「隠居の相」。今の住まいに引っ越しする際,、時々お世話になっている占い師に家相を観てもらった結果だ。
家相というか方位というのか判然としないが、とにかく「隠居の相」である。占いを根っから信じるわけではないが、聞いてしまうと気になる。
隠居系?の住まいに暮らすと何事もやる気が起きずグダグダしてしまうらしい。本当に隠居する年齢であれば問題ないのだが、子どもだったら引きこもりになりやすく、大人も活気が湧いてこないそうだ。
もともとグダグダしたがる私にとってはこじつけかもしれないが、言われてみればここ半年ぐらいやたらとグダグダしている。おまけにそれが快適でしょうがない。
飲み歩くことも減ったし、なんとなく真っすぐ帰宅することが増えた。家でホゲホゲ過ごすのがとても落ち着く。
せわしく落ち着かない日々を過ごすよりよっぽど有難いことだが、あまりにグダグダ暮らしが快適だから少し心配になってきた。
老境と呼ぶには程遠い年齢で隠居気分を楽しんでいるのはマズい。
先日、細川元首相の隠居ライフをテレビで見た。湯河原の山荘に拠点を移して陶芸や絵筆をとることに没頭している。人相が随分と偏屈な雰囲気になっていた。ある意味ちょっと羨ましく思った。
孫と遊ぶことより一人でボケっとしているほうが楽しいという趣旨の話をしていたが、あの人は78歳である。60歳で政界を引退するまではバリバリ活動していたわけだ。
私ごときの年齢で偏屈爺さんに憧れているようでは問題だろう。
家相のせいにするのは簡単だが、自分としては今の「快適グダグダ暮らし」の原因に思い当たることもある。
シングルライフに移行してまもなく4年。ようやく安定してきたのが原因だろう。環境が変わった当初はさすがに気が張っていた。
2~3年前は、日々なんとなく収まりが悪いような気がして、せっせと遊んだ。エネルギーを放出していないと自分が縮んでしまいそうで常に自分自身にハッパをかけていた。
アニマル浜口のように「気合いだ!気合いだ!」って念じていたような毎日だった。あれはあれでエネルギッシュで充実していたが、どこか不自然な状態でもあった。
葛藤もあったし、具体的な心配事や厄介事が残照のように心に影を落としていた部分もあった。悶々としたくないから元気に動き回っていたのだと思う。
その後、細々した話は時間とともに片付き、気がかりだったことも自分の中でクリアしたような自負も芽生えた。
おかげで無理にエネルギーを放出することもなくなり、自然体で日々をやり過ごしている。気付けば朝帰りもしなくなった。当たり前か。
やはり時間は最高の薬だと思う。傷や怪我を負ったわけではないが、時の経過がもたらす「安定剤」としての薬みたいな効果は大きい。
ということで、ここから先が問題である。グダグダ、フニャフニャした暮らしに染まり過ぎてようやく立てたスタートラインで眠り込んでしまったらマヌケである。
再びアニマル浜口モードに切り替えねばならない。面倒だがガンガン活動的になるように意識しようと思う。
隠居の相に負けてはいけない。
ちなみに、冒頭で書いた占い師に余計なことも言われてしまった。
6月終わりにヨーロッパに行ったことを何気なく話したら、今年の私にとって最悪の方位だったらしい。
で、9月に「西へ行け」とクソ面倒くさいことを言われてしまった。盲目的に信じるつもりはないとはいえ、やはり聞いてしまうと気になる。
占い師は「ハワイなんか最高じゃな~い?」などと脳天気なことを言う。さすがに仕事もあるし、おいそれと出かけられない。だいたいハワイはそんなに好きではない。
ウチから西だったら青梅だって甲府だっていいわけである。まあ、それも面白くないし、週末を使って京都にでも行こうと思う。
まだ暑いから気が進まないが、仏像でも眺めながら自分に気合いを入れ直してこようかと考えている。
2016年8月31日水曜日
隠居の家相
2016年8月29日月曜日
辛さにムホムホ
甘いモノも好きだし辛いものも食べる雑食性の私だが、この夏はいつもより辛い食べ物に惹かれる。
逆流性食道炎の薬をサボらず飲み続けているせいで、胸焼けが抑えられていることも大きな理由である。
朝から辛いカレーを普通に食べるし、ゆで太郎に入って蕎麦をかっこむ時もやたらと七味をドバドバかけてしまう。
暑いときに辛いものを食べたくなるのは一種の本能である。インドやタイなんかに辛い料理が多いのもそれが原因だ。
汗を出すことで身体の表面温度は一時的に下がるから涼しく感じるらしい。冷やしジャージャー麺にタバスコをぶりぶり振りかけて食べるのは夏の常識と言ってもいいわけだ。
これは池袋の人気店「楊(ヤン)」の汁なし担々麺である。路地裏の小さな店が松重豊の「孤独のグルメ」で取り上げてられたせいで、今や周辺に3店舗を構えるまでになった。
時々ふと食べたくなる味だ。正直言うと“美味しいなあ”と思ったことはない。でも食べたくなる。シビれる辛さが何ともいえない魅力だ。混ぜ合わせた時の画像がこちらだ。
辛さの度合いを聞かれるが、「マイルド」と答えようが「普通」と答えようが、違いはあまりわからない。どっちもビシバシに辛い。
怖いから「辛め」と注文したことはない。この料理の辛さの特徴は山椒だ。山椒の辛さがピリピリ痺れさせてくれる。麺自体も何だか独特で、ここでしか味わえない有難い?感じがする。
8月はインド料理店にも何度も出かけた。麹町「アジャンタ」のチキンカレーは相変わらず刺激的な辛さでウマかった。
この画像は何気なく入ってみた銀座の「デリー」のタンドリーチキンである。この店オリジナルのようで、なぜかスープというかソースたっぷりの一品。
これはこれで辛さをしっかり感じて悪くなかったが、個人的には普通のモサモサ?したタンドリーチキンのほうが好きだ。
画像は撮り忘れたが、カレーはバターチキンとカシミールという種類を味わった。カシミールカレーは妙に辛かった。一定ラインを超えるとウマいとは思えないので、個人的には断然「アジャンタ」に軍配を上げたい。
こちらは水道橋にある焼肉「京城苑」のユッケジャンクッパ。焼肉を食べたいわけではなく、キムチやチャンジャやユッケジャンクッパを欲して出かけた。ウマかったけど辛味がイマイチだったのが残念。
気のせいか、ここ10年ぐらいで焼肉屋のユッケジャンクッパがそれ以前よりマイルドになっているような気がする。もっとヒホヒホ言いながら辛いヤツが食べたい。
世の中には辛いモノ好きな人は結構いるようで、尋常じゃない辛さの料理を出す店が少なくない。
一部のラーメン屋とか担々麺専門店あたりだとウマくもなんともない単なる嫌がらせ的な辛さだけをウリにしている店もある。ああいう路線の店は若者に任せて、大人はウマさと辛さの両立を求めたいものである。
とか何とか気取ったことを書いているが、普段はそんなに辛い料理を食べないので、辛い料理の達人から見れば、私が書いていることなどシャバダバ?である。
辛いモノの話のついでに私のヘンテコ贅沢ネタを書いておこう。
炭水化物を控えなきゃと思った際に、時々「ピザの上だけ」をウホウホ食べることがある。
