2022年12月28日水曜日

年末のドタバタ


先日また胃カメラを飲んできた。人生初の「3ヶ月後の再検査」である。これまでは別に問題がなければ1年後、ちょっと怪しいと半年後に再検査を指示されたが、3ヶ月後を指定されたからちょっぴりビビっている。

 

結果は年明けだからまだ問題はないが、久々に“病人気分”で胃カメラを飲んだ。とはいえ、このブログで何度も書いているように私はこの強力鎮静剤で落としてもらう内視鏡検査が大好きである。今回も不安よりワクワク気分で出かけた。

 

いつもは尻からの内視鏡検査もセットで行う。お尻カメラもやる場合はクリニックに向かう4時間前から2リットルの下剤を飲むハメになるのがツラいのだが、この日は胃カメラだけ。朝飯を抜くだけでノーストレスである。

 

そしてクリニックにて待ち時間もナシにすぐに検査開始。相変わらず強力鎮静剤の注射が効き始める頃の快感を全身で味わう。ちょっとクラっとしてきて天井がグルグルするような感じになると必死に落ちないように抵抗してみるのが楽しい。ものの数十秒後には必ず気を失うのだが、その手前でムダに頑張って耐えてみるのが妙に身持ち良い。

 

変態である。

 

今回、胃の中の問題の箇所を探すのに少し手間取ったとかで途中でボンヤリ覚醒してしまったのは残念だった。苦しいとかツラい感覚は無かったのだが「チェッ!起きちまったじゃないか」という無念ともいえる感覚が強かった。

 

一応その後はまたストンと落ちたのだが、いつもは看護師さんに起こされるまで熟睡するのに今回は自ら起きてしまいぐっすり眠れた感覚が足りなかった。ちょっと欲求不満だ。それでも全身が弛緩したせいでいつものように肩凝りも取れていた。

 



空腹状態での検査が終わった後はドカ食いが楽しみである。洋食気分だったのでクリニックから歩いて行ける銀座の老舗・煉瓦亭に出かけた。ところが昼時のせいでまさかの行列。

 

食事のために列に並ぶことが絶対に出来ない私である。洋食気分は変えられないので近くの「グリルスイス」に向かう。移転して間もないグリルスイスは小洒落た空間に変わっていて悪くない。以前の食堂っぽい感じから小粋なレストランっぽい雰囲気になっていた。

 




タルタル気分だったのでエビフライを頼む。大ぶりの海老が3本だ。食べ応えがあって嬉しい。他にこの店独特のシチューのようなハヤシライスにオムレツをトッピングしてもらった。5年前ならもう一品は頼むところだが最近はこの程度で満足してしまう。淋しい限り。

 

バクバクと食べて自分が病人予備軍だということを忘れることが出来たのだが、数日後に顔が腫れる事態が発生して難儀した。人生初体験である。さすがに師走だ。どうもすんなりとはいかない。

 

だいぶ昔に銀のかぶせものをした治療済の歯の根っこに細菌が溜まって炎症を起こしたのが真相。もちろん後日歯科医に診断されて知ったことだが、いきなり歯茎の上の方が痛くなりアッという間に頬の裏側や鼻の横の内側が腫れだして痛くなってしまった。ヒゲを剃るにも困ったほど。

 

外見上も片方だけ膨らんでしまい仕方なく歯医者さんに行ったのだが、原因は分かったものの「膿を切開して出す」と妙に怖いことを言われた。それを聞いただけで冷や汗が出たのだが、その日は「まだ膿を出す段階ではない」などと言われてしまった。

 



結局その日はヒーヒー騒いでいるのに痛み止めをもらった程度で帰されてしまい翌日また出かけるハメに。面白いもので一日経ったら頬の裏側の腫れが少し下がってきたみたいで前日までと比べると歯茎がかなり膨らんでいた。

 

しっかり膨らんでいる箇所がないと切開し甲斐がないらしく、この日の状態を見てようやく切開処置をしてくれた。ただでさえ痛いのに歯茎を切って膿を出すわけだから小心者の私は気絶寸前の気分だったが無難に終了。一気にラクになっていった。

 

実はこの日、時を同じくして母親が開胸手術をしている時間だったので、そっちの深刻さや大変さを想像して何とか騒がず泣かずにジっとしていられた。

 

