2012年12月28日金曜日

偏屈だから笑っていよう

今年も間もなく終わりだ。今日で仕事納めの人も多いみたいだが、どなたさまも1年間お疲れまさまでした。

たかだか1年前には思いもよらなかったことが身の回りに起きるのが世の常である。

私自身、今年は大きく変化した年だった気がする。

細かいことは数限りなくあったが、個々のあれこれはさておき、最近、自分自身を振り返る時、着々と「偏屈ジジイ」に向かっていることを実感して困っている。

年をとると怒りっぽくなるといわれる。死んだ祖父もそうだった。老境に入ってからはいつもブリブリ怒っていた。

多分、いろんなことがもどかしくてイライラするのだろうが、私の年齢ではチト早い気がする。もっと大らかで悠然と構えていようと反省している。

作家・伊集院静のエッセイがかなりの売行きらしい。週刊誌の連載が元になっているようだが、大人がシガラミ抜きに放つ正論の小気味よさがウケている。

私も読んでみたが、いちいちうなずく論調が多い。ただ、一方で感じたのは、昔、この人が書いていたエッセイと比べると怒っている場面が増えたということ。

勝手な推測だが、これも年齢の影響だろうか。腹が立つことが社会中に蔓延しているからこその怒りなのか、年齢による怒りっぽさなのか、大いに気になるところだ。

さて、私自身の偏屈ぶりというか、イライラの原因は何が原因だろう。やはり社会状況のせいなのか、単なる加齢のせいなのか、つくづく前者であって欲しいと願っている。

先日、クリスマス嫌いを反省して、何年か前に公開されたディズニー映画「クリスマスキャロル」をレンタルして見てみた。街中で嫌われている偏屈ジジイが聖夜に改心するストーリーなのだが、あまりに教条的だったのでイライラして途中でやめてしまった。

先日もクリーニング屋さんのオバハンと少しばかり揉めた。1万円札しか手持ちが無いことをきちんと低姿勢で詫びながら代金を支払おうとしたのだが、オバハンがことさら迷惑そうな態度に出やがった。大いにキレてしまった。

詳細は恥ずかしいから書かないが、そんなことばかりだ。タクシーを拾っても、道を知らないことを悪びれない運転手だったらサッサと降りるクセも付いてしまったし、席が空いているのに平然と待たせるような店では毒づいてしまう。

我ながらカッチョ悪いと思う。でも、すぐにイラついてしまう。きっと重度のワガママなんだろう。毎日5回ぐらいは心の中で「短気は損気」とつぶやいてみるのだが、低レベルの対応に直面すると、スイッチが入ってしまう。

でも、状況に応じた神経の使い方が出来ない人が世の中に増殖しているように思えて仕方がない。

何でそこでそういう言い方をするのかなあ、何でこういう時にはこういう対処が出来ないのかなあ等々、自分を棚に上げて悶々としてしまう。

何様だ!?オレ・・・って感じである。

こういうことって書いてみることで、意外に自己反省につながったりするからダラダラと書き殴ってしまった。

猛省しようと思う。

偏屈になると何が困るかというと、自分自身が楽しくない。これは最悪である。自業自得だから誰のせいでもないのだが、大げさにいえば、振り上げた拳が迷走しちゃう感じだ。

笑うことで免疫力が上がることは医学的にも常識だし、いまや「笑い療法士」なる資格まで注目されているそうだ。

来年は「笑うこと」を人生の重要課題に位置付けようと思う。「笑門来福」をモットーに過ごしてみようと思う。

年末年始は、きみまろのCDを聞きまくったり、寄席に出かけたり、ユーチューブでオバカ動画でも探して、今更ながら「ミスター・ビーン」でもじっくり鑑賞しようかと考えている。

手軽に爆笑できる映画とか動画とかご存じの方は是非教えていただきたい。

皆様良いお年を!

年明けは1月7日から更新を再開する予定です。

2012年12月26日水曜日

熱海と伊東

ふらっと熱海と伊東に出かけてきた。旅と呼ぶには大袈裟な1泊の日程で、ちょろっと命の洗濯をしてきた。

転地療法という言葉でも分かるように、人間誰しも普段とは違う場所に身を置くと途端に気分が変わる。

煮詰まったり気分が滅入ったら、束の間でも近場でもいいから枕を変えて眠ってみるとリフレッシュする。そんなことを実感した。

新幹線でサクッと熱海に行って、老舗レストランでウマいものを食べて、ぶらぶら海を見ながら散歩したら、一足延ばして伊東で温泉三昧。これが今回のスケジュール。

熱海も伊東も勝手知ったる場所である。知らない場所を旅するのもワクワクするが、その逆も良い。アセアセせずにノンビリできる。


熱海のレストランは洋食の名店「スコット」。有名な店だが、今までは熱海だ伊東だというとすぐに寿司屋とか活魚料理屋を目指していたので初めての訪問。

シチューだのクリームコロッケだのグラタンだのオムライスだの、一連のニッポンの洋食が大好きな私にすれば天国みたいな店だった。

古めかしい店の造り、分かりやすいメニュー構成、ちょっと強気な値段設定も悪くない。そこそこの値段が付いていないと、この手の料理は大してウマくないことが多い。


この日、食べたのはエビフライ、グラタン、タンシチューなど。全部ウマかった。シチューは少しクドかったが、赤ワインと一緒に味わえばまた別な印象があっただろう。

妙にウマかったのがエビフライ。エビと衣の一体感が独特で、久しぶりに正しい?エビフライに出会ったような気がした。タルタルソースをベタベタつけて白ワインをグビグビ飲んで簡単に昇天。

その後、伊東に向かった。聞くところによると伊東は源泉数が日本トップレベルの多さだという。子供の頃、祖父が別荘を持っていた関係で身近な存在だった伊東だが、そんな話を聞くと途端に有難い場所に思えてくる。

無色透明な温泉だから今までとくに感慨もなく浸かっていたのだが、有難い話を聞いたせいで、今回泊まった宿の湯が保湿性、保温性の高い有難いものに感じた。


「淘心庵米屋」が今回の宿。全部で17室の規模。のどかにホゲホゲするには適度な規模だ。

すべての部屋にかけ流しの半露天風呂が付いているせいで、お客さんの多くは部屋に籠もるタイプの宿みたいだ。そのせいで大浴場も独り占めできた。前の日に本屋でまとめ買いした「黄昏流星群」をサウナにこっそり持ち込み、フムフム言いながら読破したりして気持ちよい時間を過ごした。

大人向けのマンガは温泉宿でただノンビリしたいときには最高だと思う。そんな真理?にこの年になって気づいた。

そういえば、もう20年ぐらい前に我が社が発行する新聞で劇画を連載したことがある。脚本は私が作っていた。漫画家さんと頻繁に打ち合わせをしながら、ちょっとしたシナリオライター気分だった。

税務調査官が主人公の変な劇画だったのだが、無理やりお色気シーンも盛り込んで好き放題作っていた。

あのマンガが大ヒットしていたら、今頃は印税がっぽがっぽでモナコあたりで暮らしていたのだろう。残念だ。


さて、妄想はさておき、伊東の温泉の話だ。

泊まった部屋はこの宿で一番眺望が良いという部屋。竹林の向こうに小さめの滝が見える。夜にはライトアップの効果で、紅葉がハラハラと滝や竹林に舞い散る風情を眺めながら湯浴みが出来た。

風流な景色を眺めていたかのような書きぶりだが、実際にはこの風呂でも部屋の中でも「黄昏流星群」三昧だった。

部屋はさほど広くないが、いわゆる和モダンの作りで落ち着けた。ローベッドが配置されているから布団の上げ下げで人が来ることもない。

食事は部屋とは別のフロアの個室に用意される。絶品というほどでもないが、季節感が上手に盛り込まれた品々に大満足だった。

夜の遅い時間には小ぶりの特製ラーメンが振る舞われ、朝食も品数豊富で、納豆嫌いの私には塩辛を選ばせてくれるなど全体的に丁寧なサービスが受けられた。

肝心の料金は伊豆箱根あたりの老舗高級旅館に比べれば3割ほど低い値段設定。部屋を選ばなければかなりリーズナブルに泊まれるみたいだ。

せっかくの1泊旅行だからあまりに大衆的なところはゴメンだが、凛とし過ぎちゃって逆にくつろげないような超高級宿も困る。

そういう意味では実に頃合いの良い宿だと感じた。

頭をカラッポにしたいような時には、気軽な1泊旅に限る。最近はそんな気分になりやすいから、こんなふらり旅をちょくちょく続けてみようと思う。

2012年12月21日金曜日

ヘビ・バンザイ

あと10日もすれば新しい年になってしまう。

なんてこった!って感じである。

年齢が上がるに従って時間の経過を早く感じるのは脳の構造上仕方のないことらしい。

子どもの頃の夏休みはあんなに長かったのに、今では1年が3ヶ月ぐらいの感覚で過ぎていく。あっという間に死んじゃうんだろうなあ。。。

それにしても早い。つい先日、紅白とかガキ使を見ていたつもりが、既に355日も前のことだったとはビックリだ。

ところで、年末の妙な気ぜわしさが鬱陶しくて仕方がない。今年こそは考えを改めようと決意している。

正月を迎えることに一喜一憂しないで、単なる月替わりと思い込むことにする。12月が終わって13月になるというか、ただカレンダーが一枚めくれただけだと思うようにしたい。

そうでもしないとせわしなくてしょうがない。

「今年のことは今年のうちに」とか、「1年の総決算を」とか、そういう考えが慌ただしさを招く。

考えてみれば、私の誕生日は10月だから、1年単位でコトを考えるのなら、そこが境目だ。我が社の決算は8月だから仕事上も12月に何かの節目があるわけではない。

住まいもマメに掃除しているから大掃除などは不要だし、たまに気にする占いだって、古式ゆかしいものだと節分が年の変わり目だったりする。そう考えると年末年始にバタバタする必要はないはずだ。

こんな戯れ言を綴れば綴るほど、この考えが極めて正しいと深く納得する。年末年始なんか知らんぺったんゴリラだという思いを改めて強くするのだが、やはり40ウン年のDNAは厄介だ。どうしても「年末年始」が気になる。

年賀状を書かねば、とか、正月用に新しい下着を買おうかとか、ついつい世俗の垢?に振り回されそうな自分がいる。

困ったものだ。

週刊誌のエッセイか何かで「大晦日の除夜の鐘は大きなお世話だ」と誰かが書いていた。百八つの鐘の音が人間の煩悩を洗い流すのが除夜の鐘だが、それ自体がお節介だという指摘だ。

激しく同意したい。まったくその通りだ。煩悩が無くなったら何が楽しくて生きているのか分からない。煩悩あっての人間サマである。

煩悩まみれだから世の中に味わいがあるというものだ。

だいたい、たかだか40歳を「不惑」だなどと誰が決めたのだろう。実にバカバカしい。そういう迷信でオトナを去勢しようったってそうはいかない。

40歳で惑わなくなるような人間は傑物か偉人か宇宙人、はたまた単なるアホだろう。面白味もヘチマもあったものではない。

惑ってナンボ、惑ってこその人生に意味がある。来年も再来年もその先も大いに惑い続けようと思う。倒れるまで惑ってやろうと決意している。惑わないようでは早々にボケてしまうだけだ。

惑うの「惑」という字は「ワク」と読む。重なれば「ワクワク」である。死ぬまでワクワクしていたいから「不惑」などという迷信に騙されてはいけない。

大きな声では言えないが、来年私は何度目かの年男だ。確か3回目だったかな。。。

巳年、すなわち蛇だ。ヘビには愛らしいイメージはないが、干支の中ではメデタイ生き物の筆頭格である。

相場用語で「辰巳天井」なる上げ潮バリバリの言葉もあるし、そもそもヘビは弁天様の使いだから財運を司る土俗的信仰の対象でもある。

食料を襲うネズミを退治することから穀物の神になり、転じて福の神に昇華したわけだ。

顔は人間で顔から下はとぐろを巻いたヘビの姿をした御神体を祭る神社が日本中にあるらしい。

それだけではない。脱皮を繰り返すことから「再生」のシンボルとして尊い存在と見る民間信仰は世界中に存在するとか。

キリスト以外の生き物に再生されちゃっては都合が悪いから、キリスト教国ではヘビは悪者にされたらしいが、アジアの農業国ではヘビは大事な存在だ。

財を運んで再生する。実にいいではないか、ヘビ!

冷血動物みたいなマイナスイメージだって「冷静沈着」というポジティブな解釈をすれば悪くない。とぐろを巻いた姿も良く言えば思索にふける哲学的なものにも見える。

ヘビ・バンザイである。

新しい年も「迷えるヘビ」となって楽しく生きていこうと思う。

2012年12月19日水曜日

頂き物

今年も各方面からお歳暮をいただいた。有難い限りです。この場を借りて心から御礼を申しあげます。


仕事関係の他、銀座関係?からもアレコレと気の効いたものをいただいた。皿とか漆器とか立派なものだと嬉しい気持ちになった数秒後に日頃の散財を反省する。と同時に「顔出さないとマズいかな」という気持ちになる。

「銀座のお歳暮は脅迫状だ」。

物騒な言い回しだが、そういうことだ。

私は元来、物凄くいい人であり、気が弱く、単純で小心者で気配りしまくっていないと死んでしまうタチなので、お歳暮なんかをもらっちゃうと、その店に行かねばならないと素直に思う。

そうは言っても面倒くさがりで出不精で、物忘れが激しいタチだから、結局、新しい年になった頃にはお歳暮への感謝の気持ちが頭から消え去ってしまう。

ご容赦いただこう。

さて、頂いておいてアーダコーダ言うのも何だが、正直、有難いものと困ってしまうものとが存在する。

ナマモノ。これはチト困る。会社宛にナマモノが送られてくると置き場所にも困る。一応オフィスにも冷蔵庫はあるが、贈り物はたいてい大袈裟な梱包だから仕舞い込むにも一苦労。

持ち帰るのを忘れて時間が経ってしまうこともある。魚介好きな私でも、そういう意味でエビとかカニ攻撃には頭を抱える。

ナマモノといっても、毎年、仕事関係の知り合いから頂く和菓子は私の楽しみのひとつだ。賞味期限2~3日の商品だが、事前にわざわざ配達希望日を聞いてもらえるので助かっている。


親戚が経営する岐阜の老舗和菓子屋さんの商品なのだが、悶絶するほど美味しい「いちご大福」を中心に毎年12月のトゲトゲした気分を和らげてくれる。

だいたい、12月は肝臓が日々お疲れ気味である。アンコは肝臓機能に良い食べ物だ。夏場より今の時期に有り難さを痛感する。

一般的なお歳暮商品といえば飲料系だ。酒の銘柄にこだわりがないからアルコール類などは素直に「ラッキー」と思える。珍しいジュースなんかも有難いが、油とか醤油は自分のこだわりもあるから、部下にお裾分けしちゃったりする。

お寿司屋さんから貰う上等の海苔とか、そのお店の「ならでは系」も有難い。ちょっとトクした気分になれる。

個人的な意見で恐縮だが、「選べるカタログ系」は好きではない。最近はカタログ自体が妙に分厚い。パラパラ見ていく作業を強いられることが面倒だったりする。ワガママですいません。

3~4種類から選べるのなら楽しいが、分厚い冊子の中から選べと言われると萎える。放っておくと忘れた頃に業者から催促が来る。贈ってくれた人にも放置していたことがバレるのもイヤだから、欲しくもないものを選んじゃったりして、商品が届く頃には「コレなんだっけ?」という事態になる。

バチが当たりそうだから適当にしよう。

さて、最近なぜだか自炊する機会が増えた私にとって、妙に嬉しいのが「そのまま食えるもの」だったりする。

高級レトルト食品とか高級缶詰スープとかその類が妙に私の心を引きつける。自分では何となく買いたくない値段の商品だ。

スーパーに行けば、カレーとかシチューとかパスタソースとかレトルト食品が百花繚乱状態である。「富豪」を自認する私としては100円均一のカレーとかは欲しくても我慢する。ついついもうちょっと高いヤツを買ってしまう。

