2021年6月9日水曜日

コロナ後の世の中


遅かれ早かれワクチン接種が進み、コロナ禍という言葉は過去のものになる。ある程度は以前のような日常に戻る日は近い。

 

そろそろコロナ後のアレコレを睨んで行動したり考えたりする時期だとも言えよう。

 




 

上の画像は昨年初めて緊急事態宣言が出た後の銀座の姿だ。ここまで人がいない状態はさすがに今後はあり得ないだろう。

 

すっかり萎縮しちゃった社会はアッという間に前の姿に戻るのか、それとも様々な後遺症みたいな変化を定着させるのか、目先の利く人はそのあたりにアンテナを張って一儲けするはずだ。

 

リモートや時差出勤が当たり前のようになった会社勤めのスタイルがまったく元通りに戻るのだろうか。

 

リモートで出来ちゃう、在宅のほうが効率的といったケースも多いわけで、コロナ前の状態にそのまま戻ることは考えにくい。

 

社内での飲み会や宴会、社員旅行といったニッポンの会社ならではの習慣も“絶滅危惧種”みたいな状態だが、コロナ後も衰退傾向は変わらないのだろう。

 

世の中がドライになるに連れ、その種のベタな文化みたいなものは無くなってきた。善し悪しを語る話ではないのかも知れないが何となく淋しい。

 

昭和の終わりに社会人になった私としては、その種の「鬱陶しい事」のおかげで社会を学んできた感覚がある。

 

上座だ下座だ、お酌のマナーがどうだといった話に始まり、空気の読み方や目配りの大事さなどは、どうしたって教科書的に教わるものではない。

 

人との密な交流によって覚えていくのが普通だった。ネクタイを緩めるタイミングひとつを年配者から叱られたこともあった。それこそ無理して飲んでゲロを吐きまくりながら大人の世界に仲間入りしたような感覚がある。

 

社会を渡っていく上では、座学で学べないことのほうが重要であり、その講習所は飲み会や宴席といったアナログな場面だったわけだ。

 

伸び盛りの若年世代がそういうものと無縁になれば、世の中の醇風美俗みたいな感度は必然的に低くなっていく。ドライな社会に拍車がかかるようでちょっと心配だ。

 

飲食店経営者からはコロナ後の復活には時間がかかるという意見が多く聞かれる。一度失われた習慣がすぐに元通りにはならず、家飲みに慣れた人は家飲みをベースに、時々は外飲みをするといった“リハビリ”時期が続くという予想だ。

 

その一方で、我慢していた好きなことを一気にやり直し始めるという声もある。合コンや風俗通いといった人流、濃厚接触の極みみたいなジャンルは愛好家?が一気に戻ってきて反動バブルみたいな状態になるという予想だ。

 

萎縮社会が定着するか、反動バブルが来るのか。きっと両方とも正解だろう。

 



 

ちなみに、すっかり銀座のクラブ活動をご無沙汰している私だが、コロナ後に前のように行き始めるかはビミョーだ。一度止めちゃった習慣は既に習慣とは呼べない。

 

以前は、しがらみというか、繋がりみたいなきっかけでちょくちょく出席?していたわけだが、そうした糸が限りなく細くなっちゃった今となっては行かないことに違和感が無い。

 

そんなものだと思う。誰だって習慣にしていたことが何かの理由で止まってしまうことはある。そうなると、不思議なもので、それに変わる別な習慣を作って過ごすようになる。

 

そう考えるとコロナ後の社会は淘汰の嵐が一層進むだろう。どんな分野も活況と沈没の両極端に分かれるような気がする。

 

なんだか煮え切らない話に終始してしまった。

 

全然話は変わるが、コロナ後にまつわる余談を一つ。

 

なんでもかんでも除菌する生活スタイルのせいで「普通の菌」にすら弱い人が増えるという話もある。

 

