2013年10月11日金曜日

鶏肉、その悩ましき存在


鶏肉はおいしい。つくづくウマいと思う。牛や豚も頑張っているが、上等な鶏肉のウマさにはウットリする。抱かれてもいい。

前に住んでいた家の近くに小汚いけど、抜群にウマい焼鳥を食べさせる店があった。週に一度は通っていた。白レバの刺身や白レバの炙りポン酢なんかで焼酎をグビグビ飲んでいた。


引っ越してからはすっかり縁遠くなり、もう2年ぐらい行っていない。その後、近所で新規開拓をしてもしっくりくる店は見つからない。焼鳥難民になってしまった。一大事である。

極上の焼き鳥店を自宅近くで見つけたが、全席禁煙という冷酷極まりない店だから、馴染みになるほど行く気になれない。

会社の近辺は池袋だから問題外。銀座あたりにはウマい店はいくつもあるが、あの街に出ちゃうと余計な寄り道しちゃうから、焼鳥で酩酊してそのまま幸せに帰宅するというパターンにならないからダメだ。

何年か前は、都内某所に内緒の隠れ家?みたいな場所があった。そこから歩いて行ける距離の焼鳥屋に頻繁に出かけた。その店も白レバ刺しがレギュラーだったから貴重な止まり木だった。あそこも随分ご無沙汰だ。

個人的な感覚では、焼鳥屋は近所にあってこそ有り難い存在だ。そんな気がする。近場にふらっと出かけてヘロヘロ気分でふらっと帰る。そういう図式が似合う。なんとなくそう思う。

さて、涼しくなってくると鍋が恋しくなる。鶏肉ラバーとしては水炊きは外せない。アチコチで水炊きは味わえるが、私が大好きなのが新宿の外れにある「玄海」という老舗。

料亭とか日本旅館のような大げさな造りで、初めて行く人は身構えそうな雰囲気だ。でも、入ってしまえば気楽に極上の水炊きが味わえる。


トロリと白濁したスープが絶品。先日もこのスープを飲むためだけ?に出かけた。グビグビ何杯でもスープだけを飲み続けるのが私のパターンだ。

スープという液体なのに酒の肴として成立するからアッパレである。

この店の水炊きの特徴は鶏のぶつ切りだけで、野菜はいっさい投入しない点だ。実に清廉潔白な水炊きである。あくまでスープと鶏肉だけで闘っている勇猛果敢さ?が素晴らしいと思う。

「お鍋って野菜もいっぱい食べられてヘルスィ~だね~」とか呑気な感覚でいると、この店の水炊きにはたじろぐはずだ。

白濁スープの中にゴロゴロと骨付きぶつ切り鶏が入っているだけ。それだけである。
潔いったりゃありゃしない。

ムダをそぎ落としたサメの体型のように、いや、過飾を捨てた晩年のオードリーのように、なんとも崇高な姿である。なんか例えが変だろうか?

話は変わる。ちなみに中華料理では、牛肉の位置付けは低い。鶏系、家禽類を上等な食材として讃えている。

その代表格が北京ダックである。鶏ではなくアヒルだが、大きく分ければ鳥である。鴨やガチョウもそうだが、あの手の食材のウマさを引き出す中国4千年の知恵には敬服する。


じっくり丁寧に焼き上がった北京ダックの輝きは辛抱タマラン状態である。皮だけでなく、身も一緒に包んで食べると噛み応えがしっかりして満足感が高い。

時々、無性に食べたくなる一品だ。

西洋料理屋さん、とくにグリル系を得意とする店に行くと困るのが、鶏肉の値段問題である。

牛や豚、本日の鮮魚などという連中につけられている値段に比べると、鶏肉はかなり安めの価格設定だ。鶏好きとしては嬉しいが、注文の際にウェイターの顔が気になる。

「ビンボーだから安い鶏をオーダーするんだろ?ケッ!」と言いたげな目をされる気がしてビビる。

女性をエスコートしている時もそうだ。こっちがさっさと鶏肉を選ぼうとすると、「このオッサン、ケチなんやろか?アンタが鶏なら、こっちはステーキなんか注文できないやんけ?ケッ!」と心の叫びが聞こえてくるような気がする。

ホントに鶏が食べたいだけなのに、「えっ?マジかよ?セコいのか?」と世間に漂う誤った空気が私の判断を狂わせる。おかげでこれまでの人生で、食べたくもない牛肉を何度食べてきただろう。

バカみたいだ。いや、私の珍妙な被害妄想がバカなのだろう。

ということで、鶏を食べたい時は鶏の専門店に限る。お高い牛さんはメニューに無いから安心だ。安心して富豪ぶっていられる。

とりあえず、焼鳥難民になっている状態を解決することが今の私にとってかなり大きな問題である。

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