何事もホドホドが大事だ。年をとったり、酔っぱらっていると、いろんな場面でホドホドでは済まずに脱線する。
昨年あたりから脱線することが多い。
胃腸の調子が良くないのに、食べ過ぎたり、呑みすぎたり、吐いたりしている。
先週も経済活性化、内需拡大に貢献しようと、灯りの消えた銀座を徘徊。店が空いていたせいでハーレム?状態。呑んで唄って、深夜に帰宅してゲロまで吐いた。ホドホドとはホド遠い。
まあ、世の中のペケなことって大半がホドホドの線を脱線するから起きる。
市川エビ某だって、ホドホドに騒いでいればあんな目には遭わなかったのに、灰皿テキーラとかしちゃうからマヌケな顛末になる
結局また出馬した石原都知事は既に78才。都民としては何となく満腹感もある。ホドホド感が足りないから、選挙戦もこれまでのような楽勝ムードではなくなると思う。ーーーと書いてみたのは、大震災前のこと。今日の内容は実はずいぶん前に書いたままお蔵入りになっていたもの。加筆修正を加えて復活させてみた。
都知事選の行方もすっかり様変わりだ。今では復興支援の有力者、首都の顔としての露出が増えたので石原知事は圧倒的に有利だろう。
ちなみにエジプトのムバラクさん、リビアのカダフィさんも、ホドホドにエバっていれば安泰だったのだろうが、一線を越えると大騒動が起きてしまうわけだ。
それにしてもカダフィさんは、どうしていつまでも「大佐」なんだろう。素朴な疑問だ。
話がそれた。
突然、靴磨きが趣味になった私だが、これだってホドホドにしていればよいのに次から次に新しい靴を購入。震災の関係で取りやめたが、本当なら3月末にロンドンとパリに行くことになっていた。ヨーロッパまで行って靴を買おうという考え自体が、全然ホドホドじゃない。
話は変わる。盛り場での私の悪いクセのひとつが、わい談の大盤振舞いだ。いつもホドホドにするつもりが、ついついエスカレートして、最後は熱視線ならぬ「蔑視線」が私に注がれる。
サービス精神が旺盛すぎるのだろうか。欲求不満のせいだろうか。
エッチ方面については、それこそホドホドがより重要。アダルトビデオだって、モザイクがあるから謎めいている。見えないから見たいし、見えない悔しさが思いを募らせる。
子どもの頃、「ノーカット」といえば、舶来モノばかりだった。野獣のような金髪女性が動物的にハッスルしている。見てはいけないものを見られる喜びはあったが、セクシャルな意味での興奮とはチョット違った。
そんなノーカットよりも、日本人アイドルの水着グラビアの方がウヒョウヒョだった記憶がある。懐かしい「堀江しのぶ」とか・・。
何だかんだ言ってもホドホドのレベル、ホドホドの定義は人によって違う。「ホドホドにポチャッとしていた方が好み」といっても、見る人が見ればただのデブ専だったりもする。
私自身も「女性だってスケベなほうがいい」と各方面で熱く主張しているのだが、いざという場面で、タジタジになることもある。それこそ痴女モノAV嬢レベルの女性に遭遇すると困惑する。
たいていは、にんまりウェルカムなのだが、さすがにドン引きした経験も無くはない。残念ながら活字にはできない。やはりホドホドに限る。
まあ、私がホドホドと思っているスケベさんのレベルが、いたいけな少年少女に言わせれば充分に異常者レベルなのかもしれないし、こればかりは主観的だ。
なんか偉そうに書いてはいるが、世の中に私のことを単なる変質者と思っている人もいるかもしれない。
「変質者、プレイボーイ、床上手、異常性欲者」、これって結局、同義語に近いのかもしれない。受け取る印象は人それぞれ、どれも当たっているわけだ。
なんか話がとっちらかってしまった。
2011年3月30日水曜日
ホドホド
2011年3月28日月曜日
ユーロスターはエラい
ツイッター、スカイプ。このあたりをマスターしたいのだが、ちょっと良く分からない。誰かに教えてもらいたい。
今回の震災では、既存インフラのもろさの一方で、新しい通信手法の有効性が注目された。地震当初はNTTの災害伝言ダイヤルもつながらなかったから、やはり、新兵器の研究を怠ってはいけないと痛感した。
わが家の娘は、自宅から1時間ほどかかる学校にバスと電車を乗り継いで通っているのだが、地震が起きたあの時間が帰宅途中だったら、どこにいるのかサッパリわからん状態になっていた。
運良く授業中だったので、学校で待機になったことを緊急連絡メールで知ることが出来た。オトナならいざ知らず、小学校低学年で帰宅困難になるのは厳しい。
携帯は規則で持たせられないので、娘には「どこ・イルカ」というシュールなネーミングの機械を持たせている。親の携帯に子どものいる場所が地図表示されるわけだが、あの日は肝心の携帯がつながらなかったから、いざとなったら頼りにならない。
結局、手書きの震災マニュアルを作って娘の定期入れにセットすることにした。登下校ごとに移動中の場所によってどこでどうしろという事細かな指示を書いた。
