遅めの夏休みをとって北海道にいます。いまごろはニセコか登別あたりにいるはず。
このブログの原稿を書きためてから行こうと思っていたが、そうもいかず、今週は更新をお休みします。
北海道旅行といっても家族旅行なので、何も冒険的出来事の予定はない。艶っぽいアクシデントも起こりえない・・・。
家族旅行って2泊ぐらいだと楽しいのだが、今回はちょっと長い。頑張らねば。
2008年8月25日月曜日
2008年8月22日金曜日
東京やきとり亭
寿司と焼鳥ばかり食べている私だが、先日も何を食べようか徘徊しながら結局、焼鳥屋に吸い込まれた。
場所は銀座。8丁目の中央通り沿いのビルの中に構える「東京やきとり亭」という名古屋コーチンの専門店。名古屋コーチンのレバーと砂肝が刺身で食べられると聞いていたのでいそいそ訪ねてみた。
最初の生ビールを流し込み一息ついたところで、「本日は刺身類が品切れ」と悪魔のような宣告を受ける。お盆明け間もない日だったので、仕方あるまい。鮮度に問題がある鶏の内臓など恐ろしいので、渋々あきらめる。
かろうじて1人前だけ用意してもらえた鳥わさを食べてみる。素直に美味しい。刺身類が品切れであることが悔やまれるほど、そのテのものが旨そうだ。
付きだしは、温泉タマゴ風の名古屋コーチンのタマゴ。余計なタレや薬味もなくそのままのタマゴの濃い味が気持ちよい。
焼鳥類は全品文句なく旨かった。正肉やかしわといったフツー系の串がうなるほど旨かったから全体に高水準なんだと思う。
いまどきはレバーやつくねあたりを濃いタレにくぐらせて、おまけに生卵の黄身を和えたりして美味しく演出しているパターンは珍しくないが、この店の正肉は鶏自体の甘みと旨味が上等で、塩加減、焼き加減が上等。レモンを搾るのもためらうほど私のツボにはまる味だった。
レバー、だんご、鴨つくね、それぞれが素直に美味しい。圧巻だったのはハツ。薄っぺらいハツではなく、丸っこい、見るからに心臓だぞって感じの形状のままで串に刺さっている。ジューシーかつ優しい味わい。
そのほか手羽元もしっかりと締まった肉質で、健康で正しい鶏肉の滋味を感じさせる。
やはり私にとっての肉番付は、相変わらず、鶏、豚、牛の順番だ。
ちなみに、同行した人間が頼んだアスパラ焼も非常に美味しかったそうだ。宗教上の理由で野菜を食べない私には関係ないが、あれだけまともな鶏肉を出すのだから野菜類もまともなんだろう。
お店自体に高級感はさほどない。今風の高級居酒屋風。お勘定はそれなり。
今回感じた余計な話をひとつ。やはり店の名前って大事だと思う。「東京やきとり亭」じゃあ正直、ワクワクしない。あんなに真摯にまっとうな焼鳥を出すのなら、もう少しネーミングに工夫しても良さそうな気がする。
敷居を低く誰にでも気軽に上質な焼鳥を食べてもらおうという意味でのネーミングかも知れない。でも、串1本の単価が500円という実態は、若いサラリーマンが気軽に食べられる値段ではない。そう考えると少しビミョーなネーミングだと思う。大きなお世話だろうが・・・。
2008年8月21日木曜日
会社で買うクルマ
オーナー経営者は「二つの財布」を持っている。ポケットマネーのほかに、会社経費の決裁権者という側面があるためだ。
税務署がオーナー企業をチェックする際に真っ先にターゲットにするのが経営者の公私混同。公私混同こそ中小企業経営のパワーの源という見方もあるが、常識的に見てヤバいものは税務署の格好の標的になる。
従業員として雇用しているように見せかけて、愛人のお手当を会社の経費から捻出するなどというベタなやり方は、タイムカードの突き合わせひとつでばれる。
そういう“おイタ”な話だけでなく、事実認定が微妙なものも多い。会社名義でクルーザーを購入したり、ヘリコプターを購入したりなんて話も新興系イケイケ企業を中心に現実に珍しくない。
社員の福利厚生、得意先の接待、緊急出張用の移動手段として正当に業務に活用すれば、純粋に会社がすべての経費を負担しても問題はないだろう。
ただ、オーナー経営者が自分のレジャー専用に使っていれば、その費用はあくまで経営者が個人的に支出すべきものと見なされる。
現実的な分野では社用車、すなわち会社名義のクルマの在り方が問題視されることが多い。実際に、経営者の中にはこのテーマを必要以上に思い悩んでいる人も多い。
「ベンツなんか買っちゃマズいだろうか?」といった思い込みだ。純粋に社用で乗り回すのなら何も問題はないが、漠然と“ちょっとソソるクルマ”だと税務署が文句をつけてくる危惧を抱いている人は多い。
このあたりの判断はあくまで事実認定にあるため、企業側が社用、経費としての正当性を客観的に立証できるかがポイント。
中古で30万円のオンボロ車だって、会社で購入したのに、経営者個人が自宅に置きっぱなしにして、子どもがレジャー専用に乗り回してるのなら会社の経費性はまったく認められない。要は、豪華か否か、イケてるか否かという問題ではなく、利用実態が大事。
ベンツを買おうが、ベントレーを買おうが、基本的に業務に利用するのなら税務署がアレコレ言う話ではない。
また、車のボディカラーは、紺や黒など地味にしないと対税務署的に危ないという意見を聞くことがある。これもはっきり言って都市伝説のようなものだろう。
2ドアやRVだって同様。そうだからといって会社での経費購入に規制があるわけでではない。税法や通達にもそうした規定はない。そのクルマに気付いた税務署の調査官から、業務との関連性を問われることがあるという話だと思う。
とはいえ、クルマ自体、見方によっては嗜好性の強い存在。好きな人であればこだわりも強く、こだわりが強ければ、つい税務署的視線も気になる。
そんな心配が絶えない人にお勧めなのが、経営者向けフリーペーパー・『オーナーズライフ』が実施するセミナーだ。
タイトルは、「誰も語らなかった正しい社長車選び」。気鋭の自動車評論家が“社長車”にマトを絞ってその本質を検証。同時に元東京国税局調査官による“税務署的視線”の話も用意されている。
