2010年10月29日金曜日

人は見た目

先日、「真面目」を旨に頑張っていくと書いてみたが、この秋から着るものにも真面目になってみようと決意した。

不真面目な服を着ているわけではないが、ここ数年、かなり無頓着になっている。このままではいけない。やはり、ちゃんとした人は身なりもちゃんとしている。見習おうと思う。

若い頃は着るものにはウルサイほうだったのだが、いつの間にかファッションを意識しすぎる男が格好悪い存在に思えてきて、あえてテキトーな服を着回してきた。

30代後半ぐらいまでは、毎年香港あたりまでわざわざ出かけてスーツやらシャツなんかを一度に軽くウン十万円単位で調達してきた。

バーゲン時期ばかりだったのが富豪っぽくはないが、あそこのセールは笑っちゃうほどの値引率なのでついつい恒例行事にしていた。

ある日、そんな思いをして洋服を選んでいる自分がバカバカしくなった。イタリアのブランドなどデザイン優先で品質が悪いものが少なくない。そんなものに大枚はたく事が疑問に思えてきた。

石田純一じゃあるまいし、軽薄な感じがするし、洋服にこだわる男が途端にナヨナヨ男に思えてきた。結果、「男は中味で勝負だ」などと勢い込んで、テキトー状態に陥った。

テキトーな服をさらっと着こなしているほうが男らしいし、無頼派を気取っているようでひとり悦に入っていたが、そんな自己満足はチョット情けない。せいぜい若い頃だけ通用する話だ。しょせん世間は「あの人ヨレヨレね」という見方しかない。

そして立派な中年になった今、世の中を見回すと、然るべき人々は然るべき身なりをしていることがやけに目につく。何だかんだ言っても「人は見た目」だ。

屁理屈をこねようが、四の五の言おうが、突き詰めれば「人は見た目」だ。こればっかりは真理だろう。

そう思った途端に自分の身なりが気になる。安物を平然と着回していることが急激に許せない気分になってきた。この辺の突然の熱の上げ方がB型特有の性格なのかもしれない。

考えてみれば、日々着用するスーツ類は男にとっての制服であり戦闘服だろう。大事な道具のひとつだ。道具にこだわり、道具を大事にすることは真っ当な大人のライフスタイルの基本だ。

思い起こせば、少年時代、野球部のユニフォームの着こなしにも自分なりのこだわりがあった。ストッキングの出し幅、アンダーシャツの丈の長さ、スパイクのデザインまで全部自分なりの美学を持っていた。

テニス少年だった頃も、「FILA」より「TACCHINI」にこだわり、ソックタッチをぶりぶり塗って、リストバンドの色にさえ執着した。

少林寺拳法に励んだ頃は道着の丈、襟の長さ、帯の結び方にもこだわっていた。ダイビング用のウェットスーツも若い頃は随分こだわりを持って作った。

随分話が飛んでしまった。日常の「制服」の話だ。30代前半の頃ですらカシミアのオーダースーツを作ったこともある「オシャレだった自分」はどこかに消えてしまった。

こんなことではいけない。もっと真面目に「制服」と取り組むことにする。“セルフ親父改造計画”を実行しないといけない。


先日、手はじめにワイシャツをオーダーしに行った。そこそこ上等な生地を選んであれこれ注文してきた。結構楽しい。

ボタンホールの糸の色で遊んだり、腕時計の分だけ袖周りの太さを変えてみたり、手作り感が妙に愉快だ。出来上がりを気に入れば頻繁に通いそうだ。

別な日、スーツもオーダーしてきた。裏地をピンクにしようかとか、ボタンの色を全部変えようかなどと変なことを考えたが、結局勇気を出し切れずに普通に発注。「真面目」過ぎたかもしれない。

また、別なテーラーには近いうちにコートをオーダーしに行く予定だ。どうせだから中途半端な生地はやめて一生モノでも作ってみようと計画中だ。

ネクタイも大量に新調してみた。仕舞い込んである高価な時計やらバックも引っ張り出してみようと思う。

“然るべき人”みたいな身なりになれば、なんとなく自分の緊張感が高まるような相乗効果もあるだろう。それっぽい仕事にもつながると期待しよう。きっと姿勢も良くなるに違いない。

姿勢が良くなれば長生きも出来そうだ。そう考えるといいことずくめだ。

問題はこの決意がいつまで持つかという点だろう。決意はもちろん、経済的にもなかなかハードルは高い。衝動的に水中撮影に出かけたり、ホームサウナを買ってしまうような私だ。欲しいものは山ほどある。

自宅で使うマイ箸もマイ味噌汁椀も傷だらけになってきたので新調しないといけないし、“細かな物欲”は天井知らずだ。困った困った。

身に付けるものにウン十万もかけていたらその他の面白いことにお金がかけられなくなる。悩ましい問題だ。

やはり宝くじを買いに行こう。

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