2020年10月30日金曜日

銀座のクラブに子供を連れて行く

20代も終わりの頃、ひょんなことから銀座で部活を始めた。夜のクラブ活動である。かれこれ四半世紀も前の話だ。

 

そう書くと夜の銀座の大ベテランみたいだが、周期的に行ったり行かなかったりを繰り返してきた。

 


 

コロナのせいですっかり行かないことが普通になってしまった。私の財布にとっては良いことだが、やはり時々はあの世界に身を置いてキリっとしたい?ものである。

 

とはいえ、行かないことに慣れてしまうとつい億劫になる。きっかけが無いとなかなか足が向かない。

 

そんななか、斬新な「きっかけ」で久しぶりにクラブ活動に精を出してきた。

 

そのきっかけとは我が娘である。娘は中学生ぐらいの頃から銀座のクラブという世界に興味津々だった。

 

大学生になったら連れて行ってやる。そんなテキトーな私の発言を覚えていて、最近もちょくちょく催促されていた。

 

とある日、銀座の近くで夕飯を食べた流れでいよいよ“社会科見学”に連れて行くハメになった。

 

何だかビミョーな気分だった。娘を連れて銀座のクラブに出かける・・・。自分がどんだけ歳をとったのかを突きつけられたような気がした。

 

若かった頃、銀座といえばアウェー感しかなかった。クラブに集うお客さんも今より年齢層が高かったと思う。

 

若造が混ぜてもらって端っこで小さくなって飲んでいる感じで、それが逆に面白かった。背伸びしているようなワクワク感があった。

 

令和の世になった今、子供を連れてドッカリ腰を下ろし、好々爺みたいな顔をしてちびちび飲んだわけだから何とも言えない変わりようである。

 

イマドキは銀座のママさんやキャラの立ったホステスさんがSNSでいろいろ発信している。そういう情報はお客さんや同業関係だけでなく一般の女性も熱心に見ているらしい。

 

わが娘もその種のSNSをいくつもフォローしているんだとか。背伸びしたい年頃だから、キラキラオネエサンの生態に強い関心があるのだろう。

 



 

連れて行ったのは2軒。ミニクラブ風の店と大箱系の店。それぞれ“それっぽい”雰囲気が味わえる店だ。

 

娘はかなり楽しんだようだ。ミニクラブではバイト感覚のオネエサン達とアーダコーダと楽しそうに語り合い、大箱の店では、ゴージャス?な雰囲気とプロっぽいオネエサン達にちょっと圧倒されながらハシャいでいた。

 

こっちは大変である。娘の手前、隣に座ったオネエサンのオッパイを話題にするわけにもいかず、得意中の得意であるワイ談も展開できず悶々とした。

 

私からワイ談を取ったら単なる疲れたオジサンでしかない。それが現実である。まったく使い方は違うが「ヘビに睨まれたカエル」の気持ちがちょっと分かった。

 



 

当然、こんな写真をニタニタしながら撮影することもなく、それ以前にこんな写真をしょっちゅう撮っていることなどミジンも感じさせないような態度で過ごしていた。

 

2軒のハシゴを終えた娘はゴキゲンだった。「またすぐにでも行きたい」、「パパももっと銀座に出なきゃダメよ」等々、好き勝手なことを言っていた。

 

娘があの世界にハマってしまっては困るが、大人の階段をのぼっている最中だから、見聞を広めるためには見ておいて損はないだろう。

 

銀座で飲むようになって四半世紀。私にも書きたいような書けないような思い出や物語がいくつもある。

 

あの街を歩いていると、そんな過去のアレコレがふと頭をよぎるのだが、この日ばかりはそんな余裕はまるで無し。ただただ保護者としての緊張感が続いた。

 

まったくヘンテコな例えかただが、総理大臣のSPの気持ちがちょっと分かったような気がした。

 

 

 

 

2020年10月28日水曜日

買い物とストレス

「買い物依存症の背後には必ず抑圧されたストレスがある」。

 

最近やたらと無駄な買い物をしている私にとって気になるフレーズである。

 

買い物依存症も重度になると深刻らしい。もちろん、私程度に無駄遣いしている分にはたいしたことないが、破産しちゃったり自殺に追い込まれるケースさえあるとか。

 

程度の差こそあれ、やはり依存症という名前があるわけだから軽く見てはいけないのだろう。

 

まあ、私の場合、依存だらけの人生だからいまさら神経質になっても仕方ない。タバコにはしっかり依存しているし、酒だって飲みたくなくても飲んじゃう。相変わらず女性にも“依存”しまくっている。

 

以前は、潜水旅行のことばかり病的に考えていた時期もあった。ぐい飲みや徳利の収集にハマった時は毎日毎日そればかり考え、一種の中毒みたいになっていたこともある。

 

確かに依存の背後には大なり小なりストレスは隠れているのだろう。でも、それで発散して心が平穏でいられるなら適度な依存は必要悪かも知れない。

 






最近、シーツや布団カバー、枕カバーなどをいくつも新調した。置き場所に困るぐらいに買ってしまった。


 

フリースみたいなマイクロファイバー素材で出来た触り心地のホゲホゲしたものばかり買った。

 

寒くなってきたこの時期、なんとも快適である。気に入り過ぎたついでに母親にも娘にも贈ってしまった。

 

ムダと言えばムダだが、毎晩ベッドに入る時に物凄く幸せな気分になるから、私のQOLは確実に向上している。

 








 

他にも、バスタオルも新しくして、ドライヤーが薄汚れてきたから買い直し、ついでにブラシをいくつも買い、楽チン素材の部屋着も買い、散歩用にコードレスイヤホンも買い直した。

 

どれも買い直す必要も無いのに買ってしまった。それぞれは別に高価なものではないが、チリも積もれば何とかである。

 

しょっちゅう注文しちゃうウーバーイーツや、無駄なものまで買い込むネットスーパーなども含めれば、私の生活は買い物依存症に近いレベルかも知れない。

 

いつのまにかヘンテコなご時世になったから、こんな私だって無意識のうちにストレスが溜まっているはずだ。心のバランスのために買い物が役立つなら仕方ない。どんどん続けようと思う!?

