2014年9月29日月曜日
咳をしてもひとり
愛しの大江麻理子アナが結婚を発表したことは私にとって今年の三大悲劇である(あとの二つは未定だ)。
悔し紛れにお相手(ホンモノの富豪)のブログを覗いて勝手にイラついていたのだが、この方のブログを読んで妙に納得する部分があった。
内容は不確かだが、要は身体のアチコチの機能と同じく、脳も使っていないと退化していく。ブログを毎日書くことでそれなりに脳の活性化につながっているという趣旨の話だった。
確かにそうだと思う。私も日々このブログに雑文を書くことが習慣になっているせいで、少なからず脳は活性化している。
中高年になると仕事脳もどことなく予定調和というか、一種の慣れのせいで硬直化しがちだ。脳が柔軟に働かない。世のオッサンたちの課題はこれに尽きると思う。
私自身、仕事上の課題に関して脳の動きがどうにも面白みに欠ける。斬新さとは縁遠くなっている。
日常の暮らしだってそうだ。特別変化がなければ脳はちっとも回転しない。決まったリズムで決まったことをこなすだけだと、ボケッとしたままで済んでしまう。
このブログ、週に3回だけだが、一応どんなことを書こうか、この話をどうアレンジしようかなどとムダに脳を働かせている。
時には面倒だが、脳を動かすためには続けた方が良さそうだ。
ツイッターは使っていないのだが、あれだって、脳の活性化に良いと思う。なにより「短文」という部分がミソだ。
文章に携わる仕事をしていれば誰でも痛感するのが短文の難しさだ。ダラダラと書けば言いたいことは表現できるが、そこをピシッと短くまとめられるかどうかが頭の良し悪しでもある。
ツイッターで的確につぶやく作業を続けるのも頭の体操としては効果的だろう。
先日、ガラにもなく、とある俳句に感じるところがあって、暇つぶしに著名な俳人の句をあれこれ読みあさる機会があった。
無頼になりきれないくせに無頼なものに憧れるクセがある私としては、山頭火とか尾崎放哉あたりのアバンギャルド系についつい目が行く。
そこで気付いたのだが、あの手の自由な俳句は、俳句という概念を超越した「つぶやき」に他ならないということだ。
季語もない、五七五も関係ない、なんともヘンテコ?な句は、あの時代のツイートだと思う。
「あの雲がおとした雨にぬれている」
山頭火にもこんな普通の小綺麗な?名句があるが、「分け入っても分け入っても青い山」、「つくつくぼうしあまりにちかくつくつくぼうし」あたりは、ツイッター的な感じだ。
「酔うてこおろぎといっしよに寝ていたよ」。
有名な句の一つだが、こうなると俳句というより単なる「つぶやき」である。
一応、秋を連想させる言葉があるので「自由律俳句」というジャンルなんだろう。
もっと突き抜けちゃったような「ツイート」にこそ山頭火の面白さがある。
「どうしようもない私が歩いている」
「まっすぐな道でさみしい」
これらも代表作?らしい。いやはや物凄い突き抜け感である。一瞬ギョッとするような句だ。
そうは言っても、その短い言葉に閉じ込められた情感みたいなものは読んだ側の人間にストレートに伝わってくる。短文の凄さであり、短文の魅力ともいえる。
「咳をしてもひとり」
尾崎放哉の代表的な句だ。これなんかも完全に「ツイート」だろう。ただのつぶやきにも見える。でも、自由律俳句の名作といわれている。
確かに何度も読み返していると、孤独や寂寥感といった念が漂っていることを感じる。短文の持つド迫力である。
それにしても、こんな切ない感じの俳句に目が行ってしまう自分の心理状態が心配である。
とかいいながら、日々ここで書けないような乱暴狼藉を働いているので、ちっとも切ない状況ではない。単純に男特有の「おセンチぶりっこ」のせいで淋しげな俳句に目が行くのだろう。
実際に最近、グっと来た句は切ない系ではない。いわば、おセンチ系である。
君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ
砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
石川啄木の句である。啄木といえば貧困の代名詞みたいなイメージだ。でも、貧しさの原因が女遊びだったとか、変態プレイが好きだったとか、実像はダメ人間だったことで知られる。
そういう人物が残した異性を思う句に惹かれてしまうことは私にとって困った問題である。
ちょっと暗示的かもしれない。
気をつけよう。
2014年9月26日金曜日
銀座 さ久ら
銀座界隈、とくに7丁目、8丁目といえば、夜のクラブ活動がお盛んな地域である。
あちこちの店で綺麗どころを伴った同伴客を見かける。鼻の下を伸ばしたオッサンと営業意識まる出しの女性の組み合わせである。言い過ぎか・・・。
あの街に星の数ほどあるのが寿司屋だ。お寿司屋さんは同伴客遭遇率がもっとも高いジャンルかもしれない。
銀座のお寿司屋さんといえば値段に比例して総じてレベルは高い。激戦区ならではの切磋琢磨に加え、街の特色を反映してコワモテの店主が威張りちらしているような店もない。
キビキビと愛想良くサービスしてくれる店が普通である。客が修行させられているかのような息苦しい店は少数派だろう。
それはそれで有り難いことだが、甘やかされちゃった客の残念な行動もちょくちょく目にする。
同伴相手のオネエサンを必死に振り向かせようと、食事そっちのけで自己アピールに励むオジサマがその典型的なパターンだ。
オジサマは必死である。日本エレキテル連合みたいな「いいじゃないの~」攻撃で頭がいっぱいである。美しく握られた寿司が出されても目に入らない。
寿司はポツンと置き去りにされ、徐々に乾いていく。それを見つめる寿司屋の大将の眼差しは淋しそうだ。
そんな光景は珍しくない。無粋というかマナー違反みたいなものだが、やはり同行した人との話に熱が入れば、ある程度仕方ない。
同伴客に限らず接待などの場面だって同じだろう。エラそうに書いている私だって綺麗どころ相手に奮闘すれば似たようなものだ。
で、ようやく本題。
先日、銀座のお寿司屋さんに夜の8時半頃に行く機会があった。時々出かける「さ久ら」という店だ。一人酒である。
同伴客がひけるのは8時から8時半である。必然的にその時間を過ぎれば一気に景色が変わる。小さめの店なら貸し切り状態になることだってある。
その日、運良く貸し切り状態になった店で、さんざん珍味やツマミを出してもらって、調子よく飲み続けた。ワガママも聞いてもらったりして実に快適な時間だった。
「銀座の寿司は8時半過ぎ」。同伴客じゃない場合、これは一つの教訓だろう。店側だって忙しい時より余裕のある時の方が、あれこれ面白いものを出してくれる。こっちのアホバカ話にも付き合ってくれる。
「さ久ら」の場合、店の名誉のために書いておくが、満席の時でもそれぞれの客への目配りはキチンとしている。私より若い大将は某外資系ホテルの寿司店を仕切っていたこともあり、そのあたりの心配りはバッチリである。
銀座の真っ当な店だからボケっと座っていても次々に気の利いた一品を出してくれる。もちろん、それでも充分楽しめるが、相談しながら自分の好みに応じたワガママも受け入れてくれる。
私の場合、いつも「珍味中心」だ。握りをガンガン食べた記憶がない。大将自身が「寿司職人というより料理人でありたい」と話しているから勘弁してもらおう。
この日も初物のアンキモを始め珍味系を楽しみながら冷酒をあおっていた。途中で焼物が欲しくなって相談。脂ののったウナギがあるという。
迷わず白焼きをオーダーした。焼く前の立派な切り身を見せてもらったら頭の中はウナギ一色である。
「ワサビ醬油をチョコッとつけて冷酒と一緒に味わう」というイメージ画像が私の脳を占拠することになった。
美味しそうに焼き上がった白焼きである。事前に関東風に蒸すかどうかまで聞いてくれた。親切である。一人者の私は小さな心配りにスグ泣きそうになる。ウソです。
「外側パリッ、中身はフワッ」。口の中に拡がる旨みにクラクラする。冷たい八海山をグビッ。最高である。マリアージュ!?である。
同行者を気にせず、時間を気にせず、周囲の混雑も気にせず、大将相手にヨタ話を連発しながら、ひたすらウマい肴にウマい酒である。
しまいには、YouTubeにアップしている我がオヤジバンドのライブ動画を無理やり大将に閲覧させて、無理やり褒めてもらって、無理やり次回のライブに来てもらうことを約束させて御満悦になるアホな私である。
食べ物の話に戻る。
この日はシメに蒸し寿司を出してもらった。一貫分の握りを蒸し寿司にして、そこに芳醇な出し汁ベースのアンをかけて食べる。
涼しくなってきた季節にマッチして風流を感じさせる味わいだった。土瓶蒸しを味わう時に感じるあのジンワリとした幸福感を寿司に置き換えた感じ。疲れた体と心に染み入る滋味だった。
ここの店の特徴は、美味しさはもちろん、出されるものの美しさだろう。随所に繊細な感じが表れている。美意識というと抽象的だが、ここの大将は筋の通った美意識を守っている印象がある。
なんだか、書いているだけでまた行きたくなってきた。正直、職場や家が近かったら頻繁に通うはずだ。まあ、頻繁にあの街に通っていたら何かと大変だから、時々顔を出すぐらいでいいのだろう。
とりあえず、また8時半頃に行こうっと。
2014年9月24日水曜日
同衾しよう!