詳しくは同紙ウェッブサイトで。
http://www.owners-life.com/
2008年8月20日水曜日
公正中立
今日は少し重たい話です。
税制が語られる際、お決まりのように出てくる言葉が「公正・中立」というもの。国民から負担をもとめる税の世界に不公平があってはならないという意味で多用されるが、よく考えれば実に曖昧な言葉であり、発想だと思う。
そもそも万人に対して公正中立などということはあり得ない。どの階層の目線で税制を捉えるかで公正中立の概念だって変化する。
所得税の最高税率を適用されている人は、最低税率ですんでいる人をうらやましく思う。同じ種類の税金なのに負担割合が違うのは不公平だと感じる。ごくごく当然の感覚だ。理屈からいってこの違いは公正中立などとは呼べないはずだ。
応能負担の原則とやらのややこしい言葉がある。負担できる能力に応じて同じ種類の税金でも適用される税率に段階を設けるという屁理屈的発想だ。
所得が高くなるにつれて適用税率が上がっていく累進税率という制度のバックボーンにある考えかただ。
税金を多く納める人から見たら単純に不公平なこの制度、はるか昔から営々と当たり前の考え方として税制の考え方を支配している。
「それが当たり前」、「そういうことになっている」という実に曖昧な理念のもと貫かれている。
私は最高税率を適用されるほどリッチマンじゃないし、最低税率を適用されるような貧乏人でもない。でも、高所得者になればなるほど、何の見返りもなしに税負担が増える仕組みには昔から違和感を覚える。
いまやすっかり税制の柱のような存在になった消費税の存在を思うたび、その違和感が間違っていないことを実感する。
高所得者でも低所得者でも税率は均一。それが本当に不公平なら、世界中の税制で中心的存在に位置付けられるこの手の税制をすべて否定することになる。
いま、政治の世界では税制論議が賑やかになってきた。いわゆる上げ潮派VS財政再建派の主導権争いと相まってこの秋以降、より活発な税制議論が展開される。
閉塞感の打開、近未来における国の在り方などを踏まえて展開される税制論議だが、いまこそ「公正中立」の考え方を見なすべきだろう。
どこの階層の立ち位置で公正中立を判断するか。答えは単純だ。経済の活性化を狙うなら、当然、高所得者層の公正中立感を満足させるような方向に舵を取らなければ意味がない。
低所得者層が喜ぶ制度をあれこれ作ったところで景気を浮上させる効果などない。
「金持ち優遇税制」というフレーズは日本の税制史上、悪とみなされてきた。この呪縛から脱却しない限り、経済を刺激する大胆な税制改革など不可能。
大衆迎合しか頭にない一般メディアが目の仇にしてきた「金持ち優遇税制」という路線。今後はこの“かつてのタブー”を声高に推進するよう主張するメディアが重要になる。
今年創刊60周年を迎えた『納税通信』は、経営者目線で税制動向を注視する独自のスタンスを維持している。金持ち優遇税制の推進などというと一昔前はそれこそ異端視もされたが、昨今では風も変わってきている。
この国の借金まみれの現状は、金持ち冷遇政策のツケであることに気付く人も増えてきた。努力して稼いだ人の立ち位置を尊重し、その目線にあった公正中立な税制が求められている。『納税通信』では、今後もこうしたスタンスで税制動向をウォッチしていきたい。
2008年8月19日火曜日
タイか北海道か
今週後半から夏休みを取る予定だ。最初は8月初旬にグアムに行く計画にしていたが、直前になってやめた。私の場合、夏休み旅行は、普段、ひとり旅を好き勝手にしている罪滅ぼしもあって、家族サービスの意味合いが強い。
グアムで子供と一緒にウオータースライダーなんかを滑らされてヘトヘトになっているを夢に見た。疲れそうだからグアムは中止。
親も楽しめなきゃイヤだと、行先をタイ・バンコク近辺に変更した。ペニンシュラかシャングリラあたりで優雅に過ごそうと画策していたが、改めて押さえた日程だと、仕事の都合がうまくない。こちらもすべて手配したあげくキャンセルした。
マイルが貯まっているので、それを使えば臨機応変に予定を変更できるのだが、これがかえってややこしい。つい簡単に変更したくなって、結局迷走する。
気付けば8月後半。すっかり夏バテはひどくなり、タイの暑さを想像するだけでゲンナリしてきた。
「涼しいところに行きたい」。急きょ、先週の段階で全部仕切り直した。結局目的地は北海道になった。
子供は海に行きたかったようでブーたれているので、「毎日ソフトクリームが食えるぞ」、「マリモも買ってやる」などと意味不明な説得をした。
定山渓とニセコと登別を回ってくる計画だ。
なんか最近やたらと北海道に行っている気がする。今年は春先に網走で流氷を見たし、先月は函館で寿司三昧だった。
「北海道方面に“いい人”がいるらしい」。わが家の最高権力者は知り合いにそんな話をしているらしい。心外だ。そんな艶っぽい旅行をしていない。まあ怪しまれるうちが花かも知れない。
ところで、タイに行っていたら無料航空券を使っても、燃油サーチャージが15万円程度かかるようだったので、北海道にしたことで随分安くあがると思っていた。ところが、試算したところそうでもない。国内旅行もあなどれない。頑張って稼がねば。
2008年8月18日月曜日
六本木 寿司
先日、六本木で寿司を食べることになり、どこに行こうか迷った。「なかむら」、「山海」あたりのイマドキの六本木的寿司屋にも何度か行ったことはあるが、あまり私の琴線に触れなかったので、気に入った店がない。
5年ぐらい前に何度か行った「魯山」の存在を思い出した。とりたてて、個性があるとか、他にはないウリがあるといった店ではない。でも、それなりに雰囲気も良く、素材の高級感にも間違いはない。
この店、あちこちに店を構える寿司田チェーンの高級版。チェーン店的な要素を隠して、しっぽり系の街場の高級寿司店の雰囲気を醸し出す戦略。「そこらへんにあるチェーン店なんかヤダ」という客の微妙な心理をうまくついている。
