2012年4月27日金曜日

野球

昭和の時代、娯楽と言えば野球だった。ちょっと大袈裟な表現だが、野球の存在感は今とは比べられないくらい重かった。

今でこそスポーツ新聞といえば、サッカーやフィギュアスケート、ゴルフに芸能など1面を飾る記事は百花繚乱だが、昔は野球新聞と表現する方が的確だった。

男の子の話題は当然野球一色。オッサンが飲み屋で熱くなる話題も野球が中心だった。

私自身も野球小僧だった。軟弱中学の軟弱野球部だったが、部活選びに躊躇はなかったぐらい野球のことしか考えていなかった。

オッサンになって当時の野球の話題を語り合える場面があると熱くなる。長島が引退する頃から俄然野球オタクになり、昭和4050年代の野球事情は相当詳しいと自負している。

好きが高じて、遙か昔の野球事情なんかにも詳しくなり、戦前の沢村栄治だの影浦勝だのスタルヒン、その後に続く川上、水原時代とかも興味を持った。

今日、こんな話を書き始めたのは、先日、銀座のおでん屋で飲んでいた時に店主とひとしきり往年の野球談義に花を咲かせたことがきっかけだ。

店を訪ねる数日前、某週刊誌に某小説家が連載しているエッセイに、たまたまこの店の話が取り上げられていた。

結構なお年の店主をめぐるいろいろな事情が書かれていたのだが、その中で、若い頃は本格的に野球に打ち込んだ人だということを知った。

その日、ちょうど店主の目の前に座っていたので、ほろ酔いついでにエッセイに書かれていた野球の話題をふってみた。

少し近寄りがたい雰囲気もある店主なのだが、そこは野球好きだ。一気に柔和な表情になって、しばし野球談義に付き合ってくれた。

店主は往年の東京六大学野球に青春を賭け、大学卒業後は社会人野球に進んだそうだ。ヘッポコ中学野球部の私から見れば雲の上の人である。そんなことは百も承知で昔の野球事情なんかを聞かせてもらった。

昭和30年頃の六大学野球といえば、プロ野球を凌ぐ国民的スポーツだったことは知識としては知っているのだが、その渦中にいた人だけに興味深い話をたくさん聞くことが出来た。

立教の黄金時代と若き長島茂雄の卓越した才能とか、早慶戦での藤田元司の悲運とか、好き者には面白い話ばかりだった。

六大学野球だけでなく、昭和プロ野球の悲運の名将・西本監督の話題とか、怪童・尾崎の甲子園旋風の話題、はたまた昭和20年代に親善野球で来日したサンフランシスコ・シールズの試合を生で見た時の経験談なんかも聞かせてもらった。

今ではメジャーリーガーを大量輩出する日本の野球界だが、マイナーリーグのチームに過ぎないシールズ相手に全敗を喫したのだから隔世の感がある。

野球を語るその老年の店主は、実にイキイキとした表情で、白球への思い入れは思った以上に強い様子だった。いい時間だった。

それにしても、野球好きが野球を語る時の眼ってどうしてキラキラ輝くのだろう。今日はそれを書きたくてこのテーマを選んだようなものだ。

一個の小さなボールを投げて打つスポーツがこれほどまでに男たちを熱くさせる理由は何なんだろう。

攻める、守る、連携する、牽制する。失策は敗北につながったりする。時には敵をあざむいたり、盗塁という名の盗む行為とか、犠打という犠牲的行為もある。

代打、代走など身代わりの行為、中継ぎとか救援という役割、隠し球なんていうズルっこい行為もある。

人生の縮図などと言うとちょっとキザに過ぎるが、一つ一つの行為の相関関係や意味が複雑に絡み合うところが見る者を熱くさせるのだろう。

練習の基本であるキャッチボールだって、大げさにいえば実に深~い教訓がある。

失投、すなわち自分のミスの尻ぬぐいはキャッチボール相手が担うハメになる。アッチのほうに転がっていった球を拾いに行くのは失投した人間ではない。受け手だ。

迷惑をかけないような気配りを伴うやり取りができなければ成り立たないのがキャッチボールだ。うーん良い話だ。

エラそうに書いたが、そんな当たり前の真理を知ったのは30代の頃にしばらく熱中した草野球のおかげだ。

子どもの頃、生意気ピッチャーだった私は、エラーする仲間をマウンド上で叱ったり、全部自分で決めてやろうと気負ったり、傍若無人クンだった。

その愚かさに大人になってから気付くこと自体が情けないが、大人になってからの草野球のおかげで改めて野球が教えてくれる様々なことに気付いた。

いにしえの野球に心振るわせた体験を無心になって熱く語る。こんな子供っぽい時間は貴重だ。日頃の現実を束の間忘れさせてくれる。

最後にオススメの一曲を紹介します。

2012年4月25日水曜日

結婚 未婚 離婚 再婚

最近、続けざまに未婚男と飲む機会があった。未婚といっても、わざわざそう表現するのだから中年男だ。ともに40代半ば。江戸時代だったら隠居の身分だ。

片方の男は、意中の人がいるらしいが、相手がちょっと消極的で、せっせと自分から追い込もうとしている。

もうひとりは、泰然自若に見えながら、お見合い的な工作に幾度もトライしてブツブツ文句を言っている。

二人とも要するに結婚したいらしい。

大丈夫か!今の幸せに気付いた方がいいぞ!っと言いたいのが私の本音だが、本人達は一度は結婚生活を経験したいらしい。

そういうものだろうか。

その一方で、中年になると、周囲に結婚3回目とか4回目とか、これまた偉人みたいな人が出てくる。それはそれで凄いことだと思う。

何度も結婚し直す人をバカにするのは簡単だ。実際、さほど頭が良くないのだろう。いやいやそんな失礼なことは言えない。

逆に人間としてとても素直で純粋で愛すべき人物なんだと思う。これはお世辞ではなく、本心からそう思う。

親子関係とは違って、夫婦は他人である。他人同士が一つ屋根の下で何十年も暮らしていくことは生半可なことではない。ギクシャクして当たり前だ。

結婚生活の基本は忍耐と我慢と妥協である。基本というより、むしろそれしかないのが現実だろう。

たった一度の人生、忍耐と我慢と妥協に甘んじることを良しとしない極めて健全な発想が仕切り直しを選択する。ごく自然な発想だ。

仲良し夫婦なんてものは、奇跡的なほど相性が良かったか、前世で悲恋関係にあったことを神様が憐れんだかのどちらかだろう。

仲良しではないものの、何となく日々をやり過ごしている大半の夫婦は、忍耐と我慢の中で生まれたあきらめを同志的連帯感と思い込んで漫然と日々を回している。

離婚するエネルギーや面倒臭さは、確かにそれを思いとどまらせるぐらい厄介だ。多くの夫婦が踏みとどまっているのも、そこに最大の理由がある。

だからこそ何度も結婚をやり直す人は、エネルギッシュで純粋で一本気で、正直で真っすぐな人だと思う。ホメ過ぎか。でもそれが真実だと思う。

世間様というヤツは厄介なもので、あーだのこーだの屁理屈をこね回して、忍耐と我慢と妥協をしないことを罪悪視する。

「家庭を守れないようじゃ出世しない」、「裏切り者と呼ばれたいのか」、「老後に悲惨な目に遭うぞ」とか実にウサン臭い言われようだ。「夜に口笛吹くとヘビが出る」ぐらいのテキトーな話だろう。

