2014年4月4日金曜日

いい女


「いい女」。実に抽象的な言葉だ。でも、気になるフレーズである。瞬時に反応したくなる。

グラビアに出てくるボッキュンドッカ~ンみたいな体型の人を「いい女」と思う男もいれば、頭脳明晰で地味なリケジョこそ「いい女」だと思う男もいる。


まさに定義など無い。もちろん「いい男」だって簡単には言い表せないし、結局は個人個人の趣味嗜好の世界ということになる。

極論すれば「悪い女」以外はみんな「いい女」である。スットコドッコイみたいな結論だが、私にとってはそれが真理だ。

昔から「悪い女」に引っかかってしまうマヌケな私が言うのだから間違いない。

なんだか話がこんがらがってきた。

軌道修正。

恋愛に対する考え方は、「愛されるより愛したい」のか「愛するより愛されたい」のか、基本的な立ち位置で変わる。

何だかんだ言って、場面場面でその両方の感覚を併せ持つのが人間の業だと思う。

こちらが犠牲を払ってでも愛したくなる女性は「いい女」だし、愛されていることを節目節目で実感させてくれる女性も「いい女」である。


あれこれとゴタクを並べているが、結局「いい女」の定義は分からずじまいである。この画像のようなカッコでデートしてくれる人は間違いなく「いい女」である・・・。

さてさて、最近つくづく思うのだが、男も女も「変化球の使い方」が大事である。ストレート一本勝負では、カドがたつし、何よりバカっぽく見える。

ウソはダメだが、やんわりオブラートに包んだ言葉を上手に使える人は魅力的だと思う。

思ったことを咀嚼せずにすぐに口に出すのはスマートではない。頭が悪いというか、センスがない証だろう。

その昔、結構いい仲になった女性がいた。私が結構グイグイ攻め過ぎたので、途中で相手が息切れしたようで、オブラートに包んだ言い回しで適度な距離をとられてしまった。

その時、アホな私は、相手の遠回しな言い方の意味を読み取れず、あとになってヤンワリと避けられていたことに気付いた。

気付いたときの気まずさ、恥ずかしさを今も思い出す。センスがどうこうなどとエラそうに書いているが、あの時の自分のマヌケぶりは今もトラウマになっている。

結局、男も女も魅力的かどうかの分かれ目はセンスの有無だろう。空気の読み方を始めとする人付き合いの上でのセンスだ。

この部分がキチンとしている人は、気配りが的確に出来る人である。男女の関係だけでなく、仕事上の付き合い、近所付き合いにいたるまで上手にこなせる人だと思う。

まあ、センスを気にして、あまりこねくり回しても、それはそれで問題である。

♪人の心 
裏の裏は
ただの表だったりして♪

大黒摩季も「ららら~」と叫びながらそんなことを歌っていた。あまり考えすぎても混乱するだけだ。

ポジティブな心を表現するときはストレートに、その逆の時はオブラートに包んだ表現方法ができるようなスマートな人間を目指したいものだ。

ちょっと話を変える。

変化球、オブラートなどと書いてきたが、言い回しの妙で相手に不快感を与えない例を夜の街でよく耳にする。

世の男性どもを上手に持ち上げる職人技を持つのが銀座の女性達だが、彼女たちが職業上、使いこなしている言葉の言い換えには感心させられる。

ただのデブを「頼りがいのある人」、ただのハゲを「男らしい人」と言い換えるのは序の口である。

ガラの悪い横柄な客は「豪快な人」、すぐ怒るタチの悪い客は「エネルギッシュな人」に変身する。

ムスッとして退屈な客は「哲学的な人」や「アカデミックな人」になるし、スケベ丸出しの客は「ノリのいい人」「イタズラっこ」に化ける。

似たような意味でも印象はまるっきり変わる。ウソすれすれと言えなくもないが、
実にマトを得ている。日本語の面白さである。

それ以外に頻繁に耳にするのが「おモテになるでしょう?」という意味不明なフレーズである。

「あんた、モテないタイプね」と言われて喜ぶ男はいない。だから「モテるでしょ?」が乱発される。

私もご多分に漏れず、会話が途切れたり、会話の糸口を探している綺麗ドコロから教科書的なそんな言葉を浴びせられる。

そうはいいながら、デートにすら誘われないのが現実である。

あの世界では、日本語の微妙なサジ加減に夜な夜な男性陣が勘違いさせられる。

「アナタのこと、気になり始めそうです」、とか「好きになっちゃいそうです」等々、世の男性がボケっと聞いているとムフフと思わされるフレーズが飛び交う。

冷静に直訳すれば「アナタのこと、今現在ちっとも気になっていません」であり、「今のところまったく好きではありません」という意味である。

相手を喜ばせながら、実は何一つ核心に迫る話はしていない。言質を取られない巧みな話術という意味で国会の官僚答弁をも上回る凄さである。

おっとっと・・・。「いい女」の話を書こうと思ったのに、結局「悪い女」への恨みつらみみたいな話になってしまった。

まあ、いいか。

2014年4月2日水曜日

神経質VS無器用

春の陽気は窓を開け放ちたくなる陽気である。有り難いことに花粉症の気配もまったく無いので、週末などは、網戸越しにチュンチュン鳥が鳴いているのを格好のBGMにしている。

