2021年12月20日月曜日

おしゃべりな男


沈黙は金、雄弁は銀。一応そうなのだろう。しゃべりすぎるとロクなことはない。もっともである。

 

でも、はたしてそう簡単なものだろうか。私は結構オシャベリである。自分でも時々イヤになるのだが、かといって今更寡黙な男になろうとは思わない。

 

おしゃべりな男。そう書くと何だか気色悪い。でも友達になるなら無口な男よりはそっちのほうがマシだ。

 

おしゃべりにもいろいろある。根っからの話し好きもいるが、気遣いが理由で口数を増やすことだってある。

 

どんな場面でも寡黙な男なんてしょせんは気遣いが出来ない野暮な男だとも言える。 寡黙な人、スイマセン!

 

だいたい、よくしゃべるためには常に頭をフル稼働させる必要がある。極論すれば凄いバカなら雄弁野郎にはなれないという理屈も成り立つ。

 

まあそうは言っても寡黙系のほうが賢く見えるのは確かだ。こんな私でも仕事関係では場面に応じて寡黙な男として時間を過ごすことも多々ある。ちょっとムズムズするが・・・。

 

私が敬愛する高倉健も田村正和もキャラとしては無口系である。だからカッチョ良いのだが、悪く言えばアノ寡黙な感じはズルさでもある。

 

私はズルい男にはなりたくないから頑張ってしゃべる場面が多い。だから失言もする。でも負の部分だけでななく、その場の空気のよどみを正したり、話題の方向性を陽気なものに切り替える効能も捨てたものではない。

 

気遣いだけではない。自己防衛の意味もある。例えば夜の店で聞くに堪えないホステスさんのくだらない話をやめさせるには自分がしゃべり始めることしか手の打ちようがない。

 

くだらない話をしない無口系?のホステスさんだったとしても、沈黙の時間が私は好きではないから結局私がしゃべる。

 

不思議なもので、予定の無い週末に48時間ぐらい誰ともしゃべらずに過ごすことがある。それはそれでイヤではない。一人旅をしている時はしゃべらない時間が大半だ。

 



先週も今年4度目の扁桃腺炎で5日間も寝込んだ。顔も画像のように悲惨な感じにいなってしまったのだが、結果的に誰ともしゃべらずに過ごした。決して誰かと話していなきゃイヤだというわけではない。

 

おしゃべりな男であることは自分の小さなコンプレックスなのだが、結局は気遣いや自己防衛、沈黙が恐いという理由が背景にある。まとめてしまえば「気が小さい男」という結論になってしまったみたいでシャバダバだ。

 

今までの人生、わりと人前でしゃべる機会は多かった。親しい友人の結婚披露宴では10回以上スピーチをしたし、我がオジサマバンドのライブでは例年MCが長すぎるとクレームを受ける。

 

仕事絡みでもラジオやテレビでしゃべったこともあるし、講演会の講師も何度もやらされた。多いときには500人の前で1時間もしゃべった。さすがに1000個の目に見つめられると何もしていないのにゴメンナサイと言いたくなった。

 

どの場面でもいちいち胃が痛くなった。平然としゃべっているようでも内心は結構ビビリ系?である。一応神経は細かいほうである。誰も信じてくれないが・・・。

 

今日は何が書きたかったかよく分からなくなってきた。

 

何事もホドホドが大事だからしゃべり過ぎてドツボにはまらないように気をつけないといけない。

 

 

 

 

 

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