すっかり普及したイマドキ言葉が「萌え」である。私自身、いっぱしの中年なのにメールなどでは、ついつい使ってしまう。
元々の言葉の意味は、草や木の芽が出ることを意味しているが、いまではチョットした興奮とかフェチっぽい好意を表わすような場面で使われる。
「グロスでテカった唇に萌え~」とか「パンストの伝線した部分に萌え~」とかそんな感じである。ちょっと例えが変か・・・。
「燃える」が転じて同音の「萌える」になった説とか、心の中が春めいた感じになることを草木の芽が伸びることに例えたという説もあるらしい。
こんな事を書き始めたのは、ネット上で「敬語萌え」なるジャンルが存在することを知ったからだ。
年上の男性に敬語で接してもらうのが大好きな若い女性とか、家族内でも敬語を使う人とか、敬語で話してくれるお嫁さんを長年探している人とか、結構いろいろなパターンがあるらしい。
なんとなく分かる気がする。私も個人的に敬語をしっかり使える人は好きである。
仕事上で長い付き合いのある20歳以上年上の紳士がいる。もう長年親しくしてもらっているが、年下の私にも敬語を欠かさない。なかなか出来るものではない。カッチョ良いと思う。
馬鹿丁寧になる必要は無いが、それなりに敬語を交ぜることで、親しい間柄にも節度を持たせることが出来る。結構大事なマナーであり、センスだと思う。
「わかった~」と「了解しました~」。メールのやりとりでよく目にする言い回しだ。この程度の「ですます言葉」は親しい間柄でも使ったほうが気持ち良い。他人行儀だとは思わない。
ちなみに、それぞれの言葉が別の女性から発信されていたとしたら、後者の女性のほうが魅力的に思える。思い過ごしだろうか。
敬語を好むなどというと、自分が相手より優位に立ちたいとか、力関係を意味しているように思われそうだが、そんな大げさなことではない。
単純に適度な敬語が持つ音感のしなやかさ、真っ当な言葉を耳にする安心感みたいな感覚が心地良いのだと思う。
なんだか話が堅苦しくなってきた。実はそんな大層な話を書こうと思ったのではなく、「敬語萌え」というテーマから、さりげなく「ベッド敬語」に話題を移そうと企んでいただけである。
以前、日本を代表するエロリスト?みうらじゅん大先生が週刊誌上で「ベッド敬語」こそ「エロの神髄」だと説いていた。
「お任せします」、「私をメチャクチャにしてください」、「そこはダメです」といったセクシャルな場面での敬語のパワーには凄いものがあるという主張だ。
結論としては、昨今の若者のセックスレスは「敬語レス」にこそ原因があるという崇高な洞察である。
イマドキ言葉でいうなれば「禿同」、すなわちハゲしく同意である。
敬語萌えが発展すれば、ベッド敬語フェチとしての世界につながっていく。
ベッド敬語の世界も、突き詰めると奥が深い。職業別のジャンル細分化なんてパターンもある。
デパガとかキャビンアテンダントとかバスガイドさんあたりと仲良くしている男性が、そっち系の専門用語を駆使してもらって楽しいひとときを過ごすわけだ。
確かに萌えそうな話である。
イメクラとかの風俗系でも、シチュエーションとして人気が高いのは「先生と生徒」、「社長と秘書」、「万引きを見つけた店長と見つかった主婦」みたいなパターンである。
そうした状況ならば敬語は不可欠である。敬語萌えの変態型発展系とでも言うべき姿だと思う。もしかすると、ベッド敬語に持ち込むために、わざわざそれらのシチュエーション設定に凝るのかもしれない。
さて、ベッド敬語の素晴らしさに勝るとも劣らないほど極上?なのに見過ごされがちなのが「ベッド方言」である。
「方言」の部分は「関西弁」や「博多弁」、はたまた「東京弁」など、好みのエリアの言葉を充当すればいい。
私の場合、生まれも育ちも東京だから、東京以外の地方言葉はすべて新鮮に聞こえる。
色っぽいシチュエーションになった時に「あかへんがな」とか「ウチがしちゃる」とか「そげんとこ、あかん・・・」などと言われた日には卒倒すること確実である。
それとは逆に、地方出身の女性から、べらんめえ調でテンポ良くアレコレ言われると興奮すると告白されたこともある。
人それぞれである。
個人的には学生時代に知り合った京都の女性から、京女の必殺ワザ?である「ほんま、いけずやわ~」を聞かされて気を失って以来、京都とか神戸などの西の言葉に結構そそられることが多い。
今でも、知り合った女性の出身地が西日本方面だと知るたびに、ベッド方言を瞬時に連想してしまう。かなりの変態である。
ベッド敬語とベッド方言。この二つに包まれて生きていければ幸せだと思う。
2014年5月30日金曜日
ベッド敬語、ベッド方言
2014年5月28日水曜日
ニコチン太郎
タバコをやめて3週間近くになる。なかなか大したもんだと思う。
あえて「禁煙」とは書かない。あくまで紙巻きタバコをやめようとしているだけだ。葉巻はプカプカふかすし、ニコチン依存は続行中である。
今の私を救っているのは、「STYLE ZERO」という煙が出ないパイポのようなモノである。
壇密、いや、厳密に言うと「かぎたばこ」というジャンルらしい。タバコの葉が入ったカートリッジをフィルターに装着して、普通に吸うだけ。
火はつけない。あぶったり、注射針も使わず、ただ普通にスーハー吸えばいい。だから逮捕もされないし、変な愛人と一緒に「SAY YES」とか言わないでも大丈夫である。
一応、タバコっぽい風味がある。しっかりニコチンも含まれているから、ニコチン欠乏症?には随分と効果がある。
タバコをやめようと思った原因は、少し前の扁桃腺爆発である。喉が痛くて熱も高かったので、タバコどころではなくヒーヒーうなって寝込んでいた。
気付けば3日間も煙草を吸っていないことに気付いた。禁煙は最初の3~4日間がもっともキツい。知らぬ間に3日間もタバコ断ちしていたのは、いわばラッキーな状態だろう。
シード権を得たような気分になって、タバコをやめちゃおうかなと変な欲が出てしまったわけだ。
飛行機で使うために以前から常備していた「STYLE ZERO」を活用し始める。ついでにネットで大量に追加注文。自宅に買い置きしてあったラークマイルドも思い切って捨てた。