最近は大型外食産業が実は経営母体だったり、後ろ盾がしっかり別資本になっている寿司店が増えてきたような気がする。
こだわり頑固ヘンクツオヤジが自らオーナー経営する寿司屋と違って、この手の“勤め人寿司”はある意味、安心して使える。
店主の強烈な個性を前面に押し出されるパターンとは異なり、平均的にソフトな対応で、良くも悪くも無難にまとまる。客側がそれなりに寿司屋での過ごし方を分かっていれば、その店のポテンシャルは充分に引き出せるし、“寿司経験”が乏しい人であっても、サラリーマン的訓練を受けた板前さん達がそこそこリードしてくれる。変に窮屈な思いをしないで済むという点で、使い勝手がいい。
六本木の「魯山」も5年ほど前となにも変わることなく、良くも悪くもクセはなく、接客も場所柄ソツがなかった。板前さんの顔ぶれは以前とはまるで違っていたが、向こうもこちらも別段構えることなく、適当に旨いモノを食べることができた。
殻付きのウニやいくつか刺身をつまみにアレコレ食べた。何を食べたか詳細に思い出せないが、別にマズいものはなかった。
プライベートで集中して楽しく食べるシチュエーションならともかく、誰かと話し込むような席だったり、ちょっとした人数で会食するようなパターンなら無難に過ごせると思う。
「おまかせ」しか出さない(出せない)格好つけすぎの若い店主が営む“イマドキ寿司”や、気合いが入り過ぎちゃって見ていて気の毒になる“修行僧寿司”、若い小金持ちばかりを信者のように手なずけて悦に入っている“洗脳寿司”みたいなお店が港区周辺には増殖中らしい。
その手の店で、首をかしげるより、無難なチェーン店のハイライン店を選んだ方が快適かもしれない。
2008年8月15日金曜日
キモの話
先日、ある店でキンキのカマを煮付けにしてもらった際に、新鮮なキモも一緒に料理してもらった。
キンキの肝煮。ぷるっ、ジュワっと適度な弾力とともに口に広がる脂。ゆっくりと味わって、その後30秒くらい余韻にひたってダンマリして、その後、ウーとかオーとかうなってしまった。
キモってどうしてあんなに旨いのだろう。思えばいろんなキモを食べてきた。肉類であれば、鶏、豚、牛それぞれのレバ刺しには目がないし、馬のレバも新鮮極上品を刺身で食べれば、“ミルキーはママの味”とかいう昔のCMソングが頭をよぎるほど旨い。
馬レバ刺しは、モノが悪いと、臭みと渋みが爆発して食べられたものではないが、上等な一品に当たれば、かなり嬉しい気分になる。
いつのまにかすっかり和食党になった関係で、フォアグラはさほど食指が伸びないが、アレはワインと合わせてこそ旨いモノだろうから、ワインが苦手の私にはあまり縁がない。
キモの効用は貧血防止らしいが、20代の頃から血圧が高い私には、あまり関係のない話。
魚貝類のキモといえば、カワハギやカレイ、ウナギにアナゴ、アワビにサザエ、アンコウあたりが思い浮かぶ。どこの店にいてもこれらがあったら注文してしまう。
エサをなかなか獲れない深場にいる魚は、栄養をため込んでおく必要があるため、肝臓がいい感じに脂を蓄える。
聞くところによるとマグロとアンコウでは肝臓の脂肪分に20倍位の違いがあるそうだ。見るからにマグロは健康そうだし、あれだけ泳ぎまくって暮らしていれば脂肪肝にはなりそうもない。ボーとしているアンコウの方が不健康そうだから、キモが旨くなる仕組みだ。
北島康介のように泳げない私だが、きっと私の肝臓は彼の肝臓より旨いのだと思う。
食べてみたいキモといえば、やはりフグ。でも毎年、死者が出ているフグのキモを食べる勇気がない。大体、フグのキモは法律で食べることを禁止されているのだから、コンプライアンス重視の私が手を出すわけにはいかない。
数年前、どこかの大学の研究チームがフグの無毒化に成功した。その技術が一般化すれば、フグのキモ刺しとかをニコニコ食べられる日が近いと期待しているのだが、厚労省がマッタをかけて膠着状態にあるらしい。
佐賀県の一部エリアが無毒化したフグキモを町おこしにも活用しようと、「フグ特区」を国に申請している。無毒化成功という技術を全面的に信用する段階ではないという厚労省の姿勢に、研究者側は反発して議論が続いているそうだ。
許可しておいて、死亡事故が起きれば、国の責任も問われるわけだから厚労省の姿勢も分かる。ただ、本当に信頼できる技術が確立されているのなら、“官の弊害”は迷惑な話。
フグのキモが解禁されたら、私は合宿に行くかのように長逗留して味わってみたい。
2008年8月14日木曜日
オグシオと経営者の服飾術
「人は見かけが9割」とかいうタイトルの本が以前ベストセラーになった。活字にしてストレートに突きつけられると一見ショッキングに思う人もいるだろうが、本当にそう思う。
オグシオばかり有名だった女子バトミントンで、スエマエというペアが金星を挙げたことで急きょ有名になった。端的な例だと思う。
オグシオの潮田さんは確かに可愛い。私も密かに「萌え~」だった。スエマエさん達には萌えなかったのが事実だ。
アスリートとして凄い成績を残した女子選手は数限りなく存在するが、国民的人気を得られる人は、結局、見た目で決まる。残念ながらそれが現実。
思えばどんな世界だってそうだ。セールスに来る人間が、暑苦しくうっとおしいオッサンだったら、邪険に扱いたくなる。同じ会社の同じ商品を売りに来た人が潮田選手みたいな人なら私はきっと買ってしまう。
見た目を考えるうえで、先天的な要素は避けられない。神様はその点で公平ではない。生まれつきの美男美女はどうしたってなにをするにも有利だ。
ただ、美男美女に生まれなかったとしても、身に付けるものや努力した上の清潔感はあとから追加可能だ。この部分はとても大事。仕事ができる人や、なんとなく人を寄りつかせる魅力を持った人は必ず、見た目に的確な注意を払っている。身に付けるものの値段に関係なく、きちんとした自意識を待った人物かどうかは一目でわかる。