わが敬愛するハマショーも「疲れたどり着いた家、窓の明かりまるでダイアモンド~」なんて歌詞を叫んでいたが、私にとって、深夜に帰宅した際の窓に灯る明かりは不整脈の元である。

おっと脱線した。

もちろん、社会秩序を保つためには協調性が大事であり、社会の最低単位である家庭というものが渋々でも維持されていなければ世の中が不穏になってしまうのだろう。

古今東西、あらゆる角度からの協調性とやらの押しつけで、多くの家庭が何とか維持されているわけだが、それをモノともせず何度も結婚をやり直す人は、クドいようだが私に言わせれば偉人だ。

だいたい、結婚式という儀式自体、舞い上がっている当事者達をマインドコントロールする作為がプンプンである。

神様に永遠を誓うという行為自体が、オドシみたいなもんだ。親戚、知人、友人からお金をもらってまで小っ恥ずかしいセレモニーを見せることで「簡単にヤメちゃいかんぞ」と無意識のうちに洗脳される。

その先に待っている現実が想像以上に大変だからこそ、最初の儀式の段階でさもスンバラシイことを成し遂げたかのように錯覚させるわけだ。

なんかキリがなくなってきた。

こんなことをグダグダ書いていると、普通の人は不快に感じるんだろうなあ。

でも、その「普通」ってやつが厄介なんだと思う。

「フツーはこうなんだ」、「フツーはそれが当然」等々。フツーフツーの押しつけが世の中を息苦しくしている。

今日は爽やかさのカケラもない話題でスイマセン!

2012年4月23日月曜日

生田與克さん 魚食

世界に冠たる魚市場・築地を題材にした本を読んだ。著者は生田與克さん。軽妙な語り口で最近はテレビにも引っ張りだこの御仁だ。

実は生田さん、わが母校(小、中、高)の3年先輩にあたる。私の兄が彼の同級生だったせいで、当時からいろいろと可愛がってもらった。


今では、築地の案内人としての範疇を超え、いわば「魚食文化の伝導師」というポジションを確立した人だ。

多くのテレビ番組で築地や魚事情を語ったり、料理番組では気の効いた魚料理を手掛けてみたり、ネットテレビでは自民党の番組の準レギュラーみたいな立場で、あの石破さんあたりと丁々発止のやり取りまで見せている。

先日は、NHKの「視点・論点」というすこぶるお堅い番組にも登場。ひとりカメラに向かって自説を展開する番組だが、時折ベランメエ調が混ざるような話しぶりに失礼ながら大ウケしてしまった。

マグロの仲卸商の3代目として怒号渦巻く築地に入り、はや30年。子どもの頃のパワフルさに拍車がかかった勢いで、正しい魚食の在り方を伝えていくために八面六臂の活躍中だ。

幾多の著作があるなかで、私が今回読んだのは「たまらねえ場所・築地魚河岸」(学研新書)。学術的なイメージが強い新書だが、さすがに生田さんの本だけに一貫して独特の「よっちゃん節」に彩られている。

クスクス笑いながらアッという間に読み終え、おまけに読後感は痛快そのものといった感じだ。

魚河岸の歴史、時代による人気の魚の変遷や「生で食べる」という独特の文化を背景にした魚の扱い方や旬の大切さなどが、軽妙なタッチで綴られている。

笑えるエピソードも満載だ。魚河岸見学に来た「ジャン・レノ」を「ジョン・レノンぐらい知ってらあ」と言うオッサンや、「ハム・トンクスとかいう肉屋の特売みたいな俳優が来た」と語るおっちゃん達の日常も紹介されている。

ブランド魚信仰の愚かさ、鮮度だけでは計れない魚のウマさ、評価が上がってきた輸入モノの実態、大型スーパーに駆逐されてしまった街の魚屋さんの果たしてきた役割など、言うなれば日本人なら知っておくべき魚食の基本が手に取るように分かる内容だ。

ちなみに本業の他にテレビ出演や原稿執筆、講演活動などを精力的にこなす生田さんの睡眠時間は3時間ぐらいだそうだ。

年中寝不足だからいつもハイテンションなのかと邪推してしまうが、そんな生田さんが最近力を入れているのが「魚食スペシャリスト検定」。

昔に比べて飛躍的にインフラが整備され、「魚を美味しく食べたい」という願いが手軽に叶えられるようになったにもかかわらず、間違った情報などもあって逆に「魚離れ」が進んでいるのがニッポンの食卓の現状だ。

嘆かわしい現状は、突き詰めれば日本人の精神性の崩壊にまでつながりかねないと危惧する生田さんの思いが、「NPO法人・魚食文化の会」につながり、「魚食スペシャリスト検定」は、この5月に7度目の試験実施を迎える。

http://www.gyoshoku.com/?p=448

うーん、なんかここまで書いてきて生田さんの人物像が、優等生的なカタブツになってしまったようで気に入らない。

実際の生田さんは、ファンキーモンキーベイビー?みたいな人で(スイマセン)、まわりにいる人を爆笑の渦に巻き込む超絶的に愉快な人だ。

先日、私の兄の家で花見を兼ねた大宴会があったのだが、生田さんは美味しい魚介類をドッサリ持参してくださった。私も鮑を丸かじりさせてもらったり、マグロのカマのバーベキューや、生ウニやトリ貝、マグロのスジの塩炙りなんて珍味も御馳走になった。

地声のデカさは築地生活で更なる大音量になって豪快そのものだが、その実、宴会でも目配り、気配りがすこぶる細かい。

「イキな男」は気配り上手と同義語なんだなあと改めて思い知らされた時間だった。

誇るべき先輩・生田さんは、有難いことにこのブログを時たま覗いてくれているそうだ。

珍味食いばかりの日常なのでちょっと恥ずかしいが、「おまえも随分、食い物が分かってきたねえ」と誉めてもらって素直に嬉しかった。

プロ中のプロに更に認めてもらうために「魚食スペシャリスト検定」に挑戦しようかと思案中だが、落っこっちゃったら格好つかないからウジウジしている。

今度、築地で寿司を御馳走になる時にでもワイロを使って裏口合格を相談してみようと思う。

2012年4月20日金曜日

結局、珍味ざんまい

最近、血圧が高めだ。黒酢のおかげで、以前よりだいぶ下がって標準よりやや高めで推移していたが、このところ計るたびにチトやばい水準。

いろいろ探ってみた。血圧を上げてしまう食べ物のせいだろうかと思ったが、そんなものは無いらしい。要は塩分過多だ。カッコつけて言えばストレスも一応原因のひとつかもしれない。