デリバリーのピザである。適当な組み合わせの「ハーフ&ハーフLサイズ」にオニオンやアンチョビなんかを追加トッピングする。
結構な値段になる。そんな貴重品をひとりで抱えて、おまけにピザ生地をすべて残すという傍若無人な食べ方をする。
ピザなのにフォークで食べる。生地の上の具だけをフォークでごそっとすくって食べる。食べ終わると生地だけが綺麗な円形に残っている。もったいない行為だが、それも体調管理の一環だと自分に言い聞かせる。
この「ヘンテコ贅沢メシ」の際も、最近はタバスコをドバドバ投入している。辛くなってムホムホしちゃう感じがたまらない。キンキンに冷やしたスパークリングワインとの相性が抜群である。
うーん、つくづくダメな感じがする。
この歳になってこんな食生活だとは若い頃には思いもしなかった・・・。
2016年8月26日金曜日
ウマい瓶詰め マズい瓶詰め
本格的に料理をすることはないが、ご飯だけはマメに炊いている。さすがに出来合いのパック白米を食べる気にはならない。
自分好みに炊いた白米さえあれば、卵かけご飯が御馳走になるし、ちょっと高級なレトルトカレーもより美味しく感じる。
炊飯器の早炊き機能を使えば25分ぐらいで炊ける。早炊きのほうが硬めに炊きあがるのは知る人ぞ知る話である。「モチモチ、ふっくら」など私の好みではないので、時間に余裕がある時でも早炊き専門である。
ベランダで一服しながらスマホで下世話な芸能ニュースでも見ていれば25分などアッという間である。最近はとくにマメに米を炊いていたので、SMAP解散騒動や強姦俳優の話題に詳しくなってしまった。
先日、ボケっとテレビを見ていたら「ご飯に合う瓶詰め特集」みたいな番組をやっていた。妙にそそられてメモをとりながら見入った。
ネット通販の鬼?になりかけている私である。さっそくアレもコレも取り寄せてみた。コメラバーとしては米に合う未知のウマいものを常に探している。
「甲州地鶏トマトラー油」なる一品と「食べるギョーザ」という一品である。炊きたてご飯に載っけたらウマそうである。
で、食べてみた。まずは地鶏トマトラー油から。一言でいえば味が濃すぎる。ほんのちょこっとご飯にくっつける程度ならそれなりに美味しいが、ちょっとビミョーだ。
炒め物の調味料としては活躍しそうだが、そのままだとどうにも強烈である。一時期流行った「食べるラー油」の派生系だろうが、食べるラー油自体がオトナにはちょっと厳しいのと同じだ。
続いては「食べるギョーザ」。これまた強烈である。ドンブリ飯に小さじスプーン一杯ぐらいで何とかいける感じ。若い頃ならウホウホ食べられたかもしれないが、これまたビミョーである。
こちらは「焼肉屋のご飯ダレ」と「鴨みそ」である。いずれもラベルを見るだけでヨダレが出そうになる。
「鴨みそ」はそれなりに品がある?味付けで美味しかったが、前者のほうはやはり味が強過ぎる。
保存性や想定購買層の好みを考えるとどうしてもジンワリとしたウマさではなく口に入った瞬間のファーストアタック重視になるのだろう。
とはいえ、ジャンクな食べ物が割と好きな私でもキツく感じるのだから、やや残念である。
ここで紹介した商品は400円から800円ぐらいのラインナップである。桃屋の瓶詰めなんかと比べたらちょっと高い。
そうはいっても10回、20回食べられることを思えば1回あたりのコストはお手軽である。高級品とまではいえない。
ちなみにあまりのウマさにこのブログで何度か書いた葡萄屋という焼鳥屋が発売している「鳥味噌」は確か1個1500円近い値段だった。高いといえば高い。でも、10回以上楽しめることを思えば1回につき100円ちょっとだ。驚くほど高いわけではない。
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2016/06/blog-post_8.html
結局は値段の勝負なのだろうか。一瓶で1000円を超えるぐらいじゃないと人様に勧められるほどウマい瓶詰めは見つからないのかもしれない。
瓶詰め界のスーパースターである加島屋の「さけ茶漬け」は中瓶サイズで2000円近い。世の中に出回っている鮭のほぐし身の中では比類なき高価格だが、圧倒的にウマいのも事実だ。
http://www.kashimaya.com/items/dtl100.aspx?p_cd=33101
一方的かつ富豪的?な観察結果としては一瓶あたり1000円オーバーじゃないと大人が喜ぶ味の瓶詰めには出会えないのではなかろうか。
瓶詰めはもちろん缶詰の世界も一昔前と異なり趣向を凝らした商品が次々に登場している。昔の大家族が核家族化の道を辿り、これからは単身世帯が爆発的に増えるのは時代の流れである。
単身世帯、すなわち“お一人様”とどう向き合うかがすべての業種業界の課題だが、「ちょっと値段は張るけど味は絶品の瓶詰め」なんかは結構な需要があるはずだと思う。
2016年8月22日月曜日
夏休み
今日は更新出来なかったので過去ネタを二つ載せます。
AKBとタニマチの話
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/06/blog-post_13.html
情緒の大切さの話
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2008/09/blog-post_24.html
2016年8月19日金曜日
猥談の心掛け
猥談が好きになってどのぐらい経っただろう。10歳ぐらいが猥談デビューだとしたら、もう40年ぐらい猥談に励んでいる。われながらご苦労なことである。
猥談、わい談、ワイ談。漢字で書くとエッチな雰囲気になるような気がするので今日は「猥談」で通すことにする。
夜のクラブ活動を終え、ホロ酔い気分の帰り道、いつも思うのが「今日も猥談だけだったなあ」というビミョーな総括である。
石破茂さんじゃあるまいし、銀座のクラブで政治や安保問題、はたまた尖閣諸島を語っても仕方ない。血液型の話や食べ物の話も退屈だ。ワイドショーネタも面白くない。
で、猥談である。
考えてみれば、今までの人生、女性との会話の半分ぐらいは猥談だったような気がする。今ではすっかり大真面目な表情のままエロ話を際限なく続けられる特技?を身につけたほどだ。
女性相手の猥談にはコツがある。ドン引きされるような下卑た感じだと興ざめである。ポイントは、いかに生々しさから遠ざけるかという点だ。
「ゲヘヘヘ~、キミはどんなエッチが好きなんだ~? ほれほれ言ってみい?」。
これではダメである。まずはリアルな感じを出さないことが大事である。とっかかりの段階では異次元の話にすることで「はしたない」という思い込みを徐々に溶かしていく。
そうじゃないと相手の引き出しは閉じたままである。引き出しを開くためには段階的に攻め込む必要がある。
そんなことを力説して何になるのだろう・・・。
たとえば、エロ動画の話題を例に取ってみよう。
「エロ動画なんて見ることある?」みたいな直球勝負は禁物である。「そんなもの見ませんよ」と切りかえされてオシマイだ。
