2008年9月24日水曜日

情緒

プライベートの大恩人に手紙を書く機会があり、久しぶりに真面目に手紙に取り組んでみた。

相手は目上の人格者。軽い調子で書くわけにもいかず、いざ便せんに向かうとかなり難儀した。

一応、モノを書く仕事をしているくせに、かしこまった手紙ひとつ、スラスラ仕上げられないことが恥ずかしい。

このブログのような雑文なら、短い時間で結構な文字数でもこなせるが、かしこまった手紙だと、そうはいかない。

自分の文化度が低いようで少し落ち込む。

仕事柄、古い時代の資料に目を通すことがある。資料的文書などだけでなく、手紙の類を読むこともあるのだが、いつも感心するのが、ほんの数十年前の人達がやりとりしていた手紙の文章だ。

行間というか、文章の背後に、今の時代とは異なる教養が垣間見える。

以前に読んだ本からも昔の人の情緒性や教養に感服させられた経験がある。昭和の戦争で亡くなった兵士たちが家族にあてた手紙をまとめたような内容の一冊だった。

個々の手紙の内容そのものよりも、それぞれの人の情緒性、教養に目を見張った。

その本では、それぞれの手紙をしたためた人物の当時の年齢や経歴も記されていた。

なかにはエリート軍人もいたが、大学生や商売人の跡取り、農家の跡取りといった、ごくフツーの人が中心。

時候の挨拶はもちろん、自分の置かれた状況の描写、葛藤する心理面の描写、家族をいたわる心情表現等々、すべてに味わいというか個性が反映され、書き手の人間力がにじみ出ている。

なにより大半の人が20才そこそこ。40を過ぎた私が、手紙ひとつにもたついていることを思えば、いくら習慣と時代背景に違いがあるとはいえ、当時の若者の教養に驚嘆する。

精神性、情緒性と表現すると抽象的になってしまうが、まさにそうした人間の内面的な資質が厳しく鍛えられていたことがうかがえる。

もちろん、全体主義、徹底した思想統制という時代背景を考えれば、空恐ろしい時代であり賛美はできない。ただ、時代の功罪はさておき、そうした時代の副産物として培われた教養面は、素直にすごいことだと痛感する。

戦後の日本は、前の時代を否定をする以外に再スタートを切る術がなく、復興から高度経済成長という流れの中で、あえて情緒性とか精神性に対し、見て見ぬふりをしてきた部分がある。

効率性や合理性の追求こそが美徳というか時代の要請と信じ、気がつけば殺伐とした空気に支配されている。結果、昭和レトロを懐かしんで、国民みんなで涙する変な事態に陥っている。

なんだか懐古趣味的な話になってしまった。手紙ひとつ満足に仕上げられない自分の現実を時代にせいにしているようだ。反省。

でも、日々便利になる機械文明に身を置いていると、日本ならではの個性ともいえる情緒を尊ぶ空気が希薄になっていることを実感する。

うまく表現できないが、ハヤリの言葉で言うなら「もったいない」ことであり、このままでは惜しい気がする。

安直な教育論をふりかざすわけではないが、教育の分野で、この手の課題に真剣に向き合って欲しい。

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