2023年6月30日金曜日

俺のラーメン


ラーメンを熱く語る人は多い。そんなラーメン論を必死に語る人々をついディスってしまうこともある私だが、本当は私だってラーメンを熱く語りたい。でもこれがなかなか難しい。卒倒するほどウマいラーメンを食べたことがない。

 

ネットで評判の名店みたいな店で食べてもしっくりこない。ヘタするとヘンテコな味付けにイラつく。とはいえサッポロ一番は大好きだから意味不明だ。ラーメンに関しては“味音痴”なのが私の実態である。

 

先日、人気店だと聞いてコレド室町にある「麦苗」というラーメン屋さんに入ってみた。化学調味料不使用で素材にこだわった店だとか。

 




一言で表すなら綺麗なラーメンだった。美味しいか否かと聞かれたら美味しいと答える。でも私にとっては何かが違う。「これじゃないんだよな~」である。私がラーメンに求めているのはパンチとか味の強さみたいな上品とは対極のジャンク的な要素だと痛感した。

 

とはいえ、激辛だとかやたらとしょっぱい家系と呼ばれるラーメンは苦手だ。あれは大人が口にする食べ物ではないと思う。「蒙古タンメン中本」をいつもベタ褒めする娘の気持ちは全く理解できない。

 

パンチが効いて味も強くて、かといってしょっぱすぎず辛すぎずとなると、どんな路線が向いているのだろう。東京人だから醤油ラーメンが基本だと信じてはいるが、あれはあれで面白み?に欠ける感じもする。

 

味噌ラーメンが一番好きなのだが、京橋にある人気店「ど・みそ」の味噌ラーメンはクドすぎてまったく美味しく感じなかった。

 

昭和の頃に食べた名も無いそこらへんのラーメン屋の普通の味噌ラーメンが恋しいのだが、それを必死に探すほどラーメンにこだわりがないからなかなか思ったような味に出会わない。

 



昨年、一昨年と食べに行った札幌「みそ吟」の味噌ラーメンは個人的には完璧だと感じたが東京には支店がない。せめて自分の行動範囲ぐらいではウマい味噌ラーメンを探してみようと思っている。

 

先日、水天宮にある「しばらく」という店で豚骨ラーメンを食べた。ヘタな豚骨ラーメン屋だと不気味な匂いが漂ってきて不快だが、こちらは爽やか系で良かった。豚骨ラーメンはナゼかチャーシューが薄切りなのが気に入らないが、スープもちょうどいい加減の味わいで私には珍しく再訪したくなるラーメンだった。

 




とはいえ、よく考えたらチャーシューと紅生姜を味わった印象が中心である。もしその2つが無かったら美味しいと思えたかどうかはビミョーだ。結局私はチャーシューだけを目的にラーメンを食べている可能性がある。

 

わが家からほど近い距離に「駄目な隣人」という名の有名ラーメン店がある。いつも行列ができているので気になっていた。ある日、ウーバーイーツで10分程度で運んできてくれることを知ったので注文してみた。

 

もちろん、出前で食べただけで評価してはいけないのだが、わが家に届いたつけ麺は麺が固まっちゃってタレの味もとくに感心するほどでもなく半分も食べずに捨ててしまった。お店で食べたらもっとマトモだろうが果たして並んでまで食べたい味なのだろうか。

 

そもそも「つけ麺」という存在が何となくシックリこない。昔の人間だからだろうか、どことなく中途半端な印象が消えない。

 

その昔、東池袋で一世を風靡した大勝軒のつけ麺を初めて食べた時に「ウマいのかマズいのかどっちとも言えない不思議な味」に違和感を覚えた原体験が今もつけ麺を前にすると甦ってしまう。

 




こちらはアチコチで見かける「東京油組」というチェーン店の油そばである。つけ麺の応用系というか変形みたいな食べ物である。以前、娘に連れられて恐る恐る食べてみたのが初体験だった。

 

名称のイメージよりはあっさりしているし、香港あたりの汁なしあえ麺的な料理の一種みたいな感じだ。個人的にはつけ麺よりはシックリくる。半熟卵を混ぜたら結構ウットリする味になる。

 

かといって頻繁に食べたいかと言われたらノーだ。先日食べたのも過去10年で3回目である。思い込みのせいか、食べ終わった後に「ケッタイなものを食べちゃったな」という保守系古典オヤジ特有の感想がついつい頭をよぎってしまう。

 

つけ麺、まぜ麺それぞれのファンの人には申しわけないのだが、そっち系のラーメンをシャバダバだと思ってしまう決定的な要因は温度だと思う。熱いのか冷たいのかハッキリせず中途半端に「ヌルい」感じが何となく嬉しくない。

 

私は猫舌のくせにヌルい感じをつい否定したくなる。「ラーメンって熱くてハフハフだろ?」という先入観が邪魔をしてそうじゃないラーメンを色眼鏡で見てしまうようだ。

 




何だかんだ言って、しょっちゅう食べてもいいと思えるのは喜多方ラーメン「坂内」のヤケっぱちみたいなチャーシュー麺と、ソーキをぶりぶり追加した沖縄そばぐらいである。沖縄そばはラーメンとは呼ばないか…。

 

結局、麺より豚肉をどっさり食べたいというのが私にとってのラーメン道みたいだ。ラーメンを真摯に研究している人には何とも申しわけないズレまくった結論になってしまった。

