2014年3月17日月曜日

SとかМとか


時々、自分がSなのかMなのか分からなくなる。

なんだか凄い書き出しである。

性的嗜好の話ではない。性格的、精神的な傾向の話である。攻めて喜ぶのか、攻められて喜ぶのか。自分の中ではどっちの要素も備わっている。

先日、タクシーの運転手相手にぶち切れてしまった時は、ドSに変身した。タクシー営業所の責任者らしきオッサンを車内の無線越しに呼び出し、延々と説教をかましてしまった。

別な日は、眠くてしょうがないのに、銀座の某店でなかなか帰してもらえず、結局、最後まで居残りさせられ、あげくの果てには大勢でカラオケに向かい、深夜まで弾けていた。

あの夜、女性達からリクエストされた歌を必死に独唱しながら、それを聴きもしないでガツガツ食事する女性達を横目で眺めていた自分は、まさにドMである。

ずっとS男だと思って生きてきたが、30代の半ば頃だったか、自分の中に潜むM的要素に気付いた。

麻布狸穴町のアルファ・インのせいである。いやいや、それは半分?冗談である。

思い返せば、20代そこそこの頃に恋人でもない年上のオネエサマがたから身勝手にコキ使われたことがあった。あの時の変な喜びは自分の秘やかなM性が理由だろう。

深夜に部屋の模様替えを手伝わされたり、ヤケ酒に付き合わされたり、結構メンドーな要求が多かったが、なんだかんだと働いた。

あーだのこーだの言っても、結構若い頃からMっぽい部分があったのかもしれない。

でも、M性が強いなら、元嫁にも耐えられたはずだが、さすがに無理だった。しっかりSの部分を駆使して導いた結論が今の状況だ。

おっと、話が逸れた。

さて、SだのMだのを考える場合、攻める、攻められるというより、支配する、支配されるというイメージで捉えると話が分かりやすい。

支配される窮屈さを心地よく感じてしまう時がある。不思議な感覚である。

忙しいスケジュールの中に、自分をもっと追い込む予定を追加する時の高揚感などは働き盛りの社会人なら理解できるはずだ。

疲れがピークに達していてもナゼか帰宅せずに記憶が薄らぐほど酩酊してしまうのも、どこか得体の知れない力に支配されている感覚だ。

好きな人が出来て、その人から面倒くさい約束をさせられたり、行動に制約やイチャモンを付けられてもチョッピリ嬉しく思うのも「窮屈な快感」といえる。

ついでに言えば、窮屈な快感を遵守するフリをしながら、内緒で好き勝手なことをしちゃうこともある。これもひょっとするとM性ならではの行動原理かもしれない。

高校生の頃、隠れてタバコを吸う時のスリルとか、オトナになって平和な家庭人を演じている裏側で、コッソリ浮気しちゃう感覚も同じだろう。

「ダメなことをしてしまう快感」。これって、支配されている立場だからこそ生まれる喜びだと思う。

すべてが自由だとハチャメチャに遊んでいても何となく面白みがない。不思議である。

そう考えると、身勝手に自己中心的に生きている人は、こうした喜びというかヘンテコな快感を知る機会が少ないのだろうか。

何かを気にして、何かに制約されている感覚が強い人ほど、コッソリ味わう禁断の蜜の味を楽しめるのかもしれない。

最近、束縛や制約のない環境で野放図に暮らしている私は、いわば糸の切れた凧みたいなものだ。

「秘やかな楽しみ」などとは縁がなくなった。そのせいか、「禁断の味」を求めて頑張ろうとしない多くの男達を歯がゆく感じる。

コッソリ楽しむ蜜の味こそ、人生の醍醐味なのに、安全地帯で牙を抜いて昼寝をしていてはイカンと思う。

大きなお世話だと思うが・・・。

今日は話がちっともまとまらない。慢性的な寝不足のせいだろうか。

SとかMの話をアカデミック?に書こうと思ったわけではなく、知り合いに聞いた変態性癖の話が頭に残って、ついつい適当なことを書き始めてしまった。

その変態性癖とは、「眼球を舐めたがる男」という怪奇映画のような内容だ。

♪キッスは目にして♪みたいな爽やかな話だと思って聞き流そうとしたのだが、閉じたマブタにチュっ!という次元ではない。もっとエグい。

無理矢理マブタをこじ開けて眼球そのものを舐めることに喜びを感じる男がいるらしい。

凄いことである。どういう深層心理がそんな行動に走らせるのだろう。

そりゃあ、愛しい人のことを舐め回したくなる気持ちは分かる。たいていの「部分・部位」はOKである。

でも、眼球までターゲットにする発想は奇々怪々である。

それはそれとして、眼球を舐められる側の女性も相当ヘンテコだと思う。

よく考えれば、拒否して抵抗すれば逃げ切れるはずだ。眼球ぐらい守れる。きっと少しは「協力的な要素」があったはずである。

本物のMじゃなきゃ、そんな体験をするはずはない。

眼球を舐めようとする男と舐めさせる女。

想像してみると衝撃的な光景である。