母親は肺に水が溜まって厄介な状態だったので手術に至ったのだが、そこに至るまでの体調不良やら入院騒ぎでこのところちょっとドタバタしていた。どうやらデリケートな私?はそっちの心配やストレスのせいで歯の根っこが暴れたのだと思う。

 

何ともだらしない話だが、男という生き物は弱いものだと再認識した。いずれにせよ普段はたいした用事もなく日々を過ごしているのに師走になった途端にこんなことが重なるわけだから不思議なものである。

 

自分の体調も母親の件も年末年始に絡まなかったことはラッキーだったといえる。母親の入院は年を越しそうだから今年の年末年始は実家に行くこともなくイベント感とは無縁で終わりそうだ。コロナのせいで病院の面会が出来ないという状態は身内に入院患者がいる人には物凄い問題だという現実を改めて痛感した。

 

というわけで、年末年始の休みはしみじみと自分の人生観なんかを今一度じっくり考える時間にしようかなどと珍しく殊勝なことを考えている。

 

娘も母親(私の元嫁)宅に泊まりに行くみたいだし、一人で除夜の鐘を聞きながら沈思黙考するのも悪くない。

 

とかいいながら、きっとエロ動画をフルボリュームで鑑賞しながら鼻くそをホジくっている自分の姿が頭に浮かぶ。そっちの確率が97%ぐらいだと思う。それも現実である。やはり生きている限り煩悩とは友達みたいだ。

 

 

★今年の更新は今日でオシマイです。来年は12週目から再開します。皆様にとって実り多い年が訪れるように祈っています!

 

 

 

 

 

2022年12月26日月曜日

即席麺の郷愁


即席麺。この言葉を見るとヨダレが出る。カップ麺ともインスタント麺とも違う。「即席麺」である。言葉の定義は知らない。漠然とカップ麺ではなく袋麺をイメージする。

 

カップ麺と袋麺はナゼか微妙に違う。気のせいだろうか。真剣に考える話ではないかもしれないが、私にとってはウン十年にわたる謎である。

 

個人的には袋麺のほうが美味しく感じる。お湯を入れるだけのカップ麺より面倒だからそう思うのかもしれない。とくにサッポロ一番は無敵だと思う。

 

マルちゃん正麺みたいな本格派が台頭しているが、袋麺はサッポロ一番やチャルメラみたいなゲジゲジみたいな麺じゃないと気分が出ない。

 

即席麺というジャンルに普通のチルド麺のようななめらかさは場違いな気がする。あくまで個人的な意見です。ごめんなさい。

 

その昔、「マダムヤン」という高級袋麺が登場した時に麺がちゃんとしていて驚いたのだがビミョーな違和感もあった。「袋麺なのにちゃんとしている」ことが何とも落ち着かない気分にさせた。

 

今も時々無性にサッポロ一番が食べたくなる。あらかじめ丼に水を100㏄ぐらい入れておき、麺は鍋の中でほぐれ始めたら大半のお湯を捨てて粉スープを混ぜたら一気に丼に移す。そうすれば熱すぎることもなく余熱で麺が柔らかくなることもなく、あのボソボソとした駄菓子みたいな麺を堪能出来る。私流の作り方だ。

 

即席麺のあのゲジゲジ麺の食感は他の何物とも違う独自の味わいと郷愁?がある。ジャンクフード界の世界遺産的な尊さがあると思う。

 

先日、そんな即席麺のアレンジ版を自宅近くのタイ料理屋で発見した。八丁堀にある「バンコクポニー食堂」というカジュアルなお店だ。屋台料理の延長みたいな気軽なメニューが豊富な地元の人気店である。

 

「タイのインスタント麺炒め」なる料理をメニューに見つけたので間違いなくウマいはずだと注文してみた。東南アジアでは外食メニューに即席麺を使った料理が出てくることが珍しくない。日本では見かけない光景だろう。

 



一口食べてみた感想は「やたらとウマい」である。衝撃的なウマさと言っても大袈裟ではなかった。シンプルな味付けなのだが即席麺の良さが完璧に引き出されている。味の説明が上手に出来ないのが心苦しいが、ほんのり甘みもあって万人受けする味に仕上がっていた。やみつきなりそうだ。