ストレス解消のためには、好きなモノを食べて良い気分に浸るべきと考えて、先日、銀座の「九谷」に珍味を食べにいった。

珍味は塩分過多の最たる食べ物だ。どうしてそういう選択をしてしまうのだろうか。仕方がない。近いうちに医者に行って、いよいよ降圧剤をもらう決意を固めたから大丈夫だろう。

さて、「九谷」だ。銀座7丁目に構える北海道直送ネタを数多く揃えるお寿司屋さんだ。私にとっては、店主がこしらえる物好き?としか言いようのない珍味類が好きで時々顔を出す店だ。


季節柄、鯛の登場だ。といっても、さすが珍味屋だけのことはある。鯛の卵とキモの登場である。ポン酢風味のタレに漬けた珍味好きにはうっとりする一品だ。冷酒が進む。

こちらの店主は休みの日でも珍味作りのためにせっせと店で仕込みを続けているらしい。いつ行っても自家製の珍味があれこれあるのは、珍味創作を面白がってこなす店主の特殊な?性向によるものだろう。実に素晴らしい。

そうは言っても、場所柄、お客さんの多くが、同席者と延々と話し込むだけだったり、ポケーっと出されるものを寡黙に食べていたり、この店の「珍味道」の何たるかを分かっていないように見える。実に残念である。


赤貝のキモを醤油漬けにして串焼きにした一品が登場。キモ特有のネチョっとした舌触りに貝ならではの磯の風味がまとわりついて最高だ。なかなか芸が細かい。今の時期だけの貴重な一品らしい。

いつもかなりの数の珍味小皿を出してもらうのだが、最初からウットリする肴が出てくるせいで、酔っぱらいモードに突入するのが速い。ついつい何を出してもらったか忘れてしまう。


釣りのえさに使うイトミミズではない。ナマコの卵巣だ。「くちこ」とか、「このこ」と呼ばれる珍味業界のエース級だが、こちらの店では、からからに干してしまうのではなく、柔らかい食感のまま軽く炙って出してくれた。しょっぱ過ぎない味付けも良い。

なんだかんだ言って卵巣である。卵巣と聞くだけで興奮する。さすがにエロティックな珍味だ。やはり日本酒が進む。飲みすぎる。



他にも珍味を堪能しつつ、握りもいくつか食べた。画像はスジコとエボダイ。伊豆あたりの干物でお馴染みのエボダイは、桜の葉っぱがアレンジしてあった。淡泊な白身に桜の香りがしっかり反映され季節感たっぷりだった。

漫然と新鮮ピッチピチの生魚を乗っけるだけのことが多い北海道系のお寿司屋さんとは一線を画す仕事がこの店の人気を支えているのだろう。

この日は、おおすけ、ますのすけなどと称される上物の鮭もあったので、しっかり堪能。塩分摂取はどうしても高めだ。

魚卵とかキモといったヘンテコ系を求めてしまう私にとって、お寿司屋さんは塩分過多になりがちな場所だ。

ということで、お寿司屋さん通いが続くと、健康のため?に焼鳥屋あたりで内臓を休ませようと決意する。

鶏肉は、牛や豚に比べれば、尿酸値を悪化させるプリン体含有量が少ない。痛風予備軍には有難い食べ物だ。でもあの塩の振り方は塩分バリバリだ。なるべく塩を振る場面は見ないようにしている。

鶏肉自体はヘルシーなのは間違いないのだが、私が行ってしまう店は、牛レバー、豚レバーよりもナゼかプリン体含有量が多い鶏のレバ刺しを常備してある店。


飯田橋の外れにある「わかば」にて、ハツ刺しなどと一緒に白レバ刺しを頼んで焼酎グビグビ。こちらの店では、白レバ刺しと普通のレバ刺しの両方置いてあることが多いので、ついついどちらも注文してしまう。

結局、血圧が高いの尿酸値が高いのコレステロールがどうしたこうしたと言ってる割には、いつも好みに流されて命を削っている。

意志薄弱なんだろう。

そのうち、一週間だけでいいから連日野菜とかコンニャクだけを食べて身体を浄化させたいと企んでいる。

まあ、無理だろうが、そんな発想が浮かんだだけでも前途有望だろう。

なんとかせねば・・・。

2012年4月18日水曜日

Facebook

機会モノが苦手、コンピュータなんてもってのほかみたいな私だが、インターネットだけはそこそこ活用している。

「ウェブはバカと暇人のもの」という新書が売れているらしいが、私も暇なバカなので、毎日何かしら遊んでいる。

3年ほど前、友人に誘われFacebookに登録した。最初はちっとも意味が分からなかったのだが、昨年の震災の際に、Facebookが強力な通信手段として機能したと聞いて一念発起。前向きにいじりはじめてみた。

で、結構ハマってしまった。

頻繁にどうでもいいことを書き殴っている。お節介なことにサイトから「友達」の可能性がある人を紹介されてビビるが、その人が実際に知り合いだったりするから不思議だ。

また、「友達」が「友達」を紹介してくれたり、実名登録だから、懐かしい旧友が「友達」に名乗りをあげてくれたりする。性質上、一方通行に留まるブログとは違う「相互乗り入れ感」みたいな面白さがある。

使い始めの頃、機能をまったく理解しておらず、自分がアップした内容が「すべてのユーザーに公開」という設定になっていて青ざめたことがある。

勝手気ままに身近な話題をアップしていると、たとえば、あくまで、たとえばの話だが、平日の昼間から酒を飲んでいたり、怪しい場所にシケ込んでいたり、公式?に伝えている出張先とは違う温泉宿にいることが時系列に一目瞭然だ。

危ない危ない。

その後、「友達」に限定して情報が公開されるように設定し直した。そうすればそうしたで「友達」を厳選しないと危なっかしくて仕方がない。

私の場合、どちらかと言えば、不真面目な内容しかアップしていないので、基本的に仕事関係の知り合いはFacebookでは「友達」になっていない。

私の家族にどこかで接点があるような人もなるべく除外だ。社会平和のためには仕方あるまい。一度、「友達」になってから、コソッと除外させてもらったこともある。

「池袋の居酒屋で部下の深刻な相談に乗っていた」と言っておきながら、その日、その時間にFacebookには「やっぱり露天風呂とサウナは最高だ」なんて内容をアップしているわけだから始末が悪い。

会社や家族だけではない。「仕事が多忙で夜の街には出られない」と言っておきながら、毎晩のようにネオン街事情をFacebookにアップしていれば、アチコチから「うそつきバカやロー、さっさと店に顔を出せ」と脅迫にも似た営業攻勢を受ける。
油断大敵だ。

結局、「友達」は限られた知り合いばかりという状況に陥り、「震災に備えての通信手段」という当初の崇高な目的とは随分違う感じになってしまった。

それでも、30年ぶりに接点を持った旧友がたまたま沖縄でダイビングショップを経営していて、そっちの話題で情報共有できたり、小学校以来、消息を知らなかった旧友がバリバリのプロミュージシャンになっていたことに驚いたり、なかなか楽しい。

