2020年10月2日金曜日

また函館 またバカ食い

また函館に行ってきた。7月以来である。今回は娘との二人旅。函館だけで3泊のノンビリ旅である。

 

娘とは毎年のように二人で旅行に出かけている。旅に出ると普段とは違う感覚になっていろんな話が出来る。

 

父親に対しては反抗期もなく育ってくれたのも毎年の旅行での対話が影響していたような気がする。

 



 

いや、そんなセンチな話ではない。今回は単なるバカ食い旅行である。函館には今まで20回ぐらいは来ているが、大半が一人旅だ。食事に関しては同行者がいれば注文できる品数が2倍、いや、3倍になる。

 

まずは「うに むらかみ」に向かう。私にとって函館初日の夜の定番だ。やや高めの値段設定だが、無添加の生ウニがウリの楽しい店だ。

 







 

ここで初日に真っ当なウニを食べまくることで、その後、怪しげな安いウニに手を出して後悔する恐れはなくなる。

 

今の時期はイクラも抜群にウマい季節だから、ウニ攻めの翌日は朝っぱらから朝市の食堂街に行ってイクラ丼である。

 



 

大学時代に北海道に一人旅をした際、手持ち資金に余裕がなかったので、イクラもウニも財布と相談しながらシケシケと食べた。

 

いずれ財布を気にせず飽きるほどイクラやウニをてんこ盛りにして食べたいと心に誓ったものである。

 

娘も今や大学生だが、あの頃の私のようなシケシケ感とは無縁だ。甘甘父ちゃんが上モノをドシドシ食べさせるわけだから、教育上よろしくない。

 

教育的観点などすぐに忘れてしまう私は、アホみたいに注文して娘にたしなめられてしまった。ポンコツである。

 



 

二人なのにこんなに注文してしまった。どんぶり3つにホッケ、活イカの刺身、ホタテ焼、ホッキ貝の刺身も追加した。

 

どんぶりの白米こそ少し残したものの、あとは完食である。完食したわけだから注文し過ぎという指摘は間違いである。完食イコールちょうどいいというのが世の中の真理である。

 

観光客も減ってしまった今、平日の朝市ではガンガン値引きしてくれる。自宅用にイクラをどっさり買おうかと思ったが、健康に良いはずはないので、泣く泣く断念する。

 



 

イクラを我慢した代わりに、味見させてもらって極上だったスジコを大量に買ってしまった。意味不明である。でもイクラは買わないという決意は守ったわけである。

 

宿は1泊目を朝市近くのセンチュリーマリーナ、2泊目以降は湯の川にある湯の川プリンスホテル渚亭にした。

 

薄ら寒いぐらいの気候だから露天風呂の気持ちよさは格別だ。センチュリーマリーナの屋上露天風呂も相変わらず快適だったし、3年ぶりに泊まった渚亭の大浴場も安定の気持ちよさだった。

 

渚亭は大浴場以外の施設が全面改装されて客室もモダンに変身していた。この宿のハイライトは浜辺にせり出したような男性用露天風呂だろう。滞在客が少なかったから貸し切り状態で過ごせた。

 




 

渚亭のウリは大浴場だけでなく、露天風呂がたいていの客室に付いている点だ。海側の部屋なら絶景の湯浴みが楽しめる。

 

夜は沖合に浮かぶイカつり漁船の灯りが幻想的で、朝は真っ青な海が一望できて遠く青森の大間岬まで見渡せる。

 

親子二人で特に予定もない3日間だったから、レンタカーを駆使して立待岬、外人墓地、五稜郭、夜景観光を始め恵山のほうまでドライブもした。

 



 

ソフトクリームをはじめ、スイーツも随分食べた。尿酸値、コレステロールだけでなく糖分まで過剰摂取していたわけだ。

 

暴飲暴食の旅だったが、実は今回のハイライトはウニでもイクラでもホッケでもソフトクリームでもない。

 