そして葉巻様が活躍している。普段から葉巻は時々楽しんでいたが、タバコ断ちのストレスを和らげようと、いつもより消費量は増加。こればかりは仕方がない。
職場にも自宅にも葉巻保管用のヒュミドールを用意しているから、ふとした時にプカプカしている。すべてハバナ産である。富豪みたいだ。並行輸入業者からまとめて買っているため実は格安である。
葉巻歴は20年ぐらいになるが、経験上、葉巻はそんなに中毒性が強くはない。ストイックにニコチンをすべて断とうなどと頑張るつもりのない私には大事な嗜好品である。
ニコチン自体はアルコールみたいなモノで趣味の領域である。もうすぐパイプにも手を出そうと思っているぐらいだ。
ということで、あくまで禁煙ではなく、単なる「タバコ断ち」という感覚でいたほうが、何となくラクチンである。
本気になって禁煙にトライしたことは、過去に3回ぐらいある。一度目は10年ぐらい前に相当頑張って、かなりキツい禁断症状と闘いながら何とか成功した。その後は3年ぐらい吸わずにいた。
そんな長い間、禁煙に成功したのに、強度なストレスにさらされた時に手を出した。マズくてびっくりした。そこでやめておけばよかったのに、ついつい手にした2本目で一気に覚醒してしまった。
それ以来、数ヶ月の禁煙成功はあったものの、生まれながらタバコが美味しく感じる体質なので、愛煙家生活は合計で30年以上になる。
実は、遠からずヨーロッパに靴を買いに行こうと考えている。漠然と行程を考えるのが楽しいのだが、どこをどう経由するにせよ12時間ぐらいの飛行機の旅である。
機内の完全禁煙を考えると気が滅入る。旅自体に行く意欲が失せそうになる。今回のタバコ断ちは、実はそんな理由が大きい。
いつも飛行機に乗るときは、禁煙を強いられる不快さが堪らなくイヤで、たいていは睡眠導入剤を飲んで徹底して寝続ける。
映画を見たり、酒を飲みながら快適に空の旅を楽しむのが私のささやかな夢である。
以前、禁煙に成功していた時は、そんな快適な空の旅を楽しんだ記憶がある。寝る間も惜しんで映画を見たり、好きな本を読んだり、移動途中の旅の高揚感をしっかり味わえた。
まあ、タバコ断ちの原因が偶発的な扁桃腺爆発であり、タバコ断ちの目的がヨーロッパ便の機内でイライラしないためという、実に生半可な姿勢だから、これから先、タバコ断ちが徹底できるかは我ながら怪しいと思う。
でも、このところ、タバコが吸えない飲食店に立て続けに出かけて、イライラせずに快適に過ごせたことが凄く嬉しかった。
これって思った以上に便利なことだ。禁煙だからついつい疎遠になっていたいくつかの店にも久しぶりに顔を出し始めている。
大げさだが、世界が拡がっていく感じがする。
大げさである。でも、ことさら大げさに喜ばないと、タバコ断ちの恩恵を感じられない。
禁煙の店にどんどん出かけようと思う。
2014年5月26日月曜日
串モノの謎
モノの値段。実に悩ましい問題だ。安ければ正義という考え方もある反面、安すぎたら敬遠したくなる心理も働く。
今のニッポンはハンバーガーが100円で食べられる。牛丼も250円程度で食べられる。
そうなると、不思議なもので800円とか1000円の値付けのハンバーガーや1800円ぐらいの牛肉弁当に妙に惹かれる。
「高いからきっとウマいんじゃないか」。そんな心理である。すべてではないが高い方が確かにウマいことは多い。
ビールもどきが百花繚乱なのに、王道のビールである「プレミアムモルツ」は10年以上、対前年比で売れ行きを伸ばしているらしい。
安さだけを追求した発泡酒あたりに辟易とした人々が、多少高くてもマトモなモノを求めているのだろう。
もちろん、窮々な財政状態で暮らす人にとっては安さこそ正義である。それはそれで当然だろう。安価な均一料金居酒屋などは、運営企業の経営努力の賜であり、ほんの20年前には有り得なかった業態だと思う。
私自身、ウン十年前の若い頃には、安い店をせっせと探したが、現在のように「破格なのに小綺麗な店」なんて世の中に存在しなかった。
あの頃、アノ手の店があれば毎日通っていたと思う。
そして現在の私は、いっぱしの中高年だからイッチョマエに高い店にも出入りする。一人暮らしになったこともあって、エンゲル係数は、ギリシャのインフレ率みたいに急上昇している。
高いからウマい、ウマから高いのかは分からないが、相場より高い店をめぐれば、いろいろなことを感じてしまう。
滋味溢れる極めて真っ当な日本料理は、どうしたって安い値付けでは成り立たない。至極上等な寿司なんかも同じだ。
肉、魚、野菜。いずれも価格差に開きがあればあるほど同じモノとは思えないほど味わいが違うことがある。
良いモノをなるべく安く提供してもらいたいのは当然だが、どうしたって限界はある。真っ当なモノが極端に安い場合、どこかに無理が生じる。
昨今、「俺のフレンチ」とか「俺の~」を冠にしたレストランが凄い勢いで増えている。大人気らしい。
でも、聞くところによると立ち食いの席も多いのだとか。
客の回転率を考えて営業時間も独特らしい。何より客単価を落とすことに工夫が凝らされているらしい。安くて当然だ。
いっぱしの中高年紳士ぶっている私としては、立ったまま食事をするなど言語道断である。若造時代でもそんなことはしない。
軽く一杯立ち飲みで、とか、急いでる時に駅で立ち食いソバ、いうノリなら分かる。そうではなくキチンとした食事を立ったままでという発想はない。
立ったまま食べるのなら、ファミレスで座って食事したほうがマトモだし、そっちの方が健全だと思う。
なんだかまとまりもなくウジウジ書き進んでしまった。
軌道修正。
串モノの値段の話だった。焼鳥とかモツ焼きとか、あの手の串モノの値段ほどよく分からないものはない。
この世界に関しては「安いからマズいだろう」、「高いからウマいだろう」が意外と当てはまらない。
さすがに1本60円とかのアンビリーバボー!な値付けの焼鳥だと、ウマイマズイを論評する以前である。
でも、1本150円ぐらい出せばジューシーかつウマ味たっぷりの焼鳥にありつける。繁華街では難しいが、私鉄沿線の街場の人気焼鳥店などにそんな素晴らしい店は多い。こういう店は雑誌にも出てこないし、ネット上に評判が溢れているわけでもない。
