2008年8月11日月曜日

不倫

みずほコーポレート銀行の頭取に続き、TBSの社長も不倫騒動が週刊誌に報じられた。“モナ岡騒動”以降、不倫バッシングがブームの兆しだ。

それぞれの企業トップの騒動では釈明が歯切れ悪くて面白くない。かつて石田純一が「不倫は文化だ」と力説したり、「異文化交流」と言ってのけた森本レオのような居直りセンスがまったくない。

いまのご時勢、居直ったら負けのような風潮があるから仕方ないが、どちらかの騒動で、女性側が週刊誌に撮られた写真を「アレは合成写真」と抗弁していたのには笑った。

不倫を支持する、支持しないなどという下らない議論をする気はないが、一連の騒動を見て感じたのは、世の中全体の窮屈さだ。

アレもダメ、コレもダメ、ああしろ、こうしろ的な得体の知れない指図がひと昔前より確実に増えている。

タクシーの後部座席でシートベルトを締めろ、自販機でタバコを買いたきゃタスポを作れ、などなど。

冷房の設定温度をどうしろとか、アイドリングをどうしろとか、色んなところでお節介かつ鬱陶しいルール作りが増えている。

電車の女性専用車両とかいうシロモノも男性にとって失礼な話だし、ネクタイを締めなきゃ格好がつかない人々にはクールビズだって困ったちゃんだろう。

気がつけば日常の広範囲に“統制”や“規制”が渦巻いている。

不倫騒動だって、民間企業のトップが週刊誌のターゲットになること自体、以前には考えられなかった。

大らかさとか余裕とか暗黙の了解のような感覚が、すべての分野で消えていきそうな勢いだ。

今の政府なら、そのうち姦通罪なんかを復活させる議論を平気でやりかねない。

倫理観や道徳観なんてものは時代とともに変わるもので絶対ではない。たかだか100年前には、ひとかどの人物には、おめかけさんがいて当然という風潮があったのがこの国の実態だ。

いまなら、おめかけさんという言葉自体が女性団体あたりの糾弾の対象になりそうな言葉だが、ほんの少し時代をさかのぼるだけで、それこそが甲斐性とみなされていた。

いまどきの「ひとかどの人物」はそう考えるとお気の毒。まあ、芸人にまで画一的な倫理感が押しつけられる時代だから、企業トップもおちおち不倫などしていられないのだろう。

そもそも不倫の定義ってよく分からない。配偶者がいる人が配偶者以外の人と関係をもつことが不倫だとしたら、ソープランドに行くことも不倫になってしまう。

事情によって籍は抜いてないものの、事実上の婚姻関係は終わっており、お互いが了解済みで、別な相手と事実婚状態にあるケースは想像以上に多い。私のまわりでも簡単に実例は見つかる。こんなケースをダブル不倫などと軽々しく定義づけることはできない。

同年代の男に魅力を感じず、結婚願望もない女性が、子供だけは欲しいという思いから、年上の「うだつの上がっている男」の子種を狙うケースも実際にある。これだって単純に不倫とかいえるパターンではない。

100年前のおめかけさん達にも似たような感覚はあった。ろくでもない男と所帯を持つなら、位人臣を極めた人物に囲われて子どもを授かった方がましという思いだ。“どこぞのお坊ちゃん、お嬢ちゃん”として生まれ育った人の中にもそんなパターンは結構あったようだ。

書きたいことが上手くまとまらなくなってきた。もっと率直に色々書こうと思ったが、普段、それこそ一種の“統制”のなかでモノを書く仕事をしていると、いざ本音を書こうと思っても勢いが出ない。反省。

「富豪記者ブログ」もそろそろ裏ブログを作って、ここで書けない話やエピソードを書くことを考えないといけない。

ところで、恋愛をしたいという感覚は、男女や年齢に関係なく誰にだってある。結構な年齢になってそれを実践すると、だいたい不倫というレッテルがついて回る。

とはいえ、恋愛したくても、肝心の一歩が踏み出せない階層のほうが多く、その階層が一応、秩序を維持しているつもりだから困る。

正真正銘の正義感と倫理意識に基づいていれば立派だが、単に冒険する勇気のない連中や、冒険する努力を放棄している連中が、ここぞとばかりに不倫バッシングに励む。

時の人でもない民間会社のサラリーマン社長の色恋沙汰をせっせと追っかけるマスコミの姿勢って気持ち悪い。

あれじゃあ、本人達も自分が大人物なのかと勘違いしてしまうような気がする。

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