とくに子供は本来いろんな場面でいろいろな菌に触れながら耐性をつけて育っていくのに、それを怠ったせいで弱体化しちゃうんじゃないかという心配もあるらしい。

 

まあ、コロナ禍が35年と続いたわけではないので心配するほどの話ではないはずだが、ちょっと恐い話だ。

 

思い返せば、私が子供の頃はミミズを捕まえた手をそのまま洗わずにスイカにかぶりついたり、電車のつり革に神経過敏になることも無かった。

 

一説によるとコロナ禍の当初に言われた日本人が重症化しにくい、いわゆるファクターXは、結局は過去のウィルス感染歴と解釈するのが自然だとか。

 

すなわち、中国に近い日本など東アジアは以前から数え切れないほどの種類の“コロナっぽいヤツ”と呼べるウイルスがちょこちょこ流行していたという説だ。

 

ただの風邪やタチの悪いインフルなどとみなされて片付けられてきたそれらの“コロナっぽいヤツ”のせいで、根本的な耐性が世界の他の地域よりも有利に働いたという解釈だ。

 

そう考えるのが確かに自然だ。昨年このブログでファクターXはウォシュレットかもしれないと珍説を書いたが、どうやら違ったみたいである。

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/05/blog-post_27.html?m=1


なんだかんだ言っても日本の新型コロナによる死亡者数は、結局は通常のインフルエンザと変わらないレベルだった。

 

指定感染症としての「2類指定」をいつまでも見直さない国の姿勢を改めて問い直す必要があると思う。




2021年6月7日月曜日

酒を出す店は悪いのか


世の中に漂う空気ほどよく分からないものはない。曖昧で頼りないものに思えて、その一方で結構なパワーを持っている。

 

いわゆる同調圧力ってヤツもそのひとつだ。インターネット社会は私刑社会とも評されるが、その流れがコロナ禍で一層強まっている。

 

神経質に相互監視が行われ、異質な行動や意見、目立った存在はすぐに攻撃の対象になる。事なかれ主義が正義かのように勘違いされ、結果、自ら考えるという当たり前のことがおざなりにされる。

 

お上にとっては好都合だろう。飲食店への“要請”はその最たる例だ。東京では夜8時には閉めろ、酒は出すなという話が今や常識になっている。

 

リモートワークの奨励だけでなく、今度は出社した人は夜8時にまでに仕事を終わらせろなどと言い出した。根拠不明、まさに「やってる感」のためだけの号令だ。

 

大事なことは何か。本来はその一点を考えればいい話だ。人が密に集まらないこと。それこそが感染予防の目的である。

 

それなのに「酒を飲むな、夜は街にいるな」がメインの目的のようになってはいないか。実にトンチンカンだろう。

 



 

見回り隊の人々が、堂々と営業している風俗店を素通りして隣にあるガラガラの飲食店が酒を出していないか必死にチェックしていたという話を聞いた。もはや喜劇だ。

 

感染防止措置なのか禁酒法なのか、目的は何なのか。実にトンチンカンだ。

 

昼時に混雑する定食屋でグループが大声で騒いでいても問題ナシ。かたや夜に一組、二組程度の客が静かに酒を飲んでいる店は悪の権化のように扱われる。

 

要請に応じた飲食店への補償金がスピーディーに手当てされているならまだしも、多くの店が今年初めの分すら受け取っていないそうだ。

 

死活問題に直面する飲食店が要請に応じなくなっているのも当然だろう。

 

なんだか重苦しい書きぶりになってしまった。

 

というわけで、私は混雑している店は避けているが、今もアルコールを提供する店にちょくちょく通っている。どの店もしっかり感染予防に努めているので呑気に晩酌を続けている。

 



 

お酒を出す店もトラブルを避けるために、電話問い合わせの際には酒は出さないと答えたり、混雑していない時に限って酒をOKにしたり、中には外からの視線を気にしてウーロンハイや緑茶杯だけを出すなど臨機応変に対応している。