最近やたらと耳にする言葉に「女子力」がある。いろんなニュアンスがあるみたいだがよく分からない。
男からもてはやされる能力、女性っぽいセンスを表す力といった意味合いが基本らしい。
いわば、女を捨てちゃった人?以外なら誰もが普通に女子力を発揮しながら生きていることになる。
女らしさ、女っぽさという言葉と同義語なんだろうか。だとしたらそう言ったほうが分かりやすい。よく分からないから何となく耳障りではある。
男が必死に男らしさをアピールする時に「男子力」なる言葉は使わない。「中年になったら男子力を磨かないと枯れちゃう」。こんな感じで使えばいいのだろうか。
そういえば、もう10年以上前に「老人力」という言葉が流行語になった。「〇〇力」の走りだったと思う。
年を取って耳が遠くなるのは、聞きたくないことを聞かずに済ますための能力。物忘れがヒドくなるのは、新しい知識を吸収するための能力。そんな感じ。
すなわち、老人特有の特徴は老人ならではの能力であるというポジティブな考え方である。
私自身、老人の域にはまだまだ早いが、年齢を重ねるに従って気付いたこと、見えてきたものがテンコ盛りである。ちっとも若い頃に戻りたいとは思わない。これって「老人力」に近づいている証だろう。
話を戻す。
「女子力」のようなハヤリ言葉とは別に、ちょっとした言い回しも時代によって変化する。
ここ数年、耳にするのが「違う」という言葉のヘンテコな使い方だ。「違くない?」「違くて」などハチャメチャである。
すっかり一般化しているが、昭和人としてはとても違和感がある。「見れる」「食べれる」などの「ら」抜き言葉とともに、いずれ普通の用法に変わっていくのかもしれない。
「~~じゃね?」という言い回しも気色悪い。「~~ですよね?」「~~だよね?」、「~じゃない?」の意味である。
些細なことだが、いい年したオトナが「じゃね?」を使っていると何となくゾワゾワしちゃうのは私だけだろうか。
何だかんだ言って言葉は生き物だから時代の変遷とともに変わっていくのだろう。エラそうに書いている私の言葉遣いだって、50年前、100年前の正しい日本語からは随分と逸脱しているはずだ。
あまり目くじらを立てても仕方がない。
「目くじら」ってのもスンゴイ言葉だ。調べてみたら「目尻」がなまった表現らしい。
またまた話が逸れた。
言葉のなかには変化ではなく、死滅していくものも多い。電話の際の「ダイヤルを回す」などは、その動作自体が無くなったわけだから復権の可能性はないだろう。
消えていった言葉、消え行く言葉の中には死語にするのが惜しいものもある。
「すかんぴん」や「オケラ」。お金を使い切っちゃって困ってる時の言葉だ。前者は漢字で書くと「素寒貧」である。実にマトを得た文字遣いだ。
「オケラ」の意味を調べてみたら、バッタの仲間のケラという虫を正面から見るとその風貌がバンザイしているように見えるので、スッカラカンでお手上げという意味で使われるようになったらしい。
「富豪」を目指している割には、常にピーピー言っている私には、この二つの言葉は親近感がある。大事にしたい言葉である。
「あ~ら、アーさん、お見限りだわ~」の「お見限りも個人的に好きな言葉だ。見限ると言い切ってしまうとキツい感じだが、少しアレンジすることで何となく情緒が漂う。
「お連れ様」。これも個人的に好きな言葉だ。読んで字の如く、別段何の意味も無さそうだが、シチュエーションによって艶っぽく聞こえる。
温泉旅館の仲居さんは、カップル客が夫婦かどうかを瞬時に見分ける。女性客を「奥様」と呼ぶか「お連れ様」と呼ぶかの分かれ道である。
ギラついたオッサンが連れてきた若くて派手目な女性を「奥様」と呼んじゃう仲居はアホ100点満点である。
そういうチンケな宿に行ってはいけない。
「待合」という言葉もほぼ絶滅したように思う。待合室のことではない。その昔、待合茶屋と言えば、プロの女性を呼んで飲食宴会をする場所のことで、寝具が用意されているのが特徴だった。
大物政治家が利用する格式の高いところから、場末の単なる連れ込みまでその範囲は広かったようだが、要は色事の舞台だったわけだ。
これまた死語になってしまった「しけ込む」とセットで「待合にしけ込む」と言えば、エロ満点の意味になるわけだ。
セックスを意味する「房事」ももはや誰も知らない言葉だ。「同衾(どうきん)」も同じ。このあたりの昔言葉は隠語として復活させたら情緒があっていいかもしれない。
「待合にしけ込んで同衾しようよ~!」。
うん、なかなか素敵だ。今度、実際に誰かに使ってみよう。
通じるわけないか・・・。
2014年9月22日月曜日
方位
占いを信じるほど純情ではないが、聞いてしまった占いを無視するほど剛気でもない。
ということでチョット困っているのが引っ越し問題である。
今の住まいはまもなく2年。秋が深まれば更新時期がやってくる。2年で引っ越そうと思っていたので、そろそろ具体的な転居先を絞らないといけない。
希望のエリアは絞られているのだが、問題は「方位」である。時々、カウンセリング感覚でアレコレ見てもらっている謎の?霊感占い師に方位の善し悪しを聞いてしまったせいで、どうにもそれに影響されている。
霊感とか特殊能力で見てもらったわけではなく、一般的な方位占いにのっとって善し悪しを見てもらったからタチが悪い。
胡散臭い御託心なら、てやんでぇいと無視することも出来る。でも、基本的な方位占いだとついつい耳を傾けてしまう。
現住所や生年月日を入力すれば簡単にチェックできるインターネットの方位占いも試してみたが、やはり結果は霊感占い師と同じような内容だった。
若い頃はそういう話にはまるで無頓着だったのだが、加齢?とともに少しは気にするようになった。
誰に聞いても大凶だった家相の家に暮らして悪いことばかりだった経験のせいで、最近はついつい気にしてしまう。
バッカじゃなかろうかルンバ的な気持ちもあるが、聞いてしまった以上、占いの結果は気になる。あえて悪い方を選ぶ勇気は無い。