 

 

 

 

2023年6月28日水曜日

ヒレかロースか


「ヒレかロースか」。トンカツを考える際、この問題は避けて通れない。日本人なら誰もが一度は悩むテーマだ。

 

一般的に認識されているのは「ロースはジューシー、ヒレはサッパリ」である。それ自体はおおむね正しいが厳密にいえば間違いだ。ロースがパサパサのこともあればヒレがジューシーなこともある。

 

マニアックなほどではないが昔からトンカツが大好きで名店巡りも随分こなしてきた私も「ヒレかロースか」に対する答えはない。今でも悩む。

 

ごく乱暴に言い切るならば「店のレベルによる」というのが結論だ。こだわりの店とかではないごく普通のトンカツ屋さんならロースを選ぶのが無難。ヒレはサッパリどころかパサついていることが多い。

 

テキトーな店のトンカツは総じて揚げ過ぎる傾向がある。豚肉にはよく火を通すというセオリー通りである。ロースの場合、揚げ過ぎてパサついた肉の残念な食感や味は端っこに付いている脂身が誤魔化してくれる。ヒレだとその役割を果たす脂身がないからダメダメになる。

 

かといって、とかく不人気のヒレを見放してはいけない!!。店によっては断然ヒレのほうがウマいケースも珍しくない。そういう路線の店なら私は迷わずヒレを選ぶ。でもその店がそういう路線かどうかは一見では分からないのがトンカツ探検の難しいところである。

 

もっと言うなら「そういう路線」のトンカツ屋さんのロースには注意も必要だ。最上級の店の最上級のメニューを頼んでもヘタするとゲンナリしかねない。

 

こだわりの「そういう路線」のトンカツ屋さんには、「極上」「別格」「特上」などと名付けられた通常のロースカツとは別のロースカツが用意されていることがある。当然、値段も通常のロースカツより高い。

 

ところが、そういう特別クラスのロースカツはその多くが脂身の量が多めでオジサマ向けではない。普通のロースカツは端っこに脂身がついているだけだが、特別クラスの場合は全体にまんべんなく脂身が入っていることが多い。

 

もちろん、好みの問題だから一概に良し悪しは決められない。豚肉の脂身を何より愛している人なら満遍なく脂が混ざったトンカツに感激するのかもしれない。でも私にはキツい。

 

こういう贅沢な問題に直面してしまう上等なトンカツ屋さんの場合、逆にヒレがすこぶる美味しいという方程式も成り立つ。ヒレの場合には通常のヒレより上位に位置する「極上ヒレ」や「特上ヒレ」は言葉通りで非常にウマい。

 




東銀座にある「はせ川」の極上ロースと最上級のヒレ(メニュー表記はシャトンブリアン)の比較画像だ。ロースの脂身は中高年にとっては罰ゲームに近い。一切れ目は美味しく食べるのだが後が続かない。それに比べてヒレの素晴らしさは筆舌に尽くしがたいレベルだ。ヒレはパサパサという思い込みは吹っ飛ぶ。

 

こういう路線の店では、ロースはあえて最上位路線を選ばずベーシックなロースカツにすれば無難に美味しいトンカツが味わえる。

 



こちらは日本橋の「あげづき」の最上位のヒレと普通のロースだ。ロースのほうも最上位を選ぼうと思ったのだが、お店の人からの忠告もあってロースはあえてベーシックなものを選んだ。これは正解だった。

 

ロースも標準以上にウマかったが、最上級ヒレがとてつもなく美味しかった。上に載せた「はせ川」のシャトンブリアンも素晴らしいのだが量的に不満がある。「あげづき」の特上ヒレカツは衣にやや難点があったが量的にも優秀ですぐにでもまた食べたい。

 

いうまでもなくトンカツは揚げ加減も大事な要素だ。とくにヒレの場合、ちょっとした下限でシットリに仕上がるかパサパサになるかが分かれる。

 



こちらは銀座の人気店「梅林」の黒豚ロースカツ。普通に美味しかったがちょっと火が通り過ぎか。端っこに脂身が付く教科書的なロースカツなのだが、揚げ時間が数十秒違えば印象も変わるのだと思う。

 

他にもいくつか参考画像を載せてみる。揚げ加減はもちろん、衣の加減、肉と脂身のバランスなど自分好みのトンカツに巡り合うのは案外大変なことだと痛感する。

 





上から銀座の「あんず」の特上ロース、人形町「かつ好」の別格ロースと別格ヒレである。やはりロースの最上位クラスは脂身が多すぎて中高年向きではない。ヒレに関してもほんのり中心部がピンク色ぐらいが私の好みなのでこの画像の一品は少し惜しい感じだった。

 

今日もいったい誰の参考になるのか分からない話をつらつらと書いてみたが、茶色いトンカツの画像を寄せ集めていたせいで今日も明日もあさってもトンカツを食べたい気分になっている。

 

 

 

 

 

 

 

2023年6月26日月曜日

大真面目にそう思う


今年もアッという間に半年が過ぎた。つい先週ぐらいに大晦日だったような気がするのに不思議だ。年の終わりになるとまとめて先行出費をするのがキツいから、ふるさと納税にもそろそろマメに励まないとなるまい。

 

このブログでも何度も書いてきたが、ふるさと納税の仕組みは現状の税制度の中で唯一の「金持ち優遇」といえる存在だ。人より多めに納税しているなら活用しないテはない。

 