問題は私の達筆をいざというときに娘が読めるかどうかだ。
ツイッターとかスカイプの話だった。人に聞いてもいまいちピンとこない。こんなレベルだと災害時にはたちまち弱者だ。
Facebookとやらには登録しているのだが、これまた意味と活用方法がピンとこない。
時たま「友達リクエスト」とかいう知らせが入るのだが、聞いたことのない中国の人だったりする。意味不明だ。こちらもどなたか教えてもらえないでしょうか。
さてさて、また話が変わる。昨年暮れの函館行きを体調不要で取りやめ、冬の終わりに計画していた流氷見学の旅も天候のせいで中止し、3月末に出かける予定だったロンドン・パリへの靴買い旅行も中止した。
旅好きとしては、禁断症状で悶々状態だが、そうも言っていられない。そのうち、しっかり取り返すことにしよう。
旅行キャンセルでの余談をひとつ。
今回、ヨーロッパ行きを急きょキャンセルした私にとって、頭が痛かったのがキャンセル料の問題。
私が手配していた航空券は本来、キャンセル手数料がかかるが、今回は震災という事態を前に日本航空が特例でペナルティー無しでの解約に応じてくれた。
ホテルは直前のキャンセルでもペナルティー無しなので問題ない。残るはパリとロンドン間を移動するユーロスターのチケットだ。
払い戻し不可の割引料金で購入済だったので、あきらめていたのだが、ダメ元でメールで交渉。不測の天災で混乱中なので払い戻しをしてくれとお願いしてみた。
すると、さすがオトナのヨーロッパ、あっという間に返信が来て、全額10日以内に払い戻すとのこと。かなり感心した。
日本航空のノーペナルティーも有難いことは有難いのだが、こちらは、ネットやメールでの手続きはダメで直接電話で解約交渉を申し出た人に限ってキャンセルチャージが免除された。おまけに払い戻しには「2,3ヶ月」かかるとか。
ユーロスターの対応と比べちゃうと有り難さも半減だ。まあ直接の被災者でもないのに通常とは違う恩情措置が受けられたのだから文句は言えない。そっちに文句を言うより、ユーロスターの対応の素晴らしさを強調しておこう。
次回ヨーロッパに行ったら、ユーロスターばかり乗りそうな気がする。
2011年3月25日金曜日
稲川淳二
「非情」なのか「実情」なのか。企業経営者である以上、自らの事業を棚に上げて震災に気を取られている人は皆無だろう。
特需という表現自体が不謹慎という指摘もあるだろうが、現実に経営者が考えていることは、震災関連需要をどう取り込むかという一点だ。
現に東北方面には、廃品、ガレキ撤去、葬祭関連、不動産関連の事業者が続々と集まっているそうだ。それが実情だ。
便乗悪徳商法でない限り、経済社会の中で出てくるこうした動きは責められるものではない。
テレビにしても、視聴率競争の勝者を目指すから、誰のためかサッパリ分からない報道を繰り返す。迫力の映像、単なるお涙頂戴に走る情緒的報道を理念もないまま垂れ流す。
インタビュアーもバカばかり。ちょっと考えれば「どんなお気持ちですか」という質問を投げかけることはないはずだ。家や家族を失った人にそれを聞いてどうするんだ。どんな答えを聞きたいのか。
情報過疎状態になっている人にとって何が必要な情報なのか。誰に向けたニュースなのか、まったく曖昧なままだ。
話がそれた。今日、書こうと思ったのは商魂みたいなテーマだった。
この夏、電力不足でメロメロになる首都圏。早くも特需を狙う動きが活発化しているそうだ。
私ももちろん、冷房に馴れきった都会人の一人だ。毎年、震えるぐらい寒くなるまでクーラーを付けていた。「クーラーの無い東京の真夏」を思うだけで滅入るし、自然と何が必要かが頭をよぎる。
乾電池式の卓上扇風機、ウチワ、扇子、冷氷効果のあるウェットティッシュみたいなやつや氷嚢、氷枕あたりはすぐに思い浮かぶ。細かいものばかりだがみんな品切れ続出状態になるのだろう。
自販機も電気不足で頼りないから、氷で冷やした縁日の出店スタイルの飲料販売はアチコチに出没するはず。
かき氷、小型のビニールプール。こんなものも大ブレイクだ。かき氷は屋台のほか、リヤカーでの移動業者も出てくるだろう。風鈴を売り歩く屋台も増えそうだ。
なんか毎日が昭和の縁日みたいだ。
ラーメンブームも冷やし中華ブームに取って代わり、氷の上に麺を載っけるようなベタなスペシャル冷やし中華の店が人気になる。きっと。
簡単に膨らむ30センチ四方ぐらいの「オフィス用足元簡易プール」とかを作ったら大売れするかもしれない。仕事中、デスクで足だけ水につけておけば、相当涼しいだろう。タバコを吸いにムダに席を外すことも減って仕事の効率もアップだ。マジメに商品化を考えようか。
保冷車にテーブルと椅子をセットした「移動式クーラー会議室レンタル」なんて珍商売も出てくるかもしれない。クーラーはクルマが頼りとなれば、またまたガソリン買い占めが社会問題になる可能性もある。