とはいえ、1個500円以上もするような高価なレトルトカレーなどはさすがに躊躇する。「5倍もウマいはずがない」とセコビッチな自分が贅沢したい私にささやく。

いつも悶々とする。こういう場面での数百円の差は実に悩ましい。

高級スーパーなんかに行くと1000円近いレトルト商品もチラホラあるのだが、たいていは我慢して横目で睨んで終わりにしてしまう。

そのくせ、スーパーの帰りにタクシーに乗って散財するのだからバカである。意味不明だ。

そんなアホな、いや、いじらしい私なので、先日いただいた「資生堂パーラーのビーフストロガノフ」には少し萌えた。我ながらミーハーである。

「ホテルオークラのスープ」にも萌えた。

日常の買い物の時だったら、つい敬遠しそうな妙な高級感がある。自分で買うのではなく、頂き物だから嬉しく感じる典型的なパターンだ。

ブランドの魔力に騙されていようとも、なんとなくワクワクする。

実は、今日のこの内容は、1ヶ月ぐらい前に書きたかったのだが、そんなフシダラなことを書くと催促みたいになっちゃうから今頃になって書いてみた。

なかなか奥ゆかしい。

さて、話は変わる。先日、レトルトパスタソースを使って米を炊くと簡単にピラフが出来るという噂を聞いて試してみた。

結果はいまいち。でも、分量の加減や選ぶレトルトソースの選択次第では、お手軽簡単ピラフが出来そうな手応えは掴んだ。

来たるべき新年は、高級レトルト食品の研究に精を出して革命的なマイメニューを誕生させようと思っている。

2012年12月17日月曜日

いにしえの野球選手

昔のヒーローといえば野球選手だった。

小学生の頃、巨人ファンだった祖母に連れられ、しょっちゅう後楽園球場に足を運んだ私だが、子どもから見た野球選手は神様みたいな存在だった。

ある日、試合後、球場近くを歩いていたら脱兎の如く走ってきた大男とぶつかりそうになった。ファンから逃げてきたジョンソン選手だった。

「ジョン損」と呼ばれて散々な目に遭っていた大リーガー(当時はメジャーリーガーとは言わなかった)の大男だ。

脅えた顔で逃げてきた彼は一瞬、私にすがるような目をした。とはいえ私は子どもだ。オドオドしていただけで、ジョンソンは「ちぇ、話にならないぜ」と言いながら?去っていった。

高田選手の大ファンだった私だが、当時の巨人選手の名前は背番号順にすべて覚えていたほどで、いまも懐かしく思い出す。

衝撃的だったのは「張本入団」である。パリーグの暴れん坊というイメージだった彼は、巨人に来た途端、王選手の露払いかのように紳士的におとなしく過ごしていたが、バッターボックスから滲み出る迫力は、巨人選手しか知らなかった私を畏怖させるには充分だった。

そんな「張さん」に先日、とある店で遭遇した。ちょっと興奮した。仕事柄、著名政治家とか文化人枠?の人と接する機会はあるが、スポーツ系の有名人と会う機会はない。

小沢一郎が隣の席でカレーライスを食べていた時よりも100倍は興奮した。

イマドキの野球少年が大人になった時に、イチローと遭遇するようなものだろう。気分は途端に子どもの頃に戻った。

店の人の計らいで挨拶させてもらって握手もしてもらった。すっかり野球少年モードになった。

いまでは、すっかり「張本イコール“渇のオッサン”」だが、とにかく野球界では凄い人だった。

ちなみに、昔の有名スポーツ選手が老境に達して、イロモノみたいに扱われているのを見ると少し切ない。

ボクシングでは具志堅の圧倒的な強さに国民は皆熱狂したのに、いま彼がテレビに出てくると、皆が笑う準備をしてしまう。ちょっと切ない。

ガッツ石松にいたっては論外である。「幻の右」に熱狂した記憶は遠くなり、きっと若者からはお笑い芸人だと思われているのだろう。

子どもだったからそう思うのかもしれないが、昔のスター選手はもっと神秘的だった。変なバラエティ番組でイジられたり、便利屋みたいに軽薄な番組でへらへらしていなかった。

あの神秘性がなくなっちゃったのは残念な気がする。

野球選手で言えば、巨人ファンの私から見ればパリーグの野村とか東尾、山田久志、村田兆治とか鈴木啓示あたりは、独特な存在感があった。ほかにも阪急の長池、福本とかロッテの有藤とか、クセモノばかりで巨人と当たらなくて有難く感じたほど恐い存在だった。

セリーグでは大洋の平松とかヤクルトの松岡、中日の星野、広島の外木場あたりは物凄く迫力のある存在だった。ヤクルトの大杉とか大洋の松原とか、数え上げればキリがない。シピン、ボイヤーの米国的迫力コンビも絵になっていた。

なんか「張さん」のせいで、昔の野球のことばかり思い出してしまった。

あの頃、野球選手と言えば、決してスタイリッシュではなかった。ちょっと野暮ったい感じで多くの選手がビミョーなパンチパーマで私服姿などは「白いパンタロン」みたいな感じだった。

でも、その変な感じが、野球界という異質な空間を芸能界とは一線を画した確固たるものとして象徴していたように思う。

なんか懐古趣味に走ってしまった。

結論がまるで無い話になってしまってスイマセン。

2012年12月14日金曜日

政治改革のまやかし

師走の選挙で騒々しい日々だが、いまになって、かつて大騒ぎした「政治改革」って何だったんだろうと思う。

日本新党ブーム、細川政権誕生による、いわゆる55年体制の崩壊の中で鳴り物入りで関連法が導入されてから18年。政治の質が向上したのかは甚だ疑問だ。

改革ではなく「変更」に過ぎないと当時から指摘されていたが、選挙制度改革を例にとっても20年近く経ったいま、弊害ばかりが目につく。

重複立候補によって有権者による「落選させる権利」が軽視されたことが第一。主要政党の場合、小選挙区立候補者の全員が重複立候補しているケースも珍しくない。

せっかく落選させたのにゾンビのように甦ってくる制度は民意とは程遠い。小選挙区制では、結果的に政党名が勝負を分けるから、なんとかチルドレンの増殖に象徴されるように政治家個人の資質が二の次になる。

わけの分からない議員センセイが多くなったのも現行の選挙制度が原因だ。

こうした弊害は、既にここ何度かの選挙で指摘され続けてきたが、改善される気配はまったくない。18年前の政治改革が国民の熱い支持を元にしていたから制度の硬直化を招いているとしたら本末転倒だ。

選挙制度とは別の大問題も存在する。卑劣極まりないインチキが罷り通っているのが政党交付金だ。これも18年前の政治改革で誕生した。

企業団体からの政治献金を廃止する代わりに、国民から吸い上げた税金で各政党に資金をばらまくことが決まった。あくまで企業団体献金廃止の見返りという約束での制度創設だったが、実質的には企業団体献金はいまも平然と続いている。

これまで数千億円もの血税が当然のように使われ、公金目当ての新党誕生が風物詩になる始末。ケムに巻かれたというより、単純明快に騙されただけの話。

共産党が大嫌いな私だが、共産党だけは当初から政党交付金の受取りを拒否し続けている。その点だけはスジが通っている。

日曜日にくだる国民の審判がどう転ぶか、民主党の下野だけは子どもでも分かるが、その後の政権の枠組みがどうなるかはまだ流動的だ。

選挙結果の検証も大事だが、選挙制度をはじめとする政治の在り方への議論を忘れてはならない。「選ばれる側」が自分達に都合の良い制度を作っていても仕方がない。「選ぶ側」からの目線で建設的な議論を深めたい。

2012年12月12日水曜日

甘いモノ

スイーツ男子なる言葉が広まっているらしい。甘いもの好きな男の増殖ぶりを表わす言葉だ。

いっぱしのオトナの男が、いけしゃあしゃあと甘いモノにヨダレを垂らすとは情けない、などと言う気はさらさら無い。

私も甘いモノは好きである。かなり好きなほうかもしれない。

酒を飲む男は甘いモノは敬遠する。こんなイメージが昔は普通だったが、いまや飽食かつ雑食の時代だ。そんな決まりはない。酒も甘いモノも両立する。

だいたい、酒で肝臓が弱ったら糖分が欲しくなるのは理に叶っている。疲れた肝臓にはアンコが最高と知り合いの医者も言っていた。

ちなみにアマノジャッキーオヤジとしては、「スイーツ」という呼び方がどうにもピンと来ない。なんか気取った言い回しに聞こえてゾワゾワした気分になる。

甘味、ケーキ、和菓子、洋菓子、アンコ、デザート等々、呼び方はいくらでもある。総称だとしても「甘いモノ」でいいと思う。

スイーツ。。。。なんか落ち着かない響きだ。ただの歌手を「アーチスト」と呼んだり零細企業の社長が「CEO」と名乗ったりするようなプニャプニャした感じ?がする。

会議の席で「コラボ」とか「シナジー」とか言われた時の後味の悪さに似ている。

なんか大袈裟か。

話を戻す。

夜の酒のために昼飯を抜くことが多いのだが、どうにも空腹が我慢できないと職場の隣のコンビニで甘いモノを買ってしまう。

さすがに生活革命?を起すほど勢いのあるコンビニだ。昔、そこらのスーパーで売ってたような安直な味わいの甘いモノとは違って結構なレベルだ。ニコニコ食べてしまう。

甘いモノのなかでも私が好きなのは「ブルブルムチムチプ二プ二系」だ。分かっていただけるだろうか。食感のことだ。

羊羹だったら「ういろう」、最中より饅頭、饅頭より大福だ。こしあんと白玉の組み合わせなんかには悶絶する。

ババロアなる物体を初めて食べた子どもの頃の衝撃も強烈だった。無敵だと思っていたプリンをもモノともしないアノむっちりぶるぶるした感じにノックアウトされた。名前からして凄い。「ババロア」だ。凄い響きだと思う。

というわけでサクサクしたものや固いものには惹かれない。ラスクだとかマカロンなどはちっともウマいと思わない。もっとデロリン、ドヒャーっと甘さが襲ってきてくれたほうがいい。

パリに旅行した際に毎日のように食べていたクリームブリュレだって、上側の焼かれてパリッとしたカラメル部分がウリらしいのだが、私としてはコッテリした中味のほうばかり夢中になって食べていた。

生クリームも偉大だが、カスタードクリームも実に崇高な存在だ。あれを発明した人は、上海ガニの紹興酒漬けを発明した人ぐらい偉大だと思う。全然脈略がなくてスイマセン。


この画像は丸の内・パレスホテルで食べたマロンシャンティーなる伝統的なケーキだ。生クリームが甘すぎずコクのある牛乳風味が生きていて「正しいニッポンの洋菓子」の味がした。中味は栗がゴロゴロしていた。

ピラフとかカレーライスとかもそうだが、日本の歴史のある洋食レストランで出されるデザートはたいていウマい。本国そのままの味ですとか言って出される洒落た海外のデザートよりDNAが喜ぶ感じがする。

洋菓子といっても、私の場合、ナポリタンとかカニクリームコロッケみたいな「日本の洋食」と同様に「日本の洋菓子」が好きなんだろう。昭和40~50年代に街の洋菓子屋に置いてあった「フツーのケーキ」に惹かれる。

四の五の言ってみたが、なんだかんだ言って、洋菓子より和菓子のほうが好きな私だ。つい先日も散歩中に「すあま」を見つけて躊躇無く購入してワシワシ食べながら歩いた。

家にもアンコ系の甘味は常時待機している。緑茶にアンコ。この冬もこれで決まりだ。

2012年12月10日月曜日

ピラファー

このブログでは、私自身を表現する変な一人称を何度も使ってきた。炭水化物が好物だから「タンスイカブラー」、あまのじゃくな性格を意味する「アマノジャッキー」、日本的なものが好きだからドメスティックを略した「ドメ男」、読んで字の如く「胸焼け太郎」などなど。

野菜ばかり食べる異常な人を「ベジタリアン」と呼ぶのと同じだ。語感もいいし、我ながら気に入っている。そして、今日新たな名称が誕生する。

「ピラファー」である。

なんとなく聞こえがいい。音の響きが軽快だ。少し発音がしにくい感じもインテリっぽくていい。


「ピラフ好き」とか「ピラフマニア」では迫力がない。ピラフに目がない人のことは「ピラファー」と呼ぶことにする。

ピラフとは本来、炒めご飯ではない。炊き込んだ料理である。そうは言っても、洋風であれば、単に炒めたライスをピラフと総称してしまう風潮がはびこっている。

まあ、「タンスイカブラー」としてはウマければどっちだって良いのだが、「ピラファー」としての自分の感覚からすると妥協は出来ない。

時々「こんなもん、ピラフじゃねえ~!」と皿を引っ繰り返したくなることもある。ウソです。

で、久方ぶりに正しいピラフを食べた喜びを書きたくなった。

皇居の横にデンと構えるパレスホテル。今年の春に全面改装オープンしたが、今まで足を踏み入れていなかった。理由は簡単。オープン当初、カフェレストランのメニューに名物のピラフが無いと聞いていたからだ。

九段下にある弟分のホテルグランドパレスには、頻繁にピラフを求めて出かけていく私だ。兄貴分のホテルのリニューアルを心待ちにしていたのにピラフがないなら行っても仕方がない。

それから半年。「ピラフがメニューに載ってる」という有難い情報を入手したので、さっそく出かけた。

ホテルレストランのピラフといえば「ソース」が付きもの。そのままでもウマいピラフに特製ソースを加えることでウホウホウッシシな味に変化する。

パレスホテルの公式オームページに掲載されていた味の伝統を紹介するコーナーには、ピラフソースのことも書かれている。

引用してみる。

~~伝統のドゥミグラスソースに、エシャロットと白ワインを加えバターで仕上げる。甘く柔らかな香りが際立つ~~

うーん、そういうことだ。読んでいるだけでヨダレが出てくる。照明が暗かったので美味しそうに写っていなくて忸怩たる思いだ。


実際に食べてみた。ウホウホウッシシだった。炊き込まれた感じが如実に分かるピラフ特有の米の食感が愛おしい。シャトーソースと呼ばれるソースも最高だ。

稲作を始めた古代人の叡智に心から感謝したくなった。

パレスホテルのロビーフロアにある「グランドキッチン」は、天井が高く、穏やかな照明、席の間隔にもゆとりがある。喫茶コーナーと区分けされていることもあって「ホテルロビー階のカフェ」の割にはハレの場所みたいな雰囲気も味わえる。悪くない。




タパスだピンチョスだと今風を意識した小皿料理をつまみにアルコールを楽しみ、その後、エスカルゴを頬ばったり、名物ローストビーフとかをワシワシ食べて、ピラフで締めるという実に分かりやすいディナーが楽しめる。

外資系のカッチョいいホテルのカフェレストランに行くより、「ドメ男」である私としては、帝国とかオークラ、ニューオータニ、キャピトルホテルとか老舗日系ホテルのカフェレストランで過ごすほうが気分がいい。パレスホテルもピラフ目当てに何度も通うことになりそうだ。

2012年12月7日金曜日

銀座のクラブ「M」

某銀座の某六丁目にある老舗のクラブ「M」。銀座でも一、二を争う知名度を誇る店だ。先日、出版されたばかりの開業40周年記念本をいただいた。

あの街で一流と言われ続けて40年。凄いことだと思う。銀座の端っこで飲むようになって20年弱の私なんぞは、あの街ではヒヨッコだ。でも、だからこそ40年の重みを感じる。

その本は、数十人もの各界著名人からの寄稿が中心。オーナーママの手になる文章は全体の一部に過ぎないあたりが、あの店の上品で控えめな感じを象徴している。

財界のお偉方、文壇の重鎮、文化芸術分野の著名人などなど寄稿している面々は誰もがその名を知っている人ばかり。改めて「M」が銀座でも一流と称されている実態が垣間見えた。

