2022年8月31日水曜日

「やってる感」


今年もアッという間に3分の2が終了した。バンド活動に励まないといけない時期になってきた。3年ぶりのライブは11月末だ。結構近づいてきている。

 

演目によって出番は変わるがメンバーは総勢8名だ。なかなか練習の予定が合わない。まだ一度も会っていないゲストメンバーもいる。SNSを通してやり取りができるから情報共有は出来ているが何かと不安である。

 

演目校正、曲順などもほぼ固まってきた。今年は得意?のオリジナル曲は封印してお客さんにとって耳馴染みのある楽曲のカバー15曲で構成する予定だ。

 

キーボード、バイオリンなどを担当する我が姪っ子ももはや基本メンバーみたいな存在だが、現在彼女は仕事の都合で秋田と東京を行ったり来たりの生活だから練習に参加できていない。

 


 

仕方なく私ともう一人のメンバーでカラオケボックスに集って諸々打ち合わせをした。やはりリモートでは伝わらないニュアンスもあるから2時間程度集中してやり取りしただけで結構な成果が上がった。

 

スタジオ練習のペースも上がってきた。最初はアコギの生音だけでこそこそ練習していたが、エレキのメンバーが参加し始めたことでアンプ・スピーカー経由のしっかりとした音量での本格練習に移行してきた。

 

過去のライブでも練習がこの段階に入るあたりから真剣味が増してくる。練習音源も録音して自分のボーカルのダメぶりを突きつけられる時期でもある。

 

今の時代、ネットを開けばギター譜が簡単に探せたり、カバー曲の原曲動画を瞬時に再生できたりデジタルの恩恵をフルに享受できるのが有難い。

 

今回はエレキ担当メンバーに教えてもらった新兵器に驚いた。女性の楽曲はもちろん男性曲でもキーが高過ぎる場合、私のボーカルに合わせたキーに合わせて演奏を仕上げないとならない。

 

感心したのはこの調整に役立つアプリだ。原曲そのものの音源をキーを上げたり下げたりしながら自由自在に再生してくれるスグレモノだ。

 

キーだけでなくテンポは維持できるので原曲のボーカルの声がヘンテコに変わってしまうのが笑える。女性曲を私のキーに調整して再生すると元歌の声がヘリウムガスを吸った後みたいなヘンテコな声に変わる。

 

元曲を男性が歌っている場合でもキーをかなり下げるとボーカルだけがフランク永井の声みたいに変わって楽しい。遊んでないで練習に励まないといけないのだが、ひょんなことで時代の進化を感じて妙に感慨にふけっているわけだ。

 


 

何ごとも遊びながら知ることは多い。何人かで集まってワイワイガヤガヤやっていると今更ながら新たに知る話がいっぱい吸収できて有意義な時間になる。

 

練習後はバカ話しながら飲むのだが、ここでもライブの際のMC用の小ネタがたくさん拾える。我がバンドはただマスターベーション的に演奏を聴かせる退屈なオヤジバンドではない。会場全体で楽しむのがモットーだ。MCネタを吟味するのも大事なテーマである。

 

ちなみに先日行われた矢沢永吉のライブでは何年かぶりに例のタオル投げが復活したらしい。素晴らしいことだと思う。そろそろ以前のように戻っていくのは普通のことだろう。

 

いまだマスク着用と声出し禁止がコンサートやスポーツ観戦のルールになっている。大谷翔平目当てにアメリカの野球中継を毎日のように見ているが、球場内の自由な感じは日本とは大違いである。

 

マスク、声出し問題は賛否両論あるのだろうが、そろそろ切り替えの時期だと思う。


ちなみに新橋あたりの居酒屋を例に取ってみよう。大箱の繁盛した飲み屋では大勢の客が全員マスクを外してワイワイガヤガヤ過ごしている。いまやそれが普通の光景だ。

 

にもかかわらず、店を一歩出ると屋外なのに皆さん思い出したようにマスクを着用して歩き出す。なんだか喜劇みたいな光景である。同調圧力とやらの呪縛はなかなか手強い。

 

今年の我がバンドのライブもどのような形でお客様を受け入れるかもろもろ検討中である。常識の範囲内で、と宣言したいが人によって常識は様々だから厄介である。

 

とはいえ、開催できるだけで良しとしなければならない。どのような形になるにせよ、私を含めたメンバーがライブ直前に感染しちゃえば替えはきかない。そう考えるとビビってしまうが、開催することさえ考えられなかった以前の状況を思い出せば遙かにマシだ。

 

というか、既に真面目に練習に取り組んでいるだけで幸せを感じる。それこそ「やってる感」だけでも何もやっていないよりは心地よい気分になれる。

 

やはり中高年には趣味があることは凄く大事だと今更ながら痛感している。

 

 

 

 

 

 

2022年8月29日月曜日

性加害という言葉

 俳優・香川照之のスッタモンダが世間を賑わせている。ツイッターあたりでは養護派と断罪派がそれこそケンケンゴーゴーの大騒ぎである。


確かにみっともない話がではある。でも当事者間で決着した話なら今さら第三者が騒ぐことでもないだろう。


いずれにせよお気の毒。


それにしても「性加害」という言葉がいつの間にか世の中に定着していることが興味深い。セクハラという表現より何となく重々しいのは確かだ。


加害、被害といえば犯罪用語だ。つまり世間様を刺激するようなワイセツ方面の言動はすべて犯罪という位置付けに格上げ?しようという風潮が強まっているわけだ。


私がアチコチでやらかしているイタズラもそのうち「性加害」という犯罪の範疇に入れられてしまいそうで怖い。気をつけないとならない。


ちなみに立ちションだって厳密に言えば軽犯罪法という法律に引っかかる犯罪だ。疲れてるのにクルマを運転することも道路交通法上では罪だ。軽症だからといって普通に行動するコロナ感染者も感染法上は罪を犯していることになる。