そんな陽気だとマメに部屋を綺麗にしたくなるから不思議だ。室内の掃除だけでなく、布団を干したり、アチコチ雑巾で拭いてみたり、結構真面目に取り組んでいる。

綺麗好きという言葉とは無縁だった若者の頃が懐かしい。20代の一人暮らしの時は、室内を歩くだけで綿ボコリが舞っていた。

水回りもカビだらけだったし、だいたい、換気という概念自体が無かった。洗い物も面倒だから紙皿を使ってそのまま捨てていた。

紙皿じゃない安物の皿を使うこともあったが、洗いそびれてガビガビになるまで放置して、結局捨てちゃったりした。しまいには自宅から食器が無くなって難儀したほどだ。

掃除はしない、洗い物はしない、換気はしない・・・。あの頃、きっと室内空気の汚染度は相当なものだったと思う。

おそらく、当時の鍛錬?のおかげで、中年になった今でも、空気が悪い場所で咳き込んだり、ツラい思いをすることが無いのだろう。

若い頃の苦労は買ってでもしろ、というが、若い頃の不摂生はオトナになってから活きてくるのかもしれない。

さて、今の一人暮らしになってから、割と綺麗好きに変身した。この年になって汚い住まいに暮らすのは侘びしい。なかば意地になってキチンとしている。

ということで、引っ越しまもなく勇んで「ルンバ」を購入した。お掃除ロボットである。

ところが、最近はルンバ様の出番が激減してしまった。

私の性癖なのだろうか、どうも、動き回るルンバを追いかけてしまう。おまけにヤツが働きやすいように、椅子をテーブルの上に載せたり、床に置いてあるものを整理したり妙に慌ただしい。

「ルンちゃん、そっちじゃないよ~」とか声をかけてしまったことも数知れない・・・。

そんな自分が切な過ぎるので、今では「クイックルワイパー」と「コロコロ」で完結することが多くなった。いつかルンバがシビレを切らして勝手に暴走するんじゃないかと不安な日々である。

普通の掃除機だと、フィルターの手入れがイヤだ。その点、クイックルワイパーとコロコロだと、その場で汚れた吸着面が捨てられるから気分が良い。

実は、両方とも今のマンションで一人暮らしを始めるまでは使ったことはなかった。何となく存在は知っていたが、いざ使ってみたら大興奮状態だった。

楽しい。その一言である。目に見えて汚れが取れて、そのままポイッと捨てられる便利さが素敵である。

洗面台や浴室入口の足下マットは、コロコロに任せるのが確実だ。実際に強力掃除機と比べてみたが、コロコロのほうが優秀だった。

今のマンションは80平米弱の2SLDKである。一部屋は荷物部屋にしているから実質的には1LDKだ。この程度なら掃除も苦にならない。

もっと広い住まいへの引っ越しを考えているが、掃除を考えると二の足を踏む。どうしたもんだろう。

話を戻す。

風呂場のカビ予防に役立つ煙幕みたいな商品も愛用している。バルサンみたいに少量の水を加えることで筒状の缶から煙がモクモク湧き出るヤツだ。

1ヶ月に一度で充分らしいが、そこは富豪である。半月に一度は利用している。効果はそれなりにあるようで風呂掃除が格段にラクになった。

掃除だけではない。今では食事のあと、間髪おかずに洗い物も終わらせてしまうクセがついた。良いことだが、何となく自分が神経質野郎になっていくようで少し不安である。

家事全般について、知らぬ間に自分の流儀が確立されてきてしまった。男の場合、こだわり出すとキリがない。専業主婦のようにうまく手を抜くことを覚えずに一生懸命に努力してしまう。

ちょっとヤバいのではないか。

気付けば週末の行動がパターン化してきてしまった。どんなに疲れていても、どんなに二日酔いがヒドくても、自分流の家事に精を出す。

人として正しいのかもしれないが、こんなことに真剣になっていると、ゆくゆくは意固地な偏屈ジジイになりそうである。

ということで、最近はインターネットで家政婦サービスとかの情報を集めるようになってきた。

何でも自分で出来てしまうのは良いことだと思う。ただ、度を過ぎると、誰かに頼ってみたり、誰かと一緒にいたいという感情さえ消滅しちゃうかもしれない。

社会性の欠落した仙人みたいな老後になるのは困りものである。やはり「無器用な男」でいたほうが人様への感謝とか有り難みが感じられるはずである。

まだまだ朽ち果てずに色恋の10や20はこなしたい?から、自分自身のためにも「なんにも出来ない母性本能をくすぐる男」を目指してみようかと思う。

2014年3月31日月曜日

野田岩、大江戸、KOSO


ここ5~6年、「開拓精神」が薄れてきた。以前はウマい店を求めてアンテナを張り巡らせていたのだが、最近は知っている店ばかり出かける。

もっと攻めないといけない。そう思っても、初めて行った店がイマイチだったりすると必要以上に落胆する。

鰻ラバーとしてアチコチの店を訪ねてきたが、最近は日本橋の「大江戸」であん肝山椒煮などの珍味をツマミに冷酒を引っかけて、白焼きから極上うな重というワンパターンの展開ばかりである。