銀座、六本木あたりでワインなんかも豊富に揃えちゃう小綺麗な店になると、途端に焼鳥が1本500円とかの値付けになる。
もちろんウマいのは確かだが、目ンタマひんむくぐらい美味しくないと許せない気がする。フツーに美味しい程度だと腑に落ちない。
まあ、テナント料、人件費、内装など造作のコストを思えば、私鉄沿線のシュールな焼鳥屋より高くて当然である。
でも、その価格差が5倍以上ともなると、ビックリするほどウマくないと正直イヤである。
今まで随分とそうした路線の焼鳥屋を覗いてきた。それなりに美味しい店ばかりだったが、目ンタマひんむくほど感激した店はほとんど無い。
中途半端な?街で、1本200円ぐらいの中途半端な?値付けで40代ぐらいの大将が黙々と串を焼いてるような店にこそ、ウナりたくなるような店があると思う。都内某所にいくつか心当たりはある。
さて先日初めて行ってみた高い焼鳥屋の話。有楽町に近い側の銀座にある「Toriya」という店。
希少部位だと1本700円オーバーである。ナンジャラホイである。平均しても500円クラスだ。この街ならではの価格設定だろう。
雰囲気は妙にムーディーだ。間接照明が暗すぎるほどで、シワが気になる女性や薄毛が気になる男性には居心地が良い店だろう。
肝心の焼鳥は、界隈の高級焼鳥屋に比べて負けてないレベル。かなり美味しいほうだと思う。タレの味がくどかったが、塩焼きの串はかなりウマかった。
一品料理もそこそこあるが、ワインに合わせるような雰囲気のものが中心。「焼鳥には焼酎か日本酒だ」と決めている人にはオススメできない。
ワインがあまり好きではない私としては、当然のような顔して焼酎をグビグビ飲んでいたのだが、出てくる料理がどうも焼酎に合わない。しかたなくグラスのワインをせっせか飲むハメになった。
ワインリストも豊富だし、グラスワインも結構選べる仕組みだから、そっち好きな人には居心地の良い店なんだと思う。
で、結論としては、1本500円以上の焼鳥もTPOに応じて肯定するしかない。
ちょっとムーディーで落ち着いた店に行きたい。でも食べるモノはカジュアルな焼鳥でいい、などという場面はオトナの男には案外多い。
そういう時には、私鉄沿線の街場の焼鳥屋との価格差が、オトナの男のワガママを実現するためのコストとして跳ね返ってくるわけである。
痛し痒しだが、モノの値段には、そのモノだけの価値ではなく、付加価値という厄介なモノが付いてくる。
その付加価値の部分にこそ「面白み」や「趣」があるわけだから、一見、ヘンテコに感じる値段も納得して受け入れねばなるまい。
ああ、めんどくさい・・・。
2014年5月23日金曜日
セクシー・カツサンド
今日はカツサンドの話である。
たかがカツサンド、されどカツサンドである。
日本中の、いや、世界レベルのウマいものが集まる東京で、隠れたグルメスター?といえばカツサンドである。
銀座、六本木、西麻布・・・。東京の主要都市に存在するバーの一部では、カツサンドが人気メニューになっている。
バーでありながら、実はカツサンドの名店として知られている店もある。
オトナっぽいバーでは、フードメニューは限られる。チーズにチョコレート、生ハム、レーズンなんちゃらとかがあるぐらいだ。
そんなバーのフードメニューに「カツサンド」という文字が燦然と輝いていたら、お腹がいっぱいでもついつい注文したくなる。
わざわざカツサンドが用意されている場合、たいていウマい。ついでにいえば、調理に結構時間がかかるようなら間違いなくウマい。「本気のカツサンド」が出てくる。
ウイスキーに妙に合うこともカツサンドの魅力だ。おまけに冷めても美味しいから、バーのツマミとして中々ニクい存在感を発揮する。
トンカツ定食やカツ丼だったら冷めたら美味しくない。酒のツマミっぽい雰囲気もない。同じカツでもカツサンドだと不思議とウィスキーの素敵な相棒に変身する。
バーではないが、銀座のクラブでも実はカツサンドは定番である。「みやざわ」のカツサンドを知らない人はモグリと言われるほど、夜の銀座では、あちこちの店で手土産やら出前で名物カツサンドを見かける。
オネエサンもハゲ散らかしたオッサンも黒服のお兄さんもみんなで仲良く、一口づつパクつくことが出来て、ウイスキーとの相性も良い。小腹が空いた夜の時間に一つ二つつまむには最適である。
疲れてきた身体に、トンカツソースのアノ甘味が一服のカンフル剤の役割を果たすのも人気の秘密だと思う。
この画像は某クラブでの深夜の一コマである。早い時間からグイグイ飲んで酔っ払い、さっさと帰ればいいものを、ハシゴ酒で長っ尻という悪しきパターンに陥った時の画像だ。
ワインクーラーならぬ「コーラクーラー」に鎮座するのはゼロカロリー・コーラである。
最近、アチコチの店で席に着くなり、ボーイさんから「コーラにしますか?」と聞かれるのが常になってしまった。
2軒、3軒と飲んでいるうちに「休憩コーラをくれ~」と口ずさむようになり、コーラだけを一気飲みしてゲップを連発して、アルコール戦線に復帰する変なパターンが確立されてしまった。
酩酊太郎になると、ヘタするとコーラだけ飲んで帰ることもある。そうなると「日本一高い喫茶店」である。バカである。
でも、コーラの甘味に救われる深夜、コーラのお供にカツサンドまで登場したら、天国でワルツを踊るようなウキウキした気分になる。
さて、クラブ活動でのカツサンドはともかく、普通のバーでのカツサンドにはチョット困った問題もある。
一人酒が好きな私だが、一人の時は小料理屋とか焼鳥屋とかオッサン系が中心である。オトナっぽいバーに行く時は、さすがに誰かと一緒である。
薄明かりの洒落たバーなどというシチュエーションで、一人ぽつんと飲んでいると、何だか肩が凝って、必要以上に自意識過剰?に陥りそうで疲れる。
だからそれっぽいバーには誰かと共に出かけることになる。
で、カツサンドである。深夜である。同行者がデブの男友達だったら心配は無いが、うら若き女性だったりすると、深夜にバクバク食べてくれない。
仕方なく私自身が結構な量を食べるハメになる。深夜にカツなんて、逆流性食道炎を持病とする私には自殺行為である。ホントは相手の女性を食べようと企んでいるのにカツサンドを先に食べないとならない。大変である。
