2015年6月29日月曜日

方位 開運


引っ越しからまもなく1か月。やたらと快適である。用事がなければとっとと帰りたくなる。夜もぐっすり眠れる。

とても嬉しいことなのだが、その裏にとんでもない秘密が隠されていた。驚愕の事実判明である。

ウソです。

というか、方位の専門家に今の住まいをチェックしてもらったら、何ともビミョーな結果が出てしまった。

マンション全体の位置や玄関の場所、私の部屋の位置、間取りの詳細図面などの資料を正確に東西南北と照らし合わせたうえで見てもらった。

引っ越す際も一応、どっちの方位が良いか尋ねた。結果的に“御託宣”とは違うエリアに決めたぐらいだから全面的に信じているわけではない。でも、無視するほどの無頼さは持ち合わせていない。

いいとこ取りすればいいと思って、引っ越し後に改めてチェックしてもらうことになったわけだ。

表鬼門だの裏鬼門だの、それが何を意味するのか実はよく分かっていないのだが、古くからの言い伝えである。知っておいてムダはない。悪いことは避けたいし、良い話なら調子に乗ってウキウキしたい。

で、私の住まいは、危ない、恐いといった要素は無いものの、一言でいえば典型的な「隠居の家相」なんだとか。

何じゃそれ?って感じである。

お年寄りだったらボケちゃう。若い人だったら結婚できない。引きこもりの子供は引きこもりのまま等々、アグレッシブな空気とは無縁の方位に位置しているそうだ。

「これだと良縁は訪れませんねえ。せいぜい茶飲み友達が出来るぐらいです」。

そんなファンキー?なことも言われた。まあ、いまさら良縁でもあるまい。茶飲み友達だって押し倒しちゃえば良縁である。

そんなことより、「やる気が出ない」とか「活力が湧かない」みたいな差し障りは大問題である。

つくづく聞きに行かなきゃよかったと思う。聞いちゃったから気になる。信じていないと言いながら、結局、いそいそ出かけていって、その対応策なんかを尋ねちゃうんだから私も物好きである。

住まいは3LDKなのだが、ある一部屋だけは表鬼門、裏鬼門にも関係なく、方位的には良い場所だとか。なるべくそこで寝ろと言われたのだが、レイアウト上無理である。

その場所にはパソコンテーブルとリクライニングチェアがあって、主にギター練習に励む場所として使っている。

もしや私のギター熱が高まって演奏できる曲が着実に増えているのは方位が良いせいかもしれない。

単純馬鹿野郎である私は、都合良く物事を解釈してしまう。こういうのを脳天気という。

ということで、効き目のほどは知らないが、隠居モードを薄めるための対応策を聞きかじってきた。

盛り塩、赤い花、竹炭である。方位占いや風水で一般的に登場するグッズである。さっそく花屋で赤い花の鉢植えを買い、帰宅早々、Amazonで盛り塩セットと竹炭を発注してみた。

Amazonもプレミアム会員だと速攻で商品が届くからビックリである。


結局、私はこういうグッズを買うのが基本的に好きなのかもしれない。今回も嬉々として商品を選び、ストックも含めてたくさん買ってしまった。

面白がっていて良いのだろうか。真摯な気持ちで向き合わないと効き目が薄らいじゃったら大変である。

方位専門家によると。そうした小道具を活用して家を綺麗に保っていれば、散らかりまくっているマトモな家相・方位の家より運気上はマシなんだとか。

よく分からんけどそういうことらしい。

まあ信じる者は救われる的な精神で「お清め太郎」になって暮らしてみようと思う。

ちなみに、私が新居での引きこもりを楽しんで快適にホゲホゲしていること自体が既に「隠居の家相」に影響されているんだとか。ヤバいヤバい。

大変な事態である。ボケてしまう。

もっと夜の街に出歩いてブイブイ言わないとマズい。せっかく落ち着いた暮らしを始めたのに残念無念である。

せっせと夜遊び等々に励まないといけない。

すべては方位のせいである。

2015年6月26日金曜日

六本木 焼鳥


今日は久しぶりに外食の話。

先日、久しぶりに六本木の「鳥長」に行った。おそらく20年ぶりぐらいだ。ミッドタウンや六本木ヒルズ、ドンキもおっぱいパブも無かった時代によく食べに行った店だ。

昭和の頃、焼鳥屋といえばオッサンがクダまいている赤ちょうちん的な店が主流だった。

いつのまにか、ちょっとした接待とかデートなんかにも使える焼鳥屋が一般化したが、「鳥長」はその元祖だろう。


高級寿司店のような風情で、落とし気味の照明がモダン和風の先駆けだった記憶がある。

20~30年前とは入口の場所も変わり、当然、内装も何度かリニューアルされたようだ。でも昔と同じ雰囲気だったので懐かしかった。

半世紀ほどの歴史がある店である。大学生の頃、始めて覗いた時には既に老舗っぽい空気が漂っていた。

30年ぐらい前の話だから記憶はおぼろげだが、学生の分際では妙に敷居が高かった。メニューに値段はないし、少しビビりながら食べていたことが懐かしい。

イタリアン全盛という当時のデート事情に反発するように常に女のコ連れで通った。不思議なもので、誰を連れて行ったかちっとも覚えていない。

つくづく若い頃ってガサツである。でも若造には高価な店だったから勝負デートに利用していたのだと思う。

デート相手との戦果?もまったく覚えていない。まあ、当時は連戦連勝の日々だったから記憶に無いのだろう。

大ウソです。

さて、破竹の快進撃だった青年時代も今や昔、すっかり世俗のアカを落として大僧正みたいな悟りの境地にある私である。

大ウソです。

結局、進歩の無いまま年齢だけが上昇しているが、焼鳥は若い頃よりも好きだ。牛肉が王様だと思っていた青年時代と違って今の私は鶏肉が恋しい。

焼鳥の名店みたいな店もいくつも味わってきたが、ふるさと?のような存在である鳥長の焼鳥はさすがにウマかった。

目ん玉ひんむくほどウマいわけではないが、安定した美味しさだ。ホッコリする。

タレがとくに良い。「上等な焼鳥は塩に限る」みたいなバカげた風潮がはびこっているが、この店のタレはスッキリ系で味が強すぎず、鶏肉のウマ味を隠すこともない。

一品料理はほとんど無く、ちょうど良いタイミングを見計らって1本1本出される部位の異なる鶏肉をワシワシ食べるのがこの店の基本形だ。

「ツマミをあれこれ食べて酔っ払ってから焼鳥を食べる」というパターンが多くなったことも私がこの店に通わなくなった理由だ。でも時にはこういう「黙々と焼鳥を食べ続ける」パターンも悪くない。

同行者とジックリ話をしたいような時にはこっちのほうが楽チンだし、間延びしないで済む。

この日は野菜串を除いた鶏だけでおまかせコース仕立てにしてもらった。アレコレと十数本は食べたがちっとも飽きなかった。


お店の名物が「ちょうちん」。見たままのネーミングだが、卵のトロリンチョとした味が肉と相まって悶絶である。絶対に外せない一品だと思う。

それにしても昔々に通った店が変わらぬ風情で営業していることは都会では貴重なことだと思う。

六本木に日夜出没していた若い時代を懐かしく回想しながら、それから四半世紀の自分の歩みをボンヤリと思ってみた。

ウマい焼鳥を噛みしめながらちょっとだけセンチな気分に浸った夜だった。

2015年6月24日水曜日

夢のつづき


いきなり紹介するのは、このブログで昨年8月20日にアップした「Never Too Late」と題する話だ。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2014/08/never-too-late.html