普段からあらゆる制度において高所得者や高額納税者は闇雲に差別されているのが現実だ。そこそこ稼ぎが多くなればさまざまな優遇制度上の対象外にされて負担ばかり強いられる。

 

いまさらだが、観念論の最たるものが高額納税者イジメだと思う。人より稼いでるなら重税も当然という理屈だ。公平という概念を考えた場合、本来は一定の割合で税金を負担するのがスジという見方もある。

 

所得税の税率を一律10%にした場合、年収が200万円の人と2億円の人の税金には1980万円もの違いが生じる。多く払わされる方は大変に見えるが税金の負担割合は誰もが一緒というパターン。これはこれで公平だと思う。でも実際はそうなってはいない。

 

消費税に関しては収入の高い低いに関係なく税率は一律だ。そんな制度が日本の税収の柱になっているわけだから他の税金も一律にしたってちっともおかしくないのにそういう声は少数派だから相手にされない。

 

所得税や相続税に関しては累進課税という正直よく分からない理屈で税率が階段状に上がっていく。それが当然と誰もが思い込んでいるが、人より高い税金を払わされている側にとっては堪ったものではない。

 

高額納税に特典があればまだ許せる。特典どころか国や自治体から感謝やお礼すら無い。もちろん選挙に行っても1票しか投票できない。医療費負担にサービスがあるわけでもない。

 

ちょっと暴論になるが、たくさん税金を収めている以上、行政サービスにちょっとぐらいサービスがあってもいいと本気で思う。

 

軽微な駐車違反ぐらい見逃してもらえるとか、年間10回ぐらい粗大ゴミを無料回収してくれるとか、国営施設の食堂の代金が三割引になるとか、オリンピックを優先的に観戦させてくれるとか、そんな程度でもいいからちょっとぐらいメリットをくれと言いたくなる。平均的な人より数百万、千万単位で多く税金を払っている人にその程度のサービスなら可愛いもんだと思う。

 

もっと言えば10年連続で一定額以上の税金を収めたら11年目から税金が割引されるような“優良顧客サービス”みたいな発想がないことが残念である。


明治憲法下の時代には高額納税者が貴族院議員になるという仕組みがあった。社会の会費を多く払っているわけだから、ある意味で至極真っ当な考え方だろう。

 

今の時代、あらゆる分野の商取引に定着したのがポイントなどの特典だ。電子マネーにしても数々の特典があるから急速に普及したわけでそのメリットを享受している人からすれば「現金で支払うなんてムダ」というのが今の常識。

 

いわゆるインセンティブの有無が消費者心理を左右する。そう考えたら税金の世界にも特典という考え方があってもおかしくはない。お金を払うという意味では納税も買物も違いはない。特典の有無が納税者心理に好影響を与えるのは間違いない。

 

悪質な脱税が減らない現実を思えば真面目な納税者の存在は実に尊い。納税額に応じてインセンティブを用意するぐらいのことはむしろ当然。義務の一言で片付けていいとは思わない。

 

一時期、経済ニュースで「所得制限」という言葉がキーワードのようになった。子ども手当をめぐる政府の方針変更を受けてのものだ。子ども手当に限らず税制の特典や各種助成金などあらゆる分野で設けられているのが所得制限だ。

 

制限を設ける理由は、お金持ちまで優遇するのはけしからんという単なる感情論。国に習って多くの自治体が子育て関連の各種助成などの所得制限を撤廃する動きを見せているが、今更感も禁じ得ない。

 

子ども手当のスッタモンダを見ても分かる通り、所得制限という障壁は結局たいした理由もなく設けられていることがはからずも証明されたわけだ。その他の制度についても闇雲に高所得者をカヤの外に置く悪しき習慣は考えものだろう。

 

戦後のニッポンが誇ったというか特徴にしていたのが「一億総中流社会」という言葉だ。いまやそんな言葉を口にする人はいなくなった。あらゆる分野で高級路線か激安路線かの二極化が顕著だ。

 

貧富の格差は広がり続け、格差の固定という現実はこの20年ぐらいで鮮明になった。資本主義体制下ではある意味当然の帰結だが“総中流”を維持してきた国の形が急速に崩れたことは間違いない。今が大転換期にあるのは確かだろう。

 

そんな時代の変化を受けて、戦後成長期の成功体験を元にした経済政策を今の時代にどう合わせていくかは大きな問題だ。何をどうするにしても国に活気が溢れるような発想を基本にすべきだと思う。

 

とかく政治は格差の下側だけに目を向けがちだ。弱者救済という意味でそれが優先されるのは仕方がないが、しわ寄せを受ける階層についての配慮もまた大きな課題だと思う。

 

スーパーリッチと呼ばれるような階層はともかく、富裕層とまではいえない中堅階層まで税制や社会保障関係分野でイジメていては国の活力などなくなる。この階層が実際の経済を支える中心層であることは忘れてはならない。

 

 

 

 

 

 

2023年6月23日金曜日

「L’essentiel」「ホルモサ」


水曜はうっかり更新を忘れてしまいました。すいません!