ということで、結局私は、相も変わらず、人様の「過去話」を聞いて興奮する「過去フェチ」の本領を発揮して、一人悶々と空想の世界で遊ぶはめになった。

春である。


2014年3月14日金曜日

香りの話


香りフェチのつもりはないが、結構、良い香りにほだされてしまう。

先日も、雑貨屋を覗いていたら、妙にそそられる香りに誘われ、スティック付きのアロマエッセンスを買ってみた。


イタリア製のナンチャラオレンジの香りだとか。リビングに置いてみたのだが、部屋に入るたびにホンノリ漂う。悪くない。

思えば、いまの住まいに引っ越してきてから以前より香りに意識が向くようになった。

それまで家事にはノータッチだったから、香りにも無頓着だったが、柔軟剤にしても芳香剤にしても様々な香りがあって楽しい。



洗濯の際に欠かさず使っているのが、パッションベリーの香りの商品である。そんなに色々な種類を試したわけではないが、これにはゾッコンである。一途に愛している。

布団カバー、枕カバーを洗う時などは、この柔軟剤を多めに入れてしまう。ホンノリ漂うパッションベリーのせいでリラックスできる。

でも、パッションベリーって何じゃらほい?である。そんなもの見たことも食べたこともない。謎だ。

トイレに置くのはフレンチバニラの香りである。これまたマッタリとした香りが良い。フレンチバニラって何じゃらほい?だが、きっとフランスのバニラなんだろう。

そのままだ・・・。

この二つの香りは私の気ままな貴族生活?の必需品になってしまい、いまでは、ストックを多めに常備するほどである。

旅に出ても、アロマオイルっぽいものをついつい買ってしまう。たいてい、後々になって気に入らなくて捨ててしまう。

いつだか、熱海の高級温泉旅館に行った時に売店で見つけた「梅の香りスプレー」もそんなパターンだった。

数ある花の中で私は梅が一番好きである。だから梅の香りエキスが入った芳香剤を発見して喜んで買ってしまった。帰宅して寝室を中心にシュッシュと振り掛けてみた。

なんかクサい。ジイサンの加齢臭をトンがらせたような鼻をつく感じ。売店で試しに嗅いだ時は爽やかだったのに全然感じが違う。嗅覚なんてモノも気分で随分変わるのだろう。

昨年秋にスペイン、アンダルシアを旅した時も「アルハンブラの香り」なる室内用アロマエッセンスを購入した。

世界遺産・アルハンブラ宮殿をイメージしたらしいが、そんなものをイメージしたら古めかしくてカビ臭い感じになりそうだ。でも、こちらは結構爽やかな香りで気に入っている。

スプレーボトルに移して、時々、シュッシュと部屋にまいている。なんとなく気分が落ち着くから不思議だ。

ラベンダーの香りグッズもついつい買ってしまう。ラベンダー枕、ラベンダーアイマスク等々、随分買ってみた。安眠を誘うという謳い文句にそそられるのだが、最近は、酔っ払ってコテっと寝ちゃうからちっとも役に立っていない。

良い香りに惹かれるとはいえ、コロンなど身体につける商品には興味がない。高校生の頃までは使っていたが、いまでは一切使わない。

髭剃り後のアフターシェーブローションですら無香性しか買わない。

香りで異性の気をひこうとしているような男の魂胆がどうにもカッチョ悪いことに思えてしまう。結果、私は素の状態で加齢臭を世界中に振りまいている?わけである。

中学生の頃、色気づいて香水をアレコレ試した。イタリアの俳優・マルチェロ・マストロヤンニのCMでおなじみだったバルカンとか、草刈正雄と渡辺貞夫が競演していたブラバスとか、テレビの影響で使っていた。

ませガキである。

その後、テレビCMで知られる商品なんてダッサいオッサンが愛用するものだとヘンテコな思い込みが強まり、得体の知れないコロンを適当に買うようになった。

高校生ぐらいの頃、若者向けのバイブルだった雑誌「ポパイ」とか「ホットドックプレス」に広告が載っていた「4711」のコロンをオシャレだと思って愛用した時期もある。

若さって無鉄砲というか、無思想というか、思い返すと実に滑稽だが微笑ましい。ああいうシャレっ気は今の私にこそ必要なのかもしれない。

女性の香りもあまりキツいのはイヤだ。香水で素敵な香りだと思えるものはまずない。

シャンプーやヘアクリーム、ハンドクリームや保湿ローションとか、その類いの香りがホンノリ漂うぐらいで丁度良い。

ツンツンと強い存在感で周囲の空気を切り裂くような香水を愛用する女性は苦手だ。個人的な意見だが、センスが欠落していると思う。

もちろん、香りなんて個人の好みだから、本人が気に入っていればそれで良いのだろう。でも、個人の好みということは、逆にその香りが苦手な人もいるわけである。

そういうことに思いが至らない、配慮が出来ないこと自体がセンスが足りない。

風呂に入る習慣がなかった西洋人が悪臭を隠すために開発したのが香水である。いまの生活環境の中で、ぷんぷん強い匂いを放つ人を見ると、風呂が壊れているのかと思ってしまう。

