2020年11月6日金曜日

こだわりという名の呪縛

いろんなことにこだわりが無くなってきた。これも年齢ゆえの特徴なのだろう。こだわりという呪縛から逃れることは嬉しいことかもしれない。

 

今日はどうしてもコレが食べたい、アレじゃなきゃイヤだみたいな気分になることが激減した。とても良いことである。

 

どこにも寄らずに帰宅して、食べたいモノが浮かばないと、ウーバーでケンターッキーを取り寄せて衣と皮をすべて剥いだ“高級サラダチキン”にして済ますことが増えた。

 

そんな食べ方を“こだわり”と言われてしまったらそれまでだが。。

 

体重増加を防ぐためにも有効である。もっと美味しそうなデリバリーメニューを頼めばいいのに、別に食べたいモノがないことが多い。

 

お寿司屋さんで握りを食べる時も、以前なら自分なりに真剣に順番を決めてその順番通りに食べないと満足出来なかった。

 

今ではすっかりテキトーである。好きなものをいくつかまとめて注文して「順番は任せた!」で終わりである。

 

お酒にしても銘柄はほとんど気にしない。強いてリクエストするなら、開けてから時間が経ちすぎていないものを頼むぐらいで、純米でも吟醸でもヘッチャラだ。

 

一時期はやたらと銘柄にこだわっていた芋焼酎にしても今や何でもアリである。私の舌では細かくこだわるほどの違いは感じないのが正直なところだ。

 

ビール然り。発泡酒じゃなければ何でもOKだ。エビス、一番搾り、スーパードライ、どれも普通に美味しい。

 

達観というより、単純に肩の力が抜けたのだと思う。こだわりって一種の自己主張であり、ヘタをするとウンチクを語りたがるような知識の押しつけになりかねない。

 

「オレはいろいろ分かってるんだからな!」という姿勢を押し出したいような気分の裏返しだったりする。

 

もちろん、本気のこだわりを徹底している人を否定する気はない。私程度の生半可な知識で一生懸命アピールするようなことに飽きてきただけである。

 

一息入れる際、コーヒーか紅茶で必死に考えるのは面倒だ。どっちだってホッコリする。そこにプーアール茶しかなければ喜んでそれでホッコリできるようになった。

 



 

そういえば、最近ハマっているのがイチゴフレーバーの紅茶だ。人にもらったのがきっかけだ。以前なら「気持ち悪い。こんなもの飲めるか」というくだらないこだわりのせいで試すこともなかったが、試してみたらすっかり夢中である。

 

小さな例えばかりだが、どんなテーマにだって共通する姿勢だと思う。初めて接する人に対する態度、失敗しちゃった時の態度、哀しいことや嬉しいことに遭遇した時の態度も同じだ。

 

自然体でビビったり、恥ずかしがったり、泣いたりバカ笑いすることをそのまま気取らずにやれば良いだけの話である。

 

強そうに見せないと行けない、動揺した様子を表に出してはいけない、人前で涙を見せてはいけない、大口開けて笑ってはいけない・・・。そんなことにこだわりを持つのは美徳なのかも知れないが、よく考えればご苦労なことだと思う。

 

こだわりが薄らいできたことは、大げさに言えば人生が少しラクになってきたという意味なのかもしれない。

 

中途半端にこだわりを押し通そうとするのは、時には人様に自分をよく見せたいという“頑張り”の裏返しでもある。

 

頑張らなくていいなら頑張らないほうが快適だ。断然ラクチンである。

 

まだまだ自分でも気づいていない「こだわりという名の呪縛」は私の生き方の中にたくさんあると思う。

 

それらをどんどん削ぎ落としていったら今よりも呑気に楽しく過ごせるのだと思う。楽しみだ。

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