胸焼け対策のため、食後はすぐに眠るわけにはいかない。食後2~3時間は起きていないとならない。帰れない、寝られない・・・。思いは千々に乱れる。エロい妄想が膨らんで困るわけだ。
ということで、カツサンドはエロい食べ物である。
まあ、エロいとウマいはある意味、人間の欲求を満たす点で同義語みたいなものだから良しとしよう。
よく分からない話になってきた。
でも、最近、深夜のカツサンド問題も無事解決できるようになってきた。一安心である。
なんのことはない。お土産用に包んでもらえばいいと気付いただけだ。
出来たてを一口だけ頬張って、残りは相手の女性にお土産として持って帰ってもらう。
きっと、女性の部屋で待つ若いツバメやヒモみたいなお兄さんの胃袋に収まるのだろうが、それはそれで良しである。
少なくとも私の健康は維持される。
そんなものである。
2014年5月21日水曜日
散歩
気持ちの良い季節だから散歩に励んでいる。足腰を鍛えないと、いろいろと厄介なので、「楽しみ半分、努力半分」といった感覚でテッテケ歩いている。
家の近所を歩き回ることが多いが、さすがに見慣れた景色ばかりで飽きる。そんなときは、クルマを飛ばして馴染みのない場所まで行って、その周辺を歩く。
不思議とシャレオツ?な街には足が向かない。散歩するには下町が一番である。「吉田類」(http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2014/01/blog-post_24.html)が出没しそうな街だと妙にしっくりくる。
先日、谷中周辺をぶらぶら歩いてみた。「谷根千」などと言われて独特な人気を誇る街の一つだ。根津、千駄木は最近も歩いているので、この日は谷中を選んだ。
谷中は「ひぐらしの里」と名乗っている。私が死ぬほど好きな音色はセミのヒグラシの合唱である。そのヒグラシのことだろうか。だとしたら大変なことだ。引っ越し先の候補にしなければならない。
でも、命名の理由はどうやら近隣の駅名が「日暮里」だからのようだ。ちょっとビミョーである。
さて、シュールな路地をぶらぶら歩くと時間が経つのも忘れる。実にドンくさい感じで素敵である。
昭和が色濃く残っている。東京っぽい匂いに満ちあふれている。古めかしい家並みを眺めながらボケっと佇むとしっぽりとした気分になる。
東京っぽい街といえば、六本木や銀座、青山あたりを連想するが、それとは別次元の地に足の着いた東京の景色である。
浅草がスカイツリー特需で妙に騒々しい観光地になっているので、「谷根千」周辺がジワジワ人気を集めるのも納得である。
不思議とアノ手の看板の文章には悪文が多い。誰が書いているのだろう。すっと頭に入るような軽快な文章で作成すべきなのに大半がダメダメである。謎である。
地味な寺の入口にぽつんと置かれたそんな由緒書きを見ると必ず熟読したくなる。数百年前のエラい人の墓があるとか何とか書いてある。
聞いたことのない偉人も多いが、知る人ぞ知るエラい人なんだろう。
もちろん、山岡鉄舟クラスの有名人の墓だとか赤穂浪士ゆかりの寺だとか、思わず見入ってしまう場所もポツポツあるから面白い。東京散歩、江戸散歩の醍醐味である。
こうした下町情緒をウリにする街では、表通りに出ると、ちょっとわざとらしいインチキ名産品?を売る店が結構ある。週末は行列が出来ている。さも由緒正しそうなお菓子とか揚げ物を並べている。
きっと開業5年程度なんだろうなあ、とヒネクレ根性で冷やかしながら時々試食してムダにカロリー摂取。まあ、この種の店が街に活気をもたらすのだから頑張って欲しい。
そういえば、「東京バナナ」とかいう東京名物があるらしいが、あんなもの東京人はちっとも知らない。いつの間にか昔からの定番商品みたいになっている。平成に入ってからの商品だろうか。
アノ手の商品は、それこそ“名乗ったもん勝ち”といったところなんだろう。
別な日、上野広小路に出かけて、周辺をブラブラしてみた。これまたディープな街である。
谷根千あたりが、ある意味、江戸情緒を強く意識してそれを武器にした演出で成り立っているのに対し、上野界隈の雰囲気は、好き勝手なガチャガチャぶりが特徴だ。
オシャレに決めようとか、江戸路線を意識しようとか、そういう思惑とか狙いとかとは無縁の異次元空間である。
銀座で飲んで六本木に流れるとか、渋谷で遊んで青山に流れるとか、都会の繁華街にありがちな「微妙な連携関係、横の繋がり」とは異質だ。あくまで「完結型」なのが上野界隈だと思う。
ある意味、独立国のような雰囲気。さほど広くないエリアに大衆飲食店、高級飲食店、風俗街、ショッピングエリア、ホテル街がそれなりの秩序を保ちながら凝縮されている。
水商売のプロから聞いたことがあるのだが、上野の客や上野のお水関係者は、上野という世界だけで完結している人が多いとか。浅草と多少の絡みはあるものの、あくまで上野という宇宙?の中ですべてが成立しているらしい。
独特な「濃さ」が上野の面白さだろう。そんな目で街を眺めながらアテもなく散歩するのは何だか楽しい。
さてさて、散歩と一口に言っても、一人での散歩なのか、誰かと一緒の散歩なのかで様子は変わる。
ヘンテコな街をテキトーに歩く散歩だから、ヘンテコな眺めが目に入った時には、一緒になって笑いあえる人が横にいるのも悪くない。
その一方、どうでもいい?偉人の記念碑や歌碑なんかをマジマジ眺めて悦に入る時は、それに興味の無い人が横にいるとチョット面倒である。
暑いの寒いの日射しがキツイの足が痛いのなんの言われ始めると迷惑だが、こっちがバテた時に叱咤激励されるのは有り難い。
ちょっと疲れた時に、情緒のある甘味処でクリーム白玉ぜんざいを食べたいわ~と甘えられるのは嬉しいが、胸焼けしそうなメンチカツを列に並んででも食べたいと鼻息荒く要求してくる人には殺意を覚える。
なかなか難しいところだ。
まあ、一人でも二人でも、TPOに応じて散歩を楽しめるような達人を目指そうと思う。
2014年5月19日月曜日
和の心
子どもの名前は時代を映す鏡。イマドキのキラキラネームは、学校の先生達を大いに混乱させているらしい。