中年にもなると、仕事で初対面の人と会った場合、大げさではなく瞬時に相手が「然るべき人物」かどうかが分かる。ヨレヨレだったり自分のスタイルにまるで無頓着な人物は、結局それなりでしかないのが真実だと思う。
ひとかどの経営者クラスになると、例外なく自分の見せ方を心得ている。見せ方などというと芸能人でもあるまいし的な否定的な意見もあるが、地味なビジネススーツやネクタイひとつとっても、「然るべき人」は自分なりのこだわりを貫いている。
オーナー経営者向けのフリーペーパー「オーナーズライフ」では定期配送登録をした読者限定のさまざまなイベントを展開している。なかでも最近好評なのが、「デキル経営者の服飾術」というシリーズのセミナー。
講師をつとめる現役スタイリストが経営トップにふさわしいスタイリングを参加者一人一人の肌色分析とともに検証する内容。
人それぞれに違うパーソナルカラーを診断することがポイントで、接する相手の印象を大きく変える服飾アレンジにはきちんとした法則があることが理解できる。
興味のあるオトナな男性は「オーナーズライフ」の専用サイトを覗いてみてください。
http://www.owners-life.com/
2008年8月13日水曜日
勝ち組クラブ
お盆の時期にまるまる1週間店を休むクラブは一流店だそうだ。今週いっぱい休業中の店だと2回の土日を入れれば9連休だ。確かにあの手の商売で9連休を取れるなら一流だろう。
なかにはプライドと見栄のため渋々休んでいる店もあるらしい。銀座あたりは見栄とプライドがこんがらがっているので、想像以上にやせ我慢している店は多い。
売上げ制の女性にとっては、長い休みは収入に直結するわけだから、見栄ばかり張ってもいられないだろう。
今週の初め、六本木のクラブ「G」に顔をだした。お盆休みシーズンに入ったので、ガラガラだろうと思っていたが、割合早めの時間からほぼ満杯の盛況ぶり。開けていたら開けていたで、繁盛するんだったら、経営者としては休みたくないだろう。この店の場合、今年の夏は1日だけ休業するとか。大したもんだ。
キャバクラ的値段の店なら分かるが、この手の店がお盆の時期に繁盛するんだから、つくづく景気動向が分からない。というより、勝ち組、負け組がよりはっきりしてきた証なのかも知れない。
勝ち組の「G」を眺めていて気付いたことがある。流行るクラブの法則がそれ。法則といってもそんなに大げさな話ではない。
「流行る店は犬・タヌキ系の女性が揃っている」という“言い伝え”がそれ。銀座あたりで流行っているクラブは、ホステスさん達の顔立ちが、猫・キツネ系ではなく、犬・タヌキ系ばかりだという話。
実に単純な話に聞こえるが、言われてみれば結構正しい。私自身、たくさんの店を知っているわけではないが、この法則は当たっている。
なかには、女性陣のほとんど全員が犬・タヌキ系という店もある。女性の入店面接の際にその部分だけを重視するような店もあると聞いたこともある。
世の中には猫好きの人も多いので、犬と猫の比較より、キツネとタヌキで比べたほうが分かりやすいだろう。
一般的にタヌキのウリは愛嬌だ。人形やマンガに描かれる姿もキツネよりはユーモラスで、どこか親しみを覚える。
キツネは、どうしてもずる賢いイメージの象徴のように描かれる傾向にある。どちらかといえば、とんがったイメージがあり、まーるい印象を与えるタヌキの対極にいるようなイメージだ。
やはり、酒場でノホホンとした時間を過ごすときには、タヌキ系にお相手してもらうほうが落ち着く男性が多いのだと思う。
信楽焼などでタヌキの置物が定番になっている理由のひとつがタヌキのお腹が白いことにある。すなわち「腹黒くない」という意味で尊ばれているわけだ。
こんなイメージも夜の街の酔客連中が、キツネよりタヌキに惹かれる理由かも知れない。
もっとも銀座あたりには、腹の黒いタヌキも無数に生息している。それこそ化かし合いの世界だから、油断してはいけない。
結局最後は自分に言い聞かせているようだ・・・。
2008年8月12日火曜日
コハダ
寿司好きにとって、何はなくても欠かせないのが酢じめの魚だろう。私も子供の頃から酢じめの魚が好きで、バッテラの押し寿司を買ってもらうことを目的に母親の買い物に付き合ったことが何度もあった。
京都に行けば、鯖寿司が無性に食べたくなり、下鴨神社そばの「花折」という専門店に必ずと言っていいほど出かける。
東京のデパートなどで物産展があれば、鯖寿司はたいてい購入してしまう。
酢じめした魚といえば、鯖が代表選手のようだが、東京人にとっては、鯖よりもコハダをイメージしがちだ。コハダのない寿司は想像できない。
いまはコハダの赤ちゃんバージョンであるシンコがあちこちで食べられる嬉しい季節。
先日、銀座の「鮨・池澤」でコハダの話をあれこれ聞くことができた。その日、運良く店がすいていたこともあって、大将から雑学を仕入れることができた。
●その1―。シンコが出回っている季節のコハダを見逃すな!
カウンターでくつろぎながら、ガツンとした味わいの「種子島金兵衛むろか(無濾過)」という芋焼酎をぐびぐび呑んでいた私が、つまみに頼んだのが鯨ベーコン。コクのある芋焼酎には油っぽい肴でしょうとか騒ぎながら、いい調子で呑んでいた。
すると大将がつまみとして出してくれたのが、やたら大ぶりのコハダ。芋焼酎に合うからと言われて、素直に試してみた。
普通にイメージするコハダのさっぱり感とは一線を画すほどの脂ののりにちょっと驚く。身が大きい分、かなりしっかりとした味わい。確かに芋焼酎と妙にフィットする。
大将によると、シンコの握りが、いわゆる2枚づけになる季節になるとシンコに見向きもしないで、大きくなったコハダをこぞって食べる寿司好きの人が結構いるそうだ。
ついついシンコばかり有難がってしまう私も普通と違う大ぶりコハダのごっつい味わいに魅せられた。握りで食べるなら、最後にサッパリと、というより空腹状態の時に、シャリを大きめにして握ってもらったら口の中が“寿司寿司バンザイ”ってかんじで良さそうだ。
●その2―。コノシロとは子の代わりなり!