実は私の「銀座デビュー」は幸か不幸かこの店だった。人に連れられてクラブ活動に加わることはあったが、自発的に銀座の店に行ったのは「M」が最初。それまで六本木ではクラブ活動に励んだことはあったが、銀座は場違いだと思って敬遠していた。

初めて訪ねた「M」には銀座っぽさがプンプンしていて、まだ30歳前後だった私は大いにたじろいだ。そのかなわない感じ、背伸びしたって届きそうもない感じに妙にワクワクした記憶がある。

それから20年近くが経つのだが、とにかく不思議なのは、店の空気が変わっていないことだろう。「M」独特の雰囲気、空気感はずっと安定している。栄枯盛衰激しい銀座の街では奇跡的なことだと思う。

それこそ、10年、15年前に私と馴染みだったホステスさんがタイムスリップして働いていてもちっとも違和感を感じないはずだ。並大抵の経営努力では、あのようにカラーを持続し続けることは大変だと思う。

これ見よがしにガハハハ大騒ぎして金満ぶりをひけらかしているオヤジもいないし、エロ大魔王になって下品な空気を巻き散らかすオヤジもいない。

かといって、客が堅苦しく飲んでいるわけではなく、どこかポワンとリラックスした空気が流れている。

銀座のクラブと称する店は無数に存在するし、私自身、結構な数の店を見てきたが、「M」の快適で上質な品の良さは他の店では味わえない。

いろいろなクラブに行っても「ふるさと」である「M」を比較対象にしちゃうから、ついつい辛口評価をしたくなってしまう。これって結構不幸なことだ。

でも、多くの店でガハハハ金満あからさま親父とかドスケベ下品親父に少なからず遭遇しちゃうと「M」の穏やかで凛とした空気が恋しくなる。

というか、「M」以外では、私自体がドスケベ下品太郎に成り下がっているのかもしれない。そういう意味では、「M」は「正しい銀座のスマートな客」でいられるためのリハビリ場所としての機能もあるのだろう。

もともとふらっと立ち寄ったことがきっかけだから、高名なママさんとは会釈を交わすぐらいでじっくり話をしたこともないが、ガンガン自分が目立つことで店のカラーを演出している多くの銀座ママさん達とは違う不思議な空気を醸しだしている。

あのさりげない感じに、お客さん達は安心感を覚えるのだろうか。日本人が好む美徳というか、精神世界に通じる何かがあるのだと思う。

私もいっぱしの大人である。自分の飲み方が人様にはどう映っているかは分らないが、少なくとも無粋に見られないように最低限のカッコ付けは心掛けている。それも「M」で無意識のうちに学んだものだと思う。

銀座は男の教科書だという言葉がある。イロモノみたいな店が増殖してしまった今、銀座らしさを色濃く残すあの店が「初体験相手」だった私は、そういう意味では幸運だったのだろう。

2012年12月5日水曜日

クリスマス

「1年のうちでもっとも自殺者が多い日」が今年も近づいている。

言うまでもない。クリスマスだ。どこぞの国では、まことしやかに自殺最適日?として認識されているそうだ。

キリスト教を信奉する国では、クリスマスは家族揃って団らんするのが決まり。日本で言えば正月の雑煮みたいなものだ。この日に家族がいない人は寂しさが最高潮に達して死んじゃうらしい。

純日本人である私としては、たとえ、正月元旦に寂しかろうといちいち死なない。ましてや、キリスト様に縁がないから彼の誕生日に一喜一憂することもない。

クリスマスが苦手になって久しい。子どもの頃は子どもだったから?やれツリーだ、やれトナカイはまだかと喜んでいたが、20代の後半ぐらいからアマノジャク精神が爆発して俄然苦手になってしまった。

そうはいっても多くの人の場合、子どもが出来ると、またクリスマスを楽しむようになるらしい。

私の場合、ツリーの飾り付けすら一切手助けしたことがない。仕方なく子どもにはプレゼントは渡すが、殊更イベントみたいに騒ぐこともない。

子どもには早くから「サンタなんかいない」とか、ユーミンの名曲の替え歌を歌いながら「本当はサンコンさんなんだよ」と吹聴してきた(http://www.youtube.com/watch?v=Cew5DYuSNfk 1分20秒目ぐらいにこの曲が出ます)。

でも、いたいけな子どもは今だにサンタ実在説を信じているみたいで気の毒ではある。

そんな私だが、なんだかんだとキリスト様には結構親近感を覚えている。幼稚園の頃からキリスト教系の学校に通ったせいでマリア様とかキリスト様にはいろいろお世話になった。

学校正門にあったマリア像なんか何十回も磨かされたものだ。夏の暑い日にはチャペルに忍び込んでキリスト像を見上げながらヒンヤリした長椅子に横たわったものだ。

だから凄く身近に感じている。

小学校の時には聖歌隊に選ばれて天使のようなボーイソプラノで「もろびとこぞりて」とか「あめのみつかいの」を熱唱していた。

「グロ~~~~オ~~リア、インエクシェルシス、デ~オ~」である。

それにしても、それぞれの聖歌が「天の御使い」であり「諸人挙りて」であると知ったのは随分後のことだ。平仮名で歌っていたからヨソの国の言葉かと思っていたぐらいだった。

やはり小学校の頃、学芸会みたいな演し物では、聖劇みたいな演目が多かったのだが、そこでも神様の役を演じたりしていた。

といっても、大した役ではなく、同窓生で今をときめく名優の香川照之なんかが主役級の活躍を見せる中、私はほとんどセリフもなく、ただニワトリの頭に火を付けるというトンデモない陳腐な役だったことを覚えている。

まあ、私が頭に火を付けたせいで、世の中のニワトリのトサカは赤色になったという設定だったから、一応重要な役だったと思っている。なんじゃそれ・・・。

キリスト教系の中学校が使っていた英語の教科書をベースにした塾にも通った。通っていたのは我が母校以外は女子校の生徒ばかりだったので、サボらず通った。ここでもクリスマスには簡単なプレゼント交換みたいなイベントがあったのでマセガキの異性交遊に大いに役立った。

キリスト様やマリア様に随分とお世話になったのだから、クリスマスも真摯な気持ちで祝わないといけないのだが、どうにもムズムズするような落着かない気分を感じて仕方がない。

日頃、困った時に祈りを向ける相手は、無意識ながら自分の守護霊だったりご先祖様だったりする。キリスト様やマリア様ではない。

信心のカケラもないクセにクリスマスだけワセワセ騒ぐのは何となくズルいような気がする。普段から教会のミサに通っているような信心深い人のためのイベントであるべきだと思う。

なんだかんだ言って、何がめでたいのか分らないままプレゼントを買わされたり、変に散財したり、こそばゆいような店でこそばゆい特別メニューの料理を出され、こそばゆいような飲み物を嗜むアノ独特な空気が苦手なだけなんだろう。

そんなくだらない感覚に陥ったままでいること自体、まだまだ自分が若い証拠だと勝手な解釈をしておこう。

2012年12月3日月曜日

堕落

このところ、まるでマニアのようにホームセンターみたいな店に入り浸っている。東急ハンズとかロフトとか島忠とか、遠くのニトリにまで出かける。妙に楽しい。

元来、不器用だからDIYみたいなコーナーは素通りして便利グッズなんかを一生懸命見て回っている。不器用だから便利グッズが欲しくなるわけだ。

以前、自宅の整理用に頑丈なパイプラックがいくつも必要になった。でも組立がえらく面倒だったので、近所のホームセンターの見本用の展示物をゴリ押しして何個も購入。軽トラックまで借りて運んだ。

そんなマメさがあるなら組立ぐらいすればいいと自分でも思う。

それにしても「ホンマかいな」と思うような便利グッズがアレコレ存在するものだ。

掃除用品なんて、すべての能書きを信じたらどんなに古い家だってピカピカになるみたいだ。

確かに普通に洗っても落ちない浴室鏡の鱗状の水垢とかも専用クリーナーで処理すればピカピカになるから、それなりに信ぴょう性はありそうだ。

調理関係の便利グッズも面白くてつい衝動買いをしてしまう。真にウマいものを食べようとする求道者だったら許せないようなモノがてんこ盛りだ。

「電子レンジで焼き魚が簡単に作れる皿」。そんなはずないだろう!って毒づきたくなる。でも買ってしまった。まだ使っていないが本当だろうか。

「電子レンジで簡単にパスタが茹で上がる容器」。そんなはずないだろうと毒づきながら買ってしまった。


で、使ってみた。う~ん、実に素晴らしい。話はホントだった。大きな鍋を出してきてせっせと湯を沸かせて必死に茹でたのと遜色のないパスタが簡単に出来てしまった。

説明書より短めに時間設定すればアルデンテも可能だ。いや~実に凄い。乾燥パスタを規定量の水を入れたプラスチック容器に入れてチンするだけ。

くっついて麺がこんがらがると思うのが普通だが、まったくそんなことはなかった。茹で上がったらお湯を捨てて出来合いのパスタソースを絡めたら至極簡単にそこそこのパスタ料理が出来上がる。恐るべしである。

その後、調子に乗って同様のやり方で蕎麦やうどんが茹で上がる容器も買ってしまった。まだ使っていないが、パスタ麺の出来上がりを考えればそこそこ使えるはずだ。


お次の便利グッズは「カンタン米とぎマシーン」である。そんな名称ではなかったが、そう表現するのがピッタリだ。

理屈はカンタン。専用容器に米を入れ、水道の蛇口を容器の穴に押しつけて勢いよく水を出すだけ。

蛇口を押し当てる穴の部分は網状になっていて中身が逆流しない仕組み。要は水流で容器の中の米が勢いよく回転することで洗ったり研いだりする作用になるらしい。

で、使ってみた。妙に楽しい。容器の中で米が勢いよく回転し、米同士がぶつかり合って、濁ったとぎ汁がどんどん出てくる。数十秒単位の水流攻撃を3~4回やっていたら、だんだん水も汚れなくなった。

で、炊いてみた。実に普通にウマい米が炊きあがった。恐るべしである。

炊きたてのご飯を冷凍する専用容器も買った。そこに保存して、最新の電子レンジでチンすれば、炊きたてと遜色のないメシが気軽に再現できたりする。

なんとも凄い世の中になったものだ。

それにしても、そんな変なグッズを求めてホームセンターをさまようマメさがあったら、普通に真面目に調理すればいいんじゃないかと少し複雑な気分になる。

まあ、便利さに走ることは人間を堕落させる。堕落していくのはイヤだ。どうしたもんだろう。

堕落しないためにはマメに行動しないとなるまい。やはり、せっせと最新の便利グッズを探すために一生懸命ホームセンター通いをしようと思う。

よくわからない話になってしまった。

2012年11月30日金曜日

空気の値段

最近、立て続けに老舗寿司屋を「探検」する機会があった。場所はディープな街・大塚。かつての三業地があった名残の路地に構えるお寿司屋さん。

駅から近い場所にある「鮨勝」とそこから数百メートル先にある「高勢」の2軒だ。

いにしえの花街の影響もあってか、いずれの店も昔ながらの仕事をしたお寿司をウリにしていることで知る人ぞ知る店。

5年ほど前、渋い飲み屋を求めて大塚界隈をさまよった時期がある。「居酒屋マニア」の間では有名な店が点在する街だから、有名店に限らず個人経営の小粋な店がいくつもある。

お隣の池袋がイマドキの大型チェーン店っぽい飲み屋ばかりなのに対して大塚は昔ながらのシッポリした店が多い。オヤジにとってはオアシスのような街である。

大塚散策に凝っていた頃から、この2軒の寿司屋の存在は知っていたのだが、実際に訪ねたことはなかった。今回立て続けに行ってみて、つくづく「寿司屋の値段は空気の値段」だと思った。

もはや「銀座鮨」なる表現があるほど、銀座や西麻布界隈の「ウン万円寿司屋」はひとつのジャンルとして定着している。

店の良し悪しはさまざまだが、あれはあれでアリだろう。凛とした店の設え、気の効いた酒肴があれこれ出てきて、妙にちっこい握りをチロチロ食べてうなずく世界だ。

あの空気の中に身を置くこと自体が既に楽しみの一部でもあるわけだから、そうしたジャンルに属さない「街場鮨」よりも値段が高くなるのは仕方ない。

コストパフォーマンスが良いとか悪いとか、グルメサイトに必死で書き込んでいる人がいるが、そういう部分に敏感な人は行かなければいい話だ。「お勘定」は必ずしも食べたモノだけでは計れない。

そんなことを書きたくなるほど、大塚の2軒は印象的だった。特別安くはないが、目ん玉が飛び出るようなお勘定になる心配はない。それでも、実に真っ当な寿司を食べさせる。ヘタな銀座鮨よりもよっぽど正統派かつ熟練の味が堪能できた。

万人受けしそうなのが「高勢」。マニアックな人向けなのが「鮨勝」。それぞれ個性的で鮨が大好きな人なら素直に楽しいと思う。

どちらの店も鯖やコハダといった〆モノ系が実にウマかった。正統派ならではのワザだろう。


「高勢」では、お茶っ葉をまぶしながら塩焼きにしたカマス、鷹の爪でピリ辛にした醤油漬けの白子、蕎麦つゆ風味の煮タコ、キンキの肝を軽く煮たヤツ等々で熱燗をグビグビ。

うーん、書いているだけでヨダレが出てくる。握りで食べたカツオや鯖はカラシをうまく使ってひと味違う雰囲気に仕上がっていた。

ガリのウマさも印象的だった。一般的な薄くスライスしてあるものではなく、ブツ切り状態で出てくるのだが、味がキツ過ぎるわけでもなく、そのまま酒のツマミになるような感じだった。

さて「鮨勝」。こちらは物凄くディープな店だと思う。ひと言で店の雰囲気を表現するなら「どうすればここまで古めかしいままでいられるのか」に尽きる。


40年ほど改装もしていないそうで、決して汚いわけではないのだが、昭和40年代にタイムスリップした感じだ。

煮タコを頼んだら煮汁が煮こごり状態になった部分を多めに出してくれた。甘じょっぱくて熱燗が進む。自家製の塩ウニも北海道土産の練りウニあたりとは一線を画した大人の味、イカをアワビの肝と和えた一品やシャコをつまみにグビグビ。うっとりだ。

握りでは煮蛤、小鯛の昆布絞め、シメサバ、味の濃いカジキ、本マグロの赤身なんかがウマかった。

店主は気むずかしいタイプかと思いきや、単におとなしそうな御仁のようで、話してみれば柔らかい雰囲気で相手をしてくれる。

威勢の良さとか適度に凛とした雰囲気という意味では「高勢」、「鮨勝」のほうはヌルい雰囲気、ちょっとドヨンとした感じ。変な表現だが、「快適にわびしく過ごせる店」といったところか。

それにしても、この手の店がぽつぽつ存在している大塚という街の不思議な感じが興味深い。割烹、小料理等々、小粋な暖簾を下げた渋い店がいくつもあるから、この冬はまたさまようことになりそうだ。

2012年11月28日水曜日

2~30年前

年齢のせいなのか、最近、2~30年前のことをよく思い出す。

といっても、別にセンチな話ではなく、世の中の移り変わりに目を丸くする場面が多くなったから、ふと昔の事情を懐かしく思い出す。

最近、今年発売された新品の日本製の60インチテレビを10万円台後半で買った。ほんの10年前なら「1インチあたり1万円」が普通だったからデフレ社会を痛感した。

30年ぐらい前にはカセットテープを再生するだけのウォークマンが2~3万円したように記憶している。今回、テレビに合わせて日本製のフロントサラウンドの真っ当なホームシアターセットを買ったのだが、昔のウォークマン程度の価格で買えた。

