2012年7月27日金曜日

いつかの夏

子どもの頃に比べて都会の夏は蝉の声が少なくなった気がする。

8月も半ばになればミンミン、ジージーと賑やかになるので、少なくなったというよりは、鳴き始める時期が遅くなったのだろうか。

30度を超える猛暑日でも、まだまだ騒々しい蝉の声は聞こえない。うるさい鳴き声が暑さを助長する側面もあるが、やはり夏は、あの音色が無ければ始まらない。

もちろん、7月の今でも、うっそうと木々が茂っているところでは蝉の合唱は聞こえる。記憶違いかもしれないが、子供の頃は夏休みに入る頃には既にセミが賑やかだった覚えがある。


遠い日の思い出は美化されがちなので、「夏休みイコール蝉の声」という方程式が頭の中で固まってしまってそう思うのだろうか。

ミンミンゼミ、ツクツクホウシ、ヒグラシ。とにかくこの3種類が私にとっての「正しい蝉」?である。姿形はどうでもよく、あくまでその泣き声が私の耳を喜ばせてくれる。

あれほど季節感を感じさせる自然界の音は、他には無いのではないか。目を閉じてあの鳴き声をイメージした途端に、一気に灼熱の太陽と水がきらめく情景が浮かぶ。

虫取り網、麦わら帽子、スイカ、かき氷・・・、氷を浮かべてキラキラ輝くガラスの器や、汗を拭い続けて袖だけクシャクシャになったTシャツとか、時間を忘れて遊んでいた夏のイメージには必ず蝉の声があった。

急な夕立に冷やされて匂い立つ緑、蚊取り線香のはかなげな煙や切なげな香り、団扇に運ばれるお香みたいなおばあちゃんの香り・・・、そんな夏の思い出にも、夕暮れに響くヒグラシの音色が付きものだった。

日本人は遙か昔から蝉の姿に「もののあはれ」を重ねてきた。もともと抜け殻を意味する「空蝉」という言葉はその代表だろう。

強烈な日射しや生き物が躍動する季節にもかかわらず、空蝉に哀愁や情緒を見出した先人の感性はとても素敵だと思う。

夏を待つ春にも増して、秋が控える夏にしみじみとした情感を感じ取った大和ごころの風雅さに今更ながらグッと来てしまう。

へばるような暑さの中だからこそ、あえて風流人を目指したいと思う。そうは言いながら、先日も炎天下での風鈴の取り付けが上手くいかずにキレまくってしまった私だ。まだまだ修行が足りない。

ところで、何事かを懐かしく思い返す時、不思議と夏のことばかり思い出すような気がする。私だけだろうか。ボケッと思い出す昔の思い出は不思議と夏にかかわるものばかりだ。

そのどれもが蝉の鳴き声とともに脳裏をよぎる。

大磯ロングビーチに連れて行ってもらってドデカいプールに圧倒されたこととか、親戚に連れて行かれた高原の保養地で可愛い女の子にドキドキしたこととか、中学の野球部の練習で通った深大寺グランドの帰り道で浴びるほど飲んだファンタの美味しさとか、思い出すのは夏の出来事ばかり。

未成年の分際で伊豆高原のペンションとやらに女の子連れで出かけたのも夏だったし、どこぞの富豪令嬢の別荘で大勢で乱痴気騒ぎしたのも夏だった。

いたいけな少年の頃、色気づいていた若造の頃、そして大人になってからも、ふと思い出す印象的な出来事はみんな夏の出来事であり、思い返すたびにその情景と一緒に蝉の音色が聞こえてくる。

ある夏の日、猛暑続きなのに鄙びた温泉に出かけたことがある。思いを寄せていた女性とともに汗をかきかき電車を乗り継いで出かけた。

閑散とした宿だった。通された部屋の庭には半露天の風呂があり、涼しい風が吹き始めた夕暮れにゆったりと身を沈めてみた。

風呂の屋根に何匹もの蝉が陣取っていたようで、近くから迫ってくる蝉時雨に圧倒された。庭の木々にいる蝉の合唱も相まって金属音かと思うほどの強烈な音色に前後左右から包まれ、めまいにも似た感覚に陥った。

異次元に迷い込んだような、幽玄の世界に身を預けたような不思議な時間だった。

蝉時雨には人の心を攪乱する不思議な力が宿っているような気がした。

とても懐かしく大事な思い出だ。

誰にでも強烈な印象をともなう夏の思い出はいくつもあるのだろう。そんな思い出を毎年毎年増やしていければ幸せだ。

今年もいよいよ夏まっ盛り。今年の夏が、将来懐かしく思い出す「いつかの夏」になるように充実した時間を過ごしたい。

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