シンコやコハダは大きくなったらコノシロという名前で呼ばれる。寿司ネタというより魚の名前としてはコノシロが一般的だ。
この魚、煮ても焼いても食えないという話はよく聞く。酢じめして寿司ネタとして使う以外はまるで使いようがない魚らしい。
焼いて食べようものなら、死体のような臭いがするという話も聞いたことがあった。まあ、そのぐらいマズいという意味の誇張表現だと思っていたのだが、この死体にまつわる話も聞くことができた。
映画やドラマで見るように昔の戦場では、ハイライトとして城や陣地に火が放たれる。そして焼けこげた遺体のあるなしが大事な要素になった。すなわち遺体がなければ追っ手が探し続けることになる。
一説によると、幼い若殿だけは逃がそうとと自陣に火をつけた劣勢側が、コノシロを大量に用意したという。理由は、コノシロの焼けた臭いが死体を焼く臭いとそっくりだったため。
攻め手は、焼け落ちた陣地に漂う死臭のせいで若殿も焼け死んだと思いこむという寸法だ。
諸説あるようだが、この手の言い伝えがあるせいで、コノシロを漢字で書くと「子の代」、すなわち子の代わりなんだそうだ。
つくづく日本語のおもしろさ、魚食文化の奥深さを感じる。こんな雑学が仕入れられるからお寿司屋さんのカウンターは楽しい世界だ。
この日、「鮨池澤」では、当然ながらシンコ、コハダ以外にもアレコレ食べた。特筆すべきはマコガレイのキモ巻き。エロティックなキモを淡泊な刺身でたっぷりと巻いてポン酢で食べる。キモ好きには堪らない。そりゃあ旨いです。
塩水ウニも酒肴に最高だったし、握りで食べたボタン海老、車海老、鯵なんかもバッチグーだった。このお店、赤酢のせいでほんのり色づいたシャリが特徴的。米の質感、握り加減が上等なバランス。どんぶりにシャリだけ盛って醤油たらして食べても充分満足できそうだ。
握りに塗られる煮きりも味が強すぎずいい塩梅。素直にいいお寿司屋さんだと思う。
2008年8月11日月曜日
不倫
みずほコーポレート銀行の頭取に続き、TBSの社長も不倫騒動が週刊誌に報じられた。“モナ岡騒動”以降、不倫バッシングがブームの兆しだ。
それぞれの企業トップの騒動では釈明が歯切れ悪くて面白くない。かつて石田純一が「不倫は文化だ」と力説したり、「異文化交流」と言ってのけた森本レオのような居直りセンスがまったくない。
いまのご時勢、居直ったら負けのような風潮があるから仕方ないが、どちらかの騒動で、女性側が週刊誌に撮られた写真を「アレは合成写真」と抗弁していたのには笑った。
不倫を支持する、支持しないなどという下らない議論をする気はないが、一連の騒動を見て感じたのは、世の中全体の窮屈さだ。
アレもダメ、コレもダメ、ああしろ、こうしろ的な得体の知れない指図がひと昔前より確実に増えている。
タクシーの後部座席でシートベルトを締めろ、自販機でタバコを買いたきゃタスポを作れ、などなど。
冷房の設定温度をどうしろとか、アイドリングをどうしろとか、色んなところでお節介かつ鬱陶しいルール作りが増えている。
電車の女性専用車両とかいうシロモノも男性にとって失礼な話だし、ネクタイを締めなきゃ格好がつかない人々にはクールビズだって困ったちゃんだろう。
気がつけば日常の広範囲に“統制”や“規制”が渦巻いている。
不倫騒動だって、民間企業のトップが週刊誌のターゲットになること自体、以前には考えられなかった。
大らかさとか余裕とか暗黙の了解のような感覚が、すべての分野で消えていきそうな勢いだ。
今の政府なら、そのうち姦通罪なんかを復活させる議論を平気でやりかねない。
倫理観や道徳観なんてものは時代とともに変わるもので絶対ではない。たかだか100年前には、ひとかどの人物には、おめかけさんがいて当然という風潮があったのがこの国の実態だ。
いまなら、おめかけさんという言葉自体が女性団体あたりの糾弾の対象になりそうな言葉だが、ほんの少し時代をさかのぼるだけで、それこそが甲斐性とみなされていた。
いまどきの「ひとかどの人物」はそう考えるとお気の毒。まあ、芸人にまで画一的な倫理感が押しつけられる時代だから、企業トップもおちおち不倫などしていられないのだろう。
そもそも不倫の定義ってよく分からない。配偶者がいる人が配偶者以外の人と関係をもつことが不倫だとしたら、ソープランドに行くことも不倫になってしまう。
事情によって籍は抜いてないものの、事実上の婚姻関係は終わっており、お互いが了解済みで、別な相手と事実婚状態にあるケースは想像以上に多い。私のまわりでも簡単に実例は見つかる。こんなケースをダブル不倫などと軽々しく定義づけることはできない。
同年代の男に魅力を感じず、結婚願望もない女性が、子供だけは欲しいという思いから、年上の「うだつの上がっている男」の子種を狙うケースも実際にある。これだって単純に不倫とかいえるパターンではない。
100年前のおめかけさん達にも似たような感覚はあった。ろくでもない男と所帯を持つなら、位人臣を極めた人物に囲われて子どもを授かった方がましという思いだ。“どこぞのお坊ちゃん、お嬢ちゃん”として生まれ育った人の中にもそんなパターンは結構あったようだ。
書きたいことが上手くまとまらなくなってきた。もっと率直に色々書こうと思ったが、普段、それこそ一種の“統制”のなかでモノを書く仕事をしていると、いざ本音を書こうと思っても勢いが出ない。反省。
「富豪記者ブログ」もそろそろ裏ブログを作って、ここで書けない話やエピソードを書くことを考えないといけない。
ところで、恋愛をしたいという感覚は、男女や年齢に関係なく誰にだってある。結構な年齢になってそれを実践すると、だいたい不倫というレッテルがついて回る。
とはいえ、恋愛したくても、肝心の一歩が踏み出せない階層のほうが多く、その階層が一応、秩序を維持しているつもりだから困る。
正真正銘の正義感と倫理意識に基づいていれば立派だが、単に冒険する勇気のない連中や、冒険する努力を放棄している連中が、ここぞとばかりに不倫バッシングに励む。