ビックリである。

昭和50年代あたりだと、ダブルカセットのラジカセがウン万円、CD再生コンポが10数万円していたことを考えると隔世の感がある。

今回買ったホームシアターセットにはiPodが接続できるのだが、充分満足できる音質だ。昔の10数万円のコンポセットよりも良い音かもしれない。

ドラム式の洗濯乾燥機も一ケタ万円で買ったし、結構な容量の冷蔵庫も一ケタ万円だった。

日本の家電メーカーが危機的状況になるのも当然だ。安値競争の行く末は破たんでしかないのだろう。妙に世相を実感して、この国の行方が心配になってしまった。

さて、そんな固い話ではなく、巷の食生活にしても2~30年で随分変わった。外食自体が贅沢だったわけだから、それ自体が凄い変化だ。

東京人として最近感じるのは「西の影響」だ。東京のおでんやうどんが黒くなくなったのは、ここ20年ぐらいの話だと思う。

良し悪しを論じたらキリがないが、30年前、東京のうどんといえば、真っ黒いツユにそまったフニャフニャ麺が普通だった。透き通ったツユなどは見たこともなかった。

あんなにコシの強いうどんにもまず遭遇しなかった。おでんしかり。京風だか大阪風だか知らないが、おすまし系のおでんが一気に普及したのは最近の話だと思う。

小洒落た焼肉屋。これも30年前には滅多に見かけなかった。当時は、どこかディープな雰囲気の店が中心で若い男女がデートや合コンの行き先に選ぶことは無かった。

沖縄料理屋も同じ。見かけたとしても沖縄出身のお馴染みさんだけが集まっているような雰囲気だったような記憶がある。

まあ、シーサーの置物あたりも今では大笑いしている漫画チックなものが出回っているぐらいだから大きく変わったのだろう。

話は変わる。東京人にとって「イクラ」といえば塩漬けが普通だったが、いつのまにか醤油漬けが主流になった。サンマやイワシの刺身も一般的ではなかった。流通革命がいろんな分野に影響を与えたのだろう。

芋焼酎はごく一部の人しか呑んでいなかったし、ワインなんかも甘いものばかりがもてはやされていた。30年前はコンビニがそこら辺になかったから、ジュース類、炭酸飲料、カップ麺なんかも今ほど多種多様な商品が溢れていなかった。

「おーいお茶」が登場するまでは、緑茶は熱いものだと決まっていたし、缶コーヒーは甘いだけのシロモノで決して珈琲などと称するレベルではなかった。

洋菓子だってショートケーキかモンブラン、シュークリーム、バウムクーヘンあたりが王道で、今のように百花繚乱状態ではなかった。パティシエなる言葉も20年前には誰も聞いたことがなかったと思う。

カップヌードルだって普通の味以外にはカレー味があるぐらいで、まだまだ袋麺のインスタントが威張っていた。

マクドナルドは低価格路線じゃなかったから満腹になるには結構散財する必要があったし、季節限定メニューなどという洒落た話もなかった。

カラオケボックスが存在しなかったから、ヒット曲もプロの技能、声量がないと歌いきれないような難しい曲が珍しくなかった。

タバコの銘柄も今に比べれば10分の1ぐらいだったと思う。今より10倍ぐらいの人が喫煙者だったわけだから実に不思議だ。

そういえば、どこでも気軽にタバコが吸えた。駅のホームは煙でモウモウとしていたし、飛行機の中でも平気でバンバンタバコが吸えた。

なんか思いつきでだらだら書いてみたが、同じように暮らしているようで随分と変わったものだ。

携帯もパソコンもインターネットも無かった。無いことが普通だから何とも思わなかった。よくよく考えると凄い違いではある。

まだ2~30年は生きていくつもりだから、それぐらい時間が経過したら世の中がどれほど変わっているのか想像も出来ない。

まあ、ついていけないだろうが、どんな未来が待っているのだろうか。楽しみでもあり恐ろしくもある。

2012年11月26日月曜日

B級、いとおかし

ウィキペディアってつくづく便利だ。なんでも分かる。今日書こうとしていた「B級グルメ」についても、そもそも語源は何だろうと思ったのだが、ウィキペディアが丁寧に解説してくれた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/B%E7%B4%9A%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%A1

情報格差の広がりは、たかだかウィキペディアでも実感できる。パソコンを持てない人々、インターネットが使えないような環境の人々、途上国あたりのそうした人達と、ネット社会の恩恵を受ける人々との隔たりは想像以上だろう。

おっと、話がずれた。

B級グルメについて書く予定だった。

ウィキペディアによると、B級グルメという言葉は1985年には存在していたらしい。30年近くも前から使われていたとは知らなかった。

「そこらへんにある普通の食い物」を指すわけだが、そういう意味では、どこぞの田舎の得体の知れない郷土料理は該当しないわけだ。あっちは「ご当地グルメ」と呼ぶのが正しいみたいだ。

まあ、そんな定義付けはどうでもいい。要は高級品、嗜好品とは別の「気軽に食べるもの」なら何でもいいのだろう。

B級などと称するのは、一生懸命に作っている人には蔑称みたいだが、価格の面でA級ではないと解釈すればいいわけだ。


この画像は池袋の小汚い中華料理屋さんの羽根付き焼き餃子だ。餃子のタレにベチャクチャ浸して食べたい私にとっては、タレが用意されない餃子だからイマイチである。

でもウマい。この店は、深夜のテレビでやっている「孤独のグルメ」で紹介されて以来、汁無し担々麺を目当てに多くの客が訪れる。

まあ普通に美味しい店だが、私にとっては会社のそばにある広東ナンチャラとかいう中華料理屋さんの「豚肉ともやし焼きそば」がB級グルメチャンピオンである。あくまで現時点ではあるが。

この店には昼時に出かける。ボリューム満点のランチセットメニューは850円か900円。私が単品で注文する焼きそばは700円だ。いつも店のオバサンに「ランチセットを注文できないビンボーな男」と思われているような気がして気が引けるのだが、ついついいつも焼きそば単品を頼んでしまう。

硬めの麺、焦げ目もいい感じで、お酢をジャバジャバぶっかけて頬ばると最高だ。

一度、この店に夕飯を食べに行った。焼きそばの実力を思えば他の一品料理もウマいだろうと期待したのだが、世の中そう単純ではなかった。以来、昼専門、もやし焼きそば専門だ。

この店の向かいに、昔喫茶店だった店舗を居抜きで使っているインド料理屋がある。すぐそばに小綺麗な別のインド料理屋があるせいで客の姿はまばら。アマノジャッキーとしてはこの店のほうが好きだ。実際味の方も上だと思う。

ここも昼時しか行かないが、アマノジャクついでに、夜メニューの「チキンビリヤニ」を作ってもらう。本式だと炊込みご飯みたいな料理だが、ここでは、まあインド風カレーピラフだ。これがなかなかイケる。

インド人のオジサンは他のランチメニューの支度に忙しいから私のオーダーを面倒くさそうにこなす。それでもウマいウマいと誉めれば嬉しそうに笑う。

B級グルメと呼んでいいのか分らないが、韓国料理屋さんもここ数年物凄く増殖したから「そこらへんにある普通の食べ物」と考えていいだろう。


どれもこれも同じ味に感じる韓国料理だが、逆にその感じが有難いこともある。疲れるし、寒いから辛いクッパでも食おうと思えば、どこにいっても想像通りのものが出てくる。

画像は新大久保の店で食べたグツグツ煮え立ったユッケジャンクッパ。普通にウマかった。

ヨソの国ではなく、わが国の正しいB級グルメといえば居酒屋料理だろう。

最近、遠出が面倒だと池袋の「南国ファミリー」という凄い名前の居酒屋にちょくちょく行く。

この夏のオヤジバンド練習の後の反省会でも何度か使った。メニューがやたら豊富で焼鳥、やきとん、魚、肉それぞれ普通にウマい。

カキ鍋とかあんこう鍋にも挑戦してみた。普通にウマい。最後に雑炊セットを用意してもらって、口うるさい「雑炊奉行」を演じている。

「鍋の後の雑炊」。これって究極のB級グルメだと思う。カキやあんこうなんかのダシが出まくったスープで作るんだからマズいワケがない。あーだのこーだのグルメっぽい話を語る暇があったら「鍋の後の雑炊」をズズっと食べてニコニコしているほうが正しいと思う。


この画像は南国ファミリーで出てきた「梅しそキュウリ」という名前そのまんまの食べ物だ。

妙にウマかった。日本人で良かったと心底思える味だった。大袈裟でスイマセン。

2012年11月21日水曜日

世襲

もともと「こなきジジイ」に似た風貌の野田首相だが、どうやら「いこじジジイ」になってしまったみたいだ。

突然の解散宣言を党首討論でぶつけて来たセンスには感心したが、その後、選挙に向けて「脱・世襲」に意固地になっている姿には「なんだかな~」という印象しかない。

民主党という政党のお粗末さというか、幼稚さが際立った話だと思う。ちなみに民主党内では、野田首相の突然の解散強行を「自民党に政権を渡すためのもの」として反党行為で除名して選挙で公認しないようにすべきだという声まで出ているそうだ。

断末魔もそこまでいけばオッタマゲだ。

さて、「脱・世襲」の話に戻る。

驚いたのが、現職の大臣まで例外なく扱うという話。羽田孜元首相の引退で空席となる選挙区での出馬を検討していた息子の羽田雄一郎国交大臣にも野田首相がダメ出し。オヨヨって感じだ。

自民党との違いを際立たせる狙いで世襲禁止を徹底するらしいが、国土交通省というマンモス官庁の最高責任者として自ら委ねた人物に対しても「世襲は許しません!」といって頑張っちゃうセンスは何なんだろう。

そりゃあバカ丸出し、アホ丸出しの世襲議員もいっぱいいる。それですら選挙の洗礼を受けているわけで、有権者が選択した結果である。民主主義のひとつの結果でしかない。

ましてや、世襲議員の中にもしっかりした国家感を持って憂国の思いで人生を政治に賭けようと必死になっている人間もいる。

新党ブームに乗っかって、風見鶏よろしくアッチふらふらこっちフラフラの「非・世襲議員」のほうがよっぽど醜いし害悪だし国益を損ねる。

民主党が今までの選挙で公認してきた人物ってそんなに立派なのだろうか。世襲ではないという理由だけでハレンチ野郎をいくらでも公認してきたのではないだろうか。

落ち目のタレントとかスポーツ選手にはゴマすって立候補してもらうくせに、単に世襲を「悪」と決めつけて例外を一切認めないという考え方は幼稚すぎる。一種の恐怖政治でもある。

こんな考えでは、地元有権者が圧倒的に支持している人物でも世襲という理由だけで排除される。地域無視、国民無視も甚だしい。政党ってそんなにエラいのだろうか。

まあ、消滅寸前の政党だからそんな突飛なことを言い出すのだろう。

世襲の問題は別な視点で捉えるべきだろう。税金のかからない政治資金の受け皿である政治団体が相続税の洗礼を受けずに引き継がれるような問題など、制度面、運用面を建設的に議論することが政治の役割である。

首相自ら陳腐な感情論に走っているようでは幼稚に過ぎる。まあ、幼稚だからあそこまで凋落したのが民主党の現実なんだろう。

それにしても政党の乱立で対立軸が良く分からないのが今度の選挙だ。前回は「非自民を目指す」という旗印が目立ったが、不思議と今回は「非民主」を掲げる声が聞かれない。

放っておいても壊滅するからなのか、それとも未だに民主党に期待を寄せる人がそれなりに多いのか。ちょっと不思議な感じだ。

ちなみに生活保護受給者が来年には200万人を突破する見込みだ。1995年に88万人だったことに比べれば異常な事態だろう。ニセ弱者までひっくるめて過保護に優しく接してきたツケだという見方も出来る。

生活保護を受けたほうが収入が高くなるような超低所得層が増加しているようでは、国の税収が増えるはずもない。成長戦略をしっかり描けない政治では破たんは目に見えている。

成長を考えない路線で迷惑をこうむるのは言うまでもなく、中堅・高所得者層である。「超大金持ち」と同じ括り、同じ割合で税金や社会保険を負担させられ、それを元手に底辺が支えられているのが実情だ。

そんな哀れな、まさに割を食っている中堅・高所得階層の現実を理解し、全体の底上げ、全体の成長を描くような政党だったら精一杯応援したいものだ。

2012年11月19日月曜日

壇蜜

月曜日は何となく気分が重い。デキる男は月曜日からハツラツモードらしいが、私は凡人だから月曜の午前中はキチンとだるい。

ということで、楽しいことを書かないといけない。楽しいことって何だろう。カッコつけて悩むことはない。楽しいことといえばエロいことだ。

先週このブログで書いた「みうらじゅん」サマを見習わないといけない。

ということで、エロ系だ。エロ系といえば「壇蜜」だろう。

最近妙に「壇蜜」が気になる。食い物ではない。もうすぐ32歳になる女性だ。


名字が「壇」、名前が「蜜」だ。実にミョーな名前で、インパクトばっちりだ。

ダンはダンでも、私が大の苦手とする「檀れい」とは大違いで、「壇蜜」はなぜか私を魅惑する謎の存在だ。

「檀ふみ」とも親戚ではないし、ましてや「ダン池田」とも無関係だ。

一応、グラビアアイドルという分類らしいが、29歳でデビューして30代前半の女性の魅力を過激にふりまき続けている。ジャリタレとは違う新しいパターンだろう。

クネクネ腰を振って歌い踊る韓国製のオネエチャン軍団とか、幼子に毛が生えた程度の女の子軍団に無理やりセクシー衣装をまとわせているようなパターンとは違う。

「女の子」とか「おねえちゃん」ではなく、「おんな」と表現したくなるポジションをうまく押さえている感じでアッパレだ。

「若くてピチピチ」。そんなのに辟易としている通?な大人にとっては、壇蜜の不思議な色気が気になる。「しっとりネットリ系」とでも言おうか。

ところで、高齢化のせいもあってAVの世界でも、昔は考えられなかった「熟女系」がすっかり定着した。風俗店だってわざわざ熟女を揃えるご時勢だ。銀座のクラブだって熟女専門をウリにした店が繁盛している。

セクシー路線で活躍するタレントも若さだけとかボインだけでは飽きられる時代になったのだろう。美魔女と称して変に若作りした不気味なオバサンがもてはやされる風潮も強まってきた。

壇蜜の場合、熟女と呼ぶには早すぎるが、実にいい頃合いの年齢と雰囲気で勝負している。女性の魅力は20代後半ぐらいからが本番だと思っている私にとっても、30代女性のしっとりセクシー路線が世の中に定着することは大歓迎である。

壇蜜の場合、「南国の太陽の下で原色ビキニでニッコリ」というイメージではない。あくまで「鄙びた温泉大浴場の脱衣所で白い手拭いで前を隠す」ぐらいがピッタリだ。

「天蓋付きのベッドの上でガーターベルトで横たわる」のではなく、「畳の上で乱れた浴衣で横たわる」のがグッとくる感じだ。

壇蜜は銀座の某店でアルバイトしていた経験もあるらしい。どうも見たことがあるような気がしてならないのだが、ああいうタイプの女性が多い世界だから真相は不明だ。

聞くところによると、壇蜜は下着の上にプレゼント用の下着を履き、脱ぐシーンを見せながらお得意様なんかに手渡すらしい。

まるで田中角栄である。

クルマに何十本も予備のネクタイを積んでおき、選挙区周りの際に自ら外したネクタイを支持者にプレゼントしていた角栄さんと同じ発想だ。

「壇蜜は田中角栄だった」。まあ、そんな結論でいいだろう。

ついでに「壇蜜っぽさ」が良く出ている動画も載せておこう。

http://q55dnhfy.jugem.jp/?eid=1467

2012年11月16日金曜日

荷物

引っ越しを前にちょろちょろと荷物整理をしている。荷造り、梱包、荷ほどきまで引っ越し業者にお任せする横着なサービスを頼んだのだが、それなりに荷物の分類は必要だ。不要品まで引っ越しても仕方がない。

自分の持ち物の多さに呆れる。スッキリと身軽になりたいのだが、なかなかそうもいかない。

まずは本だ。随分と処分したのだが、捨てきれない本は結構な量。引っ越し先で再度読むはずもなさそうなものまで捨てられない。

変な写真集もデカくて困る。タイやバリで買ったアジアンインテリアの写真集とか、昔、感動して衝動買いした水中写真集とか、中国・大連近くの二百三高地に行った時に雰囲気で買ってしまった日露戦争激戦資料集などというビミョーな本も捨てられない。

趣味系の雑誌、ムックなども保存組だ。葉巻、靴、旅関係、水中写真関係などなど、きっと捨てちゃっても私の人生に何も影響はないはずだが、後生大事に持ったままだ。

そうした趣味の道具もこれまた膨大にある。水中撮影機材では、引っ越し準備を機にようやく無用の長物になっていたフィルムカメラ関連機材を処分した。すんごく寂しかった。世界を共に旅した道具だから愛着があったのだが、いまが潮時だ。

衣類も随分捨てた。やはり定期的に引っ越しをしないと、不要な衣類はたまる一方だ。何じゃこれ?みたいなTシャツとかトレーナー、サイズが合わなくなったのに高級品だからという理由だけで、貧乏チックに残していた服なんかもオサラバした。

30代の頃に熱中した草野球のユニフォームもさすがに廃棄処分の運命・・・。なんか寂しい。

身のまわりの小物も不要品ばかりだった。捨てるものをまとめてみれば自分がいかにゴミと共に生きていたのかが分かる。

インターネットを見ていたらモノが捨てられない人に向けた金言集を見つけた。これがなかなか傑作揃い。


・迷ったらゴミ

・使わなきゃゴミ

・なくしても買い直さないものは捨てろ

・使えるか、ではなく「使っているか」

・災害時にそれ持って逃げますか?

