2023年10月4日水曜日

下町散歩 人形町


私の生まれ育ちは東京の荻窪だ。良いところだと思うが東京の中でも中途半端?な場所でもある。山の手でも下町でもない。ビミョーな立地である。


祖父より上の先祖は浅草界隈の人だったから個人的には山の手より下町に親しみを感じる。若い頃はダウンタウンボーイという佐野元春の歌をよく口ずさんでいた。


そんなこんなで昔から下町散歩が好きだ。文京区に住んでいた頃にも谷中、根津、千駄木あたりをよく散策していた。なんてこと無い路地を縫うように歩き築ウン十年の古い建物を眺め、そこで営まれている暮らしを想像したり、年季の入った喫茶店で一休みしてから老舗の寿司屋、蕎麦屋などを覗くのが楽しかった。

 

前の住まいは八丁堀の隅田川に近いエリアだったから、ぶらぶらと永代橋を渡って門前仲町をあてもなく散策するのが好きだった。豆菓子を買ったり深川めしをかっ込んだり、甘味処でのんびりしたり、怪しげなレコード屋さんのラインナップを眺めたり、あの街は私のレトロ志向を満足させてくれた。

 


 

今年の春からの住まいは三越前駅に近いのだが、そっちとの反対方向には人形町がある。人形町もまたレトロ志向というか、昭和感に浸りたい私の心をくすぐる街だ。

 

田舎から出てきた若僧が憧れるオシャレな雰囲気とは一線を画しているのが良い。都内各地のオシャレ指数(何じゃソレ?)が高いエリアはそれはそれで東京っぽいのだろうが、あれは土着の東京とは違う。

 

あっちは地方から東京デビューしてイキっていた人たちが築き上げた新興の“トーキョー”である。江戸の名残りを感じる東京とは別なイメージだ。私が好きなのは当然昔ながらの東京だから自ずと江戸文字で表記するのが似合う街ばかり興味が湧く。

 

というわけで最近は門前仲町通いをしなくなった分、人形町通いに精を出すようになった。小物屋さんを覗いたり甘味処で茶をすすったり、目に入る和菓子屋にはついつい吸い込まれる。

 

家で食べるスイーツもすっかり和菓子が増えた。最近よく買いに行くのが水天宮よりの「三原堂」。季節ごとにニクい和菓子を揃えている。他にも甘酒横丁の入口の「玉英堂」や東京三大鯛焼きの一つとも言われる「柳屋」、他にも売り切れ必至のどら焼きの「清寿軒」、小さいお店でも「縫月堂」「彦九郎」など書き始めたらきりがない。

 

観光客向けかと思って食べてみた「重盛の人形焼」も思った以上に美味しくてビックリした。この界隈は和菓子好きには天国みたいなエリアだと思う。

 

有名料理店にしても鶏鍋の「玉ひで」(改装中)、すき焼きや鉄板焼きで人気が高い「今半」や「日山」、江戸前鮨の名店「㐂寿司」、ねぎま鍋で人気の「よし梅」、洋食の名店「芳味亭」などの高級路線からそれこそ数え切れないほどの居酒屋や大衆酒場がテンコ盛りだ。

 

ヨレたTシャツに薄汚れた短パン、サンダル履きで散策している私は気軽な店ばかり覗いてしまう。まだ高級店を攻めきれてない。富豪と名乗る割にはどうでもいい店ばかり探検している。

 

この街を歩く時は一人散歩か娘と二人である。テキトーな店に入ってそこが当たりだった時の喜びを求めてさまよっている。「どうでもいい店」と書くと失礼極まりないが、「知る人ぞ知る店」を求めてさまよっているわけだ。

 



 

先日、ふらっと入った大衆割烹「京家」は絵に描いたような昭和レトロ感が漂う風情。かの吉田類も訪ねた店だとか。ユッケなどくじら料理も各種取り揃え、気の利いたメニューがたくさん揃っている。オジサマのオアシスそのものだった。「人形町っぽい」と言いたくなる小粋な空間だった。

 

別な日に入った居酒屋はフレンチ経験のある主人がジャンルに囚われないウマい料理を出してくれた。残念ながら店の名前を忘れた。㐂寿司のすぐ近くだった。ホッケの干物と上質な牛粗挽きハンバーグを一緒に食べられるような快適な店だった。