 

なんだかその臨機応変に対応させているエネルギーが無駄なことに思えて仕方がない。

 

時短営業要請だけでアルコール禁止ではなかった頃と、アルコール禁止にした今とを比べて明確に感染状況に差が出ているならともかく、よく分からないムード、雰囲気で右往左往させられる人たちがとても気の毒だ。

 

聞くところによるとオリンピックの選手村ではコンドームが無償配布され、酒の持ち込みも認められるそうだ。

 

そんな話を聞けば、必死に苦境に耐えている飲食関係者や一般国民が不快に思うのも無理はない。


まあ、選手村は宿泊施設だから酒を飲むのは問題ないのだろうが、飲食店への酒の持ち込みすらお上から規制されているご時世だから、ツッコミたい人が続出するのも理解できる。

  

いずれにせよ、すっかりオリンピックが“鬼っ子”みたいになってしまい、現場で頑張っている人やアスリート達はやたらと肩身が狭い思いをしているらしい。まさに負の循環だろう。

 

未知のウイルスであるコロナが原因だから仕方ないという理屈もあるが、はっきり言って詭弁だ。

 

政府による後手後手かつ細切れの政策、外交の失敗など、今の混沌とした状況は人災という側面が大きいことは間違いない。



2021年6月4日金曜日

冷やし中華は白米である!?

 

本番である。本番だ。別にイヤらしい話ではない。季節到来、冷やし中華を満喫できる季節である。

 

冬でも冷やし中華が食べたくなる私にとって、これからはスーパーの陳列棚にもネットショッピングの世界でも様々な冷やし中華が並んでいて嬉しい。

 

変態ぎみの私は外食では冷やし中華を食べない。あくまで家メシが基本だ。具材を乗せずに素っ気ない状態で食べるのが一番だと思っているからだ。

 



 

だいたいサラダじゃないのに何故キュウリが当たり前のようにトッピングされているのか、何故ハムを千切りにするのか、何故あの美しい麺を隠すのか、私にとって店の冷やし中華はちっとも魅力的ではない。

 

それ以前に麺の量が少ない。トッピングを先に全部食べてしまってから麺に向き合ってみると一目瞭然だ。呆れるほど麺の量が少ない。あれが許しがたい。

 

家メシとしての冷やし中華なら2玉しっかり茹でてドカンと皿に盛り付けて余計な装飾を排除できる。

 

一応、チャーシューを用意したり、冷凍保存しておいた牛皿を解凍してトッピングすることはあるが、麺そのものをツルツル食べるのが大好きである。

 

私にとっては、いわば白米みたいな存在である。おかずを別に用意して具の無い冷やし中華をコメのように主食とするわけだ。

 

市販の冷やし中華の味には正直さほど大きな違いは無い。スープというかタレの味に違いがあるぐらいだろう。

 

私はゴマダレが好きではないから必然的に王道の「甘酸っぱ醤油系」ばかり食べる。やはり冷やし中華と言えばあのスープが基本だ。

 

ゴマ自体は大好きで、わが家にもすりゴマが常備してあるのだが、いわゆるゴマダレの味は何となくニセモノっぽい気がする。

 

だからゴマが欲しい時は基本の“甘酸っぱ醤油ダレ”にすりゴマをジャバジャバと投入する。

 



 

ゴマダレだとネチョネチョ感ばかりが際立つのだが、すりゴマぶりぶりバージョンにするとゴマの風味がしっかり感じられてモゾモゾ感も良い感じだ。

 

よく分からない説明でスイマセン。

 

すりゴマぶりぶりの楽しさは、ソーメンを食べる時も同じだ。かつてこのブログで「ホンモノのゴマダレ」を熱く語ったことがある。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/04/blog-post_24.html

 

最初からゴマダレを使えばいいとご指摘を受けそうだが、まったく別モノである。ぜひトライしていただきたい。

 

