2023年9月29日金曜日

オトナの食べ物?

 

若い頃には見向きもしなかったのに今はシミジミ味わう食べ物は多い。お吸い物なんて昔はその存在意義すら理解不能だったのだが、今では出汁の旨味にウットリする。

 

誰に教わるでもなく年齢とともに勝手に感動できるようになるから実に不思議だ。秋の気配とともに恋しくなるのが土瓶蒸しだ。若い頃にはちっとも惹かれなかったが、いつの間にかこの季節には欠かせない一品になった。

 



これは新富町のお寿司屋さん「なか山」で出てきた一品。液体のくせに酒の肴にもなる卓越した料理だと思う。外国人旅行者には土瓶蒸しで陶然とする感覚は理解できないはずだ。

 

大人の味と一口に言っても幅広いが「外国人旅行者が理解できそうにない味」が一種のキーワードになるような気がする。イカの塩辛、あん肝、奈良漬けあたりの美味しさは日本人ならではの味覚だと思う。

 



うざくである。築地の宮川本廛で食べた。私は中央区界隈で4,5軒の鰻専門店を利用するが、どの店でもうざくは外せない。これと白焼きを肴に一献傾けながら鰻重を待つ時間が大好きだ。

 

まさかウナギ自身も自分が酢とキュウリに混ぜ合わされるとは思っていなかっただろう。名店のうざくはキチンと温かいウナギを使うのが嬉しい。これもオトナの食べ物の代表格だと思う。

 

先日、実家を訪ねたついでに荻窪の老舗蕎麦屋「本むら庵」に出かけた。20代の頃から利用している店だが、若い頃は蕎麦をいくら食べてもちっとも満腹にならないから天重をメインにしていた。今ではツマミをあれこれ食べて蕎麦を二枚も食べれば大満足である。

 



蕎麦がきもこの店では欠かせない。これもまたオトナの食べ物だ。もっちりした食感で切り揃えた蕎麦とはまるで別物の味わい。これも若僧時代は何の感慨もなく惰性で食べていたが今では目の前に置かれるとウキウキする。

 

この店のせいろは900円なのに対して鴨せいろは1800円もする。2倍の値付けだけあって鴨せいろのつけ汁がなかなかのもの。細かい鴨肉とネギがどっさり入った温かい汁だ。せいろを浸して味わうとこの上なく幸せな気分になる。

 




最近は東京でも趣向を凝らしたうどん屋が増殖して若者がうどん屋に行列を作っている光景を見かける。歳のせいか「それは西の食いモンだろう?」などとディスってしまう私だが、やはり東京人としては蕎麦がイチ押しである。

 

この春に引っ越した日本橋界隈には蕎麦の名店がいくつもある。なのにまだちっとも開拓できていないことが最近の私のストレスでもある。どうでもいい肴をつまみに安酒場で飲むよりも蕎麦飲みに励む方が正しいオトナだと思う。頑張らないといけない。

 

さて、風流人を目指しているかのような書きぶりになってしまったが、ジャンク飯をかっこむことから卒業出来ないのが私の悪い癖である。それも飲んだ後の2軒目にドカ食いをしがちだ。脳の中に悪魔が住んでいるのだと思う。

 



某日、寿司屋でしっかり飲み食いした後に時計を見たらまだ夜の8時前、脳の中の悪魔が「8時前に食えばカロリーはゼロだよ」と囁く。バカな私はそれを信じて吉野家に突入。

 

以前なら「特盛り」を嬉々として食べたのだが、さすがに最近は自制している。白米は通常の量で上だけが多い「頭の大盛り」に留めている。「並」を注文することだけは男のプライドが邪魔をして出来ない。

 

この時は“肉々しい”気分だったので通常より肉が多い「肉だく牛丼」にしてみた。「頭の大盛り」との違いがよく分からなかったので半熟たまごを追加するついでにタッチパネルで「頭の大盛り」も選択してみた。

 

肉がたくさんの牛丼、おまけに頭の大盛りということはバカが考えても肉でいっぱいである。それでも合計で800円程度だ。日本経済の凋落ぶりにこの時ばかりは感謝したくなった。

 



出てきたのがコレだ。肉タワーみたいなのを想像していたが残念ながら肉が別皿でやってきた。でも肉々しい気分の私には幸せな眺めである。別皿肉もドンブリに加えて紅生姜を乗っけて半熟卵を混ぜ混ぜしてかっこむ。