 

タイ料理の定番のヤムウンセン(春雨サラダ)をツマミにビールをグビグビ飲みながらこんな即席麺炒めが出てきたらビールがいくらあっても足りない。ツマミでも美味しいしシメの料理としてもイケる感じだった。

 

即席麺の世界でいま若者に人気なのが「プルダックポックンミョン」である。何だかヘンテコな呪文みたいな名前だが、ラーメンだか焼きそばだか分からない不思議な和え麺である。

 


 

韓国人気もあって若者がこぞって食べている。私には無縁なはずだが一緒に暮らす娘がハマっているせいで我が家にはいくつも常備されている。

 

端的にいってやたらと辛い即席麺である。いろんな種類があるのだがどれも辛い。分別ある?大人が食べるシロモノではなさそうだが、麺が独特で麺だけで評価するならかなり美味しい。

 

即席麺になめらかさは不要だと書いたが、プルダックポックンミョンの麺のなめらかさは、マルちゃん正麺やラ王みたいななめらかさとは違った印象。例えるならタリアテッレやタリオリーニと呼ばれる平打ち麺のパスタみたいな感じ。

 



 私が味見したのはカルボ味というラインナップの中ではマイルドなものだったのだが、普通の大人には辛くて無理だと思う。なぜ若者達はあんなにヤケクソみたいな辛さの麺を喜んで食べるのか不思議で仕方がない。

 

数年前に「蒙古タンメン中本」のカップ麺がバカみたいに辛かったから大人向けに改造した話を書いた(https://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/03/blog-post_27.html)が、プルダックポックンミョンも辛さのないマトモな味の新製品を出したら私は喜んで買うと思う。

 

麺は魅力的だったから付属のスープは捨てて別の味で食べるなら中高年にもオススメだ。私もあの麺をいったん水でシメて冷やし中華のタレをかけて食べたいと思っている。でも我が家にあるストックは娘が後生大事にキープしているのでなかなか実現できていない。

 

即席麺の世界も日々進化しているようで、サッポロ一番一辺倒の私には驚くような商品がたくさんあるみたいだ。いろいろ試してみたい衝動もあるのだが、私はサッポロ一番ですら後発組の「ごま味」や「塩とんこつ味」を食べたことがない。

 

まずはサッポロ一番のシリーズ全制覇から始めることにしたい。来年の新たな目標として頑張ろうと思う。頑張るほどの話ではない…。

 

 

 

 

 

 

 

2022年12月23日金曜日

テレビとロス



クリスマスである。だからどうしたコノヤローなどとは言わない。いや、ホントは言いたい。何だかゾワゾワする日である。

 

幼稚園から高校までカトリックの学校に通ったくせに私はクリスマスが苦手だ。若い頃はちゃんとそれっぽいデートなんかもしたが、いっぱしの大人になってからは苦手になった。

 

このブログでもこの季節はキリスト様の誕生日で騒ぐよりも赤穂浪士の討ち入り「忠臣蔵」で盛り上がるべきだと何度も書いてきた。いまだそんな主張が国民運動になる気配がないのが哀しい。

 

私が「忠臣蔵」のファンになったのは小学生の頃に観たNHKの大河ドラマ「元禄太平記」がきっかけである。1975年の放送である。大石内蔵助役の江守徹が実に渋かった。

 



いたいけな少年のその後の趣味嗜好に影響を与えたのが大河ドラマだったわけである。今年の「鎌倉殿の13人」を観て歴史好きになった少年も多いのだろう。

 

「鎌倉殿の13人」はまれに見る傑作だったと思う。終わってしまった“ロス状態”がツラい。前半の中心だった大泉洋演じる源頼朝や菅田将暉演じる源義経が死んじゃった後は歴史上の有名人も少ないから退屈な話になるだろうと思っていたが、予想に反して後半の面白さは前半を凌ぐほどだった。

 

最終盤の展開も凄かった。超重要事件である承久の乱などほぼナレーション説明程度で流しちゃって主役は完全に「北条政子」だった。政子役の小池栄子が素晴らしかった。グラビアアイドルとして世に出て胸をブルブルさせていたのも今や昔、もはや大女優の貫禄である。

 