蒸れる下着よりもフンドシが復権するかもしれないし、薄着の女性を狙った痴漢が増えるから、痴漢撃退グッズも品薄になるかもしれない。
涼しくなりたいから怪談話も大ハヤリで、稲川淳二が引っ張りだこになって、織田無道あたりも再起を果たすのだろうか。
男女のまぐわいも暑さでゲンナリだから、若い男がますます草食化し、われわれオッサンにとっては、喜ばしい現象につながる。
今日は威勢良く書き出してみたが、結局、自分の発想の貧困さと、商才や商魂の無さを痛感する内容になってしまった。
2011年3月23日水曜日
普通に戻る
さてさて。とにかく「普通」に戻ることを心掛けよう。先日行った大阪で感じたことはこの一点だ。
連休に絡んでいたから、心斎橋周辺は凄い人出でそれこそお祭り騒ぎ。普通の日常が普通通りに展開されていた。
大阪方面は今後、経済活動が上向くんだろうと実感。とても大事なことだ。どこかが元気を無くせば、違うどこかが元気を出してトータルでプラスにもっていくことが大切だ。
多くの人が直面してしまった「シュンとしてしまう気持ち」。これは仕方がないことだろう。今回ほど、天災の悲惨さを映像で見せつけられたことはない。一種の心理被災だ。
ヒステリー、不安、不機嫌の嵐が国を覆った。「エ~シ~」と流れ続ける公共広告機構のCMにまで文句が殺到して、その部分が無音になったことなどはその最たる例だ。
わが家のダウン症・4才(以下ダウンちゃん)は、常に流れている「エ~シ~」をテレビに向かって必ず叫ぶようになっていたのに、突如、無音になって困惑。ところが、ヤツもたいしたもので、無音状態のテレビのロゴに向かっていまだに「え~ち~」と一人CMを繰り返している。
あの大らかさは見習いたい。仕方なく私も一緒に「エ~シ~」と連呼している日々だ。
あの日以来、多くの人が、ついつい「自分には何が出来るのか」「なぜしないのか」という自問自答を悶々と繰り返した。私もそうだ。
地震当日、スムーズに家に帰り着けたのに、深夜まで街中を歩いていた帰宅困難者に何をしてあげたのか、定員5名の乗用車なのに何で一人でのんきに運転しているのか、収入に比べて義援金は妥当な金額なのか、家中にある不要な服をどうして送らないのか、家の納戸に積んである食べ物はどうして積んだままなのか?もともと買い置きしてあった大量の飲料水を誰かに分けたのか、、、、。
そんな思いがいつの間にか鬱積して、しまいには「自分不信」みたいな感覚まで出てくる。
近所付き合いを敬遠している自分の狭い心を責める。わが家の門扉の真ん前に犬の糞を放置していた馬鹿野郎を相手に警察沙汰になった顛末を責める。盛り場の客引き相手にウルセーとか言ってしまう度量の狭さを責める等々、だんだん何だか分からん状態になってしまった。
そんな時、タクシー乗場で赤ちゃんを抱っこしたまま、大きな荷物を抱え、ベビーカーの折りたたみに難儀している人を助けてみた。
助けるという言い回し自体大げさなのだが、勝手知ったるベビーカーだったので、スススイッと折りたたんでタクシーのトランクに運んであげた。
当たり前の親切なのだが、私の中で妙に納得する気持ちが生まれた。ごく自然に気持ちの発露に合わせて構えずにやることをやる。これっきゃないなあと改めて感じた。
大きく構えてアーでもないコーでもないと悶々とすることのほうが、よほど傲慢で僭越な話で、やはり普通にやっていくしか答えはない。
ちなみに、ベビーカーで困っていたママさんはとても綺麗な人だった。これが土偶とか獅子舞みたいな面相のママさんだったら、手助けしなかっただろう。そんな私だ。
でもそれが私の「普通」でもある。
2011年3月18日金曜日
大阪なう
大阪にいます。退避中です。というか、一応正当な出張ではある。
新聞稼業の宿命は何があっても発行をやめないという気概だ。
原発うんぬんだけの問題ではなく、今後電力が悲惨な状況になる首都圏を考えると
代替え的な印刷、発送業務の想定をきっちり判断し、プランBとかプランCを決めておく必要がある。
わが社は自前の輪転機を持つほど大会社ではないので、委託の印刷会社の状況は非常に気になる。計画停電エリアであり、実際に停電が実行されているわけだが、すでに出ている支障は乗り越えても、今後数ヶ月間違い無く不安定になるわけだから、念のための代替え策は必要だ。
大阪の新聞印刷専業会社と協議し、有難い対応を確約してもらい、これから具体的な想定に基づき、あれこれとテストなどをする段階だ。発送関係もメドが立ちそうで、これで何とか最悪の想定が現実になっても、発行停止は避けられそうだ。
この作業がうまく運べば、私のスタコラサッサと脱出した行為も立派な危機管理業務と言い換えられる。
原発一辺倒の報道が目につくが、運良く収まっても、電力不足回復のメドが立たない首都圏経済葉は深刻な事態になることは間違いない。もちろん、被災地の大変さに比べればハナクソみたいな話なのだろうが、被災地以外が堅調に動くことを考えることも大事だ。