 



得も言えぬ幸福感に包まれた。寿司屋でツマミをあれこれ頼んで握りも10貫近く食べた直後だったのだが余裕で完食。つくづく健康体でいることの大切さを痛感した。

 

こんな食事を続けていたら健康体でいられる時間も残り少ないかもしれない。まあ、こんな暴飲暴食をしなくても身体がダメになる時は来るわけだから出来る時にガッツリ食いをするのも悪くない。

 

とにもかくにも街の至る所に牛丼屋があるニッポンバンザイである。

 

 

 

 

 

 

2023年9月27日水曜日

胸キュン


「趣味がJKみたい」。最近、大学生の娘からそんな事を言われる。若者が観るような映画にハマってオイオイ泣いている私の純情ぶりが娘にはまるで女子高生みたいでブキミに映っているようだ。

 

以前、帰宅した際に「頬っぺたにラメが付いてるわよ」と指摘され、以来、ウチでは時々「ラメ男」と呼ばれている。いわば「ラメ男なのに趣味が女子高生みたいなオジサン」である。ヘンテコである。

 

だいぶ前に全国の高校生が涙した映画「君の膵臓が食べたい」に感激して以来、若者の胸キュン映画をナゼかよく観るようになった。我ながら変だと思う。

 



先日は、今年始めに若者界隈で評判を集めたNetflixの配信ドラマ「初恋」にドハマりしてほぼ一気に観てしまった。これまた感涙の極みだった。主人公の高校生時代を演じた八木莉可子という女優さんが何とも素敵だった。

 

Netflixの配信ドラマといえば「聖域」という相撲道を極めていく不良少年の成長物語もとても面白かったが、胸キュンを求める私としては「初恋」のハラハラドキドキ感のほうが堪らなかった。

 

純情、純愛という私にとっては無縁になってしまった大昔の感覚を今になって切なく懐かしがっているのかもしれない。これもまた人生を振り返る年代になってきた証なのだろう。

 

青春胸キュン系ではないが、「そしてバトンは渡された」という最近の映画も素晴らしかった。青春ジャンルとは違うがこれもまた胸キュン映画と言える。永野芽郁ちゃんが実に可愛かった。大森南朋や市村正親がいい味を出していてなかなかの名作だと思う。

 


単なる恋愛映画よりもちょっとファンタジーがかった作品に昔から惹かれる。悪くいえば奇天烈な話に妙に引き込まれる。

 

若い頃はトムハンクスが名を売ったB級コメディみたいな奇天烈系にハマった。愛した彼女が実は人魚だったという「スプラッシュ」、子供の頃に戻りたいと願っていたらホントに子供になってしまった「ビッグ」などは何度も観た。

 

デパートのマネキンが人間に変身するその名も「マネキン」という奇天烈ラブロマンス映画も大好きで今もスターシップが歌った主題歌「Nothing's Gonna Stop Us Now」をしょっちゅう聴いている。

 

それらの洋画は1980年代の作品だ。時代の空気も相まって能天気に楽しめてちょっぴりホロっとする名作ばかりである。

 

その後の私の趣味を決定的にしたのが1990年の洋画2本だ。「ゴースト・ニューヨークの幻」と「オールウェイズ」である。両方とも主人公が死んじゃって生き残った彼女を必死に守る奇天烈なラブストーリーである。

 



単純明快な私はこういう映画を見ると妙に感情移入してしっかり泣く。正直に言えば号泣する。ちょっと変かもしれない。

 

要は「死んじゃったけど成仏しないで誰かのもとに出てくる」みたいな作品は総じて私の好みである。浅田次郎原作、高倉健主演の「ぽっぽや」、東野圭吾原作、小林薫と広末涼子の「秘密」あたりの日本映画も泣けた。

 

やはり東野圭吾原作の「ナミヤ雑貨店の奇跡」、浅田次郎原作の「地下鉄(メトロ)に乗って」あたりも本来ありえない奇天烈話なのだが、そこが私にとっては魅力的だった。

 

アニメ映画「君の名は」もそっち系の話だと聞いたので今年になってようやく観てみたのだが、しっかり泣いた。子供が観る映画だろうとまったく興味がなかったことを後悔したほどだった。