 

今日も食べ物の話。すっかり牛が苦手になった私は肉といえば豚肉ばかり食べている。我が家の冷凍庫にも豚肉と少しの鶏肉があるだけで牛肉はここ数年買ったことがない。

 

きっと若い頃に焼肉屋のカルビを食べすぎたせいで一生分の牛肉を食べ終わってしまったのだと思う。いま牛を食べるとしたら出がらしみたいな牛丼だけである。これも加齢の証である。

 

豚肉、鶏肉に続いて好むのは馬肉やラムやマトンで、牛肉は最下位をキープしている。あまり一般的ではないダチョウの肉のほうが牛肉より上位だ。

 



先日、久しぶりにダチョウ肉を食べてきた。銀座のオネエサンに連行されて出かけた銀座のバーで注文した。7丁目にある「Lessentiel」というバーだ。食事メニューの充実ぶりがウリの古くからある店である。

 

つまみ系は何でもあるし、餃子もある、唐揚げもある、パスタもある。飲むというより食べるのを目的にしたような時間を過ごした。

 




エビとタコのマリネ、クラムチャウダー、牡蠣のクリームコロッケ、ビーフシチューオムレツなどを食べたのだが、メインとしてしっかり食べたのがダチョウ肉の盛り合わせだ。

 

クセのないさっぱりした味わいがダチョウの特徴だ。以前どこかの店で馬刺し風にダチョウ肉を刺し身で食べたときにそのサッパリした美味しさにちょっと感動した覚えがある。

 



この日はヒレ肉っぽい部位の他に内臓も出てきた。尋ねるのを忘れたが味や食感の印象からするとレバーとハツだったよな気がする。どれもスッキリした味わいで美味しかった。低カロリー高タンパクだったはずだからきっと健康にも良いのだろう。実際にそんな味わいである。

 

とかく食べ慣れないものには抵抗感を感じるのが人の常だ。ダチョウにしてもその姿を想像してグロい気持ちになりがちだ。でもよくよく考えれば牛や豚、鳥にしても見慣れてなかったらあれを食べるのかと思うとグロい感覚になってもおかしくない。

 

ナマコやウニ、鱈の白子、はたまたアンコウにしても見た目はちっともウマそうではない。カニやエビだって食べ物として認識しているから平気なわけで、初めてあの姿を見た人がアレをウマい食い物だとは考えつかないはずだ。

 

そう考えるとダチョウの見た目は決してグロくはない。むしろ美味しそうだと言えないだろうか。少なくともワニやカバよりは美味しそうだ。ちなみにワニも何度か食べたが鶏肉に似た味で悪くなかった。

 

ヒツジやヤギも見た目からすると食べ物として充分に成立?している。見た目だけで言えば馬よりも食べ物っぽい。そう見えるのは私だけだろうか。

 

別な日、日本橋に古くからある「ホルモサ」という店に行ってみた。「煮るジンギスカン」をウリにする店だ。特製スープで野菜と肉を紙鍋でグツグツ煮るスタイルである。

 



肉はマトンが基本でラムもある。もやしやキャベツとともに何とも豊潤な味わいのスープというかタレで味わう。スープはドロっとしてクドそうにも見えるのだが以外にサッパリしている。ナッツの風味が強めで肉の旨味を吸い込むと一段と滋味深い印象になる。

 

運ばれてきた時は大量のもやしとキャベツにゲンナリしたのだが、鍋に火をつけてしばし煮ているとシナシナしてくれて余裕で完食できる感じになる。1人前あたりスープを飲んでも350キロカロリーとのことだが、あながち誇張しているわけではなさそうだ。

 



アッという間に肉や野菜を食べてしまったので、ラム肉を追加した。生卵もトッピングしてちょっと味変。よりまろやかになって悪くなかった。ありそうでない料理として知っておいて良さそうな店だ。

 

ダチョウ肉や煮込みジンギスカンは牛肉が重たく感じてきた中高年にオススメだろう。とはいえ、私の中の肉ランキングでは相変わらず豚肉が不動の一位だ。いまや豚肉もどんどんブランド品種が増えているようで、「ルイ・ビ・豚(トン)という高級銘柄まであるそうだ。

 

私自身は豚肉の銘柄にたいしてこだわりはない。黒豚を名乗っていても調理次第ではマズいのもある一方で、無名でも熟練職人が上手に揚げたトンカツはすこぶるウマい。要は豚の調理に精通した店で食べていれば安心だと思う。

 

今日もあれこれ書いたが、結論は結局「豚肉サイコー!」である。

 

 

 

 

 

 

 

2023年6月19日月曜日

満腹は幸せ たいめいけん


中年というより高年バリバリの年齢になったが食い意地は昔と変わらない。これって幸せなことだ。満腹になるまで好きなものを食らう時間は生きている中でも特に喜びを感じる。

 

というわけで久しぶりに「満腹死」を目指すドカ食い大会を開催してきた。メンバーは3年前からドカ食い大会を始めた旧友だ。わがバンドのメンバーでもある。基礎メンバー3人に加えて昨年からドラマーで参加した友人も初参加して4人体制だ。

 

試合会場は日本橋の「たいめいけん」。3年前と昨年は神保町の中華料理屋が戦場だったが、今回はニッポンの洋食をバカスカ食べる企画である。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/10/blog-post_9.html

 

以前の大会では炭水化物シバリでドカ食いをしたが今回は自由形である。揚げ物、飯物、麺類など全方位の戦いだ。食べられる量に影響するのでアルコールはやや控えめにしていざゴングである。

 