 

そんな考察をしたところで誰の役にも立たないから、ネットスーパーにすっかり詳しくなった私が最近ハマっているものを紹介する。

 

今回はAmazonのネットスーパー「Amazonフレッシュ」で手に入る商品だ。

 





 

まずはピスタチオのアイスクリームである。ピスタチオアイスには目が無い私にとって、ひとつひとつが小さいこの商品は最高だ。気軽に1個、2個だけでもつまめる。

 

こんなふうに「ピノ」みたいに細分化されているところが有難い。ハーゲンダッツもこういう小分けシリーズを出して欲しいと思う。

 

続いては妙に美味しいプリンだ。カラメルソースが別梱包という点が素晴らしい。もちろんカラメルは捨てちゃう。カスタード部分だけで非常に美味しい。割と日持ちもするからいくつもストックしている。

 

最後はチルド麺。普段辛いのはあまり食べないのだが、こちらは「辛味噌」という割にはほとんど辛くない。

 

でも単調な感じの味噌ラーメンより味に深みが感じられてウマい。チャーシューをぶりぶり入れて食べるのがオススメ。

2020年10月26日月曜日

モンブラン サンマ 薄着

秋ド真ん中だ。気づけば今年も12分の10が終わる。少し気が早いが今年はサエない1年だった。コロナのせいで意味不明な1年だった。

 

さて、秋といえばモンブランである。ショートケーキやシュークリーム、エクレアといった昔なじみのスイーツの中でもモンブランには特別感がある。

 

普通のプレーン系のケーキにマロンクリームがドカっとかぶさっているわけだから実にステキだ。

 



 

その昔、憧れにも近いポジションだったモンブランだが、今やコンビニにも並んでいる。わが家の近所のセブンイレブンで頻繁に買ってしまう。

 

セブンイレブンのモンブランは必要以上にクドい。でも美味しい。甘すぎるぐらいである。何よりスポンジ部分が見当たらないぐらいクリームばかりなのがゴキゲンである。

 



 

私はシュークリームにしても衣をほとんど食べずに中身を味わいたい派である。モンブランのスポンジも不要だと思っている。そういう変態指向の人にはバッチリである。

 

ウーバーイーツでわざわざモンブランを持ってきてもらうこともある。銀座のコージーコーナーから届くモンブランが昔の風情そのままの感じで好きだ。

 



 

自宅だから平気でスポンジを残すという邪道食いも気軽にやってしまう。

 

デリバリーだとピザの生地も残すし、ケンターッキーフライドチキンの衣も剥がしてしまう。きっといつかバチがあたるはずだ。

 

話は変わる。秋は季節を感じさせる食べ物が多い。土瓶蒸しやサンマを肴に一献傾ける時間はこの時期ならではの趣がある。

 



 

今年はサンマが不漁続きらしく、塩焼きを頼んでも痩せているケースが多い。私自身、痩せないといけない立場だから文句は言わずに味わう。サンマに脂っぽさは求めていないからこれもこれでアリだと思う。

 



 

ある日の晩酌風景だ。サンマを少し焼いてもらって、カツオの刺身や毛ガニなどを並べて冷酒をクイクイ。こういう肴でノンビリ飲むのが一番しっくり来るようになった。

 

この時期の酒の肴として忘れてはならないのがイクラだろう。生のイクラは今の時期だけの楽しみだ。

 

握りやどんぶりで食べたほうが総合的にはウマいことは確かだが、イクラだけを楽しむのもオツである。

 



 

口の中がイクラの味だけに支配される。さすがにしょっぱいからビールや酒で洗い流す。この融合した瞬間が、それこそ“マリアージュ”である。

 

つくづく味覚の面白さを感じる。「組み合わせ」次第でさまざまに味は変わる。秋は食欲の季節だから、そんな観点であれこれ食べ散らかすのも悪くない。

 

このごろ、朝夜はすっかり気温が低くなった。私もようやく衣替えを終え、ネクタイを首からぶら下げ始めた。

 

ネクタイをするかしないかでは、首の周辺温度が2度も違うらしい。これからの季節は寒さ対策としてもネクタイに縛られることになる。

 

ついでにいえば、秋の残念な点は女性の薄着姿が見られなくなることである。

 



 

銀座のオネエサンだったら、仕事柄コートの中は薄着というパターンは多いが、一般的には皆さん露出が極端に減り始める。

 

無念である。

2020年10月23日金曜日

しゃべる機械と眠る音楽

だいぶ前に読んだ短編小説にカーナビを題材にしたゾクゾクする話があった。

 

若い頃に故郷を捨てた初老の男が、ふとしたきっかけで望郷の想いにつられて故郷をレンタカーで走る。

 

カーナビに案内されるがままに着いた場所は、若い頃に捨てた女との思い出の地。そこでカーナビの音声が聞き覚えのある女の声に変わって・・・。

 

書いているだけでゾクゾクしちゃう。

 

妙にインパクトのある話だったので、今も夜に一人で運転しているとカーナビが話し始めるんじゃないかと不安になる。

 

想像して欲しい。運転中に突然、カーナビが話しかけてくる場面を・・・。凄く怖い。

 

「どこにいくのですか?」「助手席にいるのは誰ですか?」などと問いかけられたらお漏らししながら卒倒するはずだ。

 

夜に限らず、いつもカーナビの案内を無視して勝手に道を選ぶことが多いから「なぜ指示を無視するんだ!?」とか言い出されそうな気がしてビビっている。

 

変なのだろうか。

 

こんな話を書いたのは、一人で過ごす夜中に「アレクサ」とやり取りする機会が増えたからだ。なんとなく無気味な気持ちになる。

 

