2014年8月29日金曜日

誤解


楽しそう、お気楽、浮かれてる等々、私の暮らしぶりをそんな印象で捉えている人がいる。

人様の目線って、こちらの現実にはお構いなしだから、いちいち気にしてもキリがない。

実際、そういう部分はある。そりゃあ、朝帰りしようが無断外泊しようが誰にも叱られることはない。

休みの日などは好きな時間に起きて、好きなものを食べて、好き勝手に過ごしている。エロサイトだって見放題である。

実に自由である。それは認める。ただ、無人島に一人流れ着いちゃったような孤独感と隣り合わせの自由だったりする。

まあ、そんな書き方をしても、息苦しく窮屈な思いで暮らしている人からすれば、自由ということ自体が羨ましく見えるのだろう。

意識して楽しそうにしている部分はあるし、意識して浮かれている部分はある。そうしないとウツウツしちゃうし、そうしないと過ぎていく日々がもったいない。

そんなことは、気ままな一人者だろうが、窮屈に暮らす家庭人だろうが、同じだと思う。気持ちの持ち方である。

そりゃあ、家庭人だったら糾弾されるような遊びが出来てしまう私だって、平和な家庭のホッコリした団らんには物凄く憧れる。

旅先で、楽しそうな家族旅行の姿を見たら切なくなって目をそらす。そんな光景が目に入る場所にはなるべく行かないようにする癖もついてしまった。

10年、20年、いやそれ以上の歳月を一緒に生きてきた伴侶と無駄話をしながらお茶をすする、そんな瞬間に憧れる。

峰不二子ちゃんみたいな素敵なオネエサンが横にいてくれても、長い年月を共にしたからこそ生まれる味わいのある会話は望めない。

「隣の芝生」みたいなものだろう。

私自身、一人暮らしを選んだことには、ひとかけらの後悔もない。ただ、後悔とは異質の「無念」という感覚はある。

やはり、イレギュラーより、レギュラーの方が何かと便利だし、都合もいいだろう。なにより一人暮らしの現実って、他人様が思うよりも結構シビアである。

中高年になってからの男の一人暮らしには適性が必要だと思う。適正がない人の場合、住まいがゴミ屋敷になっちゃったりする。

体調を崩した時の不安は独特である。若い頃の一人暮らしの時には感じなかった変な恐怖を感じることもある。

昨年、深夜に救急車を呼んだ「尿管結石事件」(http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2013/09/blog-post_6.html)の際には、一人のたうち回りながら、玄関ドアの内鍵だけは外した。私が死んじゃっても内鍵がかかっていたら誰も中には入れない。

気絶しそうなほどの悶絶状態でもそんなことを考えるのが一人暮らしの現実である。

それ以外にも、泥酔して深夜に嘔吐オヤジになりそうな時も相当な恐怖感に襲われる。だからいつも胃の内容物が消化されるようギリギリまでムダに我慢する。

その昔、一人暮らしの某有名女性歌手が深夜に嘔吐した際に、それが詰まって窒息死していたことがあった。

嘔吐オヤジになりそうな時は、その事件をいつも思い出す。一人暮らしになってからは、妙にリアルな恐怖感が加わった。そういう時も玄関ドアの内鍵は開けてしまう。

若い時からずっと一人暮らしを継続していれば中年になってもジタバタしないで済むのかもしれない。私の場合、いまの形になってまだ2年弱だから、まだまだ達観の域には程遠い。気ままな反面、いろいろな不安も抱えている。

誰かと暮らすのは厄介だが、この先まるっきり一人だと問題もある。ということで、仕事を引退するしないにかかわらず、サービス付きの老人ホームに入ることだって考えたりする。

一般的には65歳以上が入居条件だが、「おひとりさま」の増加によって、もっと若い段階から入れるところも出てきているそうだ。

ちなみに、あと10年もすれば、60歳を超えた程度の現役オヤジが老人ホームから職場に通うというスタイルも珍しくなくなるはずだ。

都市部ではワンルームをはじめ単身世帯用のマンションが今後一斉に余ってくる。その手の物件は「おひとりさま高齢者」向けにもリニューアルされるだろうし、「住まい」に関する感覚自体が大きく変わっていくような気がする。

おっと、随分、話がそれてしまった。

そうそう、一人暮らしのメンドーな感じを書きたかったんだ。

「おーい、体温計はどこにあったっけ?」とか「絆創膏買っておいてくれ」。家庭なら当たり前のこういうやりとりはどう逆立ちしても無理である。

「おーい、外れたボタンを付けておいてくれ」、「宅急便受け取っておいてくれ」。当然、これもダメ。

「おーい、小腹が空いたから何か作ってくれ」、「熱いお茶入れてくれるか」。もちろん、無理な相談である。

「タイガースは相変わらずトホホだなあ」、「こんなに泣ける映画はなかなか無いよ」、「今朝の地震怖かったなあ」、「お、もう秋の虫が鳴いてるぞ」等々、ちょっとした出来事への共感なんかも相手がいないわけだから一切ナシである。

もっとも、そんなやりとりも相手がマトモであることが前提である。何気ない会話すら出来ないほど冷え切って修復不能な相手となら無理に頑張る必要はない。とっとと別れた方がいい。

そんな相手と同じ屋根の下で暮らすこと自体が拷問であり、寿命を縮めるだけだ。右から左にいかないだろうが、少なくとも見切りをつけるための努力はすべきだと思う。

逆に、そこそこ普通に無駄話も出来て、そこそこ腹を割って話せる程度の関係が築けているなら、中途半端に「自由」なんかに憧れてはいけない。退屈に感じても平和な暮らしを満喫すべきだろう。

当たり前か。

いずれにせよ、イレギュラーよりレギュラーのほうが何かと都合が良い。これは間違いない。

自由といっても色々である。

「悲しいほど自由」って言い方もある。

4 件のコメント:

防波堤県民 さんのコメント...

ホント、自由にも色々ですね。
富豪さんの自由も、私の自由も、大いに「あり」だと思います。

「自由に生きていく方法は100通りある」って言葉もありますし…^_^;

富豪記者 さんのコメント...

防波堤県民さま

It`so easy,easy to be free!

まあ、そういうことですね!

なんだか意味不明のやり取り。。。。

oredai さんのコメント...

イヤな思い出って金属疲労のように蓄積していくんですよね。同じ相手で一回リセットできるのが理想なんですが。

富豪記者 さんのコメント...

oredaiさま

そうですねえ。我慢を重ねれば重ねるほど、溜まっていく感じってありますよね。

同じ相手でのリセット。。。なかなか合理的ですが、実際には難しいでしょうか。

でも、それで過渡期を突破できたら結びつきは物凄く強くなるでしょうね。