画像はないが、まずはタコのマリネからスタート。この店の名物であるコールスローとボルシチはそれぞれ50円という破格の値付けで店の人も勧めてくるので仕方なく注文。小サイズだから大勢に影響はない。本番開始は上の画像のレバーフライとミートコロッケである。2つづつ盛られているので4等分すれば瞬殺可能である。

 




試合運びを考える上で揚げモノ連発は好ましくないのでお次はグラタンとドライカレーである。これまた4等分すれば前菜感覚である。濃厚なグラタンに幸せになり、ドライカレーはそのままバージョンと目玉焼きグチャ混ぜバージョンに分けて味わう。

 




つまみ感覚でチャーシューを注文して、この店の隠れた人気メニューであるラーメンも登場。昔ながらの東京醤油ラーメンの王道を行く味わいだ。脂っぽさがないからオジサマたちには有難い。

 




続いてはクリームコロッケとオムライスがやってきた。タルタルソースが格別にウマいクリームコロッケにウットリする。オムライスは卵で包む系ではなくナイフでかっさばいてチキンライスを覆い隠すトロトロ系を選んだ。

 

当日のメンバーはバンド仲間でもあると同時に子供の頃から付き合いのある同級生4人組でもある。無心に食べねばならない大会なのについつい無駄話にも花が咲く。ここが今回のマイナスポイントだった。その分だけ食べられる量が減ってしまった気がする。

 




そしてタンシチューとナポリタンが登場した。タンシチューは濃厚ソースが老舗洋食屋の矜持を感じさせる。これにはちゃんと白米もつけた。ナポリタンは実にベタな昭和の味だった。野菜嫌いの私だがナポリタンにはピーマンを入れてほしかった。

 

以上である。4人で食べたわけだから驚くほどの量ではない。まあまあしっかり食べたといった程度である。あと2品ぐらいは頑張れたのだが、たいめいけんの1階席は、ちょっと高級志向の2階席に比べてメニューに限りがある。この段階で追加注文したいメニューがなくなってしまった。

 

いや、それは言い訳である。まだハヤシライスもあったし、エビフライやハンバーグやステーキもあった。正直に言うとこのぐらいで満腹モードになってしまったのが実情だ。ちょっと情けない。

 



帰り際、もうちょっと食えたなあ、などと負け惜しみをつぶやく。店の入口にあったアノ店主の笑顔がどこか勝ち誇って見えたのは気のせいだろうか。リベンジしないとなるまい。

 

でも次回は銀座の煉瓦亭で洋食再試合を計画することにした。あちらのほうがややメニューが多い印象がある。ハムライスというオジサマ族には妙に魅力的なメニューもある。次こそは立てなくなるまで食べ続ける決意を固めた。

 

まだ余裕があるような顔をしてたいめいけんを後にしたが、二軒目の居酒屋に入って落ち着いたらさすがに膨満感でしんどい気分になっていることに気づく。

 



幸か不幸か、注文を取りに来ないヌルい感じの店だったので飲み物をオーダーしたままバカ話をして過ごす。結局、つまみも料理もいっさい注文しないまま終了。「喫茶店かよ!」である。

 

それにしてもサザエさんのパパ・波平よりはるかに年上になった今でもドカ食いを続けられることは物凄く幸せなことだ。末永くこんな時間を過ごせるように日頃はもっと節制しようと殊勝な気持ちになった。

 

いや、ヘタに節制したら私の体の中の「ドカ食い中枢」がおかしくなりそうだから、やはり日頃から適度なドカ食いに励んで鍛錬しようと思う。





2023年6月16日金曜日

1・5倍の幸せ


突然だが幸せのキーワードは「15倍」にあると思う。「ちょっと多い」ではなく「しっかり多い」のが15倍である。ちょっととしっかりの差は大きい。

 

収入が15倍だったらかなり嬉しい。1.2倍だったらちょっとしか嬉しくない。牛丼の肉も同じだ。15倍だったら満足感は増す。23倍も嬉しいが、そうなると少しだけ罪悪感が頭をよぎる。

 


 

私はオッパイ星人ではなく、昔からお尻フェチなのだが、それでもいざ“試合”の際に相手のオッパイが普通より15倍だったらガン見する。結構嬉しい気分になる。そんなものだろう。

 

話を戻す。もう30年以上前になるが、スーパーカップの15倍シリーズが登場した時はちょっと感動した。シケシケな量のカップ麺が不満だったから救世主に思えた。

 

15倍幸福論に改めて気づいたのは「イクラの手巻き」がきっかけである。軍艦巻きのイクラの握りも幸せな味がするが、手巻きで食べると一層ハッピーになる。


お寿司屋さんに聞いたところ手巻き寿司は普通の握りの15倍相当だという。軍艦なら一口でなくなるが手巻きなら一口かじった後にもまだイクラもシャリも海苔も手元に残っているから改めて味わえる。これが幸せの源だろう。

                                                             




これが小肌の握りやかっぱ巻だったら話は変わる。キュウリなんかが15倍で出てきたらちょっとイヤだ。あくまでイクラやウニみたいなネタだと有難いが、大半の寿司ネタは普通サイズのほうが間違いない。

 

私がイクラやウニを愛しているからそういう感覚になるのかもしれない。人によっては中トロ15倍握りに感涙するかもしれないし、海鮮居酒屋あたりだと穴子一本握りみたいなビッグサイズも存在する。好きな人からすれば何でも15倍だと幸せになれるのだろう。