あれだけ抜きん出た面白いドラマを作ってしまったら来年のマツジュン演じる「家康」はキツいだろうなあ~などと余計な心配をしてしまう。

 

今日はこのままドラマの話を書き続ける。“ロス”といえばフジテレビのドラマ「サイレント」も終わってしまって悲しい。素直に素晴らしい作品だったと思う。最終回はちょっとビミョーではあったが……。

 

気付けば私も“めめ”こと目黒蓮のファンになってしまった。手話だけで言葉を発しない役だからこそ感情表現の巧みさ、切なさが印象的だった。将来はキムタクみたいな位置付けのスターになってもおかしくない逸材だと感じた。

 



「鎌倉殿の13人」と「サイレント」が終わってしまったクリスマスなんてちっとも楽しくない。基本的にはこの2つしか定期的に観ていなかったから残念で仕方がない。

 

残るは朝ドラ「舞い上がれ」だけである。前作の「ちむどんどん」があんまりだったから「舞い上がれ」は最初から期待して観ている。とはいえ、朝からドラマを観るほど余裕がないからNHKオンデマンドで2週間分ぐらいをまとめて観る。

 

“めめ”こと目黒蓮が主人公の恋人役である。「サイレント」を観た後で「舞い上がれ」を観ると、めめが普通にしゃべっていることに感動する。よく分からないが「良かったな」とつぶやいてしまう。

 

先日、3週間分を一気に観た。小憎らしかっためめが徐々に爽やかな好青年に変化して主人公に告白した。年甲斐もなくキュンキュンしてしまい、とっくに寝ていた娘の寝室に行って報告をしたほどである。

 

主人公の福原遥は10年以上前にEテレの子供向け料理番組をやっていた。まだ小学生ぐらいだった。まだ小さかった娘が観ていたので覚えている。「マインちゃん」という名前で頑張って料理っぽいことをしていたコがいまや朝ドラの主役でめめの恋人である。

 

父親的目線で必死に応援してしまう私だ。長年に渡って何の気なしにテレビを観ていると楽しみ方が変わってくることを今更実感している。まあそれだけ歳をとったということでもある。

 

私に残された楽しみである「舞い上がれ」は時節柄、大晦日の紅白では特別コーナーが設けられるはずだ。今から楽しみである。ダウンタウンの「笑ってはいけない」が放送されなくなってから大晦日の楽しみは紅白ぐらいになってしまった。これまた典型的な「年寄り型の過ごし方」である。

 

ということで、クリスマスが過ぎればいよいよ今年も大詰めである。テレビドラマをあーだこーだと語っていられる年の瀬を迎えられた自分の平和っぷりがちょっと嬉しい。

 

 

 

2022年12月21日水曜日

銀座の夜のクラブ活動



 以前ほどではないが夜のクラブ活動に励むようになった。11月末の我がオジサマバンドライブには銀座から夜の蝶や黒服さん達が結構来てくれてバンバン盛り上げてくれたから御礼参りも兼ねてふらふらと顔を出す機会が増えた。

 

我がバンドのチケット代は3500円だ。どう考えても割に合わない.。でも世の中そう割り切れるものではない…。それがイキってものである…。痩せ我慢こそ大人の男の美徳である。

 

コロナで閑古鳥だったのが懐かしいことのように現在の繁盛店は昔と同じように活気に満ちている。それでこそ銀座である。銀座で飲むということはプラスのエネルギーの中に身を置くことが主眼である。

 

発光体のように自らエネルギーを弾けさせていた若者時代とは違って中高年になるとどうしても“衰弱”してくる。意識してエネルギーを補充しないと枯れそうになる。そういう意味では夜のクラブ活動は一種の健康増進効果がある。

 



今では換気に力を入れるお店ばかりだし、そもそも普通の飲食店ではマスクもしないで大騒ぎしているわけだから銀座のクラブだろうと新橋の炉端焼き屋だろうとリスクは同じだろう。

 

10年近く前ならばアフターにも繰り出す元気があったが今はちょこっと1軒か2軒顔を出してさっさと帰るようになった。加齢だけでなく夜遅くに外にいる習慣が無くなったせいだと思う。

 

