物心ついてから半世紀以上が過ぎた。これまでに「憧れた人」は結構いた気がする。子供のころはキャンディーズの蘭ちゃん桜田淳子に憧れたが、歳をとるにつれて大原麗子や松坂慶子など色気方面?にアンテナは伸びていった。
男子だから対象が女性になるのは当然だが、そういうミーハー心理ではなく、同性を憧れの対象として認識したのは今は亡き西城秀樹師匠が最初だったと思う。
小学生の頃、誰かのコネでナンチャラ音楽祭の収録現場に行った際に通路で目撃したのがヒデキだった。白い衣装の腕からノレンみたいなのがヒラヒラしていてプレスリーみたいだった。
顔が小さくシュっとしていて全身からスターのオーラが溢れ出ていた。カッコよくてシビれた。まだヤングマンを大ヒットさせる前の頃だ。アイドルなのにワイルド感もあって少年の私が憧れるのも当然だった。
晩年のヒデキは病魔との闘いに苦しんだが、今も彼の卓越したボーカリストとしての技量は評価が高い。現役時代を知らない若い人にもファンは増えているそうだ。
ヒデキが亡くなった年、NHK紅白では長尺を確保してヒデキ追悼コーナーを設けるかと思ったのだが、ナゼかそんな企画は無いままだった。いまだにそれが残念に思うほど昭和の偉大な歌い手だったと思う。
その後に私の憧れの対象になったのが「田村正和」サマである。ニヒルでクールな二枚目という私には到底マネできない路線の人だった。あまりに違いすぎるから目指すような気持にはならず単に美術品を鑑賞するように眺めていた。
マサカズについては以前にこのブログでも力説?した。
ヒデキとマサカズが私にとっての二大巨頭だったわけだが、もうひとり私にとって憧れだったのが「高田繁サマ」である。いわずと知れた往年の巨人の名選手である。
長嶋さんの引退試合をテレビで見たあたりから野球好きになったのだが、その長嶋さんが監督になった際に高田サマはそろそろベテランになろうかという円熟期の選手だった。
彼のレフトの守備は「塀際の魔術師」と称されたように普通なら2塁打になるレフト線へのヒットも抜群にウマいクッションボール処理と強肩で単打にしてしまうことで有名だった。
そんな名外野手を長嶋監督が自分の後釜のサードへコンバートさせた。外野から内野へのコンバートは当時は非常に珍しく、スポーツニュースでも連日猛特訓ぶりが報道されていた。野球一色だった時代ならではの世間の注目ぶりが印象に残っている。
で、高田選手は見事に転身を成功させ、野球人生の後半戦を華の三塁手として過ごした。トレードマークは青いグローブだった。大ファンだった私も親にねだって高田モデルの青いグローブを買ってもらった。
高田サマはその後、何度も私の夢の中にも現れた。ナゼかいつも同じ夢だった。雨降る夜の道をとぼとぼ歩く私。そこに白いクラウンが走り寄り私の横に停車。すーっと助手席側の窓が開いて「乗っていくかい?」と声をかけてくれる紳士が高田選手だった。
夢なのに私はいつも唖然茫然、高田サマのご尊顔が神々しく見えるという内容だ。何度もその夢を見たのに顔を見るまで高田サマだと毎度気づかないわけだから私のバカっぷりも相当なものだろう。
そんな憧れの高田サマを久しぶりに目撃した。それも至近距離である。東京六大学野球の100周年記念事業の一環である「レジェンド始球式」に明治大学ОB代表として登場した。
事前に情報を知った私は高田サマが出入りする通路そばに陣取り間近で懐かしいその姿を拝謁!できた。今年80歳になるとは思えない爽やかさで始球式もカッチョ良くこなした。かなり感動してしまった。
何が嬉しかったといえば、高田サマの手にはアノ青いグローブが装着されていた。引退から40年以上経つ。相当気を使って管理していなければこんなに綺麗な状態は保てないだろう。
昔のファンにとっては元気な姿が見られただけで嬉しいのに青グローブという必殺グッズもセットである。これには感動した。変な話、ちょっとウルウルしそうなほどだった。
それにしても憧れだった人の多くが鬼籍に入り、今も元気な人ですら80代を迎えている。当たり前の話だが自分の年齢をいやでも自覚させられる。
まあ、逆に言えばそんな感傷に浸れること自体が自分がこれまで元気で過ごせてきた証である。そんな感傷はさておき、昔の楽しかったことを思い出す「回顧法」は脳に健康的で良い刺激をくれるそうだから、せいぜい昔の記憶をどんどん呼び起こして楽しみたいと思う。
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