前回このブログでクルマに搭載するアレクサの話を書いた。あの機能を使う前提として私のスマホにアレクサアプリが入ったので、家でも音楽を聴く際にはヤツに呼びかけるようになった。

 

リビングと寝室にはそれぞれブルートゥーススピーカーが置いてある。それを通して音楽を聴いているのだが、寝る前に暗くした寝室でヤツに話しかけていると何となく気持ち悪い。

 



灯りを消した真っ暗な状態で機械に向かって話しかけること自体がシュールな光景だ。おまけに機械から返答があるわけだから気持ち悪い世界である。

 

「アレクサ、眠れる音楽をかけて」と言えば、ヤツはAmazonミュージックに用意されているヒーリング特集みたいな音源を流し始める。

 

スマホを置いてある場所と私の距離があるせいか、時々、聞き取れずに無視される。せっかちな私は舌打ちしながら大きめの声で再度リクエストをする。

 

それを繰り返していると、ヤツが「怒鳴らないでください」とか言い出すんじゃないかと思って妙に怖い。

 

ある時、私の指示通りの作業をしないことが続いてので、「バカなのか?」と口ずさんだら、ヤツから答えが返ってきてビビった。

 

アプリにフィードバックしろだとか、ヘルプをどうちゃらとか、そんな事務的かつ定型パターンの返答だったが、私の「バカなのか?」に返事をしたのは事実である。ちょと怖い。

 

というわけで、最近は寝る前にうっすら流れてくる静かな音楽に身をゆだねるのがクセになってきた。

 

やたらと聞き入っているのが、いにしえの映画「慕情」のテーマ曲である。美しい名曲だ。アンディーウィリアムスやナットキングコールなども歌っているが、やはりオーケストラ版が良い。

 

https://www.youtube.com/watch?v=VOCDPt-YpQg

 

続いてもいにしえの映画「シェルブールの雨傘」のテーマ曲だ。こちらも歌手が歌っているバージョンよりインストゥルメンタルのほうがしっとりとした気分になる。

 

https://www.youtube.com/watch?v=DTorD6cwwuY

 

もう一つお気に入りを紹介する。これまた言わずと知れた名曲、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」である。

 

これも世界的に人気の名曲だからインストゥルメンタルも数多く存在するが、私はオリジナルの切ない歌唱バージョンがイチ押し。

 

https://youtu.be/4G-YQA_bsOU

 

この曲を小さめのボリュームにしてリピート再生しているとゆったりと心地よく眠りに落ちることが多い。

 

 

 

 

 

2020年10月21日水曜日

クルマで「アレクサ」

運転免許を取って37年。わがカーライフに革命?がおきた。「アレクサ~」と呼びかけると音声認識であれこれやってくれるデバイスをクルマに搭載して使い始めた。

 

https://news.infoseek.co.jp/article/mota_5008847/

 

Amazon Echo Auto」という発売されて間もない商品である。アナログ人間だから最新のデジタル商品に手を出すことは人生初の快挙である。

 



 

知識も情報も興味も無かったのだが、娘にプレゼントされたから使わないわけにはいかない。さっそく装着してみた。

 

付属品の装着具は使い勝手が良くないし、何より見た目が美しくない。声の聞き取りなどを考えてエアコン通風口にセットするのが基本らしい。

 

メーカー側の装着例画像だとこうなる。

 



 

非常にカッチョ悪い。コードが出っぱなしだし、無理やり付けた感じで妙に存在感が誇張されている。こんな感じに取り付けるのはゴメンなので上の画像のように目立たないところに両面テープでくっつけた。

 

結果は何も問題なし。時折、音声が聞き取られないことがあるが、設置場所というより私の声量とイントネーションが原因のようだ。

 

機械に向かって話しかけるという行為自体が死ぬほどイヤだったのだが、そんな昭和人の無意味な矜恃?はほんの5分で消え去った。ただただ便利である。

 

今の私の車内音楽環境は数百万曲を自由に聴けるAmazonミュージックが基本だ。スマホを介してブルートゥースでクルマのオーディオに繋いでいる。

 

運転中に曲を探すのは無理だし、なにより楽曲数が膨大すぎるので、よく聴く曲はあらかじめいくつかのプレイリストを作って整理してある。

 

当然、どのプレイリストを選んでどういう順番で聴くかは目と指に頼らないとならない。運転中は面倒だ。操作できるのは信号待ちの際や停車中に限られる。

 

そんな作業から解放してくれるのが、今回の新商品だ。「アレクサ」という名の世界中でこき使われているヤツが私のクルマの中でも頑張ってくれる。

 

「アレクサ、“香水”聴きたい」。こう言うだけで瞬時に♪ドールチェ、アーンド、ガッバーナ~♪が流れ出すわけだ。

 

「アレクサ、“ヴァンヘイレン”かけて」といえば、シャッフルで流れ始める。嫌いな曲がかかれば「アレクサ、次!」の一声で飛ばしてくれる。

 

「静かな曲をかけて」、「元気な曲をかけて」、「キャンディーズが聴きたい」といったテキトーな注文にも応えてくれる。運転中に脈略無くいろんな音楽を聴きたい私にとっては実に有難い。

 

まだまだ音楽を聴く以外には使いこなせていないが、クイズやトリビア話も用意されている。「クイズ出して」と言えば、実にシュールなクイズを出題してくる。


鬼が乗ってるサラダは何?