・ 「あれば便利」は「なくても平気」


まったくその通りだと思う。ヘタに引っ越しラクラクパックみたいなのを頼んでしまったから、事前に捨てるモノを分けておかないと、新居にそのままゴミが移動するだけになってしまう。

こんな名言もあった。


「あなたが死ねば全部ゴミ」


悔しいが事実だろう。死なないにしても、机の引き出しの奥の方で眠っていたハマショーのステッカーとか、何年も前にもらった年賀状だとか、一度も使わなかった過去のシステム手帳なんかはゴミでしかない。

大事にしまってあった家電製品の保証書も有効期間は1年間だけ。何年も前の保証書ばかり出てきたし、捨ててしまった家電の取説もゴロゴロ出てきた。

もちろん、切ない思い出の品々もいっぱい出てきた。仕舞い込んであったから無くても平気なのだが、目にしてみれば、仕舞い込むほど大事に感じたその当時が甦る。

まあ、センチな気分になっていても整理が進まないから、機械的、事務的に作業を進めるしかない。

こういう時は、ネットで拾った金言集に救い?を求めることにする。


・思い出の品を捨てても思い出は消えない

・過去を捨てなくては未来の場所がない

・手に入れるために捨てるんだ

・全部捨てたら未来だけが残る



なんか映画の予告編の決めゼリフみたいだ。そんなに大袈裟な話ではないが、確かに「モノより思い出」と言うように、要らないモノにこだわっていたらキリがない。

「モッタイナイ運動」には逆行するが、こっちだって7千坪の大豪邸に引っ越すわけではない。思い切った処分は避けられない。

まあいいか。

せいぜい身軽になってスッキリしないとなるまい。

2012年11月14日水曜日

週刊誌とエロ

「マスゴミ」なる不名誉な呼び方まで浸透してしまった現在のメディア事情。インターネットの普及で想像以上に地殻変動が起きていることは確かだ。

権威ばかりに固執した日本の大新聞の惨状は相当なモノで、日刊紙の広告、とくに夕刊などでは、アッと驚くタメゴローみたいなダンピング合戦が常識になっている。

新聞が格上で、雑誌は格下。こんな既成概念はもはや風前の灯火だ。雑誌メディアの頑張りに比べれば、記者クラブ絶対主義が罷り通る官製発表記事が中心の大新聞は凋落の一途だろう。

雑誌ジャーナリズムは時に眉をひそめたくなるような暴走もあるが、社会の真相に近いところに位置している。「雑誌ごときが・・・」などという意識の権力者では確実に足をすくわれる。そのぐらいの力量と影響力を持っている。

雑誌といえども、新聞社系はダメダメだ。先日、橋下大阪市長の出自をめぐって赤っ恥をかいた週刊朝日の例を持ち出すまでもなく、そもそもの存在意義が不明だ。

などと妙に堅い話を書いてしまったが、今日書きたかったのはそんな話ではない。

前にもチラッと紹介したが、週刊文春に連載されている「高尚」なエッセイに感銘を受けたことを書きたかったわけだ。

エッセイの筆者は「みうらじゅん」だ。イラストライター、エッセイストというか、ビミョーな問題をビミョーに切り裂く異色のオジサンである。

寅さんマニアらしいので、その点では凄く親近感を感じているのだが、この人のエッセイは生真面目な私が口にするのも恥ずかしいタイトルである。

「人生エロエロ」である。自ら「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた」と語る御仁だけに、その洞察力にはいつも敬服する。

最近発売号では、敬語の大事さ、タメ口の不愉快さについて書かれていたので、エロ話を読みたかった私としてはサラッと読み流そうと思った。

ところがである。さすが人生の大半をエロに捧げた人だ。エッセイの後半ではしっかり「高尚」なエロ洞察が展開されていた。

一昔前に話題になった映画「愛の流刑地」を引き合いに、エロの神髄は「ベッド敬語」にありと喝破している。

さすがにエロ達人は着眼点が違う。寺島しのぶのベッドシーンうんぬんではなく、セリフ回しの敬語乱発に「勃ててくるな~」と感心したそうだ。

「私をメチャクチャにしてください」に始まり、行為中にも「お任せします」、「く・・・ださい」、「先生に抱かれて生きていきます」。そしてフィニッシュ時の「ありがとうございます」へと続く。

セクシャルな場面での敬語は確かに特別な響きがある。私自身、考えてみれば、そんなシチュエーションプレイが結構好きなような気がする。

いかんいかん、話が脱線しそうだ。

それにしてもエロ話を表現する際に「ベッド敬語」という造語を生み出す「みうらじゅん」の奇才ぶりに心底感心した。

このエッセイの最後のわずか数行に奇才の奇才たる表現が凝縮されている。原文を転載してみる。



~~

欧米の「カム!」や「オー!ディープ」といったタメ口を真似ることなかれ。そしてセックスレスの最大の原因は敬語レスと知れ。

~~



う~ん。素晴らしい分析だ。この短い文字数で多くの男が深層心理で思っていることを完璧に言い表している。

イマドキの若者達が草食系と呼ばれるのも女性が強くなったというありきたりの分析ではなく、「ベッド敬語」の消滅にこそ原因があると捉えたほうが分りやすいかもしれない。

セックスレスの原因が敬語レスだったとは…。

実に深い話である。

私も「ベッド敬語推進運動」に微力ながら励もうと決意した。

2012年11月12日月曜日

お休み

何かとバタバタしていたのと、風邪をひいてしまったことのダブルパンチで今日の分の更新はお休みします。

アーカイブを一つ貼り付けます。ほんの2年ほど前に自らの野菜嫌いを自慢するかのように書いた話だ。ここ最近、自分でも謎なのだが、積極的に野菜を摂取している。先日は、しゃぶしゃぶ専門店で肉にはろくに目もくれず、野菜を追加注文したほどだ。こうやって年をとっていくのかと思うと少し怖い気がする。

また次回からシコシコ書き殴っていきますのでよろしくお願いいたします。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2010/02/blog-post_05.html

2012年11月9日金曜日

モノの値段

それにしても田中真紀子ってイヤだねえ。目立ちたいだけというか、自分が一番だぜって思い込んでいる気配が実に濃い。

自民党の安倍総裁が、「性格的に問題」だとか「彼女を誉めた人は一人もいない」とかクソミソにこき下ろしていたけど、あそこまで言われるってことは余程なんだと思う。

角栄さんの威光だけで楽々当選する人だけど、もうよろしいんじゃないでしょうか。

次の選挙では、誰を当選させたいという話ではなく、全国的に「落選させるための投票」が盛んになるといいと思う。

今日はそんな話を書くつもりではなかった。

モノの値段について、いろいろ思うところがあったのだが、新聞を読んでいたらついつい政治ネタになってしまった。

引っ越しに向けてバタバタと準備中だ。当然、いろんなモノを買わないといけないのだが、デフレの恩恵をつくづく感じる。

もう20年以上前に初めて一人暮らしをした時は、家電とか家具とかは実家からパクったものばかり使った。新調するにも高くて仕方がなかった。

もちろん、今だって高いモノは高いが、インターネットのおかげでギョッとする値段でそれなりのものが買える。

「価格.com」にお世話になりっぱなしだ。デパートはもちろん、今や家電量販店だって、単なるショールームだ。現物を見て品番を控えて手ぶらで帰ってくる。実際に買うのはネットだ。

近いうちにデパートとか量販店は、売るよりも見せる意味合いが強くなって、それこそ入場料を取って展示中心になっていくのだろう。

ところで、ネット上の価格も一癖あるから困りものだ。

クレジットカードが使いたい、開梱設置まで頼みたい、配送日時を細かく指定したい等々の条件で絞っていくと、同じ商品でも随分と値段が変わってくる。

当たり前と言えば当たり前だが、パッと見で表示されている値段はアテにならない。

引っ越し業者さんの値引きバトルも激しい。

某日、複数の業者に見積もりに来てもらう予定を立てた。1時間づつ小刻みにスケジュールを設定したのだが、最初に来た業者にその旨を話してお引き取りしてもらおうとしたら、物凄いダンピング攻勢を受けた。

至れり尽くせりコースの割には、最終的には想像できないような値段が提示された。当日やってくるスタッフの人数から考えても破格だと思う。引っ越し日が平日ならではの暴落価格だ。面倒だし、その業者に決めた。他の業者への断りの電話もその営業マンがやってくれた。

その営業マンいわく、2番目に来る予定だった業者にその破格値を伝えれば、更なる安値が提示されたはずだとか。「この業界、そんなもんです」と言う。

ダンピング合戦に付き合うのも面倒だから、スパっと決めたわけだが、そんな性格だからお金が貯まらないのだろう。

きっとこういう交渉をネチネチやり続ける人がリッチマンになれるんだと思う。

なんだか話がアチコチに飛んでしまった。

それにしても、何を買う時でも、ただただ安さだけを求めてはいけないと思ってしまう自分が悩ましい。財布の問題を考えれば、安さだけが正義?なのだが、いっぱしのオッサンになって極端に安価なモノしか揃えないというのも気分が悪い。

「こだわりの男」だとか何とか言いたい年頃?なので、ついついチョット良いモノが欲しくなる。

これも加齢だ。無邪気だった若さが懐かしい。

2012年11月7日水曜日

珍味の季節

もうすぐ冬だ。冬は珍味だ。燗酒をあおりながら珍味を舐めるたびに日本人の幸せを五臓六腑で実感する。



アンキモ、白子、からすみ等々、寒くなればオールスター軍団が帰ってくる。尿酸値だのコレステロールだの私を悩ます数値は、オールスター軍団のおかげで高値上昇だ。

珍味珍味と簡単に口にしているが、世の中には変な食べ物は限りなく存在する。

納豆などはネガティブな意味での珍味の最たるものだと思う。私は東京人のクセに昔から納豆が苦手だ。

嬉しそうに頬ばっている人を見ると軽い殺意、いや心底感心する。

「豆が腐ってる」。そういう存在だ。あの臭いもダメだ。「匂い」ではない。「臭い」だ。「臭い」と同義語だ。納豆好きな人には申し訳ないが、口の中でトゥルトゥル転がる感じも好きになれない。

日本の珍味といえば、たらこ、カズノコ、いくら等々の魚卵系が王道だろう。珍味といえば、つい「魚方面」をイメージするが、日本各地で魚以外の変なものが珍味として好まれている。

沖縄のミミガーなどは、その名の通り豚の耳だし、山のほうに行けば虫を食べるわけだからもっと凄い。

蜂の子とかイナゴとか、郷土料理の店で出されたことがあるが、さすがに一口、二口で充分だった。人間の味覚なんて脳内イメージで大きく左右される証拠だろう。

昔、パプアニューギニアを旅した時、チキンだと思って散々食べまくった肉の正体がワニ肉だと聞いた途端、食欲が失せたことがある。

ウマいマズいの判断なんてそんなものかもしれない。

美味と表現せずにあえて「珍味」と呼ぶわけだから、ウマいかどうかはその人の嗜好性にかかわるのだろう。

かの麗しい生ウニだって、苦手な人から見れば悪魔に見えるのだろうし、崇高な存在であるカニミソだって嫌いな人からすれば汚物なんだろう。

野菜が嫌いな私にいわせれば、ピーマンなんて地獄のような味がするし、セロリを喜んで食べる人は宇宙人だと信じて疑わない。

生まれて初めてズッキーニなる魔物を食べた時は、2時間ぐらい呆然としていた。あれほど気色悪かった食べ物はないという意味では、最凶の珍味といえよう。

先日、足繁く通って止まり木にしている高田馬場・鮨源で今シーズン始めて新鮮なタラの白子をジュルジュルした日、勢い余って禁断の?白子フライを注文してしまった。


白子の天ぷらは居酒屋なんかでも見かけるが、カラッとフライにしてソースをチョビっと付けて味わうのも最高だ。

防腐剤かなんかを大量に使っている白子だと揚げることによって薬っぽい苦みが感じられるのだが、白子自体のモノが良ければ最高の珍味となる。

ホクホクジュルリンデロリンジュワーンって感じだ。

エロティックな味としか言いようがない。

タラの白子もまさか自分が衣をまとわされて油の海で泳ぎ、おまけに中濃ソースまでくっつけられるとは想像もしていなかったはずだ。ちょっと申し訳ない。

白子の呪いで私の健康は悪くなっていくのだろうか。

2012年11月5日月曜日

お金持ちと呼ばないで!