聞かなきゃよかった。つくづく後悔している。終の棲家を探しているわけじゃないし、知らぬが仏とばかりに引っ越し先を決めちゃえばよかった。
健康診断と同じだ。医者に行かなきゃ誰もが健康だ。尿酸値が高いとか余計なことは検査しなければ知らずに済む。検査に行っちゃうから些細な問題点をことさら気にするわけだ。
引っ越したいエリアは現住所から東南方向なのだが、現時点では好ましくない方位だとか。
来年の4月以降は運気が変わってそっち方面も「吉」になるらしい。何だかなあ~って感じだ。
逆に好ましい方位は私にとってまったく興味の無いエリアである。それこそ吉原のソープ街あたりが大吉だ。そんな所に暮らしたら散財しちゃって大変だ。
今の住まいは賃貸物件なので更新料がアホらしい。あれも変な習慣である。更新してもらえるのだから大家の方が感謝すべき話だろう。実にバカげている。
さてさて引っ越し先をいくつか絞って、その周辺を散歩するのは楽しい。キョロキョロとあれやこれや見て回っている。まるで刑事か不審者である。
この定食屋は渋いぞ、あっちの居酒屋も捨てがたい等々、ライフライン?を調査していると結構楽しい。
スーパーはどこが近いか、セブンイレブンはあるか、クリーニング屋、牛丼屋の距離感など、そんなことばかりチェックしている。
素敵な店、洒落た店などは眼中に無い。住んでしまえばジャージにサンダルでうろつく。それに見合った居心地の良い場所をリサーチする必要がある。
なんてったって「シングルオジサマ」である。おまけにモノグサ太郎である。便利じゃないとダメである。だから閑静な高級住宅街は問題外である。
某エリアの低層高級マンションに空きがあると知って周辺を散歩してみた。お屋敷も多く上品で落ち着いた雰囲気が漂っていたが、コンビニ、スーパー、飲食店がほとんど見当たらない。
「シングルオジサマ」にとっては閑静な雰囲気より利便性が大事である。花より団子だ。その低層マンションは悪くない物件だったがもちろん却下した。
タワーマンションの高層階もイヤだ。地震が頻発する東京なのに、わざわざ高いところに住もうという発想が分からない。
高層階はそれこそ地に足がついていない感じがして不安だ。それを言ったら2階だって地に足が付いていないが、20階とか30階とかに比べればマシである。
せいぜい3階までだ。3階までならエレベーターを使わなくてもヘッチャラだ。でも、そんな条件で探すとなかなか良い物件には出会わないから困ったものだ。
床面積にも譲れないこだわりがある。クルマの出し入れも雨に濡れずに済む環境じゃないとイヤだ。
これらの条件を満たす物件は少ない。ようやく見つけても、方位がダメとか言われちゃうから最悪である。堪ったもんじゃない。
近いうちに霊感占い師に会うから、悪い方位だろうと強引に引っ越せるような秘策を尋ねてこようと思う。
2014年9月19日金曜日
四半世紀
「光陰矢の如し」とはよく言ったもので、自分の中ではつい最近だったような記憶が遙か昔のことだったりする。
先週末、函館に行ったのだが、初めて訪れたのが30年も前だったことに気付いて愕然とした。
当時まだ生まれてなかったオネエサンのお尻をいまだに追っかけているかと思うと、ちっとも成熟しないオノレの愚かさにも愕然とした。
社会人になって少し経った頃、仕事で函館を訪れた。この時のイメージが凄く良かったので、それ以来、事あるごとに函館を訪れてる。現地に別荘マンションを買おうとしたこともある。
四半世紀にわたって、一種の定点観測をしてきたようなものだ。四半世紀、長いようでアッという間だったようにも感じる。25年である。25年の歳月が変えるものは無数にある。
世間で何かと話題に上る地方都市の疲弊というか過疎化にしても、函館あたりを散歩しているとつくづく実感する。
25年前に活気のあった場所がすっかり廃れて人の気配がない。シャッター商店街という言葉だけでなく、街自体が消滅しているような印象がある。
この10年ぐらい、日本の地方都市に行くたびに感じる印象は同じようなものだ。四半世紀前なら、田舎には田舎の活気があって、街の規模に見合った数の人も闊歩していた。
数十年もすると日本の人口は8600万人にまで減少するそうだ。人口減少だけでなく、お年寄りばっかりの国になるわけで、当然、高度成長期が土台のインフラはすべて様変わりする。
集落や村はもちろん、ちょっとした規模の街だって、閉鎖されて近隣の街に吸収されるような動きが加速度的に増えるはずだ。
昭和の頃は数万人の人が暮らした街が正真正銘のゴーストタウンになることも非現実的な話ではない。
空恐ろしい話だが、現状のままではそれが当然の帰結である。女性の社会進出をどうたらこうたらする大臣ポストが出来たとか、女性の管理職の割合を引き上げるとか、相変わらずその手の話が飛びかっている。
それより何より少子化対策ありきだろう。出産育児に障壁となっている問題をことごとく大胆に改善するほうが先決だ。
野心のない若者が増えて、地元から離れない「マイルドヤンキー」が増殖中だという。それはそれで結構なことだと思う。ついでにいえば、そういう人々が子供をバンバン作ってくれればいい。
社会全体で出産育児に取り組む仕組みを検討する方が、女性管理職の割合うんぬんより有意義な話だと思う。
人間の特徴の一つが、生殖期を終えた後にいつまでも元気で生きていることだ。生殖活動を終えてから50年も生きているのは珍しい。鮭なんて卵を生んだらスグに死んじゃう。
ジイサン、バアサンは今後物凄いペースで増えていく。この人達が、将来の社会を支える赤ちゃんや子供の世話をサポートする制度なども検討されて然るべきだ。
超高齢化社会の在り方を研究している有識者から聞いた話だが、育児サポートの貢献度合いをポイント制にして、それに応じて年金支給額を増額したりすれば、ヒマをもて余している高齢者の生きがいにもつながって効果的だという。
もっともなことだと思う。
個人的には、婚姻外でもバンバン子供を作れるような社会慣行にしていくことを強く主張したいが、こればかりは日本的道徳の問題があるから、そう簡単にはいかないだろう。
なんだっけ?