最近はスーパーに置いていないような冷やし中華をわざわざネットで取り寄せることも増えた。正直、どれを買ってもビックリするほどの違いはない。

 




 

とはいえ、「わざわざお取り寄せしたんだもんね」という達成感みたいな悦びを味わえる。

 

「オレって冷やし中華だって遠方から取り寄せるほどこだわりの強い男なんだぜ」と誰もいない自宅で一人つぶやく。

 

こういう時間がシングルライフの何よりの楽しみである。気が狂ったのかとか、淋しそうで可哀想などと思ってはいけない。

 

ちなみに喜多方の有名店「河京」の冷やし中華が最近のお気に入りだ。スープが優しい味で嬉しい。酸っぱさがほぼ無いので好き嫌いが分かれるかも知れないが、朝飯に冷やし中華を食べたくなる私にはマイルドさが好都合である。

 

冷やし中華といえば、一般的にキュウリやキンシタマゴ、ハムあたりが千切りになって乗っかっている姿を想像する人が大半だと思う。

 

私の場合、冒頭の画像のような一皿こそが冷やし中華である。スッポンポンである。暑い季節に余計な衣は脱ぎ捨てて解放感たっぷりになっている姿が美しい。

 

この夏、あと何十食ぐらい食べるのだろうか。

 

 

 

2021年6月2日水曜日

秘すれば花 下ネタです


このブログを読んでいる知り合いから「最近は下ネタが少ない」とお叱りを受けたので今日はワイ談です。

 

死語になった下ネタワードの代表格が「へアヌード」である。90年代初めに世の中を大騒ぎさせた“ヘア論争”は特定の年代の男子にとっては非常にインパクトが強かった。

 

いま考えれば、まさに不毛な論争だった。ダジャレです。すいません。

 

ウィキペディアで「ヘアヌード」を調べると実に面白い。あの時代を覚えている男にとっては読み物として充分に楽しめる内容にまとまっている。

 



 

ネットを開けば無料動画でもノーカット丸出し、満漢全席!?が当たり前になった今の時代からは想像も出来ないほど牧歌的だった気がする。

 

陰毛が写っているか否か。このテーマは昭和の頃に思春期を過ごした男子にとっては、米ソ冷戦の行方より重大な関心事だった。

 

海外旅行土産の雑誌はアンダーヘアが写っているのが当然だったが、あれはあくまで「外国人の密林」。当時の青少年にとって「日本人の密林」は屋久島の縄文杉のように未踏の世界だった。

 

90年代初めに実質解禁となったわけだが、解禁とともに世の中から失われてしまったのが想像力、妄想力のたくましさである。

 

本気で淋しいことだと思う。今の時代に思春期を迎える男子達に心底哀れみを覚える。気の毒である。

 

想像をかき立てることが大人への階段だった。禁断のノーカットエロ本を入手した時の感激や、いざ本物を間近で見たときの達成感は強烈だった。

 

今や何の苦労もなく、ネット動画ですべてが見られるし、いざ本物に対峙できたとしても脱毛全盛だから、そもそも密林が伐採されていることも珍しくない。

 

隠されている、簡単に見ることができないからこそ神秘であり憧れを募らせる。渇望感こそ人間にとって大切なモチベーションだと思う。

 



 

和装のうなじに惹かれるのも全てを包み込んだ衣装のせいで、女性の魅力的なラインがそこしか垣間見えないからだろう。

 

スッポンポンの女性を前にして、うなじをじっくり眺める男がいないのが何よりの証拠である。

 

ミニスカートから覗く脚線や胸元の開いたドレスにドキッとするのも、肝心な部分が見えないことが理由だ。

 

やはり、真っ裸の女性を前にしたら脚や胸元を凝視することはない。秘すれば花という言葉に通じる真理だ。

 




 