「お金持ち」の定義は人によって違う。無収入の人から見れば年収300万円の人はお金持ちだし、年収3千万円の人から見れば、億単位の稼ぎのある人がお金持ちだと映る。

何気なく使われている「富裕層」という言葉も実に曖昧だ。国からすれば、「富裕層」とイメージされる人が多ければ多いほど、増税ターゲットを作りやすい。

猫の額ほどのマイホームのために銀行ローンに人生を捧げ、普通の国産車すら月賦で購入して、満員電車にヘトヘトになっているオッサンでも、この国では「富裕層」とみなされたりする。


所得税の最高税率の話をしたい。所得税は言うまでもなく、一般的な稼ぎに課税される税金だ。

日本の場合、税率は6段階。収入に応じて段階的に高くなる。所得が低い人には優しく、高い人には多めに負担を求める仕組みだ。

最高税率は文字通り、「所得がもっとも高い階層の人」に適用される。いわば、国家としては、この階層を「富裕層」と認識しているわけだ。

ここまでは簡単な話。問題はここから。国家が富裕とみなす階層とは、いったいいくらぐらい稼いでいる人だろうか。これがオヨヨな話である。

「課税所得1800万円超」。この境目から上は「富裕層」「お金持ち」という位置付けだ。

課税所得とはいろいろな控除とかを差し引いた後の金額だから、一般的には「年収2000万円」を越えると最高税率が適用される。

年収2千万円といえば、もちろんビンボーではない。フランクにいえばお金持ちだろう。収入として相当なものだ。それでも、前述したように、生涯を銀行ローンに捧げて、子どもの教育費に追われるような「まあ普通」の人だろう。決して、子どもが夢見るような「お金持ち」ではない。

カローラではなくクラウンが買えて、2DKではなく3LDKには住める。雑種ではなく血統書付きの犬が飼えて、量販店の吊るしではなく、時にはオーダーでスーツが作れる。外食できる回数が少し多くて、家でもオカズの品数が2品ぐらい多いだけだろう。

年収700万円の人と年収2千万円の人の格差って、しょせんその程度のものだ。見る人が見れば「金持ち」なんだろうが、その程度の話である。

まあ、この手の話には異論が付きものだから、話を先に進める。

ただ、少なくとも年収2千万円程度の人が、日本国の中で最高に高い税率が適用される階層だとは思えない。

分りやすく言い直そう。ソフトバンクの孫さんとかユニクロの柳井さんとか、年収がウン億円の人を想像していただきたい。そういうスーパーリッチマンと年収2千万円の人は税制上「同じ階層」でひとくくりにされている。

これって変じゃなかろうか。いや変だ。断言してもいい。

所得税の税率は、わざわざ6段階に分かれているのに、最高税率の適用対象は有り得ないほど乱暴だ。年収50億円の人と年収2千万円のオヤジが同じ枠組み。どう見たってバカげた話である。

ちなみに興味深いデータがある。所得税の全納税者のうち、実に84%が6段階の税率のうち低いほうの2段階の税率適用者だ。

これが社会の会費という性質を持つ所得税の歪んだ実態だ。

いま、来年度税制改正に向けた議論が活発化している。「みんなこぞって貧乏を目指しましょう」という思想の民主党政権は、所得税の最高税率を現行の40%から45%に引き上げる方針だ。

おまけに公明党とやらがチョッカイを出し始めて45%ではなく、最高税率を50%にしろと言い出し始めた。

割を食うのは最高税率適用対象者の底辺層、すなわち年収2~3千万円の人達だろう。この階層といえば、経済を根底で支える中小企業経営者が多い。この階層をイジめたくてしょうがないのが現状の政策だ。

最高税率の適用対象者のうち、たとえば、課税所得1億円を超える階層だけに追加の特別税率を設けるといった現実的かつ妥当な発想は一切出てこない。

所得税の全納税者の90%の人には無関係だから、アホな政策でも社会問題化しない。ついでにえば、年収が億単位の本当のお金持ちは、潤沢な可処分所得とスーパーリッチならではの情報ネットワークを駆使して、海外への「資産フライト」を急ピッチで進めている。

超富裕層ほどドライな感覚で日本に見切りを付けて海外に資産を移している。逃げ場がないのは、真面目に日々の会社経営に追われる中小企業経営者だ。超富裕層ほど思い切った動きが取れずに悶々と納税に追われる。

我が社の新聞でも、大衆向けメディアとはまったく別な視点で、中小企業経営者階層を取り巻く税制の不合理をいろいろな角度から特集する予定だ。

いずれにせよ、社会を覆う閉そく感とかドンヨリ感は経済の活性化抜きに脱却することは不可能だ。そうした意味でも中小企業経営者の勤労意欲を強めるような政策への転換は必要だと思う。

今日は真面目な話に終始してみた。なんか脳みそが普段より動いているような気がする。

最近の見始めたシジミエキスが効き始めたのだろうか。関係ないか。

2012年11月2日金曜日

冷え症と上海ガニ

不惑を過ぎたあたりから惑ってばかりの日々だ。いや、そんな話ではなかった。

不惑を過ぎたあたりから冷え症気味になった。実に悲しい。若い頃はいつでもポカポカしていて、冬になると無数の女性が温まりたい一心で私に足を絡ませてきたのだが、それも今は昔である。

これも加齢なのだろうか。まだ11月だというのに足が冷えて仕方がない。夜中に自分の部屋で過ごす際、靴下を2足履いても寒い。真冬になったら一体どれだけ冷えるのか心配だ。

そろそろ南国に移住すべきなのだろうか。

最近、冷凍食品を食べる貧しい機会が増えたのも原因だろうか。あれは身体を冷やすそうだから食べ過ぎは良くないらしい。

ひょっとするとカニの呪いかもしれない。カニは身体を冷やす食べ物として知られる。30代の後半あたりから爆発的にカニが好きになったから、それも原因かもしれない。

いま、穏やかな秋晴れの昼間にこれを書いている。寒そうにしている人は周りにはいない。ワイシャツ一枚で活発に働いている人ばかりだ。

夕べ、上海ガニをむさぼったから寒いのだろうか。足元暖房が欲しくて仕方がない。昼だから燗酒をすするわけにもいかないし、困ったものだ。

どなたか、足の冷えに確実に効くサプリなんかをご存じだったら是非情報を下さい。

さて、上海ガニの話だ。


ゆうべ出かけた店は神保町にある全家福。上海ガニをいろいろな食べ方で出す穴場だ。

ちゃんと冷え対策として、カニと一緒に温かいショウガ汁も出してくれる店なのだが、紹興酒にかまけて一口も飲まなかったことを後悔中。

酔っぱらいガニと呼ばれる紹興酒漬けはポピュラーだが、この店では、紹興酒漬け以外にもニンニク汁に漬けた逸品やショウガ汁に漬けた逸品も楽しめる。

3種類の漬けガニをガリガリチューチューすすりながら熱めの紹興酒をグビグビすると口の中が幸せ満開、幸福ならぬ「口福」である。


蒸しガニはオス、メスいずれも選べたのだが、この日はオス。ミソがたっぷりでこれまた酒が進む。甲羅に熱めの紹興酒を注いで少し味噌を溶かしながらグビリとすれば、ひととき浮き世を忘れる。ハッピーである。

カニと酒といえば、今までも随分と私の健康を害してきた、いや、私に幸せを与えてくれた。

毛ガニの甲羅にミソを残して酒を注ぎ、甲羅ごと火にかけてもらったスペシャル甲羅酒には悶絶した。函館でふらりと入ったお寿司屋さんで遭遇したのだが、甲羅が少しだけ焦げちゃった風味が加わって大興奮した覚えがある。

金沢に程近い北陸の橋立の料理屋では骨酒のような殻酒に悶絶した。さっきまで生きていたそれこそタグ付きの極上ズワイを炭火で焼いて味わったのだが、カニそのものよりも印象に残っている。

身を食べた後の脚の殻をコップがきしむほどギュウギュウ詰めにして、そこにカンカンに熱くした酒を注ぐ。見る間に酒はほんのり淡い琥珀のように色づく。脚をかき分けながら酒をすすると、おったまげるほど風味満開の極上燗酒が出来上がっていた。

書いているだけで飲みたくなってきた。この冬のうちに是非出かけようと思う。

なんだっけ?そうだ、冷え症の話を書くつもりがカニ尽くしになってしまった。

身体が温まるサプリとか有益な情報をお待ちしております。

2012年10月31日水曜日

年齢とコスプレ

年齢の概念って昔と今では大違いだ。男女ともに妙に若い人が増えている。

大人が幼くなってしまったと嘆くのは簡単だが、そんな評論家ぶったことを言っても仕方がない。素直に「若年化」を喜んだほうがいいと思う。

「7掛け」。昔の年齢に対するイメージと比べると、ざっとそんな感じらしい。成人式は30歳ぐらいが適当だという私の感覚から見ても妙にうなずける話だ。

60歳の人が昔の40代前半。70歳なら昔の50歳程度。文字にすると違和感はあるが、世の中で元気で暴れている高齢者を見ると納得してしまう。

真に受けて自分に当てはめてみると、私はまだ30代前半ということになってしまう。それはそれで変だし、困ったものだが、精神年齢はそんな程度かもしれない。

かつての人気ドラマ「太陽にほえろ」で苦み走った中年男を演じていた石原裕次郎は、当初まだ30代であの役を演じていた。

いまだったらキムタクぐらいだ。成熟の早さというか老成というのか、昔の人は大変だったと思う。

子どもの頃に憧れた桜田淳子サマだって、たかだか二十歳ぐらいで、ブリブリアイドル路線を卒業し、大人の女優みたいな顔をしていた。

山口百恵にいたっては21歳で引退した。引退コンサートの妖艶さがハタチそこそこだったとはビックリだ。いまどきのAKBなんて20代後半でもキャッキャっとブリッ子路線で通用している。

高倉健は80歳を超えている。それだけでビックリだ。後期高齢者どころの騒ぎではないはずだが、あの人の場合、いまだに「不器用ですから」とか言いながら女性と恋をしていそうだ。

80過ぎて不器用な人も困るが・・・。

ハマちゃんこと西田敏行だって65歳だ。企業戦士だったらとっくに定年退職だが、釣り好きなダメ社員役が今でも普通にこなせそうだから恐るべしである。

「人間五十年~」とか唸っていた織田信長の時代だったら50歳代なんて長老である。


現在の「若年化」が世の中にとって良いことなのか悪いことなのかサッパリ分らない。でも、間違いなく言えることは、男盛りも女盛りも昔とは比較にならないぐらい長くなったということだろう。


先日、六本木某所で狂乱のコスプレカラオケ大会に参加した。我が社の宴会部長があらかじめ高級個室カラオケボックスに用意したセクシー衣装は10着以上あっただろうか。


それを身にまとう女性陣は5人。恐ろしいことに全員が40代である。高校生の子どもを持つ母親もいた。

昔だったら「40過ぎの母親」は、かつての人気漫画「オバタリアン」みたいな風貌でイメージされたが、時代は変わったみたいだ。

ノリノリでミニスカポリスやミニスカナースやバニーちゃんに変身して、やいのやいの歌い騒ぐ。それがまた普通に衣装を着こなしているから恐るべしである。


「無理しちゃったオバサン」という感じではなく、皆様それなりのスタイルで、遠目に?見たら充分に若者に見えなくもない。

まあ、そんなノリの宴会に参加しようって言うのだから、それなりに自負とか自信もあるのだろう。若者達に元気がない時代だからこそ、こういう中年も大事な存在かもしれない。

2,3時間も一緒に騒げば、アラが出るというか、年齢相応の「おばさん特有の図々しい天下無敵な感じ」が漂ってきて、さすがに疲れる。そうは言っても、こっちもこっちで「偉そうでワガママなおっさん」だから文句は言えない。

その日、リアルタイムでFacebookにコスプレ宴会画像をアップしてみた。中途半端なコスプレ画像だったから、「見えない」という苦情が多数寄せられてしまった。

まさに「秘すれば花」である。画像がブレブレだったから、皆さん興味シンシンになったのだろう。
実態は「熟女狂乱ナイト」だったわけだから、遠目とかピンボケぐらいが調度良い。

失礼しました。

2012年10月29日月曜日

男の作法

池波正太郎といえば、時代小説の大家であり、また食分野や映画、演劇評論などでも知られる伝説の御仁だ。

作家としての評価だけでなく、亡くなって20年以上が経った今では「粋人」としての風評を至るところで見聞きする。

イキな男になりたいと願う私にとっては、氏の膨大な著作を日夜読みふけらないといけないのだが、時代小説が苦手なせいで、まるで読んだことがない。恥ずかしいかぎり。


先日、昭和56年に発表された氏のエッセイを読む機会があった。タイトルは「男の作法」。

こういう大上段に構えたタイトルは、それこそイキではない。ちょっとシャラくせ~と思って読み始めたのだが、読み進むうちにそんな安直な印象を反省した。

さすがにイキな男のモノの見方が凝縮されていた。随想というより、編集者相手に口述している「語りおろし」のスタイルなのだが、そもそも偉そうに指南するという風情はまったくない。時に遠慮気味に「男の作法」をやわらかく諭している。

ただ、本人も指摘しているが、内容の多くは作法などという大袈裟なものではなく、「常識」であり、口はばったく言ってしまえば、いっぱしの大人だったらわきまえているべき事柄が中心だ。きっと若い大人向けに出版されたのだろう。

と、エラそうに書いたが、一連の常識をついつい疎かにしてしまうオトナは多い。私自身、読み進むうちに、「わかっちゃいるけど、それが出来ていないんだよなあ」と反省しきりだった。

酒の飲み方、服の着こなし、人付き合い等々、いろいろな場面で、正しい男の居ずまいが語られている。

昭和56年当時の本だから、当時の大人に向けて語られている。21世紀、平成の今だから、「大人の粋」が希少価値になってしまたと思っていたのだが、そんな頃から「粋人」は絶滅危惧種になっていたとは情けない話だ。

その後、バブルの時代があり、ITの時代が花開き、世の中の価値観や日本人的感性はこの本が出版された時代よりも大きく変化した。

寿司屋、天ぷら屋、蕎麦屋での振る舞い、バーとの付き合い方から恋愛観、結婚観に至るまで、今の時代だから「教科書」として読むべきズレた大人が多いような気がする。

実はこの本を「バイブル」と崇めたてている中年オヤジがいるらしい。なんともダラしない頼りないダメなオッサンだと思ったのだが、考えてみれば、この四半世紀、こういう分野の「教育」は社会が疎かにしてきたのも確かだ。今更でも、粋な姿を目指そうという姿勢は大事かもしれない。

たとえば、寿司屋で通ぶって「ムラサキ」だの「アガリ」だの符丁を乱発する愚かさ、時間を守ることの大切さ、客だからといって威張るような品の無さ、店が混んできたらスッと席を立つスマートさなどなど、当たり前のマナーにまるで無頓着な男は魅力的ではない。

当たり前なのだが、その当たり前がなし崩し的に軽視され、不作法を恥だと認識しない社会が出来上がってしまったのだろう。

氏は人間が鈍感になっていることを嘆く。気配りが出来ない男は粋人の対極だが、その原因は便利になった現代社会の生活スタイルにもあると指摘する。全自動で何でもかんでも処理できるから、昔の人のように同時にいろんなことに神経を使って作業する訓練が欠けていると説く。

昭和の頃より遙かに便利になった現在、気配りにつながる人間の感覚の鈍化は一層進んでしまっているのだろうか。

また、印象的だったのは、高度成長によって「みんな貧乏になっちまった」と語るくだりだ。

自由主義でありながら共産体制みたいな状況は、良くも悪くも「上下の無さ」に現われていると分析する。

せいぜい家にあるテレビの数や部屋数が多いか少ないかぐらいの格差しかないし、社長だろうが平社員だろうが同じものを食べている現実は、見方を変えれば総貧乏化だと指摘する。

氏は大きな意味での「男の小遣い」の大切さを強調する。美術館など日本全国にある文化的遺産の大半が、国家ではなく、実業家など個人の遺産であることを例示し、「男の小遣い」が世の中を潤すと指摘している。

堅くなるが、金融、税制など国の経済政策にもつながる視点だと思う。

なんか小難しい話になってしまった。

「食」への関心の高さ、知識の深さでも知られるが、結論から言って、氏が食の上でも「粋人」に位置付けられたのは、その「しなやかさ」に尽きるのだろうと思った。

もちろん、寿司や蕎麦などすべてに一家言持つのだが、ガッチガチに自説を押しつけるような無粋さとは無縁だったのが印象的だった。

「何がいいと決めないで、それぞれに特徴があるのだから素直に味わえばいいんですよ」

「どこそこの何でなければ、なんて決めつけるのが一番つまらない」

こんな調子で実にさりげない。もちろん、実際には自分の中で譲れないこだわりは頑として持っていたはずだ。ただ、そんな拘りを人様に吹聴することを良しとしない精神性がチラリと感じられた。

食べ物の細かい好みを題材に、熱くなって知識や好みを披瀝することなぞ極めて格好悪いことだと分っているからこその、控えめな物言いなんだと思う。

まあ、大人物を肴に四の五のどうでもいいことを書き殴ってしまった。それこそ無粋である。

とりあえず、粋人を目指す私としては、自分に言い聞かせている「戒め」を今後もブラッシュアップしないといけない。

知ったかぶらない、威張らない、自慢しない、すぐに触らない(これは違うか)、やせ我慢を心掛ける等々、まだまだ修行の道は続く。

2012年10月26日金曜日

名言

名言とか金言に意識が向くようになったのはいつ頃からだろうか。若い頃は、ちっとも響かなかった言葉がいつのまにか身に染みるようになってきた。

といいながら、座右の銘は無いし、好きな名言があるわけでもない。ふとした時に見聞きする含蓄のある言葉に深くうなずく場面が増えてきた。

先日も、くだらないことでウジウジしていた私の脳みそを心地よく刺激する名言を知った。

“The darkest hour is just before the dawn.”