ギチギチに考えれば世の中は罪だらけである。イタズラも時と場合によって犯罪に認定されちゃう。仕方ないとはいえ怖い話である。


まあそんな愚痴みたいなことをウダウダ書いても仕方ない。夜の酒場の破廉恥話は勢い込んで良し悪しを語るようなことでもない。これも今の世相の特徴というか時代の流れなのだろう。


その昔、昭和40年代後半ぐらいまでだったか、チンチン出したまま歩いていた浮浪者を見かけた。あんなのも本人にそのつもりがなくても今では立派な「性加害」というジャンルに入るのだろう。


他にも昔はブカブカのブラウスのせいでしなびたオッパイをモロに覗かせながら水撒きをしているバアさんも時々見かけた。あれも今の世の中だったらコンプラに厳しい人々から「性加害だ!」と叱られちゃうかもしれない。


話は変わるが「香川さんの一件でアナタのことを思い出したわ」と数年前にちょっと親しくしていたオネエサンから連絡をもらった。ひょんなこともあるものだ。


近いうちに会うことになったのだが、もちろんメシだけ食べて解散するつもりである。でも酒が入れば私も旧友と同じくハメを外すついでに相手のブラを外すかもしれない。


話がヘンテコな方向にズレてきたから今日はそれっぽい過去ネタを2つ載せます。



銀座 夜の蝶のセンス

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/10/blog-post_28.html


イケてる原田龍二

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/06/blog-post.html













2022年8月26日金曜日

せつないエビフライ

 

エビフライを嫌いな人はあまりいない。老若男女から支持を受けている食べ物である。にもかかわらずエビフライは主役として扱われることが少ない。ちょっと気の毒である。

 


 

トンカツ屋さんにちょくちょく出かける私は「ついでの一品」としてエビフライを注文することが多い。あくまで主役はトンカツでエビフライは脇役だ。

 

でも時々エビフライのウマさに悶絶する。多分にタルタルソースの魅力によるところが大きいが、そんな時はエビフライを大量にむさぼってトンカツは2切れぐらいで構わないとさえ思う。

 

エビフライの専門店があればわりと頻繁に行く気がする。大中小さまざまなエビフライを揃えタルタルソースも様子の違う種類が用意されていたら実に魅力的だ。サイドメニューにミニトンカツでも用意すればバッチリである。そんな店がどこかにないものだろうか。

 


 

冒頭の画像は東京駅近くにある「平田牧場・極」のエビフライだ。金華豚ヒレカツが目当てだったのでエビフライは一本しか頼んでいない。やはり脇役になってもらうしかなかった。一本だとどこか淋しげである。

 

軽くレモンを絞ってタルタルソースを塗りたくったエビフライの味は世の中に溢れるありとあらゆる食べ物の中でも上位に入るレベルだと思う。なのに脇役。しつこいが何とも切ない話である。

 

某日、午後の中途半端な時間に銀座の煉瓦亭に行った。空腹での一人メシである。とにかくエビフライが頭の中を占拠していたので小海老のフライを注文する。小海老といってもそこそこのサイズで量もしっかりメイン料理として成立している。

 



 でも白いご飯をもらってエビフライだけで済ます気にはならないのが洋食好きな私の悪い癖である。オムライスとコキールまで頼んでしまった。結局、エビフライは脇役的な感じになってしまった。エビフライには申しわけなく思っている。

 

エビフライが何本もあるとタルタルソースで味わうだけでなくソースで食べたり、ソース+タルタルで楽しむことが出来るのが良い。心なしかエビフライも自分のバリエーションの変化に喜んでいるように見える。

 

ちなみにエビには血中コレステロール値の上昇を抑えたり糖の吸収を阻害したり高血圧が原因となる血管障害を予防する効果があるそうだ。おまけに肝機能を高め、解毒作用の強化、胆石の予防効果まであるらしい。

 

本当だろうか。どこかに書いてあったからきっと本当だろう。そう考えると単なる揚げ物ではなく健康食品にも思えてくる。もっとエビフライに脚光をあててやりたくなる。

 

別な日、日本橋の「たいめいけん」に出かけた。高級路線の2階席に陣取ってエビフライを注文した。確か4千円近い値付けである。さすがに主役級のポジションだ。実際にやたらと立派なエビフライだった。画像ではわりにくいがビッグサイズが3本である。高値にも納得だ。

 


 

デカいサイズのエビフライを頬張るとサクッとした直後にグワッシという大エビならではの噛み応えが楽しめる。つかの間の幸福感である。直後にタルタルソースの味が口の中に広がって泣きたいほどハッピーな気持ちになる。

 

滅多にない“主役エビフライ”である。日頃、肩身の狭い思いをしているエビフライもこの日は大いに存在感をアピールしてゴキゲンな様子だった。私もありがとうエビフライ!と叫びたくなった。

 

しかし、エビフライと同じぐらいのタイミングで極上タンシチューが運ばれてきた。これまた妙に高値の一品だ。洋食屋さん業界のいわばスーパースターである。一口食べたらウマくて卒倒しそうになった。

 


 

さてさて、前菜などその他もろもろ食べて大いに満足したのだが、翌日になって私の記憶はあくまでタンシチューに占拠されていた。コッテリとした官能的な味のインパクトが強かったのだろう。

 

せっかく主役のつもりで頑張ってくれたエビフライのことをちょっと忘れてしまった。やはり彼は主役になれない運命を背負わされているのだろうか。

 

ふびんだ。すまん、エビフライ・・・。

 

 

 

 

 

2022年8月24日水曜日

バカなのにもっとバカ


タイトル通りの事態が続いている。わりとポカをおかしがちなバカな私だが、最近はバカが加速している。

 

昨年あたりはコインパーキングにクルマを駐めたことを何日も忘れたままでウン万円に跳ね上がった料金にたじろいだ。それも一度ではないところが残念である。

 