先日も高校卒業以来、没交渉だった友人とFacebookで再開し、彼と一度だけ組んだバンドもどき?で演奏したオリジナル曲の話題で盛り上がった。

作詞はなんと私だ。こっちが忘れていた歌詞を彼はすべて記憶しており、その小っ恥ずかしい詩をすべて教えてくれた。実にビミョーかつ残念なその内容に卒倒しそうになった。

妙に飲み会も増えた。Facebookのおかげで付き合いが復活した友人と実際に顔を合わせる機会が増えた。あれも一種の「オフ会」と称する集いなんだろうか。

「オフ会」などと聞くとコンピュータオタクの世界の話だと思っていたが、私も立派な「オフ会メンバー」だ。自分がしっかり文明の利器についていっている気がしてチョット嬉しい。

ちなみに、ここ1年ほど、どうでもよい話をアップしてきた中で、いわゆる「いいね!」ボタンを押してもらった数と、コメントをもらった数が一番多かったのは何だろうと見返してみた。

美しき四季折々の旅の景色とか、麗しき我が善行の数々のどれかだろうと思っていたのだが、第1位は「埋もれたい」という一言を添えてアップしたこの画像だった。


私が書いたのは、わずか5文字だ。「埋もれたい」。これだけだ。日頃、アチコチでいろいろ書き殴っているのに、わずかに5文字の内容が第1位だ。

妙に切ない。

2012年4月16日月曜日

食い意地

健啖家だの大食漢などと言われる人の多くが、若い頃、満足に食べたいモノが食べられなかったトラウマで、食に執着を持つようになったという話を聞く。

そう考えると私は何が原因でバカバカと食べたいものを摂取したがるのだろう。

飽食の時代に生まれ育ち、好きなものをさんざん食べまくった有難い環境で過ごしてきたのだから、もう少し上品に食事と向かい合っても良さそうなものだが、どうにもスマートではない。

いったん燃え上がると、腹八分目で済ませることが出来ない。腹十二分目ぐらいになる。

胃が大きいだけでなく、食道が広いから、よく噛まずに早食いしてもつかえることはない。満腹中枢が脳に指令を送る前に許容量以上をかっ込んでしまうことが多い。

ということは、体質のせいだろうか。

いや、単に意地汚いのだろう。「食い意地」という表現があるが、そんな感じ。

ウナギが食べたくなったら、店で一番デカいのを頼みたくなるし、メニューのうち2種類で悩めば結局両方オーダーしてしまう。

回転寿司に行けば、変なネタがいっぱいあって楽しいからアレコレ食べたくなって秘技を繰り出す。寿司をつまんで口に入れる際に瞬時にシャリの多くをむしりとる。コッソリよけたシャリだけで、どんぶり飯ぐらいには軽くなるほどだ。

お惣菜パンを買う時も、いろんな種類を食べたいから買いすぎる。おまけにパンの部分は半分以上残しちゃったりする。

ろくでもない行為だと自覚しているのだが、どうでもいいコッペパンの部分で満腹になったらタマンねえやとばかりに罰当たりなことをしてしまう。

以前、これはダイエットのためだから、泣く泣く実行したことなのだが、出前のピザを注文して、生地をすべて残して具材だけ食べていたことがある。

パイ生地の上だけフォークではぎ取って食べるわけだが、ダイエットといいながら、ワンサカ食べられた気がしてチョット癖になってしまった。

マックのなんとかバーガーとかも、ついついパンだけ残して食べたりするから、結局、三つ、四つと注文するアホバカになってしまう。

こればかりは真剣に反省しないとなるまい。

先日、神楽坂ですこぶる美味しいトンカツ屋さんを見つけた。「あげづき」という名の店。価格も常識的で、肉質も衣も揚げ加減もバッチリだ。

サイドメニューがあまり多くないから、ポテトサラダとかクリームチーズの料理をつまんでハイボールをグビリ。

メインのヒレカツ定食以外にもエビフライをオーダー。運動選手じゃあるまいし、充分な喰いっぷりだ。それで満足しないといけないのにトンカツのウマさに感激して、ロースカツを単品で追加注文してしまった。



よく考えれば分かることなのだが、ウマいと感激して、もう一品追加すれば、当然、出てくるまでには時間がかかる、アツアツが運ばれてくる頃には、しっかり満腹に近づいている。

でも食べる。食べてしまう。そして膨満感が数時間続く。最近は私が出没する場所には太田胃散をキープするようになったぐらいだ。

中毒みたいだ。分かっているのにやめられない。食べ物に恨みのある地縛霊でも憑依しているのだろうか。

別な日、今度は中華をドカ食い。神保町にある「全家福」。何を頼んでも安定してウマい店だ。

この日はガッツリいきたい気分だったのでチャーシューや蒸し鶏、クラゲなどの前菜盛り合わせ、麻婆豆腐、エビチリ、鶏の揚げ物、黒酢の酢豚をオーダー。


こちらの素晴らしい点は、余計なモノを入れていない料理が多いことだ。写真の黒酢の酢豚もそのひとつ。タマネギもニンジンも椎茸もなんにもない。豚だけ。実に潔い。

エビチリなどのエビ系も余計な具と混ぜ合わせずに主役のみが一人芝居をしている感じ。宗教上の理由で野菜を遠慮したい私にとっては天国みたいな話だ。

この日は、腹に溜まる料理ばかりだったのだが、ナントカのひとつ覚えで、チャーハンも頼んでしまう。まあ、ここまではありがちだが、同行者がいらないと言ってるのに五目焼きそばまでオーダーしてしまう。

チャーハンも半分食べて、おまけに焼きそばだ。事前に拒否していた強みで同行者は焼きそばに見向きもしない。

でもウマいから完食してしまった。

そして数時間膨満感との闘い。

本気で自分の学習能力の乏しさが情けなくなる。

ちなみに、誰かと一緒に食事をする場合、ついつい多めにオーダーしてしまう。料理が足りないという状態は、いい年した男が主催する食事の場では恥ずかしいことだと思うから仕方がない。
韓国人のもてなしみたいな話だ。まあ、そんなカッコつけたことを言ってはいるが、実際は私の食い意地が原因だろう。