時の人でもない民間会社のサラリーマン社長の色恋沙汰をせっせと追っかけるマスコミの姿勢って気持ち悪い。
あれじゃあ、本人達も自分が大人物なのかと勘違いしてしまうような気がする。
2008年8月8日金曜日
貴重な高額納税者
早ければ今年中にも衆議院選挙が行われる。福田改造内閣も派閥の領袖クラスを揃え、選挙シフトの構えだ。
選挙対策という割には、いわゆる財政再建派重視の布陣で、国民ウケは麻生幹事長ぐらい。これから財政再建派の閣僚が持論を声高に主張し続ければ、まず選挙で勝利する可能性はないだろう。
選挙になると決まって登場するのが客寄せパンダ候補者。タレント、スポーツ選手などの有名人がゴロゴロ出てくる。全員が全員でないにしろ、資質というか、最低限の教養面で大丈夫かいという人物も出てくる。
試験でも論文でも何でもいいが、膨大な税金を使って国政を委嘱する以上、なんらかの立候補基準はあっていい。
もっとも、投票してしまう有権者自身が問題という側面も見逃せない。現在の選挙制度は成人なら分け隔て無く選挙権がある「普通選挙」と呼ばれる制度。
考えようによっては、ちっとも「普通」ではないように思う。
極悪犯罪人だろうが、誰もが尊敬する偉人だろうが、まったく差はない。同じ1票。いにしえの「制限選挙」の考え方がなんとなく理解できてしまう。
制限選挙といっても、女性選挙権を否定する意味ではない。昔の選挙権の大きな特徴は「納税額」にあった。この基準はひとつの正論といえよう。
明治政府が導入した一定納税額基準を満たした人物に選挙権を与えるスタイルは、2度の税額基準の引下げを経ながら40年近く続いた。
当初は選挙権を持つ人が全人口の1%にすぎず、その後の納税額基準引下げによっても全人口の5%程度しか選挙権がなかったので、到底、民主主義と呼べるシロモノではなかった。ただ、新国家建設に血眼になっていた時代だけに考え方としては理解できる。
国家への“会費”を多く納めている人こそがモノをいう権利を強く持てたのだろう。
現在、働かないで税金すら納めないプータローから選挙権を取り上げることはできないだろうが、だとしたら、高額納税者は浮かばれない。
誰しも最低1票は保証するが、納税額に応じて2票とか3票を持てるぐらいの格差があってもいいと思えてくる。
高額納税者を尊ぶような発想や制度がまるで無いことは異常だろう。お得意様に対して無視を決め込むような失礼な話だ。
国からの感謝状、表彰状ひとつ存在しない。その理由は「納税は国民の義務で、当たり前のことだから」という訳の分からない理屈でしかない。
当たり前だから表彰しないという理屈なら、無事故無違反のドライバーへの安全運転者表彰も必要ないし、長く勤めたらもらえる永年勤続表彰とかも意味がない。
極論すれば、人助けした人への表彰だって、人を助けることは当たり前だろうというイヤミで不毛な陰険な解釈につながってしまう。
税金関係の仕事をしていると、悪い奴らばかりではなく、立派な人が思った以上に多いことを見聞きする。税金を1円でも払いたくないと必死に工作している人がいる一方で、高額納税を名誉なことだと認識して、当たり前の節税すら見向きもせずに高い税額を喜んで払っている人が結構存在する。
国がこういう人々を讃えることを怠り続ければ、そういう種類の人々は絶滅することは間違いない。
相手に対して誠実かどうか。その結果、すたれてしまうかどうか。飲み屋なんかと同じ理屈で、結局単純な話なんだと思う。
2008年8月7日木曜日
アバ、ロネッツ、加山雄三
アバ人気が再燃中だそうだ。再々燃なのか再々再燃なのか分からないが、要は世界的に根強い人気だということ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080805-00000037-jij-ent
実は私、アバの来日コンサートに行った。アバの来日は確か1度きりだったような気がする。結構貴重な体験だ。
アバ好きだった兄が入手した武道館のチケット。なぜか兄弟ふたりで見にいった。後ろのほうで、おまけに上のほうの席だった記憶がある。
豆粒のような4人組がステージで躍動していたようだったが、とにかくステージが遠かったことと、座席位置のせいか、音響が悪かったことしか覚えていない。
もう30年ぐらい前の話なので、若手のアバファンを見つけると得意になってこの話をする。結構本気でうらやましがられることがあるので、やっぱり貴重な体験だったんだろう。
私のiPodには、ナツメロがたくさん収録されている。キャンディーズや桜田淳子に混ざってアバも多い。でも、代表曲「ダンシングクイーン」は入れてない。当時、オーディオマニアだった兄が自分の部屋で一日中爆音で流していたので、いい加減ウンザリして敬遠するようになった。一番好きなのは「THAT’S ME」。
アバ旋風のあと、80年代に色気づいた私の世代はこぞって洋楽を聴いた。私も同様だったが、アバの洗礼のせいか、メロディーラインとコーラスラインが単純明快に心地よいパターンの曲ばかり聴いていた気がする。
エア・サプライ、クリストファー・クロス、プリテンダーズ、REOスピードワゴン、ホール&オーツ、シーナ・イーストン、バングルズ、TOTO、エイジア、ELO(エロではない)などなど。
その他にも「ラジオスターの悲劇」とか「ソウルドラキュラ」あたりの70年代後半の珍曲もいま思えば、独特なコーラスワークが印象的で好きだった。結局、アバに関係なくコーラスアレンジが心地よい音楽が好きなんだろう。
元をたどれば、50年代あたりのモータウンサウンドの中でも軽めの曲に行き当たる。「ベイビーラブ」、「ストップ・イン・ザ・ネームオブラブ」、「恋はあせらず」あたりのシュープリームスの名曲は素敵だ。
「WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW」(シェリルズ)、「BE MY BABY」(ロネッツ)なんかは酔っぱらって散歩するときは今でも頻繁に聴いている。