 



つい先日、夕飯にサッパリしたものが食べたくなって一人で人形町界隈をぶらついた。酒を飲みたくなかったので適当な店が思い浮かばない。頼みの居酒屋系もノンアルだと収まりが悪いし、その他の私が入りたい店は酒が前提みたいなところばかりである。

 

で、通りすがりに「普通のお蕎麦屋さん」が目についたので突撃してみた。「松竹庵」といういわゆる街場の蕎麦屋だ。ところが、メニューには気の利いた蕎麦屋的つまみが揃っていた。カツ煮まである。危うく飲みそうになったが何とかこらえて「冷やし鶏天そば」を注文する。

 



蕎麦自体は特徴もなくごく普通だったが、鶏天ぷらはちゃんと揚げたてで、つゆも辛めで悪くなかった。凛としたイマドキの高級蕎麦も捨てがたいが、こういう国民食的なフツーの蕎麦はやはりホっとする。

 

ちゃんと蕎麦湯も出してくれるし、そういう基本的な部分を手抜きしない点が良い。古い街だからこそのコンサバ志向が私のような世代には心地よい。

 

また別な日、人形町の目抜き通りにある「どうでもいい感じのラーメン屋」に入ってみた。なんてことのない造りで店名もベタに「人形町ラーメン」である。通りすがりに常に客が入っているので気になっていた店だ。

 



豚骨醤油が基本の味みたいだが、ノンポリみたいにいろんなメニューがあるところが逆に普通っぽくて良い。私は当然チャーシュー麺、一緒にいた娘は油そばを注文。ごちゃ混ぜにして食べるこの油そばが妙に美味しかった。専門店より上じゃないかと思える味だった。

 

ラーメンに美しさやモダンな感じ、凝りすぎたこだわりなどは不要だと信じる私のような昔の人間にはなかなか快適な店だった。イマドキのラーメン界隈においては「どうでもいい感じの普通」ってなかなか貴重かもしれない。

 

何だか誰に参考になるのかサッパリ分からないような話に終始してしまった。とりあえず“ご近所自慢”だと思ってご容赦ください。

 

 

 

 

 

 

2023年10月2日月曜日

ほとんどビョーキ


「ほんとんどビョーキですね!」。その昔、日活ロマンポルノの山本晋也監督がハヤらせた言葉だ。風俗店のルポなどで決めゼリフになっていた。私にもソッチ方面で“ほとんどビョーキ”みたいな面はあるが、今日はソッチの話ではない。

 

人それぞれ暮らしの中でヘンテコなこだわりは持っているが、私の場合、日用品などをたくさんストックしたくなる癖は“ほんとんどビョーキ”と言える。大人のおもちゃだって必要以上にストックしていないと不安になる。ウソです。

 

トイレットぺーパーは一人暮らしの時から常時20ロール以上はストックしていないと落ち着かない。ハゲ予防の塗り薬にしても半年分ぐらいのストックがないと気持ち悪い。サッポロ一番や気に入ったジュース類なども同様だ。職場で手軽の飲むスティックコーヒーも100本入りを買ってしまう。何でもかんでも常に必要以上にストックする。

 

不安障害みたいな心療内科レベルの話ではないものの普通の人よりはそちらに近いのかもしれない。私の場合、不安のためにストックするというより満足感のためにストックしたがる。

 



先日、コーンポタージュスナックを30袋も買ってしまった。ネットスーパーでなかなか見つからず、食べたい時に悶々とするのがイヤで思い切って段ボール買いをした。しょっちゅう食べるわけでもないのに大量に在庫があると優雅な気持ち?になる。

 

気に入った食材も日持ちするものはついつい多めに買い揃えてしまう。我が家の台所周りのスペースはいつも大混雑状態で定期的に賞味期限チェックに励んでいる。ちょっとバカだと思う。

 



レトルトカレーやパスタソース、即席麺に数々の調味料などのストックはまるで籠城する準備かのように揃っている。何があったか時々チェックしないと同じものを買い足すミスにつながる。

 

そのくせレトルト食品を食べるのは月にせいぜい12回だ。パスタだって似たようなものだ。大量に食料のストックがあるのにウーバーでデリバリーを頼む頻度のほうが高い。バカみたいだ。

 