その昔、筒井康隆の短編だったか、記憶が定かでは無いのだが、風刺の効いた小説で、未来の社会におけるエロを描いた話があった。

 

ヘア解禁のあと、局部モロ出しも当たり前になると、その次は内臓を見たくなって、内臓画像がエロ本みたいな対象になり、しまいにはガイコツの姿こそ究極のエロになっていくという話だ。

 

レントゲンのガイコツ画像を見て男達が狂喜乱舞、大興奮に陥るわけだ。実に哲学的?な未来予想のように思えた。

 



 

ヘアヌードの話から随分と関係ない方向に話が飛んでしまった。

 

思い返してみると、牧歌的だった昭和の頃に少年時代を過ごしたことは幸せだったのだろう。

 

今よりも禁断の世界が多かった。だから必死に想像し妄想し、仲間とともに研究に励み、突破することへの創意工夫をこらした。

 

そこから生まれた悲劇喜劇もいっぱいあった。あの情熱やエネルギーが若さであり、大袈裟に言えば生きる悦びだったのかもしれない。

 

なんだか堅苦しい書きぶりになってしまった。

 

最近は気のせいか、ダボダボの服を着た女性が多いような気がする。ハヤリなんだろう。男としては少し淋しい。あまりダボダボだと想像力、妄想力を発揮するのも一苦労?である。

 

暑くなる季節だし、女性の皆様には面積の少ない服装で闊歩してもらいたいものである。想像力、妄想力という社会にとっての活力の根源を枯らさないためにも切にお願いしたいものである。

 



 

ジェンダー、ジェンダーと騒がしい今の時代、こんなことを声高に叫んでいると逮捕されそうだが、大半の男がごく普通にそう思っているのは確かだ。

 

 

 

 

 

 

2021年5月31日月曜日

赤坂「辻留」 文化を味わう

ガサツな日常生活を過ごしているとキリっとする場面が少ない。それはそれで呑気で結構なことだが、時にはシュっとした気分になることは大事だ。

 



 

というわけで、珍しく日本文化を食べに出かけてきた。赤坂にある「辻留」。懐石料理の名店だ。シュっとした顔を作って訪ねてみた。

 

アプローチからどことなく凜とした雰囲気が漂う。若い頃なら変にビビったのかも知れないが、いっぱしのオジサマとなった今ではこういう風情に心が躍る。

 

店内も渋さが際立つ。こういう空間を喜べるのが正しい?大人の姿だ。茶の湯の世界に通じる詫びさびを体現した空間は過剰な装飾は無く清々しい。

 



 

床の間もあっさりと美しい。楚々とした一凜の芍薬が「これぞニッポン」という雰囲気を強めてくれる。

 

私は保守的な人間だからモダンよりも上質な古めかしさに惹かれる。古めかしいというと聞こえが悪いが、古いものが醸し出す空気感は一朝一夕では作れない貴重なものだ。

 

こういう場所に身を置くと、食事を楽しむだけでなく、漂う空気感に身を包まれることを喜ぶ時間を過ごせる。

 

なんだか堅苦しい書き方になってしまった。実は、こちらの若女将とは高校時代からの知り合いだ。だったら今まで何度も通っていても良さそうなものだが、ようやく機会を作って初訪問。


実際は若女将と高校時代のバカ話で盛り上がったりして普段と同じようにユルユルした気分で過ごした。

 



 

日本料理の華といえば椀物だ。これが一番楽しみだったので蓋を開ける前からワクワクした。この日は穴子しんじょ。

 

香りも最高、味わいも最高。自分のボキャブラリーの乏しさを痛感する。日本料理が世界遺産になったのはこういうことなんだと深く実感する。

 

出されたすべての料理に共通するのが塩梅の完璧さだ。強すぎず弱すぎず、まさに絶妙。自分が普段いかに乱暴な味付けのものを食べているのかを改めて思い知る。

 