 



自宅で頻繁に冷やし中華やラーメンを食べる。たいていのチルド麺は一袋に麺が2玉だ。当然私は一気に2玉を茹でる。具がない時は2玉全部食べちゃうし、チャーシューが大量にある時などは15玉分を食べて残りは捨ててしまう。やはり1玉だとシャバダバな気分になる。

 

思えば世の中の麺類はそのすべてが「ちょっと足りない」を基本にしているのかと思う。カッコつけた蕎麦屋の本格蕎麦がチョこっと盛りなのは仕方ないが、カツ丼もあるような街場の蕎麦屋のもりそばにしても1人前は半人前でしかない。

 

その証拠にたいていの店がランチタイムにミニ天丼やいなり寿司なんかをサービスで付けてくる。麺量が少ないことを認めている証だろう。蕎麦を腹いっぱい食べたい時には1枚では絶対足りない。

 

パスタも同じ。高級イタリアンのコースで鼻くそ程度にチョこっと出てくるパスタは論外だが、普通にオーダーするパスタ一皿もたいていは大口開けて3回も頬張ればなくなってしまう量だ。

 

その昔、「カプリチョーザ」が若者の間で大人気になったのもそれまでは見かけなかった大盛りパスタが気兼ねなく食べられたことが唯一の理由である。

 

ラーメンも然りである。いつのまにか主流派のような顔をしている「つけ麺」は普通のラーメンより麺量を多めに設定している店が多い。人気が出たのはあくまで麺の量の多さなのかもしれない。

 

そう考えると現代日本では社会全体で「麺量が少ない問題」をじっと耐え忍んでいるような気がする。由々しき事態だと思う。

 

さてさて、私はペヤングが大好きだが、ナゼか時々無性に袋麺の焼きそばが食べたくなる。主にサッポロ一番の焼きそばを食べるのだが、最近は「15倍」に惹かれてこの「大盛り日清焼きそば」をまとめ買いしてある。

 


麺量は150グラムだからたいしたほどではない。普通の即席麺の中にも120グラムぐらいの商品もあるので正直もうちょっとだけ量を増やしてほしい。でも150グラムは袋麺業界ではかなり優秀と言えよう。このサイズがすべての袋麺における標準になって欲しいと切に願っている。

 

即席麺の焼きそばには具を一切入れないのが私流だ。大好きな豚肉はチルド麺には大量に入れるのだが、あのゲジゲジみたいな即席麺はそのままで味が完成しているからストレート?で味わう。だからこそ麺量にいつも不満を感じているのだろう。

 

相変わらず話がまとまらなくなってきた。「麺の量」について今後も社会学的見地から取材を続けようと思う。





2023年6月14日水曜日

ガヴィアル問題


家庭料理には縁が無くなってしまった分、出来合いの簡単調理モノみたいな安直な食べ物には詳しくなった。ここ30年ぐらいでコンビニの惣菜や冷凍食品、レトルト食品は随分進化した。今の時代に中高年が一人生活になっても昔ほどは困らないはずだ。

 

10年ほど前、何度目かの独身になった際にレトルトカレーの研究に励んだことがある。全国各地からご当地カレーなども取り寄せて自分好みのカレーを探した。マズいレトルト食品を食べると独り者の侘しさが強まるから頑張ってウマいものを探した。

 

12千円といったヘンテコなカレーまで試したが、結局気にいったのは23種類に絞られた。私は欧風カレーが好きなのでレギュラーとして採用されたのはそんな路線の商品ばかりである。

 

わが家の米に合わせるにはインドカレーやタイカレーだと違うし激辛カレーは基本的に苦手。日本の正しいカレーだと芋やニンジンが邪魔だから欧風カレー一択になるわけだ。

 

そのあたりの研究成果は6年ぐらい前にも書いた。

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/08/100.html

 

6年前にも紹介している「ガヴィアル」のレトルトカレーが今でも私のお気に入りだ。神田神保町にある人気店の味を再現した商品である。わが家には常に最低でも3個は常備している。

 


 

最近、パッケージが変わったが味は依然と同じ。肝になっているのは原材料表示にも書かれている「砂糖」ではないかと私はにらんでいる。カレーとしての辛さの裏にほんのり甘さが感じられる。

 

神保町にはわりとちょくちょく出かける。わがオジサマバンドの練習拠点である音楽スタジオがあるので時期によっては月に23度と出向くこともある。いつもガヴィアルの前は素通りする。

 

いつも頭に浮かぶのは「本物のガヴィアルの味はレトルトとどのぐらい違うのだろう」という好奇心だ。いつも思っているのにナゼか今の今まで神保町の実店舗を訪ねたことがない。

 

食べたいような食べたくないような…という心境である。もし本物がレトルトの10倍美味しかったら私が愛するレトルトのことを一気に嫌いになりそうだし、その逆にお店のほうがマズいと感じたら自分の味覚に自信が持てなくなるような気がする。そんな複雑な気分でお店の前を素通りしていた。

 

そんなウジウジした気持ちのまま歳月が過ぎた「ガヴィアル問題」だが、先日ひょんなことで終止符を打つ時が来た。日本橋のコレド室町の中にガヴィアルの支店を見つけふらふらと入って念願の本物を食べた。私にとっては事件である。

 