夜明け前が一番暗い。すなわち、事態が好転する直前がもっとも苦しい、あと少しの辛抱だといったニュアンスだ。

文豪・吉川英治の「朝が来ない夜はない」に近い雰囲気だが、それよりも「もう少しだけ頑張れ」みたいな“あと一歩”感が強調されていてグッときた。

そんなことを書いてみるとインテリっぽいが、なんのことはない。今日は、最近あらためてハマっている「寅さん」の名言集を紹介しようと思っている。

最近、「人生に寅さんを」という洒落た本を買ってパラパラと眺めている。実に楽しく、また役に立つ。


それ以外にもどこかの評論家が書いた「へたな人生論より寅さんのひと言」という文庫本も読んだ。まさにタイトル通りの面白い話が満載されていた。

「生きてる? そらあ結構だ」

こんな「金言」に胸をうたれた。チト大げさだが、実に深いセリフだと思う。不慮の死、無念の死などという悲劇を目の当たりにしたり、自殺予備軍が増えている世相にあって大いにうなずきたくなる。

「生きてるだけで丸儲け」とか沖縄の「命どぅ宝」なんかもそうだが、元気に暮らせているなら細かいことでクヨクヨするなという考えだろう。ついつい見失いがちな人生の真理かもしれない。

「幸せのかたまりみたいなツラしやがって、
 不幸せぶるなって言ってるんだ」

これも初期の「男はつらいよ」で寅さんが放つ言葉だ。誰にでも思い当たることはあるのではないか。ちょっとしたことで落胆し、この世の終わりみたいに落ち込む時、その原因が実際には些細なことであることは珍しくない。

世界を見渡せば、あり得ないほど悲惨な不幸はいくらでも転がっている。些末なことで大げさに自分を不幸だと思うことの愚かさを痛感する。

「おてんとうさまは見ているぜ」

単純明快だが、古き良き時代の日本人の行動規範だ。いまの時代、こすっからくインチキな行動に逃げたくなる場面は多い。子どもよりも大人のほうがそんな誘惑に悩まされる。お天道様。日本古来の土着宗教のようなこういう規律性を忘れたらいけないと思う。

「理屈を言うんじゃないよ!
 大事な時に。」

これこそ寅さんの真骨頂だろう。良くも悪くも感情の赴くままに生きる寅さん。でもその心の熱さこそが正しいこともある。冒頭で紹介した寅さん評論本でも、寅さんの魅力は「非論理性」にこそあるという趣旨が書かれていた。

論理的な思考こそが絶対とされ、敵対する相手との間でも論理的な矛盾や破たんだけをあげつらって勝った負けたと一喜一憂している現代人だから、寅さんの小気味よさに拍手喝采を送りたくなるという分析だ。まさにその通り。人間、正論だの理屈だけでは生きていけない。

もう40年以上前の第1作で寅さんは金言を言い放っている。そののち「妹のさくら」と結婚する独身時代の「博」に向かって言い放つセリフだ。

「ざま見ろ、人間はね 理屈なんかじゃ動かねえんだよ」。

ある意味、寅さんは一貫している。ぶれない。だからいつの時代にも根強い支持があるのだろう。

色恋に関しても無数の名言を残している。

「男が女に惚れるのに歳なんか関係あるかい!」

以前にもこのブログで書いたことがあるが、知床を舞台にした名作でのワンシーンだ。竹下景子扮するマドンナが父親役の三船敏郎の恋心を寅さんにグチる。寅さんはキッパリこのセリフを言う。実に小気味よく、かつ真実である。

またある時はいともサラリと次のようなセリフを言う。

「貧しいね 君たちは。
 二言目にはカネだ。
 カネなんかなくたっていいじゃないか、
 美しい愛さえあれば!」

現実の社会ではそうはいかないが、それを本心から言ってのける寅さんの心意気が素晴らしい。私自身、ついつい全財産を投げ打って孤高の道を走り出したくなる(そんな財産なんて持っていないが・・・)。

「恋というものはな、長続きさせるためには、ほどほどに愛するということを覚えなきゃいけない」。

なかなか含蓄に富んだセリフだ。寅さんの場合、そんなこと言いながらちっとも本人がそれを実践できないところが良い。

支離滅裂と言ってしまえばそれまでだが、それこそ理屈ではない。人間らしく生きていれば、そうそう論理的に物事を判断できない。そんな適当な感じも寅さんの場合、ぶれずに一貫しているから潔い。

思うがままに好き勝手に、ぶれずに気楽に生きていきたいものだ。

書いていて気づいたのだが、今日の話は結局、寅さんを全肯定することで、自分のワガママさを肯定したくなっているだけだろう。

まあ、いいか。それも人間らしさだ。

2012年10月24日水曜日

金木犀と松茸

秋である。秋に生まれたせいもあって、この季節はナゼかウキウキする。金木犀の香りが漂ってくると力いっぱい深呼吸したくなる。


花の香りは、そもそも虫を誘引するためにあるらしいが、不思議なことに金木犀の香りは、虫を寄せ付けない特殊な成分があるそうだ。気高い感じがなかなかニクい。

なんか悪女を寄せ付けないように日々生きている私のようだ。

いや、加齢臭のせいで誰も寄りつかないのかもしれない。

まあ、そんなことはどうでもよろしい。

金木犀といえば桂花陳酒の元である。中華料理屋さんで桂花陳酒を秘やかに飲んでいる女性も好きだ。

そんなことはどうでもよろしい。

金木犀といえば、「堀内孝雄」である。

いまはすっかり演歌歌手だが、その昔のアリス時代、「君の瞳は10000ボルト」という凄まじい歌を熱唱していたのが堀内孝雄だ。


  ♪鳶色のひとみに 誘惑のかげり

   金木犀の咲く道を


   銀色の翼の馬で駆けてくる

   二十世紀のジャンヌダルクよ


   君のひとみは10000ボルト

   地上に降りた最後の天使 ♪



う~ん、すごい歌だ。1978年の年間ヒットチャート第4位だそうだ。確かにあの頃はどこでもこのメロディーが流れていた。いい時代だったんだなあ。

金木犀の話だった。

花言葉は「謙虚」とか「謙遜」とか「真実の愛」とか、そんな感じらしい。これまた実直を絵に描いた私のようだ。

なんだっけ?話がとっちらかってしまった。

秋のことを書こうと思っていたのだが、支離滅裂になってしまった。

金木犀の香りを嗅いだら、どうしても松茸の香りが恋しくなる。かなり強引だ。


秋の香りという意味では、金木犀と松茸は東西の両横綱みたいなものだ。

日が暮れれば少し寒いぐらいの気候になってきた。ホッコリした食べ物を肴に一献楽しみたくなる。

秋だから土瓶蒸しである。猪口でズルズルすすって、松茸の香りを堪能してからフガフガと味わう。至福の時間だ。

秋はこれだからタマランチンである。

気が早い店ではアンキモ様も登場し始めた。冬に向かって珍味一族が私のために戻ってくる季節だ。

絶妙にウマいカラスミも予約したし、今シーズンこそは久しぶりに日本海に冬のズワイガニを堪能しに行こうと企んでいる。

楽しみにはキリがない。四季のある国、おまけに世界一の美食の国に生まれた幸せをかみしめないといけない。

そういえば、この前の血液検査では、尿酸値、中性脂肪、コレステロール等々、芳しいデータではなかった。γGPTなぞは過去最高値をマークした。

シジミ汁だけすすって静かに暮らさないといけないのだが、それもイヤだし、せいぜい「適量」を気にして楽しむことにする。

そういえば、シジミのサプリを飲みはじめることにした。青汁、黒酢に引き続き、私を支える新しい仲間だ。

シジミサプリを活用してアルコールと上手に付き合おうと思う。

2012年10月22日月曜日

風水だの占いだの

加齢を実感する場面は、ベルトの穴を調整する時や、下半身にまで白い毛を見つけた時ばかりではない。

若い頃は気にも留めなかった占い方面に興味が湧くのもきっと年を重ねたせいだろう。

以前、銀座の街角で酔っぱらって手相占いの人に絡んでしまったことがある。

占い師いわく、

「あなは責任ある立場でお仕事されている人ですね」

「仕事や家庭の問題で結構ストレスを抱えていらっしゃる」

「思ったように計画が進んでいないようですね」


こんなコトばかり言われた。単純な私でもさすがに大笑いしてしまった。

銀座の8丁目あたりで小綺麗な恰好で飲み歩いていれば、どうしたって無責任な立場の人物であるはずが無い。それ以前に「責任のない立場の人」って世の中にそうそういないと思う。

仕事や家庭の問題でストレスを溜めていない幸福な中年男が、現代ニッポンにどれほどいるのか。誰だって大なり小なりストレスはある。

「思ったように計画が進んでいない」とやらも同じだ。子どもの勉強じゃあるまいし、大のオトナが計画通りに物事をスムーズに進められるなんて稀だと思う。

チャンチャラおかしい。

もちろん、占い師にだってスンゴイ人はいるはずだが、インチキっぽいのが多すぎる。ヒドいのになると、わが家のダウン症の息子を「直せます」と言い切った詐欺師にも会ったことがある。

その詐欺師、某大企業オーナー一族が熱烈に信じている。そっちから紹介されたもんだから、ぶっ飛ばせなくて困った記憶がある。

そんなこんなで自分自身が持っている運勢の力を信じて、これまでは、あえてその手の人々の御注進は聞かないようにしていた。

風水とか方位とか日取りとか、気にし始めたらキリがない。

とはいいながら、イッパシの大人として人生の円熟期?を迎えたいま、妙にそっち方面が気になり始めた。

クルマの納車ですら日取りを見るようになったし、引っ越しの方角も「その道の詳しい人」に見てもらった。

今住んでいる家を建てる時は、風水的な注意点はまったく気にせずに話を進めた。自分なりの設計プランがそんなことで邪魔されるのがイヤだった。

その後、いろいろな機会に家相を見てもらう機会があったが、ことごとく「大凶」だと言われた。障害児を授かった理由まで家相のせいにされた時には腹が立ったが、とにかく全体的にダメ判定ばかりだった。

コンチクショーである。

ワケあっていま引っ越し先を探し始めたのだが、いろいろ候補を絞ってあったのに、方位を見てもらったら、そっち方面は全滅だとか。

コンチクショーである。

おまけに今年のいついつまでならコッチ方向、来年のいついつまでまらアッチ方向と細かく判定されてしまった。

気にしないで進めたいのだが、聞いてしまった以上さすがの私も気になる。仕方なく、良い方向に絞って探しているのだが、なかなか難しい。

まあ、もっと真剣に探せばそれなりの物件が見つかるとは思っているのだが、こういうことは焦ってはいけないのでジックリ勝負だ。

そして、いざ候補が出てきたら「エスパー」としての能力をフルに発揮しなければならない。

とある「エスパーな人」に言われたのだが、私もわずかながらエスパー体質があるらしい。何のことはない。第六感みたいなものだ。

昔から、住むところを探す時に何度も不思議な感覚にとらわれた。ここは絶対ダメだとか、空気が合わないとか、ひどい時には、そこから瞬時に立ち去りたくなったこともある。

まあ、そんなエラそうなことを言いながら「大凶」の家に住んでいるのだから大したことはない。いや、大凶の場所から脱出しようとしている現在の状況自体が、私のエスパー感覚なのかもしれない。

ということで、今後自分の身のまわりに起こるすべての都合の悪い出来事をエスパー感覚のせいにしようと思う。

2012年10月19日金曜日

今日はエロです

変な夢を見た。なぜか私が農林水産大臣になっていて、陳情に来たのが偶然、高校の頃に私をいじめた先生で、エラくなった私なのに情け容赦なく冷酷に対応するという内容。

おまけに大臣にまでなったのに幼稚で狭量な自分を悲観して総理大臣あてに辞表を書こうとする夢だった。

意味不明だ。

気が狂っているのかもしれない。

それにしても最近はエロい夢を見なくなった。心に余裕がないからだろうか。以前は、飛び込みで入店した高級ソープランドで、友人の恋人とか奥さんが出てくる夢を見た。ギョッとしながらもムフフな気分になる夢を何度も見たのだが、すっかり縁遠くなった。

きっと、友人の恋人とか奥さんがオバアサンになってしまったから、そんな夢を見なくなったのだろう。

いったい何を書いているんだろう。何が書きたいんだろう。バカ極まるって感じだ。

仕方がないから今日は軟派な話題を突き詰めてみようと思う。エロ話が嫌いな人には申し訳ないです。そんな人はいないか。

さてさて、何をもってエロとみなすのか、これこそエロの深遠かつ哲学的な命題だろう。

週刊文春に連載されているコラム「人生エロエロ」には毎度感心する。みうらじゅん氏のエロさは紫綬褒章モノだと思う。何と言っても連載のサブタイトルが「人生の3分の2はイヤラシイことを考えてきた」である。感服する。

まあ、だれでも人生のかなりの時間をイヤラシイことの妄想や夢想や実行に費やしてきたのだろう。それでこそ人間らしさである。

話がそれた。

なにをもってエロとみなすのか、エロの奥深さはこの点が人によって違うからだと思う。

パリコレに出てくるようなスーパーモデルのヌードにドキッとする人がいる一方で、隣に住んでいる少しブサイクなおねえさんの真っ裸が覗き見えちゃったほうが興奮する人もいる。

面識のない美人女優のヌードより、一度でも二度でもいいから言葉を交わした「ヘチャムクレだけど少しだけ知り合い」のヌードのほうが萌える。そんなもんだと思う。私だけだろうか。

「無くて七癖」。よく聞くフレースだが、エロの世界においては「無くて七フェチ」だ。

多くの人が妙な部分に性的興奮を覚える。意外な身体の部位とかシチュエーションとかだ。足フェチとか腋フェチあたりが王道で、鎖骨フェチとか肘フェチもいるらしい。

うーん、奥が深い。

私の場合、部位に関するフェチ的要素はあまり無いみたいだ。強いて言えば形の良いお尻だろうか。いつか家中に形の良い女性のヒップだけを石膏ボードで固めて、ずらりと並べて暮らしてみたいと思う。バカでスイマセン。

お尻ついでに言えば、そのお尻を覆う下着とか水着にも妙な思い入れがある。

もう四半世紀以上前だろうか。今は亡き飯島愛がテレビ東京の崇高な番組「ギルガメッシュナイト」でTバックをメジャーなアイテムに昇華させた。おかげで私の人生はTバックに傾いてきたと言っても過言ではない。

世の中にはイヤラシサを競うように大事な箇所に丸く穴が開いた下着とか、大腸内視鏡検査の時に履かされるトランクスのように後ろ部分がぱっくり割れているショーツなどが存在する。

私に言わせればそんなものは邪道である。嫌いではないが・・・。いや、やはり邪道である。覆っているからこそ芸術なんだと思う。だからTバックの勝ちである。Tバックも後ろの部分がただのヒモみたいではダメだ。そこそこ幅を確保していて欲しい。

熱くなってしまった。もっとクールに考察しないといけない。反省。

水着もTバックが好きだが、あれはあれで下着のTバックとは少しニュアンスが違う。下着の場合はスカートやパンツのラインを気にするという大義名分があるが、水着だと見られる前提だ。だから私に言わせるとエロさがわざとらしい感じで減点対象だ。でも大好きだが・・・。

水着の場合、知る人ぞ知る「ブラジリアンカット」が最高だ。画像を貼るわけにもいかないので、知らない人はネットで検索して過激なブラジリアンカットを目に焼き付けて欲しい。オブリガードだ!