素人ならもう一段階、いや二段階ほど味を強めたくなるその手前とでも言おうか。じっくり味わえば、薄くもなく濃すぎることもない絶妙な塩梅を感じる。

 



 

焼き魚はふっこ。スズキの若魚だ。これまたすべての加減が絶妙なのに加えて、添えられた蓼酢が抜群に美味しかった。きっとこれが本物の蓼酢なんだろう。本物を知らないことは恥ずかしいことである。

 

高級な料理屋さんの楽しみは食べもの以外にもある。器だ。「器は料理の着物」だから上質な料理を上質な器で楽しむ時間はとても贅沢な気分になれる。

 



 

一時期、日本中の窯場めぐりに励んだ私だが、家庭人生活を卒業して以来、器使いもガサツになっている。この日、魯山人の器を始めとする名品を使わせてもらったことで、今更ながら器を愛でる楽しさを思い出した。

 

今の住まいにも結構自慢できる器はあるのだが、最近はレンジでチンばかりだから無印良品で買った安皿が中心だ。心の豊かさを保つために時には上等な器を使わないとダメだと反省。

 

話を戻す。シメのご飯に意表を突かれたのも印象的だった。汁かけ深川飯のような一品である。アサリの質も抜群で、出汁と味噌のバランスが感動的。まさに次元の違う極上の味わいだった。

 



 

受け売りではあるが、懐石料理はもともと茶の湯の席で客人をもてなす料理だ。食後のお茶には心して向き合わないといけない。

 

とはいえ、茶の湯には不作法な私である。若女将にいろいろ教わりながら不器用に味わう。こういうところをシュっと決められない自分が情けない。

 

器収集に熱中していた頃、必然的に茶の湯の世界に足を踏み入れそうになったが、そっちの器に手を出すとお金がいくらあっても足りない。そんな理由もあって酒器や小皿、壺ばかりに目を向けていた。

 

あの頃、少しでもお茶の世界をかじっていればこういう場面でも、スマートに振る舞えたはずだ。激しく後悔する。

 



 

この粉引の抹茶碗は李朝の流れを汲む小林東五さんの器だ。酒器ですら現代作家の中ではトップレベルに高い値が付く作家だ。抹茶碗のやわらかい風合もそれはそれは魅力的だった。

 

正直、お茶の味は記憶に無い。その代わりに手のひらで感じた器のぬくもりは覚えている。

 

というわけで、空間、器、食事などをしっかり堪能させてもらった。何かとややこしい今のご時世、時にはこんな時間を過ごすのも悪くない。心の健康管理につながるような気がした。




2021年5月28日金曜日

小石川「わたべ」の鰻


今の世の中、マズい食べ物にあたる機会はあまりないが、先日、ウーバーイーツで頼んだ豚丼のマズさに衝撃を受けた。

 

店の名前は書かないが、辛い豚丼がウリらしく、とりあえず普通の豚丼と辛い豚丼の2つを頼んで味比べてしてみた。

 

普通の豚丼は何とか普通だったが、辛いヤツがダメ。味覚なんて人それぞれだが、あれは誰もがマズく感じる味だ。辛いだけで豚肉の旨味なんかどこかに吹き飛んでいた。敗北感バリバリだった。

 



 別な日、若者が好きだというヤンニョムチキンとやらを食べてみようと、これまたウーバーで頼んだ。辛い豚丼ほどではないが、ヘンテコな味でビチャビチャしてるばかりで私にはダメだった。

 

いい歳して若者の世界を覗こうとした私の失敗だ。田村正和ならきっと頼まない食べ物かもしれない。やはり大人は大人らしくが基本である。

 

やはり、酸いも甘いも噛み分けた大人としては間違いのない美味しい食事をしたい。

 

というわけで、またぞろウナギを食べに出かけた。ウナギなら田村正和もうなずいてくれるはずだ。

 

