2019年6月28日金曜日

優雅なスイーツ


酒も飲むクセに甘いモノも好きだ。そんな雑食な私にとって最愛の娘と甘いモノを食べる時間は幸せだ。

娘が小遣いで食べられるような手軽なスイーツではなく、ちょっと高い路線を食べさせてあげたくなってしまう。甘甘オヤジである。


ファミレスとはいえ、ロイヤルホストなどは高級志向にシフトし始めているからパフェが1000円ぐらいする。サラリーマンのランチ2回分である。

でも、そんなパフェを気前よく食べさせる。実に甘い。パフェ自体も甘い。くだらないダジャレを書いてしまったが、来年には大学生になる娘が父親に甘えてくる時間は残り少ないだろうから、教育上良いとか悪いとかは気にしないことにしている。

先日、学校が午前中で終わった娘がわざわざ京橋まで来たので、贅沢スイーツの極みのような店に行ってみた。

京橋駅直結のこの街のランドマーク的なエドグランにデカい店を構える「トシ・ヨロイヅカ東京」のサロンコーナーである。


1階にはケーキをなど販売するコーナーとカフェがあるのだが、サロンは2階に優雅な雰囲気で用意されている。

ウリはパティシエが目の前で仕上げるコース仕立てのライブデザートである。1階で売られているスイーツとは別に、ちょっと豪勢なラインナップを選べる仕組みだ。


コースは2千円と3千円の2本立て。今回は前菜とメインがやってくる2千円の方を選ぶ。

シャンパンなどもメニューにあったが、昼だし、子連れだから紅茶にする。紅茶もいくつかのフレーバーから選べて、どれも香りが良いからホッコリする。




まずは前菜。オジサマ的にはよくわからない名前だったからうまく説明できないが、細かくカットされたフルーツに様々な甘いソースが組み合わされていた。

確かにシャンパンが欲しくなる感じだった。こういう場所で甘いモノを食べまくってシャンパンをガブ飲みするのも面白いと思う。いつかチャレンジしてみたい。

娘が選んだメインは卵のスフレ。もう一つは名前は忘れたがシャンパンフレーバーの何かとこれまたリキュール風味が印象的なチョコレート系アイスクリームの盛り合わせだ。

結論としては全部美味しかった。手抜きなし。添えられているちょっとしたソースやシロップも風味豊かで良い感じだった。


卵のスフレは甘い味わいの半熟気味の卵黄が顔を出したりして、その濃厚さはなかなか迫力があった。

スイーツに2千円と聞くとビミョーに感じるが、落ち着いた雰囲気の空間でこのレベルのものをゆったり味わえるなら悪くない。

甘くてウマいものは自然と人を笑顔にする。

平日だから空いていたのだが、40代ぐらいの紳士が一人でふらっと食べに来ていた。悪くないセンスだと思う。

2019年6月26日水曜日

銀座徒歩圏に暮らす

まる4年暮らしたマンションを引っ越した。今度の住まいは新富町である。先週末に引越しを終えたが、とにかくバテた。

体力の無さを痛感する作業だった。引越し前日にオバサマ3人部隊が荷造りに来て、引越し翌日には荷ほどきサービスに来るというフルパックを使ったのにバテバテ。

移った先のマンションは以前のものよりわずかに2坪弱ほど面積が少ない。さほど気にしていなかったが、このわずかな差が私を悩ませた。

分かりやすくいえば、部屋や納戸、その他のスペースがそれぞれ1畳分づつ狭くなった感じ。思った以上にこの差は大きい。

ベッドの足元に置いていたスツール、足腰を鍛える健康器具、テレビ前の小さいテーブルなど、ちょっとしたモノが微妙に邪魔で、整理整頓に難儀した。

テレビを見るためのソファも新居ではオーバーサイズだから、結局、新調するハメになった。配送待ちだが、それが届けば一段落である。



ベランダも充分広いのだが、エアコン室外機の位置の関係で前から使っていた置き型ハンモックが設置できない。

まあ、文句を言っても始まらない。一人暮らしには充分過ぎるスペースだし、今後も余計なモノを処分する習慣がつきそうだから逆に良かったと思う。

幹線道路沿いのマンションだが、防音性に問題はなく実に快適。なんてたって向かいの建物の1階がセブンイレブンである。おまけに徒歩1分のスーパーもそれなりの品揃えだ。

転居を機にやたらといろんなものをストックする悪いクセともオサラバである。面倒なことが歳とともに苦手になってきたから便利な立地というだけで大満足だ。

タクシーは目の前をバンバン走っている。今までは閑静な住宅街だったからスマホのアプリで呼び出しても結構待たされた。そんなイライラともオサラバできるのが嬉しい。


今までは朝のベランダでの一服は目の前の緑を眺め鳥のさえずりを聴きながらだった。引越しを機にベランダの向かいはオフィスビルになり、聞こえるのも道路を走るバスや車の音に変わった。