香水好きな人、ゴメンナサイ・・・。

まあ、そんなこと言っても、私だって、大昔には、親しく付き合った女性が愛用する香水に魅せられたこともある。

不思議とツンツンする香りではなく、皆さん丸い香りだった。丸い香りなどと書くと意味不明だが、ぬるくて甘くて優しい香りである。分かってもらえるだろうか。

そんな人たちの顔を思い出すたびに、香りの記憶が甦って甘酸っぱい気分になる。時々、街角で懐かしい香りがふっと鼻をくすぐったりすると、おセンチオヤジに変身してしまう。

いかんいかん、若い頃を思い出してばかりだと老化が激化しそうだ。

今現在を一番充実させることこそが人生の大事な課題である。

懐かしい香りではなく、現在進行形で心が揺さぶられる香りを探さないといけない。

2014年3月12日水曜日

ウソ


あれだけ世間を騒然とさせたくせに、痩せるどころか太っちゃってた「佐村河内さん」の記者会見を見て「ウソつきにも才能が必要だな」とつくづく思った。

謝罪といいながら、いけしゃあしゃあと強弁を続け、ボロが出そうになると、とっさに話をそらす。

ありゃ一種の才能である。

ウソにウソを重ねていくと、自然と訓練を積んだようにウソが熟練していくのだろう。

どんな場面でも、慣れることの強みは想像以上である。大勢の人の前で要領よく話したり、パフォーマンスを見せるという芸当だって、最初からうまく出来るはずはない。すべては慣れの力である。

ウソも徹底して続ければ、しっかりと身につくわけだろう。なんとも厄介だが、凄く勉強になった。

ということで、ウソの話である。

私はウソをつくのがあまり上手ではない。大人として誉められたものではない。仕事の関係者と話をしていても、ポーカーフェイスで通すことが不得意である。感情が割と顔に出やすい。

中途半端なウソをつくなら、正直に居直ったほうが、その後の展開がスムーズになる。いわば正面突破である。

見え透いたウソを頑張って突き通そうとする人がいる。うまくいかなかった仕事をごまかすためとか、自分の保身が理由なんだろうが、見ていて滑稽だ。

お気の毒、かつマヌケである。

などと偉そうに言いながら、私だって、ムダにウソを言ってこんがらがることがある。

まあ、そんな場面はだいたい女性関係が絡む時だけである。ああいう分野は、ウソも親切なマナーになったりするから厄介である。

「うふん、ダーリン、ゆうべは、誰と過ごしていたの?」などと聞かれて「うん、錦糸町のリリィと交尾してたよ」と答えるわけにはいかない。

マナーである。

そういう時は、「退屈だったから、ウチで久しぶりに三島由紀夫を読み返していたよ」などと答えてあげる必要がある。

ところが、そんなウソも「ダーリン、ゆうべ、アナタの部屋の前を通ったけど灯りは消えていたわよ」とか切りかえされたりして慌てる。

問題はその時である。焦った様子が表情に出るか出ないか、相手はそれだけをチェックしている。

このわずか数秒の緊張の時間をどうやり過ごせるかが「素敵なダーリン」になれるかどうかの踏ん張りどころである。

「おや、三島を読んだのは一昨日だったかな。そうだ、昨日は亀戸のサウナでアカスリ三昧だったよ」と、柔和かつ自然に、そしてゆっくりと他愛のないことのように答えなければならない。