これを書いたのは10か月前のことである。書こうかどうか迷ったあげく、自分にプレッシャーをかけるために全世界的?に公表した。

と、大げさに書いてみたが何のことはない。「ギターを始めました」というだけの話である。

でも、私にとっては一大事だった。大げさではなく夢みたいな話だった。宣言した以上、とっとと挫折するのもカッチョ悪い。

半世紀近くの人生で一度も楽器的なものをマトモにイジれたことがない私である。ギターへの挑戦は無謀そのものだったのだが、今日ここに新たな宣言をすることにした。

「私はギターが弾けます!」

補足。「少しだけどギターが弾けます」。


得意になって人様にお聴かせできるレベルではないが、一人自宅で気ままに簡単な曲を奏でることが出来るようになった。

私にとっては凄いことである。夢が叶ったと言っても大げさではないかもしれない。

「次に生まれてくる時は楽器が出来る人になりたい」と言い続けていたほど楽器的才能の欠落ぶりはヒドいものだった。

小学校の時の縦笛やメロディオンも「ドレミファソラシド」すらマスターしないまま終わってしまったし、聖歌隊もクビになった。これは関係ないか。

10か月前にギターを衝動買いしてギター教室に勢いで申し込んだものの、案の定、初めの数ヶ月はニッチもサッチも状態だった。

何度となくギターを投げ捨てようと思った。基本中のコードすらいつまで経っても押さえられず、右手のストロークだってちっとも一定に動かすことが出来なかった。

若い時だったら血気盛んだったから、思うようにならない状況にブチ切れて2~3か月でヤメちゃったと思う。

鈍感で大らかな中高年で良かったとつくづく思う。無理だなあ~、不可能だなあ~とボヤきながら何となくイジり続けていた。

ギター教室でもマンツーマンで指導に当たる先生を必死に励ました。「頑張るのはキミのほうだよ」と何度も叱咤激励した。

ギター先生が用意してくれる課題曲も「そんな曲を弾けるようになったって嬉しくない」と突き返し、あくまで私自身が楽しめる課題曲を選んでマイペースで練習した。

音大出身のギター先生は、こっちがちょっと油断すると譜面の話や理論の話を繰り出そうとするので、つどつど私が制止する。

今も「オジサンがそこそこ弾けるようになることだけを考えてくれ」とワガママを言い続けている。

今年の春頃になって、なんとなく右手のストロークが曲調の変化に関係なく一定に動かせるようになり、基本的なコードもそこそこ押さえられるようになった。

敬愛するハマショー師匠の楽曲のうち、テンポが遅めでコードが少なめのものを探してジャカジャカやっていたのだが、一応「ギターが曲を奏でている状態」のようになってきた。

いや、気のせいだろう。脳ミソが都合良く聴覚を錯覚させているのだろう、と思ってスマホに録音してみた。

冷静に再生してみた結果、「おや、弾けてるじゃん!」という結果だったので、その頃からようやくギターが楽しくなった。

そうなったらこっちのもんである。ネット上で、コード進行が比較的簡単そうな曲をせっせと探し、やたらめったら挑戦し続けた。いまでは50曲ぐらいの教材?が手元にある。気分に応じてポロポロいじっている。

ストロークも少しづつ変化をつけられるようになった。ほろ酔い加減で少し弾けるようになった曲を奏でるのが日課のようになった。

素敵な女性の誘いを断ってギター練習のためにまっすぐ帰宅したことさえある。さすがにそれはウソかもしれない・・。

で、ハマショー師匠の曲は10曲ぐらいはそれっぽく弾けるようになった。

ハマショー閣下の曲ばかりでもしょうがないのでアレコレ手を出し、ジュリーの「時の過ぎゆくままに」やシャネルズの「ランナウェイ」、永ちゃんの「ウイスキーコーク」、はたまた「ブルーライトヨコハマ」byいしだあゆみ!などなども結構それっぽく弾けるようになってきた。

目指した方向?とは違うのだが、演歌もバリバリである。テンポがあんな感じだし、コード進行も単調な曲が多いので練習にはもってこいである。

「みちのく一人旅」、「夢芝居」、「よこはまたそがれ」、「東京砂漠」等々。ほろ酔い加減で奏でていると妙に楽しい。

やはり大人には演歌である。

私が手ぶらでボーカリストを務めるオヤジバンドの今年のライブでは、いよいよステージにマイギターを持ち込むことにした。

「ギターを持ち込むのは来年からにしてくれよ」という私の主張は、バンドメンバーから却下された。「そんなノリだったらギターなんかやめちまえ」と実にマトを得た叱責を受け、しぶしぶ人前で演奏する予定だ。

ソロで弾き語りするほどのレベルではない。ストロークはなんとかこなせるようになったが、スリーフィンガーなどの指引きは相変わらずチンプンカンプンである。

ライブではメインギターの次のサブギターの次の「ちょっと音を鳴らす程度」の役割をこなす予定である。

ちなみに、わがオヤジバンドのギタリスト2名は相当な腕前なので、練習のたびに自分のダメっぷりを痛感する。

彼らのギターテクを目の当たりにするたびに、せっかく盛り上がっている私のモチベーションは急降下しそうになる。

でも、そういう時は街を歩く人々を眺めることにしている。

歩いている人が100人いたら、おそらくギターを弾ける人はせいぜい5人ぐらいだろう。10人はいないはずだ。

そう考えると、少しだけでも弾ける私は「10人以内」には入っているわけだ。奇跡である。オーマイガッ!である。

そもそも私の場合、ひとり自宅で酒でも飲みながらのんびりと好きな曲を奏でたい、時々は好意を寄せている女性の前でカッコつけてバラードを弾き語りしたいというのがギターに手を出した動機である。

ライブでカッチョよく演奏できるレベルの人を比較対象にしても仕方がない。我が道を行こうと思う。

「ギターを始めました」と言い続けて10か月。いよいよそんな言い回しからも卒業である。

「ギターが少し弾けます」。どんどんこれを言い続けようと思う。そうすれば今のレベルを恥ずかしく感じて上達への意欲が高まるはずだ。

2015年6月22日月曜日

非朝食的なモノ


「朝からカレーですか?」、「朝からラーメンですか?」・・・。朝食についてしょっちゅう人様からそんな反応をされる。

由々しき問題である。

「朝から〇〇を食べたんですか?」という変な固定観念は世の中から一掃して欲しい。言われるたびに自分が異常な人間なのかと不安になる。

なぜ焼魚なら良くてハンバーグはダメなのか。なぜハムエッグにトーストが良くてあんかけチャーハンはダメなのか、なぜ納豆ごはんは良くて、焼きそばはダメなのか。

私にはまったく分からない。

腹が減っているのにナゼ、トーストだの焼き海苔ごときで食事を済ませようとするのか、そっちのほうが謎である。

カレー、パスタ、トンカツだっていいじゃないか!声を大にして主張したい。牛丼の甘めの味だってむしろ朝食向きだと思うが違うだろうか。

パンケーキ?フレンチトースト?ハチミツ?ジャム?ピーナッツバター?・・・。なんで食事なのにそんな砂糖菓子みたいなモノを嬉々として食べられるのだろう。

私に言わせればそっちのほうがヘンテコだと思う。

1日の生活サイクルの中で前回の食事からもっとも間隔が長いのが朝食である。前日の夕食を食べ終わってから10時間ぐらい何も食べないわけだから、理屈上は1日のうちで最も空腹である。