以前の住まいには予備の冷凍庫まで用意して大量に冷凍食品もストックしていた。引っ越しの際にスペースの関係で泣く泣く予備冷凍庫を処分したおかげでムダな冷凍保存品は激減した。それでも生活に何の変化もない。ムダなストックが多かった証だ。

 

冷凍といえば、最近ようやく我が家の「タマネギ問題」が前進した。私の簡単調理は「まな板と包丁を使わないこと」が基本だ。何かと重宝するタマネギだが、皮を向いたり、ざく切りやみじん切りに励むことは出来ないわけだ。

 

とはいえ、私が頻繁に作るチキンライスやドライカレーにはタマネギは欠かせない。結果、冷凍タマネギを活用している。みじん切りになった冷凍タマネギはネットスーパーでも普通に買えるから冷凍庫にいくつもストックしている。

 

ところが、豚の生姜焼きなどに加えたいザク切りやくし切りのタマネギとなると市販品を見つけるのは厄介だ。スーパーに行けば数多くのカット野菜が売っているが、カットタマネギはなぜか見つからない。冷凍モノもネットスーパー各社を調べたがどこも取り扱っていない。

 

業務用のキロ単位の冷凍カットタマネギだと邪魔だ。使い勝手の良いサイズに小分けされていないと現実的ではない。そんなこんなでこの10年もの間、私の簡単調理はみじん切り以外のタマネギとは縁がなかった。

 

そんななか、ひょんなことで頃合いのサイズの冷凍カットタマネギを発見した。Amazonさまさまである。国産で200グラム単位で買える。さっそく取り寄せて使ってみた。

 



冷凍したまま炒めていればすぐに良い感じに解凍されて味もちゃんと美味しい。豚肉を生姜焼きのタレやその他の好みのタレで味付けしてカットタマネギも一緒に炒めてみたら一気に本格的な料理みたいになった。

 


つくづくタマネギから出る旨味や甘味は肉を美味しく彩ることを痛感した。豚肉炒めは月に45回は作るほど私の大好物である。冷凍カットタマネギのおかげでより一層充実したポークライフ?が過ごせることが嬉しくて仕方がない。

 

でもストック癖のせいで冷凍庫がカットタマネギに占拠されそうなことが新たな課題である。

 

 

 

 

 

2023年9月29日金曜日

オトナの食べ物?

 

若い頃には見向きもしなかったのに今はシミジミ味わう食べ物は多い。お吸い物なんて昔はその存在意義すら理解不能だったのだが、今では出汁の旨味にウットリする。

 

誰に教わるでもなく年齢とともに勝手に感動できるようになるから実に不思議だ。秋の気配とともに恋しくなるのが土瓶蒸しだ。若い頃にはちっとも惹かれなかったが、いつの間にかこの季節には欠かせない一品になった。

 



これは新富町のお寿司屋さん「なか山」で出てきた一品。液体のくせに酒の肴にもなる卓越した料理だと思う。外国人旅行者には土瓶蒸しで陶然とする感覚は理解できないはずだ。

 

大人の味と一口に言っても幅広いが「外国人旅行者が理解できそうにない味」が一種のキーワードになるような気がする。イカの塩辛、あん肝、奈良漬けあたりの美味しさは日本人ならではの味覚だと思う。

 



うざくである。築地の宮川本廛で食べた。私は中央区界隈で4,5軒の鰻専門店を利用するが、どの店でもうざくは外せない。これと白焼きを肴に一献傾けながら鰻重を待つ時間が大好きだ。

 

まさかウナギ自身も自分が酢とキュウリに混ぜ合わされるとは思っていなかっただろう。名店のうざくはキチンと温かいウナギを使うのが嬉しい。これもオトナの食べ物の代表格だと思う。

 

先日、実家を訪ねたついでに荻窪の老舗蕎麦屋「本むら庵」に出かけた。20代の頃から利用している店だが、若い頃は蕎麦をいくら食べてもちっとも満腹にならないから天重をメインにしていた。今ではツマミをあれこれ食べて蕎麦を二枚も食べれば大満足である。

 



蕎麦がきもこの店では欠かせない。これもまたオトナの食べ物だ。もっちりした食感で切り揃えた蕎麦とはまるで別物の味わい。これも若僧時代は何の感慨もなく惰性で食べていたが今では目の前に置かれるとウキウキする。

 