私にはそんな芸当は無理である。

したがって、「昨夜のこと」を尋ねられたら「そんな昔のことは忘れてしまった」と物憂げに葉巻をくゆらせながらつぶやくことにしている。

そして、「明日はどうしているの?」と聞かれたら「キミとデートするでちゅ~」と可愛いフリをする。

決して、「そんな未来のことなど分からないさ」などとキザなことを言ってはならない。

男と女の間では、ウソは時に潤滑油になり、時には毒にもなる。必要なウソもあれば、
ついてはいけないウソもある。

すべてをあからさまにするなんて人間関係を円満に運ぶ上では考えにくい。ウソは悪いことだが全否定もできない。程度問題だろう。

男なんてバカな生き物だから、自分のウソがバレないように必死になるばかりで、相手の女性がウソをついていることに想いが及ばなかったりする。

実に切なくも悲しい現実である。

相手の目を見てウソをつくのが女性である。これが男性との根本的な違いである。困った問題だ。

男は相手の目を見てウソをつくことが出来ない。これが出来るヤツは「佐村河内」クラスの傑物だろう。

だから、女性が自分の目を見つめながら言ったことは真実だと無意識に刷り込まれてしまう。

本当は逆である。不自然に目を見つめられて弁解されたら、疑ってかかった方がいい。

私も、相手の目を見てウソがつけないから、相手がこっちの目を凝視しながら語る話はすべて信用できると思い込んでいた。

この30年ぐらいずっとそうだった。

すなわち、この30年ぐらい、ずっとダマされていたのかもしれない。

最近は、いや、最近も以前も、滅多にウソはつかない?私だが、どうしても切り抜けたい場面では、相手の眉間を見つめることにした。

眉と眉の間である。この一点を必死に見つめる。相手からすれば、目をジッと見つめられているように映る。

ウソをつく時だけでなく、恥ずかしかったり、照れちゃって目をそらしがちな時も、この作戦は有効である。

好きな人に「好きだ」と伝える時には、恥ずかしさや照れで目をそらしたくなる。でも、勝負どころである。目を見つめているフリをするために眉間を凝視する。

好きでもない人に便宜上「好きだ」という場面も同じだ。自分のやましい心を反省したくなって目をそらしたくなるが、目を見つめて本気だと錯覚してもらうために眉間を凝視する。