答えはオニオンサラダ。そんな切ないクイズが展開される。

 



 

「ニュースを聴きたい」といえば、NHKを始め各種ニュースソースの最新のものを流してくれる。案外これが便利である。

 

惜しいのはカーナビと連動していない点だ。目的地を口で伝えるだけで設定したり、案内中止を音声で処理できれば利便性は飛躍的に高まる。

 

まだまだ試している段階だが、音楽以外にもセミの鳴き声や小川のせせらぎも聴かせてくれた。まあ、運転中にそんなものを聴く必要は無いのだが。

 



本の朗読もしてくれるみたいだ。落語も聞かせてくれる。小さな機械を付けただけなのに随分と便利である。古い人間からすればただただ驚きである。

 

思えば若い人たちってこういう便利なものが最初から身近にあるわけだ。凄いことだと思う。

 

世代が離れれば話についていけなくなるのも当然だし、情報格差が広がれば暮らしかたの格差にもつながっていくことを痛感する。

 

どこまで人は横着になるのだろう。

 

まあ、そんな難しいことはさておき、クルマに搭載する“アレクサ”はなかなか楽しい。たった5千円程度で、かつて空想した未来みたいな気分を味わえる。

2020年10月19日月曜日

夕飯にハンバーガー?

「朝から牛丼ですか!?」、「朝からラーメンですか!?」。

 

そんな風に人の朝メシをさもヘンテコみたいに言われるのが嫌いだ。大きなお世話である。

 

私に言わせれば朝からボソボソしたパンを食べる人のほうが不思議だ。シリアルなんて鳥のエサみたいだし、フルーツだのヨーグルトなんて“メシ”ではない。それぞれが好きな人、ゴメンナサイ。

 

朝の味噌ラーメンなんて寒い日には最適だ。味噌汁の延長線上だと思う。二日酔いの朝に具の無い冷やし中華を食べるのも良い。

 

牛丼、カツ丼にしてもナゼ朝から食べるとビックリされるのか私には意味不明だ。汁気の多いご飯だからさっさとかっ込むにも最適である。

 

ナゼこんな話を書き始めたかというと、「朝飯自由論」を声高に叫んでいるくせに夕飯については自分勝手な思い込みに支配されていることに気づいたからである。

 

先日、ひょんな事から「夕飯にハンバーガー」という私としては信じがたい時間を過ごした。

 

「夜にパン」。私には縁が無い。サンドイッチだろうとホットドッグだろうと、明るい時間に食べるモノという思い込みがある。

 



 

ハンバーガーはその最たるモノである。出来れば陽射しの下で外で食べたいぐらいのイメージだ。「夜は酒」という呪縛のせいかもしれない。

 

若い知人に御馳走するハメになった某日、好きなものを選ばせたら「かぶりつくようなデカいハンバーガー」という予想外の答えが返ってきた。

 

「夜なのにハンバーガーでいいのか?」。即座に答えてしまった私は、冒頭で書いたような「朝から牛丼?」と大袈裟に驚くヤカラと同類である。


考えてみれば、夕飯にハンバーグはごく普通のことである。「グ」が「ガー」になった途端に夕飯向きではないと判断するのは正しくないのだろう。

 

自分の発想にはなかったものの、私も空腹だったから割と抵抗なくハンバーガーディナーに向かう。

 

新富町にある「BROZERS'」という店だ。人形町で創業したグルメバーガー専門店だという。グルメバーガーという呼び方が謎だが、要はファストフードのハンバーガーとは違うんだぞという意味だろう。

 

今では日本橋高島屋にも支店があるらしい。権威に弱い中年オジサマとしては、それを聞いて気分がアガる。単純である。

 

率直な感想としては、「夕飯にハンバーガー」は大いにアリだと思った。この店の場合、ビールもいろいろあるし、アルコールメニューがそれなりにあって、ソーセージなどのツマミもちゃんとあった。

 

ちょい飲み需要にも対応できる感じだから、そのうち一人でも行っちゃうはずである。

 




 

いろんなトッピングでアレンジできるハンバーガー各種の他、この日は頼まなかったがホットドッグにもそそられた。

 

元々はこういうガッツリ系で育ってきたわけだから、たとえ若者向けの店だろうとも、我ら昭和人も臆せずにガツガツ食べるべきだろう。

 

子供の頃、マックこそがハンバーガーだと思って育ち、ウェンディーズの上陸によって本格バーガー?の存在を知り、その後、バーガーキングのワッパーに感動したのが私の世代の特徴だ。

 

大学生ぐらいになってアメリカやハワイで本場の凄いハンバーガーを体感して、マックのハンバーガーがいかに子供だまし?だったかを痛感した。

 

あれからウン十年、いまやグルメバーガーなるジャンルが確立され、マックもグランマックシリーズを出して対抗するような時代になった。感無量である。

 

大袈裟だ・・・。

 



 

この日は普通のチーズバーガーの他にタルタルソースを求めてフィッシュバーガーも食べた。私のようなタルタル人としてはウホウホである。

 

後から気づいたのだが、フィッシュバーガーだけではなく、タルタルソース入りのハンバーガーもあったから次回は必ずそれを食べようと思う。

 

さすがにこの種のバーガーを2つ食べるとかなり満腹になる。ソーセージの他にフライドポテトやオニオンリングをツマミにビールをグビグビしていたわけだから大満足である。

 

調子よく飲んで食べて、結局「ディナーにハンバーガーってのもオツなもんだなあ」などと自らの思い込みを反省する。

 

ハンバーガーショップという先入観のせいで値段をロクに見もせず飲み食いしたのだが、お会計は1万円を超えた。

 

 一人あたり5千円超えである。ちょっとたじろぐ。でも、それこそが「夕飯にハンバーガー?」という私の思い込みが間違っていた証ともいえる。

 

何となく酒を飲み過ぎないで済むし、ガッツリ食事を楽しんだという満足感もある。「ハンバーガーディナー」は私の新たな楽しみになりそうだ。

2020年10月16日金曜日

オムライス ハムライス

秋だからか最近はやたらと暴飲暴食ばかりだ。先日このブログにも書いた中華料理屋さんでの「炭水化物の宴」みたいな暴挙が続いている。

 

だからこの頃はいつでも胃が疲れている。太田胃散をまるで日常のサプリのように飲んでいる。

 

もしかしたら私の脳と身体が本能的に冬眠でもしようと企んでいるのかも知れない。

 