この店のせいろは900円なのに対して鴨せいろは1800円もする。2倍の値付けだけあって鴨せいろのつけ汁がなかなかのもの。細かい鴨肉とネギがどっさり入った温かい汁だ。せいろを浸して味わうとこの上なく幸せな気分になる。

 




最近は東京でも趣向を凝らしたうどん屋が増殖して若者がうどん屋に行列を作っている光景を見かける。歳のせいか「それは西の食いモンだろう?」などとディスってしまう私だが、やはり東京人としては蕎麦がイチ押しである。

 

この春に引っ越した日本橋界隈には蕎麦の名店がいくつもある。なのにまだちっとも開拓できていないことが最近の私のストレスでもある。どうでもいい肴をつまみに安酒場で飲むよりも蕎麦飲みに励む方が正しいオトナだと思う。頑張らないといけない。

 

さて、風流人を目指しているかのような書きぶりになってしまったが、ジャンク飯をかっこむことから卒業出来ないのが私の悪い癖である。それも飲んだ後の2軒目にドカ食いをしがちだ。脳の中に悪魔が住んでいるのだと思う。

 



某日、寿司屋でしっかり飲み食いした後に時計を見たらまだ夜の8時前、脳の中の悪魔が「8時前に食えばカロリーはゼロだよ」と囁く。バカな私はそれを信じて吉野家に突入。

 

以前なら「特盛り」を嬉々として食べたのだが、さすがに最近は自制している。白米は通常の量で上だけが多い「頭の大盛り」に留めている。「並」を注文することだけは男のプライドが邪魔をして出来ない。

 

この時は“肉々しい”気分だったので通常より肉が多い「肉だく牛丼」にしてみた。「頭の大盛り」との違いがよく分からなかったので半熟たまごを追加するついでにタッチパネルで「頭の大盛り」も選択してみた。

 

肉がたくさんの牛丼、おまけに頭の大盛りということはバカが考えても肉でいっぱいである。それでも合計で800円程度だ。日本経済の凋落ぶりにこの時ばかりは感謝したくなった。

 



出てきたのがコレだ。肉タワーみたいなのを想像していたが残念ながら肉が別皿でやってきた。でも肉々しい気分の私には幸せな眺めである。別皿肉もドンブリに加えて紅生姜を乗っけて半熟卵を混ぜ混ぜしてかっこむ。

 



得も言えぬ幸福感に包まれた。寿司屋でツマミをあれこれ頼んで握りも10貫近く食べた直後だったのだが余裕で完食。つくづく健康体でいることの大切さを痛感した。

 

こんな食事を続けていたら健康体でいられる時間も残り少ないかもしれない。まあ、こんな暴飲暴食をしなくても身体がダメになる時は来るわけだから出来る時にガッツリ食いをするのも悪くない。

 

とにもかくにも街の至る所に牛丼屋があるニッポンバンザイである。

 

 

 

 

 

 

2023年9月27日水曜日

胸キュン


「趣味がJKみたい」。最近、大学生の娘からそんな事を言われる。若者が観るような映画にハマってオイオイ泣いている私の純情ぶりが娘にはまるで女子高生みたいでブキミに映っているようだ。

 

以前、帰宅した際に「頬っぺたにラメが付いてるわよ」と指摘され、以来、ウチでは時々「ラメ男」と呼ばれている。いわば「ラメ男なのに趣味が女子高生みたいなオジサン」である。ヘンテコである。

 

だいぶ前に全国の高校生が涙した映画「君の膵臓が食べたい」に感激して以来、若者の胸キュン映画をナゼかよく観るようになった。我ながら変だと思う。

 



先日は、今年始めに若者界隈で評判を集めたNetflixの配信ドラマ「初恋」にドハマりしてほぼ一気に観てしまった。これまた感涙の極みだった。主人公の高校生時代を演じた八木莉可子という女優さんが何とも素敵だった。

 

Netflixの配信ドラマといえば「聖域」という相撲道を極めていく不良少年の成長物語もとても面白かったが、胸キュンを求める私としては「初恋」のハラハラドキドキ感のほうが堪らなかった。

 

純情、純愛という私にとっては無縁になってしまった大昔の感覚を今になって切なく懐かしがっているのかもしれない。これもまた人生を振り返る年代になってきた証なのだろう。

 

