2022年11月28日月曜日

良書か悪書か


読書と聞くと何だか大袈裟に聞こえるが、本を読むことは大事だ。本に限らず雑誌だって構わない。活字を読んでフムフムと何かを感じることは生きていく上で欠かせない“学び”だと思う。

 

「たいした本じゃないけど」。よく聞くフレーズだ。本といえばついつい格調高いものを読んでいないと正しくないみたいな考えが世の中の根底にあるのだろう。決してそんなことはない。

 

前にも書いたが「高田純次」の本だろうが、興味を持って読み込めば何かしらの発見はある。世間話の際の小話の一つにでもなったら儲けものだ。それで充分だ。

 

エロ本しかり。自分が知らなかった世界を知ることが出来るし、なるほどそんなプレイもありだなといった発見につながることもある。読み物に無駄は無いと思う。

 

小難しいタイトルの小説やそれこそ哲学書を読んでみてちんぷんかんぷんなら読まずにやめた方がいい。無理して読んだ本の中身なんて自分の中に何も残らない。それならお笑い芸人のエッセイでも読んで笑っているほうが精神衛生の向上に役立つ。

 




 

本に関しては私の子供時代はとても恵まれていた。母親の信念だったのだろう、いついかなる時も本を買うための小遣いはちゃんともらえた。子供心に有り難さを感じていたから真面目な私はそれを他の遊びに使うことはせず必ず本代に充てた。

 

星新一だったり海外のSF小説だったり王貞治物語みたいな子供向けの本ばかりだったが、おかげで読書習慣が身に付いた。親からもやれ古典が良いだの太宰や三島を読め、ヘミングウェイやサリンジャーを読めなどといったお節介な指示がなかったことは大きい。

 

おかげで中学高校ではアホバカ連合に属して常に落第スレスレだったのに国語の成績は優秀だった。高2か高3の時には模試か何かで現代国語の順位が学年の上位ヒトケタに入ってしまった珍事もあった。

 

東大に二ケタの人数が合格する学校だったので、現代国語だけなら東大も夢じゃない優秀さだったわけだ。ちなみに数学の偏差値は学年最低の25だった。当時からアマノジャクを体現していたわけだ。

 

今もとくに読書のジャンルにこだわりはない。推理小説やサスペンス系、自己啓発本などは読まないが、他は何でもアリだ。もちろん、私が苦手な自己啓発本だって読む人によっては得がたい一節が心に染みることもあるだろうから頭から否定する気はない。

 

さっきも書いたが硬派軟派に関係なく活字を読むことは日々の暮らしを豊かにしてくれる。どんなジャンルの本だろうと興味を抱いて読んでいる瞬間は脳が活発に動く感じがするし、読んでいる間はその世界に飛んでいくことが出来る。

 

マンガも結構だが、描写が活字だけの本の方が頭の中に無限にイメージが広がる。妄想にも似た感覚で勝手に描く世界の中で自分の気持ちを遊ばせるのは楽しい。

 

ロクでもない本。繰り返しになるがそんなものは無いと断言したい。オドロオドロしい怪奇本だろうと自殺マニュアルだろうと世界の残酷物語みたいなちょっと悪趣味の内容だって「知らないことを知る」という意味では無駄なことはない。

 

エログロナンセンスも知識、オカルトだって知識、宇宙人やUFOの話だって知識。くだらない作り話じゃないかと眉をひそめる人もいるだろうが、それを言ったらどんな高尚な小説だろうとしょせんは作り話である。

 

ほんのちょっとした言い回しや、たった1行の中にハッとするような気づきでもあればすべて自分の血肉になると言っても構わないと思う。ジャンルなんて関係ない。フムフムとかへーとかウソだろうなどと思えるだけで本の役割は果たしている。

 

最近は寝る前に歴史に関する雑誌やムック本をぱらぱらめくっていることが多い。その当時の人々のことを勝手に想像して今の時代と比べてあれこれ考察するのが楽しい。

 

Amazonでバカ安で売っている本に手を出すこともある。一昔前に出版された元プロ野球選手・愛甲の文庫本は確か100円だった。私には100円を遙かに上回る価値のある内容だった。

 

同じく何となく買ってみた安藤昇の人生訓が書かれた本もなかなか面白かった。昭和ノスタルジーに浸るにはもってこいの内容だった。

 

何だかまとまりが無くなってきたが、良書だ悪書だなどと難しく考えないで子供や若者には単に乱読を勧めるのが正しいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

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