ウソです。。。。

相変わらずアホバカ話ばかり書いてスイマセン。

さてさて、許せるウソ、許されないウソの境界線ってどのあたりなんだろうか。

多分、枝葉の伸ばし方ぐらいならセーフ、荒唐無稽な話ならアウトという感じだろうか。

男性経験が30人の女性が、それを3人と言い張ったら、「許せないウソ」だが、10人と答える程度の過少申告ならセーフだと思う。

バツ2の男が「まったくの未婚です」と答えたら「許せないウソ」だが、「バツ1です」と答えるのはセーフだと思う。

いま思えば、随分私もウソをつかれてきた。ああ、ここで書いちゃってスッキリしたい。でも、さすがにエゲツないし、私自身が情けなくなるから封印したままでいよう。

物事すべてが因果応報である。

2014年3月10日月曜日

ロマンチスト


ロマンチストかどうか。時々、自分や他の人をめぐってそんな議論をすることがある。

なかなか難解な問題である。

そもそもロマンチストって何だろう?辞書をめくれば「夢想・理想を追い求める者。現実離れした、甘い空想を好む人など」となる。

ロマンチックという言葉だと「現実を離れ、情緒的で甘美なさま。また、そのような事柄を好むさま」だという。

いずれも分かったような分かんない表現だ。

自分に置き換えて考えてみたが、私は決して理想主義者でもなく、夢想家でもない。間違いなく現実主義者である。

でも、「甘い空想を好む」という点では結構そのけがある。

「情緒的で甘美な事柄を好む」という部分もピンポンである。

まあ、誰だってそのぐらいの要素はあるはずだ。「情緒的で甘美な事柄」が嫌いだという人は珍しいだろう。

活動内容や実態は知らないが、「日本ロマンチスト協会」なる組織が存在する。公式ホームページに設けられていた「ロマンチスト診断」とやらを試しにやってみた。

結果、私は「ロマンチスト見習い」だった。そういことである。いわば、失格である。ちょっと残念だ。

もともとマメじゃないし、歯の浮くようなことは言えないし、オッシャレ~!なデートスポットとかも知らないから仕方がない。

それでも「情緒的で甘美な事柄」は大好きだ。それって何のことかちっとも分からないが・・・。

「甘い空想を好む」という点では、そこそこ自信?がある。しょっちゅう、「恋人になって欲しい人」とか「まだ見ぬ恋人」を空想しているから立派なものである。

想いを寄せる人、もしくは今後出会うであろう最愛の人が世の中のどこかで生きているわけで、そんなことを空想していると飽きない。

その人は、今どこでこの夕日を見ているのだろう。どこでこの月を見上げているのだろう・・・。時々そんな他愛もないことを考える。

さすがにまだ生まれていないとか、赤ちゃんだったりするはずはない。それほど年齢が離れていたら大変だ。

「上原謙」とか「加藤茶」レベルになってしまう・・・。

「甘い空想」というか、常に私が夢想していることがある。情緒のある人に出会いたいという一点だ。

季節の変わり目を感じるような、ちょっとした場面が昔から妙に好きで、そういう瞬間を同じ気持ちで感じあえる人がいたら幸せだと思う。

春であれば、散歩道でふと目に入った梅の花の控えめな開き加減に目を細めたり、秋だったら、どこからともなく漂ってくる金木犀の香りに郷愁にも似た気分に浸ったり・・・。

そんなささやかな事柄を共感できる人がいたら素敵だと思う。

季節の変わり目の中でも私が一番好きなのがヒグラシの音色だ。

夏の終わり、陽射しが少しずつ弱まっていく頃の夕方、寂しげに響くヒグラシの音色に毎年毎年、身悶えている。

夕立の後、かすかに夕焼けが広がり始める。濡れた木々の緑が乾き始める独特の香りを楽しみながらヒグラシの合唱に聞き入る・・・。

最高である。風流の極み、得も言われぬしっとりとした気分になる。そんな瞬間が堪らなく好きだ。

そこに共感できる人がいてくれたらどんなに幸福感に包まれるだろうか。

誰でもいいわけではない。モデル級の美女だろうとも、「峰不二子」クラスのグラマーちゃんだろうと、そうした瞬間の心の動きに共鳴してくれなければ勘弁願いたい。

もちろん、違う場面ではお願いしたいが・・・。

ヒグラシの響きに心が揺れる人だったら、たとえ少しぐらい変な顔でも、ちょっとスタイルが悪くても、性格がチョッピリ歪んでいても、Tバックをはいてくれなくても、そのあたりは大した問題ではない。

そういう情緒のある人となら、一年中、朝も昼もいろんな瞬間瞬間で、心が安らぐ会話が弾むような気がする。

結局、感性や価値観が共鳴する人に惹かれるという当たり前の話になってしまった。

これこそ現実主義である。いや、これを理想主義というのだろうか。

なかなか難しい問題である。

2014年3月7日金曜日

タルタル人


タルタルソースが死ぬほど好きだ。

全身に塗りたくったり、タルタルソースの海で泳いだりしたことはないが、出来ることならそんなことをしたい。

タルタルソースの語源は、タルタルステーキと具材の組み合わせが同じだということに由来するらしい。

タルタルステーキ自体が、その昔、ヨーロッパの人々がモンゴルの遊牧民を「タルタル人」と呼んだことが由来だとか。

細かい話はどうでもいいが、「タルタル人」である。なんと素敵な響きだろう!

タルタル人。会ってみたい。というか、国際結婚して私もタルタル人と呼ばれてみたい。

タルタル人と呼ばれる以上、きっと、1日三食タルタルソースを食べても許されるような国民性なんだろう。

先々週、このブログでエビフライに夢中だという話を書いた。


その後もエビフライへの横恋慕は続いている。ふとした瞬間に「エビフライ・・・」とつぶやいてしまう。実際にアチコチで食べている。

エビフライといえば、タルタルソースである。あの組み合わせの素晴らしさは例えようのないほど完璧である。

肉系のフライと違って、エビフライはどこか味わいがマイルドである。良くも悪くもパンチに欠ける。そこにタルタルが登場することで、一気に至高な味が誕生する。

タルタルソースは、なぜか魚系のフライに限る。牛や豚とはちっとも相性が良くない。鶏肉だったらギリギリ合格だが、エビフライとの相性に比べれば、鼻くそ以下と言ってもいい。

美味しいものがないと言われる大英帝国唯一?の有名料理が「フィッシュ&チップス」である。あんなものが名物料理だという現実が実にビミョーではある。

ところが、かのフィッシュ&チップスだって、付け合わせのタルタルソースがウマければ、なかなかニクい料理になる。

フライの揚げ方がイマイチだろうと、具材の質が低レベルでも、ウマいタルタル様がたっぷり用意されていれば、私にとっては崇高な一品になる。

頻繁にメニューが変わるマクドナルドでも、栄光のフィレオフィッシュは世界中で不変のスターであり続けている。

ということで、タルタルソースは偉大である。

許されるのなら毎日毎日食べたい。でも基本はマヨネーズだし、コレステロールを考えると、ついつい「時々ぜいたくして食べるモノ」というカテゴリーに分類することになる。

先日、いつもの高田馬場・鮨源に出かけた。しばらくぶりの訪問だったので、ウマい刺身や寿司をしこたま食べようと思っていたのだが、その日、運良く店が空いていたので、席に座るなりヨコシマな考えが頭をよぎった。

エビフライが食べたい。。。

新鮮な魚がゴマンとある中で、いきなり迷惑な注文である。

タルタルソースも欲しい。。。

更なる迷惑ぶりである。

小ぶりなエビを2本、中型サイズを2本、計4本のエビフライをお願いした。


この店は揚げ物のテクニックもバッチリで実に良い感じ仕上がったエビフライがやってきた。頭もシッポもそのまま食べられる極上エビフライである。

エビフライがウマいことは間違いないのだが、その場で一から作ってもらったタルタルソースがまたバカウマである。


チビチビつまんでこれだけ食べていても、酒のアテになる。バンザイである。いっぱい作ってもらったので、大きな声では言えないが、「スーパー邪道寿司」まで作ってもらった。