首都圏のこれからを考えると結構シビアな事態が予想される。夏場なんて修羅場だ。熱中症が社会問題化するのは必至だ。何とかウルトラC案が出てきて欲しい。
やはり大阪にヘッドオフィスを一時的に移すような検討も必要だろう。
まあ暗いことばかり考えていても仕方ない。北新地あたりで富豪的に飲み歩くことを考えよう。
ところで、どうしても書いておきたいことがある。
政府が必死に自体打開に動いていることは承知の上で、あえて思い切り文句を言いたい。
仙谷さんがなぜか官房副長官に起用された。復興担当大臣になるという話もある。
この人、ほんの数ヶ月間に何を言ったか改めて書く。
「自衛隊は暴力装置」。
こんなことを言った人間が対策本部の中枢に陣取る異常さが許せない。
まず最初にすべきは、福島の原発に出向いて命がけで作業している自衛官に土下座することだ。
防護服を借りてでもいいから、現場でケジメつけるのがすじだ。
ついでに蓮舫大臣さま。節電啓蒙担当とかいう急ごしらえの肩書きもらって張り切っているようだが、この人の知名度アップのきっかけになった去年の事業仕分けを思い出してもらいたい。
「スーパー堤防を作る意味がわかんない」という趣旨の発言で、事業の無駄判定をくだした張本人だ。
このふたりが中枢で防護服に身をまとってシノゴの言ってることは、まさに喜劇であり、悲劇だ。
この事実だけは国民として決して忘れてはいけないと思う。
2011年3月16日水曜日
明るい気
いま一番厄介なのが、国全体を覆う無力感みたいな空気だろう。仕方のないことだが、日本中を覆うマインドの低下は、物凄く恐ろしいことだと思う。
被災地以外のエリアの人々は力を振り絞って、元の日常を取り戻す努力をしたいもの。
被災地の方々に思いを寄せ、復興支援に力を合わせることは大事だが、なんでもかんでも自粛自粛というムードは大げさに言えば、国力を更に低下させかねない。
昭和天皇の崩御をめぐって、日本全体が沈痛な暗い空気に覆われた時期があった。あの当時の景気状況と現在とではまるで様相が異なる。
沈痛ムードばかりが支配的な状況が長引けば、ただでさえギリギリで踏ん張っている中小零細企業がバタバタと倒れるのは確実だろう。
被災していない人々が率先して「日常」を取り戻して、活発に活動することが結果的に復興にもプラスになる。そんな思いで上を向いていきたいものだ。.
そうは言っても、あの日以来、私自身、酒が呑めない。正確に言えば、グビグビ呑めない。余震は恐いし、仕事の行く末を考えるとただただ滅入る。だらしないことだ。
睡眠導入剤も飲めない。余震がばんばんある中で、薬でぐっすりってわけにもいかない。さすがに恐い。それでも夜中、明け方の深度3ぐらいでは目が覚めなくなった。
あの金曜日、とある銀座の綺麗どころから「今日も店は開いております」とのメールが来た。正直、気でも狂ったのかと思ったが、ある意味、日本にいま求められているのは、こういう力強さなのかもしれない。
頑張って明るい「気」を皆さんで出し合いましょう。
さてさて、被災地の復興をめぐって早くもうさん臭い動きが出ている。
自民党の谷垣総裁が菅首相に復興支援の増税策を提案したとか。もっともらしい話だが、増税ありきという空気が気持ち悪い。
「王様みたいですね」。名古屋の河村市長はこの動きを痛烈に皮肉った。
議員宿舎、議員会館を宮殿に例えて、自らが身を削らずに増税ばかり考える姿勢を嘆いて見せたわけだ。
実にウマい例えだと思う。
復興支援に莫大な資金が必要なことは言うまでもない。未曾有の大災害を思うと国が取り組む復興対策を最大限応援したいのはやまやまだが、「最後の手段」を最初から繰り出すのなら知恵のかけらもない。
「手厚い支援を」という思いは国民の総意だ。さっさとしっかり手を打てという声が支配的だから、それを目的とする「増税」を
口にしても反発は起きないというイヤらしいヨミがあるのなら実にお粗末だ。
前例のない「想定外」の災害だったのなら、増税を考える前にそれこそ奇想天外の支援策がボンボン出てきて当然だ。
復興計画において邪魔になるのは意味のない前例や固定観念に尽きる。復興の事業主体が国や自治体である以上、その弊害がもたらすムダが気になる。発想をどれだけ柔軟に出来るかがカギだろう。
「全国一律」が大原則になっているあらゆる公的、法的な制度にしても、あれだけの規模の被災地については、あえて別枠で考えた方がむしろ自然だ。
民間活力をフルに生かす意味で大胆な優遇策を山盛りにした経済特区的な発想も有効だろう。地域を限定して、すべての法制度などに大幅な優遇措置を設け、その地域を盛り上げる取組みだ。優遇策次第では、大企業誘致はもちろん、海外資本の誘致だって実現可能だ。
再生のためには機動性だけでなく柔軟に知恵を出し合うことが大切だと思う。
★★まだバタバタとしているので、ブログの更新は、しばし不規則になりそうです。