あくまで誰だって見ているという前提で勝手に話を進めることが肝要である。まずはこっちの趣味嗜好を開けっぴろげに話し始めればいい。
ただし、エロ全開になるのはまだまだ先である。笑えるネタを主役にして場の空気を和らげることが先決だ。
たとえば、ハゲオヤジが若いコを相手に奮戦しているエロ動画だったら、「ハゲオヤジのいやらしいテクニック」ではなく「ハゲオヤジの頭に光っていたシュールな汗」に焦点を当てて笑いを取る方向に持っていくべきだろう。
黒人が日本人の若い女性相手にハッスルするエロ動画であれば、「黒人の猛々しい凄いモノ」ではなく「“ウーベイビー、ハイ、ハニー”など黒人の妙に紳士的な語り口」にポイントを置いて笑い話を展開する。
そんな感じでエロ動画評論をエロ満開の表情をせずに一方的に展開する。この段階では一方的に話すことがカギだ。聞かされる側は徐々に自分も話したくなってくる。ここがポイントだ。渇望感である。
一方的にこちらの話を展開するだけでなく、「人から聞いた話」を混ぜ始めることもその場にいる人の渇望感をあおるのに効果的だ。
気づけば女性陣も徐々に自分が見たエロ動画の話をしゃべり始める。このあたりからが勝負どころ?である。
猥談へのハードルが下がってきているわけだ。せっかくハードルが下がったのに「へえ~キミはそんな動画を見てるんだ」などとマジマジと反応するのは禁物である。相手がせっかく開け始めた扉が閉まってしまう。
あくまでサラっと聞き流す。場合によっては相手が繰り出した話を「ありがちで平凡な話」ぐらいな雰囲気で受け流す。実際にはウホホ~と思える話でも基本的にはクールに反応しておく。
人間誰しも負けず嫌いの要素を持っている。自分がせっかく投げかけた話題がウケなかったら不本意である。その心理に期待してどんどん引き出しを開けてもらうわけだ。
だいたい、そもそものネタは猥談だから、女性陣が最初からとっておきの話を繰り出すはずもない。第二弾、第三弾が控えていると考えて間違いない。
ということで、女性陣からすれば第一弾が不発となれば次はもっと驚かれるネタを提供したい、負けるもんか!的な気持ちになっていく。そんなものである。
そんな心理はその場の人数によっても増幅する。気づけば「猥談競争」である。競い合うように面白いネタがいっぱい出てくる。こっちがビビっちゃうぐらい凄い話が飛び出すことも珍しくない。
盛り上がるにつれ、当然、話題は動画レベルでは済まなくなる。実体験上のエロ話に移行していく。こうなると、こちらの仕事は皆様の競争心をバランス良くあおるだけである。
いつのまにか、天地がひっくり返るほどの凄い体験談が出てくることも珍しくない。また、その場で一番地味でカタブツみたいな人がメガトン級の体験談を披露しちゃうこともある。
そういう光景を眺めているのがとっても楽しい。目の前にいる人が経験した「凄いこと」である。リアルに想像できて楽しい。かなり萌える。
バカである。
おかげで、世の中にはスペシャルな体験をしている人が多いことにビックリする。自分自身まだまだ修行が足りないと感じて変な向上心につながる。
そんな感じで世の中に潜んでいる凄い話をどんどん吸収して耳年増になっていく私である。
そして、新たに仕入れた猥談ネタを武器に各地でまた猥談大会を繰り広げ、そこでまた凄い話を入手していく。
猥談の「わらしべ長者」状態である。
2016年8月17日水曜日
恥ずかしいこと
若い男の草食状態が相変わらずらしい。由々しき問題だ。我々の老後を支えてくれなきゃいけない世代がそんなことではこっちがジジイになる頃が心配だ。
女性を求めて奮闘することを避けるようでは生き物として失格だ。カニだろうがイカだろうがカメだろうがセミだろうが、みんな頑張っている。もっと本能に正直になればいいと思う。
女性に接触することを怖がったり、上手くいかないことを恥ずかしいと思う気持ちが草食化の原因らしい。
肉食人生を過ごしてきた私だって、怖い思いや恥ずかしい思いはいくらでもしてきた。それをムダだと思ったことはない。バカらしいと思ったことはあったが、そんなバカらしさこそ「男子一生の仕事」である。
ちょっと違うか。
映画・寅さんの決めゼリフに「思い起こせば恥ずかしきことの数々・・・」がある。生きていれば恥ずかしいことだらけである。その瞬間は死にたくなるほどでも、後になれば笑って済むことばかりだ。
どんどん恥をかけばいいと思う。
エラそうなことを書いたが、私自身、結構な歳になってくると「恥ずかしい思い」を経験する機会が無くなってきた。
良いことなのか悪いことなのかよく分からない。恥をかかなくなった分、人生が退屈になったという見方もできる。
「大人なんだから」という一種の呪縛のせいで行動に大胆さや面白みを無くしてしまったら損な気もする。
女性方面?での恥もいっぱいあるが、ちょっと活字にしにくい話が多いからそれ以外の恥ずかしい記憶をたどってみる。
洋服を買った時のタグがついたまま街を歩いていたことは何度もあるし、ズボンのチャック全開で夜の街を闊歩していることも珍しくない。
まあ、その程度だと個人的にちっとも恥ずかしくないから何度も繰り返すのだろう。
若い頃、ダイビングを始める際の講習でパニックになった。水中から急浮上して水面で大暴れしている姿を一緒に講習を受けていた女性陣に見られたのはかなり恥ずかしかった。
いや、そんなことより、ダイビングの休憩中、ボートの陰に隠れて水面でこっそり「脱糞」していたのを水中から他のダイバーに目撃された時は卒倒しそうになった。
透明度の良い海。浅瀬のサンゴの眺めに癒やされていたダイバーにとって、ふと上を見たら下半身丸出しで「脱糞」に励む男がいるとは夢にも思わなかったはずだ。私も死ぬまで忘れないが、目撃者にとっても終生忘れられない思い出になっていると思う。
名刺入れから自分の名刺を出して挨拶したつもりが、前の晩にもらったオッパイパブの女性の手書きの名刺を渡してしまい、初対面の仕事相手を困らせた時も非常に恥ずかしかった。
窮屈な飲み屋のカウンターで間違えて隣のオヤジの飲み物をグビグビ飲んでしまった時も恥ずかしさと気持ち悪さのダブルパンチで困った。
やたらと鼻くそが溜まったので必死の形相でほじくりまくって、それを雪だるまのような作品にしていた姿を職場の女性に見られたこともある。
付き合っていた女性とスーパーに買物に行った際、うっかり間違えて見知らぬ女性に赤ちゃん言葉で話しかけてしまった時の恥ずかしさも忘れられない。
声をかけられた女性も目を見開いて私の顔を凝視していた。衝撃だったのだろう。
カッコつけたり、コワモテぶっている時の失敗も自分にとってダメージは大きい。
その昔、マンションの駐車場でのこと。私の駐車スペースのそばに邪魔なバイクが置かれるようになり、車庫入れがやりにくくなった。いつかバイクの持ち主をとっちめてやろうと思っていた矢先に、バイクの持ち主と遭遇。
その頃、ちょっとコワモテ系のクルマに乗っていたこともあり、自分なりに必死に「タダモノじゃない男」を演じながら、バイクのにいちゃんを呼び止めた。