たまには違う店を開拓しようと銀座の「野田岩」に行ってみた。麻布の本店は何度か出かけているが、銀座に支店があることは知らなかった。


いやあ、この画像、凄い顔ぶれである。次郎とバードランドである。食通を自認する方々の聖地みたいな場所だ。

ブランドネームとしては野田岩も同等なんだろう。空腹の時にこんな看板を見たらヨダレがデロデロ流れてしまう。

さてさて、期待に胸を膨らませてウナギ攻めに突撃。ところが拍子抜けするぐらい空いている。

安い店ではないから大混雑にはならないのだろう。いや待てよ。銀座あたりだと高くても美味しい店は混んでいるのが普通である。

ヤバいかも・・・。

不安がよぎる。冷酒をカピカピ飲みながらとりあえずノンビリ過ごす。白焼きも食べた。うな重ももちろん食べた。

味の好みは人それぞれ。ここでどうこう書いてもしょうがない。まあ、強いて言えば混雑しない理由が分かったような気がした・・・。

後日、「大江戸」に出向いたときの「極上うな重」の画像がコレ。バカうま。バンザイ。


この日は、とある人のお祝い会という趣旨で出かけたのだが、招待した相手が大感激してくれた。それこそギャアスカ、ヒャアホホ言いながら、白焼きもうな重も堪能してくれた。

大げさに喜んでもらえるとこっちも気分が良くなる。やはり、ウマい店をもっと知っておくべきだと痛感した。

話は変わる。とある人に「デートする時は、どんな店に行くのか」と聞かれて返答に困った。考えてみれば、デートっぽい店などちっとも知らない。いや、デート自体から遠ざかっている気がする。