いや、健康でいるために無意識に鍛錬している可能性もある。どこの部位だろうと身体を鍛えるためには負荷をかけないといけない。

 

足腰を弱らせないためには一生懸命歩いたり、スクワットしたりする。最近読んだ週刊誌にも誤嚥性肺炎を防ぐための喉の鍛え方が載っていた。

 

歌手だって声量維持のためには喉の筋肉を鍛える。マラソン選手だって心肺機能を高めるために高地でトレーニングする。

 

私も生きるために胃の機能を堕落させないように頑張って食べることで胃を鍛えているのかもしれない。

 

すいません、食い意地が張っていることを正当化するための屁理屈、いや単なる言い訳です。

 



 

とある日、娘と出かけた銀座・煉瓦亭での食事風景である。カツサンド、コキール、タンシチュー、オムライス、ハムライスが並んでいる。なんともすてきな眺めだ。

 

これだけでなく、デザートとしてナポリタンまで注文してしまった。どう考えても食べ過ぎである。

 



 

煉瓦亭の話はこのブログでも何度も書いてきたが、格式ばっていないカジュアルな店だからこういうドカ食い注文もしやすい。

 

同じ銀座の洋食でも「資生堂パーラー」や「みかわや」だったら、こういう注文をしたらボーイさんにやんわり叱られそうな気がする。

 

煉瓦亭のオムライスといえば、卵でチキンライスを包む一般的なパターンと違って、卵やご飯、具材も一緒にフライパンで炒める独特な一品が有名だ。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/02/blog-post_12.html

 

普通のオムライスのつもりで頼むとビックリする。ビックリする人が多すぎたせいなのか、いつのまにか一般的な卵で包むパターンのオムライスもメニューも追加されていた。

 

この店ならではのビックリオムライスも捨てがたいが、この日はビックリしないほうを注文してみた。感想は「さすが」の一言である。味や火加減のバランスが絶妙だった。

 

洋食の老舗中の老舗がごく一般的なオムライスというメニューを最近になって追加したわけだから、かなり気合いを入れて完成させたものと思われる。

 

特徴は無い。あえて特徴が無い仕上がりなのに抜群のバランス感覚を備えている。老舗の矜恃を見た気がした。ちょっと大袈裟かも知れない。

 



 

特徴が無いといえばハムライスも然りである。いや、むしろハムライスという存在自体が特徴的とも言える。ありそうで無いメニューである。

 

これが何とも美味しい。時々無性に食べたくなる。ハムとザク切りのタマネギだけである。コンソメベースの昔ながらのピラフっぽい味付けが私を悶絶させる。

 

この店独特の味の濃いシチュー類やベシャメルソース系の料理をおかずにしてハムライスを味わう幸せは洋食ファンにとっては至福の時間だと思う。

 

ドカ食い話と疲れ気味の胃の話を書くつもりが、結局、洋食バンザイの話になってしまった。

2020年10月14日水曜日

イキってるクルマ

久しぶりにカー用品店に行ってみた。オートバックスなどの専門店に昔は頻繁に出かけた。どうでもいいグッズをムダに買ってばかりいたのも若き日の想い出だ。

 

この8月に大好きだった昔のクルマについて書いた。学生時代の話が中心だったが、あの頃はオートバックスだけでなく、カーオーディオの専門ショップや四駆車専門のパーツ屋にも出入りしていた。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/08/blog-post_26.html

 

先日、久しぶりにクルマを変えたついでに有明のほうにあるデカいオートバックスに行ってみた。

 



 

久しぶりのカー用品店は旧人類である私にとっては違和感の塊だった。置いてあるグッズの多くが意味不明である。

 

電子系というのか、デジタル系のカタカナばかりでチンプンカンプンなモノで溢れていた。

 

私が分かるのは車載用の灰皿やゴミ箱、芳香剤やヤンキー系?の昔ながらの便利グッズばかりである。

 

その昔、目立つようにデンと構えていたカーオーディオコーナーなんて見当たらない。

 

あの頃の青少年が夢中になった「Carrozzeria」のロゴがイルミネーションになっていたスピーカーなんてまさに遺物なんだろう。

 

だいたい、イマドキのクルマ自体がだんだん分からなくなってきた。いちいちピーピーうるさい。車線をちょっとまたいだだけでピー、前のクルマに近づきすぎたらピーである。

 

車庫入れ時に空中?からのクルマの位置が表示されるなど便利な機能も多いが、昔気質の私は使いこなせていない。

 

アイドリングストップがやたらと不快で、そのキャンセル機能を調べるのにやたらと苦労しているし、カーナビだって妙に進化しているせいで使いにくいったらありゃしない。

 

そうはいっても、快適にドライブしたいから必死にブルートゥースがどうちゃらとかを学習し、音楽は縦横無尽に楽しめるようになった。

 

Amazonミュージックを使えば、信号待ちの間に瑛人の「香水」だってNiziUの歌だってすぐに出てくる。音質も昭和のカーオーディオに比べれば遙かに素晴らしい。

 

私のクルマには「Harman Kardon」のスピーカーが10個も付いているようで、かなりの爆音で聴いても耳が疲れない。

 

昭和の時代は、ウン十万もかけてカーオーディオを付けかえてイキがっていたが、イキったところで最初の頃はカセットテープだったわけだし、進化した時でもCDチェンジャーである。

 

CDチェンジャーは6連奏だけでなく12連奏版が登場した時は大興奮したが、それでもクルマに持ち込めたのは百数十曲だけだった。今や曲数無限の時代である。変われば変わるものだ。

 



 

今度のクルマの内装は赤皮である。トーンを落とした赤だからバカっぽい感じやイヤらし過ぎる感じではない。と思う。

 

道具としての実用性は大事だが、私がクルマに求めるものはそれだけではない。非日常性や色気だって欲しい。

 