「おい、いつも邪魔なところにバイクを置きやがってどういうつもりだ。こっちは高いカネ払ってここを借りてるんだ」
舌打ちしながらオラオラ調でそう言うつもりだったのだが、勢い込んだ私の口から出た言葉は、
「カネ借りてここを借りてるんだ!」。
意味不明である。というか、なんか哀しい響きである。「カネを借りなきゃ車庫代を払えない貧しい人」である。
当然、相手は少しもビビる様子は無く、むしろ私を哀れむような顔で見たような気がした。
怒っている時ほどゆっくり話すことが大事だと痛切に感じた一瞬だった。それ以降、バイクは別の場所に置かれるようになった。きっと同情してくれたんだと思う。
いろいろ書いたが、ここに書ける程度のことは後々笑い話で済む話である。自分の記憶の中から本能的に消去した恥ずかしい記憶もある。時々、フラッシュバックしてアタフタすることもある。そのへんは割愛。
さてさて、強引なこじつけみたいな話だが、恥をかいた分だけ人は大人になっていくのだと思う。恥の積み重ねが人を成長させる。
というわけで、まだまだ成長したいから、恥ずかしい失敗を恐れずに日々奮闘しようと思う。
2016年8月15日月曜日
障害者殺傷事件に思う
あまり触れたくない話題だったのだが、今になってもモヤモヤが収まらないので、今日は少し真面目な話を書く。
「障害者なんて生きている価値がない。死んでしまえばいい」。相模原で起きた障害者施設殺傷事件の犯人の言い分だ。
犯人の異常性はともなく、こんなふざけた思想に共感する声がインターネットなどで広がっている現実が非常に無気味だ。
ネット特有の匿名性という、いわば安全地帯からの発言である。取るに足らない雑言と一蹴することも出来るが、匿名だからこそ本音が浮き彫りになるのも事実だろう。
障害者の存在意義、障害者の価値等々、そういう表現自体が既に哀しい言い回しである。健常な人にはハナから使われない概念だ。
私自身、ダウン症の子供を持つ立場になってから10年近く様々なことを考えてきた。まだ10年だから日々感じ方も考え方も揺れる。
情けないことだが、最初の頃は「いなくなって欲しい」と思ったこともある。それでもヒットラーと同様の間違った優生思想やそれに共鳴する人々の声には単純に恐ろしさを感じる。
誰が何を思い、何を感じるかは自由だ。障害者に対する見方や意見だって人それぞれであり、一方的に決めつけたり強制は出来ない。
障害を持つ人と関わりたくないと思う人もいる。それはそれで現実だ。私自身、今の立場になる前はそんな感覚を否定できなかった。今だってさほど変わっていないかもしれない。
ただ、そう思う気持ちと異常なまでの排斥主義はまったく別モノである。
そもそも障害、健常を問わず、人間の存在意義や価値などという大上段に構えた言葉にどれほどの意味があるのだろう。
乱暴に言ってしまえば、優秀で高度な専門知識を持って活躍している人がある日突然消えたとしても、世の中は前の日と何も変わらず動いていく。「余人をもって代えがたし」と社会全体が思える人など99%存在しない。
人の価値なんて身内や身近な人にしか分からない。誰かに大事に思われ、誰かに愛おしく思われている存在だったら、それだけで価値はある。
家族や身近な人の集まりという小さな単位が社会を構成する基本である。そう考えれば自ずと障害者だろうが健常者だろうが存在意義や価値という枠で軽重を語ることは無意味だ。
障害者問題の難しさは端的に言って世の中に漂うちょっとした窮屈さにも原因があると思う。
「障害者は無条件で助けねばならない」「障害者にはとにかく優しくすべき」等々、いわゆる「ねば・べき」の画一的な押しつけへの違和感だ。
他人に優しくできない、手助けするのもイヤだと思うタイプの人は少なからずいる。性格的なものだからそれ自体は悪とはいえないし責めることもできない。
そういった感性の人々にとっては「ねば・べき」の押しつけ、すなわち「窮屈で息苦しい感じの善行の強制」が厄介なのは確かだ。
普通の人からみても「ねば・べき」があまり強くなると、たとえ親切にしたくても何となくそれが「特別な行動」のように思えて、ちょっとした気配りさえもハードルが高くなってしまう。
そうなると一歩目が出ない自分が面白くない。面倒で厄介な感覚に陥る。面倒や厄介が高じれば、その対象である障害者に対するイメージも面倒や厄介になる。結果、自己正当化の意味も含めて差別感情や偏見につながっていく。
そんな悪循環が厳然と存在するのだと思う。
それ以前に人間の基本的な「業」もある。どんなに綺麗事を言おうと、しょせん人間は優越感と劣等感のバランスの中で生きている。
「あの人がうらやましい」、「アイツみたいにはなりたくない」等々、人間の行動のほとんどがそういった「業」に支配されていると言っても大げさではない。
自分より劣るものへの優越感が相手への思いやりにつながれば理想的だが、未成熟な社会だと中々そうはいかない。自分より劣る相手を卑下したり差別したくなる感情を完全に消し去ることは難しい。
そんなことをつらつら考えれば、差別や差別感情がなくならないことは残念ながら世の中の必然のようにも思える。
ただ、問題はその先だろう。ストレートに「差別をなくせ!」とか押しつけ的な綺麗事も無意味だとは思わないが、それにも増して大事なのは「少しの理解」を広げることだと思う。
差別感情や偏見、嫌悪感の根っこには、知らないこと、分からないことへの抵抗感がある。「まったく知らない」と「何となく知っている」ことの差は物凄く大きい。
障害を持つ人や周囲の状況について、些細なことでも「へえ~そうなんだ」と知ってもらえることは大きな意味を持つ。
障害を持つ人達にとって力になるのは、同情よりもそうした理解だと思う。
可哀想だとか不幸なんだろうという前提の「同情」と実際のアレコレを知ってもらう「理解」では意味合いがまるで違う。
もちろん、人によって違うだろうが「障害イコール不幸」という短絡的な決めつけもどこか違和感がある。
誰もが歳を取れば障害を持つ。視力も弱まり耳も遠くなり、歩行困難になる。障害が不幸なら世の中のすべてのお年寄りを不幸だと決めつけるようなものだ。
元気ハツラツな若者だって一瞬の事故で障害を抱えるケースはいくらでもある。誰もが障害と隣り合わせで生きている。要は先天性か後発的かという違いだけなのかもしれない。
差別主義者からは障害者は生産性が無いと非難されることもある。生産性でいえば、働けるのに働かず生活保護を騙し取ってパチンコに通うヤカラはごろごろいるし、三食昼寝付きの刑務所を本拠にする極悪犯罪人もゴマンといる。
生産性などという尺度で殺伐とした排斥思想を語る人には、周囲の人に光りを与えている障害者が大勢いることを知ってもらいたいと思う。
なんだか話がまとまらなくなってきた。
このところ、夏休みなのでダウン症の息子と遊ぶ機会が増えた。泊まりに来る回数も以前より増えた。相変わらずノロノロ運転のような発育にため息も出るが、着実にいろいろなことを学んでいる。