寿司屋か焼鳥屋か鰻屋かおでん屋ぐらいしか行かなくなってしまった自分の偏屈ぶりを改めて痛感する。

若い頃は、小洒落た店が出来たと聞けば、西へ東へマメに開拓に行ったのに、オシャレ~な店の多くがウサン臭い料理を出していたので、バカらしくなった。

まあ、そういう決めつけも良くないのだろう。何だかんだ言って「ホッピーに焼きとん」を嬉々として食べている私である。

エラそうな顔してウマいマズいを語るのは恥ずかしいし、カッチョ悪い。もっと柔軟にならないといけない。

先日、銀座の「KOSO」という店に行ってみた。これまた初めて行く店だ。最高級黒毛和牛をいろいろなアレンジで食べさせるのがウリの店だとか。


雰囲気はなかなかゴージャス。バブリー系と表現したくなる感じ。デートなんかにはピッタリだろう。

鮮度に自信があるようで色々な生肉料理も用意されている。

いきなり、生ウニを生肉で巻いた「ウニ牛」なる一品が登場。どう考えたって、それぞれ別々に食べたほうがウマいはずである。

で、食べてみた。やはりわざわざ混ぜちゃう意味がよく分からない味だった。

いろいろな部位が焼かれて出てくる。普通に美味しい。シメは「牛トロ丼」なる一品。生肉に卵黄を落としたものが温かい白米に乗っかっている。

白メシに合わせるには焼いた肉のほうがウマいだろうと素直に思ったのだが、名物だということでムシャムシャ食べてみた。

悪くはないが、ご飯と生肉という組み合わせは、やはり「わざわざ感」が否めない。

まあ、個人の好みだから何とも言えないが、つくづく自分の「保守的」「コンサバ」ぶりを痛感した。

ちなみに「創作料理」という言葉が昔から好きではない。「わざわざ感」がひっかかる。オーソドックスな料理のほうがウマいに決まっている。

寿司屋でワインをカピカピ飲みながら、出てくる料理との相性を力説している人がいるが、あれだって変テコだろう。

あくまで「強いて言えば合う」だけの話で、寿司屋という世界に腰を落ち着けた以上、四の五の言わずに日本酒や焼酎と合わせたほうが賢明である。

なんだか今日は、偏屈オヤジのグチ大会になってしまった。いかんいかん。

話を変える。


最近ウマかったものといえば、お寿司屋さんで作ってもらった「アジと梅干しを和えたヤツ」である。疲れていた時だったので実にホッコリと身体に染み渡った。

このところ、梅干しとかトロロとか、そんなものに身体が喜んでいる。年甲斐もなく日々ハッスルしているツケが顕著に表れているみたいで問題である。


なによりウマかったのは、自宅で作った特製すし飯である。お気に入りの「内堀醸造の特選すし酢」を炊きたてのメシに混ぜるだけだ。

一応、自分なりに分量とかにもこだわりがあるから完璧に仕上がった時はバンザイである。

これを主食兼ツマミとして冷酒をクイクイっと飲んでいるのが至福の時間である。

なんとも退屈なまとめ方になってしまった・・・。

2014年3月28日金曜日

カラオケの格差


結構長々と生きてきた中で、大きく変わった「文化」といえばカラオケだろう。

どの街を歩いていても「カラオケ」の看板が溢れている。何気なく見ているが20年、30年前には無かった光景だ。

カラオケボックスという業態が普及したのは1980年半ばだとか。私の学生時代には今のようにカラオケが遊びの中心になることはなかった。

高校生、大学生ぐらいの頃、カラオケと言えば、オッサン達がスナックで演歌やムード歌謡をがなりたてるイメージだった。

大げさサイズの機械に変なサイズのカセットテープを差し込んで、1曲いくらみたいなスタイルだった。

通信カラオケなんて当然無かったから、選曲できる歌は限られていて、若者とは無縁の世界が繰り広げられていた。

ここ20年ぐらいの間にカラオケボックスが一気に普及したことで、日本人が「歌う環境」は劇的に変化したと思う。

「歌がうまい人」は、その昔だったら貴重な存在だったが、いまや「ヘタな人」に遭遇するのが珍しいぐらい、誰もが上手に熱唱している。

音楽業界でカラオケを意識した楽曲作りが一般化したことも影響しているのだろう。美空ひばりに代表される昔の大物歌手の歌などは、カラオケで簡単に歌えるほどヤワくない。

そんなことはともかく、カラオケボックスという世界にも格差がしっかり確立されていることが興味深い。

安さだけで勝負する店がある一方で、おったまげるほど高い料金のボックスもある。

以前、金曜深夜には料金がバカ高くなることで知られる銀座のカラオケボックスに友人数名と出かけた。当然ワリカンのつもりで騒いでいたのに、ある友人が気前良く会計を済ませに行った。

戻ってきたヤツの顔は明らかにひきつっていた。多分、4~5人で2時間ぐらい過ごしただけで、軽く5万円以上かかったのだろう。

恐るべしである。

私も「富豪」を目指す以上、そうした高級カラオケボックスには仕方なく?出かける。

最初から覚悟を決めているから卒倒しないが、アノ値段には少したじろぐ。

でも、満室になっていることは少ないし、ツマミや料理はそこらの安い飲み屋より遙かにマトモだし、それなりに高級感のある空間でゆったり過ごせるのも確かだ。

条例とか法律でダメなはずなのにそうしたボックスはドアに窓もなく、外から中の様子が見えない作りになっていることが多い。

非常にエロである。間違いなくエロ目的でこもる人も大勢いるのだろう。事実、深夜にトンデモない展開になって、トンデモない経験をした綺麗ドコロの体験談を何度か聞いたことがある。

私自身、顔なじみの店員から「入るなと言われれば入りませんから」と余計なことをコッソリ囁かれて焦ったことがある。

もっと正直に言えば、その手のカラオケボックスでオネエサンから色仕掛け営業を仕掛けられてギンギンに?困ったこともある。あれにはビビった。

ああいう場所で女性が握っていいのはマイクだけである・・・。肉弾攻勢で余計なことをされると歌声が吐息に変わりそうで迷惑である。

おっと、脱線してしまった。

話を戻す。

こう見えて私はバンドのボーカルが本業?である。ライブ直前には練習のために「一人カラオケ」も経験した。最初は勇気が必要だったが、入ってしまえば熱唱モードである。

酒も飲めるし、気兼ねもいらないし、練習にはもってこいである。でも、調子に乗って、ライブとは関係のない演歌とかをうなり始めてしまったのは御愛敬である。

その時使ったのは、価格競争が激しい大型チェーン店のボックス。当然値段も安い。それこそ、銀座あたりの高級店に比べれば10分の1ぐらいの値段である。

考えてみれば凄い価格差だ。歌を歌うだけだと割り切れば高級店の価格は理解不能である。でも、雰囲気やユッタリ感、食べ物の質、そのほかのエロ、いやイロイロを考えれば高級路線の存在は大いに意味があるのだろう。

高い安いは総体的なものだから、何と比べるかによって納得の度合いも変わる。カラオケボックスの大衆店と比べるから頭が混乱するわけで、気取ったバーのカウンターで肩こりながら過ごす時の値段と比べれば、高級ボックスの値段も仕方ないのだろう。