お金を大事にしないとヤバいと心を入れ替えたのだが、なんと先月と今月、2回も続けてATMにお金を引き出しに行ったのに肝心のお金を取り忘れるというマヌケなことをしてしまった。

 

バカ丸出しである。2回ともコンビニのATMである。バカな私はお金を引き出す操作の後、キャッシュカードを後生大事に財布にしまっただけで満足?してしまい肝心のお札を取り忘れたわけである。

 

一度は親切なコンビニの店員さんが追っかけてきてくれて無事に済んだ。そういえばATMからビービーとやかましい音がしていたような気もする。

 

もう一度の際は、これがマヌケの極みで、お金を下ろしたつもりの3時間後ぐらいに財布の中身を見てようやく気付いた。金額は5万円である。

 

急いで現場のコンビニに戻ったのだが店員さんに尋ねたところでラチはあかず、きっと誰かに盗られちゃったのだろうと落胆していた。自らの愚かさに卒倒しそうになった。

 

その後、本当にお金を引き出したのかどうかも怪しいような気がしたのでアプリで出金記録を確認してみた。確かにその時間に5万円を引き出した履歴が残っていた。切なくなる。

 

が、しかし、しかしである。アプリ上には5万円の引き出しの直後に「訂正・5万円」という表記があるではないか。結果的にお金は戻っていた。ラッキーである。

 

どうやらATMは私にも店員さんにも気付かれずにビービーとやかましい音をたて続けたものの断念して受け取ってもらえない5枚の1万円札を自動的に格納したらしい。

 

場所は銀座一丁目の裏通り。平日の午後のことだ。コンビニ内にお客さんはまばらだったから私のマヌケな失態は誰にも気付かれずに済んだわけである。

 

それにしてもコインパーキングにクルマを駐めたことを忘れたり、ATMからお金を出すことを忘れる人って世の中にそんなにいないと思う。それも短期間に複数回となるとちょっと深刻である。

 

真面目に脳の検査をしたいと思うのだが、10年前に脳ドックを受けた際にやたらと閉塞感のある機械に頭ごと包み込まれてパニックになりかけたトラウマがある。

 

どうも私には閉所恐怖症っぽいところがあるようだ。昔からエレベーターに乗っても満員状態になると途中で降りてしまう。子供の頃はそうでもなかったが大人になってからダメになった。

 

以前、長野の善光寺に行った時も真っ暗闇の通路を延々と歩かされる「お戒壇巡り」の途中で気分が悪くなって引き返したことがある。後戻りをするとすこぶる縁起が悪いらしいがそんなことお構いなしにボコボコ人にぶつかりながら逆行して戻った。

 

子供が小さい頃も遊園地の鏡張りの迷路みたいな施設に入って楽しむ子供をよそにやはり気分が悪くなってボコボコ人にぶつかりながら引き返したこともある。

 

バカなのにそんなバカな要素もあるわけだから何かと面倒である。

 

先日も腹部のMRI検査の際に閉所ビビリモードが全開になった。いつも受けている肺のCT検査と違ってMRIの機械はほぼ全身が入ってしまう長さだ。全身をカプセルに入れられちゃう感じである。

 

機械の中で身体を動かさずに20分も耐えないといけない。変なヘッドフォンまで付けられてガーガービービーとうるさい機械音は響くし、腰の下あたりは機械の熱でやたらと熱い。頑張ろうと思ったが最初の23分で握らされていた非常ボタンを押した。

 

ちょっと無理っぽい、呼吸が苦しくなった等々の言い訳を技師さんに言ってしばし冷静さを取り戻すのを待ってもらう。そして再度トライするハメになった。

 

何とか頑張ろうと必死にエロいことを考える。でもそういう時に限って思い出すのはエロ系記憶の中でも不快な体験だったりして気分が悪くなる。

 



仕方なくエロ系はあきらめて必死に頭の中で歌を歌ってみた。11月末に控える我がバンドライブの演目に沿って一生懸命歌ってみる。なんとか冷や汗ダラダラになりながらも20分が終了した。

 

たった20分で疲労困憊である。その後も2時間ぐらいふらふらするほどバテまくってしまった。たかが検査であんなに調子を崩すなら、しっかり病気になった時にMRIを受けたら絶不調に陥って死んじゃうかもしれない。

 

やはり脳がどこかヘンテコになっているのかもしれない。

 

つくづく元気なうちに好き勝手なことをしておくべきだと痛感する。これまたバカならではのポジティブ思考かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

2022年8月22日月曜日

死生観と毛髪問題


今年も胃と大腸の内視鏡検査をしてきた。毎年の恒例行事である。薬物を注射されてフワっと落とされたまま寝ている状態で検査が終わるからラクチンである。

 

いつから私が内視鏡マニア?になったのかこのブログをたどって調べてみた。2008年の時点で書いているのだが、その時には既に毎年恒例みたいな書きぶりだ。つまり15年以上も懲りずに毎年毎年お尻と口にカメラを突っ込まれているわけだ。

 

強力鎮静剤をうたれて落とされるまでのボーっとしてくる感覚と検査終了時に弛緩したせいでフワフワしたまま肩凝りまで無くなっている気持ちよさが検査の特徴だ。

 



その昔、初めてこの検査を受けた際にビビったことも懐かしい思い出だ。やたらと緊張した記憶があるのだが、今ではワクワク気分しかない。朝食を抜いているから検査後にドカ食いするのも楽しい。

 

クスリによるフワフワ感覚が残っている中で一杯のビールを飲むのも幸せを感じる瞬間だ。たとえ結果が出ていなくても検査って受けただけで満足感がある。

 

ところで、15年以上も内視鏡検査を習慣にしているのは一体なんのためなんだろう? 今回はふとそんなことを考えた。

 

子供が幼い頃は自分の身に何かが起きたらマズいという責任感があった。でもいまや子供も大きくなり、ついでにいえば最低限困らないような生命保険にも入っている。別に必死に健康チェックをしなくてもいいのではないか? ふとそんな刹那的なことが頭をよぎった。