健常者の世界しか知らない私からみれば不憫に感じることもあるが、彼自身が不幸かといえば決してそんなことはない。
ある意味、私にとっては社会を映す鏡みたいな部分もあるし、15歳の姉の人格形成にも大きく影響している。学ばされているのは周囲の人間なんだと思う。
最後にネット上で評判になっている投稿を紹介したい。私がここでウダウダと愚痴を書いているより、この投稿を少しでも多くの人に紹介したほうが意味がありそうだ。
http://snjpn.net/archives/7687
2016年8月12日金曜日
なあ拓哉
お盆だし暑いから今日はいつも以上にバカげた話を書く。
「木村拓哉に歌わせる話」である。なんのこっちゃ?と言われそうだが、私が作詞して友人が作曲したオリジナル曲をキムタクに歌ってもらおうという壮大な妄想である。
先日、旧友と飲んでいた時のことだ。その友人とは高校生の時に学園祭の1日のためだけにバンドを組んだことがある。5年前に始めたオヤジバンドの初期メンバーでもある。
高校の学園祭ではオリジナル曲も2曲披露した。私がせっせと詞を書いて友人が曲をつけた。幼いなりに大真面目に作った。
片方の曲は ♪そんなあのコがこう言った~。欲しいのはたったひとりの王子様~♪というアップテンポの曲。結構恥ずかしい歌詞である。
もう1曲はバラードだ。♪酔えない夜ってあるものね ゆうべの店 君は作り笑いで近づいた 泣けない女はどうすればいいの 泣きたい夜は♪というこれまたちょっと恥ずかしい歌詞である。
18歳の頃、協力して曲を作った二人は今や50歳を超え、体型も毛量も別人になった。でも、会えば昔のノリでアホバカ話に花を咲かす。
4~5年前にも1曲だけオリジナル曲を作ろうとして彼に詩を渡した。歌詞の内容は旅に出た不倫カップルがどうしたこうしたという話である。
その後、1年ぐらい経ってから曲が仕上がった。とはいえ、我がオヤジバンドで披露することはなく世の中で私と彼だけしか知らない幻の名曲?状態になっている。
何だか前振りが長くなったが、その「幻の名曲」をキムタクに歌わせたら、300万枚の大ヒットになって儲かっちゃうという実にハッピーなバカ話で盛り上がった。
ジャニーズ事務所との取り分をどうしようとか、カラオケ印税も凄いことになりそうだとか、勝手気ままに妄想していた。
そして、レコーディングに立ち会ったら、きっとキムタクに注文をつけられて困惑しそうだという話になった。
キムタクに言われそうな注文を勝手に想像する。
「ラップのアレンジ入れた方が良くね」。
「ここのコード、AmよりA7のほうが雰囲気出るっしょ」。
「“ゲッチュー”をどこで入れたらいいっすか?」。
キムタクなら言うかもしれない。いい歳したオッサン二人が真剣に「キムタク対策」を議論している。バカである。
くだらない話で恐縮だが、当人達はホロ酔いだから際限なく妄想を膨らませる。
そのうち、レコーディング現場でキムタクをどう呼ぶべきかという話になった。年下だし、「木村さん」だとしっくりこない。キムタクと呼ばれることも嫌うらしい。
「“拓哉”でいいんじゃないか」。おっさん二人の結論である。
「なあ拓哉、そこはアレペジオで弾いてみてよ」
「拓哉もこの曲の世界観をもっと理解してくれよ」
「拓哉が読めない漢字ってどれだっけ?」
酔っ払いのハチャメチャな会話である。
もともとは、キムタクもとっくに40歳を超えているから色気のある大人の曲を弾き語りで発表したら売れるんじゃないかという話が脱線したわけである。
ちなみに、キムタク、いや、拓哉に歌わせようと思った我々のオリジナル曲だが、作曲した友人によると「徳永英明」が歌いそうなメロディーラインを意識して作曲したそうだ。
で、その後は「徳永英明対策」を語り合う。彼に我々の曲のイメージをどう伝えるかという議論になった。
ちなみに徳永英明は我々より年上だった。
いつのまにか徳永英明を「ヒデさん」と呼びながら妄想上のレコーディング現場の話が続くのであった。
平和である。
箸にも棒にもひっかからない話でスイマセン。
2016年8月10日水曜日
80年代の空気
先日、職場にスマホを忘れてしばしアタフタした。クルマで移動している時に気づいたのだが、思っていた以上に公衆電話が世の中から無くなっていることに驚いた。
駅にはあるのだろうが、クルマで動いていたらまず見当たらない。道路沿いに電話ボックスはないし、頼みのコンビニにも設置されていない。
もはやそれが当たり前なのだろうが、災害時や緊急時を想像すると何となく怖い。
携帯を持ってきてはダメという学校が多いようだが、自宅と学校が離れているような場合には、闇雲に規制するのはリスクヘッジの点でマト外れだろう。
おっと、そんな話を書く予定ではなかった。
気づかないうちに世の中は様変わりしているという話を書く。
まあ、私の成人式は30年も前だからあらゆる分野が激変しているのも当然だ。若い頃はパソコンやインターネット、携帯など存在しない時代だったから、別な世界みたいなものである。
1970年代に色気づき、80年代前半に青春時代を謳歌し、80年代後半に社会に出た。見方によってはとても面白い時代を若者感覚で吸収していた。
今の世の中の雰囲気は昔よりドンヨリしている。70年代、80年代は閉塞感みたいな気配がなかったのは確かだろう。
70年代の後半にはまだ少しだけ「重さ」があった。学生運動の余韻なのか、どこか哲学的、文学的というか、物事をずっしり受け止める空気感が漂っていた。
80年代に入ると一気に「軽薄」がすべての分野を覆い始めた。アッパラパー?な世の中だったと思う。
「うつ」が社会問題になったのはずっと後の話だし、リストラという言葉もなかった。セクハラという概念もなかった。
思いつきでくだらない正義感を振りかざすイマドキの“ネット弁慶”な人々も当然存在しなかった。
乱れていたといえば乱れていたが、狂気の沙汰みたいな極悪事件は今の時代の方が多いように感じる。単純に言えば、息苦しさをあまり感じない時代だった。
コンビニはそこら中にあるわけでなく深夜は閉めている店舗もあった。正月に開いている飲食店も珍しかったし、便利さの点では今のほうが格段に便利だが、あの時代のユルい感じは便利さとは別の面白味があった。
チンケな評論みたいになっちゃったので軌道修正。
とにかくエロ満開だったのがアノ時代だ。直接的じゃない風俗がボンボン登場した。あれはあれで世の中の活気だったのだろう。
ノーパン喫茶やのぞき部屋みたいなヘンテコな商売が人気を集め、テレビの深夜番組はそれを密着取材して男達を喜ばせた。山本晋也カントクの風俗ルポは「ほとんどビョーキですね!」という流行語につながった。
「11PM」や「ウィークエンダー」ではバンバン裸の女性が出てきた。その後に続いた「ギルガメッシュナイト」「海賊チャンネル」あたりは低俗極まりないエロを放送した。
お世話になった。
今のテレビは女性の裸は見せない。スマホを開けばおっぴろげ画像や動画が溢れているのにテレビは過剰なまでに自主規制を続けている。正しいことだがちょっと不思議だ。矛盾だらけの社会を象徴しているように思う。