 

「死んじゃってる」「タイムスリップしちゃう」。こういう要素をうまく織り込んだ映画だと私の涙腺は崩壊する。現実から遠すぎるから逆に感情移入しちゃうみたいだ。

 

そんな私をまた大泣きさせた映画に出会った。昨年暮れに公開された「月の満ち欠け」がそれ。大泉洋と目黒蓮、有村架純が熱演している。

 


メメと架純ちゃんの切ないラブシーンに泣き、大泉洋の切なさに泣き、この30年ぐらいの軌跡を時代を交互に描きながら感動の終盤に持っていくストーリー展開にすっかりやられてしまった。

 

親子の愛、夫婦の愛、恋人への愛がすべて詰まっていた。悪役なんて一人しか出てこない。上で紹介した映画「そしてバトンは渡された」で最高の善人役だった俳優だけが悪者。とにかく私には刺さりまくる作品だった。

 

気付けば50代も半ばをとうに過ぎ、純愛だの夫婦愛だのとはすっかり無縁になった私だ。そんな環境に身を置いていると、映画が描く美しく尊い人間の絆みたいなものに憧れにも似た気持ちを抱くのだろう。ちょっとセンチな気分になる。

 

いま思えば夫婦愛はさておき、若い頃の胸キュンな純愛は人生経験の中でも貴重な時間だったと痛感する。あんな気持ちになるのは来世までお預けである。

 

もし私が池に斧を落として拾ってくれた神様に願いを一つだけ叶えてやろうと言われたら、きっと純愛の気持ちを感じさせてくれと願うはずだ。きっとそうする。

 

いや、やはり「どぶろっく」の歌と同じように「大きなイチモツをください」と頼んでしまうような気がする。

 

以上です。

 

 

 

 

 

2023年9月25日月曜日

思い出と胸焼け


自分が若造だった頃、中高年世代をオッサンと小バカにする一方で、重厚感や円熟ぶりに一種の畏怖の念も感じていた。気付けば私もそっち側の人である。若者に畏怖の念を抱かれるはずもない日々を過ごしているが、それなりに重厚感は出てきたのだろうか。どうも怪しい。

 

オジサマ世代になってみたらみたで案外頭の中は若造時代と似たようなものだと感じる。もちろん、知識や経験を重ねてそれなりに人としての幅は広がり、変に力まなくなったが、若い頃に勝手にイメージしていた“立派な大人”とは違う気がする。

 

尊敬する祖父が5060代の頃は何を考えていたのか、どんな感覚で日々を過ごしていたのか、最近はそんなことが頭をよぎる。祖母もしかり、ご先祖様達の中高年時代の頭の中を覗きたい気持ちになる。

 

そんなことを考えながら夜の銀座をブラついていたら老舗の天ぷら屋「天國」を見つけた。以前は中央通り沿いにビルがあったが、少し奥まった路地に移転していた。この店の特製かき揚げ丼を祖父が好きだったことを思い出して暖簾をくぐってみた。

 



昔ながらの東京の天ぷらは関西勢に押されて最近はあまり人気がないように感じるのは気のせいだろうか。私自身もあまり食べていない。衣がちょっと重ためで天つゆにビシャビシャつけて食べたくなるのが私が思う東京流である。

 

芸術的に薄い衣をまとい、お塩でどうぞ、などと言われる天ぷらは個人的には苦手だ。もちろん好みの問題ではある。美味しさだけで選ばされたら東京風は確実に不利?である。でも身に染み込んだDNA的感覚で私は天つゆビシャビシャで食べる天ぷらが大好きだ。

 



というわけで久しぶりの天國である。目指すはかき揚げ丼だが、その前にちょろっと晩酌。塩辛は正しく塩辛く、ツナとオニオンスライスの盛り合わせはちゃんとしたツナがたっぷりで抜群の一品だった。

 




普通の天ぷらも少し頼む。海老とキスだ。いい感じに衣をまとっている。大根おろしをどっさり入れた天つゆに浸して味わう。正しい東京天ぷらである。もっといろいろ注文したかったのだが、シメのかき揚げ丼のために我慢する。

 

まだまだ満腹感には程遠いちょうどよい頃合いで特製かき揚げ丼がやってきた。4千円ぐらいのなかなかの値付けである。他に用意されている季節のかき揚げ丼や海老などの天丼に比べても別格の値付けだ。