2011年3月13日日曜日
お見舞い
東北関東大震災で被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げます。
ここ数日、ブログの更新はお休みします。
おかげさまで私自身の周囲に甚大な被害等は起きていません。
とりあえず、身近な節電はもちろん、国民として何ができるか考えて行動したいと思います。
また、全国を守備範囲に専門紙を発行している当社では、現在、その専門分野における的確な情報収集および有益な情報伝達、報道に務めているところです。一般メディアとは別な視点での正確な情報提供とオピニオン醸成等に向け、さまざまな取り組みを実施、検討中です。
被災地への救援、支援が広く行き届きますよう、また少しでも早い復興がかないますよう心よりお祈り申し上げます。
2011年3月11日金曜日
法廷闘争
面倒なことは不思議と重なるもので、最近、裁判所に出かけることが多い。そんなに大それた事件でもないし、こっちが訴えられているわけでもない。だから変なプレッシャーはないのだが、とにかく面倒くさい。
資料を探し出したり、それに沿ったシナリオを書いたり、こっちの弁護士に内容と経緯を理解させて身に染みこませるまでが大変。
相手の主張に対抗する反論を理路整然と構築しないといけないし、それに加えて、とにかく観念的、情緒的な要素無しに事実だけを積み上げて立証する必要があるから厄介。
「確かこうだった」とか「そうだったはず」という主張や資料は意味がないから、結構、準備や調べ物に時間がかかるし、神経も使うし、頭も使う。
法廷闘争になると先方の反論とか回答は、感激するほどウソばっかりだ。見事なまで相手側に都合の良い物語を創作してくる。
そうは言ってもウソを崩すには、こちらが明確な証拠を示す必要がある。実に不毛な作業だが、その部分が勝負の分かれ目だ。
一応、私は法学部出身だ。もっと法律をマジメに勉強しておけば良かったといつも思うのだが、考えてみると法廷闘争に必要なのは、法知識より、もっともらしい話を創作する力と裁判官に訴えかける文章力に尽きると思う。
これまでも会社の法的な問題をアレコレ担当してきたが、対峙した弁護士の傾向が少しずつ分かるようになってきた。
左翼系バリバリの弁護士が相手側につくケースが何度もあったが、もともと体質的に左翼系の人々が大嫌いな私だ。こういう場合には普段より熱が入る。
わが方についている弁護士センセイもだいぶ左っぽいオジサンなのだが、そんな彼が「アッチ系の連中は・・」などと腹を立て始めてくれると調子が出てくる。弁護士さん同士は和気あいあいとやりたい感覚があるから、弁護士が怒り始めてくれるとエンジン全開だ。
グダグダとくだらないゴタクばかり並べて依頼者の利益なんてそっちのけにするお偉い弁護士センセイも結構いる。
そういうセンセイに頼る依頼者はとかく無知なケースが多いから、「センセイの仰せの通りでごぜーます」と盲目的にそのセンセイ様を教祖のように仰ぎたてる。
結局、可哀想なのは無知な依頼者だ。依頼者のためというより、センセイの自意識のための主張と小遣い稼ぎにいつまでも付き合わされる。
もめ事が法廷にまで進んじゃうと、弁護士さんを抜きにして当事者同士で腹を割った本音の話し合いは出来ないから、気の毒なのは無知な依頼者だ。
こっちも、焦っているフリをして、相手が足元を見てきた段階で、全然焦っていない姿勢に転換し、干上がらせるようなイジワル作戦に出てみたりする。
妥協して終わりにしてもいいかなと思う場面になっても、こっちも看板がある。そこまでこじらされたことへの意地もある。安易な妥協は禁物だ。何年かかっても主張を通すという信念、胆力みたいなものも必要だ。
そう意気込んでみても、結局は「裁判官の圧力」がたいていの紛争を終わらせる。判決を書くのが面倒な裁判官は、とにもかくにも和解を勧める。
殺し文句はこれだ。
「このぐらいで和解しておかないと、オタクに不利な判決が出ますよ」。
こうなるとさすがの意気込みも弱まる。おまけに弁護士もさっさと終わらせたいから裁判官に追随したりする。よほどの事実誤認がなければ手打ちになる。
要するに、裁判官が圧力をかけてくる段階までに、いかにこっちが正当かを盛りだくさんの証拠を揃えて主張しないとならないわけだ。
この手の争いごとでタマんないのは、一生懸命頑張ってもその後の役に立たないことだ。個別の紛争だから、それにまつわる法律には詳しくなるが、そんな案件に今後遭遇する可能性は極めて低い。
仕事をする人間として、これは面白くない。取材記者時代なら、あるテーマを追っかけてそれなりの記事に結びつけば、その後の取材や知識の幅が広がって徐々に力量が上がっていくことを認識できた。
個別紛争ではそうもいかない。身に付くのは、レアな法律解釈とか、裁判所の場所とか、手続きとか、そんなことばかり。これがシャクにさわる。