先日、魔都・新宿にいた時、そこそこ高級路線のカラオケボックスに行こうと、六本木や銀座にも店舗があるゴージャス系の店に行ってみた。

ところが満席。景気が回復してきたのか、私が新宿という街を見くびっていたのか、予約がなきゃまるでダメみたいな空気だった。

あきらめて、程近い場所の「少しだけ高級っぽい路線」の店に向かう。そこも満杯だった。新宿恐るべし、いや、日本経済恐るべしの状況になりつつあるのだろうか。

途方に暮れていた時、ふと異次元?のカラオケボックスがあったことを思い出した。

その正体は京王プラザホテルの最上階にある店。47階からの夜景がウリで、一応ホテル直営なので、いわばゴージャス系である。

実際はそんなに高級感バリバリではなく、そこそこ落ち着いている程度の店だ。それでも、あんな景色を眺められるカラオケボックスは珍しいだろう。

4部屋か5部屋しかないのだが、お客さんが入っていたのは1部屋だけ。余裕で広めの部屋に案内された。

楽しく騒いだ。お会計にもたじろいだ。さすがホテル価格である。ガラガラだったのも納得である。きっと社用族、接待目的以外で利用する人はいないのだろう。

でも、穴場であることは確かだ。心地良いひとときを過ごせた。

日本経済が本当に上昇局面にあるのなら、今後は高級志向のカラオケボックスがどんどん進化していくように思う。

そうなれば楽しいことだが、それに伴ってこっちの財布もますます危機的状況になるのだろう。

痛し痒しである。

2014年3月26日水曜日

銀座のクラブ ボトルの話


暇な夜はカルチャーセンターにでも通って漢詩とか源氏物語なんかの教養講座を受けようと考えている。

ちょっとウソです。

でも、人生後半戦、何か習い事をやろうという気持ちはある。

先日も眠れない夜にネットでアレコレ調べ物をして、「初心者向け教則本付きアコースティックギター10点セット」を注文する寸前までいった。

なぜか最後の注文ボタンをクリックしなかったので相変わらずの日々だ。

この前もスポーツクラブのボクササイズ教室のチラシを熟読して申し込もうと思ったが、あと一歩が踏み切れず、停滞する日々である。

根無し草じゃあるまいし、銀座あたりで高い酒に酔いつぶれている暇があったら、何か自分自身に変化を起こしたい。


ということで、何を始めればいいかを相談するために夜の銀座にノコノコ出かけている。

バカである。

最近、銀座8丁目あたりの遅い時間のタクシー乗り場が混雑している。やはり景気が上向いているのだろう。

3年ほど前に比べれば夜の路地を行く人の数も多い。一時期はそこそこ人出があっても、よく見ると呼び込みやスカウト、黒服ばかりだったから確実に空気が変わってきた。

足繁く飲み歩いているわけではないが、アノ街に足を踏み入れてから20年ぐらいになる。そう考えると複雑だ。あの世界を知らずにいれば今頃必死に宝くじを買わなくても済んだかもしれない。

行く店も少しづつ変わってきた。15年以上通っているような店は1件しかない。あとはここ数年で行くようになった店ばかりだ。

馴染みの黒服さんや、親切なオネエサンの異動にともなって行き始めた店がいくつかある。

8丁目、7丁目あたりの夜の銀座。。。虚飾や見栄の世界といってしまえばそれまでだが、良く言えば気張った世界である。だからポツポツと通いたくなる。

生きている上で「気張る」ことは大事である。気張るという言葉の意味は「①息をつめて力を入れる。②気力を奮い起こす。いきごむ」である。もうひとつ「格好をつけて見栄をはる」という意味もある。

こうした感覚が欠如した人間は魅力的ではない。「自然体で力を抜いて生きる」なんてパターンも悪いことではないが、一歩間違えたらフヌケちゃんである。やはり時には力むことも大事だろう。

銀座のクラブの特徴は「係」と呼ばれる担当のホステスさんが全てを取り仕切る仕組みだ。極端な話、係の女性が休んでる日にその店で飲んでも、あくまで「係の売り上げ」になる。

当然、係の女性は、担当する客を飽きさせないようにヘルプと呼ばれるホステスさんをアレコレと席に呼んで、客を盛り上げる。

まあ、その実態は、残り少なくなったボトルを空けさせるためだったりするから、ちと厄介である。ということで酒に強いヘルプの女の子が引っ張りだこだったりする。

私の場合、黒服さんの関係で行くようになったり、係がやめちゃった店では「店客」というポジションで過ごしている。

係がいないというだけで細かな違いは知らないが、おかげで強引な「協力」を要請されることはない。

「今月あとちょっと目標に届かないの。頼むわよ、ウッフン」とか言われて、飲みたくもないワインを出されたり、やたらと大量に生ビールを振舞っているオジサマ達をよく見かける。

係の協力要請によって夜な夜なそんな光景が繰り広げられているわけだが、店客の場合には、ボケっと鼻毛でも抜きながら気ままに飲んでいれば済む。

経験上、係の女性がいるほうが、ボトルが空くペースが早いような気もする。もちろん、そのホステスさんのタイプにもよるが、やはり成績に直結するからそうした傾向はあるだろう。