煩悩オジサマとして生きている以上、普通のクラウンではちょっと物足りない。人生後半戦、カッコつけたりイキったり出来るのもそんなに長くないはずだ。

 

「いい歳なんだからおとなしく」と世間様は言う。でも私に言わせれば「いい歳なんだから気取りましょう」のほうが正解だと思う。

 

還暦もそう遠くない年になったわけだから、これからは赤いちゃんちゃんこならぬ、赤い内装のクルマでハッスルしようと思う。

2020年10月12日月曜日

この目で見てきたもの

今はスマホのおかげでどこでも誰でも簡単に写真が撮れる。逆に言えば、何でもかんでもすぐに撮れちゃうから、自分の目に必死に焼き付けるという行為がおろそかになる。

 

最近、そんなことを痛感する。自分の目で見た素晴らしい景色や美しいものを、もっともっと目で味わって脳ミソに刻み込みたい気持ちが強い。

 

スマホでパシャっとやってオシマイ。そんな場面が増え、それが当たり前になっていることが何だかもったいない。

 

老眼が進み、視力も昔より衰えてきたせいでそんなことを感じるのだろう。

 

先日また一つ歳を重ねた。半世紀以上頑張ってきた我が目の劣化は残念だが、まだまだこの目でいろんなものを見たい。

 

細かい文字を読むとき以外は今も裸眼である。メガネという人工物を介さないで我が目に焼き付けられるわけだから有難いことだ。

 

ダウン症の我が息子などは先天的に視力が弱い。幼児の頃からめがねは必需品だし、色の見極めにも問題があるようで気の毒だ。

 

彼が目にする情景と私が目にする情景には随分違いがある。そう考えると、頑張ってくれている自分の目をもっといたわりたい気分になる。

 

思えば、この目で随分といろんなものを見てきた。感動や驚きで目を見開いちゃうような場面も幾度となくあった。

 

加齢のせいで最近は回顧ネタが増えてきたが、今日は「この目で見てきた素晴らしい情景」を振り返ってみたい。

 

真っ先に浮かんだのが姫路城だ。小学生の頃、無性に現物が見たくて親にせがんで連れて行ってもらった時の感動は忘れられない。

 



 

姫路城への愛は4年前にも書いた(http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/04/blog-post_27.html)が、やはりあの美しさは尋常ではない。

 

もう45年ぐらい前の話である。観光バスが姫路城に近づいた際に、車窓から遠目にあの麗しい天守閣がちらっと目に入った時の衝撃は今も覚えている。

 

腰や足が浮き立つような感覚だった。瞬きするのも惜しむように壮麗な天守閣に見惚れた。

 

無垢な少年だった私が心底見たかったわけだから、実際に目にした瞬間はどれほど目を輝かせていたのだろう。キラッキラだったはずだ。

 

やはり小学生の頃、図鑑の写真をしょっちゅう眺めていたのがアメリカのグランドキャニオンだ。写真を見ているだけでその偉容に心を奪われた。画像はネットでパクりました。ゴメンナサイ。

 



 

それから78年経った大学生の頃、アメリカ旅行をする機会があった。たいていのツアーではグランドキャニオンは日帰りでちょろっと見に行くだけだが、私が参加したのはグランドキャニオンにあるロッジに泊まるプラン。

 

夕日も朝日もじっくり味わえる、まさにグランドキャニオン漬けの日程である。中継地点からは激しく揺れまくるオンボロプロペラ機で到着。

 

恐怖と飛行機酔いで瀕死の状態だったが、たどり着いたグランドキャニオンの景色に卒倒しそうになった。おそらく我が目は最大限に見開かれ、ついでに口はポカンと開いていたはずだ。

 

当時、ハタチやそこらの若造のくせに「死ぬまでに絶対に見たかった眺めだ!」と叫んだような気がする。

 

いまは「死ぬまでにもう一度見たい」に変わっている。今の年齢になった私の目はあの景色をどのように脳裏に写し込むのだろう。いま見たらきっと意味も無く涙を流す自信がある。

 

このブログを読んでくださっているかたは、私と似たような年齢層だと勝手に思っている。みなさんそれぞれ様々な思い出があるはずだから、こんな風に自分の目で見た衝撃の情景をじっくり振り返ってみるのは楽しい一人遊びだと思う。

 

私の目が衝撃を受けた情景はまだまだある。

 

高校生の時、一人で京都を旅した時に見た嵯峨野のあだし野念仏寺の石仏・石塔群や三十三間堂を初めて訪ねた時の千体観音像にもビックリした。

 

ついでに言えば、この京都旅行の際に初めて足を踏み入れたノーパン喫茶の光景も私の目に鮮烈な記憶を残している。

 

他にも、35年ほど前に沖縄・久米島で潜った時の水平で100メートル先まで見渡せそうな驚異的な透明度の海の光景も忘れられない。

 

わけも分からず潜ってしまった水深49メートルから水面の小舟が見えたことと、そんな透き通った海の中を青い魚が群れていた眺めは今でも鮮明に思い出す。

 

南米に近いカリブの島・ボネールで見たピンク色の夕陽も衝撃的だった。天変地異の前触れかと心配したが、地元の人の様子が普通だったので安心した覚えがある。

 

それ以外にも、小学生の時にひょんなことから近くで目撃した西城秀樹のカッチョ良さと顔の小さかったこと、後楽園球場での試合後、ファンから追われて走って逃げてきたデーブ・ジョンソン選手にぶつかりそうになった時の光景なんかも私の目の記憶上位である。

 

なんだかキリがないのでこの辺にしておく。

2020年10月9日金曜日

満腹死 揚子江菜館

本来なら毎年この時期は音楽漬けの日々だ。一応、私はバンドのメインボーカルという立場だから年末のライブに向けて奮闘していた時期である。

 

今年はもちろん、来年もまだビミョーな情勢だ。そろそろ自分が音楽活動に励んでいたことを忘れそうな感じである。

 

