2012年1月23日月曜日

荻窪、飯田橋

千昌夫の「北国の春」とか、細川たかしの「望郷じょんから」とか、はたまた森高千里の「渡良瀬橋」などを聞くと、「ふるさと」に妙に憧れる。

ずっと東京で過ごしたせいで、思いを寄せる故郷が無い。何か損したような気になる。

東京の杉並区に生まれ、実家を出た時は豊島区に住み、その後、新宿区に住み、今も豊島区にいる。実家を起点に10キロ程度しか移動していないわけだから、何となく面白くない。

あちこちすぐに旅に出たくなる性分は、そのあたりが原因なんだろうか。

さて、そうはいっても、自分なりにふるさと的感覚が無いわけではない。アド街ック天国とか、モヤモヤさまーず並みに狭い範囲になるが、「荻窪」と「飯田橋」が私のふるさとだ。

荻窪は実家のある街。24歳まで過ごした。駅前のルミネが出来たのが中学生の頃、それ以前のカオスのような駅前付近の雑踏も覚えている。

戦前は、結構なお屋敷街というイメージがあったらしいが、近年はラーメンの街とか言われる。なんかビミョーだ。

小学生の頃から、バスで荻窪駅まで通い、総武線か地下鉄東西線で飯田橋の学校まで通った。中央線も丸の内線も通っているから、都心部ではない割に便利な場所なんだろう。

小学校の頃、通っていた学校の聖歌隊がなぜか学校からは遠い荻窪の杉並公会堂で発表会だかイベントをやった。ハレの舞台だ。

実は私も選ばれし聖歌隊メンバーだったのだが、直前に、練習後のお菓子をめぐって先生とひと悶着を起こし、クビになった。せっかくの凱旋公演?に出られなかった悔しさは、今も杉並公会堂を見るたびに思い出す。

始めてグローブを買ってもらったスポーツ用品店、いつも覗いていたレコード屋、高校生の頃、学校をサボって昼寝場所にしていた全席ナゼか喫煙OKのポルノ映画館などなど思い出の宝庫だ。いまやみんな消滅した。

甘酸っぱい思い出もある。小雨の中、駅前でバスを待っている時に、隣に立っていた妙齢の美女がそっと傘を私に差しだしてくれていたのに気付いて猛烈にドキドキしたこともある。

改札口で待ち伏せしていた獅子舞のような顔をした女子高生からラブレターをもらったこともある。いまなら大喜びで抱きつきそうなものだが、当時はシレッっと応対したことが悔やまれる。

バスの中で、土偶のような顔をした女の子からイニシャル入りのマグカップをもらったこともある。私の名前をどこかで聞き違えたらしく、彫られていたのは全然違うローマ字。冷たく突き返した自分の態度を今でも反省している。

いまなら別な人宛のプレゼントだろうと喜々としてもらって喜ぶ。諸行無常だ。

荻窪よりも印象が強いのが「飯田橋・九段下」だ。幼稚園から高校まで同じ場所に通った。荻窪とは違い、友人達も絡むわけだから思い出はいっぱいある。

小学生の頃、フラフラ意味もなく歩くのが好きだったので、下校時にお濠端を四谷まで歩いたり、迷子になりそうなほど界隈を歩いた思い出がある。

中学の野球部では、皇居一周のランニングを課せられ、当然のように私は、九段下あたりの物陰でしばしサボって、頃合いを見て息を切らせたフリをして学校に戻った。学校の校舎に寝泊まりした夏休みの合宿中には、学食のオジサンに靖国神社の夏祭りに連れて行かれ、酒まで飲まされたこともある。

高校生の頃は、何かの罰ゲームで飯田橋駅の線路を走り回って駅員さんに構内放送で怒鳴られたこともある。学校から駅まで歩くのを面倒がって通りすがりのトラックの後ろに飛び乗って横着していたら運ちゃんに怒鳴られたこともある。

いたずらばかりしていた。

30年以上前の飯田橋は、駅隣接の大型ビルがまだ無かったから、駅のホームからはお濠の眺めが一望できた。小綺麗な飲食店とか瀟洒なオフィスビルも無かった。目白通り沿いのきしめんの尾張屋ぐらいしか記憶にない。