 



で、小エビと貝柱のみで作られたかき揚げがデンと乗っかったドンブリが登場。茶色を通り越して凄い色である。「これだよ、これ!」と一人つぶやきながら大事なことを思い出した。非常に大事なことである…。

 

かき揚げ丼はあくまで祖父が好きだった一品であり、子供の頃に同行していた私は常に違うものをバクバク食べていた。実は私は特製かき揚げ丼が好きではなかったことを急に思い出してしまった。

 

まさに後の祭りである。思い出補正のせいで勝手に懐かしい味だと思いこんで注文してしまったわけだ。ショックである。

 

でもウン十年も経っている。きっとオジサマ世代になった私なら美味しく感じるはずだと悪い記憶を振り払って無心に食べ始めた。キリっとした味付けのタレがかかった白米はウマいのだが、肝心のかき揚げがビミョーだった。

 


 

ファンの人には申しわけないが私の味覚が子供時代のままだったせいか、ちっとも感動しない。ただただ重たい。頑張って食べるハメになった。祖父を思い出しながら郷愁に浸るつもりがフードファイト状態になってしまった。

 

「思い出は美しすぎて」みたいな話にしたかったのに結果は胸焼けバリバリである。店を後にした後で膨満感解消のために少し歩く。結局、夜のクラブ活動エリアに足が向いてしまった。

 

太田胃散をもらうことを第一目的に久しぶりに顔を出すクラブで一休み。かつて祖父が愛したオールドパーを炭酸割りにしてグビグビ飲んでゲップを連発してから帰路についた。

 

思い出は必ずしも美しいものではないと痛感させられた秋の夜だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年9月22日金曜日

尻を追いかける


尻を追いかける。いうまでもなく好色男に使われる言葉である。「いい歳していつまで女のケツを追っかけてるんだ!?」。私が1年に365回ぐらいは言われる言葉でもある。

 

「尻を追いかける」を辞書で紐解くと「色を好み、女性にやたら好意を振りまくさま、ちょっかいを出してばかりいるさま」だという。ふむふむ。ちょっかいを出すぐらいの私にもピッタリ?である。

 



「オッパイを追いかける」とは言わないところが実に正しい。世の中にはオッパイ星人と呼ばれるオッパイ愛好家がたくさんいるが、私は女性の魅力はあくまで尻だと考える。すなわち尻派だ。「いい歳して…」と避難されようがいつまでも尻を追いかけ続ける男でいたいものである。

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http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/03/blog-post_6.html

 

さて、「いい歳して…」問題である。はたして何歳までが“尻追い人”として非難されずに済むのだろう。一般的には中年と呼ばれるあたりで根拠の曖昧な「分別」という壁に突き当たる。多くの人がそこで引退してしまう。

 

しかし、そんな線引きは実に馬鹿げている。現に老人ホームでは80歳を過ぎたような老人たちが恋のサヤ当てを演じて傷害事件まで起きたりする。


「バカだねえ。みっともない」と大半の人はそんな事件を鼻で笑うが、私はある意味うらやましく感じる。自分がその年になってそこまでの情熱を持っていられたら幸せだろう。

 

かの大岡越前のエピソードで知られるように女性の性欲は俗に「灰になるまで」とも言われる。男性だって「灰になるまで精神」は必要だと思う。たとえ機能に問題があっても異性を求める気持ち自体は失くす必要はないだろう。

 

ジャニーさんみたいにタチが悪いのは別だが、たかだか中年ぐらいの年齢でそっち方面から引退しちゃったような顔をするのは考えものだ。

 

とかく常識なんてものは安定秩序を求める一種の同調圧力が生んだ根拠曖昧な得体の知れない空気みたいなものである。そんなものに闇雲に縛られていては人生は味気ないものになる。

 

サッカーの三浦カズだって50代半ばを過ぎて今だに現役だ。非常識の極みである。でも彼にとって年齢は単なる数字に過ぎないのだろう。現役選手で居続けることは彼にとっては常識であり自然な姿なのだと思う。

 

私もいまだに“尻追い人”を実践している。正直に言えば時には面倒に感じる。まっすぐ帰宅してビール片手に豚丼特盛を食べながらバラエティー番組を観ているほうがラクチンなのは事実である。