10年以上前から函館に来るたびに気になっていた「ラッキーピエロ」に行けたことである。

 

地域密着型ジャンクフード、いやハンバーガーショップ、いや、ファミレスのような店である。

 

大袈裟かも知れないが感動した。その話は次回で。

 

 

 

2020年9月30日水曜日

至福のお茶 東京駅の穴場

日々、タバコを吸うために職場近くのプロントを利用しているが、カフェなどのお茶を飲む業態は意外に奥が深い。

 

渋いマスターがこだわりの珈琲をいれてくれる昔の喫茶店はもはや絶滅危惧種状態だ。

 

増殖する一方のファストフード的カフェも便利だが、時にはちょっと高級路線でやたらとホゲホゲできるカフェで時間を過ごしたくなる。

 

最近私のお気に入りが東京駅にある「TORAYA TOKYO」だ。ようかんの「とらや」が展開している隠れ家カフェ?である。

 

東京駅直結のステ―ションホテルの2階にある。ステーションホテルの2階というより丸の内南口の2階回廊部分に構える。

 



 

丸の内側から見た東京駅の美しさはなかなかのものだ。夜景などはうっとり見惚れる。

 

丸の内口はアーチ状の洒落た造りで、せかせか歩いていると気づかないが、ボケッとのんびり目線を上に向けると壮観である。

 



 

この2階部分の回廊にトラヤのカフェがある。穴場だと思う。和のスイーツがてんこ盛りだ。ケーキだとちょっとクドいという時に最適。上質な煎茶とともにゆったりした時間が過ごせる。

 



 

ようかんだけではなく、生菓子やぜんざいといったメニューが豊富に揃う。夏には高級かき氷もある。

 

お店の規模も広めなので、座席感覚もゆったり、椅子もゆったり。時々、やたらと上品なお爺さんが一人でお茶を飲んでいたりする雰囲気も良い。

 



 

いつも断然こし餡派の私だが、ここの粒餡がやたらと美味しい。最初に食べたときはびっくりしたほど。

 

セットで頼める煎茶がまたウマい。始めに茶葉と湯が用意されて、美味しく飲むための説明付き。普段いかに雑にお茶を飲んでいるかを痛感する。

 



 

すっかりコンビニスイーツのトリコになっている私だが、こういうお店で“本気の甘味”を堪能すると、工業製品的スイーツと文化芸術的スーツの違いを感じることが出来る。

 

甘いモノとお茶をすするために、わざわざこういう店に出かけるのも大人の楽しみ方だと思う。

 

話は変わる。時々、銀座某所にある隠れ家的カフェに出かける。ビルの地下にひっそり?佇む小洒落た店だ。

 

ややメルヘンチックとも言える内装だが、とにかく造りがゆったりしていてノンビリできる。小さい個室もいくつかあって、明るい時間からの密談にももってこい?である。

 



 

アフタヌーンティーをウリにしているようで、それを目当てに来る妙齢の女性客も多いみたいだ。

 

やはり、こういう店で一息いれると、プロントでの一息とは違って心なしかしっかり充電した気分になる。

 

ちなみに、さきほど書いた「トラヤトーキョー」が入っている東京ステーションホテルのロビー階のカフェも雰囲気が良い。

 

ひとつひとつの椅子が大きいだけでなく、空いていればソファ席も少人数で占有できる。ホテル自体が駅舎の中で隠れるように存在しているため、カフェも隠れ家的な雰囲気だ。

 

八重洲側のガチャガチャ感とは同じ駅とは思えない丸の内側の様子は、いい歳したオジサマ、オバサマが過ごす穴場だと思う。

 

皇居側の玄関である丸の内側の風情はさすがに天下の東京駅って感じだ。ただ電車に乗るために使うだけではもったいないと思う。

2020年9月28日月曜日

銀座 連日の焼肉に想う



 

