2008年1月16日水曜日

刺さらない言葉

言葉の重みという概念が揺らいでいる。こんなことを思ったのは、民主党の小沢党首がきっかけ。重要法案の裁決欠席で物議をよんだ小沢氏だが、新年を迎えての発言は、政権交代に向け「命がけで」とか「人生を賭けて」、「火の玉になって」とか強い言葉のオンパレード。でも、ドッチラケだった昨年の党首辞任騒動のせいで、どうにもその言葉に迫力を感じない。まるで刺さらない。

昨年の騒動では、一度は辞めると公式に宣言したにもかかわらず、辞意撤回会見での「ぷっつんしてしまって・・・」との釈明は、小沢氏のこれまでのイメージを崩壊させるには充分だった気がする。

政治記者を職業としているわけではないが、仕事柄、永田町界隈への出入りや付き合いがある私も、小沢氏については色々な風評や実績を耳にしており、それなりのイメージを抱いていた。ところが、あの辞任騒動をめぐるドタバタがあまりに幼稚だったので、自分の感度が鈍っていたのかと不安になったほど。民主党関係者に聞いたところ、あの騒動には周囲も本当に振り回されたそうで、複数の同僚議員が口にしていたのが「小沢老いたり」。以前に比べて“質的変化”が顕著だという感想だ。

対する福田首相は、御年71。頻繁な物忘れを週刊誌に書かれることでも分かるとおり、老いていることは確かだ。薬害肝炎問題でのマスコミ対応でも原告団に対して「お会いしても構わない」と発言した言語センスに呆れた。

今年初の国会での党首討論は、「刺さらない言葉」で追及する小沢党首に「ごもっとも」ばかり連発する福田首相という構図。迫力や重みとは無縁の世界に見えた。

言葉の重みに話を戻す。言葉が軽いか重いかは結局、発言する人間の「心」と「思慮」と「経験」にかかっている。上っ面だけで話す言葉は軽いし、感覚的に思ったまま口を出る言葉も軽い。背伸びした発言も当然軽くなる。その逆であれば必然的に言葉には重みが出る。

政治の世界でいえば、森元首相の失言癖などは思慮を欠いた短絡さが原因だろうし、安倍前首相も経験不足のせいか、その発言はいちいち重みがなかった。

その昔、答弁前の慎重さゆえに「アーウー宰相」と呼ばれた大平正芳氏、文字通り「言語明瞭意味不明瞭」と呼ばれた竹下登氏らの方が言葉の重みをしっかり認識していたといえる。言葉を選ぶからこその「アーウー」であり「意味不明」だったわけだ。

テレビメディアを意識した政治家は、昔より感覚的、短絡的に言葉を発するようになり、また、メディア受けしないと選挙に通らないような時代がそれを当たり前のことにしてしまった。その結果、なんでもかんでもお手軽になり、もっとも大事な言葉さえ軽くなってしまった。

小泉元首相の頃に拍車がかかった政治家の「言いっぱなし」、「ご都合発言」は、最近では問題視されることも少なくなってしまった。結局、政治への信頼はますます低下する。国民が信頼しない政治。そんなリーダーを持つ国が国際的に信頼されるのか、話はどんどん大きくなるが、そういうことでもあり恐いことだと思う。

言葉が軽いだけならまだしも、その言葉がいいかげんであれば、結局は嘘になる。

有名なイソップ童話が頭をよぎる。狼が出るぞと嘘ばかりついていた羊飼いの少年が最後には誰からも助けてもらえなかった話だ。

なんだか今日は暗い話に終始してしまった。

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