「ヒュー・ヘフナー」。この名前、ある年齢以上の男性には独特な響きを持つ。
「PLAYBOY」の創刊者であり、その生きざまもまた同誌のイメージそのものの人。現在84歳。まだまだ元気で活躍中らしい。
私にとって、「ヒュー・ヘフナー」は、トラとかライオンをかっさばいたじゅうたんの上で金髪美女を何人もはべらせてブランデーグラスを手に不敵に微笑むオッサンだ。
確か私が小学校高学年の頃、日本版「PLAYBOY」が鳴り物入りで誕生した。週刊プレイボーイとは全然異なる大人向けの高尚かつ魅惑的な雑誌だった。
祖父が自宅で定期購読した。そりゃあ小学校高学年の僕ちゃんは大興奮で、ひっそり隠れて拝見していた。
記憶はおぼろげだが、ヒュー・ヘフナー本人も宣伝塔として雑誌によく登場していた。いつも美女をはべらせていた気がする。
「このオッサン、たまんね~暮らしだなあ」。子供心にそう思った。ちなみにウィキペディアで出てきた彼の情報にはこんな一説が記載されている。
~~~1988年には、ヘフナーの娘であるクリスティー・ヘフナーがPLAYBOY社のCEOに就任(現在は取締役会長も務める)したことで、経営の第一線から身を引く形になったものの、現在も「プレイボーイ・マンション」と呼ばれる豪邸に正妻を含む多数の女性と暮らす他、数々のメディアに登場するなど、「PLAYBOY」誌の「哲学」を身を持って体現するライフスタイルを続けている~~~
最敬礼したくなる。「正妻を含む多数の女性と暮らすジジイ」だ。それはそれで大変なときもあるだろう。
オトナになった私は、ごくたまにバンコクとかソウルとかススキノとかで、「はからずも」、「ひょんなことから」あられもない美女達に囲まれて過ごしてしまうことがある。
そういうとき、自分がヒュー・ヘフナーになったような錯覚を覚える。子供の頃の印象は相当強く自分の中に刻まれているようだ。
世界各地で現地版が創刊されたほどの「PLAYBOY」の流行は、アメリカ大好きの日本でも物凄かったようで、その後「プレイボーイクラブ」が六本木に誕生するに至った。
バニーガールがウロウロするレストランバーの元祖だ。新しもの好きの祖父は最初の頃からメンバーになっていたようで、それこそひょんなことから私も同行する機会があった。
小学校高学年、思春期の入口あたりの僕ちゃんだ。感想はただ一言「ぶっ飛んだ」。
バニーガールがウロウロだ。お尻プリプリだ。胸の谷間からライターを出してお客さん相手にタバコに火をつけている。
クラクラした。子供なのになぜ連れて行かれたかというと、ファミリー向けのクリスマスパーティーみたいなイベントだったから。35年ぐらい前の話だ。随分ハイカラだ。
そういう事情なのできっと普段より妖艶さは控えめだったのだろうが、子供だった私には刺激が強かった。表現するなら酔っちゃった感じ。バニー酔いだ。
1970年代の夢のような記憶だ。
祖父も亡くなり、日本版「PLAYBOY」も廃刊になり、プレイボーイクラブも今はない。
残ったのはバニー好きのエロオヤジになった私だ。Tバックが好きだと広言してはばからないのも、きっとあの日、バニーガールのお尻の食い込み加減が強く脳裏に刻まれたからだと思う。
先日、会社の人間と食事をしたあとに「どっか画期的な店に連れて行け」と無茶な指示を出した。連れて行かれたのは池袋にあるバニーちゃんの店だった。
バニーちゃんがいっぱいいた。しみじみ眺めた。凝視した。穴があくほど見続けた。
幼かったあの日、バニー様を前に顔をあまり上げられなかった初々しさは今はカケラもない。
そんな私だ。
2010年9月13日月曜日
ヒュー・ヘフナー
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2 件のコメント:
平成のplayboy此処に在り!!
ジャガーなんかをかっさばいたラグの上で
富豪記者様を囲む撮影の際には
私もラ・ぺルラのTバック持参で参戦致します。
rinrinさま
お久しぶりです!
ゴージャス系のTバック、ゼヒにゼヒに
拝見したいものです。
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