画像を撮り忘れたのだが「タルタルソース軍艦」である。軍艦握りの具材はタルタルソースだけである。とんでもない寿司だと世間から糾弾されそうだ。

でも好きなんだからしょうがない・・・。

物凄く幸せそうな顔で食べていたと思う。


エビフライの最後の一口は、こんな感じで食べる。これじゃあエビの味なんて分からないぐらいだ。まるでエビ自体がタルタルソースを食べるための言い訳みたいな存在になっている。

エビフライが好きなのか、タルタルソースが好きなのか、正直、よく分からなくなってきた。

タルタルソース自体は、さほど難しくなく作ることが可能だ。私も自分で作ろうと何度も思ったのだが、それだけは自主規制している。

作ってしまったら最後、日々、そればかりを食べてコレステローラーとして晩年のエルビスみたいになっちゃいそうだから我慢している。

余命1年とか言われる日が来たら、きっと毎日タルタルソースを食べながら最後の日を待つことになるような気がする。

2014年3月5日水曜日

鯛めし、せいろ蒸し、自家製パスタ


このブログを時々読み返すと、いつも似たようなモノばかり食べている。実に世界が狭いと思う。

まあ、そうは言っても、変なモノにチャレンジして後悔するのもイヤだ。確実にニッコリできる食べ物を摂取したい。

と、エラそうに書いているが、「サッポロ一番塩ラーメン味焼きそば」というヘンテコなジャンクフードにハマって頻繁に食べている私である。

私の味覚などその程度のものである。


今日は、最近食べたウマかったものを書こうと思う。

まずは鯛めし。鯛めし文化は西日本が中心なのだろうか。東京で目にする機会は少ない。

鯛めしにもさまざまなバージョンがある。刺身を熱々御飯に載せて、溶き卵とダシ汁をぶっかけて食べるパターン、まるまる一尾を米と一緒に炊きあげるパターン、そぼろ状の鯛の身をダシで炊いた御飯にまぶすパターンなど実に多様だ。

某日、日本橋まで出かけて食べた一品は、特許だか商標登録だかの関係で、他では食べられない独特な鯛めし。

7~8年前だったか、島根に旅した際、松江の有名旅館「皆美」で食べた鯛めしがそれ。

日本橋にある直営のレストランで本場と同じ味が楽しめると聞いて、いそいそ出かけてきた。



自分で撮った画像がちっとも美味しそうに見えなかったので、下の画像はお店からパクッてみた。

そぼろ状の鯛、裏ごしされた卵、大根おろし、わさび、海苔をごちゃごちゃ混ぜて優しい味の熱いダシ汁をかけて食べる。

口に入った途端にウマい!と感じさせるイマドキの「ファーストアタック重視」の食べ物とは一線を画す滋味あふれる後味が嬉しい。

通年、暴飲暴食で胃腸が疲れている私にとっては医食同源みたいな有り難さがある。ジンワリと風味が身体中に染み渡る感じ。

こういう食事を基本にしていれば性格も穏やかになりそうな気がした。それ以外の懐石仕立ての一品一品も、優しい味わいでホッコリできた。

続いては、せいろ蒸しである。

銀座にある鹿児島料理の店「華蓮」の名物料理だ。黒豚料理というと、ついつい豚しゃぶを注文する私だが、たまには目先を変えようと未体験のせいろ蒸しを食べてみた。




肉は牛と豚をミックスしてもらった。下の段に野菜、上の段に肉である。蒸されて加熱された肉からこぼれる肉汁が下の段の野菜類にシャワーのように降りかかるらしい。

宗教上の理由で、野菜を食べない私だが、肉汁を身にまとった野菜なら味見しないわけにはいかない。まあまあだった。野菜好きな人ならかなり喜ぶのだろう。

野菜などどうでもいい。肉が思った以上にウマかった。クドさが取れて、適度にあっさりした感じに変身しているのが中高年には嬉しい。

この食べ方は病みつきになりそうだ。結構な量を食べたのだが、肉を食べた後のドンヨリと重い感じは皆無だった。

さて、ウマかったモノといえば、自宅で真面目に作ってみた自家製パスタを忘れてはなるまい。

一人暮らしをしている以上、たまには料理の真似事をしてみる。とはいえ、必死な感じになるのがイヤで、ヘンテコなこだわりを守っている。

そのこだわりとは、「まな板と包丁を使わないで作る」という実に生半可な姿勢である。

大げさなことはしたくないし、洗い物が大量に出るのも避けたい。一生懸命な雰囲気になっちゃうと、自分としてはどこか侘びしく感じてしまう。

そんな意味不明な感覚があるから、あくまで簡単にチョチョちょいっと出来上がるモノしか作らない。

何度かここで書いたことがある特製ピラフも包丁やまな板は一切使わない。

米をといだ後に、唐揚げ用のぶつ切りの鶏肉、缶詰のマッシュルームなどを投入して、市販のコンソメスープとかオニオンスープに、適当な分量のケチャップやソース、バターを加えて、電子ジャーのスイッチを
押すだけである。