 

でも、健康でいないと仕事も出来ない。いや、ウマいものを食べたり楽しく旅行したりエロ本を読んだりバンド活動に励んだりも出来ない。一応、自分の楽しみのためにちゃんとした状態でいないとマズい。

 

そう思うとやはり定期検査にも意味はあると考え直したのだが、いわゆる「健康オタク」的な頑張りに最近はちょっとだけ疑問を感じるようになった。頑張りすぎて不必要に長生きしちゃったらそれはそれで困る。

 

長生きしたいかしたくないか。これって案外難しい問題だ。いま私に何十億も貯金があれば長生きするのも悪くない。でもお金に汲々した状態で老境を迎えるのは怖い。

 

お金に苦労しなかったとしても身体がヨレヨレになって誰かに迷惑をかけながら生きるのもツラい。身体が思うように動かない、頭も回らない、認知能力もヘロヘロ・・・。そんな状態を想像すると恐怖でしかない。

 

ちなみに温暖化がどんどん進んで、あと1020年もしたら夏場はきっと老人には地獄だろう。健康に注意して80年、90年も生きたのに最後に熱中症で死んじゃうなんて切ない。

 

将来、中年になった娘にアレコレうるさく指示されたりするのもゴメンだ。いまは私が母親にエラそうにあーだこーだ文句を言ったり指示しているのだが、いずれそんな状況になることを逆の立場で考えたら堪ったものではない。

 

もちろん60代には60代の70代には70代の充実した世界があるはずだ。それがどんな景色かを実体験してみたい気持ちもある。72歳の矢沢永吉が「今がサイコー!」と語っていたが、そうだとしたらそのぐらいまでは生きていたい。

 

永ちゃんの歳まであと15年ぐらいである。わりとすぐだと思う。このブログだって15年は続いているわけだからきっとアッという間だろう。

 

そう考えると人生の最終盤は着実に近づいている。「人生100年時代だから50代なんて折り返し地点だ」などと脳天気なことを言う人もいるが、100年も生かされるのはまっぴらゴメンだ。

 

70代前半ぐらいで死んじゃうと仮定すると私の場合、既に人生の80%は終了している計算になる。そこそこ若いつもりでいたからちょっとビックリだ。

 

誰もが漠然と80歳ぐらいまで普通に生きる前提でもろもろのことを考えているが、私としてはもう少し手前で充分だろうと思える。そんな考えは良くないのだろうか。

 

もちろん、余命宣告を受けて一日でも長く生きたい人からすればふざけた言い分だ。私だって今回の検査で取ったポリープが検査の結果、超悪性で余命わずかだと急に宣告されたらさすがに慌てふためくだろう。  


ちなみに男性の平均寿命は81歳だが、これって「健康寿命」の数字ではない。誰の助けも受けずに普通に元気に暮らせる健康寿命はここからマイナス8〜9年あたりが相場らしい。やはり70代前半はひとつの節目にはなりそうだ。

 

もちろん個人差も大きいし一概に何とも言えない。いずれにせよ正解はどこにもない話ではある。

 

さてさて、今回は内視鏡検査の翌々日に腹部のMRI検査、その翌々日に肺のCT検査も受けてきた。検査ウィークだった。ヘタな人間ドックよりも綿密なチェックを安価?でこなしてきた。

 

もっとも印象に残ったのはMRI検査を受ける際の注意事項だ。体内に金属はないか、入れ墨はないか等々の他、“髪関係”にも随分と制限がある。有難いことには私にはひっかかる点がない。なんだか妙に誇らしい?気持ちになった。

 



 十数年前にカツラを発注したものの、手付金とともに放棄してあらゆる自毛復活作戦に知恵とカネを注いできた甲斐があったというものだ。変なところで承認欲求が満たされた気分だった。

 

それにしてもカツラやウィッグの人なら検査の際に制限される覚悟はうすうす感じているだろうが「増毛パウダー」の人にはこの注意書きは衝撃だろう。

 

はたしてどう対処するのだろう。検査の前にその場で洗い流すのだろうか。実にシュールな光景だ。私もそうならないように自毛保護に全精力を傾けて残りの人生を歩んでいこうと思う。

 

凄い結論になってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

2022年8月19日金曜日

クルマ遍歴


18歳で免許を取ってから40年近くが経った。随分いろんなクルマに乗ってきたが今もナゼか夢に出てくるのが我がクルマ遍歴唯一の“4ナンバー商用自動車”だった日産サファリだ。

 

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/08/blog-post_26.html

 

愛好家達で作るチームに加入してやたらと改造しまくってオフロードツーリングにも出かけた。とことんクルマで遊んだせいで一番の思い入れがある。

 

ベンツもポルシェもキャデラックも乗ってきたのに一番の思い入れがある。手放した時のままのあのクルマが中古車市場にあったら新車価格を出してでも手に入れたいほどだ。

 

私のクルマ遍歴の始まりは実家にあったトヨタマークⅡをお下がりで自分専用にさせてもらったところから始まる。CMキャラクターが長島さんだったことからも分かるようにオジサン向けのクルマだった。

 



オジサン向けとはいえ、当時の世の中では“ハイソカー”なる謎の言葉がハヤリ始めていたから一応その流れに乗ったような顔をして乗り回していた。

 

まだセルシオもシーマも登場していなかったバブル前夜だったからクラウンを頂点とするハイソカーヒエラルキーの中でマークⅡはまあまあの位置付けだった。自分専用になってすぐにオートバックスに行ってフェンダーミラーをドアミラーに交換したのが懐かしい思い出だ。そんな昔の話である。

 

それにしても昭和のあの頃はクルマをめぐる世間の関心というか情熱みたいなものが今より遙かに強かった。そのぐらい誰もがクルマありきのライフスタイルを過ごしていたのだろう。それこそ品川ナンバーは素敵だの練馬ナンバーは残念だのと実にくだらない話で盛り上がっていた。