これを味気ないと感じるのは平凡である。銀座が徒歩圏というやたら便利な場所に移ってきた“喜びの騒音”と捉えるようにしている。

4月末に職場が移転し、いよいよ住まいも落ち着いた。職住接近の完成である。転出届も前の区役所に郵送したし、まもなく中央区民になる。

前のマンションの退去立ち会い確認も終わった。「セカンドハウスとして使っていたんですか?」と言われたほど綺麗な状態で引き払えたので、何だか誇らしい!?気分になった。

杉並区で生まれ千代田区の学校に通い、大人になってからは新宿区、豊島区、文京区の中で何度か転居してきた私にとっては、今更ながら妙に新鮮な気分を味わっている。

このところ、五感を始め、いろいろな感度やアンテナがユル~くなっていたのだが、職場と住まいが一気に移ったことはかなりの刺激だ。感性を再浮上させるきっかけにしたいものである。

気分爽快、気力も充実、といいながら疲労困ぱい。それが実際のところだ。1泊でもいいから温泉でホゲホゲしたいところだが、なかなかタイミングが合わない。

でもバタバタしているのが妙に楽しい。

2019年6月24日月曜日

サボりです


引っ越しでバタバタで今日は更新をサボります。

10年以上前に腰痛で悩んでいた時の過去記事を載せます。

今はまるで腰痛とは無縁だ。不思議だ。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/04/blog-post_16.html




2019年6月21日金曜日

ショーファードリブン


クルマの運転が少しずつ億劫になってきた。おそらく視力が弱くなってきたことがきっかけだろう。

高齢者の交通事故が相次いでいるが、ニュースを見るたびに、自分だっていつ加害者になってしまうか分からないと神妙な気持ちになる。

私の母親が運転をやめて2年ぐらいになる。運転歴は60年ほど。当初、クルマ無しの生活は相当キツかったようだが、悲惨な事故の加害者になる可能性はなくなったわけだ。

運転をやめるきっかけは、わが社の関係者が起こした事故だった。2人乗り自転車の親子が飛び出してきた接触事故だった。

こちらが普通に注意していても事故は起きる。高齢になっていた母親もその恐さを実感して英断を下したわけだ。

こんな私も、時々は運転手さんにまかせて後部座席に座る。変な言い方だが、自分自身が事故を起こす可能性がないわけだから気は楽だ。

タクシーに乗るときも同じだ。ヨレヨレのお爺ちゃんドライバーにあたると別な意味で恐怖心バリバリだが、あくまで運転していないという点は一緒だ。


先日、レクサスLS500のタクシーに乗り合わせた。いまや日本が世界に誇るサルーンである。あれをタクシーにしちゃうのも酔狂だが、やはり乗り心地はかなり良かった。

デザインもカッチョ良い。初期レクサスのドンくさい印象は無い。当時はクラウン、セルシオの延長といったイメージしかなかったが、最新型の突き抜けた感じは実に素敵だ。

私の運転歴は35年、ぺらぺらだった日本車がここまで進化したのかと思うと実に感慨深い。

ベンツのSクラスなんかは後部座席専門みたいな印象だが、LS500の場合、ショーファーカーとして後ろにドテっと座るも良し、自らハンドルを握ってもサマになる。そこが大きなポイントだろう。

後部座席に乗るクルマとして筆頭格といえばマイバッハだ。何度か乗る機会があったが、さすがにクルマ自体が持っている雰囲気が別格だ。細かい造りが実に丁寧だからそう思えるのだろう。


パっと見はちょっと大きめのベンツにしか見えないところが良い。これ見よがしな外観だとイヤミったらしいが、その部分が地味なのがオシャレだ。

新しくなったセンチュリーもおそらく素晴らしいのだろうが、あれはさすがにカタブツイメージが強すぎる。「FUN」という要素とは無縁な位置付けだ。

天変地異が起きて私が凄くエラい人に変身したとしてもセンチュリーは避けたい。まあ、そんなのに乗るようなエラい人になる可能性はないが、70歳も過ぎたらあのオーラに惹かれるのだろうか。