今日は、裁判所の帰りに食べた昼飯の話を書こうと思ったのだが、全然そっちの話題に持っていけなかった。
こんな文章力では裁判に勝てない。
まあいいか。
2011年3月9日水曜日
退屈な屁理屈
「お金がない」。
中小企業の多くが実感し、その苦しさにあえいでいる。銀行の貸し渋りは相変わらず厳しい状態で、急場しのぎに有難がられていたノンバンク系もグレー金利問題で絶滅状態。
いま我が国では、開業数より廃業数が上回る状態が当然のパターンになっている。確かに身近なところでも破産や廃業を頻繁に耳にするようになった。
「お金がない」、「お金が足りない」。ケタ違いではあるが、まったく同じ状態にあるのが国の財政そのもの。
国民が政権を選ぶ基準にした「基本的約束」であるマニフェストですら財源不足で簡単にホゴにされる始末。
お金がないならどうすべきか。答えはひとつ。ケチケチ節約するしかない。新たな収入が見込めないなら支出を削る以外に方法はない。ごく単純な話。
国の財布だって同じ。とはいえ、あれこれと難しい理屈をこねくりまわして予算削減に抵抗する勢力があるのも世の常。
中国へのODA(政府開発援助)をめぐる外務省の姿勢などはその典型だろう。外務大臣が大幅削減を指示したが、外務省は「重要な外交カード」という建前でODA削減に否定的。「予算獲得こそ命、予算獲得だけが仕事」という役人根性はここでも根強い。
いうまでもなく中国は大国中の大国だ。GDPでわが国を上回り、南米やアフリカの途上国に自ら支援を実施しているほど。
援助されている国のくせして他の国に援助しているわけだから、もはや笑い話。ついでに言えば有人宇宙飛行計画まで進めている。「宇宙に進出する開発途上国」ってありえない話だ。
外交カードだとか難しい理屈は、何となくそれっぽく聞こえるが、あくまでも常識で考えるべきだろう。もっと優先されるべき援助対象はいくらでもある。
ODAとひとくちに言っても無償資金供与だけでなく円借款という名の貸付金のウェイトも大きい。この円借款について、かつて“親中派の左巻き”与党代議士からこんなことを言われた経験がある。
「貸しているだけ。くれてやったわけではない」。
そんな屁理屈で中国向けODAを擁護しているわけだが、これってどうだろう。経営に携わって資金繰りに奔走した経験があれば「お金を借りる」ことがどれほどシビアなことか痛感するはずだ。
借りることの大変さは中小企業経営者なら誰もが切実な問題として受け止めている。高い利息がつこうが、貸してもらうだけで立派な援助であり、そのために必死に頭を下げて努力する。それが普通の人の普通の感覚だ。
「センセイと呼ばれるほどアホじゃなし」。こんな言葉を思い出す。巨額な資金、それも国民から集めた税金をジャブジャブ貸付ける行為がどれだけ尊いかがまるで分からないのだろう。
別件だが、先日、「エラくなった元クラリオンガール」ことレンホー大臣が気になる発言をしていた。都知事選に出馬したワタミ創業者が主張している「経営感覚」について、「利益追求が目的の経営と政治は違う」などともっともらしく息巻いていた。
これもまた屁理屈だろう。申し訳ないけどペケペケだ。利益追求的発想って結局はコスト意識だ。こんな大事な視点がないままで国家や自治体が運営されてきたから、いまの大借金状態につながった。
元クラリオンガールは、昨年の事業仕分けで「二番じゃダメなんですか」と迷言をブッ放して失笑を買った。今度の都知事選出馬が取り沙汰されていたが、情勢分析では「到底勝ち目ナシ」だという。そりゃそうだろう。
都知事選で負けた後で「二番じゃダメですか」では喜劇にもならない。
ずいぶん話が飛んでしまった。
対中国ODAだ。あくまで素人でも分かる方向に転換すべきであり、それこそが民主党が口を酸っぱくして主張する政治主導だと思う。
2011年3月7日月曜日
日々雑感
とある高層ビルの地下テナントにあるロッテリアに行った。朝の早い時間なので注文できるメニューが限られている。馴れていないオジサンである私はカウンターでオロオロ。
すると天使のような笑顔の可愛い女性が親切丁寧にいろいろ解説してオススメメニューを選んでくれた。
髪の毛が北新地のホステスさんのようにトーテムポールのようにそびえ立っていたのが印象的だったが、弾ける笑顔にきらきら光る瞳。グッときた。
この時は店内で食べずにテイクアウトしたのだが、そのコが店を出るまで見送ってくれた。気分良くアーケードを歩き始めた私。するとさっきのロッテリアのコが小走りに追っかけてきた。
忘れ物でもしたのかなと思ったのだが、いきなりそのコが腕を組んできた。結構ビックリ。そしておもむろに背伸びした彼女は私の耳たぶを軽く噛んだ。
そして、「これ私の連絡先です」と小さなメモ用紙を渡して、慌てて店に戻っていった。
そんな夢を見た。
実に幸せな夢だった。あのコにまた会いたい。どうすれば会えるのだろうか?