じゅげむじゅげむ・ごこうのすりきれ~。
落語の寿限無ほど凄まじい名前ではないにせよ、昨今増えている珍しい子どもの名前には時々ビックリする。
具体的にアレコレ例示したいが、このブログを読んでもらっている人の身近に該当する子どもがいたらマズいので割愛。
時代とともに人名に使われる文字も変化するのが世の習いだ。戦争などキナ臭い時代なら「勝」や「勇」が多くなる。貧しい時代には「恵」という文字が多用された。
大正の「正」、昭和の「和」を取り入れる名前も元号制定に合わせて一気に増えたそうだ。文字ひとつとっても時代の空気を反映していて興味深い。
キラキラネーム全盛の今では地味な印象もある「和」という文字。昭和という元号より、そもそもわが国の基本理念として親しまれてきた一字である。
私自身も好きな文字だが、子どもに命名する際には、やはり何となく古めかしく感じて使わなかった。ちょっとだけ後悔している。
「和をもって貴しと為す」。ご存じ聖徳太子の十七条憲法の最初の項目だ。いわば基本理念みたいなもの。
「穏やか、争わない」を意味する「和」を、力こそすべてだった時代に国家の理念に打ち出したことは世界に誇れる話だと思う。
「和やか」と書けば、人々の気持ちが解け合うことを意味する。
和食、和風、和服など自分たちの国を指す言葉に「和」を使ってきた我が国は、この基本理念をもっと大事にすべきだと思う。
綺麗事ではあるが、とろあえずは、目指す方向は綺麗事であるべきだろう。
うん!なかなか良い話だ。
もともと、日本の名称は、音は同じでも「倭」の文字が使われていた。魏志倭人伝の「倭」だ。
ヨソの国からの蔑称的意味合いがあったという理由で「和」に変更され、装飾的意味合いの「大」が追加されて国の名前が「大和(やまと)」になった。
卑弥呼さんの頃の邪馬台国の後の統一国家としての始まりである。想像もできない古い時代から「和」が特別に意識されてきたわけだから立派なものだ。
そういえば、先日、半年ぶりに宇宙飛行士の若田さんが地球に戻ってきた。日本人初の船長として奮闘されたようだが、宇宙で筆を執って「和の心」という書き初めを書き上げていたシーンにはしびれた。
地球をひとつの星として見下ろすあの環境で、一見地味な「和の心」という言葉の重みは相当なものだと思う。
世界の潮流はいつの時代も「対立」と「憎悪」ばかりだ。アジア近辺ですら緊張状態が高まるいま、「和」の精神の尊さを再認識したい。
平和ボケしたハト派思想だけで物事が解決しないのは百も承知だが、安易な強硬論はもっと危険だ。
安倍さんはやたらと「積極的平和主義」という、分かったような分からんフレーズを連発しているが、安易な強硬論に偏らないで欲しいと思う。
国名を「大和」と定めていたわが国の精神性や経験は独特なもの。それを世界に発信することこそが「積極的平和主義」だろう。
2014年5月16日金曜日
扁桃腺が暴れる日
今年は喉の調子が悪い。歌をシャウトする話ではない。
この水曜日のブログの更新をサボってしまったのも喉のせいである。
扁桃腺爆発で長く寝込んでしまったので、「富豪記者ブログ」初の無断休載という事態になってしまった。
反省・・・。
扁桃腺爆発は、私にとって逆流性食道炎とならぶ持病である。逆流性食道炎は、いわば暴飲暴食が原因であり、キッつい状況になってもたいていは理由がある。
扁桃腺は、前触れがないのがコンチクショーである。風邪の一種かと思っていた時もあったが、風邪とはまた別種で、あくまで扁桃腺が爆発し始める。
3~4年、おとなしく静まっているかと思えば、半年に2回爆発する時もある。火山みたいなものである。
先日も、どうも喉が怪しいなあとビビッっていたのだが、普通の喉風邪であってくれと祈りながら、暖かくして風邪薬とかエゾエースとかを飲んで早めに寝た。
翌朝、ダメ確定。扁桃腺火山の噴火が始まった。もうこうなるとダメ、薬を飲んでも抗生物質に頼ってもたいして影響はない。喉がまるまる一周腫れまくらないと終わらない。
以前は何度も入院した。入院と言えば大げさだが、脱水症状になるのを避けるため、ずっと点滴を続けるだけ。あとは定期的に強い解熱剤を入れて寝てるだけ。
自宅で寝込むのと入院するのとでは、せいぜい治るのが1日早いぐらいなので、正直お金のムダである。
ある年、短期間に3回も扁桃腺爆発が重なったから、「扁桃腺を取っちゃう作戦」を前向きに検討した。
小さい子供ならともかく、オトナは大変らしい。
医者いわく「喉の奥を部分的にベリッと剥がすんですよ。おまけに場所が場所だから、ベロっと剥がしたまま、絆創膏も貼れないまま剥き出しで治るのを待つんですよ」。
そりゃ無理である。断念した。
さて、先日の爆発では結局4日間も棒に振った。解熱鎮静剤は一応6時間おきにしか飲めない。薬がきれると一気に熱が上がり、痛みが強まる。
水を飲むのも痛くて仕方ない。一人暮らしの身にはなかなかシンドい。ヒーヒーフーフー唸って過ごす。
薬を飲むと40分ぐらいで効き始める。汗がダラダラ出まくって、痛みも和らぐ。この隙に何とか食事をする。水分も多めに取る。ちょっとテレビなんかも見て笑ったりする。
しかし、それから3時間ぐらい経つと効き目が弱まってくる。またヒーヒーフーフーの繰り返し。
こんなことを2,3日繰り返すわけだからさすがにバテる。これが80歳だったら死んじゃう気がする。
そういえば、大学生の頃、扁桃腺大爆発が家族旅行でヨーロッパに行った時に重なったことがあった。あれはシンドかった。
意識モーローでドイツのホテルの部屋で唸っていた時、ふと目を開けたら目の前に長い金髪でヒゲもじゃもじゃの白人の顔があった。
「やばい、キリストさんがお迎えに来ちゃったで~」
真剣に焦ったが、ただのホテルドクターだった。でも、その慈愛に満ちた目の表情を私は今も覚えている。あの人もきっと、扁桃腺太郎だったんだと思う。
分かる人には分かってもらえるのだが、知らない人には「風邪ごときで長々休むバカ」と思われるのがツラい。
余談。今回の扁桃腺大爆発で突発的に禁煙チャレンジを決めた。
禁煙は最初の3日間が地獄である。今回は、大爆発だったので、ちっとも苦労せずに4日間も煙草に手を触れずに過ごせた。