ニールセダカとかコニーフランシスとかをよく聞いていた私の叔母の影響かもしれない。幼児体験が残って今でもこの手のオールディーズに心が揺れるのだろう。
音楽の幼児体験って結構強くインプットされるようで、私の場合、洋楽オールディーズだけでなく母親がファンだった越路吹雪や加山雄三の歌はたいてい歌詞カードを見ずに歌える。別に自慢になるような話ではないが、私なりに凄いことだと思っている。
2008年8月6日水曜日
串揚げで胸焼け
悲しいことに最近、胃の調子がいまいちだ。多分、年齢的なものだろう。情けない。最近は朝食もソーメンばかりで、こんなことでは夏バテ脱出は難しい。
とはいえ、先日はソーメンを5束も食べてしまった。本当に胃が悪いかどうか微妙だ。
こんなことを書いてみたのは、先日、串揚げ専門店に行って、楽しく食べたのに、夜半から朝にかけて胸焼けに苦しめられたから。
串揚げ自体は、油も軽い感じで衣も分厚くなかったので、きっと私の胃が弱っているのだと思う。鍛え直さねば。
訪ねたのは、銀座にある「最上」という店。関西が本場らしく、銀座進出は最近のことらしい。
モダンで綺麗でそれなりに高級感もある。メニューは串揚げのみ。36種類の串が基本的に店側のおまかせで出される。当然、そんなに食べられる人はそう多くないだろう。
私は、真っ先にわがままリクエストを伝えた。「野菜は抜きでお願いします」。ちょっと恥ずかしいセリフだが、オクラとかアスパラとかそんなもので胃を満たすことは私にとっては物凄くつらい。
このアスパラは、通常通りの順番で食べていた同行の隣人が食べていた品物。こんなデカい緑モノは、私には拷問だ。このアスパラを見たとき、野菜抜きをリクエストした判断を自分自身で誉めたくなった。
せっかく私的には珍しい食事をしたのだから、せっせとこのブログ用に写真を撮ろうとしたが、串揚げの写真は、ご覧の通り何が何だか分からない。野菜ではないことは分かるが、自分で画像を見ても、何だったか思い出せない。
一応撮影したのだからアップするが、何だったんだろう。
お店の名誉のために言うならば、食べた串揚げはすべて美味しかった。海老やキス、蟹ツメなど定番の串も素材が吟味されているようで、素直に美味しい。
牛串、豚ヒレなんかもくどすぎず、軽くつまむのに最適だった。串に合わす薬味というかタレは4種類用意され、串に合わせて味わいが変わるので飽きない。
塩、バーベキューソース、ゴマダレソース、そして醤油が用意されており、店の人が一串づつどれに合わせるか教えてくれる。
そのほか、イカ、穴子、カレー風味の鶏肉、クリームコロッケ、手羽餃子風の串、サーモン、ウズラの卵などあれこれ食べた。
熱帯夜にこんな串をつまみながら生ビールをぐびぐび呑むのはなかなか良い時間だった。
胸焼けしないひとなら、とても楽しめると思う。
2008年8月5日火曜日
東京の寿司
しょっちゅう北海道まで飛んでいって寿司屋めぐりをしている。北海道に限らず、国内各地、とくに海側への旅だと、いつもいそいそと地元の寿司屋を覗きたくなる。
寿司マニアというほど極端なこだわりがあるわけではないが、やはり私が好きな食べ物のナンバー1は寿司だ。
そんな私が、旅先でいつも痛感するのが「寿司は東京が一番」ということ。
うまい寿司を食べながらそんなことを実感すると旅に出た楽しみが半減するので、なるべく、旅先では、この“絶対的な真理”を忘れるようにしている。
土地土地で地元ならではの美味いものや珍味にありつけるから、やはり「旅寿司」の楽しさは捨てがたい。とはいえ、単純軽快に「美味いかどうか」を基準に考えると東京に軍配が上がる。
日本中の美味いものが、高く買い取ってもらえる東京に集まるのだから、値段をあまり考えずに評価するのなら、どうしたって東京の寿司が一番だ。
先日、この“真理”を今更ながら突きつけられた。高田馬場の鮨源本店にぷらっと出かけたら、美味しいものオンパレード。
丁度この日は、夏バテで疲れ気味だったこともあり、会社や家にほど近い高田馬場を止まり木に選んだ。そんな安直な気分で出かけたのに、「うまいうまい」を連発し、官能の炎に全身が包まれた(かなり大げさだ・・・)。
刺身やつまみ類もうまかったが、この日は握りが特別にバッチグーだった。
まずは新イカ。スミイカの赤ちゃんだ。夏の風物詩。シコシコした食感のスミイカも赤ちゃんだと、ポワーンと柔らかい罪作りな食感。身のほうを握ってもらった後にゲソのほうも握ってもらった。
ゲソなのにゴワついた感じはまったくなく、あくまで優しくなめらかな食感。マシュマロのような、と表現すると寿司の例えとしては気持ち悪いが、そんなふんわりとした感じ。
つづいての写真は、小イワシの握り。脂ののったイワシは、グジャっとした印象を受けることが多く、あまり好きなほうではないが、この小イワシは、身が締まっていて、旨味が凝縮しており、脂ののりも適度で実にバランスがよい味わい。
次は見た目そのまま。生ウニ。ミョウバンのかかってない、純生ウニ。ミルキー!最上級のウニは東京こその味わいなのかもしれない。20個でも30個でも食べられそうなウニだ。先日の私の函館旅行が色あせてしまうようで少し悲しいが、今年一番美味いウニだったのでしょうがない。
つづいて、さばく前の魚をパチリと撮影させてもらったこの魚。先日の函館旅行でも焼き魚として堪能したししゃも。ししゃもを生で握ってもらって食べた経験はない。私にとって初物だ。喜び勇んで握ってもらう。
青魚系の味を想像して口に放り込んでみたら、想像とは違う味。よりまろやかで甘みが強い。何かに似ているようにも思ったが、思い出せない。強引に例えるなら、上質なヒラメのエンガワが持つ甘みと上質な生サンマの食感をミックスしたような感じだろうか。よく分からない例えでスイマセン。
その他にもアレコレ食べたが、次の写真はシンコ。コハダのベイビーだ。だいぶ大きくなってきて、この日はいわゆる2枚づけ。こちらもなめらかな絹のような食感(絹を食べたことはないが、そんな感じ)。素直に美味。