家庭用ホームビデオが普及したのも80年代以降だ。レンタルビデオ屋も一気に増えた。なんだかんだ言ってエロの革命だった。
エロビデオのおかげで一人で留守番するお父さんや子供が激増した時代だ。
経済的にゆとりが出てきて、エロまっさかりの時代だったから「トルコ風呂」も大繁盛。今のソープランドである。日陰の存在だった「トルコ嬢」もぐいぐいオモテに出るようになっていた。
トルコ人が怒り出したのも当然の流れである。「トルコ」といえば誰もがエロいことを考えた。「トルコ=本番風俗」という図式が、大げさではなく全日本人に根付いちゃったわけだからトルコの人にとっては大問題である。
大使館という名のトルコ風呂のせいで、在日トルコ大使館が店名の電話帳掲載に抗議するという事件もあった。
で、80年代半ばぐらいに「ソープランド」に改称された。想像以上にスムーズに名称変更は浸透した。いま30歳ぐらいの人はあの大騒動すら知らないはずだ。
エロ以外の話も書こう。
テレビのCMはタバコとクルマがオシャレ路線の代表だった。ヒット曲はCMソングばかり。
80年代前半にCDが普及するまではレコードをカセットに録音して、オリジナルカセットを作ってドライブデートするのが若者の基本だった。
レコードの針の交換が面倒だったことを今でも思い出す。隔世の感がある。
映画といえば「淀川長治」だったし、「田村正和」はとことん「田村正和」だったし、「草刈正雄」もバリバリの「草刈正雄」だった。画像はネットで拝借しました。スイマセン。
若者のバイブルは女子が「JJ」、男は「Hot-Dog PRESS」や「ポパイ」。デートコースや食べるもの、着るものまで雑誌に決めつけられてそれが正しいと信じていたのだからマヌケである。
アイドルの水着画像や有名人のヌードグラビアで大人気だったのが「GORO」だ。デヴィ夫人までハダカになっていた。
個人的にはあの雑誌に連載されていた劇画「ダミーオスカー」が印象的だった。ストーリーより激しいエロシーンにぶっ飛んだ記憶がある。
あの頃、世の中を覆っていたハレンチぶりはいま思えば実にアッケラカンとしていた。メディアのノリもテキトーだった。私も含めて日本人の民度低下?に大いに貢献したはずだ。
敗戦国ニッポンが再び勤勉実直な大日本帝国に復活しないようにアメリカが巧妙に仕掛けた日本人幼稚化計画だったと言われても信じちゃうぐらい脳天気な方に扇動されていた。
実にチャラけていた。でも妙に陽気な時代だった。
何が書きたかったのかよく分からなくなってしまった。単なる懐古ネタです。
2016年8月8日月曜日
人生最後の・・・
たかだか50歳程度で語る話ではないが、「人生最後の〇〇〇」がちょっとだけ気になるようになってきた。
最近、やたらと娘とデートする機会が増えた。幸せである。そのせいで「こんなに可愛い子どもを持ててオレの人生はかなりラッキーだったな」と痛感する。
しょっちゅうそんなことを感じているおかげで「オレの人生は」の部分に意識が行き過ぎるのだろう。
あんなにたくましかった千代の富士ですら61で亡くなった。彼が50歳の頃、残り10年だとは誰も考えなかったはずだ。
私の年齢だとまだまだ一悶着も波乱も起きるのだろうが、とっくに人生の折り返し地点は通過している。
未来より過去の時間の方が長いから、懐古的な話も多くなる。
さてさて、「人生最後の」シリーズはいろいろある。たとえば、あんなに好きだった野球だ。当然ながら今や観戦専門である。
草野球から離れて10年以上が過ぎた。もし、このままプレーしないのなら、我が栄光?の「ベースボーズ」(チーム名です)で投げたいつだったかのマウンドが「人生最後の登板」である。
「人生最後の奪三振」「人生最後の被本塁打」等々キリがない。
一度だけ草野球の記念大会か何かで東京ドームで投げたことがある。少なくともあの日は、私にとって「人生最後の東京ドームのマウンド」だった。
これから先、犯罪以外で「時の人」にでもなれば始球式に呼ばれるチャンスもあるかもれないが、時の人になる予定もなければ才覚もない。
まあ、そんなこと言ったら小学校の聖歌隊メンバーとして渋谷公会堂で歌ったことだって「人生最後の渋谷公会堂出演」だし、大学生の頃、ファッション雑誌に登場したのも「人生最後のモデル経験」であり、10年ぐらい前にテレビで消費税問題を語ったのも「人生最後のコメンテーター体験」である。
おそらく「人生最後の変態プレイ」とか「人生最後の猥褻行為」も既に終了したはずである。
まだまだ現役とはいえ、さすがに30代40代の頃のゲス・エネルギーには遠く及ばない。一応、これから先も相手によってはスペクタルな体験もあるかもしれないが、いまさら新しい世界を覗くのも怖い。
「人生最後の桜」「人生最後の花火」。そんなのは最低でも20年は先のことであって欲しい。「人生最後の変態プレイ」なんてちっとも惜しくないから、ぜひぜひ桜や梅は今後も数え切れないほど観賞したいものだ。
こんな話を書き始めたのは、おそらく最近読んだ本に影響されているのだろう。著者は多くの人を看取ってきたホスピス医である。
死亡率が100%なのに死ぬことをあまり考えずに生きているのが人間である。死を意識しすぎたら怖くて仕方がないから脳が防衛本能を発揮しているのだろう。
身近な人の死に接したり、こういう本を読んだ後は自分の生き方を反省するのだが、なかなか続かない。続いた方がいいのか,続かない方がいいのか、それ自体よく分からない。
今日が人生最後の日だったら・・・。考えるだけで切ない。煩悩の塊である私は、最後に食べるものぐらいしか頭に浮かばないから救いようがない。凡人の極致である。
少し話は変わるが、対人関係で腹が立ったり鬱陶しい気分の時に、自分の心をいさめる目的で「この人が明日死んじゃったら」と考えることがある。
少しばかり乱暴な発想だが、案外これが悪くない。縁起でもない考え方だが、真面目にそんなことを思うと少し自分の気持ちが抑えられる。
もちろん、どうでもいい相手にはそんなことは思わない。身近な人だったり自分にとって重要な人だったりすると、「この人が明日死んじゃったら、きっと自分は後悔する」という意識になる。
死んでしまったら二度と会えない。イヤな感情のまま別れたら切ないし淋しい。極論ではあるが、そう思うことで少し自分が穏やかになれる気がする。
いい歳して親と折り合いが悪い人は多い。夫や妻、子供との関係がシックリ来ていない人も多い。おじいちゃん、おばあちゃんと疎遠になっている人も多い。
その人のことを冷静に「明日死んじゃったら」と考えてみることで少しは気持ちが変わるかもしれない。
もちろん「死んでくれた方がいい」という残念な結論が頭に浮かぶこともあるだろう。それはそれで現実だ。冷静に考えてそうならば仕方がない。
でも、二度と会えないという現実を想像することが色んな意味でブレーキの役割を果たすことは少なくないはずだ。
なんだか説教くさいことを書いてしまった。