飯田橋駅寄りの神楽坂エリアには放課後よく出没した。ジャンボ餃子、ジャンボチャーハンで有名な神楽坂飯店を越えたあたりに「人形の家」という2階建ての喫茶店があって、先生の目を盗んでよく潜んでいた。

2階席に上がる階段に、2階は貸切と書かれた小さい看板を置いてもらえたから、学校の先生の巡回があってもセーフだった。近隣の女子高生を2階の特等席に連れ込む猛者もいた。つい先週、その男と飲んだのだが、相変わらずのスケベ大王ぶりに感心した。

三つ子の魂、みたいな話だ。

神楽坂をのぼり始める場所にある「甘味処紀の善」にもよく通った。現在のビルに
建て替える以前は、店舗の奥に隠れた離れがあって、そこに潜んで悪さしていた。

坂を上っていった所の「天下一ラーメン」も懐かしい。今をときめく「天下一品」ではない。「てんかいち」だ。いつもスタミナご飯大盛りをかっこんでいた。

飯田橋西口の居酒屋庄やのランチにもよく行った。高校生だから当然、学食か弁当しか許されていなかったのだが、なぜかサラリーマンに混ざって居酒屋で昼時のひとときを過ごした。不思議だ。

目白通りから一本入ったところにある東京大神宮は中学高校の頃、恐い先輩や地域の不良に呼び出される場所だった。参道にあたる道も、その頃は鶴亀という蕎麦屋と団子屋があるぐらいで何もなかった。

学校帰りに団子屋で「すあま」を買って頬ばりながら歩いた記憶がある。今やその道もレストランがたくさん並んでいる。

九段下に向かって右手にそびえるホテルグランドパレスは、ある意味、あの周辺のランドマークだ。小学校の卒業謝恩会もここだった。今や売れっ子俳優の同級生の母親が、即興でミニ歌謡ショーをやったように記憶している。

プロ野球のドラフト会議もその昔はグランドパレスが会場だった。西武グループが野球界に進出してからは、プリンスホテルにその座を奪われてしまった。

金大中さんが韓国のKCIAに拉致された事件も犯行現場はグランドパレスだった。当時は何かとメジャーなホテルだったんだろう。

その後、近くに登場したホテルエドモントが、裏通りに立地してショボンとしているせいで、グランドパレスはシュッとした顔で佇んでいる。

まあ、この2つのホテル、現在の東京ホテル事情とかホテル競争とかとは一線を画した独特な存在。一応、ビジネスホテルではなく、シティホテルというカテゴリーだが、ワクワクするような感じでもない。牧歌的マイナー路線とでも言おうか。

アマノジャクな私は、以前からグランドパレスの昭和っぽい雰囲気、普段着のような感じが好きで機会があれば食事に出かける。特製ピラフは、私の好きな食べ物ベスト10に過去30年以上ランキング入りしている。

ランチブッフェもホテルにしては格安。華やかさはない。ワクワク感もない。品数は少ない。でも味は間違いない。「昭和の東京の洋食」だ。

思えば、高校卒業後も、大学生の頃にもアルバイトで飯田橋にあった広告代理店で少しだけ働いたことがある。わが社の主要紙媒体も数年前から飯田橋の印刷会社に印刷を発注している。

現在、仕事関係の裁判を3つ抱えているのだが、共闘してもらっている弁護士さんも、お隣の神楽坂に事務所を構えているので、打ち合わせついでに界隈をふらつくこともある。

それ以外にも飯田橋界隈に出かける機会は多く、今もあの街は半分地元のような気がする。好きな街の筆頭みたいなものだ。

大人になった今の目線で、改めてゆっくり散歩してみたい。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

富豪記者様

あいにくの小雨降る京都への訪問でしたが、それはそれで風情があって大変良かったです。
私も神楽坂(矢来方面)住人ですので、飯田橋・神楽坂界隈のお勧めの場所などがありましたら、是非ご紹介願います。

富豪記者 さんのコメント...

玉さま

京都は雪でなく小雨だと違う風情があるのでしょうが、ちょっと残念でしたね。

神楽坂の毘沙門天当たりの裏路地の夜の風情はいいですね。

おすすめがあるほど詳しくはないですが、あの街は行き当たりばったりが似合いそうな気もします。