いま私が乗っているのは、ショーファーカーほどの長さはない。自分で運転するのが楽しいイタ車である。

一応4ドアだが、ややスポーティーな路線なので、時々運転手さんをお願いする時は、たいして快適ではない後部座席でチンマリしている。

一人者だし、ホントは2ドアクーペに乗りたいのだが、加齢のせい?で後ろに乗りたい時が増えてきたから、今後乗り換えるにしても中途半端な4ドアに落ち着きそうだ。

2019年6月19日水曜日

寿司屋のお手本「吉野鮨」


寿司屋でしっぽり。若かった頃に憧れた大人の姿だ。既に大人を通り越した?年齢になった今も、外食のジャンルの中で一番好きなのは寿司だ。

最近になって「寿司バブル」という言葉を聞くようになった。一人3万とか5万とかバカみたいな値段の店が人気を呼び、そんな店がなかなか予約が取れないらしい。

なんかヘンテコじゃなかろうか。そういう店に限ってネット上の評価は物凄く高く、一部の“信者”みたいな人々がやたらめったら誉めまくっている。

そんな値段でマズかったら、それは犯罪だ。美味しいのは当たり前の話だろう。

そういう店の多くは上等な素材にアレコレ手をかけて、つまみ10品、握り15貫みたいなコース仕立てで演出している。

もちろん、それ自体は大いにアリだと思う。手を変え品を変え少しづつ気の利いたものが順序よく出てくるわけだから客も黙って座っていれば幸せだ。

でも、そういう路線こそが寿司の名店の証みたいになっている風潮には違和感がある。

あえて言うなら、寿司割烹であり、寿司をメインにした料理店というカテゴリーだと思う。


寿司はもともと江戸のファストフードだ。参勤交代のせいで単身赴任男だらけだった時代に生まれたのが握り寿司だ。それこそ銭湯の行き帰りにパパっとつまむような気軽な存在だった。

もちろん現代もそうじゃなきゃいけないと言う話ではない。時代とともに食文化は変化するわけだからいろんなパターンがあってもいい。

ただ、緊張を強いられるような雰囲気の空間に座らされ、当然のように3万、5万という値付けをしてくる昨今の寿司事情がどうにも気持ち悪い。

私だったら、そんな値段を払うなら由緒正しき正統な日本料理の名店で熟練の料理人の味を楽しみたいと思う。それならちゃんとかしこまって器を愛でたり、季節を感じて気の利いた俳句の一つも詠もうってもんである。

意味不明でスイマセン。

日本橋に吉野鮨という有名な老舗がある。職場が近くなったので、何度か足を運んだ。極めてまっとうなお寿司屋さんだと思う。

ある意味、寿司屋のお手本と呼んでもいいのではないだろうか。


年季の入った職人さんが4人ほどカウンターに陣取る。感じも良い。かといってソフト過ぎるほどではなく、キリっとした職人気質も感じられて小気味よい。

ダラダラ飲みたくなるような雰囲気ではない。テンポ良く飲み食いしてサラッと帰るような過ごし方に向いている。

私は寿司屋では長っ尻をしてしまいがちだ。ヤボだとは分かっているが、ちょろちょろツマミをもらって酒を飲み、握ってもらう頃には結構酔いが回っている。

握りをしっかり楽しみたいと常々思うのだが、馴染みの店に行くとついつい甘えて過ごすから、せっかくの握りを堪能できないこともある。

さっきからエラそうに書いているくせにそんなものだ。

その点、吉野鮨に行くとダラ飲みはしない。1時間ぐらいでオシマイである。ダラ飲みしたい気分の時は別な店に行く。

軽く飲みながら伝統的な江戸前の握りをパクパク食べたい時にもってこいである。

刺身を少しずつ2~3種類もらい、その後、ゲソか穴子、小ぶりのサザエなんかを焼いてもらって軽く飲んでからが本番だ。

白身の昆布締めに、貝類に車海老、煮蛤、コハダ、酢締めされたアジやサバ、なんといってもマグロのヅケが絶品だ。こちらは油霜造り。

いわゆる仕事を施してあるネタが素直に美味しい。さすがに江戸前の老舗である。それでいて値段は決して高くない。適価だと思う。

ちょっとイヤミったらしく言うと、それなりに寿司のイロハが分かっている人に向いている店だろう。

もちろん、職人さんが親切そうだから詳しくない人でも心配はないだろう。でも、自分なりに寿司へのこだわりを持っているような人の方が店の良さを実感できるはずだ。

端的に言うなら、寿司バブルへのアンチテーゼのような極めてまっとうな名店だ。

2019年6月17日月曜日

内視鏡と特別食堂


毎年恒例の内視鏡検査に行ってきた。今年は昨年取らなかったやや小さめのポリープ切除があったので、例年より早い時期に行ってきた。

口とお尻からカメラを挿入されるなんて考えただけでも卒倒する話だが、実は私にとってこれがすこぶる快感。ピエール瀧の気持ちがちょっと分かるほどだ。



もちろん、挿入されるのが気持ちよいわけではない。私は挿入する方が専門だ。おっと話がそれた。

内視鏡を入れるのが快感ではない。検査前に強力鎮静剤で落とされるのが物凄い快感だ。

例年のことだからこっちも慣れたものだ。クスリで落ちないように必死に抵抗する。この抵抗している時のクラクラが抜群に気持ちよい。

クスリが効いてくると「来た来た~、来てる~。う~負けないぞ~」と叫びながら宇宙がグルグル回り始めてストンと落ちてしまう。

目が覚めたときには個室の処置室にポツンと一人。ホントに検査したのかいな?って思うぐらいアッサリ終了。

終了後、数時間は鎮静剤が残っているからフワフワ気分で過ごす。全身が弛緩するらしく肩凝りもなくなっている。

朝、昼を抜いての検査だから、楽しみはその後のドカ食いだ。今回は大きめのポリープを二つも取ったから、しばしの禁酒令を言い渡される。フワフワ気分のまま飲むビールが最高なのだが、今年は真面目に我慢する。