「寿司は東京に限る」。旅先で寿司を食べるのが何より好きな私だが、結局これが真実であろう。でも、旅に行く際には、束の間でもこの真理を忘れて、土地土地の味覚を存分に喜びたい。
2008年8月4日月曜日
ほのぼの系の新聞
多くの会社が、なんらかの業種団体に所属している。わが社の場合、新聞発行を基幹業務としている関係で、(社)日本新聞協会に加盟している。
大手全国紙、地方ブロック紙、放送・テレビ業界の主な会社で構成する組織であるため、会活動としては、報道倫理・指針、取材倫理に関するものや、各種調査、声明の発表などが多い。報道協定、記者クラブ制度などの在り方の研究や新聞教育の推進なども大きな使命になっている。
わが社にも各種調査資料や報道用資料が新聞協会から送付されてくるが、そのなかから最近刊行された本を紹介したい。
「心がぽかぽかするニュースHAPPY NEWS 2007」(文藝春秋)がそれ。日本新聞協会が読者から募集した「呼んで幸せな気分になった記事」とそのコメントが収録されたもので、最新版である今回の本には73件の記事が紹介されている。
がんの専門医が若くしてがん患者となり、最期まで希望を捨てずに闘った話、犬と一緒に学校生活を送る動物介在教育の実践で不登校が無くなった小学校の話、放置自転車が途上国に送られ、救急車代わりに大活躍している話など、主に一般紙社会面に掲載されるようなルポが中心。
ほのぼのとした動物のエピソード、勇敢な人命救助の話、ハンデを乗り越えて目標を達成した義足のスポーツ選手の話など、殺伐とした世の中にポッと光を灯すような記事が集められている。
報道に携わる仕事をしていると、不正の追及、真相究明に絡むような話とか、糾弾、批判調の記事が紙面編成の中で絶対優先的な位置付けだと信じて疑わない。
明確なルールがあるわけではないが、古今東西、たいていの新聞がそうだ。ほのぼの系の記事が、不正発覚スクープをさておいて1面のトップ記事を飾ることはない。
いわば、それが常識なのだが、この「心がぽかぽかするニュース」を読んでいると、そんな常識を疑ってみたくなる。明るい話題が少ない昨今、あえて、ほのぼの系の記事が最優先される新聞があったら画期的だと思う。
そんなことを考えながら、「心がぽかぽかするニュース」を読んでいたのだが、紹介されている記事は、残念ながら大半が短いコラム形式の記事、すなわち割かれているスペースは主要記事とは比べようもないサイズ。見落としてしまいそうな記事も少なくない。
新聞のこうした現実は報道の看板を掲げている以上、仕方のないことなのだが、なんとなく残念。
ところで、インターネット上のブログが世界中で増殖中だ。雑感ばかり書き連ねたものが絶対多数を占めているのがブログの世界だと定義してみると、新聞の低迷とブログの驚異的な増殖ぶりの関係が妙に分かる気がしてきた。
言論に関する責任、調査報道の意味、客観性の担保など新聞の存在意義や使命は、ネット全盛のいまも変わらない。
ただ、逆に言えばその部分の堅さが読者に窮屈さを与えていることも真実だろう。それこそ、この雑感ブログで結論が出るはずもない問題だが、ほのぼの系ニュースが主役にならない実態は、いろんなことを考えさせられる。
ハヤリもののように多発する通り魔事件。各種メディアは徹底的に報道する。悲しいかな、そんな報道に刺激されて「オレもやってみよう」と思うバカが存在する。
いっそのこと、凶悪事件が起きても、バカが真似しないように報道機関が黙殺すればいいなどと変なことを考えてしまう。
現に「災害非難で無人化した家屋にドロボー」とかいう報道があると、バカが真似しに行くという情けない話も聞く。
悪いヤツの行為より、悪いヤツの末路をことさら大きく報道することも大事なんだと思う。
話にまとまりがなくなってきてしまった。
いずれにせよ、ほのぼの系の記事があふれる新聞を読んでみたい。でも、そればかりだと鬱陶しく感じちゃうのが人間の業かも知れないが・・・。
2008年8月1日金曜日
涼しげな写真
趣味で水中写真撮影を始めて20年以上が過ぎた。撮りだめた写真を発表するわけでもなく、コンテストに出品するわけでもなく、自分の楽しみだけにストックが増えている。
知人から経営する飲食店の店内に飾りたいと言われて、額装してプレゼントしたことが何度かあるが、知り合い以外に見てもらう機会はあまりない。ウェッブ上で写真展でもやってみようかとも考えたが、メカ音痴に加えて、大半の写真がデジタルデータではないため、画質の問題もあって実現していない。
そういえば以前、知り合いが勤務する旅行会社からパンフレットに使わせて欲しいと頼まれたことがある。南の島のツアー用に制作したようだが、できあがってきたパンフを見せられてビックリ。かなり本格的かつ大量に作ったらしい。
10点ちかく提供した私の水中写真が表紙を含めてパンフの写真の大半を占めている。気軽に応じちゃったことを反省。商談ベースで受ければ相当なギャラが入ったはずだ。このとき、私が受け取ったギャラは、実はカステラだけだった。
そんな甘いことをしているからホンモノの富豪にはなれないのだろう。
さて、オーナー経営者向けに発行しているフリーペーパー「オーナーズライフ」。最新号の表紙に私が以前、バリ島で撮影した写真を使ってみた。
表紙デザインを一新して、中央にイメージ写真を置くことに決めたのだが、今の季節なら涼しげな写真が適していると言うことでプールに浮かべた花をプールの中から撮影した写真を選んだ。
本来ならプロカメラマンの作品を配置したいところだが、私の写真ならコストがかからないという情けない理由でスンナリ採用されてしまった。
印刷物に掲載してみると不思議なもので我ながら立派に見える。結果オーライだ。
今号の「オーナーズライフ」は、オーナー経営者のためのM&A問題の要点を特集している。関心をお持ちの方は、ホームページから見本紙をご請求ください。