青春胸キュン系ではないが、「そしてバトンは渡された」という最近の映画も素晴らしかった。青春ジャンルとは違うがこれもまた胸キュン映画と言える。永野芽郁ちゃんが実に可愛かった。大森南朋や市村正親がいい味を出していてなかなかの名作だと思う。

 


単なる恋愛映画よりもちょっとファンタジーがかった作品に昔から惹かれる。悪くいえば奇天烈な話に妙に引き込まれる。

 

若い頃はトムハンクスが名を売ったB級コメディみたいな奇天烈系にハマった。愛した彼女が実は人魚だったという「スプラッシュ」、子供の頃に戻りたいと願っていたらホントに子供になってしまった「ビッグ」などは何度も観た。

 

デパートのマネキンが人間に変身するその名も「マネキン」という奇天烈ラブロマンス映画も大好きで今もスターシップが歌った主題歌「Nothing's Gonna Stop Us Now」をしょっちゅう聴いている。

 

それらの洋画は1980年代の作品だ。時代の空気も相まって能天気に楽しめてちょっぴりホロっとする名作ばかりである。

 

その後の私の趣味を決定的にしたのが1990年の洋画2本だ。「ゴースト・ニューヨークの幻」と「オールウェイズ」である。両方とも主人公が死んじゃって生き残った彼女を必死に守る奇天烈なラブストーリーである。

 



単純明快な私はこういう映画を見ると妙に感情移入してしっかり泣く。正直に言えば号泣する。ちょっと変かもしれない。

 

要は「死んじゃったけど成仏しないで誰かのもとに出てくる」みたいな作品は総じて私の好みである。浅田次郎原作、高倉健主演の「ぽっぽや」、東野圭吾原作、小林薫と広末涼子の「秘密」あたりの日本映画も泣けた。

 

やはり東野圭吾原作の「ナミヤ雑貨店の奇跡」、浅田次郎原作の「地下鉄(メトロ)に乗って」あたりも本来ありえない奇天烈話なのだが、そこが私にとっては魅力的だった。

 

アニメ映画「君の名は」もそっち系の話だと聞いたので今年になってようやく観てみたのだが、しっかり泣いた。子供が観る映画だろうとまったく興味がなかったことを後悔したほどだった。

 

「死んじゃってる」「タイムスリップしちゃう」。こういう要素をうまく織り込んだ映画だと私の涙腺は崩壊する。現実から遠すぎるから逆に感情移入しちゃうみたいだ。

 

そんな私をまた大泣きさせた映画に出会った。昨年暮れに公開された「月の満ち欠け」がそれ。大泉洋と目黒蓮、有村架純が熱演している。

 


メメと架純ちゃんの切ないラブシーンに泣き、大泉洋の切なさに泣き、この30年ぐらいの軌跡を時代を交互に描きながら感動の終盤に持っていくストーリー展開にすっかりやられてしまった。

 

親子の愛、夫婦の愛、恋人への愛がすべて詰まっていた。悪役なんて一人しか出てこない。上で紹介した映画「そしてバトンは渡された」で最高の善人役だった俳優だけが悪者。とにかく私には刺さりまくる作品だった。

 

気付けば50代も半ばをとうに過ぎ、純愛だの夫婦愛だのとはすっかり無縁になった私だ。そんな環境に身を置いていると、映画が描く美しく尊い人間の絆みたいなものに憧れにも似た気持ちを抱くのだろう。ちょっとセンチな気分になる。

 

いま思えば夫婦愛はさておき、若い頃の胸キュンな純愛は人生経験の中でも貴重な時間だったと痛感する。あんな気持ちになるのは来世までお預けである。

 

もし私が池に斧を落として拾ってくれた神様に願いを一つだけ叶えてやろうと言われたら、きっと純愛の気持ちを感じさせてくれと願うはずだ。きっとそうする。

 

いや、やはり「どぶろっく」の歌と同じように「大きなイチモツをください」と頼んでしまうような気がする。

 

以上です。

 

 

 

 

 

2023年9月25日月曜日

思い出と胸焼け


自分が若造だった頃、中高年世代をオッサンと小バカにする一方で、重厚感や円熟ぶりに一種の畏怖の念も感じていた。気付けば私もそっち側の人である。若者に畏怖の念を抱かれるはずもない日々を過ごしているが、それなりに重厚感は出てきたのだろうか。どうも怪しい。