テーブルの上にアレコレ並んでいると素直に嬉しい。

ただし、世の中には私より少食の人の方が圧倒的に多い。必然的に食べきれない分は私が食べてしまう。その瞬間を待っていたりするから情けない。

酷使され続けている胃腸、食道方面の反乱がいつ勃発するのか気になっている。

2012年4月13日金曜日

おかまちゃん

オネエキャラだかなんだか知らないが、世の中、そっち系の男性が妙にもてはやされている。

正直言って苦手だ。

その手の人を全面的に否定するわけではないが、ああまでも公衆の電波に乗ってグイグイ出てこられるとゲンナリする。

私の感性が古くさいのだろうか。仕方がない。

小学校から高校まで男子校に通ったから、そういう気質の級友は珍しくなかった。それはそれでフツーに共存していた。

変にはやし立てるのは一時的で、その後は、当たり前のことのようになっていた。男女共学だとどういう感じなんだろうか。

高校の学園祭でも、そっち系はそっち系で聖子ちゃん風の衣装を着てアイドル歌謡を熱唱したりしていた。

私自身は、そっち系とは無縁なので、彼?らたちが大人になってどんな生き方をしているかは詳しく知らない。

そっち系といっても、なんとなくナヨナヨしているだけの単なる男も多く、「正真正銘ちゃん」はさすがに少ない。

高校生ぐらいの頃は、同級生達も、その微妙な違いまでは分からず、大人になって再会して「彼」だったのか「彼女」だったのか、コトの真相を知ったりする。

先日「彼女」と飲む機会があった。一緒に飲んでいた友人が酔っぱらって呼び出したら、エステにいたという彼、いや彼女がやってきた。

こっちは出来上がっていたから、ひゃあひゃあ歓迎したのだが、シラフだったヤツは、グイグイ飲み進んで30分ほどで我々に追いついてきた。

追いついたどころか、追い抜かれた感じで、「スペクタル彼女」の完成だ。10代の頃はあんなに可憐でおしとやかだったヤツも、いまは40半ばを過ぎている。

泥酔した中年熟女?だ。あとは想像の通り、横に座っていた母校の後輩の手を握りしめ、気付けば抱っこされてキャーキャー言ったり、みんなでノセてしまえばキスの嵐だ。

その日は、これまた級友が経営する店で飲んでいたのだが、その級友は見飽きた光景にゲンナリしていた。とっとと店を閉めたかったのだろう、憂鬱な表情で我々に軽蔑の視線を送る始末。

昨年だったか、別な飲み会で私もその中年熟女にロックオンされた。この日隣に座るのを避けるぐらいの学習効果はあった。

ロックオンされると、舌は絡めてくるわ、大事なところに手は伸びてくるわ、そりゃあ一大事である。でもヤツからはちょっといい匂いがするから、ついフラフラと身を任せそうになったりする。

小学校の頃から知っている気安さが加わって、危ない領域に近づきそうになる。

恐るべしである。

ヤツは酒を飲むと毎度毎度壊れてしまうようで、常に深夜のタクシーから乗車拒否される。まあ、中年になっていろんな葛藤が渦巻いて制御不能になっているのだろう。

イカした男も年を取ればオッサンだ。カッコいいオネエサンだって年を取ればオバハンである。オカマちゃんが年を取ったら何と呼べばいいのだろう。

オバマさんとでもいうのだろうか。

今、彼はその筋の人達が集うエリアで、その筋の人達のために健康や装飾?を管理する大事な仕事に携わっている。いっぱしの名士サマである。

あと20年、30年経ったら、オジイサンでもオバアサンでもないであろうヤツをどのように呼称するべきだろうか。

そんなくだらないことを真面目に考えてしまう一夜だった。

ああ、その時の画像をアップしたい!

さすがにやめておこう。

2012年4月11日水曜日

フィリピン

水中写真を撮るようになってもう25年以上が過ぎた。そんな書き方をすると、さぞハイアマチュアなのかと思われそうだ。全部自己流だし、コンテストなんて興味がないから、ちっとも大したことはない。

10年ぐらい前までは、かなり必死になって気合い充分に撮影に向き合っていたが、最近は、グータラダイバーになってしまい、昨年は、ついに一度も潜らなかった。

四半世紀を超える潜水歴のなかで、一番長いブランクが開いてしまったが、今月末にフィリピン・セブに行って仕切り直しすることにした。

カリブ海に頻繁に出かけた20代の頃とか、エジプト・紅海をはじめとする未開の海に行きたがった30代前半の頃を経て、ここ10年ぐらいは東南アジアばかりになった。

近くて便利、物価が安いという理由だけでなく、水中の面白さに惹かれる。世界地図で見れば一目瞭然だが、東南アジアのようにごちゃごちゃした島がいっぱいある海は、生物層が濃くなって当然だ。

ハワイあたりは大げさに言えば絶海の孤島みたいな立地条件だから、透明度はすこぶる良くて空を飛んでいるような水中異空間が楽しめるが、魚の種類や数では、ごちゃごちゃな、まさにチャンプルーな東南アジアの方に軍配が上がる。

これまでマレーシア、インドネシア、タイ、フィリピンあたりのいろんな場所に行ってきた。いろんな思い出がある。

今日はフィリピンについて書いてみたい。

海の話はさておき、旅行にまつわる変な思い出はいっぱいある。

マニラのディープさには毎度驚く。夜の繁華街なんてよほどエリアを限定しないと危なくて歩けやしない。いつも信用できそうなガイドさんとかタクシードライバーを1日単位でチャーターして一緒に行動してもらう。

ある時、親しくなったドライバーさんの家に連れて行かれた。その日は、後学のためにスラムっぽいエリアを車で流してもらって貧困の現実を車窓から眺めていたりしたのだが、彼の家は、そうしたエリアに程近い結構ゲゲゲって感じの場所にあった。

外国人である私見たさに近所の人も集まってくるし、彼の家はオイオイオイって感じのバラックだったし、かなり緊張した。

おまけに、最大のもてなしのつもりだったのだろう、フィリピン名物の甘味・ハロハロを作りはじめた。ごちゃ混ぜかき氷みたいなものだ。

場所柄、どうしたって氷はダメだろう。普通なら遠慮するのだが、彼の厚意をムゲに出来ずに頑張って食べた。当然、速攻でお腹を壊してピーピー。重症にならなかったのが幸いだ。

別な時の話になるが、あまりに退屈だったので、マニラ市内の大きな公園でまったりしていた。すると、軍のパラシュート部隊の演習が。なぜかその公園に降りてくるという不可思議な設定で行われていた。

普通に市民が憩っている公園に軍人が大勢パラシュートで降りてくる。その大らかさに驚いた。

おまけに格好良く着地するヤツには市民が大喝采、ちょっとこけるヤツにはブーイング。パラシュート隊員も上手に着地するとポーズをとって観衆にアピールしている。

軍隊である。軍人である。でもフィリピンである。お国柄って実に面白いと思った。こう言っちゃ悪いが、ちょっと弱そうだなあというのが感想だった。

その他にも、遠方での潜水三昧のせいで、帰国便乗り継ぎのためのマニラの宿を決めずにいた時のこと。

たまたまアセアンの本会議があって、市内の真っ当なホテルはほぼ満室状態。仕方なく確保したオンボロホテルがひどかったのも懐かしい思い出だ。

部屋の主はゴキブリだし、シャワールームは汚すぎて使う気にならず、窓や壁も薄くとにかく騒々しい。しょっちゅうパトカーとかのサイレンと怒声や悲鳴が聞こえてくる。若い頃だったから平気だったが、今なら気が狂いそうだ。