エラそうなことを書いたが、私自身は「今日を人生最後の日として生きる」ことがなかなか出来ないくせに、自分の身近な人には私のことを「明日死んじゃったら」と思って接して欲しいと願っている。実にワガママである。
あんまりシンミリしたことばかり考えていても仕方がない。天下無敵の独身男なのだから「人生最後の恋愛」をあと10回ぐらい繰り広げることを考えた方が健康的だ。
8月。お盆の頃になると不思議と生き死にをめぐってあれこれ考えたくなる。まあ、それも日本の正しい夏の過ごし方だろう。
2016年8月5日金曜日
味噌おやじ
先日タクシーを降りる際、初老の運転手さんに「iDで払います」と言ったら「愛知で払う?」と返された。聞き間違えにしては壮大である。
まあ、こっちも歳とともにボソボソ話すようになったから相手のせいばかりでもない。言い間違え、聞き間違え、読み間違えは世の中に溢れている。
職場で「A5」と「英語」を混同してアタフタした経験もある。オニオンスライスを「オニオニライス」というメニューだと思ったこともある。
オニオニライス。ご飯モノだろうか。ついでに言えば軽井沢の名所「鬼押し出し」あたりには売っていそうな気がする。
仕事柄、言葉の使い方には気を使う方だ。このブログはあたり構わず?書き殴っているが、仕事で書く文章はしょっちゅう校正マンに修正される。
「乱獲で捕りすぎると・・・」などと書こうものなら、「言葉の意味が重複しています」と赤字でダメ出しされる。
「合いの手を打つ」は「合いの手を入れる」の間違いだと叱られる。
他にも「納める、収める、治める」「硬い、固い、堅い」「暖かい、温かい」の使い分けなど分かっているつもりで間違えることもある。
おっと、そんな小難しい話を書く予定ではなかった。言い間違えや読み間違えが今日のテーマだ。
「前菜、いりますか?」と聞かれて「前妻」が頭に浮かんでしまう私は相当なアホである。さすがに「いります」とは答えない。いらない。
こういうヘンテコな例はさておき、文字の字面だけで勝手に違うものを連想しちゃうことはよくある。
「ひつまぶし」は「ひまつぶし」、「おじや」は「おやじ」、「うこん」はもちろんアレだし、「セレブ」は「セフレ」、「ムカムカする」は「ムラムラする」。
最後の二つは私だけのクセかもしれない。それにしても「おじや&おやじ」は平仮名が一つ入れ違っただけで凄いことになる。
味噌おじやは「味噌おやじ」である。特製おじやは「特製おやじ」である。なんだか匂ってきそうである。
たったひとつの平仮名が変わるだけでブッタマげるほど意味が変わるものも多い。
「ここにすわって」と「ここにさわって」では天と地ほどの差がある。当然、私としては後者のほうがバンザイである。
「あそこに立っている人」
「あそこが立っている人」
論評不要なほど意味が変わる。外国人が日本語を覚える際には真っ先に注意して欲しい言葉だと思う。
以前、知り合いが「果汁」を「かじる」と読んだので倒れそうになったが、よくよく考えれば「かじる」も妙に雰囲気がある。悪くない。
最近は肉汁が「にくじる」と呼ばれることも多い。ウマそうな肉から滲み出てくるアイツは確かに本来の「にくじゅう」より「にくじる」と呼びたくなる。
あと50年もすれば果汁は「かじる」になるかもしれない。
さてさて、エラそうに語っているが、小僧の頃は正しく読めない漢字がいくつもあった。学生の本分は遊ぶことだと信じて生きてきたツケである。
解約返戻金の返戻が読めずに「へんもうきん」と大声で言って叱られたし、訃報を「とほう」と読んで笑われた。続柄も「ぞくがら」だと思っていた。
子供の頃、甲子園に出場した「東海大相模」を「とうかいおおずもう」と読んだことに比べればまだマシ?だろう。
ちなみに「韓流」はなぜ「かんりゅう」と読んではいけないのだろう。日本語として使う分には、わざわざ「はんりゅう」に直さなくても良いと思う。
「金大中事件」は「きんだいちゅう事件」であり、わざわざ「キムデジュン事件」とは呼ばない。そう考えると韓流が気になる。「はんりゅう」の方がツウっぽいからだろうか。
そういえば、かなり大人になってから知ったのが「生乳」である。「なまちち」だとパソコンでも変換不能だ。牛乳と違う意味合いの「せいにゅう」という用語である。
まあ、牛乳を「うしちち」と読まないのだから「なまちち」のはずはない。バカでも分かりそうなものだ。それでも、あの文字は「ナマチチ」と読みたい。私の願望である。
「向井理」を誰もが心の中で「むかい・り」と読んでいるのと同じだと思う。
最後にマヌケに見える言葉をひとつ。メールのやり取りなどで時々目にするのが「いちよう」という言葉。「一応」のつもりらしい。
「いちよう、その日ってことで!」といったパターンである。なんかゾワゾワする。「こんにちは」が「こんにちわ」になっている程度なら御愛敬だが、「いちよう」は気持ち悪い。
「とうかいおおずもう」ほどバカだとは思わないが、かなりカッチョ悪い言葉だ。
2016年8月3日水曜日
スマホ撮影のコツとは
日々の暮らしの中で一昔前と変わったことの代表が写真だろう。携帯やスマホで簡単に撮れてメールでやり取りしたりSNSで共有する。昭和の人間から見れば産業革命レベルの変化である。
私自身、旅先にカメラを持参しても結局使うのはスマホだけだったりする。ここ数年でカメラ機能や画質が向上したから、凝った写真や専門的な写真以外はスマホで充分こと足りる。
SNSをはじめ、ネットにはありとあらゆる「普通の人の普通の日常の写真」が溢れている。食べたもの、買ったもの、目に入ったもの等々、まさに百花繚乱である。
私自身、ちょくちょくスマホを食べ物に向けてしまう。いい歳してスマートな行動ではないが、このブログを賑やかにしたいこともあって一種の習慣になってしまった。
行為の是非ウンヌンではなく、今日はスマホ撮影の私なりのこだわりについて書いてみたい。
露出もシャッタースピードもカメラ側が勝手に最適化してくれるご時勢だから誰でもそれなりの写真は撮れる。だからこそ、ほんの少しの工夫で見栄えが変わる。
写真の出来は突き詰めれば陰影と角度と距離である。人間の目は想像以上に優秀である。その瞬間目に見えているモノはその時点で綺麗だとか美味しそうだというデフォルメをまとっている。
そのせいで、シャッターを押す瞬間は脳の思い込みが勝ってしまい、少し遠くからだろうが、のっぺりした角度からだろうが、何となく撮影してしまう。
ハタで見ていて、もっと近寄ればいいのに、それじゃあ逆光なのに等々、もったいない場面を見かける。
上の画像、揚げ物に15㎝ぐらいの距離に接近して撮った一枚とボンヤリ遠くから撮った一枚である。食べたくなる画像はもちろん接近画像である。
イマドキのスマホカメラは驚くほど近接撮影が可能だ。その昔、誰もが苦労した、いわゆるマクロ撮影レベルの画像が簡単に撮れる。
シミやしわだらけの顔なら遠目にボンヤリ撮ったほうが良いだろうが、ウマそうな
食べ物はグッと寄ったほうが迫力が出る。
オートフォーカスは色合いの境目に反応するので、たとえば、このトンカツ画像だったら、肉と衣の境目辺りにフォーカスを合わせれば良い。