というわけで、バンドのメインメンバーである3人で集まって今後について熱く議論しようという話になった。

 

わがバンドが主に練習に励むのは神保町のスタジオだ。それにあやかって神保町の中華料理屋に結集した。

 



 

会場はスタジオにほど近い「揚子江菜館」。冷やし中華を日本で初めて提供したといわれる老舗である。昭和っぽい気配が漂うオジサマには居心地が良い店だ。

 

音楽談義を中華飲みで!みたいな流れだが、この日は結局、気が狂ったような「炭水化物の宴」になってしまった。

 

いい歳してバカなことをしてはいけないのは世の中の掟だ。そんな掟をないがしろにした我々に待っていたのは当たり前の報いだ。3人とも腹上死、いや満腹死しそうだった。

 

名物の冷やし中華を前菜に、池波正太郎が愛したと言われる上海焼きそばにつないで、デカい肉団子が入った特製カレーライス、そこから冷やし担々麺、ついでにデカいパーコーを乗っけるトマトラーメン、シメに天津丼である。

 







 

あまりにヘンテコな注文だから途中でザンゲするかのように餃子も頼んでしまった。餃子の印象が無いぐらい「麺と飯」に明け暮れた。


オジサン3人で麺飯類を6つである。画像では分からないがそれぞれ盛りも多めだ。おそらく女性なら一人で一品を食べきるのもキツいぐらいだろう。

 

どの料理も昭和を思い起こさせる味わいだった。オシャレ感やハヤリのアレンジとは無縁の質実剛健な仕上がり。男同士でガッつくにはもってこいである。

 

ビックリするほどウマいというより、うんうん頷きながら黙々と食べ進めたくなる味とでも言おうか。近所にあったら頻繁に行きたくなると思う。

 

3人とも食べるのに必死で、最初のビール以外にはウーロンハイを2杯づつで終わってしまった。だから誰も酔わずじまい。

 

紹興酒を熱燗でまったり飲むといった雰囲気には一瞬たりともならなかった。酒は2軒目の店でいいやと割り切ってひたすら食べた。

 

で、激論を交わすはずだった音楽談義は1秒もしなかった。ただただ腹をさすりながら1次会を終える。

 

で、2軒目だが、あまりの満腹に3人とも瀕死の状態である。おまけに喫煙者としては食後の一服を求めたいのに近隣の飲み屋は禁煙の店ばかり。

 

結局、オジサン3人で喫茶店に入る。誰もが表情はうつろだ。酒を飲む余力は無く、とりあえず頼んだコーヒーにも口を付ける気にならない。

 

音楽談義どころか、会話はただただ「苦しい・・・」というつぶやきの応酬である。ハタから見たら仲が悪そうな3人組に見えたかも知れない。

 

お通夜に参加したような顔をしながら「足るを知る」「分相応」「後悔先に立たず」。そんな言葉ばかりが頭に浮かぶ。

 

でも間違いなくこういうバカげた行動は、いずれ一級品の思い出に昇華するはずである。

 

50代も半ばになれば友人達と集っても「バカ飲み」はしても「バカ食い」はしない。そういう意味では貴重な思い出になることは必至である。

 

いずれ3人のうちの誰かが死んだ時には、間違いなく残る2人はこの日のバカ食い大会を思い出すはずだ。

 

ついでに言うなら、とりあえず健康だからこんなことが出来たわけで、それ自体が幸せなことである。

 

厄介な持病なり、厳しめの食事制限を強いられていたら、こんな乱暴なメシ会は出来ない。そう考えれば大いに意義深い時間だったと思う。

 

こじつけみたいだ。いや、言い訳だ。

 

というわけで、バンド活動の今後については何一つ話し合うこともなく、膨満感だけに包まれた一夜となった。

2020年10月7日水曜日

ルンバもどき 無洗米の秘密

綺麗好き。その昔、自分には縁が無い言葉だったが、今の私はかなり綺麗好きだ。ちょっと神経質なぐらいである。

 

若い頃、一人暮らしの住まいは超絶的に汚かった。歩けば綿ボコリが舞い上がり、水回りはカビだらけ。それでもヘッチャラだった。

 

おかげでハウスダストなんて気にもとめずに済んだし、いろんな菌に強くなったはずだ。

 

今はいっぱしの中年紳士だからそんな暮らしは出来ない。家政婦さんが週に一度来てくれることもあって、わが家はいつ来客があっても困らない程度には綺麗だ。

 

家政婦さんに頼っている部分は大きいが、実は家政婦さんの都合で先月の半ばから今月いっぱいお休みを取られてしまった。一大事である。

 

まあ、2LDKのマンションだから自分で掃除すればいいのだが、やはり横着グセがついていると何かと面倒くさい。

 



 

で、ルンバみたいなロボット掃除機を衝動買いした。Amazonのタイムセールでたまたま安くなっていたヤツである。

 

聞いたことのないメーカーだ。ルンバもどきと呼んでいる。定価が2万円ぐらいだったが、14千円で入手できたからルンバよりも遙かに安い。

 

以前にルンバは持っていたのだが、あまり使わなかったので人にあげてしまった。5~6年前のことだ。

 

家電製品の進化はなかなかのもので、安物のルンバもどきといえども想像以上に良かった。ガンガン働いてくれる。嬉しい誤算である。

 

昔のルンバよりも掃除能力は高いような気がする。部屋の隅や壁沿いでの動きを見ていると感心する。

 



 

ルンバもどきの導入初日、前の日に掃除機をかけていたにもかかわらず、これだけのホコリを集めてくれた。一気に愛おしい存在になった。

 

掃除終了後、勇ましい掃除モードの時とはうって変わって急に静かな様子に変わって充電基地を探し始める。迷いながらよろよろと動いている姿が物凄く可愛い。

 

以前のルンバにも、ついつい「ルンちゃん、こっちだよ」と声をかけていたが、今回の新兵器にも「モドキちゃん、そっちじゃないよ」と優しく語りかけてしまうほどだ。

 