そうだ。今日は「四半世紀で何がどう変わったか」を書こうと思っていたんだ。
軌道修正。
「書こうと思っていた」と書いてみたが、「書く」という言い回し自体がどうにも落ち着かない。正しくは「打つ」だろう。
四半世紀で変わったものの代表だ。25年前、もちろんパソコンはあったが、今のように猫も杓子も一人一台パソコンで仕事をする時代ではなかった。
新人記者時代、当然、原稿は手書きだった。修正も多いから鉛筆が基本。5年ぐらい経ってボールペンを使うようになった時には我ながらエラくなったと錯覚?したものだ。
電子メールなんてもちろん使っていない。だから電話で人と話す機会が多かったし、職場にはそうした声が溢れて騒々しかった。
すべてがアナログだった。音楽をダウンロードするという文化もなく、CDを買うかレンタルするか、ヘタすればそれをカセットテープに録音し直してオリジナルムード音楽集を作っていた。
ドライブデートの前には、一生懸命カセットテープを編集して、何曲目ぐらいでムーディーな路線にすべきかなどとアレコレ下らないことに時間をかけていた。
今ではあんなに小さな機械に数千曲もの音楽を詰め込んで持ち歩ける。クルマに接続すればそのまま全部聴けてしまう。カセットテープの時代には考えられないことだ。
あの時代からタイムマシンで今の時代にひとっ飛びで来たら、卒倒する人が続出すると思う。
一言でいうなら「携帯もインターネットも無い日々」だった。まるで違う国の話のように聞こえる。
あの時代の方が情緒があったとか、そういう懐古趣味はないが、実際にすべてがアナログだったから、今の時代よりもあらゆる物事や行動が濃かったことは事実だろう。
「成り行きで~」というノリは通用しなかった。待ち合わせにしても時間、場所をきっちり決めないと合流できないのは当然だった。
知恵を絞ったり、工夫を凝らしたり、何事においても力んでいたような気がする。それこそイマドキ言葉である「サクっと」片付くことが少なかったような記憶がある。
私が若かったからそう思うのだろうか。
よく分からないが、すべてが手軽な時代になったことを痛感する。
良いか悪いかと聞かれれば、もちろん良いことだろう。何事も手軽な方が便利である。
そうは言いながら、世の中すべてが無器用だったかのような昭和の頃を時々懐かしく感じる。
正しきオジサンの姿である。
2014年9月17日水曜日
ウマい函館
思い立って函館に行ってきた。画像は物思いにふける啄木さんである。
帯広、釧路方面に行きたかったのだが、3連休だったし、突然の計画だったので飛行機が押えられずに断念。
で、函館である。直前でも飛行機は取れたし、第二希望の宿も取れた。そんなに人気が無いのだろうか。ちょっと心配になる。
函館は勝手知ったる街である。軽く10回以上は訪ねている。土地勘もあるし、どの店の何がウマいとかマズいとかも把握しているつもりだ。
知らない街をぶらぶらする楽しさやワクワク感はまったく感じないのだが、その分、慣れ親しんだ居心地の良さがある。
とくに目的も無い旅だったので、読めずにいた本を数冊持参した。ところが、あっちで読んだのは行きの羽田空港で買った2冊の本のみ。
伝説のヤクザがどううたらこうたら告白したという本と吉行淳之介の娼婦小説集とやらである。意味不明の組み合わせである。
宿はベイエリアのラビスタ。高級ビジネスホテルという趣だが、ウリは最上階の天然温泉である。一応、濁り湯だし、サウナもあるし、露天風呂から一望できる景色も悪くない。
2泊したのだが、夕方早めの時間は割と客が少ない。その時間帯を狙って湯浴みタイム。iPodを隠し持ってサウナオヤジになる。その後のアルコールのために充分に干からびておく必要があるわけだ。
サウナの後の生ビールほどエクスタシーを感じるものはない。酒の肴は北海道の珍味である。ウホウホである。
最初の晩は「うに・むらかみ」に出向く。安い店ではないが、ミョウバンを使わない無添加の上等なウニを常備する店だ。
函館といえども無添加ウニを出す店は少数派だ。上等な本物のウニの美味しさは抜群である。これこそ「知ってしまった悲しみ」である。
知らないでいれば薬漬けの変なウニでも喜んで食べるのに、知ってしまった以上もうダメである。東京でも上等な生ウニ以外は食べなくなり、函館でもヘタな店ではウニを注文しなくなってしまった。正直、ちょっと不便である。
間違いなくウマいウニが食べられる「むらかみ」では、フレッシュな生ウニはもちろん、ウニを使った料理もアレコレあり、それ以外の海産物メニューも豊富だ。
この日、生ウニ以外に「ウニの醬油漬け」「ウニの佃煮」「ウニグラタン」などを注文した。
極上の生ウニなら東京でも食べられるが、佃煮や醬油漬けといった珍味はここならではの肴である。
とはいえ、この日の私のお目当ては活イカである。イカ刺しが好きなわけではない。普段お寿司屋さんでイカを頼むことすらない私だが、函館のマイカは別である。
なんといってもゴロと呼ばれるハラワタを生で食べさせてくれる。これが最高だ。一般的に塩辛を作る時の原料として認識されているが、やはり生が最高である。珍味界のデレク・ジーターだと思う。
こればかりは生きたマイカが必要である。輸送環境が良くなり、東京でも食べられないこともないが、やはりイカ釣り船の漁り火が名物の函館ならではの味だと思う。
今回は滞在中に2回イカのゴロ刺しを堪能した。ウットリしてヘロヘロになってメロメロになった。でも、まだまだ小ぶりだったので、機会があれば年内にもう一度食べに行こうかと画策している。
次の日の夜に出かけたのが、五稜郭にある「魚来亭」。ここも一風変わったウマいものを出してくれるオススメの店だ。
海鮮居酒屋系の安い店が多い函館だが、安さだけを強調するような店はさすがにダメダメである。平気で臭い魚介が出てくる。
お寿司屋さんも結構オススメの店は多いが、ネタが少なかったり、意外に地元の魚が少なかったり、オヨヨ?と言いたくなる店も多い。
魚来亭は、メニューの豊富さはもちろん、味も実に真っ当。ちゃんとした料理人が真摯に作業している印象の店。この画像のような妙に贅沢な焼おにぎりメニューもあって、財布が緩んでいる旅行者には危険?。でも、せっかくの旅先なら真っ当にウマいものを食べるべきだろう。
ちなみに、炭水化物は抜こうと思ったので、高価な焼おにぎりは注文しなかった。決してお金がなかったからではない・・・。
カニが好きだから機会があれば東京でもホジホジしている。いつも毛ガニである。だから今回は生け簀に入っていた小ぶりなズワイを一杯まるごと頼んだ。
一杯まるごとと言っても、さっき紹介した焼おにぎりぐらいの値段である。脚を刺身と炙りにしてもらって、ミソは甲羅焼である。
ついでだからズワイガニの塩辛なるメニューも注文した。エビミソの酒盗もセットでやってきた。いやはや冷酒のピッチがグングン速くなった。
板サンとのムダ話も弾んでしまい、イカの塩辛や山ワサビのツマミなどをサービスでもらう。
イカの塩辛は正しくショッぱくて、酒がグイグイ進む。山ワサビのツマミも口直しにとても良かった。