 

オジサマ世代になってみたらみたで案外頭の中は若造時代と似たようなものだと感じる。もちろん、知識や経験を重ねてそれなりに人としての幅は広がり、変に力まなくなったが、若い頃に勝手にイメージしていた“立派な大人”とは違う気がする。

 

尊敬する祖父が5060代の頃は何を考えていたのか、どんな感覚で日々を過ごしていたのか、最近はそんなことが頭をよぎる。祖母もしかり、ご先祖様達の中高年時代の頭の中を覗きたい気持ちになる。

 

そんなことを考えながら夜の銀座をブラついていたら老舗の天ぷら屋「天國」を見つけた。以前は中央通り沿いにビルがあったが、少し奥まった路地に移転していた。この店の特製かき揚げ丼を祖父が好きだったことを思い出して暖簾をくぐってみた。

 



昔ながらの東京の天ぷらは関西勢に押されて最近はあまり人気がないように感じるのは気のせいだろうか。私自身もあまり食べていない。衣がちょっと重ためで天つゆにビシャビシャつけて食べたくなるのが私が思う東京流である。

 

芸術的に薄い衣をまとい、お塩でどうぞ、などと言われる天ぷらは個人的には苦手だ。もちろん好みの問題ではある。美味しさだけで選ばされたら東京風は確実に不利?である。でも身に染み込んだDNA的感覚で私は天つゆビシャビシャで食べる天ぷらが大好きだ。

 



というわけで久しぶりの天國である。目指すはかき揚げ丼だが、その前にちょろっと晩酌。塩辛は正しく塩辛く、ツナとオニオンスライスの盛り合わせはちゃんとしたツナがたっぷりで抜群の一品だった。

 




普通の天ぷらも少し頼む。海老とキスだ。いい感じに衣をまとっている。大根おろしをどっさり入れた天つゆに浸して味わう。正しい東京天ぷらである。もっといろいろ注文したかったのだが、シメのかき揚げ丼のために我慢する。

 

まだまだ満腹感には程遠いちょうどよい頃合いで特製かき揚げ丼がやってきた。4千円ぐらいのなかなかの値付けである。他に用意されている季節のかき揚げ丼や海老などの天丼に比べても別格の値付けだ。

 



で、小エビと貝柱のみで作られたかき揚げがデンと乗っかったドンブリが登場。茶色を通り越して凄い色である。「これだよ、これ!」と一人つぶやきながら大事なことを思い出した。非常に大事なことである…。

 

かき揚げ丼はあくまで祖父が好きだった一品であり、子供の頃に同行していた私は常に違うものをバクバク食べていた。実は私は特製かき揚げ丼が好きではなかったことを急に思い出してしまった。

 

まさに後の祭りである。思い出補正のせいで勝手に懐かしい味だと思いこんで注文してしまったわけだ。ショックである。

 

でもウン十年も経っている。きっとオジサマ世代になった私なら美味しく感じるはずだと悪い記憶を振り払って無心に食べ始めた。キリっとした味付けのタレがかかった白米はウマいのだが、肝心のかき揚げがビミョーだった。

 


 

ファンの人には申しわけないが私の味覚が子供時代のままだったせいか、ちっとも感動しない。ただただ重たい。頑張って食べるハメになった。祖父を思い出しながら郷愁に浸るつもりがフードファイト状態になってしまった。

 

「思い出は美しすぎて」みたいな話にしたかったのに結果は胸焼けバリバリである。店を後にした後で膨満感解消のために少し歩く。結局、夜のクラブ活動エリアに足が向いてしまった。

 

太田胃散をもらうことを第一目的に久しぶりに顔を出すクラブで一休み。かつて祖父が愛したオールドパーを炭酸割りにしてグビグビ飲んでゲップを連発してから帰路についた。

 

思い出は必ずしも美しいものではないと痛感させられた秋の夜だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年9月22日金曜日

尻を追いかける


尻を追いかける。いうまでもなく好色男に使われる言葉である。「いい歳していつまで女のケツを追っかけてるんだ!?」。私が1年に365回ぐらいは言われる言葉でもある。

 

「尻を追いかける」を辞書で紐解くと「色を好み、女性にやたら好意を振りまくさま、ちょっかいを出してばかりいるさま」だという。ふむふむ。ちょっかいを出すぐらいの私にもピッタリ?である。