 

でもそんな時間ばかりではオスとして錆びつくだけだ。時には自分に鞭打ってシュっとした顔を作ってオネエサンの尻を目指す。「あわよくば…」というヘタれた考えではなく、あくまで「何としてでも」ムホムホな展開になるよう知恵も絞るしカネも出す。

 

これって結構なエネルギーが必要だ。時に疲れてバテバテになる。バカと言われればその通りだがバカで結構だ。この歳になるとバカなことに熱中するのは案外大事なことだ。

 

先日、若いオネエサンと鰻屋さんに行った。細めのオネエサンだからスペシャルな鰻重は食べ切れないと睨んで、私の方はショボい鰻重にしてみた。オネエサンから回ってくるはずの厚みのある鰻を食べれば充分だと判断したわけだ。

 



ところが、いつまで経ってもオネエサンから鰻が回ってこない。ちんまりと痩せた鰻を食べながら待っていたのだが、気付けば厚みのある極上鰻は全部オネエサンに食われてしまった。

 

満塁で押し出しフォアボールを与えてしまったような、リレーでバトンを落としちゃったような、何とも言えない切ない敗北感を味わった。

 

この詰めの甘さは“尻追い人”として生きていく私の弱点である。仕方ないからそのオネエサンには違った意味でしつこくお仕置きをしてしまった。ガハハハ、何ともベタなオヤジの戯れ言である。

 

まあ、こんな平和な日常を過ごしているのは幸せなことだ。人生後半戦、まだまだ現役で頑張ろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

2023年9月20日水曜日

変態的嗜好


誰もが他の人からすればビックリ仰天の嗜好を持つ。下ネタ方面のことしかり、食べ物のことしかりである。下ネタ方面の変態的嗜好については書き始めたら三日三晩でも足りないぐらいだが、今日はそっちではなく食べ物の話。

 

カップヌードルに酢を大量投入して喜んで食べている知り合いがいた。私も普通の醤油ラーメンには酢を入れて味変を狙うことがあるから全否定は出来ないが、カップヌードルと酢の組み合わせはビミョーだろう。

 

もちろん、本人が旨く感じるのなら他人がとやかく言う話ではない。私の場合、カップ麺だと「緑のたぬき」などの蕎麦に関してはヘンテコな食べ方を実践している。お湯を入れたらすぐに食べ始めるという変態的嗜好だ。

 

ラーメンやうどんのカップ麺だと熱湯を入れてから1分ぐらいは待つのだが、ナゼか蕎麦だと速攻で食べ始める。ボリボリゴソゴソした食感が最高だ。お菓子を食べているような楽しさがある。

 

子供の頃は変態的な食べ方ばかりしていた。すき焼きの鍋が焦げないように用意される牛脂の塊を嬉々として食べたし、炊きたてご飯に普通の酢を大量投入してビシャビシャになった米をさらさらとかっ込んだりもした。

 

誰にでもそんな独自の食べ方や好みがあるはずだ。世間に認知されれば変態扱いされないだけで、たとえばお好み焼き屋の「そばめし」などは奇天烈としか言えない。もっと言えば日本人の大定番である納豆だって違う食文化の国の人が見たらゲテモノにしか見えない。

 

納豆スパゲティ、しらすピザ、そんな和洋折衷系のメニューはよくよく考えれば変態バリバリなのかもしれない。

 

さて、変態的とまでは言えないものの、人様に熱弁してもあまり共感してもらえない私の好物が「つけ合わせスパゲッティ」である。洋食屋さんのメンチカツやエビフライの横にどうでもいいような感じでちょこっと盛られるアイツである。

 

たいていは味が微妙に薄い。もちろん具は一切無し。常温が基本である。ウマいマズいという論評の外に置かれた存在であり、正式名称があるのかどうかも分からない。阪神・岡田監督の「アレ」ではないが、あの“謎麺”のことは便宜上「アイツ」と呼ぶことにする。

 

一度でいいからアイツを山盛り食べてみたいと昔から思っている。勇気がなくてそんな注文はきっと死ぬまで出来そうにない。

 

タヒチやアフリカに行ってみたいという願望と同じぐらい私にとっては憧れである。このブログでも5年ぐらい前にもその事を熱く語った。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/08/blog-post_25.html

 