不思議なもので豊島区や文京区に暮らしている時のほうが深夜の銀座をうろついていた。中央区民になって銀座がご近所になった途端に足繁く通うことが無くなった。いつでも行ける感覚がそうさせるのだろう。

 



有難いことにこの画像のような特製ボトルを用意してくれている店もある。もっと通わないといけない気持ちはあるのだが、モチベーションが上がらないから腰が重い。カワイコちゃんが気のある素振りでも見せてくれればいいのだが、最近はそういうのを真に受ける純情さが欠けているから問題である。

 

あの世界で女性目当てでハッスルするにはしっかりとバカになる必要がある。「ひょっとするとオレに気があるんじゃないか」「あの目付きはオレに惚れてるな」等々、男らしいバカさを丸出しにしてこそ楽しめるものである。

 

私もそんなバカな場面は何度も経験した。それはそれで楽しい時間だった。いかんいかん懐古趣味になっている。今からでもそんな錯覚に陥るように自らを律して?頑張らないとなるまい。

 


 

この画像は魅力的な胸元を眺めてアホ丸出しの私である。顔の一部しか載せていないが元画像の私の顔は実に幸せそうだ。ある意味イキイキしている。渋い顔を作って気取っているよりよっぽどエネルギーに満ちている。

 

一昔前には夜の街を舞台に色っぽい“事故”もちょこちょこあったのに今のように達観した顔でオールドパーを舐めているだけでは老け込んでしまう。改めて頑張ろうと思う。

 

「言い訳コロナ」によっていろんなことが億劫になった人は多い。コロナ禍を理由にしたサボりは大袈裟に言えばこの国から活力を奪っている。個々の人々にとっても同じだ。コロナだから人に会わない。コロナだから出かけない等々、そんな話は回り回って自分の首を絞めるだけだと思う。

 

私自身、オジサマバンド活動の集客のため?に半ば渋々夜の銀座に出かけ、ライブの御礼参りにまた顔を出すようなことを繰り返しているわけだが、それが無かったらまったく行かなくなったかもしれない。

 

行けば行ったでキチンとバカ話に花を咲かせて楽しく過ごす。何となくプラスの「気」を吸収したような気分になる。現役感を実感できるし更なる奮闘を決意したくもなる。ちょっと大袈裟か。

 


 

この画像の私もキリっとカッコつけた表情をしている。こういう場面じゃなければフヌけてボーっとした顔で過ごしているからこれはこれで「男を頑張る時間」なんだと思う。

 

先日、新橋駅で出勤前の馴染みの黒服さんにバッタリ出くわした。34年前は一緒に店以外でも飲み明かしたこともある。お互いの誕生日プレゼントを交換したこともある。なのに名前が思い出せなくてアセった。まだ爺さんと呼ばれる歳でもないのに問題である。

 

1年の終わりになるともろもろ反省ばかりが頭に浮かび新しい年はこうしようああしようと思いがちだ。その観点でいえば来年はもっと現役感を実感する場面に身を置こうと思う。「言い訳コロナ」からの完全脱却を抱負にしよう。

 

 

 

 

 


2022年12月19日月曜日

ソーキをぶりぶり


若い頃は苦手にしていたのに中年になってから好きになったものが結構ある。極端なケースではトンカツに添えられているキャベツだ。昔はいっさい手をつけなかった。いまは箸休めにヤツの存在は欠かせない。お代わりしちゃうこともある。

 

薬味も似たような感じだ。蕎麦屋に行っても若い頃は申しわけ程度にちょこっと入れるだけだったが今ではドバドバ入れたい。若造当時は人目が無ければ薬味を一切入れずに蕎麦を味わっていた。ヤボだったと思う。

 

ペヤングを始めとするカップ焼きそばのかやくですら開封せずに捨てていた。まったく具の無い焼きそばを頬ばるのが幸せだったのだが、今ではカップ焼きそば用の乾燥キャベツだけをAmazonでわざわざ買ってしまうほどあの“謎キャベツ”が好物になった。

 



 好き嫌いを克服したというより味覚の好みが変わったのだろう。その証拠にハンバーグやステーキに必ず付属してくるニンジンは絶対に食べない。「これは頼んでませんよ」といつかお店の人に言ってしまいそうなぐらい苦手だ。

 