ちなみに、ボトルが空くスピードは、ある意味、お店のレベルを表わすバロメーターだったりする。

「チャンスボトル」という言葉がある。残り少なくなったお客さんのボトルを、その日のうちに空けてしまって新たなボトルを入れさせようという意味である。

品の無い店は、とにかくヤンヤヤンヤと空けにかかる。女性陣が自分達用に濃いめの水割りを作って、ろくに飲まずに席を移動。別なオネエサンがやってきてそれを繰り返す。ガサツな話だが、そんなパターンも現実としてある。

逆にアノ街でもとくに一流と言われる某老舗クラブでは、こっちが恐縮しちゃうぐらいボトルが空かない。さすがだと思う。あの世界における品格の違いだろう。

聞くところによると、店の方針として「チャンスボトル禁止」が徹底されているらしい。老舗の名門クラブに来るようなお客さんだったら、そのあたりの違いはすぐに察知する。

結局、名門とか一流と言われる店は、そうやって培っきた姿勢を崩さなければ信頼され続けるし、逆に目先だけしか見えない店は決して高い評価を受けない。すなわち、その距離が縮まることはない。

今日は、銀座の夜の話ではなく、自分がどんな習いごとをしようか書こうと思ったのに、完全に本題からずれてしまった。

まあ、いいか。今宵はどこでむしられるのだろう・・・。

2014年3月24日月曜日

下着の話


「下着に気を遣わなくなったら男として終わりだ」。知り合いがそんなことを語っていた。

それが正しいとしたら、私は既に男として終わっている。ガーン!!である。ヤバい。

女性の下着については、常にアーだのコーだのと持論を展開し、自分の趣味を強要するほど強いこだわりがあるのに、肝心の私自身はヒドいものである。

寒い日は上半身も長袖、下半身も足首までカバーするダッサイ肌着を保温優先で愛用している。

冬場に突発的に女性とムフフになったとしても、服を脱ぐ前に私のほうから「灯りは消して・・・」と言いそうである。

パリッとした身なりを心掛けブイブイ言ってるくせに、ネクタイをほどき、スーツを脱ぎ、ワイシャツを脱ぎ捨てると、そこにいるのは無残な姿をさらすクソオヤジである。

生き様をちょっと考えないといけない。

若い頃はブリーフ派だった。子供の頃からの習慣だったが、色気づくとともにカラフルになって、形もシャープな感じになっていった。

当時、トランクスのほうがオシャレだという風潮もあったのだが、時々、テニスをする機会があったので、ブリーフ一辺倒だった。

昔のテニスウェアの短パンは丈が短めで、トランクスだとはみ出るので選択肢は他になかった。

30代半ばぐらいまではブリーフ派だったと思う。ヘンテコなイラストが描かれたものもウケ狙いで随分愛用した。

ブリーフの前面にセクシーな女性の手が思わせぶりに描かれているやつとか、仁王様が正面で睨みをきかせているやつとか、いろいろ持っていた。悪趣味だが、一応、下着には気を遣っていたわけだ。

その後はいわゆるボクサータイプの下着に移行して、今でもそれが基本だ。まとめ買いしたら、結構いつまでも愛用するのでヨレているものも多い。

カッチョ悪いことである。

私が家庭人だった時は、あえてヨレた下着を着用していた。変な言い訳みたいだが、それなりにちゃんとした理由があった。

男の浮気がバレる初歩的なミス?は、下着に懲り始めることである。

普段から下着のオシャレに気を遣う男であれば心配はない。でも、普通のオッサンが突如、小洒落た下着を着け始めたらそりゃあ誰だって怪しいと気付く。

そういう事情もあって私は、ヨレヨレ下着を愛用していた。。。などとカッコつけて言いたいところだが、私の場合は、単にズボラなだけだった。ヨレた下着でも気にならない性格なんだと思う。

まあ、結果的に悪さがバレたことは一度もなかった。ヨレパンの効用かもしれない。世の男性諸氏は、いざという時に備えてヨレヨレ下着の素晴らしさを認識しておいたほうがいいと思う。

男の下着話を一生懸命書いてもしょうがないから軌道修正。

女性の下着の進化といえば、「寄せて上げる」機能だろう。凄い変身が可能だ。詐欺みたいな演出に時々たじろぐ。

オレオレ詐欺ならぬモリモリ詐欺である。

幸か不幸か、私はオッパイ星人ではない。お尻フェチである。だから、いざ、ムフフになってモリモリ詐欺の実態を解明しちゃった時も、決して落胆したり暴れたり訴えたりはしない。

そもそもブラジャーというものが好きではない。ホックをスムーズに外したら、手慣れたオトコだと思われる。逆に外すのに手間取ったら、舞い上がってオタオタしているダメ男だと思われる。

厄介な敵である。ヌーブラとやらに比べれば素敵だが、やはりブラジャーは自分で外していただくのが正解だと思う。

個人的な嗜好だが、正直、下半身を覆う下着にしか興味がない。「全日本Tバック推進連盟」の創設メンバーとして活動しているから、やはりTバックにはゾッコンである。

お尻フェチの正しい帰結である。

あれもいろんな形がある。Tバックだから全て良しというわけではない。まあ、その辺を細かく解説すると変態オヤジみたいで、このブログの品格?にかかわるから内緒にしておく。