優雅なマニラの一面も見る機会があった。ある時、小学校の頃からの親友がマニラで結婚式をあげた。

奥さんも日本人なのだが、奥さんの実家がフィリピンで事業を成功させており、マニラ在住のオジイサンのためにハデ婚をすることになった。

場所は副大統領だったか、とてもエライ人の自宅。自宅といっても、そこは現地の有力者の豪邸だ。プールを望む庭を使ってのガーデンパーティー。

周辺は徹底的に高級住宅地の気配が濃厚。格差のある国で見る高級なエリアは、日本のそれとはまったく異質。経済大国ニッポンといっても一般人なんてはじき飛ばされそうなスノッブな印象だった。

招待された我々も変な民族衣装みたいな服を着て参加した。その時は宿泊も高級エリアの高級ホテルだったし、普段、潜水旅行のついでに感じるマニラとは格段に違う空気を味わった。

パラワン州・プエルトプリンセサでは、世にも珍しい刑務所見学を体験した。そこの刑務所は、広大なエリアで囚人達の自治が成り立っているらしく、塀とか檻とか囚人服とは無縁。普通の村みたいな感じ。

レストランや売店もあるのだが、働いているのは皆さん囚人。案内人が「こっちのゾーンは凶悪犯ばかり」とかあれこれ説明してくれるのだが、皆さんニコニコ手を振ってくれたりして実に妙な場所だった。

さすがフィリピンである。

マニラは別格として、私が訪ねたような地方の海側はのんびりとした楽園のような場所ばかりだった。

セブ島のメインリゾートエリアはそれなりに俗化しているが、南方のモアールボアールとか、もう少し離れたボホール島とかは、漂う空気もユッタリしており、ホゲホゲするにはもってこいだ。

マニラから3時間ぐらいで行けるプエルトガレラは適度にガヤガヤ感はあるが、海は綺麗だし、アジアの熱気を感じられる独特なリゾートだ。ゴーゴーバーだってちゃんとあった。

ネグロス州のドマゲッティは、近郊に珠玉の海を持つ一方で学園都市の一面もあるのどかなエリアで、上記したプエルトプリンセサ周辺も秘境ムードがありながら、マニラから空路1時間で着いてしまう穴場だ。

長い休みが取れないならセブ島の空港近くのリゾート群がオススメだ。成田から直行便で4時間ちょっとで着くお気軽感は捨てがたい。

なんか今日は、観光ガイドみたいな話になってしまった。

さて、ゴールデンウィークのセブの旅ではどんな思い出が加わるのだろう。

2012年4月9日月曜日

大人のおもちゃ

人様に誇れるような能力は持ち合わせていない私だが、最近、結構な得意ワザになってきたのが「散財」だ。

これも一種の能力かもしれない。ギャンブルに没頭したり、ヘタな投資に手を出したりとか、その手の高尚?な散財ではない。

ふとした衝動買いとか、コストパフォーマンスを無視した暴飲暴食とか、あとさきの出費を気にしない旅行計画とか、目先の楽しさを追求する程度のプチ散財だ。

限度額のないクレジットカードも持っているが、ああいうのはヤメてもらいたい。ガンガン使ってしまう。毎月の利用金額を低く設定するよう自らカード会社に頼もうかと考えている。

「宵越しの銭は持たねえ」。江戸っ子を気取る東京人が苦し紛れに使うセリフだ。江戸の街の職人の間で生まれた言葉らしい。

頻繁に火災に見舞われた江戸の街は、修理や建て替えの需要が多く、腕に覚えのある職人達は大忙し。で、いつでも日銭が稼げたことに由来して、そんなフレーズが生まれたのだとか。

手に職のない私が、宵越しの銭を使い切っているようではダメだ。童話「アリとキリギリス」を思い出してしまって毎晩うなされている。

3ヶ月ぐらい私自身を冷凍保存してもらったら、財政状況もだいぶ改善するのだが、そうもいかない。

まあ、せっせと貯め込んでいる最中に不慮の事故で死んだりするのもイヤだから、頑張ってやりくりしていこうと思う。

さて、最近の散財は、「大人のおもちゃ」だ。「大人のおもちゃ」と聞いて連想するような商品もちょくちょく?買ったり試したりしているが、そんな話はここには書けない。

期待させてスイマセン。

たまにしか行かない水中撮影旅行用にカメラ機材を新調した。これも立派な「大人のおもちゃ」だろう。


オリンパスのミラーレス一眼カメラ「E-PL3」が欲しくなって衝動買いをした。ますます小型化して、高速AF機能も搭載された。おまけに「水中ホワイトバランス」という機能まで付いている。

なぜかオリンパスは水中撮影の世界に思い入れが強いようで、たいして売れるとも思えないダイバーのための防水ハウジングを自社製でバンバン開発している。

私自身、2年前にミラーレス一眼の初期モノと専用ハウジング(オリンパスでは防水プロテクターと称している)を購入して、ウキウキと使ってみた。

その時のエピソードと、結局見知らぬ白人のお尻ばかりをプールで盗撮していた話はこちら。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2010/06/blog-post_30.html

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2010/07/e-pl1.html

初期型のミラーレス一眼には、一般的な一眼レフカメラに比べて不満も多かったのだが、たかだか1年、2年で性能は格段にアップして、今回購入したカメラは、マニアなんかではない私を大満足させるには充分なレベルだ。

写真撮影を趣味にしたいと思っているのだが、水中以外ではあまりカメラを手にする機会はない。子どもの学校行事ですら面倒でカメラもビデオも持っていかないような私だ。

せいぜい、銀座でのクラブ活動の際に携帯画像を撮影してニヤけている程度だ。だから高機能カメラなんて宝の持ち腐れともいえる。もっとバンバン使いこなすようにしたい。

ということで、新しいカメラを水中で使うための防水ハウジングも新調してしまった。

このハウジングを使ってみたくてカメラを買ったというのが真相ではある。



ストロボやアーム類、その他の部品は以前使っていたモノを流用できるから、トータルでは安く済んだと思い込むことにする。

そうはいっても、最短撮影医距離0センチまで寄れる魚眼マクロ、いわゆる虫の目レンズとか、細々した関連用品をちょろちょろ買い足したから、やはりプチ散財ではある。いちいち気にしてもダメだから前向きに生きようと思う。

今回の新しいハウジングはE-PL3の標準ズームレンズしか使えない設計だが、水中着脱できるワイドコンバージョンレンズとクローズアップレンズを使えば、マクロ撮影からそれなりのワイド撮影までこなせる仕様だ。

オリンパスでは、このハウジングについて、あくまで自社製標準レンズだけが使えるとうたっているが、「ライカ」の名を冠するパナソニック製の優秀なマクロレンズが使えちゃうことは知る人ぞ知る。