鍋にエラそうに入っている春菊は一瞬で鍋から退場させるし、カツ丼の上に当然のように居座っているグリーンピースも瞬時にどかす。お子ちゃま的な味覚は今も変わらない。

 

先日、沖縄そばが無性に食べたくなって有楽町の交通会館地下にある専門店に出向いた。店の名前はいつも忘れる。正確にはソーキそばが食べたくなったというのが正しい表現だ。

 


 

沖縄そばを初めて食べたのは大学生の頃だった。40年近く前のことだ。沖縄の食べ物を東京で手軽に食べるような時代ではなかったから初体験の衝撃は今もしっかり覚えている。正直言って美味しいとは思わなかった。

 

「何じゃコレ?」。それが感想だった。そばだと聞いたから日本蕎麦のイメージで向き合ったのだが、うどんだかきしめんだか分からない謎の麺が出てきて驚いた。おまけに味があるのかどうだか分からないようなアッサリしたスープ。ついでに言えば、そばなのに紅ショウガは載っているし骨付き豚肉が乗っかっている。衝撃だった。

 

豚アバラ肉の煮込みであるソーキは1個だけだったから肉食の若者としてはそれのみに満足して他はまったく気に入らなかった。当時は牛丼にも紅ショウガをトッピングしない“お子ちゃま舌”だったから悪印象しかなかった。

 

その後、潜水旅行で数え切れないほど沖縄に行き、なかば渋々と沖縄そばを食べていたが、ソーキがたくさん載ったソーキそばが好きになり気付けば中毒みたいにソーキ、ソーキと寝言でも叫ぶようになった。ウソです。

 

というわけで、若い頃にウマいと思わなかったのに後になって大好物になった食べ物の代表が沖縄そばでありソーキそばだ。

 

唐辛子の泡盛漬けである「コーレーグース」をぶりぶり投入してスープがまるで飲めなくなるぐらい辛くするのも悪くない。ソーキをてんこ盛りにすればスープを飲まずとも満腹になるからそんなヘンテコな食べ方もするようになった。

 

気付けば紅ショウガも好きなって初体験の時にネガティブな衝撃だった部分がすべて魅力に思えるようになった。数年前に潜水せずにただ沖縄にボーッと一人旅に出た際も23日でソーキそばを6回も食べたりもした。

 



この日訪ねた沖縄そば専門店はカウンター中心でどこぞのイートインみたいな手軽な店だが、味のほうはかなり本格的で気に入っている。ソーキの味付けもなかなかだ。

 

ソーキそばに別盛りで単品ソーキを注文してそばの上に追加で載せると得も言われぬ美しい姿になる。「ソーキぶりぶりそば」の完成である。ラーメンを食べる時もチャーシューをぶりぶり乗せたい私にとっては眺めているだけで目の保養になる。

 

それにしても沖縄そばの麺を「そば」と表現することへの違和感はいまだに消えない。とはいえ、沖縄きしめん、沖縄細うどんって呼ぶのも違う。いっそ「沖縄麺、ソーキ麺」でいいような気がする。

 

そんなどうでもいいことを真剣に考えながらソーキそばを一心不乱に食べている時間が好きだ。折を見てまた食べに行こうと思っている。次は別皿ソーキを2つ追加して「クレイジーソーキそば」としてムホムホと頬ばりたい。

 

 

 

 

 

 

 

2022年12月16日金曜日

熱燗ちょうだい


冬の醍醐味といえば熱燗だ。熱々にしてもらった燗酒をクイっとやる瞬間の喜びはこの季節ならではである。あまり美味しくない日本酒でも熱々の燗酒にすればそれなりにイケる。

 

好みに合わない冷酒や開栓して時間が経ち過ぎた冷酒を飲まされるなら熱燗が無難である。銘柄のウンチクなんかも聞かされずに済むのが良い。ズラっと銘酒を揃えている店だろうと「熱々の燗酒ちゃうだい」の一言で黙って熱燗専用の無難な酒が出てくる。

 



熱燗のウマい季節にはそれに合う肴が揃っているのも嬉しい。塩辛いモノなら何でも合うのだが、やはり冬ならでの珍味を並べるのが季節感として正しい。

 