Tバックではなくても、後ろが総レースでスケルトンちゃんだったりするのもオーマイガッ!である。

それを着用する心意気に盛大な拍手を贈りたくなる。表彰状モノだと思う。本人にとっては後ろ側など自分では見えないわけだから、あえてそれを選ぶのはかなりシャレたセンスだ。

ちなみに最近は一部がシースルーになっている洋服が人気らしい。街行く女性のブラウスとかもそんなパターンをよく目にする。

ということで、妄想大魔王として生きる私は、下着にもシースルー旋風が巻き起こって欲しいと日夜神棚に手を合わせている。

なんだか、今日は高尚で難解で哲学的すぎる話題に終始してしまった。

欲求不満なんだろうか。

春である。

2014年3月19日水曜日


今年ほど春を待ち望んだことはなかった。

昨年の早い時期に心機一転、独身貴族?に舞い戻り、新しい生活を始めた。それ以降なにかとドタバタしていたから、早く年が明けて欲しいと思っていた。

そして今年。新しい年を迎えたら迎えたで、日本人的感覚では「節分」をまたがないことには何となく落ち着かなかった。

運気、運勢の境目は一般的には節分が区切りである。ということで、待ち遠しかった今年の節分を無事に突破したことで、ようやくスッキリした気分だ。おまけに財産分与に伴う税金をこの確定申告でドカンと納めた。スッカラカンになったがスッキリキンである。

今日は極めて個人的な話を書いてみる。自分自身に向けて気持ちを整理する意味合いも込めて、だらだらと書き殴ってしまうので御容赦・・・。

気ままに暮らす一方で、そこは私も人の親である。この1年、子供達との関係性に頭を悩ませてばかりだった。まあ、子供がいるにもかかわらず今の道を選んだこと自体、絶対に認めないと非難する人も大勢いるだろう。その辺はグダグダ言っても始まらない。
 
この1年、子供との距離感や気持ちのケアみたいな部分ばかり考えて過ごした。たかが1年だが、自分には大きな1年だった。

別々に暮らし始めた当初は、とにかく頻繁に会うことを心がけた。それこそ週末は毎週遊んだ。何を言っても言い訳になるし、四の五の言わずに親子は親子であることに変わりがないことを肌感覚で知ってもらいたかった。

思春期の入口にいる娘は、初めのうちは私がどこか遠いところに行ってしまうと感じて不安だったようだが、次第に新たなパターンに順応してくれた。

今では時々、私が暮らすマンションに遊びに来て母親の愚痴をぶちまけてスッキリした顔で帰っていく。母娘の関係に何も問題はないようだが、時々はぶつかることもあるみたいだから、緩衝材のように父親を使えばいいと思う。

二人だけの内緒事もいくつも出来た。娘にももちろん葛藤はあるだろうが、彼女なりに都合良く親の使い分けを実践している。

嬉しい誤算もある。以前より父親を「マトモな人」だと思い始めた点である。別々に暮らし始める直前の1年ぐらいは、生活時間帯がズレていたせいで顔を合わせるのは週末ぐらいだった。

週末の私はサリーちゃんのパパみたいなボサボサ頭でヒゲも剃らず、小汚いスウェット姿で自分の部屋にこもっていることが多かった。いわば、ボロボロ状態の父親ばかり見ていたわけだ。

今の形になってからは、必然的に私のそんな姿を見られる機会はない。会う時はこっちだって小綺麗な状態である。間違いなく「普通にちゃんとしている人」として認識されるようになった。

娘は私のマンションに来るたびに自分のiPodで聞く音楽を整理したり、新たに調達して都合良く遊んでいる。ドルチェグストの機械を面白がって抹茶ラテとかティーラテを勝手にグビグビ飲むのを常としている。

息抜きの場所みたいに過ごしてくれている娘の姿を見ると、この1年激しく葛藤したり混乱した自分の時間がムダではなかったと少し安堵できる。彼女自身、私に向かって「しょっちゅう会ってるから問題ないんじゃないの」と軽口を叩くようになってきた。

この春、娘は小学校を卒業する。信じがたいことに答辞をスピーチする卒業生代表に選ばれてしまった。アホバカ少年代表みたいだった子供時代の私からすれば、まさにトンビがなんちゃらみたいな話である。

娘がその報告のために電話をかけてきた時、まっ先に言ったのが、スピーチの内容を考えてくれということだった。

正直、総代に選ばれた事実よりも、そんな大事な作業に関して、母親より先に私を頼ってくれたことが嬉しかった。どうでもいいことのようで私にとっては大きな意味があった。

結局、「あまりに大人っぽい感じ」という理由で、私のスピーチ原稿は採用されず担任の先生が適当に作り上げたらしい。それはそれで結構だ。私にとっては娘と共同作業で原案作りをしたこと自体が大いに意味のあることだった。