本店ではなく支店、それも職場や家の近所だったから身構えずに吸い込まれてしまった感じである。ここ数年の葛藤は何だったんだと一人つぶやきながら期間限定だかの和牛がゴロゴロ乗ったカレーを注文してみた。

  

念願のガヴィアルのカレーをスプーンですくい全神経を集中させて味わってみた。ふむふむ、愛するレトルトとほぼ一緒である。単純明快にウマい。妙な安堵感に包まれて幸せな気分でムホムホと食べ進んだ。

 

特別に乗っかった和牛の存在など記憶にない。カレールーの味が知りたかったからたとえ具材がイセエビだろうがアワビだろうがきっと覚えていないだろう。だったら普通のカレーを頼むべきだった。和牛のために何百円か損した気分だ。

 




食べ終わって達成感に包まれるとともに別な疑問が頭をよぎった。「それならレトルトでいいんじゃないか」という元も子もない真理?である。カレーマニアみたいな繊細な味覚があれば別だが、私には実店舗もレトルトも大きな違いはなかった。

 

レトルトは確か350円ぐらいである。お店だと1800円だ。富豪ならそんなことを気にしてはいけないのだろうがこの差は結構大きい。

 

でもお店だったら当然に上げ膳据え膳だし、レトルトとして商品化されていないポークカレーやチーズカレー、エビカレーなども楽しめる。悩ましい話だ。新たなガヴィアル問題の勃発である。

 

こんなことで脳ミソをフルに使っているわけだから私の日常は実に平和である。





2023年6月12日月曜日

消費税の思い出

 

私が社会人になった頃、世の中は消費税騒動でガタガタしていた。もう35年も前の話だ。それまで売上税、一般消費税と立て続けに導入に失敗した自民党政権が満を持して用意したのが今に続く消費税だ。

 

反対運動は全国に広がりメディアも朝から晩まで消費税問題一色だった。「とにかく反対」を主張する土井たか子率いる社会党が勢力を伸ばし、マドンナ議員と称されたオバサン議員が大量に生まれたのもあの頃のことだ。

 

導入ありき、で制度設計された当初の消費税はそれはそれはヒドいものだった。お目こぼしのオンパレードで何とか企業や事業者からの反発を抑えようとユルユルの仕組みが講じられていた。

 

売上3千万円までは免税事業者になっただけでなく、売上5億円までの企業に対しては簡易課税制度という名の“預かった消費税は納めないでフトコロに入れちゃってOK”という措置が用意された。

 

消費者のオバサンたちは大反対したものの、企業経営者や事業者からは「お目こぼしもいろいろあるし、3%程度の税率なら仕方がない」という空気も広まった。

 



当時、駆け出し記者として霞が関をウロウロしていた私が印象的だったのは大蔵省幹部の「導入さえすれば後々どうにでも出来る」という言葉だ。

 

あれから35年が経った。税率は3%から5%、8%を経て現在の10%になった。当初の「お目こぼし制度」も気づけば壊滅状態。

 

もっとも、預り金である消費税で儲けちゃう“益税”という現象が放置されるのはマズいから正常に修正されて当然ではある。でも当初のあのハチャメチャぶりを思い返すと理屈も正義もあったもんじゃなかった当初の“アメ乱発”は“お上のズルさ”を表すいやらしいやり方だったと感じる。

 

その後、消費税はグングン成長?していく。当初は全税収に占める割合はヒトケタ程度だったが、35年後の今は全税収の3分の1が消費税になった。幼稚園児だったショウヘイ君が今の大スター・大谷翔平に進化したような激変ぶりである。

 

その昔、税収を支えるのは法人税や所得税というのが通り相場だったが今ではダントツで消費税が主役だ。「導入さえすれば何とでもなる」という当時の官僚の予言そのままである。

 

モノを買う現場でのコスト増ばかりが世間では話題になるが、事業者側の負担も厳しくなる一方だ。理屈では預り金である消費税を納めるだけという話になるが、実態は“第二法人税”みたいなもので納税に苦しむ企業や事業者は後を絶たない。

 

 

平たく言えば、「売上に乗せた消費税」から「経費にかかった消費税」を差し引いて納めるだけの仕組みだ。ただ、人件費などの経費にはそもそも消費税が課税されていない。つまり差し引ける「経費にかかった消費税」は限定的になるため、赤字企業だろうと消費税の納税は避けられないわけだ。

 

赤字の事業者であれば日々の資金繰りに苦労しているから消費税を含んだ収入もすぐに運転資金に消えてしまう。理屈では「消費税分は除けておくべき」と分かっていてもなかなかそうもいかないようで、実際に消費税の滞納は全税目の中でも突出して多くなっている。

 

35年前、マドンナ旋風を巻き起こして時の人になった土井たか子社会党委員長は、消費税に反対する理由として「ダメなものはダメ」という実にぶっ飛んだ発言をかまして話題になった。



 

当時、理念も理論もない実に乱暴かつテキトーな発言にも聞こえたが、現在の消費税をめぐる諸々を思うと、今になってあの時の土井発言に妙な説得力を感じる。

 

今日はなんだか小難しい話を書いてしまったが、言いたいことは一つ。ある意味で消費税が聖域視されている現状への不満だ。

 

税制改正論議で消費税減税が本格的に検討されたことはない。これって異常なことだ。法人税、所得税をはじめ他の税目は過去何度も増税と減税を繰り返してきた。消費税だけは議論イコール増税になっている。