飲んじゃうと別に死んじゃうわけではないが、ポリープを切除した部位から出血しちゃうらしい。歩きながらお尻から血をビュービュー流すのもカッコ悪いので仕方がない。

空腹でたどり着いたのは日本橋高島屋本館の特別食堂である。ウナギを攻めようかと思ったが、帝国ホテルのメニューが色々揃っていたのでそっちを選ぶ。



帝国ホテル名物のシャリアピンステーキとエビフライである。エビフライの海老自体がさすがに味の濃い上モノだ。タルタルソースをベトベト付けまくってムホムホ食べる。

ノンアルコールビールでもウマい。近頃のノンアルビールは一昔前に比べて格段にそれっぽい味になった。技術の進歩が有難い。

それにしても高級デパートの「特別食堂」ってなかなかの穴場である。三越、高島屋クラスだと入っている店も高級老舗店が多い。

高島屋だって野田岩のウナギと帝国ホテルのシャリアピンステーキが一緒に頼めるわけだから画期的である。

平日の午後、楽しそうに食べているのはオバサマばかりである。世のオジサマ連中には無縁の世界のように見えた。

ああいう場所でああいう時間を過ごしているから、オバサマ達の平均寿命は男より遙かに長いのだろう。

さてさて、話を戻す。

それにしても揚げ物の茶色にはなぜあんんなに私を引きつける力があるのだろうか。

先日の週末もバンド練習の後の飲み会で胃が疲れているのに、結局注文したのは茶色い揚げ物だ。



クリームコロッケ、うずら串カツ、つくね串カツである。ソースをベトベト付けてニコニコと食べてしまった。

その前日も銀座の小料理屋「おかやす」で絶品メンチカツを頬張っていた。牛粗挽き100%の本気のメンチである。マズいわけがない。



揚げ物の茶色は私にとってセクシーダイナマイトと呼びたいぐらい魅力的だ。トンカツ、エビフライ、クリームコロッケだけでも1か月ぐらい余裕で暮らせるような気がする。

テーブルの上に置かれるだけでワクワクする。「茶茶茶っ、おもちゃの茶茶茶っ!」とヘンテコな鼻歌を歌いたくなる。




2019年6月14日金曜日

銀座、六本木とは違う世界


東京で大人の街といえば銀座だ。職場が池袋にあった反動?で30代の頃から銀座にはずいぶん足を運んだ。

飲食店に関しても「真っ当な店」が揃っているから、背伸びしていた30代の頃から色々な店を覗いてきた。常連になった店もいくつもある。

良い店に共通するのは矜持だ。銀座という街に店を構えて長い間勝負しているという自負が大きく影響している。

そんな銀座ファンである私が京橋に拠点を移してまもなく2か月。銀座通いと同じぐらい京橋界隈を探索している。

大衆店も楽しいが、少し凜とした空気が漂う店で飲み食いしていると、お江戸の中心にいることを実感できて気分が良い。

こちら界隈のまっとうな店も「矜持」を感じさせる。東京のど真ん中、はたまた江戸の名残りを大事にしているような自負を感じる。

京橋駅近くにある「京すし」もそんな店だ。ネットの評判が高いことは前もって知っていた。ただ、クチコミのすべてが名物らしき昼のメニューに集中していた。


夜は穴場かも知れないと思い、ふらっと訪ねてみた。初めて行ったときは運良く混雑していない日で、ゆっくり過ごせた。

仕事を施した江戸前の仕事がしっかりしてあるのが特徴だろう。奇をてらったところはない。

おまかせコースを押しつけられることもなく、普通に好きなものを好きなペースで楽しめる正統なお寿司屋さんだ。

大将も自然体の接客で居心地が良い。酒のメニューとともに、さほど数は多くないが、一品料理のメニューもある。


刺身の他にいくつかツマミを注文。たらこの西京焼きという酒のアテには抜群の一品もあった。

握りもキッチリと正統派の江戸前。酢締め、昆布締めの加減も安定しており、シャリも変に凝りすぎた感じはなく、握り自体の加減も良い。

カウンター席の間隔もゆったり。個室か小上がりもあるようだが、動線の関係でカウンターからは見えない造り。


まっとうな街場のお寿司屋さんをちょっと高級路線にして、凜とした雰囲気を加えた感じと表現すると分かりやすいかも知れない。大人が時々シッポリ過ごすには良い店だと思う。