立て続けに焼肉屋に出かけた。私にとっては異常事態である。若い頃に食べ過ぎたせいで焼肉が苦手になって久しい。

 

とはいえ、世の中は焼肉好きだらけだから付き合わないわけにはいかない。なんと2日連続で夕飯が焼肉という事態に陥った。

 

奇しくも2日間とも同じビルの中の店だった。銀座4丁目交差点近く。一件目は「サロンドエイジングビーフ銀座」という店。

 

山形牛の熟成肉がウリらしい。ちょっとバブリーな装飾で若い人には嬉しそうな雰囲気だ。焼肉屋さんの風情もこの30年ぐらいで随分変わったものである。

 

今ではすっかり“焼き奉行”専門の私だ。同行者が食べる肉をウンチクをいいながら焼きまくって、自分はチャンジャかキムチで酒を飲むばかりである。

 

ところが、ここでは店員さんが最適な焼き加減を見極めながら焼いてくれる。贅沢だ。焼き奉行の仕事がないから、私は飲みに専念。



 


肉は熟成タンと通常のタンを一切れずつ食べ比べしたのと、スライスわさびを乗っけて食べる肉を一枚もらったぐらいでツマミばかり食べていた。

 


久しぶりに味わうユッケがとてもウマかった。甘すぎるタレで意味不明な味になっている店も多いが、こちらのユッケは生肉の味わいを堪能できた。

 

銀座でそれなりの店構えの焼肉屋が上等な肉を出すのは当然だろう。焼肉以外のちょっとした工夫やアレンジが気が利いていると、偏屈オジサマである私は途端に嬉しくなる。

 



 

こちらの店で私を嬉しくさせてくれたのが「センマイの三杯酢和え」なる一品。抜群だった。

 

センマイといえばたいていはデロっとした怪しげなタレに付けて食べる。三杯酢和えというスタイルは初体験だったが、個人的にはこの食べ方のほうが断然ウマいと思った。

 

さて、次の日の夜に出かけたのは同じビルの違うフロアにある「にくTATSU 銀座店」。こちらは近江牛の専門店だとか。

 

オーソドックスに自分で焼くスタイルだから、この日は同行者のためにシモベのように肉を焼いて過ごした。

 

20代の頃、一人でカルビ5人前ぐらい平気で食べていた私だが、いまや霜降り肉を見ると胸焼けしそうになる。哀しい退化である。

 

牛丼みたいな出がらし肉だったらドカ食い出来るのに不思議で仕方がない。

 

おまけに近頃のちょっとした焼肉屋では、赤身肉を頼んでも結構サシが入っていて、2枚ぐらい食べれば満足してしまう。

 

この日のヒレ肉も名前の割にはアブラギッシュだったから、結局、キムチだチャンジャだセンマイで飲み専門モードになる。

 



 

とはいえ、何かしらトピックが欲しいからメニューをしっかり点検。すると「タンカツサンド」という気になる一品を発見。この店の人気メニューだとか。

 

煮込んだタンを元にしたタンカツを甘めのソースとパンで味わう。これは大いにアリだ。焼肉にゲンナリしがちな中高年には嬉しい一品だと思う。



 


 

さすがに銀座の一等地に構える店だけあってニクいメニューがあるものだ。こういう新発見が楽しめるなら焼肉屋さんに出かけるのも楽しい。

 

ちなみに2日連続で焼肉屋に行ったのに体重が減っていた。やはりチャンジャやセンマイでは太りようがない。

 

「焼肉屋って案外安いなあ~」などと金満オヤジみたいに感じていたのだが、考えてみれば私は肉をほとんど食べていない。そう考えるとやはり安くはない。

ヘンテコな結論である。

 

 

 





2020年9月25日金曜日

大人の味覚 銀座そうな 築地宮川

欲望の最たるものは食欲だろう。ウマいものを口にすると顔がほころぶ。ウマいものと簡単に書いたが「ウマいものイコール不健康」だ。ここが残念である。

 

