2008年2月14日木曜日

各務周海さんの黄瀬戸


焼きもの収集に欠かせないのが美濃焼、瀬戸焼。前者は岐阜、後者は愛知に分類されるが、作品の特徴は大雑把に言って同じ傾向だ。

美濃焼とひとくちに言ってもその様式は大きく分けて3種類に分けられる。緑色の釉薬をバランス良く配し、微妙ないびつさ加減を美とする「織部」、伊万里で磁器が焼成されはじめるまで、その白い色合いが風流人を魅了した「志野」、茶人に根強い支持を集める「黄瀬戸」。それぞれ産地や名前を知らなくても、どこの家庭にもあったりする焼きものだ。

もともと、このエリアは古くから陶器産出で名高く、いま普通に使われる「セトモノ」の語源でもある。瀬戸周辺は、現在、どちらかと言えば工業製品を産出するイメージが強く、私が何度か足を向けたのは、岐阜・多治見周辺。美濃焼の陶芸家が集中するエリアだ。

焼きもの好きにとってこの一帯は、一種独特なイメージがある。なにより加藤唐九郎、荒川豊蔵といった伝説的ビックネームが活躍した地域だ。また、最近では、鈴木蔵、加藤卓男らの人間国宝も出ている。

基本的にどの陶芸家も前述した3種類の特徴的な美濃焼の名品をせっせと作り続けているが、作家によって当然、志野が得意とか織部に定評があるといった傾向に分かれる。

今回紹介する各務周海さんは、黄瀬戸を作らせたら、間違いなく日本一だと思う。日本で一番素晴らしい黄瀬戸だから、世界一の匠と表現してもいいだろう。

灰をベースにした釉薬から独特の黄色を発色させることは一筋縄ではいかないらしく、多治見周辺の陶器商を訪ね歩いても、渋い黄瀬戸を捜すのは困難。たいていテカテカ金属っぽく光っているものや、立体感のない淡い色の作品しか見あたらない。

各務さんの黄瀬戸は、俗に「油揚げ肌」と称される肌合いが実に艶っぽく、釉薬のグラデーションが微妙な立体感を生み、他では見られない完成度を見せる。釉薬の焦げやタンパンと呼ばれる濃緑色の発色も計算されたアクセントになっている。

ロクロの技術の高さも作品の品格を高めている。自身の黄瀬戸の器肌を熟知しているからこその造形は、他の作家の追随を許さないレベル。徳利の口作りなどは、まさしく芸術だ。

私自身、集めるばかりで陶器制作は詳しくないが、ロクロをひきおわって乾燥させる段階で、生乾きの作品は、ロクロでひかれた向きと逆方向に戻ろうとするそうだ。各務さんの徳利は、その反作用の収まる向きを計算して、徳利を自然に握ったときに注ぎやすい位置になるような角度で口をすぼませておくとか。

単に器をひしゃげさせれば風流とか手作り感が増すといった程度の認識で作られているものは多いが、各務さんの作品は次元が違う。まさに匠の技だ。

以前、各務さんの個展にお邪魔して、あれこれとお話しする機会があった。日本の器の「ひしゃげた美」から話は弾み、いつしか日本文化と西洋文化の比較論みたいな話題になった。

すなわち「対称と非対称」にまつわる話だ。

西洋食器は、均整や左右対称が尊ばれる。庭園造りにしても同様。いわばシンメトリーの美しさを大きな基準にしている。それに対し、日本の場合、器の形は必ずしも均整にこだわらず「歪み」に美を見出すこともある。卓上に並べる器も、西洋食器はシリーズで統一感を強調して並べることが多いが、日本の場合は陶器あり、磁器あり、漆器もあるといった取り合わせの妙を楽しむスタイル。

庭園作りにしても、枯山水の庭園にシンメトリーの要素はなく、曖昧さとか未完成の形が尊ばれる。

ここまでの話なら、趣味嗜好の違いというだけで、「ふむふむなるほど」で終わってしまいそうなだが、ここからの結論付けがチョットいい。

すなわち「決めつける文化」と「決めつけない文化」が西洋と日本の違いだと総括。そのうえで、各務さんは、決めつける文化が招くのは対立であり、決めつけない文化は共存と理解につながると柔和な表情で語ってくれた。

なんだかすっかりファンになってしまった。おまけに自分が賢くなったような気がした。

その後、私が仕事で書いている新聞のコラム(朝日の天声人語みたいなコラム)で、各務さんと交わしたこの話を取り上げた。掲載紙に対するお礼状がまた達筆で含蓄あふれる言葉ばかり。一期一会ではないが、やきもの収集という物好きな趣味に足を踏み入れて良かったと思った。

ところで、私はお茶をやらない。お茶の世界に入っていたら、間違いなく各務さんの茶碗を求めるだろう。正直、おいそれとは買えない値段だ。本当に茶道に足を踏み入れなくて良かったと思う。チョット情けないが、徳利とぐい呑みで満足できてラッキーだ(それも結構値が張るが・・・)。

一応、携帯で撮影した画像を載せるが、こんな画像で各務さんの作品が持つ極めて風雅な空気は伝わらないことが残念。

各務さんの黄瀬戸、一生ものです。

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