まだ2回しか行っていないが、肝心のお値段は、銀座の似たような雰囲気の店で似たような食べ方をするのに比べて、3分の2、いやもう少し安い。適価だと思う。

お次は京橋より東京駅に近い八重洲側にある割烹「嶋村」を覗いてみた話。


なんでも江戸末期からある老舗で、明治の元勲も訪れた由緒ある店だとか。とはいえ、格式張った雰囲気ではなく、ちょうどいい感じの和食屋さんと呼びたくなる雰囲気。

歴史があるのに仰々しくないというパターンは私にとってはドンピシャである。肝心のお味の方は「ちゃんとしている」という言葉がピッタリだろう。

上の画像は名物だという「うずら椀」、内臓を取ったうずらを骨ごと細かくミンチにした一品。お吸い物の味が実にキチンとふくよかで、うずらを食べ進むうちにその風味が溶け合って味に変化が付くのも楽しい。



こちらは鯛のぶつ切りをポン酢で食べる一品。薬味がこれでもかってぐらいトッピングされていて驚いたが、混ぜあわせて味わうと絶品。最近、野菜嫌いのくせに薬味にハマっている私にとっては最高だった。


天ぷらのレベルもチェックしてみようと(偉そうでスイマセン)、稚鮎とメゴチとキスの盛り合わせを注文。これまた文句なし。

すべてが実に丁寧に作られていた印象だ。こういうところが中央区界隈の老舗たるゆえんだろう。間違いない味とでもいおうか。

そんな店なのにタバコも吸えちゃうぐらい敷居は高くない。お値段もどうでもいい居酒屋の2回分といったところ。内容を考えたら決して高くない。

こういう店が簡単に見つかるから、こっち方面の散策がもはや趣味といえるレベルになってしまった。

意欲に反比例して肝臓はバテバテである。

2019年6月12日水曜日

断捨離は楽しい

自宅の引越しを来週後半に控えて断捨離モードバリバリである。次の住まいは新富町だ。

新しく富む、という字ヅラが良い。職場のある京橋はもともと宝町である。

「宝の町で働いて、新たに富む」。実に素晴らしい。いよいよ富豪への道?を突き進まねばなるまい。

このところゴミを大量に捨てている。70Lのデカいゴミ袋で20袋以上は処分した。軽トラックで3台分ぐらいは捨てたかもしれない。

着ない服や何年も履いていない靴、雑貨、小物を始め、本も4分の3ぐらいは捨てた。結構頑張ったつもりだ。

でも、納戸に仕舞い込んである若い頃にハワイで買ったラッセンのリトグラフなんかをまだ捨てられないあたりがダメだ。

まだまだ思い切って処分できるはずだと、ここ数日、獲物を狙う目で家中を見回している。日によって自分の中の不要かどうかの基準が変わっちゃうから困りものだ。

一人暮らしだから、どこに住んでも構わない立場なのだが、いろんな事情で豊島区・文京区界隈に根付いていた。今回の引越しでようやく独り立ちするような感覚がある。

4月末に職場が移転して以来、断捨離効果を物凄く実感している。気分もスッキリして気のせいか頭の中もスッキリしている。

お世辞120%だろうが、複数の飲み屋の女性からは「以前はもっとドンヨリした顔付きだった」などと表情の変化まで指摘されている。

職場の移転でさえ効果を感じるのだから、家も引っ越せば、顔付きが松坂桃李や三浦春馬、いや、ジョージクルーニーかリチャードギアになってしまうんじゃないかと心配である。

数ヶ月に一度訪ねている謎の霊感占い師がいるのだが、事前に引越し先を相談するとアレコレうるさいから、今回はすべて決めてから報告してみた。


で、見てもらった結果は、前回の住まいと同様「隠居の家相」だとか。ただ、今回の隠居の家相は全体の半分だけが該当するらしく、寝室とダイニング部分はセーフだとか。喰っちゃ寝、喰っちゃ寝の暮らしをしていればいいわけだ。

なら気にすることはない。合格である。しかし、引越しの時期が良くないらしい。今年後半に何度か吉方取りのために特定の方向に出かけろという御託宣?をもらった。

ちなみに12月にヨーロッパに行くのが大吉らしい。その話だけは全面的に信じようと思う。

断捨離の効果は、精神的な新陳代謝が活発化することだ。大げさなようだが、これって結構大事だ。

不要なモノを処分することは執着を断ち切ることにつながるわけで、必然的に運気は上がるらしい。

要らないものを捨てられないことは、言い換えれば過去に執着している意味でもある。「今でしょ、いま!」という気持ちで生きるためには適度な断捨離は必要だと思う。

何が必要で、何が要らないのか。どうでもいいことのようで、これって冷静な判断能力が問われる話だ。判断する力を訓練するのにも断捨離はもってこいだ。

以前は引越し業者がサービスで不要品処分を請け負ってくれたが、最近はルールが厳しくなったらしく、仕方なく廃棄業者を呼んで普通に捨てられない不要品を引き取ってもらった。