だからガッツリ系を食べたくなるのも不自然ではない。と思う。フルーツやサラダだけで済ませるほうが変ではないか。

性格的にいろんなものをストックしたがる我が家の冷蔵庫には肉、魚、麺類が常にアレコレと揃っている。

湯煎するだけだったりレンジでチンで食べられるものが多い。他にも岩海苔やなめ茸など瓶詰めアレコレや佃煮や漬け物もしっかり用意してある。

そんな瓶詰めやら生卵などで「それっぽい朝食」にすることは簡単だが、起きて10分も経てば結構な空腹状態に気付くので、ガッツリ系に走ってしまう。

酒のツマミ用に常備してあるチンするだけの牛すじ煮込みなんかを白米にドカンと載せて即席牛すじ丼にしたり、レトルトのバターチキンカレーをわしわし食べたりする。

すぐに茹で上がる生パスタも朝食に最適である。あえるだけの各種のソースがやたらと揃っているので、パスタを多めに茹でて皿を二つ用意して2種類のパスタソースをそれぞれ楽しむこともある。

これって変なのだろうか。

私に言わせれば夜にハンバーガーを食べる人のほうが変だと思う。洒落たディナーをパンを頼りに食べることだって同じだ。

パンは西洋の人が朝に食べるものだろう。

前の晩の食事が重かった時は、さすがにアッサリした朝食が欲しくなる。生卵かけ御飯や梅干しや漬け物、岩海苔等で武装したごちゃ混ぜ茶漬けを食べることもあるが、時々ざるそばをズズズズ食べている。

これまた「朝からソバですか?」と言われることがある。もりそば、ざるそばほど、あっさり食べられるシロモノはない。なのにナゼ「非朝食的」に思われるのか理解不能である。

寒い季節の朝だったら味噌ラーメンも最高だ。汁物だし、味噌汁の派生系みたいなものだ。なのにこれだって「朝からラーメン?あんたバカですか」みたいな反応をされることがある。

バカなのは硬直した朝食イメージに縛られている人だと言いたくなる。

空腹で目覚めた朝、焼きそばを調理しながら麺と豚バラが混ざり合いながらフライパンがソースの焦げた臭いをまとわせ始めたら幸福の極みである。

最近は「朝焼きそば」がお気に入りである。具が無い時は麺だけでアノかぐわしいソースが焼ける香りを楽しんでいる。

セブンイレブンの「金のハンバーグ」、「金のタンシチュー」あたりも私にとっては忙しい朝の相棒だ。実に手軽なのに結構ウマい。

個人的には夜にレトルト食品を食べるほうが何となく侘びしいような気がする。

「胃腸が丈夫なんでしょうね」。私の朝のしっかり食いの話を知った人の多くがそんな言い方をする。

胃腸がひ弱だとは思わないが、すぐに胸焼けするし、逆流性食道炎の薬を欠かせないわけだから人様が思うほど「頑丈なストマック野郎」ではない。

何なんだろう。

ここまで書いてきて気付いたのだが、私の場合、1日2食のパターンだから、一般的にイメージされる『朝食像』がズレている可能性はある。

昼は基本的に食べないで、夜は酒が主役でツマミをアレコレちもちま並べて突っついている。

そうなると朝が勝負みたいなものだ。ドンブリ飯も麺類も朝しか出番がないのが実態である。

そういうことである。

なんだか自分勝手に自己完結してしまった。

2015年6月19日金曜日

夢占い


今日は夢の話。

といっても神楽坂に建坪100坪ぐらいの平屋を建てたいとか、愛人が10人欲しいとか、そういう夢ではない。寝ている時に見る夢の話だ。

ここ1~2年、何度か見るようになったのが宙に浮いている夢。宙というより3階ぐらいの高さに浮かんで下を歩く人を眺めている夢である。

楽しいとか恐いといった感覚はなく、ただボンヤリと浮かんでいるだけ。幽体離脱でもしているのかと不安になる。

10年以上前までは、両手をパタパタと上下に振って意のままに空に浮かび上がってフラフラ空中散歩をする夢を見ていた。

どうやら空中方面?に縁があるらしい。

どうせ見るならセクシーダイナマイトみたいな女性とネンゴロになる夢のほうが嬉しいが、そういう色っぽい系にはちっとも縁がない。

そんなこんなで何気なく夢占いみたいなサイトを覗いてみたのだが、空中方面は夢の定番らしい。アレコレと診断が出ていた。

それによると「飛んで上昇していく夢」は大吉夢なんだとか。立身出世、独立、勝利が約束され、夢がかなうらしい。

ホンマかいな?である。

私自身、パタパタと両腕を羽ばたかせて勢いよく上昇する夢は過去に30回は見ている。立身出世などしていない。今の暮らしを思えば、「独立」はある意味達成?したが、そんなものが「勝利」だとも思わない。

大吉夢を何十回も見ているということは、私自身の人生は大吉なのだろうか。あまり自覚はない。

いや、健康で仕事もあって、楽しく過ごせているだけで全地球人類規模で見れば物凄く大吉なんだろう。

改めて自覚しないといけない。

さてさて、空に上昇していく夢もボンヤリ浮かんでいる夢も似たようなものだと思っていたのだが、夢占い的にはまったく意味合いが異なるらしい。

引用してみる。

~上昇のエクスタシーなしに、単に空中に浮かんでいる夢は、自分自身が定まらず足元が不安定な現実をあらわしています。現実生活で嫌なことがあって、現実から逃げたいと思っているのでしょう。性欲は高まっているのですが、エネルギーを向けるべき対象が定まっていません。宙に浮く夢は、落ちる夢と同時に見ることもめずらしくありません。深層心理には、「将来に対する強い不安」があります~。

おいおい!って感じである。飛び上がっていく夢とはまるで違う。現実逃避ばかり考えるダメ人間みたいな話だ。

なんで性欲が高まっているのかも意味不明である。男だったら性欲なんていつだって高まっている。

そんなことないか。

まあ、「将来に対する不安」は分かる気がする。でも、それだって誰にでも共通する悩みだろう。

それにしても世の中に溢れる夢占いや夢診断って何を基準にどういう根拠で流布されているのだろう。インチキくさい感じの反面、うなずける話もある。

古来、夢は神のお告げとみなされていたから、その積み重ねが一種の統計学的に整理されて構築されてきたのかもしれない。

白蛇の夢は縁起がいいといわれるが、あれも日本人の信仰に由来しているわけだから、西洋人の世界では通用しないはずだ。

キリスト教では蛇は悪者だから縁起物扱いされるとは思わない。「一、富士、二、鷹、三、なすび」も然り。

近現代になってからの精神分析的なアプローチによる夢分析はある程度うなずける。追いかけられたり、落っこちる夢は何らかの心理的な圧迫感やストレスを抱えている表れだそうだが、その通りだと思う。