今日で禁煙6日目である。チャンスといえばチャンスである。
問題は心の準備も決意もまるで無いままに禁煙を始めたことだ。大丈夫だろうか。
こんなヌルい精神性では多分無理だと思う。
2014年5月12日月曜日
コメを愛する
長く生きていても意外に知らないことは多い。いきなりだが、私の大好物である「コメ」について大いなる誤解をしていたことが分かった。
炭水化物の王者であるコメ。タンスイカブラーである私としては人生で最も愛している食べ物だが、無意識のうちに「太る」という言葉とセットで捉えていた。
白米は炭水化物75%、水分15%、タンパク質5%で構成され、脂質は含んでいないそうだ。
肥満の原因は脂質である。言ってみれば米と一緒に食べる脂質を多く含むイマドキのおかずが問題であって、コメは悪者ではないらしい。
事実、コメを抜いておかずだけ食べていると、脂質の割合だけが高まり、太りやすい体質になるのだとか。
フムフムである。
江戸時代の男性は、1日5合のコメを食べたそうだ。結構な量である。それでもデブチンの割合は現代社会のほうがはるかに多い。すなわち、コメだけをワッセワッセと食べている方が太らないという理屈だ。
酔っ払った夜中にラーメンを食べるのではなく、漬け物でお茶漬けってパターンのほうがまだマシみたいだ。
コメの美味しさって一体何なんだろう。うまく言い表せないが、食感、香り、微妙な甘味と旨み。タマらんちんである。
どんなにウマいおかずが用意されていても、おいしい白米がなければ「食事」として成立しない。コメがなければ単なるツマミかおやつでしかない。
極上の生卵があったとする。醤油をチョロっと垂らして、箸で勢いよくかきまわす。そのまま飲んだって構わないが、炊きたてホカホカのコメがあればこそ至高の一品が完成する。
TKGである。日本人がたどりついた幸福の絶頂が「生卵かけ御飯」だと思う。単なる生卵が一瞬にしてウルトラスーパーエクセレントエロティック・フードに変身する。
いきなりだが、俳優の原田龍二である。なぜだか私は昔から彼が好きで、どうでもいい2時間ドラマでも彼が出ているとついつい見てしまう。
男に趣味はないのだが、原田龍二を見ていると不思議と心が落ち着く。長い間、「なぜ原田龍二なのか?」と悩んでいたのだが、先日、その理由が分かった。
彼は「コメ好き男」なんだそうだ。
某日、三波豊和と一緒に東北方面を旅するシュールな?番組に原田龍二が出ていた。いつものように何となくチャンネルを回せずにいたのだが、龍二がやたらと「自分はコメ好き」であることを主張している。
彼は田んぼの眺めにも惹かれるらしい。日本の棚田や東南アジアのライステラスもわざわざ見に行くんだとか。
その旅番組の中でも、彼はソバを食いに行く三波豊和と別れて、絶景の棚田を眺めに行く。そして近隣の家にそこで採れたコメを食わせてくれと頼み込む。
親切なおばさんが土鍋でコメを炊いてくれる。漬け物だけをおかずに龍二がコメを頬張る。いいぞ!龍二。
そして親切なおばさんは残ったコメを握り飯にして渡してくれる。
帰りのローカルバスの中で、握り飯にかじりつく龍二。実にオットコ前だった。日本人なら「原田龍二」を応援すべきだと強く感じた次第である。
話を戻す。
行儀が悪いようで、ついつい遠慮しがちだが、ウマいものは何でもかんでもコメにぶっかけてしまえばいいと時々思う。
白米だけを口に入れて味わう喜びもオツだが、ドンブリ感覚で混ざりあった味にウットリするのも悪くない。
以前、牛丼の「すき家」が牛丼の上に焼きそばをトッピングするという暴挙、いや、英断を下したことがあったが、あれだって下で控えるコメが主役だからこそ意味がある。
コメを抜いたら、単なる牛肉焼きそばでしかない。
ということで、某日、某所でフカヒレの姿煮を御飯にドカンと載っけて持ってきてもらった。
たまたま、この店の副店長さんが、たまにしか来ない私を覚えていて、上へ下へのオモテナシという名の営業攻勢をバンバンかけてきたので、ついつい「姿煮をメシの上に載っけて持ってきやがれ」と頼んでしまった。
そりゃあウマかった。でも妙に財布が軽くなった。
こちらは卵焼きの握りである。高田馬場・鮨源で私がちょくちょく注文するデザートである。
タマゴのかまぼこバージョンと呼んでいる。卵焼きがかまぼこ板のようなもので、主役はコメ様である。
その昔、タマゴの握りといえば、しっかりシャリもついていた記憶があるが、いつの間にか卵焼きだけを食べるパターンが世の中に広まった。
シャリも一緒にと頼んでも、ほんのチョッピリ鼻くそ程度にしか握ってくれない店が多い。
そんなおかしな風潮に対抗して、シャリをどんどん増やしてもらっていたら、かまぼこバージョンに発展したわけだ。
東京の甘めの味付けの卵焼きと酢飯の酸味が絶妙に混ざり合って実に美味しい。
だいたい寿司屋では、口中いっぱい頬張るようなものを食べる機会がないから、この一品は満足感という意味でもオススメである。
デザートにアイスクリームとかを食べる余裕があるのなら、これをデザートにしたほうが正しいと思う。
2014年5月9日金曜日
映画の話
週に一度はテレビ番組表をチェックして気になる映画などを録画するのだが、なかなか観る機会がない。
この前の連休は、とことん暇だったので背中と尻にコケが生えそうなぐらいテレビの前に陣取っていた。
というわけで、溜まってしまった映画を集中的に観て過ごしたので、ちっとも役に立たない映画評論?でも書いてみようかと思う。
全部、現在公開中の作品ではないので、レンタルビデオを借りる際の参考になれば幸いである。
まずは「新しい人生のはじめかた」。2010年のダスティン・ホフマン主演の映画だ。
離婚して仕事に打ち込む冴えない中年男が、娘の結婚式に出るためにロンドンに出向く。違う道を歩む娘、元妻らとの間の疎外感にやりきれなく帰国しようとした際に知り合った女性と恋に落ちるというストーリー。
中高年恋愛モノとしては極上だと思う。号泣した。中年の純情って結構微笑ましいし、若い頃よりある意味気高い部分?もある。こういうジャンルの映画はもっと量産されて欲しい。