 



「オッパイを追いかける」とは言わないところが実に正しい。世の中にはオッパイ星人と呼ばれるオッパイ愛好家がたくさんいるが、私は女性の魅力はあくまで尻だと考える。すなわち尻派だ。「いい歳して…」と避難されようがいつまでも尻を追いかけ続ける男でいたいものである。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/02/blog-post_20.html

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/03/blog-post_6.html

 

さて、「いい歳して…」問題である。はたして何歳までが“尻追い人”として非難されずに済むのだろう。一般的には中年と呼ばれるあたりで根拠の曖昧な「分別」という壁に突き当たる。多くの人がそこで引退してしまう。

 

しかし、そんな線引きは実に馬鹿げている。現に老人ホームでは80歳を過ぎたような老人たちが恋のサヤ当てを演じて傷害事件まで起きたりする。


「バカだねえ。みっともない」と大半の人はそんな事件を鼻で笑うが、私はある意味うらやましく感じる。自分がその年になってそこまでの情熱を持っていられたら幸せだろう。

 

かの大岡越前のエピソードで知られるように女性の性欲は俗に「灰になるまで」とも言われる。男性だって「灰になるまで精神」は必要だと思う。たとえ機能に問題があっても異性を求める気持ち自体は失くす必要はないだろう。

 

ジャニーさんみたいにタチが悪いのは別だが、たかだか中年ぐらいの年齢でそっち方面から引退しちゃったような顔をするのは考えものだ。

 

とかく常識なんてものは安定秩序を求める一種の同調圧力が生んだ根拠曖昧な得体の知れない空気みたいなものである。そんなものに闇雲に縛られていては人生は味気ないものになる。

 

サッカーの三浦カズだって50代半ばを過ぎて今だに現役だ。非常識の極みである。でも彼にとって年齢は単なる数字に過ぎないのだろう。現役選手で居続けることは彼にとっては常識であり自然な姿なのだと思う。

 

私もいまだに“尻追い人”を実践している。正直に言えば時には面倒に感じる。まっすぐ帰宅してビール片手に豚丼特盛を食べながらバラエティー番組を観ているほうがラクチンなのは事実である。

 

でもそんな時間ばかりではオスとして錆びつくだけだ。時には自分に鞭打ってシュっとした顔を作ってオネエサンの尻を目指す。「あわよくば…」というヘタれた考えではなく、あくまで「何としてでも」ムホムホな展開になるよう知恵も絞るしカネも出す。

 

これって結構なエネルギーが必要だ。時に疲れてバテバテになる。バカと言われればその通りだがバカで結構だ。この歳になるとバカなことに熱中するのは案外大事なことだ。

 

先日、若いオネエサンと鰻屋さんに行った。細めのオネエサンだからスペシャルな鰻重は食べ切れないと睨んで、私の方はショボい鰻重にしてみた。オネエサンから回ってくるはずの厚みのある鰻を食べれば充分だと判断したわけだ。

 



ところが、いつまで経ってもオネエサンから鰻が回ってこない。ちんまりと痩せた鰻を食べながら待っていたのだが、気付けば厚みのある極上鰻は全部オネエサンに食われてしまった。

 

満塁で押し出しフォアボールを与えてしまったような、リレーでバトンを落としちゃったような、何とも言えない切ない敗北感を味わった。

 

この詰めの甘さは“尻追い人”として生きていく私の弱点である。仕方ないからそのオネエサンには違った意味でしつこくお仕置きをしてしまった。ガハハハ、何ともベタなオヤジの戯れ言である。

 

まあ、こんな平和な日常を過ごしているのは幸せなことだ。人生後半戦、まだまだ現役で頑張ろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

2023年9月20日水曜日

変態的嗜好


誰もが他の人からすればビックリ仰天の嗜好を持つ。下ネタ方面のことしかり、食べ物のことしかりである。下ネタ方面の変態的嗜好については書き始めたら三日三晩でも足りないぐらいだが、今日はそっちではなく食べ物の話。

 

カップヌードルに酢を大量投入して喜んで食べている知り合いがいた。私も普通の醤油ラーメンには酢を入れて味変を狙うことがあるから全否定は出来ないが、カップヌードルと酢の組み合わせはビミョーだろう。

 