予知夢や正夢というジャンルになると、脳科学的にも精神分析上もその実態はナゾのままらしい。神のお告げとしか言いようがないのかもしれない。

ちなみに、以前このブログでも書いたのだが「プリンセスプリンセスのベーシストとして急きょ超満員の武道館で演奏する」というハチャメチャな夢を過去に5回ぐらい見たことがある。

いま思えば、突然ギターを始めた私にとっては一種の予知夢だったのかもしれない。ちょっと強引だが、そういうことにしておこう。

いつか武道館で弾き語りをする日が来るかもしれない。

2015年6月17日水曜日

隣に座る人


先日、のんびり一人酒を楽しもうと出かけた店で妙齢の女性と隣り合わせになった。一人でまったり燗酒を手酌していたその女性、年の頃は30代前半か中盤だろう。

細身の美人さんである。

私は元来、硬派な人間ではない。真っ当な男子として狩人精神に溢れている。いつも「隙あらば・・・」と世の中を見回している。

しかし、一人まったりウマい酒を楽しむつもりの時は、偶然素敵な女性と隣り合わせても一切無視することに決めている。

ウソです。

隣に妙齢の女性が一人で座っていれば気になる。さすがに落ち着かない。でも、大人が集う店で堂々と一人酒をかっ食らっている若い女性はたいてい厄介である。

決めつけちゃってゴメンナサイ。

その日の私の止まり木は銀座の寿司屋。夜の9時頃に訪問。同伴客がはけた後の空いている時間だ。

馴染みの大将は、お一人サマ状態のこちら側二人に同時に話を振ったりして、交流を図らせようとする。

有難いんだか迷惑なんだか判然としないうちに成り行き上、その女性とムダ話を交わし始める。

一般的には「慶事」と言えるのだろうが、コトはそう簡単ではない。

隣り合わせた女性が近隣のママさんやホステスさんだったら、お寿司屋さんとのサービス業つながりで私に対しても営業モードを兼ねた頃合いの距離感で接してくれる。それなら気楽である。

ところが、この日の女性は夜の仕事関係者ではない様子で、寿司屋の大将いわく「男にフラれてイジケている」状態だとか。

狩人精神が旺盛なら一気にあれこれと策略を立てるべきなのだろうが、こういうパターンはかなり面倒である。

だいたい、銀座の寿司屋で一人で酒を飲んでいること自体が若い女性として不自然である。バカ高い値段の店ではないが、手軽な店でもない。

これが普通のバーや手軽な小料理さんだったら、私の脳ミソの動き方も違ったはずだ。あれこれ策略を立てただろう。

敷居の低くない寿司屋のカウンターで臆することなく一人酒をグイグイ楽しめる若い女性って何なんだろう。女性蔑視みたいな言い方になってしまうがTPOの面でヘンテコである。

そういうノリの女性だから、その後も遠慮なくこちらにバンバン話しかけてくる。想像通り面倒なパターンになってしまった。

私と大将の会話にも普通に参加してくる。こちらのペースに構わずお酌をしてくる。

相手がオッサンならヤンワリ制するのだが、妙齢の女性だとついつい甘やかしてしまう私にも問題はある。

いつのまにやら私の楽しい一人酒の時間は完全にその女性に乗っ取られてしまった。

聞くところによると海外暮らしが長かったらしい。「前へ前へ」的に自己主張する生活習慣が影響しているのか。私が得意?とする「空気を察しろ」的なオーラなど全然通用しない。

しまいには「日本人の男性としか付き合ったことがないんです」とか「素敵なお住まいなんでしょうね」とかチト怪しげな発言まで繰り出してくる。さすがに私の思い過ごしかもしれないが。

誤解のないように補足するが、私がモテたという意味ではない。こちらが二人連れとかだったらそういう事態にはならない。モテたのではなく、酔っ払いに絡まれたようなものである。

適度にシメに入ろうとしたら、あちらもシメモードに移行する。時間は夜の11時ぐらいである。一緒に店を出るとヤヤコしい話にならないとも限らない。いや、これも私の思い過ごしだろう。でも何となくメンドーだ。

握りをしっかり食べるつもりでいたのだが予定を変更して切り上げることにした。

「おなかいっぱいになったから御勘定してくれる?」

「じゃあ、私も御勘定してください」。

おいおい!って感じである。「じゃあ」って何だよ!?と思わずツッコミそうになる。

お店の大将がうまい具合に清算のタイミングを差配してくれたので、一足先に脱出する。当然、大将からは丁寧に詫びメールが来た。

でも、男って悲しい生き物である。被害者ヅラしてアーダコーダ書いたが、席に座って最初の5分ぐらいは少し心が浮き立った気分になったのも確かである。それが切ない。

隣に座った人が、おっとりとして控えめで言葉数も少なく、さりげない感じの女性だったら私は間違いなく有頂天になっただろうし、その人の分まで支払ったはずだ。おまけに一緒に店を出られるように様子をうかがっただろう。