炊きあがった直後にもう一切れバターを加えて混ぜ合わせるだけで特製ピラフが出来上がる。

味のほうも確かである。以前、我が家に遊びに来た12歳の娘は、2合作ったピラフのほとんど食べ尽くしたほどだ。マズいはずはない。


で、パスタである。残念ながら?これを作る場合は、フライパンは必要である。タップリのオリーブオイルに市販のザク切りガーリック、アンチョビペーストを投入、具は主にシーフードである。

この日は無性にカキが食べたかったので、大量にカキを入れる。その他に海老とアサリを脇役にする。

適量の塩こしょうの他、イタリアンハーブミックスとスイートバジルなるスパイスもそれっぽい味に仕上げるために有効だ。

まだバリバリに固い状態のパスタをフライパンに移して、出来上がっていた具材入りパスタソースとあえる。

普段、料理などしないクセに、私は鍋ふりが結構上手である。フライパンの中味をこぼすことなく、かなり大胆に振りまくって、パスタソースの「乳化」もしっかりクリアする。

良い具材を買って、それを大量に使っていればウマく出来て当然である。アルデンテにするためには、勇気を持って?麺をフライパンに移すタイミングを決断しないとならないが、だいたい失敗することはない。

タンスイカブラーの面目躍如である。若い頃、イタリアンばかり食べまくっていた経験もダテではない。

私の場合、親の遺言を守って野菜は食べないので、彩りは華やかではない。でも味は結構なレベルである。

客人に振舞えば、私のことを料理好きの男だと誤った印象を与えてしまうほどである。

滅多なことで自分以外に食べさせる場面などないから、遠慮せずに最高の美味だと宣言しておこう。

どれだけ誇張して書いても心配はない。物凄くウマい!最高である。

単なる自画自賛である。

2014年3月3日月曜日

たまに壊れる日


常日頃、30代の人を相手に「ご苦労さんだねえ~」と言い続けている。自分の経験を思い起こすと、30代の頃は色々なことを厄介に感じて、物事をいちいち大ゴトと捉えて悶々としていた覚えがある。

突き抜けちゃった今になると、そんな壁のようなものに直面している世代に、心底ご苦労さんと言いたくなる。

とか言いながら、私だって時々、分けの分からないことで悶々とする。一応、いっぱしの大人である。孤独死の心配とか年金の不安とか、男性機能の低下とか悩む問題は山ほどある。

冗談はさておき、私だって人並みに鬱々する材料はある。まあ、たいてい数日で収まっちゃう程度だが、そんな時は、ちょっと壊れる。

壊れるといっても文化的?な感じではなく、単に暴飲暴食に走るだけである。

最近も深酒が続いた。よせばいいのに毎晩遅くまで飲んでいた。夜ごと、ゲロまでは行かないものの、気持ち悪くなってヘロヘロフラフラしていた。

そんな日が続くと、さすがに酒を抜く日を作る。ただし、悶々モードが続いているから、酒の代わりに「ドカ食い大会」になってしまう。

わが身の胃腸方面には迷惑をかけ通しである。いつか恨まれて反転大攻勢を受けて大変な目に遭うんじゃないかと脅えている。

とある週末の夜、ビミョーな飲み会に参加して、何だか疲労困憊になって、一足先に抜け出してタクシーを拾った。既に深夜だったのだが、運転手さんに家の近所の牛丼屋に立ち寄ってくれと頼む。