焼いた白子あたりを突っつきながらチュルチュルと燗酒をすする。オジサマにとってパラダイスだ。若い頃からこういう取り合わせは好きだったが、やはり人生の厄介事をくぐり抜けてきた中高年になってからのほうが染みる。人生劇場も酒を飲む際のスパイスみたいなものかもしれない。

 



香箱ガニ、セイコガニ等々、いろんな呼ばれ方があるズワイのメスも初冬ならではの逸品だ。内子外子のねっとり感がウリだ。ご飯のおかずというより酒の肴として活躍する存在だろう。


北陸のほうでは開高健が好んだことで知られるその名も開高丼が人気だ。ドンブリ飯の上にセイコガニの中身を7杯だか8杯分ほど盛り付けるらしい。おかずとして大活躍しているわけだが、私にとってはセイコガニはやはり酒の肴だ。ご飯の友というイメージは無い。

 

「身が無いから嫌い」と言う野暮なオジサンもいるがもともとそういうカニではない。いわゆるカニの身肉を楽しむなら他のカニを食べた方がマシだ。昔は安価だったが最近は名称にこだわるようなイメージ戦略のおかげで妙に高くなったのが残念である。

 

上の画像、香箱ガニの隣にはスジコ、手前は甘海老の昆布締めだ。新富町の穴場的お寿司屋さん「なか山」での一コマだ。こんな組み合わせで燗酒を飲んでいたらありとあらゆる悩み事さえ瞬間的には忘れることが出来る。うっとりする時間だ。

 

東京ではイクラは塩漬けが定番だったが、今は醤油漬けが主流になった。醤油漬けも大好きだが、塩イクラが絶滅危惧種みたいに珍しくなってしまうと昔ながらのそっちの味も恋しくなる。味覚の欲求はつくづくワガママだと思う。

 

スジコだと塩漬けがまだまだ定番のようだ。塩味のほうが酒の肴にはより魅力を発揮すると思う。箸で頑張ってほぐした断片を口に放り込んで燗酒に後を追わせる。こんな作業も楽しい。

 

イクラを小さいスプーンで食べるのもラクチンだが、スジコのあの簡単にはいかない厄介なところが愛おしかったりする。個人的な感覚です。スイマセン。

 



冬の定番と言えばアンキモである。あのネットリした食感と独特の旨味とコクは酒の肴業界の英雄的存在だ。安酒場だとネットリ感がまるで無いハムみたいな変なのが出てくることがある。真っ当な店で頼むのが大事だ。

 

白子にしてもアンキモやスジコ、他にも冬の定番・カラスミあたりは揃いも揃って成人病的視点から見ると避けるべき食べ物である。ここがツラいところだが毎日毎日食べるわけじゃないなら気にし過ぎるのもシャバダバである。

 

私も「たまにだから」と自分に言い聞かせて食べるようにしている。問題は「たま」の間隔、頻度だろう。月に一度なら本当に「たま」だ。週に一度だとちょっと怪しい。私の場合は「中3日」ぐらいを「たま」だと考えている。毎日食べなければ大丈夫なのに中3日も間隔が開けばたぶん問題は無いはずだ。たぶん。

 

牡蠣も冬の味覚だ。疲れ気味の時や無理してオネエサンがたとの“試合”が立て込んだりすると無性に牡蠣が食べたくなる。鰻より牡蠣のほうが元気回復に効き目があるように思う。実際のところは不明だ。

 

牡蠣グラタンや牡蠣パスタなど外食で牡蠣料理を頼むとちょこっとしか牡蠣が入っていないことが多い。あのシミったれた感じがイヤで牡蠣は主に自宅で摂取している。

 




レトルトをベースに適当にアレンジしたパスタソースを作って茹でたてパスタを和えるだけで贅沢牡蠣パスタが簡単に完成する。パスタ麺100グラムに牡蠣を10個以上入れるのが私の定番だ。

 

ついでにエリンギやアサリなどを加えると多品目摂取という健康課題もこなしたつもりになって気分が良い。エビやタコを加えるのもアリだ。

 

何でもかんでも具材として入れていると一食のパスタの材料費が34千円になることもある。富豪級である。富豪というかバカというのが正しいのかもしれない。


よく分からない結論になってしまった…。





2022年12月14日水曜日

エンガワの握り


エンガワ。寿司ネタの中でも私の大好物である。読んで字のごとく「縁側」である。ヒラメなどが泳ぐ際にヒラヒラ動かしている外側の部位だ。



 