カーテンも今のものはまったくサイズが合わずに買い直しだし、お金が結構かかってピーピーである。

宝の町で働いて、新しく富むはずなのに、そのあたりはどうもウマい具合に進んでいない。先行投資だと思って割り切ろうと思う。

2019年6月10日月曜日

雑食の日々


職場の周りの店を開拓する日々が続いている。昼飯を食べない1日2食の生活だから開拓できるのは夜だけだ。なかなか大変である。

職場のある京橋はもちろん、5分歩けば日本橋、反対側に5分歩けば銀座一丁目である。肝臓と胃がいくつあっても足りない。

良い感じの真っ当な寿司屋も見つけた。大人向きの本格割烹も見つけた。今のペースで開拓を続けたら行きたい店が増えすぎて困りそうだ。

今日はそういうシッポリ系ではなく、大衆系の店の話を書く。

まずは焼鳥。京橋にはチキンストリートなる路地がある。伊勢廣本店を中心にいくつかの老舗が集まっている。その中の一つ、都鳥を訪ねた。


界隈の焼鳥屋の難点はコースが基本になっている点だ。この店も焼鳥5本2千円という最低基準が設けられていて、仕方なくそれを頼む。



焼鳥は普通に美味しい。白レバのあん肝風という一品を頼んだが、あまり好みではなかった。もろきゅうや鶏ミソ、追加の串をツマミに飲んだ後で親子煮を注文。


濃すぎず薄すぎず良い塩梅だった。この一品のおかげでそれなりに満足できた。

職場移転で行かなくなった豊島区某所にある絶品鶏料理屋が基準である私としては、ご近所焼鳥問題は今後も課題になりそうだ。

お次は職場からすぐの居酒屋「舌菜魚」。何の変哲も無い店なのだが、年配サラリーマンで毎晩賑わっている。

私もこの1か月で4.5回も通ってしまった。飲み物、食べ物の種類が豊富で、何を頼んでも外れが無い。



茹で牛タンとスジ玉、白レバである。どれもウマいが、牛すじ煮込みをオムレツみたいにくるんだスジ玉が絶品だ。会社の人間と軽く飲む時はこの店ばかりになりそうな気配である。

路線を変えて、お次はラーメンである。とある日、界隈で飲んだ後に突撃してしまった人気店だ。

オリジナルの味噌ラーメンがウリの「どみそ」という店。酔っ払っていたのでチャーシューを追加したらチャーシューだらけになった。


正直言って私の口には合わなかった。しょっぱ過ぎる。あれを若者向けの味というのだろうか。だとしたら若者の味覚がチョット心配である。

周囲を見回したらオジサマは私ひとりだった。他の客は皆ウマそうに食べていたから、招かれざる客みたいな感覚だった。

お次は八重洲地下街の端っこ、京橋寄りにある居酒屋「三六」。ここも当たりだった。


あまり見かけない赤ホッピーもある。おまけにキンミヤ焼酎を凍らせた、いわゆるシャリキンで楽しむスタイルだから、大衆酒場ラバーにとっては良い店である。

大根の天ぷらというブキミな一品を勧められた。普通なら天地がひっくり返っても注文しない一品だが、成り行きで食べたらちょっと感動。おでんで出てくるダシが染みこんだ大根が天ぷらになっていた。



やきとん、シメのつけ麺だ。どれも酒呑みオヤジ達を納得させる水準だった。

今月後半からは新富町に引っ越すから、そっち方面の開拓も課題である。あっちキョロキョロこっちキョロキョロの日々だ。

なんだか旅先にいるみたいな感じになってきた。人生は旅であるー。そんなキザなセリフにつなげようと思ったけどウザったくなるからやめる。

2019年6月7日金曜日

いろエロな漢字


現場記者だった頃に比べてすっかり漢字が書けなくなった。これも自分の劣化だと思うと残念だ。手書きで原稿を書いていた頃は得意になって難しい漢字を書いたが、パソコンに向かうようになってダメになった。

一応、書きもの商売をしている以上、漢字には詳しくありたい。漢字の面白さは独特だ。アルファベット言語の国の人々よりそういう文化を持っていることは誇らしい。

「恋は下心、愛は真心」という言葉がある。恋も愛も一文字の漢字だが、「心」という文字が組み込まれている位置をもじった笑い話?である。

恋は下側に心があり、愛は真ん中に心が置かれている。まさに言い得て妙といったところか。

似たような屁理屈みたいな使い方としては「偽善の偽」も聞いたことがある。「偽という字は“人の為”なんだから偽善だって素晴らしい」。

漢字のいわれ、成り立ちを語り出したらキリがないが、結構面白いエピソードは多い。

「好」という字は母親が子どもを抱いている形がベースなんだとか。なんとも素敵な話だ。逆に「取」という文字は、その昔、戦いに勝った者が負けたほうの耳を切り取った習慣から生まれたそうだ。恐い話である。