すりおろさず、小さめにコマ切れにした山ワサビにおかかと白ごまを混ぜて醬油で和えただけである。それを小さい冷や奴の上にドサっと載せて出来上がり。北海道ならではお手軽ツマミだ。
そのほかには、この店の名物であるウニ豊楽(卵とじ)やスジコ、生ニシンのタタキなどをもらって延々と冷酒を楽しんだ。醬油漬けのイクラが大手を振ってエバっている北海道だから、塩漬けのスジコが妙に新鮮だった。
いやあ、それにしても身体に悪そうなモノばかりである。塩分過剰、プリン体過剰、コレステロール過剰である。
そういえば、8月始めに受けた血液検査や胃カメラの結果をドクターに確認するのを忘れていた。検査に行っただけで満足してはいけない。
ちゃんとしよう。
2014年9月12日金曜日
海老の日
最近はデブの話や不倫の話ばかりで陰気な感じだから今日はめでたいテーマにしてみた。
「海老」が今日のテーマである。
今度の月曜日は何の日かご存じだろうか。敬老の日であるとともに「海老の日」である。
何じゃそれって感じだが、昨年出来たばかりの記念日だとか。長寿のシンボルであるエビにあやかって、この日はエビを食べましょうという水産業界の企画らしい。
エビが縁起物になったのは、曲がった腰、長いヒゲが長寿を表すからだ。また、何度も脱皮を繰り返す性質が「再生」を意味するという側面もある。
ついでに言うと、目が飛び出ているから「めでたい」というヘンテコな説もあるらしい。それなら金魚のデメキンやハンマーヘッドシャークも縁起物になってしまう。
さて、私の大好物はカニだ。甲殻類つながりで当然のようにエビも好きである。
甲殻類として暮らしているヤツって間違いなく自分が美味だと認識している。じゃなきゃあんな格好はしない。
カニもエビも生きている姿はちっとも美味しそうではない。大体、硬いしトゲトゲしているし触ると痛い。
オコゼ、カサゴ、ウニ等々、姿形が変で触りたくない連中はたいていウマい。それを自覚している。たぶん。
ウィキペディアを覗いたらエビにまつわるトリビア?がいっぱい紹介されていた。インターネットってつくづく便利である。
少し引用する。
~~~和語の「えび」は、元々は葡萄、あるいはその色のことだった。葡萄の色に似ていることから蝦・海老のことを「えび」と呼ぶようになった。現在でも「葡萄色」と書いて「えびいろ」とも読む。漢字表記の「海老」や「蛯」の字は曲がった腰を老人に見立てたものである。~~~
フムフム。。「蛯」という文字の語源まで知ることが出来た。
エビ、カニ類は大好きなのだが、アレルギーの元だとか、アクが強くて摂り過ぎは毒だとか言われるので、バカ食いは避けている。
はたして、そんなに悪い食べ物なのだろうか。これまた調べてみた。すると、アレルギー体質ではない人にとっては良いことずくめだった。
血中コレステロール値の上昇を抑える、糖の吸収を阻害する、高血圧が原因となる血管障害を予防する、肝機能を高め、解毒作用を強化する、そのほか、胆石の予防効果まであるらしい。
エビバンザイである。
そんなに身体に良いのなら、ヤツらが海中のゴミや腐敗物を食べている実態には目をつぶろう。
水底に沈んでいる死体には甲殻類がぎっしり付いているなどという話もこの際忘れておこう。
先日、お寿司屋さんで揚げ物が食べたくなってエビフライとアジフライを頼んだ。いつもの「鮨源」である。有り難いことにエビフライのためにタルタルソースも作ってくれた。
甘エビやボタンエビなど、生で食べるエビもウマいが、火を入れた海老もまた最高である。フライにした時のウマ味が閉じ込められた感じも良い。
考えてみれば、中華料理、フレンチ、イタリアン、エスニック等々、エビほど調理法を選ばずに楽しませてくれる食材は珍しい。
料理の仕方によって、和酒はもちろん、ワイン、ウィスキー、紹興酒等々、どんな酒にだって問題なく寄り添う。優秀極まりない。
エビフライ用のタルタルソースが余った時は、タルタルだけをチビチビ舐めながら酒を飲んでしまう。タルタルソースだけで軍艦巻を握ってもらったこともある。
この日、エビフライを食べちゃったあと、新たなタルタル活用法を開発?してもらった。
ポイントは茹でエビとトビコである。これとタルタルソースで巻き寿司を作ってもらった。
エロス満開だった。トビコのぷつぷつした食感が全体をコントロールしていた。邪道の極みみたいな寿司だが、私の「お子ちゃま味覚」を喜ばせる一品だった。
ちなみに、茹でエビ自体が一味違う。生きた車海老の茹でたてである。甘味が強く、そこらへんの干からびたエビとは一線を画した風味がある。
こういう邪道寿司も楽しいが、それ以前に茹でたてのエビの握りは実にウマいと思う。私の大好物の一つである。
冷めたら冷めたでウマいのも分かる。そっちの方が好きな人もいるだろう。酢締めやオボロを使うなどアレコレ技法を駆使するエビの握りも大変美味しい。
まあ、それはそれとして、まだ温かいエビに茹でたてならではのエビミソを混ぜて握ってもらうのも捨てがたい。輸送手段や保存状態が格段進歩した今の時代ならではの寿司である。
その昔の若い頃、北海道の寿司屋で「茹でたエビ?そんなもん置いてねえよ」と言われたことがある。
あの日、茹でエビを小馬鹿にした言い方をした寿司職人に「東京の真っ当な茹でエビの握り」を食わせてみたい――。ここ20年ぐらい執念深く思い続けている。
話が逸れた。
茹でる時間は1分前後が目安だ。生きたままだって食べられる車海老である。少しだけレア感が残る茹で加減のほうがエロス満開である。
私の場合、茹で時間は1分弱ぐらいが好みである。ウソかホントか48秒ぐらいが最高だと勝手に信じている。
茹でたてエビの握りを注文する時、私の口から出る言葉は「AB48」、すなわち「エビ・フォーティーエイト」である。
なんか恥ずかしい。
2014年9月10日水曜日
分かっちゃいるけど・・・
分かっちゃいるけどヤメられない!
植木等のスーダラ節みたいな言い回しだが、人間の業とか煩悩って、結局そういうことだ。
食べ過ぎちゃいけないのに食べ過ぎる。タバコは有害と分かっていても吸いたくなる。夜更かししちゃダメなのにダラダラと過ごしちゃう。
行動のすべてが煩悩や業との戦いである。
日本エレキテル連合の白塗りじゃないほうの「細貝さん」なんて煩悩の塊である。
「いいじゃないの~~~」。あのトーンで迫っていく姿は煩悩まる出しである。
まさに、分かっちゃいるけど・・・の世界である。
中国だかの故事に仏教の神髄を端的に表した話がある。
ある男が仏教の神髄を高僧に尋ねた。返ってきた答えは「善行に励んで悪行をしないこと」。
あまりに単純な答えに男は反論する。「そんなこと3歳の子供だって知っている」。
それに対する高僧の答えは「3歳の子供すら知っていることが80歳になってもなかなか出来ない」。
そういうことである。
人生あらゆる場面で「分かっちゃいるけど・・・」のオンパレードである。
なんでこんなことを書き始めたかというと、先週このブログで熱く語ってしまった不倫ドラマ「昼顔」のせいである。
前回の放送では、上戸彩が演じる平凡な主婦が不倫相手の嫁からぶっ飛ばされた。クライマックスに向けてエンジン全開である!
