2015年6月8日月曜日

職人


「職人」。独特の響きを持った言葉だ。自分の腕ひとつで妥協せずに納得する仕事をこなす。実に格好いい。

士農工商という身分格差が厳然と存在した江戸時代でも、卓越した技術を持つ職人は「工」ではなく「士」に分類されたそうだ。

職人気質を尊ぶ日本的なエピソードだと思う。

私自身、腕一本で世の中を渡っていくような技量がないので職人的なものには強く惹かれる。

酒器が好きで徳利やぐい飲みをやたらと集めた時期があったが、自分で作ってみようと思ったことはない。陶芸というプロの「芸」、すなわち職人技に魅せられたからだと思う。

セントラルキッチンで集中調理・管理される飲食店で飲み食いする気にならず、個人経営の店ばかり訪ねたくなるのも同じだ。職人の腕とかワザを味わいたいわけだ。

そのせいで「創作料理」などと名乗る店も何となく敬遠してしまう。気の利いた料理ならすべて「創作」だが、基本的には保守的、古典的こそ良いものであるという変な思い込みがあって、わざわざ「創作」という言葉を看板に掲げられると不安になる。

「邪道」とか「思いつき」みたいなニュアンスに見えてしまう。個人的な感覚なので違っていたらゴメンナサイ。

さてさて、さまざまな分野で「職人が減った」という声を聞く。寿司職人を例にとっても修行を始めて1~2年で辞めちゃうケースが多いらしい。

そんな程度の経験でも海外の日本料理店に高給で引き抜かれ、現地で重宝されるんだとか。

なんだか時代の流れとともにすべての分野でコンビニ化というかお手軽化が広まっているような気がする。

「手っ取り早く」、「そこそこ」など手軽さだけが美徳かのような風潮はどうなんだろう。もちろん、分野によってはそれで構わないし、喜ばしいこともある。でも、「職人的なもの」が継承されるはずはない。

ビジネスの世界でも効率が最優先される傾向は強まっている。職人気質を育もうとしても効率優先が壁になる。

利益を上げることがビジネスの目的である以上、当然の帰結とも言えるが、長期的視野で強みを醸成するには効率だけでは危なっかしい。

先日、キャリア50年になろうとする知り合いの弁護士さんと席を共にしたのだが、しきりと司法の現状を嘆いていた。いわく、「職人肌の裁判官が減った」とか。

被告と原告の言い分を足して二で割る安易な和解提案、一審の結論は絶対であり間違うはずはないと思い込む強固な身内意識など。

ベテラン弁護士だからこそ気質の変化を強く感じるらしい。ネガティブな意味でのサラリーマン化が司法の世界にも蔓延していると力説していた。

ちなみに「忙しすぎる裁判官」は以前から問題視されている。急増・多様化する処理事件によって超多忙状態だ。

大都市では一人の裁判官が常時200件の単独事件、80件の合議事件を抱えているというデータもある。内容自体も世の中の変化に合わせて年々多様化、複雑化している。

日弁連などの弁護士団体も先進諸外国に比べてわが国の裁判官の絶対数が少ないことなどを例示しながら司法予算の大幅拡充を求めているのが現状だ。

司法の番人こそ職人気質が必要だろう。こんな分野まで「お手軽感」が蔓延することは間接的に税金の大いなる無駄遣いだと思う。

なんだか話が固いほうに行ってしまった。

野球選手などスポーツ選手も職人気質の選手に魅力がある。守備の職人、代打の職人等々、平凡ではない卓越した技能をファンは望んでいる。

イチローなんて年を重ねるごとに存在そのものが職人みたいになってきた。サッカーのカズにしても、あの年齢になって一線でプレーすること自体が職人ワザだ。

世の中の大半の人が凡人生活を過ごしているからこそ職人は輝く。みんな凡人だったら世の中は味気ないはずだ。

どんな分野でも職人を育てる「悠長な気分」は失ってはいけないと思う。

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