「鰯」はすぐに傷んでしまうから「弱」が使われ、「鰹」はカツオ節で分かる通り、干すと堅くなることがルーツだ。

普段、何気なく使っている漢字も意味合いを考えると、その奥深さに感心する。

と、いっぱしの教養話みたいに書いてきたが、ここは私の戯れ言ブログである。予定通りに脱線しようと思う。

私が敬愛するかの「みうらじゅん師匠」がかつて「夜の漢字大賞」という企画に取り組んでいた。

その漢字を見ただけで、あらぬ妄想をしてしまう文字を選ぶという高尚な企画だった。

「姦」、「性」、「淫」、「勃」など数多くのエントリーの中から大賞に選ばれたのは「嬲」(なぶる)である。

確かに凄い文字だ。女が真ん中で左右に男と男。まさに「あらぬ妄想」のためだけに生まれたような文字かもしれない。

個人的には「淫」、「濡」、「漏」といった“サンズイ”がつく漢字にナゼか目が行く。サンズイは怪しいというのが基本認識である。

「満」、「汁」、「泌」、「液」だってサンズイである。マニアックなところでは「泄」なんかもある。

ちなみに、こんなことを書いている私の下の名前は、実はサンズイの連発である。二文字の漢字それぞれにサンズイが付いている。

サンズイ+サンズイ。ちょっと問題かもしれない。。。

まあ、キリがないからこのへんでまとめに入ろう。

以前、知り合いから素敵すぎる誤字メールをもらった。拍手したいレベルだった。

「股の機会にぜひ誘ってください」。

股の機会である。そりゃあすぐにでも誘いたいものである。

2019年6月5日水曜日

スタミナとウナギ


スタミナという言葉を使い続けてウン十年。ラテン語やギリシャ神話に語源があると最近知った。

詳しいことは分からないが「生命が持つ根源的な力」という意味らしい。そこから「元気の源」みたいな使い方をされるようになったとか。

フムフムである。

一般的にスタミナとは、活力や持久力のことを指しているわけで、スタミナ食といえば「元気が出る食べ物」を意味する。

ここ10年ぐらい、やたらとスタミナ系に意識が向くようになった。居酒屋で馬刺しを見つければ注文し、とろろをドリンク剤のように一気に飲み干し、ほうれん草のお浸しなんかも頬張る。