あくまでオートフォーカスでの利用が前提になるが、カメラ自体のフォーカススピードが格段に向上しているから、充分に趣味の世界では威力を発揮する。

高価なレンズだが、2年前に頑張って買っておいた私としては実にウッシシという気分である。

ゴールデンウィークにフィリピン・セブの海で進水式だ。私の腕というより、高性能化した撮影機材のおかげでそれなりの作品が撮れることは間違いないと思う。

先日、ダイビング機材屋のお兄さんに「ネオン街ばかり潜ってちゃダメです」と諭されてしまったから、久しぶりに真面目に潜水してみようと思う。

クレジットカードのおかげで支払いはまだ済んでいない。

まあいいか。

2012年4月6日金曜日

敵国ニッポン

記者などと称している以上、たまには真面目なネタも取り上げねばなるまい。

ということで、今日は大真面目な話を書く。

意外に知られていないことだが、是非知っておきたい話だと思うのでグダグダと書いてみる。

「敵国条項」という言葉をご存じだろうか。どことなく物々しい言い回しだ。戦争を思い起こさせる言葉だが、天下の国連で今もまかり通っている規定だ。

中東の危ない国や人工衛星といいながら弾道ミサイルをぶっ放そうとしている国を指しているわけではない。

「敵国」とみなされているのは日本やドイツなど第二次大戦時の敗戦国のこと。いま現在も国連憲章にキッチリ残っているいまいましくも残念な規定だ。

内容を大雑把に言うと、通常、安保理の許可が必要な軍事行動を「敵国」に対しては例外扱いするというもの。すなわち、「敵国」が危ない動きをした場合には、国連加盟国は、安保理決議に無関係に勝手にブッとばしても構いませんという規定。

こんなものが恣意的に運用されたら危ないったらありゃしない。

国連自体が第二次大戦後、戦勝国を母体として作られた組織だけに、当初こそ色眼鏡視されても仕方がなかったのだろう。とはいえ、終戦から70年近く経ったいまでも差別が残っている事実には大いなる違和感がある。

さすがに時代遅れとの認識が広まり、15年以上前の国連総会で敵国条項の削除が採択された(賛成155、棄権3(北朝鮮、キューバ、リビア))。

ところが、採択の後、正式な削除に必要な加盟国の批准が進んでいないため、今だにアホみたいな規定が存続している形だ。

こういう情けない現実がもっと日本国内で問題されるべきだが、事実を知る人すら少ないのが現実だろう。

国連分担金の負担率で、わが国は長い間ずーっと世界第2位。1位は米国だが、あちらさんは国策として平然と分担金を滞納する常連だ。

日本の負担金は、英仏の合計金額並みであり、中国に比べればほぼ4倍の規模。まさに国連にとって大スポンサーだ。

暴論かもしれないが、敵国条項の正式削除が進まないのなら、分担金の支出をやめちまうよっていうぐらいの強い姿勢を見せて欲しいものである。

財政状況が悪化を続ける一方で、歳出削減の議論は枝葉末節に終始している。国連分担金の話などカケラも出てこない。

ピントがずれたこの国を象徴するのが、国連に対する「能天気なお人よし政策」だと思う。

参考までに、世界各国の国連分担金のデータを添付してみる。わが国の「ご立派」ぶりがよく分かる資料だ。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jp_un/yosan.html

2012年4月4日水曜日

イケてる街とイタい街

最近、街の変化が気になる。勝ち組負け組とでも言おうか、街の雰囲気、街のクラス感みたいな格差が以前よりクッキリしてきたような気がする。

俗っぽく言えば、イケてる街とイタい街の二極化みたいな話だ。

わが家のある豊島区なんてイタい街の濃度が濃くなってきている。ごくごく一部の高級住宅地は別として、どうもダメダメ感が漂う。

引っ越してきて丸7年が経つ。最近の周辺環境は確実に後退している。小汚い店は大汚い店になり、ガムシャラに安さだけをウリにするチンケな店が増殖。

新しく建つ家やアパートも安普請ばかりで、洒落っ気のカケラもない。気付けば道行く人の様子も垢抜けた気配はなく殺伐とした感じ。

ほんの10年、20年前は、都内でももう少し街ごとの平準化が保たれていたように思う。急激に格差が拡がっているのは確かだろう。

その気になって眺めれば、歩いている人の服装、それなりのレベルの店の有無、高級車の遭遇率など「街のクラス感」を判断する材料には事欠かない。

○×区とか△×区あたりのビミョーな空気が濃い街では、ベントレーとかマセラッティ、ポルシェなんかをを見ることはない。レクサスすら珍しい。タクシーも少ないうえに、流しているのは昔のセドグロばかり。

道行く人を眺めても、100円ショップで売っているようなバックを抱えて、着古した量販スーパーのセール品みたいな服をまとって歩く疲れた様子の人ばかり。とくにお年寄りの身なりに街ごとの格差を感じる。上品そうな雰囲気の「おばあさま」が優雅に歩いている街と、あらゆることから完全撤退したような「バアチャン」がノシノシ歩いている街とに明確に分類される。

お年寄りだけでなく、生まれたての赤ちゃんに関しても違う。新米ママさんの格好だけでなく、ベビーカーにも昔ハヤった表現で言えば、「マル金」と「マルビ」がしっかり反映されている。

住宅地だけの話ではない。繁華街も同じだ。中央区、千代田区あたりはきっちりと安定しているが、品川、恵比寿周辺が伸長するのに呼応するかのように池袋あたりの凋落は激しい。

スカッとしたビジネスマンより、目つきの悪いアジア系の異人さんや胸のボタンを五個ぐらい空けた茶髪のあぶく銭兄さんみたいな人との遭遇率が高い。簡単に違法薬物が手に入りそうな気配がプンプンだ。

書き始めるとキリがない。私自身、職場も家もどうにか現在地からの脱出を真剣に考えたいものだ。もっと気分が上向くような場所を拠点にしたい。ついでに言えば、家だけでなく、家族からも脱出できないものだろうか・・。

おっと、いけない話がそれた。

以前から思っているのだが、私の願望のひとつが「神楽坂に平屋を建てて住みたい」というもの。老後の目標だ。マンションではなく庭付きで純和風の平屋だ。相当な贅沢だと思う。

そうは言っても、あの辺は道路が細く震災時にはかなり危険らしいからよほど広大な土地を手に入れないとなるまい。

うーん、真面目に働いていたら難しそうだから、悪の道にでも手を染めようか。そんな才覚もないから困ったものだ。

神楽坂とか市ヶ谷、麹町、九段、一番町あたりは、私にとって、「東京の濃い場所」だ。東京っぽいところという意味である。地方出身のお洒落な方々が目指す港区系とは一線を画す落ち着いた雰囲気が好きだ。個人的な思い込みだが、ドシッとした雰囲気があるように思う。

なかでも神楽坂近辺はは古くから商人や職人が多く暮らした街だから、堅苦しい感じではなく、どことなく粋で風流な感じがする。一部は観光地化してしまっているが、適度な高級感と気安い感じが同居しているような印象がある。一言で言うならば「はやりすたりとは無縁な東京」って感じだ。

麹町、市ヶ谷周辺も「江戸城のお膝元」というDNAのせいだろうか、流行に左右されるとんがった街とは一線を画す落ち着いた雰囲気が魅力だ。うろうろ散歩しても変な緊張とは無縁。指名手配された人が隠れ住むような街ではない。変な例えでスイマセン。