最近は、中央区界隈でしかウナギを食べていなかったので、久しぶりに文京区まで遠征してきた。小石川にある人気店「わたべ」。駅としては春日駅が近い。3年ほど前に一度だけ訪問したことがあるが、評判通りに上質のウナギを味わえた覚えがある。

 




 

おとなしくノンアルコールビールでスタート。レバ焼き、肝ソテー卵黄がけ、う巻きである。酒が飲めれば美味しさも三割増しだろうが、こればかりは仕方ない。

 

この店、いちいち仕事が丁寧なのが有難い。温めた器を使い、料理を運ぶタイミングにもしっかり目を配ってくれる。

 

う巻きは私好みの甘い卵焼きではなく、だし巻き卵にウナギが包まれている感じ。これはこれで京都のう巻きみたいで悪くない。

 


 

前に来た時、この店では白焼きには身山椒を添えて提供するスタイルが印象的だったのだが、どうやらこれが店の定番のようだ。

 

白焼きにはわさび醤油が欲しくなるが、この店の白焼きは塩加減が絶妙だから粒の山椒の身と合わせるだけでウマい。

 

適当なサイズに切った白焼きに23粒の山椒を乗せて口に放り込む。ウナギのジューシーさが広がると同時に噛めば山椒の風味が弾ける。大人の楽しみとはこういうことだと痛感する。

 

特上の鰻重がこれまた絶品だった。ホワホワした食感、焼き加減、スッキリしたタレが高い次元で融合!している。



 

最近、蒸さずに焼く地焼きウナギが少しずつ東京にも勢力を伸ばしてきているが、やはり東京人としては蒸したウナギこそウナギの王道だと感じる。

 

専門店の特上鰻重ともなると今や5千円超えは当たり前になってしまった。都心部になると67千円も珍しくない。

 

日本橋の某店では特上の上に位置する極上鰻重が年々値上がりして今では一人前9千円になってしまった。

 

その点、こちらの店は特上でも4400円である。ウナギは肉厚で量もご覧の通りギッシリである。良心的だと思う。

 

一品料理や白焼きも堪能するならボリュームとしては3500円の上鰻重で充分かもしれない。名店と呼ばれるウナギ屋さんの中では割安感がある。

 

コロナ禍の中でお店は大変だろうが、客としては以前より予約が取りやすいのは有難い。文京区在住の頃にもっと頻繁に行けば良かったと後悔した。

 

店内も綺麗で風情があり、しっぽりウナギを堪能するにはとても良い店だと思う。大手を振ってお酒も楽しめる日が来れば再訪したい。



2021年5月26日水曜日

「田村正和」も教科書だった

 

7年ぐらい前に「高倉健が教科書だった」という話を書いた。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/11/blog-post_26.html?m=1

 

訃報に接していろいろと思い浮かんだことを書き殴ったわけだが、今度は「田村正和」である。享年77。希有な大スターがまた一人この世を去ってしまった。

 




 

いまさら「田村正和さん」と表記するのもピンとこないので、あえて「マサカズ」と書かせてもらう。

 

訃報を伝えるメディアは古畑任三郎の話で持ちきりだったが、私にとってマサカズは古畑任三郎ではない。究極の近寄りがたい二枚目俳優というイメージである。

 

私が高校生の頃、浅丘ルリ子と共演していた「土曜日曜月曜」というドラマにハマった。さほど話題にならなかった番組だが、マセガキだった私はマサカズの世界観にシビれた。背伸びしたかった私にとってキザなセリフしか口にしないマサカズがただただカッチョ良かった。

 

悪く言えばキザ過ぎる。神がかったキザだ。逆に言えばこの世に存在しないほどのカッチョ良さだった。スターという存在は身近なものではなく、あくまで非現実的なものだとすればマサカズは大スターだった。

 

コミカル路線もこなすようになる前のマサカズはちっとも親しみやすい感じではなかった。孤高の二枚目だった。

 