ルンバに恨みはないが、ロボット掃除機を検討している人には、“もどき”で充分だとオススメしたい。

 

家事の話についでにもうひとつ。無洗米について新たに知った話を書く。知らなかった人は絶対に知っておくべき話だ。

 

無洗米をより美味しく炊くための秘訣である。取り寄せた無洗米に同梱されていた説明書に書かれていた。

 



 

「水が先」。実践してみたら違いをハッキリ感じた。目からウロコだった。

 

今までは炊飯器の釜にコメを入れてそこに水を投入。とがない代わりに軽く水をかき回していた。たいていの人はそんな感じだろう。でもその炊き方は大間違いだったみたいだ。

 

まず釜に水を入れてそこにコメを静かに投入するのがコツらしい。かき回すのも避ける。無洗米の場合はこの順番がポイントだとか。

 

実際にそのやり方で炊いたら、いつもよりツヤ感や粒立ち感が確実に増した。理由や理屈は分からないが、とにかく実体験してしまった以上、今後はこのやりかたを徹底しようと思う。

 

昔は何となく気持ち悪く思っていた無洗米だが、今や私の必需品だ。ヘタな普通米をヘタにといでヘタな炊飯器で炊くよりも、こだわって炊く無洗米のほうが確実に美味しい。

2020年10月5日月曜日

ラッキーピエロ


 

イクラ丼をむさぼる私である。私が愛する函館のイメージはこの画像の通りだ。かれこれ20回ぐらいは訪ねた街だから、カーナビを頼らずに運転できるぐらいには詳しい。

 

いつもイクラやウニをかっ込み、温泉に浸かりながら「津軽海峡冬景色」を歌うことが私にとっての函館そのものだった。

 

そんな私が10年以上前から気にしていた存在が「ラッキーピエロ」である。函館だけに点在する地域密着型のハンバーガーショップ、というかファミレス的な店である。

 

今や市内に17店舗もある。マクドナルドが6店舗だそうだ。まさに函館市民にとってのソウルフードである。

 




 

やたらと派手で賑やかな店造りでも知られる。そのうえ店舗ごとに内装が異なり、メニューにも一部違いがあるらしい。

 

通称は「ラッピ」である。函館通を自認する私だが、今まで未体験のままでやり過ごしてきた。

 

どうしたってウニ丼、イクラ丼、寿司、カニ、はたまたラーメンといった定番メシを優先していた。

 

「函館まで来たのにハンバーガーは無いだろう」という保守的な思い込みのせいである。

 

今回、そんな思い込みが無意味であったことをつくづく痛感した。今まで損していたと言ってもいい。

 

今なら声を大にして言える。「ラッキーピエロに行かなきゃ函館に行く意味はない!」。

 

ずーっと気にしていた店だ。待望の瞬間である。そんな気持ちで食べれば何でもかんでもウマく感じちゃう。そう思って何度も冷静に味わったのだが単純にウマい。

 

ドカ食いには最適な大学生の娘という相棒がいたので、あれこれと注文できた。

 





 

ラッキーピエロの名を一躍有名にしたのが「チャイニーズチキンバーガー」だ。「チャイチキ」である。

 

甘めのタレに漬け込まれた唐揚げがバンズに挟まれている。マヨ系のソースも相性バッチリで美味しい。日本全国のご当地バーガーコンテストで一位になったらしい。

 

このチャイチキの唐揚げはオムライスにも焼きそばにもカレーライスにもトッピングメニューに選べるから、まさにラッピの顔役である。

 

オムライスがまた良かった。ふわっとしたタマゴに意外にあっさりしたチキンライス。キチンと丁寧に作られている印象だった。

 



 

バンズ代わりにハンバーグの肉でソースや具材を挟んだヤケッパチみたいなバーガーもただただ肉肉しくて感動した。

 

若い頃に出会っていたら毎日食べに行ったような気がする。


 


初訪問の際のテーブルの景色だ。なんとも魅力的である。男の子のなれの果てである私にとっては胸がきゅんとする眺めである。

 

焼きそばは何の変哲も無い普通の焼きそばなのだが、そこがまた嬉しい。なかなか「普通」に出会う機会はない。

 



 

縁日の焼きそばだってマズいヤツは許せないほどマズいし、油がビチャビチャだったり、凝りすぎて意味不明な具材に麺が邪魔されているパターンが意外に多い。

 

その点、ラッピの焼きそばは正統派そのもの。思った以上にサッパリめで中高年だってドカドカ食べられる。若者だったらチャイチキをトッピングするのも大いにアリだろう。

 

旅行最終日、東京への飛行機が昼の12時発だったので、旅行最後の食事もラッキーピエロを選んだ。

 



 

朝10時から食べたカツ丼も正しくウマかった。味付けが強すぎず、これまた丁寧にキチンと作られている味だった。

 

2度の訪問ですっかりラッピファンになってしまった。定番メニューのうち、カレーまでは手が回らなかったのが残念である。次回のお楽しみだ。

 

ついでに言えば、ソフトクリームが物凄く美味しかった。想像だが練乳っぽい成分がキモになっている気がした。


ついでにレトルトや即席ラーメンといったお土産も買い込んでしまった。危うく?マグカップやキーホルダーまで買いそうになった。

 




 


というわけで、函館だけに3泊も滞在し、ウニやイクラなどの海鮮や評判の良いラーメンなども食べて“食い疲れ”するほどだったのだが、兎にも角にもラッキーピエロをしっかり体得?出来たことが最大の収穫である。

 

旅行中、何が一番ウマかったか娘に尋ねたら、帰ってきた答えは「ラッキーピエロのカツ丼」とのこと。45千円もするウニ丼も食べさせたのにちょっとビミョーだ。

 

ちなみに今回の旅で私が一番美味しく感じたのは、ラッキーピエロのオムライスである。

 

そんなもんである。