2008年9月9日火曜日

無所属ということ


この夏は、久しぶりに結構な量の本を読んだ。読書と書くと大げさだが、たいていは気軽な短編だったり、エッセイ。やはり、長編にじっくり向き合うぐらいの余裕のある時間が欲しいが、仕事したり、旅行したり、酔っぱらってばかりいるとなかなか時間が取れない。

エッセイの中で印象的だったのが、今は亡き、気骨の人・城山三郎の「無所属の時間で生きる」という一冊。

戦争体験をバックボーンに一貫して組織と人間性の在り方に厳しい批評眼を持っていた城山氏ならではの人生観が垣間見える。

さりげない日常生活の洞察のなかで「無所属の時間」の大切さが語られている。

確かに、人間の価値や豊かさを高めるためにも、どこにも属していない“素”の自分でいることは大事だろう。

定年後、年賀状がめっきり減ったことに意気消沈し、趣味もなく友人もなく寂しく漫然と過ごしている人は多い。

中高年の世界では、合言葉のように「趣味を持て」、「会社以外の交友関係を作れ」みたいなことが言われている。この風潮自体が、無所属でいることに目を向けないツケが結構重いことの証だろう。

今の社会では、属している組織そのものが、その人のすべてを代表するかのような見なされ方をする。

Aさんは、あくまで「○×商事のAさん」であり、所属する組織がモノをいう部分がある。もちろん、それ自体が社会の当然の姿ではある。でも、所属意識ばかり強すぎれば、その人が道具みたいに見えてしまう部分もある。

以前、飲み屋での常連仲間に、有名巨大企業の幹部がいた。飲み屋にいるときでさえ、自分の部下は1000人規模だとか、どうでもいい武勇伝を嬉しそうに話していた。

海外駐在時代の戦争地帯での武勇伝など話自体は興味深い。彼の語り口も話し上手で飽きさせない。飲み屋に集う常連さんたちも、一応の敬意は持って接していたが、「会社がすべて」みたいな人は彼だけだった。

常連さんのなかには、彼と同等のポジションに就いているような然るべき組織人もいたが、所属先を前面に押し出すようなことはなく、彼の突出ぶりが目立っていた。

その後、彼は想定外の小さな関連会社に片道切符で出向になった。店に姿を見せなくなった彼は、すっかり偏屈に変身して人相も変わってしまったらしい。そんな情報は、不思議なものでアッと言う間に元の飲み仲間に広まる。

すごく単純な例え話というかエピソードだが、このての寂しい話は、そこらじゅうに転がっているのだと思う。

たとえ趣味を持ったり、会社以外の交遊関係を持ったとしても、急場しのぎでは、結局ダメ。“素”の自分になりきれない人が多い。趣味の集まりなのに、自分のことを「どこそこに属している自分」と必死にアピールしてしまうクセは簡単に抜けない。男性特有の哀れな現象らしい。

無所属になれない人って、思えば、然るべき組織で相当頑張ってきた人なんだと思う。安易に非難はできない。相当頑張ったからこそ、その組織を離れると、とたんに子どものように不器用になってしまう。

私のように、わがままに、マイペースでやってきた人間にかぎって、「オイラは無所属の時間を上手に過ごせるぜ」などと威張ってみたくなる。それはそれでたちの悪い話だ。

映画・寅さんシリーズが国民的人気を得た理由は、それこそ寅さんが勝手気ままに、無所属の時間を過ごしていたから。国民は、やりたくてもできない奔放な暮らしを寅さんの姿に投影していた。

もちろん、寅さんのまわりには、コツコツと真面目に働く人々を配置し、寅さんを英雄視、絶対視しなかったから、成り立ったストーリーだ。

「オイラは無所属の時間を上手に過ごせるぜ」と言える人間ほど、案外、誉められたものではない生き方をしてきたのかもしれない。

無所属でいられる人、いられない人。どっちが立派だとは言い切れない。でも楽しく生きられるかどうかという点では、答えは簡単。「無所属の時間」が多ければ多いほど、いろんな世界が待っている。

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