そんな私にアイツを山盛り食べるチャンスがやってきた。最近発見した簡単調味料「ケチャッピー」のおかげである。その名もファンキーなこの商品はあえるだけでナポリタンが出来るというシロモノである。

 



今までちゃんと具を用意して使うか、チキンライスを作る際に流用していたのだが、ある日ふと気付いた。「これを規定量より少なくして具を何も入れなければアイツが出来るじゃないか!」。ちょっと変態的な思いつきである。

 

で、実践してみた。麺を茹でてフライパンでケチャッピーを加えて炒めるだけである。ところが、ところがである。天性の料理人?としての血が騒いでしまい、血迷って具を入れたくなってしまった。その時点で既に計画崩壊である。

 

合いそうな具が見当たらなかったのでシャウエッセンをハサミでカットしてマッシュルームとともに投入。ケチャッピーは規定量の3分の1程度にして定食屋で出てくるような頼りない味に仕上げる予定だったのに、シャウエッセン投入と同時に妙な色気が出てしまい勢いで規定量ぐらいの量を入れてしまった。

 



おまけに仕上げに粉チーズをぶりぶり投下、もうアイツとは呼べないちょっとした子供だまし的ナポリタンになってしまった。大失敗である。おまけに熱々を食べてしまった。アイツなら常温で食べるのが正しいはずだったのに大脱線だ。

 

味の方は普通にそこそこウマかった。それ自体がアイツとは一線を画してしまった感じだ。アイツはウマいマズいという感想とは無縁のぶっきらぼうな感じが魅力である。実に中途半端なモノを作ってしまったわけだ。

 

やはりアイツは意外に強敵だ。簡単にチャッチャカ作れちゃうような生易しいものではなかったわけだ。甘く見ていた私の負けである。今回の失敗の教訓は空腹の時に作ってはいけないという事だ。

 

アイツを完璧に仕上げるためには満腹の時にいやいやながらやっつけ仕事で作るのが正解だろう。そうすれば味見もせずに正しくテキトーな味になるし、イヤでも冷めちゃって常温になる。食い意地の張った私にはなかなか難しい取り組みだが、いずれ再挑戦するつもりだ。

 

 

 

 

 

2023年9月15日金曜日

浅草今昔、そしてメヒコ


この10年で大きく変わった街はどこか。渋谷もずいぶん変わったが、浅草の変貌ぶりにも目を見張るものがある。スカイツリーが出来たのが2012年。その頃から浅草が一気に息を吹き返した感じだ。

 

スカイツリー以前の浅草といえば薄汚い路地があちこちにあってサビれた感じが強かった。アマノジャクな私はそんなうらぶれた空気の中に身を置きたくてちょくちょく出かけた。

 

モダンにオシャレに発展する都内各地の繁華街を横目に我関せず的に独自路線?を歩むそんな浅草の雰囲気は東京生まれの人間が好むノスタルジックそのものだった。

 

進化する都心に比べて置き去りにされているような印象があったが、この10年の変わりようはかなりのもの。コロナ前のインバウンド激増効果もあって、気付けば急激に美化が進みすっかりモダンな観光都市に変貌した。

 

どこで買えるのか聞いてみたくなるようなヘンテコなジャンパーを着て謎めいたキャップをかぶった怪しいオッサン達の姿も昔に比べると激減した。

 

以前はすれ違いざまに「おー、タバコ一本くれ」などと声をかけてくる見ず知らずのオッサンに遭遇することもあったが、あの人達はどこに追いやられたのだろう。

 

うらぶれ感が浅草から失われたことを私が残念がったところで仕方がない。地元の人にとって活気が甦るのは単純に喜ばしいことだ。大昔には東京一の繁華街であり流行発信源だったのが浅草である。昭和レトロ路線をモダンにアレンジして独自の進化を続けて欲しいものだ。

 

私が学生時代、すなわち昭和の後半ぐらいまでは東京の繁華街にはそれぞれカラーや匂いがあった。今はどの街も画一化してしまった印象がある。せめて浅草は独自の匂いを醸し出す街であって欲しい。

 

天ぷらやすき焼き、鰻や釜飯といった古典的ジャンルに名店が多いのも浅草の特徴だ。洋食屋さんにもウマい店がいくつもある。歳を重ねるに連れそっち方面のウマいものにしか興味がなくなった私にとっては魅力的だ。死ぬまでに一度は住みたいと思っている。