 

始めに書いた日産サファリは別格として、それ以外にもとくに印象に残っているのが日産レパードだ。ドラマ「あぶない刑事」で館ひろしと柴田恭兵が乗り回していたことでしか知られていないクルマだ。

 



大ブームを巻き起こしたトヨタソアラの向こうを張って日産が投入した2ドアクーペである。当時からアマノジャクだった私は迷わずソアラよりマイナーだったレパードを選んだ。とにかく売れなかったらしい。でもすこぶる優秀なクルマで私は大好きだった。

 

その後もあれこれ乗り換えているうちに欧州車ばかり選ぶキザな大人になっていった。欧州車はモデルチェンジのサイクルが長かったことも魅力だったが、考えてみれば昭和の日本人特有?の欧米コンプレックスが原因だったのかも知れない。

 

中でも大好きだったのが2ドアクーペの2台だ。バリバリのスポーツカーは運転していても快適ではない。ちょっと落ち着いた路線のクーペぐらいがノンポリ派の私にはハマった。

 




BMW850とジャガーのXK8である。今日のここまでの画像は拾い画像です。すいません。


4ドアのほうが間違いなく実用性に勝るのだが色気づいていた私としては2ドアクーペのエロいデザインに惹かれた。この2台、どちらもあまり街中で見かけなかったことが何より良かった。

 

その後、世界的にクーペっぽいデザインを採用した4ドア車が人気を集めるようになってきた。べンツCLSの大ヒットがきっかけだ。当然、歳を取ってきた私もその路線に目が向くようになった。

 

独身だから2ドアクーペに乗ればいいのに何かと実用性やら落ち着きたい気持ち?のせいで4ドアに目が向く。お金が有り余っていいたら007みたいにアストンマーチンでかっ飛ばしたいのにそうもいかない。

 

で、今の私の愛車はマセラティのクアトロポルテである。「クアトロポルテ」って音の響きがカッチョ良くて気に入っているが、イタリア語では単に「4ドア」という名前だ。

 



4ドアセダンとはいえ、クーペっぽいデザインが気に入っている。ベンツのSクラスより長さがあるのに取り回しは案外スムーズだ。ホイールベースの長さも快適な乗り心地に直結する。

 

以前はショートバージョンの「ギブリ」に乗っていたのだが、ちょっとデカいクアトロポルテのほうが乗り心地や全体のバランスなどが秀逸に仕上がっていると思う。

 

イタ車は壊れるという評判も今や昔、ギブリから続けて乗っているが不具合はまったくない。今のところ他に乗りたいクルマも無いし、コロナ禍のせいでモデルチェンジが大幅に遅れているようだからまだまだ乗り続けていたいと思う。



イタリアのボローニャにルーツを持つことも私がマセラティに魅了される理由の一つだ。特徴的なトライデントと呼ばれるエンブレムは私の大好きな街・ボローニャのメイン広場にあるネプチューン像が手にする槍(モリ)の先端部分がモチーフだ。


10年ほど前に初めて本場のボロネーゼパスタを食べた時にウマ過ぎて卒倒しかけた衝撃や初めて洒落靴で有名なステファノ・ブランキーニ本店を訪れた時の感動をボローニャでは味わった。


ちなみに今使っている長財布やいつも小旅行に伴わせるお気に入りのボストンバッグも5年ぐらい前にボローニャ駅前のテストーニのアウトレットショップで入手したものだ。


といわけで、マセラティのエンブレムを見るたびに愛しのボローニャの空気を感じることが出来る。なんだかちょっとキザったらしいこじつけみたいな話ですいません。。

 




地味目な外装色に反して中は赤である。さすがイタリア人が作るクルマだ。こんな内装色ならセクシーなオネエサンでも乗せてあんなことやこんなことにも励みたいところだが、私ももう初老街道まっしぐらでそんな機会ともご無沙汰だ。助手席に乗せた娘の愚痴を聞いたりするのがせいぜいである。

 

その点だけは若い頃のほうがはるかに刺激的だった。まあ何だかんだ言っても今のそんな状況のほうが結局は人としては幸せなんだろう。

 

と、必死に自分に言い聞かせている。

 

 

 

 

 

2022年8月17日水曜日

AQUOS R7

 

スマホが突然調子がおかしくなって慌てて機種変更してきた。買ってから3年も経っていないのにドコモショップのオネエサンは替え時ですねと涼しい顔である。

 

スマホを家電製品だと考えたら随分とヒドい商品だと思う。おまけに新機種の設定やデータ移行に2時間近くもかかるのもバカみたいな話。誰もがそれを当然みたいに思っている風潮が気持ち悪い。



 

まあ、そんな愚痴を言っちゃうあたりが中年、いや初老男の特徴だろう。でも今回久しぶりに機種変してみてアッチ業界の傍若無人ぶりというか客目線の欠落した体質を痛感した。

 

機種変の作業前にどうでもいい動画を見せられたのだが出てくる言葉がまるでチンプンカンプン。速度の単位など普通の人が分かる話ではない。とりあえず儀式的に見せておけばいいという安易な姿勢が不快だ。

 

そのぐらいは私でも我慢するが、驚いたのアプリのデータ移行をサポートする際の料金だ。Facebookやツイッターなど単純に新機種で新たにログインすれば済むものも1アプリ当たり以降手数料を1600円も取るという。

 

いやはや殿様商売としか言えない。お年寄りなら言われるがままにそんな無駄なサービスを頼んでしまうと思う。さもそれを依頼して当然みたいな口ぶりで説明してくるのも不快だ。

 

アプリ側の身勝手な仕組みも客目線などまるで無視したような感じで、なんだか消費者をバカにしている。不要なアプリがデフォルトで入っているのは仕方がないが、それらを削除する手間はかなりのもの。

 