家の冷蔵庫にもすぐに食べられる味付きとろろが常備されているし、冷凍ウナギも切らしたことがない。

私にとって一番の好物といえばウナギだが、最近は好きだから食べているというより、スタミナをつけるために食べている感覚がある。

牛丼屋で期間限定みたいに用意されるウナギにも手を出すようになった。以前は敬遠していたが、最近は疲れを感じると本格的な専門店以外でも食べる。

個人的には吉野家のウナギより、なか卯のウナギのほうがしっくりくる。キンシ卵が邪魔な点を除けば悪くない。

ファストフードのウナギまで食べちゃうようになったのは、ここ1,2年だ。それだけスタミナ補充に躍起になっているのだろう。

好きなものはもう少しこだわって味わいたいところだが、年々スタミナ低下が進んでいるから、小さなことにこだわっている余裕はない。

歳が歳だから疲れやすいのは仕方がない。放置しておくと、身体も心もクタ~っとしちゃう。こうなると頭の回転も止まる。何かと不便だ。

そういう状況になると身体の奥の方、芯の方に元気の源をせっせと運びたくなる。まっ先に頭に浮かぶのがウナギである。

で、自分好みのウマい鰻屋をいくつも知っているくせに、通りすがりの見知らぬ店に入って失敗することもある。

まあ、失敗かどうかはあくまで自分一人の基準だ。一度行っただけで気に入らなかった店をネット上で酷評するのは極めて失礼でヤボなことだ。

だからこのブログでは基本的に悪口は書かないのだが、ほぼ毎日外食をしている私は、普通の人よりもマズい店に遭遇することも多い。


先日、港区某所でウナギのせいろ蒸しを食べた。いつものウナギとは毛色が変わっていたから大いに期待してウナギ様を待つ。

あらかじめタレで味付けされたご飯とともにウナギがせいろ蒸しにされていた。ウナギはともかく、ご飯がダメだった。

鰻重のご飯は硬めで粒立っていて欲しい。これは私にとって非常に重要なポイントである。

鰻重に限らず硬く炊いた白米が大好きだから、タレが染みることになるウナギならなおさら重視したい点だ。

このせいろ蒸しは、ご飯がグニャリって感じで、載っているウナギだけ食べてご飯はほぼ残してしまった。軟らかいご飯が好きな人向けの店だろう。

別な日、京橋界隈で行こうと思った寿司屋にふられ、天ぷら屋にもふられ、初訪問の焼鳥屋も満席で途方にくれる。

歩き回って疲れてしまい、頭の中でスタミナの四文字が点灯し始めた。一気に気分がウナギモードに変わる。

で、もう一息歩いて銀座一丁目の「ひら井」に向かう。何年かぶりの訪問だ。本格的なウナギを出す店だが、一品料理のメニューの方が多い割烹料理屋的な店だ。



クジラベーコンや辛味大根のジャコ和えをつまみにアルコール補給開始。白焼きと肝焼きが出てきたあたりで冷酒に切り替える。

白焼きも肝焼きも普通よりデカい。嬉しいけど昔ほど食べられなくなった身にはちょっとキツい。

でもスタミナという言葉が私の胃袋を後押ししてペロペロ食べる。鰻重も頼んでいる以上、ここでひるんではいけない。


「ご飯は極小でね」と若い頃の自分からぶん殴られそうなチキン野郎みたいな頼み方をした鰻重がやってきた。

満腹気味でも、あの香りに包まれ、この照りを目の当たりにすると余裕でガツガツ食べてしまう。結局完食。

帰路につき、胃袋と肝臓が疲れていることを感じる。スタミナ補給に行ったつもりがバテちゃっているわけだ。

ちなみに割と頻繁にウナギを食べるのだが、ウナギのおかげで元気モリモリになったとか、夜の活力がアップしたとか、そんなことを感じたことはない。鈍感になったのだろうか。


何だかシャバダバでトンチンカンな話だ。

2019年6月3日月曜日

イケてる原田龍二


原田龍二、大ブレークである。かなり前から勝手に彼を応援していた私としては鼻が高い。いまや知名度は5年前とは大違いだ。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/05/blog-post_12.html

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/04/blog-post_14.html

「してはいけないこと」をしたらしい。反省しているらしい。いいじゃないか龍二!、気にするな龍二!と叫びたくなる。

クルマの中でファンの女性とコトに及んでいたとか。そんな雑な感じが非難されているが、しょせん不倫ネタである。他人の火遊びに外野が四の五の言っても意味はない。

原田龍二もスケベなことで頭がいっぱいってわけだ。親近感が湧く。彼はまだ40代後半だ。時にはムホムホする時間が欲しいはずだ。先週金曜の謝罪会見でも「性欲は強いほうです」と認めるあたりが実に潔い。

逃げずに潔く対応する。このパターンが徹底出来たから仕事が無くなる心配はないだろう。ちなみに、こういうパターンが今後もいろんな人がターゲットになるアホみたいな不倫追及会見への対応策として見本になると思う。

有名人の不倫叩きほどくだらない話はない。鬼の首でも取ったかのように批判する一部の正義感もどきが気持ち悪い。

まあ、世の中には秩序が必要だから「してはいけないこと」の線引きはある。何でもアリの世の中にならないためのブレーキのようなものだが、ちょっとした火遊びを世間が糾弾する必要はない。

だいたい世の中の人は原田龍二に聖人君子であることを求めているのだろうか。原田龍二は社会の規範にならなきゃいけない立場なのだろうか。

全然違うと思う。

ダサさを徹底追及したかのようなシュールな青汁のテレビCMをご覧になった人も多いだろう。


原田龍二とはこれである。海パン一丁でハッスルする猪突猛進チックな彼の姿を見るとクスっと笑ってしまう。

「クスっと笑ってしまう男」。それこそが龍二である。旅番組でもいつも一生懸命だし、座敷わらしを探しに行く旅でも夜が明けるまで真摯に座敷わらしと遊ぼうとする姿は立派だった。

でも、クスッと笑えてしまうところが得がたい魅力である。

今回の騒動では愛車のランドクルーザーの車内で奮戦していたことが注目された。ホテルすら使わないのはアパ不倫よりケチなどと言われている。でも私としては「ちょうどいい」というのが率直な感想だ。

バカ高い外資系高級ホテルを舞台にオシャレなサングラス姿でこそこそ不倫している姿は龍二には似合わない。

クルマにしてもランクルである。実にいい。レンジローバーやカイエンだったらチョット違う気がする。

ランクルの後部座席で雑にコトを済ます龍二。。。なんともキャラに合っているではないか。クスっと笑ってしまう。

温泉が好きでコメが好き、喧嘩させたら最強という噂もある。掴み所があるようでないような原田龍二が、今回の騒動をきっかけ今後どう展開していくのか、個人的には大いに楽しみだ。

いずれにしても世間の怒りを招くようなことをしでかしたわけではないし、それ相応にハレンチだったというだけの話だ。

ちなみに、最近やたらと人気者になったコメンテーターの古市憲寿が今回の龍二騒動について「久しぶりに笑える話題だ」と語ったらしい。

悲惨な事故や事件ばかり続く最近の殺伐とした世の中に、クスッと笑えるネタを投下してしまった原田龍二をあまり責めるのは可哀想だ。