先日もあてもなく神楽坂を歩いてみた。本多横町から裏路地に抜ける道とか、坂を上り毘沙門天を左に折れた一角とか、そぞろ歩きには楽しい。さすがに昔の花街だ。妙に酒が飲みたくなる街でもある。

ウマい店を探すのにも困らないし、小さいエリアに名店がたくさんある。銀座あたりより値段も良心的で、しっかり矜持を保った店も多い。

最近、飯田橋寄りにある老舗「志満金」に行ってみた。過去ウン十年、目の前は通っていたが大箱っぽい雰囲気に魅力を感じずに素通りしていた。



割烹料理屋だが、元々はウナギ屋だ。いまもウナギがウリらしい。白焼きに鰻重、それぞれ期待していた以上にウマかった。今まで行かなかったことを後悔する。

ウナギの他に一品料理もたくさん用意する店といえば、たいてい、ウナギ自体がマズかったりするが、こちらは問題なし。

あれこれ季節のツマミを食べながらまっとうなウナギを食べたい私にとっては天国みたいな店だ。

旬の刺身、煮物、揚げ物、塩辛などの珍味もあって、それぞれが真面目に作られている。ウナギだって肝煮もあるし、まさに「全方位外交」みたいな世界だ。足繁く通ってみたいと思った。

神楽坂は、イタリアンやフレンチの人気店も多く、寿司の名店もあるし、ウマい焼鳥屋とか、小料理屋もたくさんある。しゃべったら怒られるような静かな酒亭とか、子どもお断りの甘味処なんかもある。

私も以前、小粋な風情の寿司屋を見つけて、ふらっと覗いたら、一見さんはお断りだと丁重に告げられてたじろいだ経験がある。

少しばかり閉鎖的な感じもあの街の魅力だろう。追いやられる側にとっては嬉しくないが、なんでもかんでも開けっぴろげのイマドキの飲食店よりは「ワビサビ感」があって良い。

「アウェーな感じ」を気持ちよく楽しめるところが神楽坂の面白いところだと思う。

2012年4月2日月曜日

ストックホルム アクアビット

今日は何を食べようか。夕方になると、こんなことで1時間以上悩むことがある。

バカじゃなかろうか。バカなんだと思う。

黙って目の前にあるものを喜んで食べればいいものを、人生の一大事みたいな気分になって延々と悩む。

変な霊体でも取り憑いているのかと心配したくなる。

先日も、そんな事態に陥った。はたから見たら、親が死んだのか、勤め先が倒産したのかと思われそうなほど、深刻な様子で寡黙になって自問自答を続ける。

和食か洋食か、はたまた中華か。寿司は食ったばかりだし、フレンチ、イタリアンの気分じゃないし、鍋物は飽きたし、揚げ物は胸焼けするし、魚の香りは今日の気分じゃないし、等々、どうでもいいことに脳みそをフル稼動させる。

こうなるともうダメだ。何か画期的なヒラメキが出るまで悶々とする。もちろん、「なんでもいい」という日もあるが、「滅多に食わないものじゃなきゃダメだ」と思い始めるとタチが悪い。日頃、コンビニで売っている菓子パンでも喜んで食べるくせに、無性にこだわりたい状態に陥ってしまう。

考えがまとまらない時、煩悩の塊である私の脳は、子どもの頃に食べさせてもらった「画期的な食べ物」に照準を合わせたりする。

そんな食べ物の代表格が「チーズフォンデュ」とか「スモーガスボード」。

子どもの頃、欧州好きだった祖父の影響で、アマノジャッキーとしてはちょっと嬉しいそれらの専門レストランに連れて行かれた。

間違いなく家庭では出てこないという点で、私にとっては外食そのものという印象がある。

チーズフォンデュなんて、考えてみれば、パンにチーズを塗りたくって食べるだけだ。パンが好きではない私がムシャムシャ喜んで食べるのもおかしな話だが、あの「普通じゃない感じ」にちょっと惹かれる。

最近はご無沙汰だから近いうちに食べに行こうかと思っている。

さて先日、またも夕食選びに迷走状態になり、しばし沈思黙考した結果、数年ぶりに赤坂の「ストックホルム」に行くことにした。


バイキング料理の元祖といわれる「スモーガスボード」の専門店だ。やたらと度数の高い蒸留酒・アクアビットに合う料理がたくさん並んでいる。

なかでもニシン料理が特徴的だ。5,6種類のソースが異なる酢漬けのニシンがわんさか用意されている。

これがウマい。青魚臭さはなく、いくら食べても後味が気になることもない。キャビアとかイクラも取り放題なのだが、ついついニシンばかりを皿に盛ってしまう。


マスタードソース、ハーブソースなどに浸かったニシンの酸味がキンキンに冷やしたアクアビットと絶妙にマッチする。胃が熱くなるし、さっさとほろ酔い気分になるのも楽しい。

北海道あたりでは寿司屋でも居酒屋でもニシンが出てくるが、東京では珍しい部類に入るだろう。なんでだろう。足が早いという話は聞いたことがあるが、酢漬け料理だったら、アレコレ楽しめそうだから、もっと普及しても良いと思う。

それぞれのソースをまとった酢漬けニシンにつけ合わせの細かく刻んだオニオンをドバッとトッピングしてがっつく。頭の中には、いにしえの昭和歌謡「石狩挽歌」が流れる。

酢漬けニシンの強めな味には強めな酒だ。凍らそうとしても度数が高くて凍らない冷えたアクアビットを流し込む。

これはまさに「画期的な食べ物」だろう。悩み抜いた末にたどり着いたディナーとしては悪くない。


取り放題の料理には、魚、肉、野菜、チーズなどが盛りだくさんなのだが、単品メニューからトナカイのソーセージも頼んでみる。

トナカイだ。そんなものをメニューに見つけたらオーダーしないわけにはいかない。肉肉しい風味のほんのちょっぴりクセのあるトナカイ肉を頬ばり、アクアビットを流し込む。ウッシッシだ。

ハードリカーで麻痺した私の胃袋は、結局、フェットチーネ風のパスタにミートボールソースをブリブリかけて食べるし、パエリア風のコメのオーブン料理もわんさか食べてしまう。

炭水化物好きのタンスイカブラーとしてはこればかりは避けて通れない。気付けば突き出た腹をさすりながらデザートまで皿に盛りすぎて困る始末だ。

意地汚いのかバカなのか。きっと両方だろう。

最近、いつも満腹感、膨満感に苦しんでいる。そんな人間は、スモーガスボードとかバイキング料理なんかを選んではいけない。分かってはいるのだが、ついつい「アレコレ食べられるぞ」と脳みそが囁く。

このところ、神経性胃炎のクスリと食べ過ぎ用のクスリと胃酸過多用のクスリを手放せない生活をしている。情けないことだ。

こういうヤツのことを間違ってもグルメとは言わない。