高倉健が、いわば男が惚れるカッコ良さだったのに対して、マサカズの場合は、男がイライラするカッコ良さだったのだろう。

 

子供だった私はイライラするよりも純粋に二枚目の振る舞いを少しでも吸収したかった。必死に画面のマサカズに憧れ見つめた。もはや私のヒーローだった。

 

1ミリも実践できなかったが、当時はマサカズが二枚目路線を目指す大人の教科書だと思って何かと参考にしようと思っていた。


私がいまも膝下丈のロングコートしか着ないのはマサカズの影響である。あの独特の髪型の襟足の部分をマネしようかと模索したこともあったが、まだ実現できていない。

 

その後、世の中は超絶的な存在だったマサカズに嫉妬して、彼をお笑いのネタにし始める。モノマネの格好の素材にされ、気付けば「テメレメセケズ」になってしまった。

 

「テメレメセケズです」。誰もが低い声でそう口にすればマサカズのモノマネが完成する。ぜひ試していただきたい。私もマサカズのモノマネをこれまで100回以上はしている。

 

この前の日曜日、予定のなかった私は丸一日を「田村正和の日」と決めてずっとマサカズの出演作を見ていた。

 









 

上の画像は上2枚が40代前半、下2枚が還暦の頃のマサカズだ。お相手は当時20代前半だった竹内結子。軽く35歳以上の年齢差をモノともせずチューもしていた。マサカズの面目躍如である。

 

40代前半のマサカズはギラっとして危険な香りがする。還暦過ぎのマサカズはさすがにちょっと疲れているが、それはそれで別次元の渋さが漂う。

 

次に載せる画像は20年ほど前の「さよなら小津先生」というドラマでのシーンだ。エリート銀行マンから転落したマサカズが腰掛けのつもりで始めた高校教師として活躍するドラマだ。高校生役にまだ無名だった瑛太、森山未来、勝地涼、水川あさみが出ていた。一気に全話見てしまった。

 







 50代半ばから後半ぐらいの頃のマサカズである。私にとって今から数年の自分の年齢と重なる。こんなオジサマとして生きていければどんなに幸せだろう。

 

この頃のマサカズも素敵だ。成熟しきって達観の境地に近づいている。すべてに余裕を感じる。50代をこんな雰囲気で駆け抜けたマサカズを改めて尊敬した。見習いたい。

 

かつてスターといえば、自分がなりたくてもなれない人間を演じてくれる存在だった。石原裕次郎は無敵で太陽のような存在、高倉健は義理と仁義を寡黙に守り、渥美清は正直一本で世間体を気にせず放浪してくれた。

 

マサカズしかり。視線一つで女性を虜にして、立ち姿だけで女性を夢中にさせた。普通なら恥ずかしくて言えないような愛の言葉をキザに語ってくれた。

 

ケンカが強い、頭が良い、能力が高い等々、テレビ画面やスクリーンで格好良い男が描かれる場面は多い。そんな設定や背景にまったく関係なく、ただ画面に映っているだけで格好良い男といえばマサカズをおいて他にいなかった。

 

男なら誰もがそうなりたいと思っても決してなれない色男を見せてくれた。

 

いま、あれほどの格好良さを演じられる俳優はいない。不世出のスターと評しても大袈裟ではないと思う。

 

ドラマ「ニューヨーク恋物語」で発したセリフを載せてみる。

 

「愛が欲しいのか? 愛が欲しいなら俺のところには来るな。 俺は愛を与えられるような人間じゃない」

 

皆様、あの音色を思い出して頭の中でそのシーンを甦らせてみてください。シビれます。こんなセリフを違和感なく言ってのける俳優はマサカズ以外にはいない。

 

やはり田村正和も教科書だった。高倉健という教科書もそうだが、結局、教科書ってちゃんと学んだつもりでも、なかなか身につかないものだ。今からでも復習して残りの人生に活かせるようにしたい。