鶏の首肉であるセセリがウマいのと同じく、ヘコヘコ動いている部分は運動量のせいなのか妙に美味しい。

 

お寿司屋さんでエンガワを頼む場合、「エンガワちょうだい」ではなく「エンガワある?」が正しい。端っこの部分だから大量にあるわけがない。だからこそありつけたときに嬉しい。

 

この方程式が通用しないのが回転寿司屋である。常にエンガワが大量にある。いまや若い世代を中心に回転寿司で出てくるエンガワが“正統なエンガワ”になっている。

 

私もあの謎のエンガワは好きだ。子供達と回転寿司に出かけたらコーンマヨとエンガワばかり食べる。ジャンクな味が楽しい。正確には“エンガワモドキ”だが、そんなウンチクを語っても仕方ない。

 


 

詳しくは知らないが深海魚みたいなブヨっとした魚の身がヒラメなどのエンガワの味に似ていたことで一気にブレーク?して今に至る。全身があの味だから大量に常備されるわけだ。だから端っこの部分というわけでもないのに名前だけ端っこを連想させる。

 

ちょっと脂っぽくて旨味に富んだエンガワモドキは炙ってもそれなりに美味しい。“イマドキ寿司”を象徴するようなネタだろう。

 

トロだって江戸時代には捨てられていたし、ウニだって戦後になってから寿司ネタになったそうだから、エンガワモドキもいずれ本家を押しのけて寿司ネタの基本形になるかもしれない。

 

サーモンと同じくいずれ昔ながらの寿司屋のネタに採用されることを虎視眈々と狙っているような気がする。ここまで普及するとウンチクや良し悪しを通り越して需要と供給の関係で存在感が高まり続けるのだろう。

 

その昔、寿司屋でいっぱしの雰囲気を漂わせる客になりたいと一念発起して長年にわたり“客としての修行”に明け暮れた私である。エンガワモドキのこともサーモンのことも「あんなもん寿司ネタじゃないわい」と毛嫌いした時期もあった。

 

客修行も3周ぐらいこなした感じだから今では小うるさいことは気にしなくなった。カジュアルな寿司屋ではサーモンマヨも喜んで食べる。回転ならエンガワざんまいである。

 

「タラバは本来ヤドカリの仲間だからカニじゃないぜ、足の数だって違うよ」。そんなことを通ぶって語ったところで結局は嬉々としてタラバの脚をむさぼるのと同じである。

 

美味しいと感じればモドキだって大いに歓迎すべき。これが結局は真理なんだと思う。邪道だ何だと言い始めたらコンビニのおにぎりコーナーに並ぶ大半の商品がヘンテコな食べ物という扱いになってしまう。

 

ドライカレーおにぎり、オムライスおにぎり等々、おにぎりという概念を吹き飛ばすようなオンパレードである。恐る恐る、かつ、こっそり食べてみると案外ウマくてニンマリしてしまう。王道か邪道か考えてみたところで仕方ない。ウマいものは人を幸せにする。それだけである。

 

 本家のエンガワだってシメたてだと旨味が足りないから時には残念な感じの状態もある。天然モノの鰻が必ずしもウマくないのと同じで、食べ物だから味の良さに100%完璧はない。

 


 

と、モドキのほうをやたらと擁護してしまったが、さすがに本家のエンガワのちゃんとした状態のヤツはすこぶる美味しい。私が好きな寿司ネタの上位には必ずエンガワが登場する。

 

ホシガレイ、マコガレイ、マツカワガレイなどお寿司屋さんによってこだわりもあるようだが、私程度だとどれも同じように美味しい。そこそこのお寿司屋さんが仕入れている以上どれも上質だからエンガワも当然にウマい。

 

ホントは3貫でも4貫でもエンガワの握りばかり食べたいのだが、さすがにそんな暴挙に出る勇気は私には無い。だから延々とそればかり食べられる回転寿司のエンガワに妙に惹かれるのかも知れない。

 

欲求不満になるかどうか。これまた味の感想を大きく左右するポイントなのだろう。