そんなものである。

でも、そんな魅力的な女性が銀座の寿司屋のカウンターで堂々と一人酒を楽しんでいること自体が500万パーセントありえないことではある。

規模の小さな店やカウンター中心の店に行った場合、隣に座った人と交流することは少なくない。

ここで問われるのは距離感だろう。ズケズケと乱入?されちゃうと悲劇である。イキか野暮かと言えば間違いなく野暮天である。

最近、「相席居酒屋」という体の良いナンパスポットが人気みたいだ。どんどん増殖して欲しい。誰かと絡みたいひとはその手の店に行けば良い。

そういいながら「相席居酒屋」に行ってみたくてしょうがない私である。

2015年6月15日月曜日

枯れる


言葉の意味は意外に難しいもので、字面のイメージとは趣旨がまるで違うこともある。

「芸が枯れる」。

文字面だけを見ればダメになった意味に取れるが、まったく逆なんだとか。芸が練れて深い味わいが出てきたという最上級の褒め言葉だそうだ。

「枯れる」という言葉に中高年は敏感である。まだまだバリバリ奮闘したい思いがあるから枯れたくない気持ちが強い。

至極ごもっともだが、「枯れる」という言葉がネガティブな意味だけではない以上、建設的な「枯れ方」を考えるのも悪くない。

先日、おそらく再放送だと思うが、深夜にEテレでやっていた花道家・川瀬俊郎さんと「いのちのスープ」で知られる料理研究家・辰巳芳子さんがあれこれ語り合う番組を見た。

老いることの「趣」について含蓄のある言葉をたくさん聞くことが出来て非常に面白かった。

花の世界などまるで知らない私でも川瀬俊郎さんの名前ぐらいは知っている。20年以上前にコーヒーのコマーシャルか何かで知った。

当時は新進気鋭というイメージだったが、もう70歳近い。かたや辰巳芳子さんは90歳である。それこそ「芸が枯れる」という境地を極めているような人だ。


「年を取ることで、『必要なものは最小限である』と分かってきた」。


「若さには力がある。でも力には『我』が出てしまう」


「若い時は力に頼ってしまうが、若い頃はそうせざるをえない自分がいる」


細かい言い回しは別として、おおまかにそんな趣旨の話が飛び交っていた。いちいちフムフムうなずきながら画面を見入った。

私だって老いに対する恐れはある。でも、アンチエイジングや若作りが美徳みたいな昨今の風潮には違和感を覚える。

美魔女なる言葉で若作りした変なオバサンや若く見せることだけを生きがいにしているようなオジサンをもてはやしているテレビ番組なんかも苦手だ。

だいたい、あのてのオバサンやオジサンが喋っているのを聞くと、話し方にしても言葉遣いにしても、年相応の深みみたいなものが感じられない。

若々しくありたいのは真っ当な感覚だが、それだって年相応の若々しさを意識すれば済む話だ。極端に若ぶっている人は例外なく痛々しい。

あまり非難してもキリがないから適当にしよう。

私自身、2つ3つ年齢を若く見られる分にはチョッピリ嬉しい。でも、あまり若く見られる嫌いだ。バカっぽく見えたのかと心配になる。

このあたりは女性とは違う感覚である。いっぱしの大人の男に対して極端に若く見えるなどと言わないほうが無難だと思う。

良かれと思ってのお世辞だったとしても、渋さや貫禄を尊ぶタイプのオジサン達にとっては嬉しくない。

まあ、何だかんだ言って、5歳も10歳も年上に見られるのはもっとイヤだ。オジサマ心もそれなりに複雑である。やはり年相応に見られるのが一番平和である。

生き物の究極の使命は「種の保存」だ。生殖活動に励んで子孫を残すことである。

人間の場合、生まれた子供を育てるのに結構な年月が必要だから、子育てを終えるまでが現役と言える。自然界の生き物という意味では、そこから先は余生だろう。

そう考えると今年で50歳を迎える私も自然界の摂理で言えば余生みたいなものである。

まだ子供が小さいので、一応は現役の資格?はあるが、50歳と言えば四捨五入したら100歳である!?。

「芸が枯れる」と同じく褒め言葉としての「枯れ」を目指さないといけない。円熟味が増し落ち着いて深みのある人物にならないとマズい。

枯れたい!。そんな言い方はケッタイだが、ある意味そういうことである。

ブス専やデブ専など俗っぽく好みを言い表す「〇〇専」という言い回しの一つとして最近では「枯れ専」も定着してきたらしい。

その名の通り、枯れた男性に魅力を感じる女性陣のことである。

初めて聞いた時には「枯れ」という部分が気になったが、「枯れる」の意味にポジティブな要素があると知った以上、「枯れ専ムーブメント」が世界的な潮流になることに期待したい。

まあ、そんなトボけたことばかり書いているようでは格好良く枯れることは難しそうだ。

2015年6月12日金曜日

文京区 散歩 スケスケ


散歩の楽しみは知らない街を歩くことに尽きる。新居に移ったせいで、周辺をまだよく知らない。おかげでアテも無くふらつくのが楽しい。

同じ文京区内での引っ越しだったのだが、クルマで10分ほど離れただけで雰囲気が随分違う。

前は豊島区との区境に近かったせいで、どことなく池袋文化圏?的な空気があったが、今度の場所は「文京区っぽい」雰囲気が色濃い。

文京区は学校がやたらと多く、大きな繁華街は無く、閑静な住宅街や六義園、後楽園、小石川植物園などの緑地が多いのが特徴である。

徳川家ゆかりの寺社仏閣、庭園なども多く、「春日」「音羽」といった地名も大奥の実力者の名前が起源だ。散歩するにはオススメスポットが結構ある。

区の教育委員会かなんかが道路脇に設置しているその場所の由来書きを読んでいると中々興味深い。

引っ越し先のそばにも「網干坂」に「御殿坂」という坂道の由緒書きがあった。江戸時代には近くに水路が通っており、漁師が網を干していたのが前者の由来だとか。後者は5代将軍綱吉が将軍になる前に住んでいた屋敷があった場所だという。

そんないわれを読んでいると、自分が日々過ごしている場所で数百年前にさまざまな人間模様があったことが想像できて楽しい。

近くの神社にも「孫文が腰掛けた石」という名所だか貴重なのかよく分からない由緒が仰々しく書かれていた。

新居周辺の住宅街は戦火に見舞われなかったらしく、散歩中にやたらと行き止まりにぶつかる。これまた散歩の楽しみだ。

どっからどう見ても物凄く貴重だと思われる文化財級の古~い建物が住宅街にポツンとあったりすると勝手に妄想が浮かぶ。

先日も、寅さんに出てくる団子屋よりも50年は古そうな渋い蕎麦屋さんを発見した。いわゆる街場の普通の蕎麦屋さんだったが、お客さんの姿もまばらで活気が無かったのが残念。

インターネットで調べてみたら「ノスタルジーを探訪する」「レトロな店を往く」みたいなサイトに頻繁に取り上げられていた。知る人ぞ知る店らしい。

あれだけの建物なんだからスーパーレトロ然とした風情を積極的にあざとくウリにすれば遠方からだって客が来ると思う。

さて、これからの暑い季節は、汗ダラダラ状態で散歩するのがM気質の私の楽しみである。ヘロヘロになって帰宅して水風呂に入ることが無上の喜びだ。そのために散歩している感じすらある。


そういえば、今度住むことになったマンションは、なんだか「スケスケ」がウリ?らしく暮らしてみると何かと問題もある。

風呂の扉がスケスケなのが意味不明だ。丸見えである。風呂周辺の空間を広く見せようという意図だと思うが、一言でいえば悪趣味である。

一人暮らしだから気にする必要はないのだが、慣れていないから落ち着かない。今後、わが家に遊びに来て風呂場を使う人は私にしっかり覗かれることは確かである。


スケスケという点ではベランダの柵もこんな感じである。こちらもほぼ丸見えだ。外観デザインのせいで、こんなスタイルになったのだろう。パンツ一丁でタバコを吸いに出る私としては大いに問題だ。

私の部屋は2階なのだが、建物の構造上、1.7階ぐらいの高さにベランダがある。長期間にわたって開発していたマンションが完成して間もないから、近所の通行人も何となくこの物件を眺めながら歩いている。