そう考えると、私の場合、「衣類系」に妙なフェチ心があるみたいだ。どんなセクシーランジェリーだろうと、バニーガールの衣装のほうが上だと思っている。全身網タイツなどというアダルトグッズがあるが、あれだって私に言わせれば、バニーちゃんの敵ではない。

ミニスカートでナマ足で下着が見えちゃうパターンなんかちっともエロではない。スリットから覗くパンストの上の方の色が濃くなっている部分が見えたほうが断然エロだと思う。

おかしいだろうか。

そういえば、「ハゲデブの義父」に若い嫁が抵抗できずに手籠めにされてしまうAVが好きだという女性に遭遇したことがある。実際にはそんな場面はご免こうむりたいらしいが、AV鑑賞に限ってはなぜか「義父」にシビれるのだという。あれも一種のフェチなんだろう。

誰もが普段はスマシ顔で自分の変なこだわりを隠して生きているが、ひと皮ひんめくれば、みんな結構なエロ大王だったり、エロ女王だったりする。

そんなテーマだけに話題を限定して男女10人ぐらいで朝まで酒を飲み明かす集いとかを開催したら楽しいだろうなあ。

古式ゆかしい「百物語」を怪談ではなく、エロ話だけで達成する集いだ。なかなか面白そうだ。

怪談の「百物語」では、百話が終わった時に「本当の怪」がやってくるらしいが、エロの100話が終わった時には果たして何が見えるのだろう。

2012年10月17日水曜日

貴賓室

普段、貴賓室と呼ばれるところに行く機会は滅多に無い。「全然無い」と書かないあたりが、「富豪」たるゆえん、いや、強がりだ。

そんな私が先日、伝統ある東京競馬場の貴賓室に行ってきた。「貴賓」だ。気品のカケラもない私の居場所としては場違いだが、さも慣れ親しんでいるような顔をして過ごしてみた。


ギャンブルに縁のないカタブツとして生きている私だ。競馬についてもまったく知識がない。1着、2着を決めるだけだろうと思っていたスーパー無知だったから、場違いも甚だしい。でもJRAの職員が優しく教えてくれたので無事になけなしの小遣いを失うハメになった。

貴賓室がある建物は1階の入口にガードマンが立っていて、ゴージャスかつ排他的な雰囲気。凛とした空気とチリひとつ無い高級なフロアにはバーカウンターがあったり、専用馬券販売所まである。


自動発券機の前にはJRAの女性職員が常時待機し、アホ丸出しの質問にもにこやかに答えてくれる。

テラス席からの眺めがまたいい。それこそ一般のお客さんがいる遙か下の場所が、まさに下界という感じがする。

そうはいっても、芝生の香りや疾走するサラブレッドの躍動感を感じるには貴賓スペースは高層階にありすぎる。この点は、下界のほうが絶対に楽しそうだ。


今回、こんな機会に恵まれたのは、わが社が発行する富裕層向けのフリーペーパーの愛読者企画に便乗させてもらったからだ。

「貴賓室への招待」を謳う媒体広告連動企画をJRAとタイアップした我が社の営業マンは、何を隠そう過去に大穴を当てた経験があるらしい。そういう経験が仕事につながるのならギャンブル好きも悪くない。

で、肝心の私の戦果について書かねばなるまい。燦々たる結果だった。それもそのはずだ。やはり無知な人間の我流など通用するはずもない。


この日は、今回の企画用にわざわざ競馬記者とかが専属でレース解説や予想をしてくれていた。ちゃんと聞いて参考にすればよかったのに、アマノジャッキーな私は滅茶苦茶な買い方に終始した。「まるでだめお」である。

負け惜しみ半分だが、それで良かったと思っている。秋晴れの爽やかな休日に貴賓室なんかにふんぞり返って、大勝ちしてしまったら、アホな私は自分にギャンブラーとしての才能があると勘違いしたはずだ。

負けて勝つ!。今後の人生はギャンブルで傾かないはずだから、競馬の神様に感謝だ。



この日は、全レース終了後、この企画の参加者限定で通常は入れないエリアにも案内してもらった。勝ち馬ジョッキーがインタビューを受ける場所とか、ウィナーズサークルとかパドックの中にも入れてもらった。

ウィナーズサークルあたりから見上げるスタンドの威容に結構感動した。夕暮れ迫る時間、ライトアップされたスタンドの美しさは中々のものだった。

でも、結局は小市民である私としては、一般の観客がノンビリ1日を過ごせる芝生スペースに弁当とゴザを持参してピクニック気分で出かけたいと思った。

想像していた競馬場という雰囲気とは大違いで実に爽やかな雰囲気。売店もたくさんあったし、実際に家族連れがノンビリ公園感覚で過ごしている姿が目立った。

呑気に本なんかも持ち込んで軽く一杯ひっかけながら、気が向いたら馬券を買って、日がな一日過ごすのも良さそうだ。

やかましくて空気も悪いパチンコ屋で不健康にスッカラカンになるのなら、競馬場のほうがやはり文化的だ。老後の趣味に良さそうだ。

それにしても、実際にウン万円もスッてみて良く分かったのだが、あれだけ堂々と楽しくギャンブルを楽しめる場所が日本中にあるのだから、カッコつけたり屁理屈こねたりしないで、国営カジノとかをバンバン作ればいい。

尖閣諸島なんかを一大カジノゾーンとして開発して、中国のお金持ちにわんさか来てもらえばいいと思う。

総理大臣になったら実行してみようと思う。

2012年10月15日月曜日

結婚と離婚

先日、友人達と飲んだ際に「結婚とは」を肴に盛り上がった。この日は、お見合いを乱発?して結婚したがっている男がいる一方で、二度目の離婚を目の前に突きつけられている男もいた。

そして奥さんにしたい女性像をめぐって白熱した議論に発展。ポイントは「バカがいいか、お利口さんがいいか」。

誤解のないように言えば、男は女よりバカである。その前提での議論なので女性の方々は気を悪くしないでいただきたい。

バカとか利口の定義は難しい。もちろん、お勉強の出来などではない。頭の回転という意味合いはあるがそれだけでもない。いっぱしの大人としてどうなのかということだ。

そう考えると何がバカで何が利口なのか良く分からない。要は、判断力や機転、気配りの有無、空気の読み方、洞察力、その他にも、ウソでも可愛いふりが出来るか否か、ウソでもいいから控えめな様子を見せられるか、多分ウソだろうけど男を立てる演技ができるか等々、例を挙げればキリがない。

もちろん、そんな例示も一面的でしかない。異性に惹かれる部分は十人十色だ。しゃしゃり出る奥さんが大好きな男もいるだろうし、奥さんにクソミソに怒鳴られているほうが安心するという男もいるらしい。

まあ、そういう変態の話は横に置こう。

男なんて単純なバカなんだから、女性には一枚も二枚も上手でいて欲しい。腹の中で舌を出してでも、その時々の夫の状況を察して臨機応変に向き合ってもらいたい。それができる人が本当の意味で利口な人だと思う。そんな女性が相手ならバカな男だって夫婦間の周波数を合わせようと努力したくなる。

ただただストレートに自分本位に思ったままを口にして、ストレスも溜めずにケロッとしている人がいる。本人は幸せだろうが、そういうのをバカと呼ぶ。

だいたいそうしたパターンの人間は言葉に無責任だ。ヘタな言質は命取りになる世界で生きている男にとって、「言霊の呪い」は結構大きい。私自身、ありえないような言葉を浴びせられたら根に持つタイプだ。

ウダウダ書いては見たが、結局のところバカか利口かというテーマ自体、本当は議論する意味がないのかもしれない。

「おまえバカだな~」と相手のドジを楽しくツッコミたい時もあるし、「キミのおかげで助かったよ」と相手の機転を賞賛したい時もある。

「ウチのカミさん、ああ見えてこんな技能があるんだよ」と人様に自慢したい時もあるだろうし、「ウチの女房は鼻の穴かっぽじってるだけなんだよ」と笑い飛ばしたい時だってあるだろう。

まあ、しょせん男と女なんてなかなか分かり合えないのだから、こんなことを四の五の書いていることが不毛なことかもしれない。

恋愛はともかく結婚となると、多くの夫婦が単なる惰性と世間体だけで関係を続けている。この点は西洋人のほうが合理的で、愛情が冷めればとっとと離婚するらしい。

愛情が冷めたという理由だけで簡単に別れてしまう。

日本人の場合、性格の不一致だの価値観のズレだのイッパシの言い訳を使いたがるが、要は気持ちが冷めてしまった他人とは暮らせないということでしかない

日本では、バツ1だのバツ2だの、わざわざ特殊な呼称まで付けて失敗のレッテルを貼りたがる。そんな「世間様の目線」がプレッシャーになって離婚を踏みとどまっている夫婦が大半だろう。

そうはいっても、本心とは違う現実を受入れて踏みとどまった結果、あきらめが連帯感に発展して、そこそこ円熟した夫婦関係につながることもある。こうなれば「世間様の目線」も社会秩序を維持する上で意味があるわけだ。これはこれで大事な社会の機能なんだと思う。

変な話だが、感性を鈍化させることが離婚を避ける唯一の方法かもしれない。あきらめたくない、このままではイヤだ、人様が何といおうと再出発したい等々、こんな正直(ワガママ)さを押し通せば、どうしたって離婚話につながる。

熟年離婚が増えている話は良く聞く。世間的にイメージされているのは、濡れ落ち葉になった中高年夫が元気モリモリのオバケ、いやオバサン妻に逃げられるパターンだ。

実際にはオバタリアンの逆襲ばかりが熟年離婚ではない。なかにはオッサン夫のほうからすべてを投げうってでも人生を再出発したいというパターンもある。

ナゼ今更?と他人はいさめたくなるが、実はそこがポイントだ。「ナゼ今更?」ではなく、「今だから」踏み切れることもあるのだろう。

若い時分は、納得できないことにも闇雲にぶつかっていく。自分にとって何が必要で何が不要かが見えていない。人の目も大いに気になる。

「頑張らねば」という思いは強いが、そのぶつけどころが的確に判断できていない。無意味な頑張りほど切ないものはない。

そして中年になる。経験と年齢のおかげで頑張りどころが見えてくる。信念みたいな思いも確立してくる。自分が求める世界も明確になる。周囲にも流されにくくなる。

当然、ハナからうまくいっていなかった家庭生活への疑問も爆発する。無責任だ、早まるな、冷静になれ等々の含蓄のカケラもない言葉で制止されても染みこんでこない。

世間様とやらも思ったほど気にする必要がないことに気づいているし、人様の目や便利さや惰性だけで無理やり自分を偽ってゴールに近づくのが無性に恐ろしくなる。

確かに一方的な考えだ。そんなことは百も承知だ。それでも突っ走ってしまう感覚を止められないことだってある。

何が正解かどうかなんて死ぬ時まで分らない。いや、死んでも分らないのかもしれない。

うーん、なんか妙に熱く書き殴ってしまった。

「戸籍真っ黒、お先真っ暗」にならないように頑張らねば。

2012年10月12日金曜日

やはり和食

また一つ年を重ねた。年齢とともに「おめでとう」という言葉に素直に納得できるようになった。元気でフツーに過ごせているだけで確かにめでたい。

年齢とともに顕著になったのが、和食への傾倒だろう。すっかり「非和食」が嬉しくなくなった。嬉しくないと言うより辛いことが増えてきた。

ちょっとだらしない。

脳だけが若い時のままなので、必要以上にウマいものを大量摂取してしまう。いつも後悔する。学習能力とかが欠落しているのか、胃腸に形状記憶体質がまったくないのか、本当に毎晩毎晩食べ過ぎで後悔している。

イタリアンとかフレンチとか、揚げ物ガッツリとかだと、満腹後悔大会のシンドサがハンパではない。その点、和食なら、なんとか食後2時間ぐらいで落ち着くことが可能だ。

やはり和食を食べていたほうが身体へのダメージが少ないと実感する。

で、最近ウマかった和食の話を書く。

薄ら寒くなってきたので久しぶりに新宿の玄海に行った。水炊きの老舗だ。このブログでも何度も書いたが、ここの水炊きは最初から最後まで一切野菜を入れない。ただただ鶏肉のブツ切りのみ。潔い。最高だ。


白濁スープのウマさも辛抱タマラン状態である。ペースト状に漉したニンニクをちょろっと加えてグビグビ飲む。ウンマ~イ、グヒヒと言いたくなる。

スープという液体のクセに立派に酒のツマミになる。いつもゲプゲプチャポチャポになってしまうのだが、冷酒を片手にスープを片手に持って交互に口に運ぶ作業を延々と続けてしまう。

コース料理しかないのだが、水炊き以外の料理など目もくれずにスープと鶏肉を飽きずに食べ続ける。


別注で頼むロース焼きもまた逸品だ。ジューシーな肉、パリッとした皮。「鶏を焼いて食べる」というシンプルそのもの料理だ。余計なソースを使ったり、こねくり回すような調理をしないほうが素材のウマさを引き出す典型的な逸品だ。

この日も食後に太田胃散がっつり。

さて、鶏が続くが、こちらはシュールな街・大塚にある焼鳥の名店「蒼天」。都内の有名焼鳥店には随分行ったほうだが、ここは間違いなくトップレベルだと思う。

銀座あたりで1本500円も取ってどうでもいい焼鳥を食べさせる店とは大違い。適価だし、メニューも多いし、酒にもこだわりがあるし、居心地も良い。


メニューには載っていないが、白レバをはじめとする刺身もある。うっとりちんである。画像はキンカンのスモーク。これまた酒をグングンあおる。



普通の部位も得体の知れない部位もすべて美味しい。味、食感、焼き加減ともに文句なし。近所にあったら週に3,4回は通ってしまうそうだ。

もともと、牛や豚より鶏肉が好きな私だから、水炊きや焼鳥を誉めまくっているのかもしれないが、冷静沈着に考えても上記のメニューはウマいと思う。

つくづくフランスのタイヤ屋の星がどうこうとか、グルメ本の類のくだらなさを痛感する。

続いてはウナギ。これまたちょこちょこアチコチのウナギ屋さんに出かけているのだが、今日はどこぞの店の話ではなく、最近発見した食べ方の話。

冷酒の肴コンテストで20年連続ナンバー1に輝くのがウナギの白焼きだ。まあ、私の頭の中だけのコンテストだから異論は受付けていないが、そんなスンバラシイ白焼き様にネギをトッピングすることで、新たな感動につながることを今更ながら発見した。


ネギはエライ。その一言である。あれほどの名脇役はなかなか存在しないと思う。他に何もないところで刻んだネギだけ出てきても有難くもないし、見向きもしたくないが、ヤツはトッピング相手を見つけると俄然素晴らしい存在感を発揮する。

実に素敵な生きざまだと思う。ネギをもっと誉めたくなった。

さてさてまた話は変わる。ネギといえば蕎麦だろう。ちょっと強引か。キリッとした蕎麦をちょろっと蕎麦つゆにつけてズルズルすることは、胃腸が弱ってきた大人には欠かせない健康法?である。

そんなこんだで、九段下にある某人気店に出かけた。10年ほど前に食べに行った時の感激を思い出して出かけたのだが、正直イマイチだった。



店の風情、ちょっとしたツマミの数々も心憎く、居心地はよいのだが肝心の蕎麦が味気ない。2種類食べたのだがどうにもウキウキしない。

単品で注文したどんぶり入りのトロロのほうがウマく感じてしまった。残念。

それでもヘタにギトギトした西洋料理で満腹になるより遙かに身体にはいいはずだ。

和食攻めを日課にしようと心に決めた食欲の秋である。

昨日、口とお尻からカメラを突っ込まれてきた。一年に一度の検査だ。ポリープがあったので組織検査に回された。今後もドカ食いを続けるために何もないことを祈ろう。