ちなみに、秋のロンドンは一人でふらっと旅したくなる雰囲気だった。近いうちに行ってみようっと。
ちっとも評論になっていない・・・。
続いては邦画。「ちゃんと伝える」という2009年の作品だ。
見たことも聞いたこともない俳優だなあと思っていたが、EXILEのAKIRAという青年が主演。
EXILEってヤカラっぽい(スイマセン)お兄ちゃん集団なのかと思っていたが、主演の彼は絵に描いたような好青年を演じていてとても良かった。
ガンと闘病中の父親と打ち解け始めたセガレ。ところがセガレのほうもガンが見つかり、誰にも言えずに苦悩する役を熱演していた。
とても深い内容でグイグイ引き込まれる作品だった。伊東歩という若い女優さんの存在感も印象的だった。有名な女優さんなんだろうか。
これまた評論とは程遠い内容でスイマセン。
次はベストセラー作家で作品がやたらとドラマや映画になっている有川浩の代表作・「阪急電車」。2011年に映画化された作品だ。
正直、関西の人なら面白く入り込める映画だろうと思ったが、東京人としては気候風土?がピンとこないせいか、いまひとつといった印象だった。
とはいえ、複数の登場人物の日常が上手に交錯するシナリオの巧みさは相当なもの。原作の勝利なんだろうなあ。
大ブレイク中の有村架純ちゃんが高校生役で出てきたが、超絶的に可愛いくて萌え~って感じだった。宮本信子は女優として素晴らしい仕事をしているし、まだまだ幼かった芦田愛菜ちゃんの天才ぶりも実感できた。
次は、おなじみの「プリティーウーマン」。
もう25年近く前の作品になる。これまで何度観たかわからないぐらいだが、また観てしまった。
いまさら感はあるものの、改めて思ったことは、この作品には映画の醍醐味全てが盛り込まれているということ。
ストーリーの楽しさ、ハッピーエンドに向けた展開、衣装の華やかさ、そして場面場面に応じた音楽の素晴らしさ、まさに夢物語の完結に不可欠なエッセンスがテンコ盛りになっている。
ベタな作品と一蹴する事なかれ。何度観てもハッピーになる娯楽映画の名作だと思う。
最後にもう一つ。ある意味、一番ぶっ飛んだ作品を紹介する。
昭和38年の「いつでも夢を」である。50年以上前の映画だ。吉永小百合・橋幸夫の大ヒット曲をモチーフにした作品だ。
いやあ凄かった。何が凄いって、一人たりとも悪人が出てこない。全編を通して善人だけが爽やかに前向きに生きている。何ともおめでたく、何とも素敵で、素直に映画の世界に憧れちゃう不思議なエネルギーに満ちた映画だった。
いまだにタモリなんかと絡んで「高嶺の花路線」をしっかり維持している吉永小百合先生である。この映画から半世紀以上経っても、同じ路線で「綺麗な人」を演じているのだから想像以上に大変な日々だと思う。
私は昔からカマトトチック?なところが大の苦手で今でも小百合先生が出てくるとテレビのチャンネルを回してしまうほどだ。
でも、こんな歴史巨編?を見ちゃうと、そんな屁みたいな理由で好きだの嫌いだのと論評してはいけないと反省した。別格な存在なんだろう。
ある意味、「長嶋茂雄」である。今後、吉永小百合のことは敬意を表して「ミスター」と呼称すべきだろう。
映画の中の東京は、まだまだ未開国家みたいな世界だ。舗装されていない道路ばかりだし、走っている車もバイクも歴史遺産といえるほど古い。
そんな時代から吉永小百合は吉永小百合で在り続けている。尋常ではない。
若かりし浜田光夫と橋幸夫が恋のサヤ当てを演じる。吉永先生はその間に立って、最後は3人で握手するシーンがある。
あまりに前向きであまりに天真爛漫な若者達の姿。妙に爽やかで妙にベタなセリフ回し・・・。ボケっと観ていたら金縛りに遭いそうになったほどだ。
照れずにあんな演技ができるとは、当時の俳優の技量なのか、それとも時代そのものの空気だったのか、しばし考え込んだほどだ。
昭和30年代後半、東京オリンピック前の東京の雰囲気って、ホントにあんなに前向きだったのだろうか。だとしたら心底うらやましい。あのエネルギーは高度成長をとっくに終えちゃった現在の世相から見れば奇跡のように思える。
大真面目に社会勉強の題材として最適な映画だと思う。
なんだかキリがないからこのへんでやめます。
ちなみに「吉原炎上」(1987年)の名取裕子のエロティックシーンにはマジで萌えました・・・。
2014年5月7日水曜日
太ももの筋肉
足腰を鍛えることの大事さは耳にタコができるほど聞かされてきた。もちろん、若い頃は馬耳東風だったが、中年になると、その大事さを実感する。
何事においても足腰である。当たり前のようだが真理である。
男が男としての機能を維持するためにも足腰の鍛錬はおろそかにしてはいけない。
ということで、相変わらず下ネタに移行しそうである。
ぶっちゃけ話になるが、男性機能の衰えを太股あたりの筋力低下によって実感する時がある。
機能低下といっても全然ダメになるわけではなく、そこそこ何とかなる?から、神経質になっても仕方がない。単に年齢的な問題ともいえる。
最近でもイロイロ頑張ってハッスルした翌日に太ももあたりの筋肉痛に見舞われることがある。やはり太ももがカギを握っているわけだ。
以前、太股の筋力がソッチ方面の元気さに直結すると知り、心を入れ替えて太股周りの筋力を鍛えようと考えたが、メンドーだからわざわざ鍛えるまではいかなかった。
ところが、時々、病的に潜水に行きたくなるクセのおかげで、一気に鍛えたことがあった。
ダイビングの旅に出ると、1日4回ぐらい潜る日程を5日間ぐらいは続ける。出発前の半月ほど、付け焼き刃だが、慌てて足腰を意識して鍛えてから行くのがいつものパターンである。
旅先でもガンガン潜っていれば、イヤでも足腰は使う。重いタンクを背負って少しは歩くし、水中でも太股に力を入れたフィンキックを繰り返す。
結局、準備段階も含めて太股あたりに過度の負担がかかる状態が結構続くことになるわけだ。
そんなことをしていると必然的にソッチ方面の「元気回復」を実感する。その反対に運動不足が続くと、気のせいか「元気衰退」を感じるような気がする。
元来、必死な感じのトレーニングは好きではない。ましてや「ソッチ」のために頑張るのも痛々しい。
スクワットをほんの数分毎日続けるだけでも効果は出るらしいが、黙々とスクワットに励む気にもならない。