近所の人の目に飛び込んでくるのは、パンツ一丁でタバコを吸っているセクシーな私である。環境条例とかに引っかかって逮捕されやしないか心配だ。

すぐに目隠し用のスダレかシェードを買わないとなるまい。すでに毎朝、道路を挟んで斜め向かいの家のオッサンに悩ましい視線を送られている。

オッサンは毎朝家の前を掃き掃除しながら、通学中の小学生や近所の人に元気に声をかけている気の良さそうな人だ。

でも、あの目線にはオモテには出せない特殊な趣味が見え隠れしている。。ように思う。

朝っぱらからそんなくだらない人間観察に励んでいる私である。

なんだか散歩の話がトンチンカンなほうに飛んでしまった。

引っ越し疲れで頭がおかしくなったみたいだ。

2015年6月10日水曜日

心付け


先週金曜に引っ越しをした。土曜日曜をひたすら荷物整理に費やしたため、すっかり元の暮らしに戻った。

いまどきの引っ越しは「らくらくパック」みたいなサービスを使えば結構らくちんである。

とはいうものの、家具家電以外に段ボール100箱ほどの荷物とともに移動するわけだからバテバテになった。

かなり不要品を処分したのだが、シングルオジサマとしては荷物が多すぎる。こんなんじゃ入居可能な老人ホームは無さそうだから困ったものである。

引っ越し前日に熟練のオバサマ3人組が荷造りにやってきた。ものの3時間ほどで手際よく荷物を箱詰めする。

本棚の中身、ぐい呑みコレクションの飾り棚、キッチン周辺の引き出しの中身に至るまで、記録しながらの作業だ。おかげで引っ越し先で再度収納し直してくれた際も順序や配列がほぼ元通りである。

大助かりだった。

わずかばかりの心付けを事前に渡した効果があったかどうかは分からない。でも、引っ越しは慶事である。ご祝儀によってお互い気持ちよく作業することは大事だろう。

引っ越し当日は若い男子が3人と電気系統の作業係も登場。リーダー格の若者が手下を厳しく指導しながらテキパキ作業する。

始めに少しばかりの心付けをそれぞれに手渡したのだが、リーダー格の若者の働きが突出していたので、昼休みに「ランチをドカ食いしてくれ」と追加の心付けをコッソリ渡す。

お金でどうこうというわけではないのだが、気は心である。潤滑油になるのなら失礼の無い範囲での心付けは意味があると思う。

結局、リーダー格の若者は随分と気を遣ってくれた。当日発生した結構な量の処分品を気前よくタダで持っていってくれた。

デカくて重いチェストなんかも急きょ処分したし、料金表通りだったら結構な追加出費だったはずだから、私の投下した心付けは大いに意味があったと思う。

心付け、すなわちチップの問題は結構やっかいな問題である。海外に行くたびに様々な場面で悩んでしまう。

日本人の場合にはあくまで余録としての収入だが、海外の場合、チップが基本的な労働の報酬であるケースが多い。渡す側としてもそれなりに神経を使う。

ガイドブックには一律10%程度などと書いてあるが、場面によってはそんな単純なものでもないだろう。

素晴らしかったサービス、普通だったサービス、あまり感心しないサービス等によって金額を考えたりする。ちょっと面倒だ。

つくづくチップの習慣のない日本人で良かったと思う。日本での「心付け」は文字通りの意味だから、海外ほどデリケートに考えることはない。というか、基本的にそんなことはしないで済む。

大前提としてチップなど渡さなくても変わらないサービスが提供されるから、渡す際はよほど有難かった場面か、慶事、はたまたこっちが見栄を張りたい時ぐらいである。

もちろん、若い頃には心付けを渡すような場面はほとんど無かった。いつの間にか、サービスしてくれる人が年下の人ばかりになってしまってから仕方なくそんなことを気にするようになった。

中高年の嗜み?みたいな感覚かもしれない。年を重ねることで、いろんな部分に気が向いちゃうようになったことも理由だろう。

まあ、若い頃にそんなことを気にしているのも変だ。大したことない場面で若造が年上の人にチップを渡すのは、場合によっては失礼にあたる。そういうものだ。

金額も難しい。あまり高額だと非常識だし、かといって500円玉とか千円札一枚というわけにもいかない。やはり場合によっては失礼になりかねない。

TPO次第だから一概にいくらとは言えない。自分なりに無い知恵を絞って算段するしかない。

温泉旅館に行く際も、宿のランクや泊まる人数でも違う。高級中華料理店でボーイさんが特別に付きっきりで何枚も何枚も北京ダックを包んでくれたら少しぐらいは包んであげたいし、若い黒服のお兄さんに面倒くさい用事を頼んだら釣り銭程度というわけにもいくまい。

正解のない話だから厄介である。毎回毎回渡すのもそれが当然みたいな空気につながるからチョット違う。

野暮なことはしたくない。年相応にこなれた振る舞いをしたい。そんな自意識過剰?も影響していつも自問自答してしまう。

渡されるほうは単純に高額であればあるほど嬉しいのだろうが、こっちにはこっちの考えがあるわけだ。

余計なことを考えずに気前よく渡しやがれという声が聞こえてきそうだ。

それにしても財布の中身が寂しい時に限って、なにやら包みたくなる場面に遭遇しちゃうことが不思議で仕方ない。

サマージャンボの吉報を待つことにしよう。

2015年6月8日月曜日

職人


「職人」。独特の響きを持った言葉だ。自分の腕ひとつで妥協せずに納得する仕事をこなす。実に格好いい。

士農工商という身分格差が厳然と存在した江戸時代でも、卓越した技術を持つ職人は「工」ではなく「士」に分類されたそうだ。

職人気質を尊ぶ日本的なエピソードだと思う。

私自身、腕一本で世の中を渡っていくような技量がないので職人的なものには強く惹かれる。

酒器が好きで徳利やぐい飲みをやたらと集めた時期があったが、自分で作ってみようと思ったことはない。陶芸というプロの「芸」、すなわち職人技に魅せられたからだと思う。

セントラルキッチンで集中調理・管理される飲食店で飲み食いする気にならず、個人経営の店ばかり訪ねたくなるのも同じだ。職人の腕とかワザを味わいたいわけだ。

そのせいで「創作料理」などと名乗る店も何となく敬遠してしまう。気の利いた料理ならすべて「創作」だが、基本的には保守的、古典的こそ良いものであるという変な思い込みがあって、わざわざ「創作」という言葉を看板に掲げられると不安になる。

「邪道」とか「思いつき」みたいなニュアンスに見えてしまう。個人的な感覚なので違っていたらゴメンナサイ。

さてさて、さまざまな分野で「職人が減った」という声を聞く。寿司職人を例にとっても修行を始めて1~2年で辞めちゃうケースが多いらしい。

そんな程度の経験でも海外の日本料理店に高給で引き抜かれ、現地で重宝されるんだとか。

なんだか時代の流れとともにすべての分野でコンビニ化というかお手軽化が広まっているような気がする。

「手っ取り早く」、「そこそこ」など手軽さだけが美徳かのような風潮はどうなんだろう。もちろん、分野によってはそれで構わないし、喜ばしいこともある。でも、「職人的なもの」が継承されるはずはない。