ところが、目指した牛丼屋が珍しく24時間営業ではなく、「夢の深夜牛丼計画」が頓挫してしまった。

おとなしく帰宅すればいいのに、コンビニに立ち寄ってもらう。どうでもいいジャンクな弁当をアレコレ買ってしまった。

オムライス、カツ丼、ドリア、たらこパスタである。

炭水化物しかない。さすがにタンスイカブラーである。酒に酔うとこういう行動が迷わず出来ちゃうから我ながら恐ろしい。

タクシーの運ちゃんもコンビニのお兄ちゃんも、間違いなく私が一人暮らしだとは思わなかったと思う。

帰宅して、ひとつだけ食べようと思ったのだが、ドリアとカツ丼をペロッと食べてしまう。暴挙である。バカ丸出しである。

おまけにそれを缶チューハイで流し込む始末だ。ここまで来ると「ゆるやかな自殺」みたいなものだと思う。

膨満感ゆえに、逆流性食道炎が暴れるのを抑えようと、枕を3つほど重ねて上半身を起こしながら眠りにつく。

当然、快眠には程遠く、お化けに追われる夢を見る。自業自得である。最近、お化けが出てくる夢をしょっちゅう見ている。深層心理に何か変化が起きているのだろうか。

そして翌朝、休日だったので爆睡したかったのに、眠りが浅かったせいで何となくモゾモゾ起き出す。

当然、胃部不快感とやらが私にのしかかる。

困ったことに、二日酔いだったり、暴飲暴食の翌日の朝は無性にジャンクな食べ物を欲しがる変な癖がある。

学生の頃は、飲み過ぎて胃液まで吐きまくった翌日の午前中に必ずトンカツを食べるという無気味な習慣があった。

あの頃ほどハチャメチャではないが、いまだに脳が覚えているようで、「ジャンクドカ食い指令」に気持ちが支配されてしまう。

冷蔵庫には、たらこパスタとオムライスが鎮座していた。どちらを食べようかと悩んでいるうちに両方ペロッと食べてしまった。

飢餓状態で死んだ人の怨霊が取り憑いたかのような行動である。

それから3時間ぐらい経った頃、たらこパスタが冴えない味だったことに腹を立て、家にある在り合わせのもので突然パスタを作り始めてしまった。

ツナ缶、かに缶、マッシュルーム缶。すべて缶詰である。あとは大量のオリーブオイルと、バジルやらイタリアンパセリやら、やたらと揃っているスパイス類をゴチャゴチャ混ぜる。

電子レンジでパスタが茹で上がる手抜き便利グッズを久々に使う。ソース作り、麺の茹であがり、全てひっくるめて10分程度で完成する。

麺は200グラム。知らぬ間に完食する。ここまでが昼間までの話である。

ヒマな休日は溜まったテレビ番組を見て過ごす。ヨーロッパをめぐる旅行番組を見ていたら、ウマそうな肉系パスタが紹介されていた。

時間は午後3時ぐらいだ。おやつを食べようと冷蔵庫を覗いたらフェットチーネの生パスタを発見。賞味期限が近づいていたし、レトルトのボロネーゼソースもたくさんあった。結局、また食べてしまった。

ペロリである。

カロリー過多。この日の私のカロリー摂取量は、未開民族だったら1週間分ぐらいに相当するのではないだろうかと心配になる。

そして夜がやってきた。やることもないし、近くのスーパーに買い出しに出向く。お惣菜コーナーに目が向いたが、さすがに我慢である。

食材などをアレコレ買っているうちに小腹がすく。いかん。我慢我慢である。

買い物を済ませて外に出る。ふと目に入ったのが蕎麦屋の看板だ。「もりそば一杯だけ食って帰ろう」と私の中の悪魔が囁く。

「もりそば程度ならいいんじゃないか」。私の中の天使も許してくれた。で、店に入る。

街場の普通の蕎麦屋である。そんなにウマい蕎麦が出てくるはずもない。マズい蕎麦なんか食べちゃったら損だよなあ~と、私の中の悪魔が路線転換を促す。

そして私の口が発したのは「天丼ください」という恐ろしい言葉である。タンスイカブラーの暴走である。

街場の蕎麦屋の割には結構高い値付けだと思ったのだが、出てきた天丼クンは、値付けに納得するような結構なボリューム。甘っちょろい天つゆが妙に食欲を刺激する。御飯もしっかり入っている。

秒殺ぐらいの勢いで完食した。

食べ終わった後、何かに負けたような気がした。猛烈な敗北感である。こんなことなら、珍味をツマミに酒を大量にかっ食らって寝入ったしまったほうが健康的だったかもしれない。

私にとって酒を抜く日は、かえって「危険日」であるという現実を想い知らされた。

酒を飲んでいればバカ食いはしない。私にとって酒はドカ食いを防ぐための避妊具?みたいなものなのだろう。

この日、確かに何かが壊れていた。炭水化物の王道のようなものばかり1日で5食分も摂取してしまった。

でも、これを書いていて思ったのだが、若い頃に比べれば小食になったと思う。初めて一人暮らしをした20代半ばの頃、出前を頼む妙な高揚感が病みつきになって、休みの日には昼も夜も3人前ぐらい注文して、毎度毎度すべて完食していた。

あれに比べれば屁のカッパである。

刑務所に1年ぐらい収監されれば、きっとスマートなイケメンになるのだろう。でも、悪いことをする予定はないので、今後も酒とメシという煩悩の海をさまよい続けるのだろう。

ごめんよ、オレの内臓達・・・。