あの業界以外の商売だったらあれほどまでに客に無関係かつ客が興味を示さないモノをバンバン押し込んできたら客のほうが怒り始めるのが普通だろう。

 

たとえばウーバーイーツである。新機種にパスワードを入れ直したら普通に使えるかと思ったら、なぜかアプリ内の支払い方法が勝手に変えられている。それもこっちが登録していないLINEペイだったかに固定されており普通のやり方では解除できない。

 

仕方なくネットを検索して解除するやり方を知ったのだが、言うなればLINEペイとやらに登録させなきゃ使わせないぞみたいな高飛車な印象しか残らなかった。

 

デジタルリテラシーの優劣が世の中を便利に過ごせるかどうかの分かれ目であることは承知している。でもアッチ業界のやり口は親切に指導するような感覚とは異質だ。「知らないヤツは相手にしないよ」という本音が見え見えだと思う。

 

文句ばかり言っても仕方ないから新機種の話に移る。古い人間だから日本製をついつい選ぶ。というか前の機種と同じメーカーの後継機のほうが使い勝手が良さそうだから前回に引き続き今回もアクオスの上級機にした。

 

シャープは今や台湾傘下だという現実はこの際知らないフリをする。3年前に買った「R3」がいまや「R7」である。頻繁に型が変わることが無かった昔の家電が懐かしい。


R6が出た時に変えようかと思ったのだが、自慢のライカ製レンズを搭載したカメラ機能がやたらと悪評だったので見送った経緯がある。

 

R7はカメラ機能がかなり改善されたと聞いたので悩まずに注文したのだが、機種代金の高さに驚いた。3年前の機種より2倍近い価格設定である。

 

ハイエンド機にする必要など無かったのだが、値段も聞かずに予約しちゃったし一応今までの機種の後継だから操作性が同じ点に甘えて無駄な買い物をしてしまった。ドラム式洗濯乾燥機が買えるような値段である。正直バカみたいという一言だ。

 

聞くところによると他のメーカーのアンドロイドもハイエンド機は似たような値段だという。買っちゃったくせにあえて言ってしまうが実にバカな話だと思う。

 

また3年ぐらい経ったらいよいよジイサンバアサンが愛用している楽々フォンでも構わないかと思い始めている。値段は知らないけど。

 

さて、アクオスR7である。新品だからサクサク動くのは当然だが、カメラ機能は果たしてどうなのだろうか。今のところ前の機種と大差ないように思える。

 



夜景やポートレートを撮れば違いが分かるらしいが、このブログに載せる食べ物を撮影する分には別にどうってことはない。接写機能は以前のほうが上だったかも知れない。

 

それにしてもスマホという小さな機械に振り回されている現状が何となく切なく哀しい。機種変のおかげで丸一日以上は新機種の設定や調整にあれこれ時間を費やすハメになった。10年に一度ぐらいなら仕方ないが、2年や3年に一度こんな目に遭うわけだから実に不愉快だ。

 

日本中であらゆる分野の人たちがこんなことで非生産的なくだらない作業をしているのかと思うと、時間人件費的観点から見たらその経済的損失は凄まじいと思う。

 

だったら使わなきゃいいと叱られそうだ。ごもっともである。でもこの小さい機械は残念ながら私の横着で便利な暮らしを支えるツールである。

 

文句を言いながらも軍門にくだるしかない。無念じゃ。

 

 

 

 

 

 

2022年8月15日月曜日

10年前の話


今日は更新が間に合わなかったので過去ネタを二つ載せてみます。

 

まずは12年ぐらい前に書いた話。真面目に生きることの尊さ?について。

  

真面目

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/10/blog-post_22.html

 

 続いては4年ほど前にイマドキの言葉狩りみたいな風潮に対して感じることを書いたもの。

 

看護婦さん 婦人警官

 http://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/02/blog-post_5.html

 

 

 

 

2022年8月12日金曜日

すする文化


日本の常識は世界の非常識。そんなパターンを象徴するのが「麺をすする」行為だろう。日本人のように激しくすすりまくるのは世界でも希だとか。

 

私自身、子供が小さい頃は蕎麦屋でわざわざすすりかたを口うるさく指導した覚えがある。親から子に伝えちゃうわけだから一種の文化である。

 


 

蕎麦をすすらず食べてみると美味しくない。思い込みかも知れないがやはりすすってこそ蕎麦の味が引き立つ。西洋人からすれば信じがたい行儀の悪さらしいが、それこそ大きなお世話である。

 

即席麺の消費量データなどから分かるようにアジアの人々は麺類が大好きである。中国はもちろん、韓国や東南アジアの国々も麺好きだ。

 

聞くところによると麺好きなヨソの国でも日本人ほど激しくすすることはないらしい。仕方なくすする音が出ちゃうぐらいなのが基本だとか。

 

日本の場合、つけ汁で味わうもり蕎麦の存在がすする行為を奨励する大元になっているのだろう。熱い汁に入った麺類だとすするのがちょっと怖い。焼きそばや汁無しの和え麺系もすする行為がなくても成立する。

 

スープをすすることがNGの欧米ではそもそも食事に際してすする場面が無い。すする習慣自体がないわけだ。あちらから見たら日本のわんこ蕎麦を大勢ですすりあっている場面はおぞましく映るのだろう。

 

すする文化が無い国の人は気の毒だ。ウマい蕎麦をすするたびにそんなことを実感する。暑い季節に冷たい麺をすする行為は清涼感の観点からも悪くない。

 




この画像は築地にある「さらしなの里」という店のさらしな蕎麦と紫蘇入り蕎麦。このお店は一品料理も充実しておりお蕎麦屋さんにとって大事な天ぷらもキチンと美味しい。

 

職場からも自宅からも遠くないので蕎麦気分の際には行きたくなる。ヘルシーなようにみえて実は揚げ物も食べるし、せいろで23枚は食べたくなっちゃうから結局はデブ化につながってしまう。

 