ビジネスの世界でも効率が最優先される傾向は強まっている。職人気質を育もうとしても効率優先が壁になる。

利益を上げることがビジネスの目的である以上、当然の帰結とも言えるが、長期的視野で強みを醸成するには効率だけでは危なっかしい。

先日、キャリア50年になろうとする知り合いの弁護士さんと席を共にしたのだが、しきりと司法の現状を嘆いていた。いわく、「職人肌の裁判官が減った」とか。

被告と原告の言い分を足して二で割る安易な和解提案、一審の結論は絶対であり間違うはずはないと思い込む強固な身内意識など。

ベテラン弁護士だからこそ気質の変化を強く感じるらしい。ネガティブな意味でのサラリーマン化が司法の世界にも蔓延していると力説していた。

ちなみに「忙しすぎる裁判官」は以前から問題視されている。急増・多様化する処理事件によって超多忙状態だ。

大都市では一人の裁判官が常時200件の単独事件、80件の合議事件を抱えているというデータもある。内容自体も世の中の変化に合わせて年々多様化、複雑化している。

日弁連などの弁護士団体も先進諸外国に比べてわが国の裁判官の絶対数が少ないことなどを例示しながら司法予算の大幅拡充を求めているのが現状だ。

司法の番人こそ職人気質が必要だろう。こんな分野まで「お手軽感」が蔓延することは間接的に税金の大いなる無駄遣いだと思う。

なんだか話が固いほうに行ってしまった。

野球選手などスポーツ選手も職人気質の選手に魅力がある。守備の職人、代打の職人等々、平凡ではない卓越した技能をファンは望んでいる。

イチローなんて年を重ねるごとに存在そのものが職人みたいになってきた。サッカーのカズにしても、あの年齢になって一線でプレーすること自体が職人ワザだ。

世の中の大半の人が凡人生活を過ごしているからこそ職人は輝く。みんな凡人だったら世の中は味気ないはずだ。

どんな分野でも職人を育てる「悠長な気分」は失ってはいけないと思う。

2015年6月5日金曜日

テレビっ子


唐突だが「小林薫」である。実にいい。テレビに彼が映るとついつい見入ってしまう。オジサマ俳優の中でも独特の存在感である。

変に若ぶることもなく、変にオシャレな路線に走るわけでもなく、淡々とした感じがいい。

いま放送中の連ドラ「天皇の料理番」でも大活躍だ。料理人を目指す主人公を見守る偉大なシェフの役である。

主役よりも主役っぽい。小林薫が出てくるシーンは実にピリっと締まった感じになる。

今年の前半に深夜枠で放送されていた「深夜食堂」というドラマでは、新宿の路地裏で小さな食堂を一人で切り盛りする男を演じていた。

包丁を持たせたら日本一の俳優じゃなかろうか。間違いなくウマいものを食べさせてくれそうだ。

小林薫を初めて知ったのは昭和の名作ドラマ「ふぞろいの林檎たち」だ。中井喜一の兄の役で、身体の弱い嫁を持つ寡黙な男の設定だった。

静かな口調が格好良かった。「おかあちゃん・・・もうよせよ」と諭すようにボソっとしゃべる彼にシビれた若者は多かったと思う。

ということで、連ドラの話を書く。

昨年は不倫ドラマ「昼顔」に妙にハマったが、今年の一推しは「天皇の料理番」だ。小林薫を始め、脇役陣が豪華な顔ぶれでそれぞれが味わい深い。

シナリオも単純明快に面白い。CGを使った明治大正の街並の描写も時代の雰囲気を感じさせる。

視聴率の面では大ヒットにはなっていないらしいが、他の連ドラとは一線を画した老若男女問わず楽しめる作品だと思う。

続いては朝ドラ。3月までやっていた「マッサン」にハマっていたせいで、現在放送中の「まれ」に関心はなかったのだが、いつの間にかハマっている。

すべては「大泉洋」のせいである。あの人の不思議な面白さは文化財級だと思う。小林薫とは全然違う存在だが、あの人がテレビに映るとついつい見入ってしまう。

ストーリーとしては「あまちゃん」の二番煎じ的な雰囲気もあるが、そんなことはダメオヤジ役である大泉洋がすべて吹っ飛ばしている。

すっかり老け役が板についてきた田中裕子もいい。

昨年、このブログで昭和の頃に独特な色気で世の男をトリコにした田中裕子を取り上げた。なぜか1000回以上更新してきた過去ネタのなかで閲覧数トップ10に入っているのがその時の話だ。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2014/02/blog-post_28.html

いまでは色気とは無縁の「疲れたオバサン」みたいな役が多いが、それはそれで見事な進化だと思う。

田中裕子といえば沢田研二との結婚騒動が昭和の芸能マスコミを大騒ぎさせた。「愛之助騒動」どころではなかった。国民的関心事になったほどだ。

女優として上手に年齢に応じた進化を遂げた田中裕子を見ていると、あんなにカッチョ良かったジュリーがぶくぶく太っていられるのも納得である。

話を戻す。

離れて暮らす娘と話題を合わせるために欠かさず見ている番組もある。「嵐」の相葉君が出ている「ようこそわが家へ」、キムタクの「アイムホーム」、AKBにいた大島優子ちゃんの「ヤメゴク」である。

見たくもないのに見る番組もあってチョットしんどい。録画が溜まってしまうので週末にせっせと見ている。そのせいで録画済みの「寅さん」とかを見る時間が取れないのがストレス?である。

3つのアイドルドラマのうち、結構ハマっているのが「ようこそわが家へ」である。ストーカー被害に遭う家族の話だ。

主人公の父親役である寺尾聰が渋い。銀行から出向させられた中小企業で生き残ろうと奮闘している悲哀に満ちたオッサンを好演している。

池井戸潤の原作ではそっちが主役らしいのだが、テレビではオトナの事情で相葉君が主役だ。

キムタクと大島優子ちゃんのドラマは正直見ていてシンドイ。まあ、大人向けではないということだろう。いつも途中で寝てしまう。

もっと現実的で心に響くような脚本が作れないものだろうか。楽しく見ている人には申し訳ないが、端的に言って退屈。個人的な感想です。スイマセン。

地味ながらジックリ楽しめるドラマといえばNHKだろう。最近やっていた土曜ドラマ「64」も面白かった。

悲哀溢れる中年警察官の話だったが、ピエール瀧を主役に据える斬新さが良かった。脇役の柴田恭兵の渋さも光っていた。ああいう俳優がもっともっと活躍するようになれば面白いドラマが増える気がする。

昔の家人が受信料を口座引き落としにしてしまったからNHKからは逃げも隠れも出来ない私である。受信料をキチンと払っているから声を大にしていいたい。大人向きで骨太のドラマをどんどん作ってくれ!

