でるというより陶器を眺めたいばかりに花を買ったりした。

そう書くと風流人みたいだが、和花の枝モノなんかはブリブリ虫がはい出てきて、何度も死にそうになった。

やはりガラにもないことをすると痛い目に遭う。

話を戻す。花の話。

梅は実に気の毒だ。桜と同じく一年に一度わずかな時期だけ美しい姿を見せるのだが、脇役イメージを脱却できない。

せっかく短い命を咲かせても、桜と違ってめったに足元で酒盛りなんかしてもらえない。テレビの夜桜中継みたいなショーアップもない。梅干しばかり連想される。

梅林の名所にはそこそこ人は来てくれるが、お爺さんお婆さんばかり。若い人がデートスポットに選んでくれない。

桜のこれみよがしな感じより、ずっと情緒があると思うのだが、いかがだろうか。

アマノジャクを極めたい私としては、桜より断然「梅派」であり続けようと思う。梅の花言葉は、高潔とか上品とか忍耐らしい。さすがだ、梅。

螢袋は、それこそ名前からして風流の極み。垂れ下がった深い傘状というか袋状の花弁が謙虚な雰囲気。中に迷い込んだ蛍の光で袋状の花がボンヤリ灯る情景が眼に浮かぶ。

実際に螢をとっ捕まえて実験したいのだが、いまだに成功していない。LEDの人工ホタルでも買ってきて試してみようか思案中。螢がいなくても頭を下げたしおらしい姿が可愛い花ではある。

今日は、風流なテーマを取り上げようと書き始めたのだが、ちっともそういう雰囲気にならない。

結局、偉そうに女性の美を花に例えてみても、しょせん男は花におびき寄せられる虫みたいなもの。切ないけど現実だ。

おだてられて調子に乗った虫は、せっせせっせと花にご奉仕。食物連鎖の底辺みたいだが、男の習性はそれを喜びに感じちゃうから不思議だ。

一応、分別ヅラして生きている私だが、色気のある男になるためには「蜜を求めてさまよう虫」だということを自覚しないといけないのだろう。

シャクヤクやボタン、ユリあたりを選り好みしている場合ではない。菊だろうがコケだろうが気にせず突進する根性が必要だ。

いや、やっぱり、菊やコケはイヤだ。節操なさ過ぎだ。

プルメリアだろう。やっぱり。

立てば華やぐプルメリア、座れば可憐な水仙で、寄り添う姿は梅の花、憂いた姿は螢袋、ベッドに入れば薔薇になる――。

こういう女性を追っかけねば!

相変わらず煩悩の塊みたいだ。そんなことで良いのだろうか。

それで良い。そんな私だ。