かといって毎日毎日美食三昧するわけではない。時々なら健康を気にせず不健康的な悪魔の味わいを堪能すべきだろう。

 



 

ビーフンにカラスミをドバっと合わせた一品である。銀座の隠れ家レストラン「そうな」の人気メニューだ。

 

見た目で楽しんでからぐちゃぐちゃにかき混ぜて味わう。ニンマリする味だ。この日、私は食事の前半に突き出し感覚で注文して、あれこれ食べた最後にもこれをお代わりした。

 

この店、雑居ビルの地下でカウンターのみ。まさに知る人ぞ知る構えだ。コロナで客足は減り、さすがに以前より入りやすくなった。

 

まさに今が穴場だろう。空いているから多少のワガママも言いやすいしマイペースでウマいものを楽しめる。

 

和洋中なんでもあって、それぞれが高水準の味だから有難い。

 





 

酢豚にメンチカツにウニとトリュフのグラタンである。どれも抜群。

 

ウニとトリュフのグラタンはトロりとした卵黄も“エロ濃厚”な味わいを引き立てる。不健康バンザイと叫びたくなる。

 



 

親子丼の上だけバージョンである。どの料理もタマゴの使い方が上手だから、これも絶妙な火加減である。こういうツマミで酒を飲むのは男子の本懐みたいなものである。

 

カラスミ、ウニ、タマゴなどは中高年にとっての“要警戒食品”である。でもウマいんだからしょうがない。いまや背徳感まで味覚を高めているような気がする。

 



 

最後にカレーを味わうのも悪くない。こういうお店がわざわざ用意するカレーがマズいはずがない。炭水化物という悪魔だって私を幸せにしてくれる。敵視してはいけない。

 

好きなモノを好きなだけ食べて満腹になれば、近隣にいっぱいある銀座のクラブに出かける意欲は失せていく。

 

軽く寿司をつまんだぐらいだと、つい夜の部活に励みたくなるが、満腹だと私は家に帰りたくなる習性がある。財布にとっては良いことでもある。

 

別な日、築地にある宮川本廛に出かけた。どこもそうだが、こちらもコロナ禍のせいで以前より入りやすい。

 

ウナギ屋さんに行くと「肝焼き、まだある?」と尋ねるの大人のタシナミだ。さほど混雑していない今の時期は肝焼きも品切れになっていないことが多い。

 



 

きっとこれも不健康食品なんだろう。でも、冷酒をカピカピ飲みながら、山椒をふった肝焼きの苦みを味わうのは至福の時間だ。寿命がちょっとぐらい縮んでもいいかとさえ思う。

 

そして、白焼き、鰻重へと続いていくウィニングロード?である。ちゃんとした店がちゃんと出してくれるウナギは中高年が享受すべきニッポンのウマいものの筆頭格である。

 



 

生まれ変わったらさっさとオジサンになりたい、いや、最初からオジサンに生まれ変わりたいと思えるほど、中年の食欲を完璧に満たしてくれるのがウナギだと思う。

 

ウマいものを食べ続けて、頃合いの良いタイミングで苦しまずにポックリ逝く。どんな功徳を重ねればそんな手じまいが可能になるのだろうか。

 

そんな最期を保証してくれる権利がもし売っていたら、一族郎党の全財産を売ってでも手に入れたいものである。

2020年9月23日水曜日

ランパブと初恋の味

気づけば秋である。今年も残り3ヶ月ちょっとだと思うと、肛門屁の出口、いや、光陰矢の如しである。

 




 

食欲の秋である。今年は夏バテがキツかったから、松茸やら生のイクラが妙に嬉しい。夏が終わったことを実感する。

 

この画像は新富町のお寿司屋さん「なか山」で撮った。シャリが美味しい店なので握りをがんがん食べたいところだが、旬の肴を前にすると酒中心の時間になってしまう。

 