不倫や浮気って、人間の煩悩の最たるモノかもしれない。実行した人すべてが「いけないこと」と認識している。そこが不思議である。
いけないと思っているならヤメとけばいい。それだけの話。でも、なぜか一線を越えてしまう。いけないことだと分っているから必死にウソをついてごまかそうとする。
ハタから見れば滑稽ですらある。でも、もし自分が当事者になれば人様を笑えないマヌケぶりをさらすのだろう。
だから、もっともらしい安直な批判には違和感がある。不倫経験者が自戒と反省を込めて他人を制するならともかく、単に教科書的で正論に過ぎない批判はうっとうしい。
優等生がささいなことを先生に言いつけるような気持ち悪さに似ている。そんな正論をぶつほどアンタはご立派な人間なのか?と言いたくなる。
まあ、そんな居直りは屁の突っ張りにもならない。やはり禁断の果実は口にしてはいけない。現に必死に踏みとどまっている人の方が多いと思う。そっちが正解。一歩踏み出しちゃったら負けだ。
負けとはいえ、それでも、「煩悩に負けちゃった正直者」を頭ごなしに否定するのは何となく収まりが悪い。誰もがそんな境遇になり得るという理解は持っていたい。
実際、多くの人が無意識のうちに不倫している人を軽蔑する。無条件で卑下する。まさに一刀両断である。まあ、結婚制度を元にした社会の安定を考えたら仕方のないことだ。
ドラマ「昼顔」の上戸彩も当初はそういう設定だった。初めのうちは不倫ばかりしている吉瀬美智子に異常なまでの嫌悪感をみせていた。でも、いつのまにか自分も不倫妻になってしまう。
おまけにシャレにならないほど「不倫ドツボ」にはまって、気が弱い人だったら自殺しちゃいそうなほど煮詰まっている。
バカである。
確かにバカだが、それが人間の本性だろう。いや、本性というより、人間の面白さと言い換えてもいい。
「酒もタバコも遊びもやらず、それで100まで生きる馬鹿」という名言がある。まさにそういうこと。長生き自体はもちろん尊いが、人間として面白く人生を楽しんだかどうかは別問題。
俗に「人間らしさ」という言葉があるが、あれも結局、どれほど煩悩や業と正面から格闘したかという意味合いが強いのだと思う。
ダラダラと結論のないことを書き殴ってしまった。
ドラマ「昼顔」に話を戻す。劇中の名セリフがなかなか興味深い。ネット上には「まとめサイト」も溢れている。
このドラマ、売れっ子の女性脚本家が手がけている。これまでもさまざまなジャンルの作品を作り出している人だ。
きっと、卓越した取材力が持ち味なんだろう。リアリティーに溢れたセリフがテンコ盛りだ。素直にプロの凄さを思い知った感じだ。
~不倫にゴールはない。ゴールがないということは終わらせるのが難しいということ~
~不倫の恋は2人で嵐に揺れる小船に乗っているようなもの~
~不倫は、することの罪よりもバレることの罪の方が大きい~
~結婚は平穏と引き換えに情熱を失うもの~
~男の恋はすべて肉欲。それこそやり逃げした男と思われたくないから維持するだけ~
うーん、なかなかグっとくるセリフばかりだ。思わず強くうなずいちゃう人も多いのでは。
2014年9月8日月曜日
音楽っぽい人
ギターをいじり始めてもうすぐ1ヶ月。当然だが、ちっとも弾けない。楽しくないわけではないが、ちょっとストレスも感じる。
毎日5分でもいいから触ろうと心がけている。そんなことが妙なプレッシャーになって結構煮詰まっている。
バカである。
酒場にいても泥酔はできない。とっとと帰って練習しなければという思いが、「もう一杯ちょうだい」という一言にブレーキをかける。
銀座のクラブなんかちっとも行ってない。お世辞言われてニヤニヤしたり、美女を口説いている余裕など今の私には無い。
まあ、そんな偉そうなことを言っても、帰宅後の練習はどんなに長くても1時間が限界である。30分、40分程度で指が痛くなって肩も凝っちゃって終了する。だから上達しない。
う~ん、ビミョーである。
ギター教室も一応続いている。講師の若者はどうしても理論的な話をすることが多く、座学チックな時間が苦痛である。
先日も楽譜の読み方に随分と時間が割かれた。そりゃあまあとっても大事なことだろうが、自分としては何となく違和感もある。
知らない曲だろうと譜面を見ながら演奏できるようなレベルを目指しているわけではない。自分が好きな曲をポロロンと弾けるようになることが目標である。
何をハショっていいのか、どの部分に特に力を入れるべきか、そのあたりがサッパリわからないので結構ストレスである。
先日は、中学生の娘に二分音符だの四分音符だのを改めて教わった。ちょっと感動した。ウルウルしそうになった。
小さい頃、肩車するとハシャいでいた娘がいっぱしの顔して父親にモノを教える。エラそうに父親の無知を責めたりする。
う~ん、何とも素敵な光景である。
こっそり感激して嬉しい気分に浸っていたから、教わったことはちっとも頭に入らなかった。マヌケである。
さて、わがオヤジバンドの次回ライブは12月初旬だ。まだ先の話だが、感覚的には割とすぐに当日が近づいてくるのだろう。
さすがに今回は私がギターを演奏する予定はない。まかり間違って、あと3ヶ月でコードチェンジがいくつか出来るぐらいになったら、一応、会場に持参してステージに置いておこうとは思っている。
他のメンバーのソロタイムにバックでちょろっと鳴らすぐらいには上達したい。でも、そんな予定を立てちゃったらストレスで脳ミソが破裂しそうだからイヤだ。
今回のライブでは、わがアコースティックバンドのリーダーが掛け持ちでやっているロックバンドとのコラボも予定している。
前半数曲をそのロックバンドが担当する。その後、われわれ漫談バンド、いや、アコースティックバンドが登場して、その卓越した技量と繊細なハーモニーと緻密なMCで会場を感動の渦に包み込む。
そして最後の2曲ほどはロックバンドと融合してスーパーテクニックの応酬である。おそらく会場が感涙で洪水状態になるほどの歴史的かつ革命的なライブになる見込みだ。
書いていて恥ずかしくないのかと叱られそうだから適当にしておく。
先日、そのロックバンドの練習を覗きに行った。正直、ビビった。うまいし迫力満点だし、思っていた以上の完成度である。
TOTOとかポリスとかドゥービーとかだ。世代的にハマル人ならノリノリになること請け合いだ。今の段階であの仕上がりだから本番当日は想像以上にカッコいいはずだ。
前座だろコラ!とか言っていたことを心から反省して土下座しておいた。我々のバンドのほうが前座っぽいかもしれない。
う~ん困った。せいぜい、今からウケ狙いのMC構成を必死に考えようと思う。
ちなみに、そのロックバンドのベース奏者は私とは中学高校の同級生である。
彼とは高校3年の時、1日だけの即席バンドに加わってもらったことがある。その時は成り行きで直前に参加してもらったのに、本番当日はチョチョチョイっと余裕でプレイしてくれた。
高校生離れした技量を持っていた彼である。スタジオ練習を覗きに行って約30年ぶりに彼のベーステクニックを見たが、やはり相当カッチョいい。乞うご期待って感じである。
スタジオ練習が終わった後に行った飲み屋では、ベーシストの彼と久しぶりに話が弾んだ。
旧友だからすぐに昔の感覚に戻れるのだが、そこに音楽の力が加わったから妙にハシャいでしまった。
聞くところによると彼のセガレは8歳にして既にドラムを叩けるそうだ。凄いことである。やはり、音楽って血筋とかセンスも関係しているのだろうか。