もちろん、本人が旨く感じるのなら他人がとやかく言う話ではない。私の場合、カップ麺だと「緑のたぬき」などの蕎麦に関してはヘンテコな食べ方を実践している。お湯を入れたらすぐに食べ始めるという変態的嗜好だ。

 

ラーメンやうどんのカップ麺だと熱湯を入れてから1分ぐらいは待つのだが、ナゼか蕎麦だと速攻で食べ始める。ボリボリゴソゴソした食感が最高だ。お菓子を食べているような楽しさがある。

 

子供の頃は変態的な食べ方ばかりしていた。すき焼きの鍋が焦げないように用意される牛脂の塊を嬉々として食べたし、炊きたてご飯に普通の酢を大量投入してビシャビシャになった米をさらさらとかっ込んだりもした。

 

誰にでもそんな独自の食べ方や好みがあるはずだ。世間に認知されれば変態扱いされないだけで、たとえばお好み焼き屋の「そばめし」などは奇天烈としか言えない。もっと言えば日本人の大定番である納豆だって違う食文化の国の人が見たらゲテモノにしか見えない。

 

納豆スパゲティ、しらすピザ、そんな和洋折衷系のメニューはよくよく考えれば変態バリバリなのかもしれない。

 

さて、変態的とまでは言えないものの、人様に熱弁してもあまり共感してもらえない私の好物が「つけ合わせスパゲッティ」である。洋食屋さんのメンチカツやエビフライの横にどうでもいいような感じでちょこっと盛られるアイツである。

 

たいていは味が微妙に薄い。もちろん具は一切無し。常温が基本である。ウマいマズいという論評の外に置かれた存在であり、正式名称があるのかどうかも分からない。阪神・岡田監督の「アレ」ではないが、あの“謎麺”のことは便宜上「アイツ」と呼ぶことにする。

 

一度でいいからアイツを山盛り食べてみたいと昔から思っている。勇気がなくてそんな注文はきっと死ぬまで出来そうにない。

 

タヒチやアフリカに行ってみたいという願望と同じぐらい私にとっては憧れである。このブログでも5年ぐらい前にもその事を熱く語った。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/08/blog-post_25.html

 

そんな私にアイツを山盛り食べるチャンスがやってきた。最近発見した簡単調味料「ケチャッピー」のおかげである。その名もファンキーなこの商品はあえるだけでナポリタンが出来るというシロモノである。

 



今までちゃんと具を用意して使うか、チキンライスを作る際に流用していたのだが、ある日ふと気付いた。「これを規定量より少なくして具を何も入れなければアイツが出来るじゃないか!」。ちょっと変態的な思いつきである。

 

で、実践してみた。麺を茹でてフライパンでケチャッピーを加えて炒めるだけである。ところが、ところがである。天性の料理人?としての血が騒いでしまい、血迷って具を入れたくなってしまった。その時点で既に計画崩壊である。

 

合いそうな具が見当たらなかったのでシャウエッセンをハサミでカットしてマッシュルームとともに投入。ケチャッピーは規定量の3分の1程度にして定食屋で出てくるような頼りない味に仕上げる予定だったのに、シャウエッセン投入と同時に妙な色気が出てしまい勢いで規定量ぐらいの量を入れてしまった。

 



おまけに仕上げに粉チーズをぶりぶり投下、もうアイツとは呼べないちょっとした子供だまし的ナポリタンになってしまった。大失敗である。おまけに熱々を食べてしまった。アイツなら常温で食べるのが正しいはずだったのに大脱線だ。

 

味の方は普通にそこそこウマかった。それ自体がアイツとは一線を画してしまった感じだ。アイツはウマいマズいという感想とは無縁のぶっきらぼうな感じが魅力である。実に中途半端なモノを作ってしまったわけだ。

 

やはりアイツは意外に強敵だ。簡単にチャッチャカ作れちゃうような生易しいものではなかったわけだ。甘く見ていた私の負けである。今回の失敗の教訓は空腹の時に作ってはいけないという事だ。

 

アイツを完璧に仕上げるためには満腹の時にいやいやながらやっつけ仕事で作るのが正解だろう。そうすれば味見もせずに正しくテキトーな味になるし、イヤでも冷めちゃって常温になる。食い意地の張った私にはなかなか難しい取り組みだが、いずれ再挑戦するつもりだ。