日頃、悪い夢ばかり見ている私だが、時にはこんな嬉しい夢も見る。悪い夢と良い夢はどういう深層心理の違いが影響しているのだろう。
先日見た別の夢は不快極まりない内容で、目覚めてからしばらく不機嫌だった。疎外感、孤立感たっぷりのイヤな夢だった。
とある料亭風の店に予定時間寄り少し遅れて到着した私。この日は、退職する社員の送別会だと聞いていた。
仲居さんに案内されて部屋に着く。ふすまを開けて入っていくと正面の壁に大きく私の名前と「長い間おつかれさまでした」と書かれた垂れ幕がかかっている。
見回すと全社員だけでなく、仕事関係の知り合いや私の家族親戚が顔を揃えている。なぜか私の送別会という設定で、そのことを知らないのは私だけ。
キョトンとする私に向かって方々から「おつかれさまでした」「ごくろうさまでした」という声が飛び交う。
ただ、居合わせた面々は全員が全員、私を軽蔑するようなイジワルで冷ややかな顔付き。なんとなくハメられたこと、策略によって追放されたことに気付き始める私。
わが鬼嫁に救いを求めたが、私の問いかけにまったく答えず冷笑を浮かべながら「おつかれさま」と同じセリフだけを繰り返す。
周りの誰に話しかけても誰もが「おつかれさま」と「ごくろうさま」と冷ややかに言うだけ。誰も目を合わせない。会話がまったく成立しない。
司会役の人間が勝手に私の経歴を読み上げ、今日をもってすべてから退くことはまことに残念とかなんとか語っている。
最悪の夢だ。
顔の見えない「敵」が生きたままのスカンクを次から次に岩に叩きつけて殺し、その死体を私に向かってバンバン投げてくる恐ろしい夢をここ数年で3回ぐらい見た。それはそれで恐ろしいのだが、「追放される私」という新しいパターンの悪夢は別な意味で冷や汗たっぷりだ。
ストレスという言葉を安易に使うのはイキではないが、やはり悪夢にはそのへんが影響しているのだろう。
ケガをしたベーシストの代わりにプリンセスプリンセスの武道館公演に急きょメンバーとして参加する楽しい夢を何度も見ているのだが、最近はすっかりご無沙汰だ。あれは精神状態が良好な時にしか見ないようだ。
考えてみれば、最近は仕事に関連したうっとおしい案件がいくつか重ねっている。いつの間にか駅のホームの端に立たなくなったし、交差点の信号待ちでもなるべく後方に立つようになった。恨まれることはしていないが、世の中には逆恨みという厄介な感情もある。
粛々と片付けていけばなんでもない話ではあるが、純情のかたまり?みたいな私だ。どこかで何かに脅えているのだろうか。
もっと大らかに、もっとノホホンと日々を過ごさないとなるまい。まあ、スカンクの死体がびゅんびゅん飛んでくる経験まで積んだ私だ。きっと少しづつ図太くなっているはずだ。
2011年3月4日金曜日
同窓の夜
先日、中学高校の後輩が訪ねてきた。私の職場の近くに住まいがある関係で、時たま一緒に遊ぶのだが、この日は2年ぶりの再会。
後輩といっても1学年下なので、立派な中年だ。後輩のクセにしっかりハゲ始めている。幼かったイメージが強い後輩がハゲるという驚愕の事実は、私自身の老化をいやでも思い知らされる。
さほど規模の大きな学校ではなかったので、上も下も同じような系統の一派でつるむような感覚があった。私とその後輩も部活が一緒だったわけでもないのに何となく親しかった。
遊び相手の女子高生を融通し合ったこともある。
その日は、このブログで2度ほど書いた私の同級生が始めたおでん屋を訪ねた。途中で、別の同級生も呼び出す。30代の頃に励んだ草野球チームで黄金バッテリー?を組んだ旧友だ。彼はその後輩の部活の先輩でもあり、あれこれと思い出話で盛り上がる。
ちょっと話が逸れる。このおでん屋さんには、ひと月ほど前に6名ほどのバアサン連合が襲来した。その一味の正体は、われわれバカ息子達を産み育てた母親連合だ。
私の母親もこの日呑んだ旧友の母親も参加したそうだ。30年いや40年近く前に子どもの学校の父兄だったという関係が、いまも定例飲み会として続いているというのは凄いことだと思う。
おでん屋店主に聞いたところ、バアサン連合はかなりガンガン呑んで帰ったそうだ。不思議なことに集まったバアサン連合のほとんどが夫、すなわち我々バカ息子達の父親に先立たれている。だからウキウキ呑んでいる。
やはり女は強し、母は強しだろう。
男子校だったので、当然悪友連中はみんな男だ。父親ばかりがとっととあの世に行って、母親達はバリバリ遊んでいる現実は男として結構せつない。実にビミョーだ。
さて話を戻す。
しこたま呑んでから銀座に移動。これまた4学年上の同窓の先輩がオーナーを務めるクラブに行ってみた。先輩は不在だったが、店の人が携帯に連絡してくれた。あれこれ可愛い後輩ぶって話をしていたら、ボトルを2本もプレゼントしてくれた。有難い限り。
もつべき者は先輩だ。
途中別件で、幼稚園から高校まで一緒だった旧友に連絡して、もうすぐ銀座で働き始めることになった1学年上の先輩とコンタクトしてもらう。
その先輩からはすぐにメールをもらい、今後の展望などを聞く。この先輩とは高校の頃、いろいろな事情で夏休みの1ヶ月、二人で毎日勉強するはめになった間柄。昨年、これまた同窓生関係のお葬式で久しぶりに再会した。神妙な顔をしていなければいけない場所で、再会にハシャいでしまった私だ。
その後、3軒目に移動。相当酔っていたようだが、楽しく呑む。この店には、やはり同窓の1学年下の別な後輩が来ることがあるようで、近々再会するかもしれない。そんな奇遇もまた楽しい。
何だかんだ言って、この日はすっかり「同窓の日」だった。10代の頃のアホバカ当時そのままを30年ぐらい経っても再現できるから旧友は得難い。
若い頃は旧友と会っても、ついつい気負ってしまうような、力んでしまうような若造独特の感覚も少しあったが、いいオッサンになるとそういう余計な気分は無くなる。ただ単純に素になれる。