思えば土瓶蒸しは不思議な食べ物だ。夏の盛りには決して食べたいとは思わない。蝉時雨には絶対に似合わない一品だ。

 

ところが、秋風を感じ始めた途端に急に魅力的な一品として浮上する。季語みたいな食べ物である。

 

味に関してもウマいマズいを超越した存在だろう。もちろん、滋味溢れる味わいは単純に美味しいが、あくまで主役を張るようなウマさとは違う。

 

極端に言えば、土瓶の蓋を外した瞬間の香りと見た目がすべてだ。目に飛び込んでくる松茸の姿にそそられ、鼻をくすぐるアノ香りによって脳の中の幸せスイッチが押される。

 

“ファーストアタック”こそが土瓶蒸しの立場を支えているわけだ。ぶっちゃけ話みたいになるが、土瓶蒸しが残り半分ぐらいになると誰もが本音では飽きちゃう。

 

その昔に流行したランジェリーパブみたいだ。入店して最初の5分ぐらいはその光景にドギマギしてムホムホするが、慣れちゃうと何も感じなくなる。

 

我ながら変な例えだと思う。脱線した。軌道修正。

 



 

この日は丸のサンマが無かったのでさばいてあるやつを焼いてもらった。サンマは焼くのが一番だ。

 

肝が無いのは残念だが、握り用だから小骨はいっさい無い。赤ちゃんかお爺さん向けみたいな食べ方だが、見方を変えれば贅沢な一品である。お寿司屋さんならではの焼サンマの楽しみ方だろう。

 

この日はこれ以外に毛ガニを少しもらい、カツオを刺身で味わい、コハダとガリ、たくあんを細かく刻んでもらって酒のツマミにした。

 



 

というわけで、相変わらず握りは少ししか食べられなかった。毎度のことだが、寿司好きとは言えないパターンに陥ってしまった。

 

旬を楽しむ小粋な男のような書きぶりだ。でも、早めの時間にそんなヌルい食べ方で終わってしまうと遅い時間に小腹が空く。

 

こうなると、小粋なつもりどころか最低最悪のヤボな時間が待っている。カップ焼きそばである。

 

なぜ私はカップ焼きそばを自宅にストックしてしまうのだろう。買わなきゃ食べずに済むのにいつだってウチに常備してある。

 

ペヤングがあるとついつい食べちゃうから、ペヤングは買わないと心に決めて実行しているのに、見慣れぬ他のカップ麺を見ると反射的に買ってしまう。



 


カップ焼きそばのアノ毒々しい見た目、毒々しい香り、毒々しい味わい、どこをとっても悪魔的な魅力に満ちあふれている。

 

土瓶蒸しをランジェリーパブに例えるならば、カップ焼きそばはいったい何なんだろう。

 

峰不二子みたいな愛人だろうか。いや、それはそれで飽きちゃうこともあるだろう。数十年連れ添った奥さんだろうか。いや、それもまた意味合いが違う。

 

時々思い出す初恋の人かもしれない。記憶の中で美化され続けて、飽きるどころか、時折無性に恋しくなる。

 

私にとってカップ焼きそばは初恋の味である。

 

意味不明な結論になってしまった。

2020年9月18日金曜日

愛煙家の嘆き

久しぶりに二日酔いになった。今年初である。二日酔いはシンドイが、何だか妙に嬉しくもあった。かつての日常が甦った感じとでも言おうか。

 

一歩間違えばゲロッピーなのに、久々の“日常”に満足してニタニタしながら眠りに落ちた。

 

コロナとともに飲酒量が減り、だいぶ酒が弱くなったのだが、こんなことを繰り返すうちに復活するのだろう。

 



 

さて、日常といえば大きく変わったのがタバコをめぐる環境だ。私の喫煙歴は40年近くになる。何年かはやめていた時期はあるものの、いまだにスパスパする。

 