 

そもそも「消費」に対して課税する制度である以上、消費動向に応じて柔軟に税率や減免措置が見直されて然るべきだが、そうした風潮はない。

 

政府の税制調査会では「すべての税に聖域を設けずに議論を」という意見が出ているが、例の防衛費大増強をはじめ何かと増税だけを念頭に置いているのが現実だ。聖域になっているのは「消費税は増税議論しかしない」という誤った慣習そのものだろう。

 

「議論イコール増税」という認識は大きな間違い。これだけは声を大にして主張したい。

 

 

 

 

2023年6月9日金曜日

銀座で晩酌


銀座でディナーという言葉にはどこか特別感がある。とはいえ、職場が近い私にとっては日常の晩酌の場が銀座になることも多い。いちいちハレの日で使うような店には行けない。

 

                  


  

ミシュランがどうだ、食べログがどうだといった特別な食事ではなく普通にちょっとウマいものを食べたい時にも銀座は便利だ。ジャンルを問わず何でも揃っている。女性連れで軽く夕飯を食べる際もいちいち高級レストランには行ってられないので、晩酌的に楽しめる店を選びがちだ。

 

晩酌オジサマとしてはジャンルに関係なくウマいものをちょこちょこ食べられる店が一番有難い。普通の居酒屋では退屈だが高級料理屋も面倒といったワガママに応えてくれる飲食店の多さも銀座の特徴だろう。

 

高級居酒屋という表現だとピンと来ない。“準料理屋”みたいなイメージだろうか。このブログでも何度か書いた「惣菜」などは和洋中にこだわらない小皿料理が楽しい。

 




上の画像は贅沢玉子なるネーミングの一品。簡潔に言えば茹で卵である。そこにウットリするようなトリュフソースをまとわせている。下はビーフンにカラスミをブリブリ混ぜた一品。卓越した技術が光る料理よりもこういうシンプルさが嬉しい時もある。

 

この店のコンセプトは「日常の料理を非日常に」である。核心を突いている。晩酌オジサマとしては日常の“ちょいプラスアルファ”ぐらいを楽しめる店が有難い。

 

先日、何年かぶりに訪ねた「まかない・きいち」もそんな店。奇をてらったメニューはないが、刺身、焼き物、揚げ物などすべてが高水準。クジラベーコンだって高級寿司屋が常連用に隠し持っているような上等なレベルのものが出てくる。

 

メニューに値段が書いていないのも銀座っぽい。ちょっとビビるのが正直なところだが、普通の居酒屋を選ばずにこの店に来たからには多少の出費は仕方ない。

 





シマアジのゴマ醤油和え、トウモロコシの天ぷら、茹でタンだ。どれも丁寧に仕上げられていて実に美味しい。画像は忘れたが、この店の名物でもあるメンチカツも旨味と甘味のバランスが絶妙で何個でも食べたくなる。

 

もともとこちらは「ちばき屋」という人気ラーメン店の店主が出した和食店なので、アレコレと食べた後に外せないのがラーメンである。醤油ラーメン、塩ラーメンも悪くないが「鯛そば」が絶品だ。

 

それまで食べてきた味の流れを壊さずに滋味深いスープに包まれた麺をズルズルと楽しめるのが最高だ。いつも晩酌の後にペヤングやマックを食べてしまい味の余韻を台無しにする私の悪いクセもこの店のシメを味わえば大丈夫である。

 



ハーフサイズで注文できるのも有難い。画像はハーフだ。鯛の旨味もしっかり感じられて“シメ業界におけるニッポン代表”みたいな印象だ。数年前には確か4分の1サイズも可能だったようだが現在はよく分からない。

 

晩酌タイムのシメは案外重要である。上にも書いたように私は晩酌の後にフィレオフィッシュやビッグマックを無性に食べたくなる変態男だから、なるべくなら晩酌の店でしっかりとしたものを食べるべきである。

 

ツマミを多めに食べちゃって炭水化物ナシの時間を過ごしがちなお寿司屋さんや焼鳥屋さんに行く時が要注意である。

 

最近でこそ寿司屋では頑張って握りを810貫ぐらいは食べるようになったが、数年前まではツマミや珍味ばかりで握りは34貫で終わってしまうこともあった。そうなると無事に自宅に帰り着いてもペヤングにお湯を注いでしまうことが多かった。いま必死に軌道修正中である。

 

焼鳥屋さんの場合もしっかり食べたつもりでもしょせんは小さい肉の串刺しばかりだ。後になって何となく満足感が足りない気持ちになりがちだ。

 



銀座にある「串銀座」にも時々足を運ぶのだが、最近は必ず「温玉そぼろ丼」をシメに頼むことにしている。温玉が驚天動地にウマいから幸せな気分になれる。

 

この店が使っている無敵のナンチャラ卵は色合い、味の濃さともに抜群だ。かつてはここの温玉だけを4回もオカワリしてそれを肴にずっと飲んでいたこともある。

 



そんな謎にウマい温玉がそぼろ丼にトッピングされているわけだからマズいはずがない。極上の親子丼にも惹かれるが温玉の魅力のせいでこればかり注文する。いつかこのそぼろ丼に温玉を3つほど乗せたバージョンを頼みたいのだが勇気がなくて言い出せずにいる。

 

いつか必ずトライしたいと思っている。