 

先日、あてもなく浅草散歩に出かけた。杉並区、新宿区、豊島区と暮らしてきた当時にはやたらと遠く感じた浅草も中央区に住むようになったら電車で10分程度で行けるようになった。もっと頻繁に散策しに行かないともったいない。

 

この日は何となく“浅草的ジャンクめし”を食べたい気分だったので久しぶりに「シーフード・メヒコ」を選ぶ。茨城県で人気のレストランみたいだが、浅草店は街の空気に妙にマッチした雰囲気が漂う。

 

オシャレだとか高揚感だとかは無縁のヌルい感じで昔ながらのレストランといった風情が良い。ヤケクソみたいなカニピラフが名物でだいぶ前にこのブログでも紹介した。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/01/blog-post_6.html

 

今はウニキャンペーンの時期だったようで、怪しげなウニメニューが並んでいた。ウニを乗せたステーキ、ウニを塗ったロブスター、ウニピラフなどである。

 

こういう使われ方のウニが美味しいはずはないと頭では分かっているのだが、ここは浅草である、ここはメヒコである、という一種投げやりな?な思い込みによってそれらを注文することにした。

 



つぶ貝の刺し身と海老カクテルという謎の組み合わせを手始めに生ビールをグビグビ。このユルい感じが浅草でありメヒコである。

 



海老カクテルの実に素っ気ない無造作な感じが妙に嬉しい。味もごく普通だ。でも「浅草のメヒコでメシ食ってるぜ」という現実が私にとっては魔法のようで妙に楽しい気分になる。

 

で、ウニステーキとオマール海老のウニ焼きがやってきた。実にベタで実に無造作でそのまんまな感じが潔い。。こういうウニをお寿司屋さんで食べるウニと比較してはいけない。とりあえずウニっぽい風味を感じられれば十分満足である。

 




ステーキはともかく海老のほうはメニューの画像とずいぶん違う。ウニを乗せ忘れたのか調理中に落っこちてしまったのだろう。まあいいか。

 

肝心の味のほうは極めて普通である。でもそれでいい。それでいいんだメヒコ!って感じである。意味不明ですいません。

 

名物のカニピラフを頼むつもりだったのだが、「煮込み牛タンドリア」というメニューが私を呼んでいたのでそっちに心変わり。「バターライスの上にホワイトソース、その上にデミグラスソースがのった満足コンビネーション」というメニューの説明文を見たら頼まずにはいられない。

 


で、出てきたのがコレである。真っ黒くろすけである。さすがだメヒコ!と快哉を叫ぶ。イマドキこんな見た目の冴えない一品を出してくる無造作な感じが私のM心を刺激する。インスタグラマーなら撮影を断念する見た目だ。

 

一口食べる。ウマい。普通にウマい。見た目より遥かにマトモだ。余計なコマ切れ野菜など全く入っていない素っ気なさも良い。凝りまくった料理にはない達観した世界観である。

 

ちょっとほぐしたら多少は見栄えが良くなった。そうでもないか。端っこの方はソースとバターライスが焦げ付いちゃってそれはそれで美味しい。感激しないけど遠からずまた食べたくなる味とでも言っておこう。

 


 

浅草で洋食といえば人気店のヨシカミや名店グリルグランドなどいくつも行くべき店がある。そんな中でメヒコを選んだわけだからこういうドリアに出会えたことはある意味で「いとをかし」である。

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/02/blog-post_12.html

 

聞くところによると浅草に遊びに行く若者たちは増殖したカフェっぽい店の“バエる”スイーツなどを買って歩き食いや立ち食いをするばかりで昔ながらのレストランに入らずに帰ってしまうことが珍しくないらしい。

 

実にもったいない。せめてレトロな喫茶店でナポリタンを食べたりクリームソーダを飲むべきだと思う。

 

 

 

 

 

 

2023年9月13日水曜日

焼豚男

 

ラーメンを食べる時、貴重なチャーシューを温存して、減っていく麺とのバランスを取りながらちょっとずつ噛じったりしたことはないだろうか?