近いうちにやはり小学校時代から一緒だった旧友の激励会を予定している。きっと、毎度毎度変わらないくだらない話を肴に痛飲するのだろう。
ゲロを吐かない程度に呑まねば・・・。
2011年3月2日水曜日
あの頃流れていた曲
深夜のタクシーの中や、運転中のクルマの中では何かしら音楽を聴いている。iPodのフォルダごとに整理した曲を聴くこともあれば、シャッフル状態、いわゆる機械任せでランダムに流れてくる曲を聴いている。
iPodに収納している曲は1300曲ぐらいだろうか。もちろん、最近の曲は少ない。よくよく分析してみると20代ぐらいで聴いていた曲が中心で、10代、30代ぐらいの曲がそれに続く。
音楽って何気なく聞き流しているようで、記憶の中の意外な場面を思い出す時にふとその時の印象的な曲がオーバーラップする。
夜遅くタクシーの後部座席でボケッとイヤホンから聞こえてくる音楽にハッとすることが多い。
適度に酔っぱらって頭の中が白くなっている怪しい時間帯だからだろうか、ふと聴こえてくる曲をきっかけに、忘れていた古い記憶が甦る。自分でも少し驚く。音楽の力って中々あなどれない。
10代の終わり、SRVなどという言葉もなく、まだ商用車需要が大半だった四輪駆動車をバリバリ改造してオフロード攻めにはまった。
八ヶ岳付近の県道から逸れた空き地で泥地にスタックして脱出できなくなったことがある。携帯電話もない時代、救援のJAFを呼ぶために公衆電話を探して1時間以上歩き、なんとか場所を説明して同じ時間かけて現場に戻った。
JAFを待つ。だんだん暗くなって人っ子一人いない心細い状態でボーと待つ。頼りはカーステレオから流れてくる音楽だけ。「クイーン」のフレディ・マーキュリーのハイトーンボイスだ。なんか励まされた。
中学、高校の頃は洋楽を聴くことがオシャレみたいな風潮があり、詩の意味も分からず雰囲気だけで随分聴いた。ジャケットデザインの格好良さだけで買ったレコードやCDもあった。
高校生の頃、レイ・パーカーJrの「Woman Needs Love」とかボズ・スキャッグスの「Twilight Highway」あたりは、いたいけな女子高生とみだらな行為にふける際の定番だった。
英語の綴りが面倒なのでここからは全部カナ表記にします。
ナックとかドナ・サマーが流れてくると中学生の頃、放課後に寄り道した神楽坂の甘味処の離れ個室を思い出すし、家庭教師とケンカした時の思い出はブルース・スプリングスティーンとともに甦る。
中学生の頃はエアサプライも随分聴いた。あの頃からAORというジャンルがしっかり定着したのだろうか。わけもなく「なんかオシャレ~!」という感覚だったのだろう。
高校生の頃は、ヒューマンリーグとかカジャグーグーとか、メンアットワークみたいな少し陰気系のバンドよりも爽やか系が好みだった。
REOスピードワゴンやスターシップ、クリストファー・クロスとかそんなノリだ。ちょっと激しい系だとJガイルズ・バンドとかジョン・クーガー、ブライアン・アダムスだった。
ちなみにシーラ・Eとかネーナとかいう女性ボーカルも格好良かったなあ。
当時は状況や場面に応じて音楽の使い分けをマメにしていたように思う。シャーリーン、シャーデー、Everything But The Girl,そしてケニーG。この辺が「ふしだら、みだら」方面のBGMとして私を奮い立たせて?くれた。
キリがないので、思い出の場面とそこで流れていた曲を書いてみよう。ここからは邦楽が結構出てくる。
中学生の時、初めて一人旅をした。場所はなぜかオッサンくさい草津温泉。ウォークマンに入れていたテープは佐野元春。「ガラスのジェネレーション」を聴きながら硫黄の臭いに気持ち悪くなったことを思い出す。
高校生の頃、女子と内緒で旅行。繰り返し聴いたのが、山下達郎の「Your Eyes」。ヒュー!って感じだ。
あの頃、山下達郎の音楽はマセガキ達にとって一種独特な存在だった。「日本人なのに洋楽じゃん」みたいな独特な空気があった。「甘く危険な香り」とか「世界の果てまで」なんかもシブかった。
大学生の頃、一人で北海道周遊ドライブ旅行に出かけた。中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」とか小田和正、財津和夫、松任谷由実が合唱?していた「いまだから」がカーステレオから流れていた。
20代の頃、少しだけ暮らした女性がいたのだが、その人がいつもサザンの「逢いたくなった時に君はここにいない」を鼻歌まじりに口ずさんでいた。あの曲を聴くと当時の記憶が甦る。
同じく20代の中頃、とある女性との別れのシーン。舞台は羽田空港。東京を去る彼女は出発ゲートに向かって歩いていく。振り返らずに向こうを向いたまま後方の私に手を振った。私の脳裏にはアンルイスの「Woman」が流れていた。
でも、あの時、私がさっさと帰ってたら後ろ向きに手を振る姿はチョット情けなかっただろう。トレンディードラマ全盛でバブリーな時代ならではの懐かしい思い出だ。
これも20代半ばだったか、やたらと忙しく、連日深夜まで働くだけでなく、週末も一人で出社することが結構あった。職場にはなぜか仕事用以外にいろんなビデオが置いてあり、息抜きしたい時には大型テレビで森高千里ライブを見ていた。
他に社員がいない時限定の私の密かな楽しみだ。普段は「森高?興味ないね」とかすましていたのだが、週末の職場で一人、ニンマリしながら誰が持ってきたのかもしれないビデオを凝視していた。
だから森高の「17才」は振り付けまで覚えてしまったほど印象に残っている。
なんか際限なく書けそうだ。ちょっと、いや、ちゃんと仕事しないといけないので、今日はこの辺でやめる。