職場では匂いの出ないプルームテックで凌いでいるが、ほぼ毎日午後に一度は近くのプロントの喫煙席に陣取る。

 

百害あって一利無し。そういう人は多いが、私にとっては百害あっても七十利ぐらいはある。

 

本当に美味しいと思って吸っているのか何度も冷静に確認したが、素直に美味しい。マズいのは二日酔いの時ぐらいだ。

 

マズければ簡単にやめるだろうから、毎日重度の二日酔いになれば禁煙達成だろう。でもその前に肝硬変で死んじゃう。

 

美味しさだけでなく、やすらぎ、憩い、ホッコリ気分といった要素もある。今後も人様に迷惑をかけない範囲で楽しむつもりだ。

 

それにしても世の中の嫌煙ファッショはヒドいものだと思う。昭和の頃を思えば手のひら返しと言っていい。半沢直樹もビックリである。

 

誰もがどこでもスパスパしていたあの頃と現在とで肺ガンなどのタバコ関連死が増えているならともかく、そんな話は聞いたことがない。

 

まるで社会悪みたいに扱われている。困ったものだ。気付けば世界の中でも日本の喫煙環境は劇的に変化した。ヨソの先進国では屋外では結構自由にタバコを吸えるが、日本では屋外がやたらと厳しい。

 

4月からの法令改正で、飲食店は原則みんな禁煙になった。中でもダメ、外でもダメだから不便で仕方ない。

 

もっとも、蛇の道は蛇で、いまだに愛煙家に優しい飲食店も意外に多い。私も喫煙可能な料理屋、寿司屋、焼鳥屋などをいくつかリストアップしている。いまや秘密結社みたいな感じだが、私にとっては精神安定剤のような存在だ。

 

10月からタバコがまた値上がりする。もはや1500円超えは当たり前になった。私が高校生の頃は1150円~180円が普通だったから、3倍の水準だ。


この3~40年でタバコの値段は3倍に跳ね上がったわけだが、もりソバやタクシー料金、牛丼の値段などはたいして変わっていない。


タバコだけが驚異的な値上がり率だ。ほぼ税金なのに大量に買っても誰からも感謝されない。むしろ蛇蝎の如く嫌われる。

 

ヤケクソ気味に書いてしまうが、とっとと13千円ぐらいにしやがれとも思う。そうなれば「ウワ~、タバコをお吸いになるんですね。リッチマンなんですね。ステキ!!」とでも言われる時代になるのではないか。

 

筒井康隆の短編に「最後の喫煙者」という名作がある。30年以上前の作品だが、着実にその世界が現実になりそうである。

 

内容は地球上で最後の喫煙者になった男が嫌煙運動との戦いを振り返るもので、確か最後は軍隊に攻撃されて剥製にされちゃう話である。

 

現代の魔女狩りとも言える嫌煙ファッショがエスカレートしていく風刺の効いた作品だ。愛煙家にはゼヒ読んで欲しい。

 

なんだか、昨今のマスク警察やら自粛警察みたいな風潮も似たようなものを感じる。少数派を排斥するヒステリックな運動がまるで正義かのように勘違いされているのはオゾましい。

 



 

先日、所用で新橋に出向いたのだが、この画像のような素晴らしい喫茶店を見つけた。3階建ての店だが、全館喫煙可能だ。

 

当然ながら繁盛していた。本気でこの店の経営者に賛辞を贈りたくなった。駅に近い一等地だ。さすがオジサンの聖地・新橋である。

 

ほんの10分、20分でも、こんなオアシスで一息入れることで諸々気持ちが切り替わってリフレッシュできるのだから有難い。

 

「全面喫煙」。アマノジャクというか、単に世の中への逆張り戦略ではあるが、都内中心部では確実に需要はある。

 