 

私はある。何度もある。学生の頃まではいつもそうだった。麺は残っているのにチャーシューが無くなった後のあの寂寥感は砂漠に一人置き去りにされたような切なさがある。

 

一人で砂漠にいた経験はないのだが、そのぐらい寂しい気持ちになる。だから私は大人になってからはチャーシュー麺しか頼まないのが基本だ。チャーシューをちびちび噛じることなく最後の麺をすする時にも肉をセットで味わう。これこそが大人になった喜びだ。

 

食べているのがはたしてラーメンなのかチャーシューなのか分からないのが私のラーメン道だが、そんな私をムホムホ興奮させる逸品を食べる機会があった。「喜多方ラーメン坂内」のキャンペーンのおかげである。

 



「焼豚まみれ祭」なる麗しいキャンペーンをやっているという情報を入手し、わざわざお店のインスタをフォローして特典のスペシャルラーメンを食べに行ったわけだ。メガ盛りチャーシューラーメンである。画像を見るだけでゲンナリ、いやワクワクする。

 

正直、運ばれてきた時は「無理かも」と弱気になった。若者じゃあるまいし、さすがに23枚も入ったチャーシューは我が人生でも経験がない。少したじろいだのだが元々この店のチャーシュー麺は私の好物だ。とりあえず無心で食べ始めた。

 

何が嬉しいってとにかく麺を一口食べるごとにチャーシューを一緒に頬張っても最後までチャーシューが無くなる気配がない。これって物凄い幸せだ。かつてチャーシューの残量を必死に考えながら麺をすすっていた日々に思いを馳せて涙が出そうになった。

 


ものの10分もしないうちに完食してしまった。麺量が普通だとチャーシューがドカ盛りだろうと思ったほどキツくない。キツいどころか最後まで美味しく味わった。期間限定なのが惜しいほど迫力に満ちたラーメンだった。

 

さてさて、私はチャーシューが大好きだから街ブラしている際にウマそうなチャーシューを見つけると衝動買いをしてしまう。チャーシューの面白さ?は店やメーカーによって味の差が非常に大きいところである。

 

ハムやソーセージなどはどこで何を買っても想定内の味だが、チャーシューとなると凄くウマいのから凄くマズいものまで百花繚乱である。自分好みのチャーシューを見つけると宝くじで3千円が当たったぐらいの喜びを感じる。

 



 

最近の私のお気に入りが「人形町今半」の惣菜店で売っているチャーシューだ。自宅から徒歩圏にお店があるので毎週末のように買いに行く。

 

この惣菜屋さんはすき焼きコロッケやメンチカツが人気だが、チャーシューも安定して美味しい。暑い夏の盛りには冷やし中華と一緒に頻繁に食べまくった。

 

いちいち取り寄せるのは面倒だから散歩ついでに買える点が有難い。引越し前の住まいでもわりと近くにチャーシューをウリにするお肉屋さんがあったので頻繁に買いに行った。「肉のたかさご」という月島の精肉店だ。

 



相場よりちょっと高値なのだが、ある意味それが美味しさの証ともいえる。ブロックだけでなく5枚程度からスライスされた商品も揃っているので用途に応じて色んなサイズを購入した。

 

ちなみに市販の焼豚の場合、安くてウマいのは私の経験上ほぼ皆無である。引っ越しで「肉のたかさごロス」になっていた私だが人形町今半に救われた感じだ。

 

先日、新たにウマいチャーシューを売る店を見つけた。散歩ついでに発見した「焼豚・福の屋」がそれ。日本橋のコレド室町にあるお店で、ラーメン屋さんかと思っていたら焼豚屋が基本だった。

 

イートイン形式でウマそうなラーメンを出しているのだが、私の狙いはパック売りされているチャーシューだ。画像はブロック肉だが、部位の違うチャーシューが少量からでも買える。これまた安くはないのだが優しい味付けで豚肉の旨味が感じられて気にいった。

 


コレド方面もよく散歩するコースなので私にとっては徒歩圏2軒目のお気に入りが出来たわけだ。食料品の大半はネットスーパーで配達してもらうのだが、チャーシューに関してはちゃんと自分の足で買いにいったほうが間違いない。

 

ウマいチャーシューを10枚ぐらい投入するとどうでもいい味のチルド麺のラーメンも私にとってはご馳走になる。そんな食生活で大丈夫かと思うこともあるが、スープは半分以上残すようにしているからたぶん大丈夫だろう。