ということで、マメな散歩を心がけるようにしている。たかが散歩、されど散歩である。せかせかと1時間も休まずに歩けば結構な運動量である。
大事な大事な太ももの筋肉にも負荷を実感できる。温かくなってきたからガンガン散歩しないとなるまい。
つくづく、何もしないでも「異常に元気」だった若い頃が懐かしい。年齢とともに少しは意識しないと、男が男がいられなくなるわけだから腹立たしい。
一気に1万歩も歩けばそこそこ疲れる。1万歩だと、歩いている時間は1時間半ぐらいだろうか。平均すると7キロぐらいの距離になるらしい。
交通機関の発達で現代人は歩く機会が激減した。昔はそれこそ旅に出る場合には「男十里女九里」という言葉があったぐらい、いざ歩くとなれば半端じゃなかったらしい。
江戸時代の男たちは現代人とは比較にならないほどの健脚だったのだろう。日本橋あたりから吉原に遊びに行くにも片道1時間はテクテク歩いたわけだから、想像以上に足腰は強かったはずだ。
「男十里女九里」に戻るが、一里は約4キロである。十里歩くとなれば40キロである。これが旅に出る場合の1日の目安だったそうだ。
日が暮れれば歩けない時代、明け方から夕方まで休憩を除いても、1日10時間ぐらいテッテケ歩いていたわけだ。
当然、スニーカーなどないから草履である。道だって現代社会とは違って整備されていない。そう考えると、凄い健脚である。
大名行列なんかでもこのペースが普通だったそうだから荷物を持っている人のシンドさは相当なものだったと思う。
きっと、男子の面々の絶倫ぶり?も凄かったはずだ。浮世絵春画で描かれる「元気ハツラツ」な男子達は、平気で1日40キロも歩ける健脚がパワーの源だったのだろう。
アチコチでわい談に精を出したり、このブログでも時々は艶ネタを書いている私である。「言うだけ番長」などと非難されないために、実践の場でもしっかりしないといけない。
江戸の男たちを見習って吉原に歩いて行ってみようか。でも、着いた頃には疲労困憊でそれどころではなさそうだ。
やはりスクワットに励むべきだろうか。
2014年5月2日金曜日
イマドキの出前
なんとなく暮らしていると気づかないのだが、時々、世の中の「進化」に深く感心することがある。
「出前」。今はデリバリーと呼ぶようだが、この分野もいつのまにか劇的に進化した。
私の場合、インターネットの「出前館」というサイトを活用している。何気なく使いこなしているが、考えてみれば、20年、30年前には想像もできなかったような便利な仕組みが構築されている。
https://demae-can.com/
自分の住所を入力すれば、そこに出前してくれる無数の業者がヒットする。和食、洋食、中華などジャンルごとに選べるし、「最低注文金額」とか「待ち時間」などの条件を選べば、自分の都合に合ったさまざまな料理が自宅に届く。
業者ごとにクチコミをベースとして点数まで表示されているから、気になった業者の評判も一目でわかる。
中年世代にとって「出前」といえば、近所のソバ屋か寿司屋か、せいぜいピザの宅配だったが、今では、高級サンドイッチや豪華なハンバーガー、釜飯、本格イタリアン、オムライス専門店、インドカレー、もつ鍋まで選り取りみどりである。
ロコモコ丼、チキン南蛮、鉄板焼きなんかも出前してもらった。業者によってはアルコールまで持ってきてくれるから非常に便利だ。
なかにはサイトの注文画面でクレジットカード決済が可能な業者もあって、小銭をジャラジャラ用意する手間すら省ける。
私自身、一人暮らしを始めてからのこの1年半、ガッツリ系から、中高年の一人暮らしを意識したようなヘルシー系和食まで、随分いろんな業者から出前してもらった。
ヘルシー系の弁当屋さんだと、白米の代わりにヒジキご飯とか玄米が選べたり、ヘタな外食や自炊より健康的なものが食べられる。
注文時に表示されている「待ち時間」から大きくズレることなく配達されるので使い勝手も良い。
その昔、一般的だったソバ屋の出前のいい加減さ(全てのソバ屋ではないが・・・)に比べれば、たいていの業者がしっかりしている。
若い頃、会社の近所のソバ屋さんから頻繁に出前を頼んでいたが、ロクでもないモノでも文句を言わずに食べていた。出前の料理に味の期待なんかしない習慣があった。
実際、盛りそばを例に取ると、ソバは既に乾ききり、箸でひと口持ち上げようとしても、すべてのソバが一団となって持ち上がったしまうようなシロモノだった。
隔世の感がある。
イマドキの出前でも、オヨヨ?と感じるヘンテコな味の料理もあるが、総じてマトモだ。想像以上にウマくて驚いたことも何度もある。
問題は食べ過ぎることである。これは私だけの問題だろうか。出前を頼む場合、ついつい次の日も食べられるようにと多めに注文してしまう。
注文した料理が届いた時は間違いなく空腹である。気づけば次の日の分まで食べきって、太田胃散を飲みながら途方に暮れる自分がいる。
なんとかならないものだろうか。
すべて自分が悪いのだが、二度と出前なんか頼まないと心に誓う。でも、そのうち記憶から悪夢は消えて何度もバカ食いを繰り返す。
自分のことを前世で餓死した人の生まれ変わりなんじゃないかと思ってしまう。
先日も、物凄く空腹だったので、「ウニクリーム入りカルボナーラ」と「カキのペペロンチーノ」という二つのパスタをペロッと食べて満足したつもりになっていた。
この日、二つのパスタの他、翌日の「朝カレー」用に「チキンとトマトのカレー」も出前してもらっていた。
もちろん、満腹な私はカレーになど見向きもしないつもりだった。しかし、冷蔵庫に入れようとした際に、ふとカレーの味見をしたのが運のツキだった。
パスタ二つを食べたせいで、なんとなくコメで口直しがしたくなり、味見の延長の「つい一口」が「二口」、「三口」と続き、気づけばカレー完食である。
バッカじゃなかろうかルンバである。
つくづく世の中の進化がニクい。手軽にウマいものを玄関まで届けてくれて、「さあ食え、がんがん食え」と私を誘惑しやがる。
自宅からパソコンを撤去して、自宅には財布を置かずに過ごすしか逃れる方法はないのだろうか。
困ったものである。