まあ、卒業式当日、私はアホみたいに泣くだろうから答辞の内容など耳には入らないと思う。

中学生になれば、どんどん自我が強くなり、自分の時間で忙しくなる。父親のことなどウザったい存在に思い始め、邪険に扱い始めるだろう。

それはそれで正しい成長である。放っておけば良い。あくまで父親は適度な距離感で控えているという事実だけを思い知らせるようにしたい。慌てず騒がず考え過ぎずに付き合っていければいい。

最近は会うペースも落ち着いてきて、月に1度ぐらいしか顔を合わせないこともある。それでも、今月末のAKBの国立競技場コンサートにも二人で行くはめになったし、何だかんだと予定は入る。

節目節目で便利屋になってやれればいい。娘とはヨチヨチ歩きの頃から二人だけで遊んだり出かけたりしてきた。勝手ながらアイツとはしっかりとした絆が確立されている感覚がある。心配してもキリがない。何とかなるだろう。

続いては下の子供である。ここで何度か書いてきた通り、ダウン症として生まれた男の子だ。独特な世界観?の中で育ってくれている。

幸か不幸か、親の事情などまだまだ理解できないから、別々に暮らすようになっても半年ぐらいは自宅で私を探すことがあったらしい。

少し切ないが、この1年、アイツともなるべく二人で遊ぶ時間を作るようにしてきた。有り難いことに合併症はなく、とりあえず健康に育っている。

私の顔を見るたびに「散歩!散歩!」と要求するので、アイツに会う時は運動不足解消につながる。キャッチボールみたいな男の子的遊びをこなすには、まだまだ時間がかかりそうなので、こっちも体力維持に励まねばならない。

彼が通う特別支援学校は、たまたま私が暮らすマンションに近い場所にある。いろいろな行事を覗きに行くには便利で助かっている。

多少、手前ミソになるが、彼は周囲の理解者、協力者を和ませる不思議なオーラを持っているみたいで、先日参加していたイベントでも、そんな本領を発揮しまくっていた。

アメリカから来たダンス・ミュージカル集団が日本のアチコチでショーや学校単位でのワークシップを展開していた。

息子もなぜか参加メンバーに選ばれたので、出演させてもらうショーを見に行った。

ショーの内容や構成は、アイツの現在の知能ではハードルが高く、案の定、縦横無尽に好き勝手に動き回っていた。まさにマイペースでハッチャけていた。

でも、アメリカ人スタッフが公演中だろうと愉快そうに終始面倒を見てくれていた。有り難かった。終演後に聞いたのだが、練習中もアイドル状態だったらしく、ヤツが練習を休んだ時には、ショーにも欠場しちゃうのではと他のメンバーが大騒ぎしてくれたらしい。

彼にとっては全ての分野において、まだまだ出来ないことだらけだ。でも出来ないことを嘆いても始まらない。嘆いている暇があったら、ポジティブな部分を見つけたほうが建設的だ。

協力してくれる人、理解してくれる人を上手に増やしていくことは、彼が持つ不思議な能力かもしれない。甘えてばかりではいけないが、そんな能力が彼自身を助けている。

この1年、彼のことでも頭を悩ませてきた。でも、悩むこと自体が一種の偽善みたいなものでしかない。鼻クソみたいなものだろう。

悩んだからって何かが変わるはずもない。少なくとも悪い方向に進んでいるわけではない。その事実を周囲の人達への感謝とともに受け止める他はない。

先日も、街の雑踏でチンピラにぶつかったチビは、「邪魔、どいて!」と発言して、引率の先生が大変な目に遭ったらしい。いやはや、何とも無敵な?人生を歩んでいる。迷惑かけっぱなしだが、なんとか社会性を向上させるために事あるごとに指導していこうと思う。

私としては、子ども達と向き合うことを放棄するつもりは無かったし、今も無いのだが、やはり、一人になる選択をした時には、自分の決断がそういう意味合いなのかと鬱々した。長い間、どんよりした気分が晴れなかった。

でも、今年の春を迎え、気持ちに余裕が出てきたことを実感する。ウジウジしてたって何の意味もないし、今の方向で動き始めた以上、いずれ、自分が選択した道が間違っていなかったと心から納得できるように生きていくしかない。

人様からは理解されない部分もあるだろう。後ろ指をさされることもあるはずだ。それも自分の人生だから淡々と粛々と受け入れるしかない。居直った言い方をすれば、いまさら人様の目を気にするほど自意識過剰になっている余裕はない。

春である。やっぱり春はいい。どこか前向きな気分にしてくれる。カラ威張りして突っ走っていこうという気分になれる。

「僕の前に道はない、僕の後ろに道が出来る」。中学生の頃に習った詩の受け売りだが、せいぜいそんな風にムダにカッコつけて歩いて行くだけである。

これからの人生、毎年毎年、春が来るたびに今日ここに書いたような感覚でいられる自分でありたい。