話は変わる。ラーメンの世界でいつの間にか主役級の存在感を見せるようになったのがつけ麺である。こちらもすする文化の国ならではの食べ物だろう。

 

個人的にはラーメンはラーメンとして食べたい。冷たい麺をヌルいつけ汁で食べるようなパターンはヘンテコだと常々感じている。

 

そんなつけ麺否定派の私でも暑い季節には自宅でこっそりつけ麺大会を開催する。使うのは大勝軒っぽい味がする市販のつけ麺スープだ。

 





温めたスープにチャーシューを大量投入して、カットネギともやしを用意して完成である。簡単手頃でちゃんと美味しい。上の画像は開始から終了までほんの5分ぐらいが経過した時点の比較だ。瞬時に食べ尽くしてしまう。デブまっしぐらだ。

 

この時期にすすりたいといえば冷やし中華も外せない。昨年、日本中から冷やし中華を取り寄せて食べ比べをした。結局どれも似たように美味しいという面白くも何ともない結論に達したから、今年は銘柄にこだわりなく食べている。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/07/blog-post_26.html

 

私の場合、チャーシューを楽しむために麺を脇役に利用している傾向がある。具の無い冷やし中華という素っ気ない食べ物はウマいチャーシューを引き立てるのにもってこいである。

 


 

冷やし中華はクドくないから朝飯にも最適だ。爽やかな一日を迎えられる気がする。たぶん気のせいだろう。朝からすすりまくると目が覚める効果があるようにも感じる。たぶんそれも気のせいだ。

 

普通のスーパーで置いてある冷やし中華はたいてい食べたことがあるが、デパ地下やちょっと高級路線のスーパーに行くと見慣れぬ商品を目にしてついつい買ってしまう。

 

冷やし中華の味には大差が無いと身をもって体験してきたのに値段が高いと不思議と反応してしまう。きっと革命的にウマいのだろうとパブロフの犬のような気分で買ってみる。

 


 

こんなネーミングの商品に出会ったらポケットに小銭しか入っていない時でも有り金をはたいて買ってしまう。つくづくデザインや命名センスって大事だと感じる。頭の構造が単純な私はこんな商品を見たら箱買いしたくなる。

 

でも結局はウマいチャーシューを楽しむ時の脇役として食べることが大半だ。チャーシューの味わいが口の中いっぱいに広がっているところにズズズっと麺をすする瞬間は私にとって至福の時である。

 

すする文化とすすらない文化の話を書こうとしたのに単なるチャーシュー賛歌みたいな話になってしまった。

 


 

こちらは先日の草津旅行の帰路に渋川で通りすがりに入った店の味噌ラーメンだ。ここでも結局チャーシューを主役にしてしまった。

 

まとまりのない話になってしまったが、チャーシューと中華麺の組み合わせはビールと枝豆のように密接不可分の関係だと思う。いや、ハンバーガーとケチャップ、いや、オッパイとブラジャーぐらい欠かせない関係だと思う。

 

 

 

 

 

 

2022年8月10日水曜日

ダウン症の息子に学ぶ


毎年恒例の「元家族旅行」で草津に行ってきた。離婚して10年ほどが経つがダウン症の息子が一種の“かすがい”になっているせいで春と夏に4人で旅行をするのが習慣になっている。

 


 

ハタからみれば不思議な形なのだろうが、長く続けてくるとそれはそれで普通の日常だ。高校生になった息子はスネ毛がすっかり濃くなったものの頭の中は小学生レベルだ。相変わらず無邪気で可愛いい。

 

有難いことにパパ大好き状態はますます過熱気味で私の周りに常にまとわりつく。それこそすり寄ってきてニタニタするからボーイズラブ?もびっくりの光景が展開される。

 

私も普段一緒に暮らしていないから甘甘父ちゃんモードが爆発する。結果、息子はまた私にベッタリという循環になってしまう。いつまでも幼稚園児みたいにまとわりついてくるので将来がちょっと心配だ。

 

草津温泉は半世紀近く前からちょくちょく出かけている。実家の持つ別荘マンションがある関係でアウェー感ナシにのんびり過ごせる。いつもマンションの母体であるリゾートホテルの2ベッドルームの部屋を取って過ごす。

 


 

リゾートホテルといっても半世紀前と同じ建物だからわりとオンボロで昭和感ぶりぶりである。まあ、それはそれで元家族旅行という気兼ねのいらない時間にはちょうどいい。

 

別荘マンションは部屋が狭いから温泉大浴場だけ利用するぐらいである。草津の湯は泉質では日本一だと思うし、何より夏の涼しさは特筆ものだ。避暑地として実に快適な場所だ。

 

今回も晴れて暑い時でも25℃、夜は18℃という長袖必須の快適さだった。冷房なしで23日を過ごしただけで身体がリフレッシュした感じだった。

 

温泉地であり旅館が中心のエリアだから食事場所にちょっと困るのが難点である。知る人ぞ知るウマい洋食レストラン「どんぐり」は夜は営業しなくなっただけでなく、今回の滞在中は昼も休業で途方に暮れた。

 

温泉街の中心地である湯畑の近くにある中華料理の「龍燕」もまっとうな食事を食べられる店だが、こちらも大混雑で何とか一泊目の夜に入れた。

 



 

2泊目の夜は夕食難民になるのも覚悟していた。どうでもいい定食屋のソースカツ丼でも食べて過ごそうかと思ったが、蕎麦の人気店「三国屋」が新たに作った和牛ビストロの情報をネットで入手して出かけてみた。

 

草津には似合わないモダンな造りの洒落た店だった。メニューも豊富で酒飲みにも有難い一品が揃っている。肝心の肉料理がかなり美味しかった。アタリである。4人でステーキなどをぶりぶり注文してバクバク食べる。息子は妙に嬉しそうに際限なく肉を頬張っていた。

 


 