それにしても、こう書いてみるとテレビっ子みたいな暮らしをしている。もっとギターの練習に励まないといけないのに、ついついテレビのスイッチを入れてしまう。子供みたいだ。

2015年6月3日水曜日

霊の話


知り合いから聞いた話。

家賃が格安のいわゆる事故物件と知って部屋を借りたが、毎晩毎晩、幽霊が登場して困っているらしい。

深夜になると部屋に置いてある姿見の前で見知らぬ女性が必死にダンスを練習している。

近隣の人に「事故」の内容を尋ねたらダンサー志望の女性が自殺した部屋だったそうだ。

なんとも恐ろしい話である。

霊的なものを見たり感じたりするエスパー体質の人は意外に多い。結構厄介みたいだ。

ふとした時に見えないはずのものが見えちゃうんだから不便だろう。見えちゃっても見ないフリをするクセがつくとか。

さて、霊についてである。

非科学的なことは信じない、そういうことはバカげていると切って捨てることは簡単である。

信じる、信じないという意味では、信じない派が多数を占める。私自身、そういうものを見たことがない。だから積極的に関心を持つこともない。

そうはいっても「霊的なもの」を日頃から意識して暮らしているのが私を含めた普通の人の暮らしだ。

葬儀に行けば真摯に故人を思うし、お墓参りに行けば心から先祖に語りかけたりする。

これって結局は「霊」に対して真面目に向き合っていることである。

3.11の被災地周辺では霊的な話が日常茶飯事らしい。「見た」「会えた」「聞こえた」。そんな話がごく普通になっているそうだ。

あれだけのことが起きたわけだから、ちっとも不思議ではない。むしろ当り前のことかもしれない。

オカルトチックな話ではなく、日常的に霊と関わっているのが日本人のごく日常の姿ともいえる。

京都の大文字焼き、九州の精霊流しなど日本中で霊と係わり合う行事が溢れている。お盆休みという概念だって先祖の霊を迎えるための習慣だ。

葬儀や墓参りの場面では、誰もがオチャらけないし、不謹慎な言動をつつしむ。

霊的なものをまったく信じていないなら、そんな必要はないわけだ。無意識のうちに霊の存在を肯定しているのだろう。

霊魂なんて信じないという人だって、祖先に対して、ろくに供養しなければバチが当たるんじゃないかと無意識のうちに考える。

祟りなんてアホくさいと思う人だって、神聖な場所で立ちションはしない。それが普通だろう。

お祓いに行く、お宮参りに行く、合格祈願に行く、七五三だって然りである。伝統行事、習俗といえでも根本は霊的なものへの畏怖の念である。

俗に無信心、無宗教という言い方がある。これだって一種の方便みたいなものであり、日常生活には日本人の土着宗教心みたいなものがしっかり根付いている。

私は無信心、無宗教だから、忌引き休暇もお盆休みも取りませんなどというホンモノ?はいないだろう。

大安や仏滅の概念、はたまた一週間のうちに日曜を安息日とするという考えも元々は宗教から生まれたものである。

ホンモノの無信心だったら、それらすべてを一切気にしないということになる。さすがに現実的ではない。

なんだか霊的なものと宗教心がゴチャゴチャになってきてしまった。

軌道修正。

私自身、一応、実家は浄土真宗で幼稚園から高校までキリスト教教育の学校に通った。でもいずれの宗教も教義なんか知らないし興味もない。宗教心みたいな感覚には乏しいと思っている。

仏教的なことは葬式の時ぐらいしか体験しないし、クリスマスだって屁のカッパみたいな顔をして過ごし、初詣に出かけることも数年に一度である。

かといって、実家に行けば真っ先に仏壇の前に立ってご先祖様にアレコレと報告や願い事をする。

中年になってからは大殺界や厄年を気にして、引っ越し先を選ぶ時は方位を意識するようになってきた。それっぽい特殊能力を持ったナゾの占い師を訪ねることもある。

無信心、無宗教とは全然違う日本人の土着習俗的畏怖心みたいな感性は年とともに強まってきた。

何かの本で読んだことがあるが、文明にどっぷり染まった日本の都市生活者ほど占いにすがるのだという。

土着宗教的な儀礼が薄らいできた生活の中で、何らかの「シバリ」を求めてしまうのは日本人の特徴らしい。

テレビや雑誌はこれでもかとばかりに占いコーナーを展開している。ああいう習慣は世界でも希なことなんだとか。

ちょっと分かる気がする。

信じる、信じないは別として、ほんの少しでも自分自身の光明につながるきっかけになるのなら、それもまた良しだろう。

弱みにつけ込んでカネをむしり取る悪徳宗教団体や詐欺的な占い師に気をつけて関わっていけばいいのだと思う。

見える、見えない、信じる、信じないということを喧々囂々と議論するより、「世の中にはわけのわかんないこともある」という達観した気持ちでいればいいと思う。


2015年6月1日月曜日

ぴよぴよメンチ、ささみカツ


時々、無性に食べたくなるのがトンカツだ。いったんその気になったら頭の中はトンカツのことでいっぱいになる。

とある日、トンカツ症状に陥って未体験の店に行ってみた。銀座・歌舞伎座裏にある「イマカツ」という店。

お手軽にウマいトンカツが味わえるらしいと聞き、前から気になっていた店だ。

昼のトンカツはドンブリ飯で食べたいが、夜のトンカツは芋焼酎片手にブヒブヒ食べたい。

衣と渾然一体になった豚肉の旨味が口に広がり、じっくり噛みしめて喉の奥に去っていったその一瞬のタイミングで芋焼酎ロックをズズズ~と飲み干す。

あの快感はまさに「ブヒ~!」である。


揚げ物以外のツマミもそこそこ揃っていたから「夜のトンカツ屋」としても便利な店だ。

細々した小皿のツマミでホロ酔いが始まる。そんなタイミングでやってきたのが、その名も「ぴよぴよメンチ」である。

ずっこけそうなネーミングはともかく、画像で分かるように反則ワザと言いたくなるほどデブ達がブヒブヒ喜ぶ一品である。

半熟卵をメンチが覆っている。そりゃあウマい。コレステロール問題が無ければ、これだけを3つ4つオーダーしてブヒブヒ叫びたいところだ。

なぜ人は自らの身体に悪いものを恋しく思うのだろう。煩悩恐るべしって感じである。

この店、トンカツ専門店なのに名物は「ささみカツ」だとか。鶏のささみである。トンカツ気分だった私としては問題外である。


でも、食い意地マックスだったのでツマミの一つとして注文してみた。周りの席では半分以上の客がコレを食べていたから、無視する勇気は無かった。

「おっとどっこい、なんじゃコレは!」。それが感想だ。素直にウマい。ささみの分際?でジューシーだし、旨味もあっていくらでも食べられそうな感じだ。

チキンナゲットの究極の到達点とでもいいたくなる。ちょっと違うか。

ささみといえば、ダイエットしか連想できない自分の見識の無さを嘆きたくなった。

減量作戦を遂行する際、私の相棒はサラダチキンである。スーパーやコンビニで売っているアレだ。最近は味付けもバラエティー豊かで温めて食べればそれなりにイケる。

でも、ダイエット用の「特別食」であり、日常的に食べたいとは思わない。集中してあれを食べ続けると鶏のささみを見るのさえイヤになる。

そんな「ささみ」である。なのに圧倒されるぐらいウマかったから困惑した。

さきほどの「ぴよぴよメンチ」と「ささみカツ」をそれぞれ複数頼んでグビグビ飲んでいればトンカツに辿り着けなくてもヘッチャラかもしれない。


肝心のトンカツに辿り着く前に興奮しちゃったせいもあって、トンカツ自体の感想は普通である。

この日食べたのは特選ヒレカツ。ちゃんと美味しいのだが、私の期待感が強すぎたのか、ちょっと拍子抜け。比較的若い人向けのお店のようだからロースカツがウリなのかもしれない。

とはいえ、アホみたいに高価なトンカツがはびこっている東京のど真ん中という立地を考えれば適正な価格である。好感度高しである。

オチもなく書き終わってしまった。