わがバンドのリーダーも妹さんはプロのチェリストだし、もう一人のメンバーも兄弟揃ってギターを余裕でこなす。
私の場合、親兄弟、親戚一同ひっくるめて「音楽っぽい人」はまるで存在していなかった。うーん、それって大きな問題である。
ギターがちっとも上達しないことを生育発育環境のせいにしようと企むダメな私である。そんなことではいけない。ダメよ~!ダメダメ!である。
挫折しない程度に頑張ろうと思う。50歳を迎える頃には遅ればせながら「音楽っぽい人」になっていたい。
2014年9月5日金曜日
デブの日常
デブ。実に重ったるい言葉である。音の響きからイヤだ。デブ、デブ、デブ・・・。書いているだけで憂鬱になる。
もともと私は太りやすい体質ではないはずだったが、運動しない中年だから代謝機能は機能不全に陥っている。
それだけならまだしも、相変わらずドカ食いをすることがあるので、すぐにデブになる。
デブ。実にイヤな言葉である。「でっぷり」が語源らしいが、一説によると「二重あご」、すなわち「ダブル・チン」をカッコつけて発音した時に「デブチン」になり、それが省略されて「デブ」になったいう説もあるそうだ。
この画像、なんとも言えない悲しい風情を漂わせている。見ているだけで切なくなる。「夢は枯れ野をかけ廻る」って感じだ。
極上鰻重の上だけを食べちゃった後の風景である。デブだから御飯を全部残したわけではない。
珍味で一献、白焼きで一献、肝焼で一献、酔ってきた頃合いで鰻重が登場。飲み足りなかったから蒲焼きをツマミにまた一献。
冷めないように蒲焼きを一口かじるごとに蓋を開け閉めしながらダラダラ冷酒を楽しんだ。
さあ鰻重だ!と意気込んだ時には無残にもお重の中は荒れ野のようになってしまった。
バカである。
もちろん、この後、追加のタレと漬け物で半分ぐらいはワシワシと食べた。だから、「もったいないぞバカ、死ね!」などという罵詈雑言は勘弁願いたい。
注文の際に「御飯は普通の半分で!」と言っておいたのに、仲居さんが伝え忘れてしっかり盛られちゃったのだから、私のほうが被害者だ。
本当はペロッと食べたい御飯を、たとえ半分だろうと残すのは非常に辛い。デブだから我慢するのが本当にシンどい。
つくづく細いクセにドカ食いしても太らない体質の人を羨ましいと思う。そんな身体が欲しい。そんな身体が手に入るなら1千万だって払う。ローンを組めば何とかなるだろう。
ちなみに、1週間後に惑星が衝突して地球が滅亡するとなったら、私のドカ食いは異常なレベルに達し、1週間も待たずに内臓が破裂したりして死んじゃうと思う。
先日、久しぶりにホテルニューオータニにある「トレーダーヴィックス」に行った。カロリーの高そうなカクテルが何十種類もある店だ。
調子に乗って高カロリーカクテルをグビグビ飲みながら太りそうな食べ物ばかりむさぼってきた。
前菜の段階でスペアリブをかじり、サラダとは名ばかりのコッテリコテコテのシーザーサラダも食べる。
ヘルシーで低カロリーなラム肉のローストである。メインがこれなら太らずに済む。ツマミもアレコレ食べたから、これで充分である。
でも、なぜか「焼きそば」が登場する。この店では、5千円もする「皇帝焼きそば」なる名物があったのだが、メニューが変わってしまって、この日はサンバル焼きそばという辛い一品にした。
辛かろうが甘かろうが、炭水化物サマである。デブはどうしてこういうチョイスをしちゃうのだろうか。
前菜に野菜料理、サラダはノンオイルドレッシング系、メインは魚、炭水化物はノーサンキューって意気込みじゃなきゃ痩せるなんて夢のまた夢である。
別な日、子ども達が遊びに来た際には、夕飯を出前で済ませることにした。イマドキの出前は子供が喜ぶようなメニューが数多く用意されている。
上の子はオムライス、下の子はパスタを御所望である。太りそうなラインナップだ。困ったことに、私だってその手の食べ物は大好きである。
あとあとクルマで送り返すから酒は飲めない。必然的に私もツマミでチビチビというわけにはいかず、その手の太っちょメニューをガッツリ食べるわけだ。
おまけにハッスル父ちゃんとして余計なメニューも注文してしまう。結局、腹八分目ってわけにはいかない。楽しい気分でガシガシ食べる。
食後はハーゲンダッツである。子供が残したジンジャエールも飲む。なんだかんだ高カロリーである。
子ども達は身長がぐんぐん伸びたりタテ方向に成長するが、私の場合は間違いなくヨコ方向に成長する。
つくづくデブになるのは簡単だ。本気で痩せたいなら無人島で2週間ぐらい暮らすぐらいの覚悟が必要だ。
真剣に検討してみようと思う。
2014年9月3日水曜日
不倫の本質
ドロドロの不倫ドラマ「昼顔」にハマってしまった。話題になっていたのは知っていたが、連ドラを途中から見る気にもならず放っておいた。
ところが、アチコチで話題になっているし、ついには、中学生の娘がやたらと面白いと絶賛していたので、今までの放送分をインターネットで全部見た。
いやあ、面白い。キムタクのドラマより百倍面白い。エゲツない大人の現実がテンコ盛りだから娘には見て欲しくないが・・・。
その昔、「金妻ブーム」が起きたように、世の中の人は実は「不倫大好き」である。変な言い方だが、昔から「ヨロメキもの」がヒットするのがその証である。
もちろん、実践するしないは別である。社会的に否定される行為だが、いじらしい恋愛という側面もあり、何ともいえない「やるせなさ」に多くの人がシビれる。
不倫モノがブレイクするのは、ある意味「寅さん」が国民的映画になった構造と同じだ。
寅さんが大人気になった昭和の高度成長期は、みんなが生真面目に秩序を守って我慢しながら生きていた。
寅さんは正反対だった。勝手気ままに生きている。駆け引きにも無縁で、口から出る言葉も潔い正論ばかり。
息苦しく生きていた多くの人達が、寅さんに憧れて夢を見た。自分には許されない勝手な気ままな生き様を寅さんに投影した。
最終的に寅さんはふられてばかりで常に残念な結末を迎える。ここがミソだった。寅さんが幸せになることは、世の中に横たわる秩序を乱すことになる。
結局、真面目に生きなきゃね、落ちこぼれちゃダメね、という反面教師役を寅さんに担わせることで一件落着という仕組みだった。
そういう意味では、今回の「昼顔」もドロドロしたまま後味悪くエンディングを迎えた方が世のためなんだと思う。
個人的には、不倫賛美にもっていくような大英断に期待したいが、それはさすがに無理な相談だろう。
不倫に走った男女がハッピーになったら、ドラマに感化されたバカが増えて世の中がおかしくなってしまう。
それにしても、このドラマ、女性からの支持が圧倒的らしいが、男こそ見るべきだと強く思う。
女性のしたたかさ、怖さ、二面性などが妙にリアルで恐ろしいほど参考になる。
男と女は根本的に違う生き物である。理解しようと思ってもムダである。いかに上手に協調するか、いかに折り合いをつけるかを考える以外に平和に暮らす道はない。
親子や兄弟ならともかく、夫婦なんて結局は他人だ。衝突を避けるために一生懸命考えて知恵を出し、時に方便も遣いながら凌ぐしかない。
つくづく、独り者になった自分の境遇に安堵すると共に、一方で変な物足りなさも感じる。家庭があった頃の方が、いろいろと複雑に考えていろいろとハラハラしながら過ごしていた。
あの頃の方が脳みそはフル回転していた。ボケ防止のためにはそっちのほうが良かったかもしれない。
おっと、話が逸れた。
不倫である。「倫理にもとる」である。言葉の字面が強烈だ。あまりに一面的ではなかろうか。押さえつけようとする社会の強い意志を感じる!?