コロナのせいで社会の在り方が大きく変わってきているが、ドサクサ紛れに「全席喫煙」という潮流が一部でいいから根付いてほしいものだ。

 

今日は純粋に愛煙家の愚痴だ。中身のない話に終始してしまった。しょうがないからプロントで一服してこよう。

2020年9月16日水曜日

死者の数を比べてみる

日本でインフルエンザに感染する人は毎年1千万人前後だ。死者数は3千人ほど。関連死を含めると1万人ぐらいが亡くなっている。

 

新型コロナはこれまでの約8ヶ月で感染者が7万数千人、死者は約1500人という水準だ。

 

ちなみに8月までの3ヶ月間に小中高生で新型コロナに感染したのが1200人弱、半数が無症状で重症者はゼロだったそうだ。

 

感染対策が功を奏したのは確かだが、上の数字を冷静に見比べると、今年初めの“パニック”は何だったんだという気持ちにもなる。

 

もちろん、未知のウイルスだから必要以上に恐れ、神経質になることは必要だ。でも当初言われていたような事態になっていないのは確かだ。

 

もちろん、これから寒くなる季節を迎えるから油断は禁物だが、数字が雄弁であるのも見逃せない事実である。

 

今現在、多くの人の意識や行動様式は「42万人死亡説」が飛び交った今年春の段階とさほど変わっていない。見えない敵が相手だから仕方ない話だが、あの頃と事情は変わってきている。

 

外食は危険、電車は危ない、飲み会は禁止、学校も職場もリモートが当然みたいな風潮は、今年春ぐらいの世情の中で根付いた。

 

毎年インフルエンザでの死者が3千人、関連死を入れれば1万人、交通事故での死者数は4千人(平成の前半は毎年1万人前後)、入浴中に亡くなる人は2万人。

 

そうした数字を見れば、コロナの死者数は少ない水準だ。これをもって生活や行動様式を極端に変える必要があるのかは今一度検証すべきだろう。

 

「薬やワクチンが無いから」。新型コロナに関してはその一点が過剰反応の大きな理由である。

 

もっともだとも思えるが、逆に言えば、薬もワクチンも無いのに感染者数、死者数ともに当初言われたような水準には程遠いわけだ。

 

もちろん、国や自治体は最悪のケースを想定して慎重姿勢で臨む。それを闇雲に責めることは出来ないが、今のまま漫然と自粛の延長みたいな風潮が続けば社会活動はどんどん停滞する。

 

誰もが実感していると思うが、いま世の中を覆っているのはダラけたムードだ。リモート、在宅といったスタイルがもたらした副産物だろう。資源の無い国でダラけた状態が続けば経済は死んでしまう。

 

いまは中途半端な助成金や給付金でギリギリ凌げているケースもあるが、それだってインチキは物凄い数で横行しているし、国や自治体の財布も無尽蔵ではない。

 

とはいえ、全面解禁、元通りで動きましょうと言えないわけだから、私がアーだコーだ書いても始まらない。でも、無節操に何でもかんでも漫然とコロナのせいにしてダラダラしていると社会経済は修復不能のレベルに陥る。

 

今は街の人出も減ったままだ。飲食店やデパート、対面販売の世界で混雑を見かけることは激減した。

 

一説によると人口減少が始まっているこの国の来たるべき近未来の予行演習という見方もあるらしい。

 

確かに20年、30年、はたまた50年後を考えれば人口はドッと減って、高齢者だらけになり、都会のど真ん中ですら今の地方都市のシャッター商店街みたいに淋しい光景に変わっていくことは確かだろう。

 

コロナ禍の今の都市の姿がそんな将来像を物語っているという指摘だが、みすみすそんな悲観的なスタイルを先取りするのもシャクである。

 

最低限の予防に努めながら以前の行動に少しずつ近づける意識を持つこと。当たり前のことだが、ダラけずにこの感覚を維持することを怠ってはいけないと思う。思考停止が一番マズい。