思い切って接近するだけでなく、角度もほんの少し気を使うだけで出来映えが変わる。
シンコの握りで比較してみる。上からかぶせるように撮影した一枚と横から撮った一枚である。
かぶせて撮るとノッペリしちゃう。寿司の命であるシャリも写っていない。横から撮影するだけで寿司の立体感が出る。
ウニの握り、赤身の握りそれぞれ、真上から撮るより“横顔”を意識したほうが雰囲気が出る。赤身の2枚目は変な角度だからちっともウマそうに見えない。
物理的にスマホをほんの10~20㎝、角度でいえば20度ぐらいズラすだけで出来映えに差が出る。
こちらは鰻重での比較である。真上から撮った画像のダメっぷりは言うまでもない。斜めから周辺の“景色”を入れてみたら何となくシックリくる写真になった。
食べ物画像ばかり載せてもしょうがないのでチョット路線を変える。
私の風呂上がりの姿を2枚紹介する。まあ、偶然の産物ではあるが、陰の有る無しで何となく立体感が生まれるという比較である。
こんな画像を旅先でせっせと撮影しているのもどうかと思う。はた目には普通に彫刻を撮影しているだけで、まさか顔をスッっ飛ばして局部中心にアップで撮影しているとは思われていないはずだ。
やはり陰影の効果はあなどれない。順光でバッチリ光が当たっているのも美しいが、ちょっと平べったい印象になる。
話は変わる。一時期、Facebookに「胸画像」をアップする変な習慣があった。食べもの画像ばかり載っているので、私も「食べたいもの画像」として頻繁にアップしていた。協力していただいた方々には大感謝である。
これも角度がすべてだと思う。正面からドンと撮っても、ムホ~という雰囲気にはならない。少し斜めを意識して撮ることがコツだと思う。
真っ正面だと健康的、斜めにすることでセクシーな雰囲気につながる。可能なら胸のインパクトが薄れないように距離は近いままで、太股までカバー出来れば、より一層ムホホ~な仕上がりになる。
そんなことを力説したところで、一体誰にとって参考になるのかよく分からないが・・・。
もちろん、胸や食べ物に限らず、普通に人物のスナップショットを撮る時も「やや横向き」を意識することで、雰囲気は大きく変わる。
女子の皆様の中には、写真を撮られる際にその辺を意識している人も結構いるようだ。
数人で写真に収まる際、撮られる瞬間に一歩顔を引いて、遠近法小顔効果を狙うズルっこい人もいる。それも一種の美意識だろう。
さてさて、ホントはセクシーなお尻画像の撮り方を延々と語りたいのだが、さすがにここで見本画像をアレコレ並べるわけにもいかない。
その代わりに昔懐かしの「衝撃画像」?を載せることにする。
パッと見、お尻に見えたアナタは負けである。ただのヒジ画像である。腕を内側に折った際のヒジの関節内側である。
大昔、こんな画像を撮って喜んでいたアホバカ少年は円熟期の中年になっても同じことをして喜んでいる。かなりマヌケである。
2016年8月1日月曜日
わいせつ みだら 淫行
私が浜田省吾師匠の次に尊敬する「みうらじゅん先生」がかつて週刊誌の連載コラムで「夜の漢字大賞」を提唱していた。
その漢字を目にしただけで、あらぬ妄想をしちゃいそうな文字を選ぶという高尚な企画だ。
「姦」「性」「汁」「蜜」「股」「勃」などのほか、なぜか「珍」や「具」もエントリーされていた。大賞に輝いたのは「嬲」(なぶる)。
個人的には「淫」が一推しだ。「みだら」である。音読みの「いん」ですら色っぽい響きに聞こえる。素敵な文字だと思う。
都知事選でみっともない負け方をした鳥越俊太郎氏のおかげで、このところ「淫」の文字をよく目にする。淫行騒動を起こしてくれた鳥越さんの功績である。
「淫行」の正しい意味?まで世の中に知られるようになったのだから石田純一が出馬するより意義深かったと思う。
淫行は一般的に未成年や18歳未満の子供とコトに及ぶことだとイメージしている人は多い。自治体の淫行条例という専門用語の影響である。
鳥越さんの件を報道した週刊文春もそうした一般的なイメージをあえて利用した。言葉ひとつで悪質なイメージは一気に強まるから、「疑惑」レベルの話に強烈なインパクトを与えようと知恵を絞ったわけだ。
相手の女性が成人だったから「淫行」という表現はおかしいという声は文春側にも寄せられたようだが、言うまでもなく「淫行」は字面の通り「みだらな行い」を意味する。未成年ウンヌンは関係ない。
性的に不道徳なことは全部が全部「淫行」に当てはまるわけだ。
話は変わる。
報道の現場では「みだらな行い」「わいせつな行為」という表現が頻繁に出てくる。明確な線引きは無いが、基本的にセックスの有無が分かれ目である。
要は「入れちゃったのか、Bまでだったのか」ということ。入れちゃった場合、それが無理やりだった場合には「暴行」という表現に格上げ?される。強姦という言い回しだと強烈すぎるので暴行という言葉が使われる。
そんなことを言うと「みだらな行い」はすべて同意の上だったという解釈になるが、そこまで細かい定義ではないから、「みだらな行いを無理やりに・・・」というケースもあるかもしれない。
まあ、はじめは本気で拒絶していたのに途中からノリノリになるというパターンもあるから、そのあたりはビミョーである。
さてさて、「みだら」「わいせつ」それぞれ掴み所のない言葉である。報道現場の使い回しは別として、一般的には両方とも「いやらしいこと」である。
調べてみても「みだら」の意味が「わいせつなここと」で「わいせつ」の意味は「みだらなこと」だったりする。
突き詰めればいずれも、「性に関して不真面目で乱れていて、だらしないこと。善良な性的道徳観念に外れていること」である。
善良な性的道徳観念などと言われても、善良の定義自体があやふやだから困る。性に関して不真面目かどうかと言われてもそれはそれで困る。誰の基準で判断するのだろう。
大真面目にSMの道を究めている人もいれば、大真面目にスワッピングをしている人々を目撃したこともある。あれはあれでかなり深い世界である。決して不真面目とは言えない。
私だって、コトに及ぶ状況になれば、いつだって大真面目である。どんな場所だろうと、どんな器具を用いようとも、どんなに奇想天外な行為になったとしても、極めて真面目に親密なコミュニケーションをはかろうと頑張る。
マグロ状態で相手におまかせ状態だったら「不真面目」だから「みだら」だが、真面目に奮闘している以上、「みだら」でも「わいせつ」でもないわけである。
中高年になると旧友と酒を酌み交わしていてもワイ談の度合いが減ってくる。「アッチのほうはどうよ?」という質問には「サッパリだよ」という回答が決まり文句になってくる。
由々しき事態である。「みだら」や「わいせつ」に振り回されていた若い頃を思えば、そんなセミリタイア状態ではダメである。
セミが大合唱する季節である。ミンミン、ジージー、ツクツク鳴いているのはオスだけだ。あれはすべて交尾相手のメスを探す叫びである。
セミリタイアではなく、セミを目指して頑張らないといけない。