真面目な恋心があっても、どちらかが既婚なら不倫の一言で片付けられてしまう。まあ、社会秩序の維持のためには仕方がない。
不倫の形って、だいたい次のように分類できる。
(1) セックスだけが目的の遊び
(2) 癒やしや憩いの場所を求める関係
(3) 自己確認型
(4) すべてを捨てて一からやり直す純愛
不倫だ不倫だと騒いでみても、大半が(1)のパターンだろう。ただ「ヤリたい」だけ。
これは不倫というより、単なる「浮気」ってやつである。いや、気持ちなど無いから浮気ではなく「浮身」といったほうが的確。
これだと風俗に通うのと変わらない。継続した相手がいたとしても「不倫相手」ではなく「セフレ」と呼ぶのが正しい。
(2)のパターンも結構多い。刺激のない日常にスパイスが欲しいとか、ただ満たされない感覚を埋めたいとか、そういう気持ちの色恋だ。夫婦仲が悪けりゃ誰だってこのパターンに陥る可能性はある。
(3)も結構多いように思う。ドラマ「昼顔」で吉瀬美智子が演じている主婦もこのパターンだろう。段々と年齢が上がっていく焦りが奔放な行動につながっている。
世の中のオッサン連中もこのパターンが多い。40代、50代になり、人生が見えてきてしまった時に、「このままでいいのか」、「もうひと花咲かせたい」などとジタバタしたくなる。
恋愛にかこつけて、本当は自分がまだ現役として通用するのかを確認したいだけだったりする。
(2)や(3)のパターンがもっともドラマや映画にしやすい。おきまりの葛藤やゴタゴタが人間の業みたいなものを表わすからハタで見ていると面白い。
激しい恋愛感情を抱いたつもりでも、結局は、現実からの一時的な逃避だったり、自己確認型である以上、家庭を壊すことはない。つまり、不倫相手と正式に一緒になろうとは考えていない。
場合によっては、相手への贖罪意識がかえって恋心を高ぶらせて、ドラマチックな恋愛をしているかのような錯覚につながる。でも、非日常という事態に酔っているだけだったりする。
元の暮らしを投げ出すつもりがない自分のズルさも自覚している。そんな勇気の無さを苦しさや切なさだと勘違いする。結局、相手への罪悪感を恋愛感情とごちゃ混ぜにしてしまう。
そんなもんだろう。
もちろん、胸を張って「私の不倫活動は紛れもなく純粋な恋愛です!」と言う人はいっぱいいるはずだ。確かにそう信じているのだろうし、中には本当にそんな美しいパターンもあるだろう。
でも、終わった後に振り返れば、しょせんは上記の(2)や(3)でしかなかったというケースが物凄く多いのが現実だと思う。
本当に惚れ抜いて、何もかも捨てて一からやり直すような凄い不倫話は、私の周囲では見たことも聞いたこともない。
そんな純愛みたいな話は滅多にありえないから、アノ「失楽園」が大ヒットしたのだろう。
「不倫の果てに結合したまま死ぬ」という衝撃のエンディングは、一種のファンタジーである。大人にとっては「夢一杯のスペクタクルロマン」だ。
退屈な日常にウツウツとしている中高年にとっては、美しく思えちゃうのだろう。現実には心中なんて美しいはずもなく、発見が遅れれば見るも無惨なおぞましい姿をさらすだけ。
まあ、そんな域まで到達すれば、不倫関係も立派なものだ。ロミオとジュリエット顔負けの美しい恋愛ということになるのかもしれない。
今日は、例のドラマ「昼顔」の名セリフを紹介したかったのに全然違う内容になってしまった。
近いうちにそのネタを書こうと思う。
2014年9月1日月曜日
皮下脂肪と秋の空
奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の
声きく時ぞ 秋は悲しき
百人一首のなかでナゼか子供の頃から好きな歌だ。子供でも素直に情景が浮かぶから印象に残ったのだろう。
秋を端的に象徴する歌だと思う。落ち葉を踏む音、鹿の気配、きっと空は薄曇りだろう。う~ん、なんとも情緒がある。
9月である。秋が近づいてきた。暑さから解放されるのが素直に嬉しい。秋が近いから、風流ぶって百人一首を引用したくなってしまった。
最近、遅くまで飲み歩くことが減った。その分、自宅マンションのベランダで葉巻をふかす機会が増えたのだが、聞こえる音も徐々に変わってきた。
夜になっても思い出したように短く鳴くセミの音色はすっかり無くなり、秋の虫が情感溢れる音色を聴かせてくれるようになった。
夜の葉巻タイムでは、蚊取り線香を焚くようにしている。あの香りと秋の虫の音色が混ざり合うと、目をつぶったままで夏の終わりの独特な情感が味わえる。
秋が本番になる少し前ぐらいには「ニッポン情緒が溢れている場所」に行こうと企んでいる。安芸の宮島、飛騨高山、あちこち頭に浮かぶ。
まあ、結局は手軽に行ける京都でいいか。電車で1本だし。秋の気配を感じると無性に行きたくなる。鞍馬、貴船あたりをブラブラしようと思う。
さてさて、芸術の秋とかスポーツの秋、読書の秋など、秋はやたらと騒々しい。まあ、私の場合は食欲の秋が一番ピンとくる。
ほ乳類としての正しい本能である。
文明社会で生きていると、つい忘れてしまうが、ほ乳類にとって秋とはどういう意味合いの季節かご存じだろうか。
答えは簡単だ。秋は冬に備えて皮下脂肪を蓄える季節である。それが真実である。
だから食べないといけない。
画像の土瓶蒸し、今年の初モノは8月10日に食べた。かなり早いが、秋を恋い焦がれる私にとっては嬉しい瞬間だった。
生のイクラ。これも私にとって秋を告げる大事な風物詩みたいなものである。こちらは8月19日に初モノに遭遇した。
食べ物日記をつけているわけではない。画像の詳細データのおかげで日時が特定できるわけだ。便利なことである。
これからの季節、皮下脂肪を貯めようとする本能のせいで、放っておいても太るのに、既に体重は過剰気味である。
一応、予定のない日はムダなカロリーを摂取しないように炭水化物を抑え気味にしている。
焼鳥屋に行っても皮は食べずに「ナンコツ」と「ササミ」を中心に攻めてみる。
でも、酔っ払ってくると、「ウズラ卵のベーコン巻」などという恐ろしい一品を頼んじゃって台無しになる。
酒の魔力ってホントに凄い。気が大きくなるというか、投げやりになるというか、「ASKA被告」のような間違いを犯してしまう。
先日、寿司屋で飲んだ際、握りを食べず、低カロリーのツマミ中心で切り抜けた。勝ち誇ったような気分で帰宅したのだが、一枚のチラシのせいで私は一瞬にして「ASKA被告」になってしまった。
「マック・デリバリー」という恐ろしいチラシだった。私の場合、酔っている時に空腹だと無性にジャンクフードが恋しくなる。
30代の頃は、寿司屋の後は決まってマックに立ち寄りフィレオフィッシュを何個もむさぼるように食べていた。
そんな悪夢を振り払うためチラシは捨てたつもりだったのだが、ナゼかマックデリバリーはやってきた。誰が注文したんだろう。多分オレだ。
ダブルクォーターパウンダー、ビッグマック、エビフィレオ、フィレオフィッシュが深夜のわが家にやってきた。
なんでまあ、そんな高カロリー系ばかり頼んだのだろう。誰のシワザだろうか。多分オレだ。
実に素晴らしいサービスだが、シュッとしたスタイルを目指そうと夢を見ている私にとっては、ホントに迷惑なサービスである。
アカデミックに百人一首の引用から書き始めてみたが、結局は「デブまっしぐら」という話になってしまった。
秋である。