今回の旅で改めて感じたのは息子の持つ不思議な力である。そう書くとスピリチュアルみたいな感じだが、そんな大層な話ではない。

 

ダウン症の子供が持つ天性の大らかさというか、温和でユルい感じの空気感が邪念タップリに生きている私にとってはとても神々しく?感じられた。

 

幼い子供が持つ素直で無垢な純粋さ、無邪気さが高校生になっても消えずに逆に本人の個性として強まっている。泰然自若というと少し違うのだが、気持ちの安定感みたいな部分が親兄弟よりもはるかにマトモな感じだ。

 

喜怒哀楽は素直に表現するが柔和な様子は常に一定。駄々をこねることもなく何かに執着もせず、叱られたりイヤなことがあっても切り替えが早く、必要以上に自我を通さず、その場の状況をあらがわずに受け入れる。

 




おまけに周りへの目配りもなかなかのもので、私が雨に少し濡れた時も自分のハンカチを出して拭いてくれる。これみよがしではなくこっちが気付かないぐらいの感じでそれをやるわけだから親バカながら感心してしまった。

 

褒められたいとか良いコぶりっこみたいな邪心があればこっちだって分かるが、そうではなくごく自然に行動している点に驚かされた。

 

ダウン症の子供は時に天使という言葉で表現される。私自身、息子がダウン症だと知らされた直後にずいぶん聞かされたが、正直まったくそうは思えなかった。逆に腹立たしかった記憶がある。

 

絶望的な気分になって途方に暮れていた時だから天使などと聞いてもウザったい奇麗事にしか思えなかった。息子には申しわけないが天使ではなく悪魔の間違いだろうなどとヒドいことを思ったりもした。

 

あれから15年以上が過ぎて成長した息子をみるとヤツが生まれてきた意味みたいなものが少しは分かった気がする。見た目が見た目?だからちっとも天使だとは思わないが、私から見ればアイツはホトケ様みたいな存在である。

 

もちろん、親だから子を可愛く思うのは当然だ。私も人並みに子煩悩だから自分を慕ってくれる我が子はとても可愛く思う。そういう当然の感情とは別のある意味で畏敬の念みたいな不思議な気持ちになる瞬間がダウン症の息子にはある。こればかりは不思議な感覚としか言いようがない。

 



高校生にもなってシャボン玉に喜び、散歩する際は荷物もないのにカートを転がしながら歩き、ナゼかウルトラセブンのテーマ曲ばかり聴きたがり、やっつけ仕事みたいなラーメンだろうとウマいウマいと夢中になって食べる天真爛漫な息子を見ていると、日頃の自分の行動を反省したくなる。

 

人様の目を必要以上に意識して格好や体裁ばかり気にする。素直な気持ちに蓋をして気取った言動に終始する。細かいことに固執し意味もない意地や我を通そうとする。考えてみればすべてが息子とは真逆である。

 

息子に比べれば、読み書きが達者で計算も出来てちょっとは稼ぐことも出来ていろんな知識だって豊富な私だが、人としての根っこの部分ではアイツに負けているような気がする。

 

まだまだ修行が足りない。いろいろ学ぼうと思う。

 

 

 

 

 

2022年8月8日月曜日

アーカイブです

 今日は更新をサボってしまったので過去ネタを2つ乗せます。

 

 

味噌おやじ

 http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html

 

 男らしさ 女々しさ

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/06/blog-post_7.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年8月5日金曜日

シンコ、新イカ、頭の大盛り

 

昔々、私が学生の頃は学校に冷房など無かった。それを思うだけで、この数十年で気候が大きく変わったことが分かる。

 

いやはや実に暑い。このまま年々暑さが厳しくなるなら、あと5年ぐらいで本気で生きるか死ぬかの次元に突入する気がする。健康管理に気をつけていたのに熱中症で死んじゃうのはバカみたいである。気をつけようと思う。

 

さて夕方になって少し涼しくなれば冷たいビールが飲みたくなる。外食比率が高い私だが、この時期はさすがに鍋モノの気分にはならない。焼肉も目の前が熱いから避けたい。ラーメンだって暑苦しい。

 

消去法で行く頻度が高くなるのがお寿司屋さんだ。熱々のメニューが基本的に出てこないから夏には助かる。この時期は貴重なネタもあるから頭の中が寿司に占拠されがちだ。

 


 

コハダの赤ちゃん、シンコである。出始めの頃の6枚づけより3枚づけぐらいが美味しい。シンコの魅力は何よりも食感だろう。赤ちゃんのホッペタ的なホワっとした柔らかさがクセになる。

 

「シンコを食べないと私の夏が終わらない」などの名言があるほど寿司好きが夢中になるネタである。シンコの季節には親であるコハダもウマくなるのだが、やはり赤ちゃんコハダはわずかな時期しか食べられないので今だけは私もロリコン指向?になる。

 

ロリコン寿司マニアにとってシンコとともにこの時期に外せないのが新イカである。スミイカの赤ちゃんである。これまた食感がたまらない。普段はイカの握りを食べない私でも新イカは別だ。

 


 

ホワっとした食感に背徳感を覚える。無垢な若者に邪心がないようにイカの赤ちゃんも雑味とは無縁だ。イカなのにイカっぽい自己主張?がまるで無いのが素敵だ。禁断の味だと思う。

 

いつもお寿司屋さんでは握りは一貫ずつもらうのだが、先日はコハダと新イカを3貫ずつ食べてしまった。コースが主流のイマドキの勘違い寿司屋だったら出来ない頼みかたである。でも時にはそんな食べ方を楽しめるのが本来のお寿司屋さんの在り方だ。

 

私がちょこちょこ訪ねる新富町のお寿司屋さんで今シーズンの私のお気に入りがウナギ串である。ウナギマニアの私だからお寿司屋さんのツマミにウマいウナギがあるのは嬉しい。

 


 

握りに移行する前の酒の肴だからクドいタレではなく塩焼きで軽く味わえるのが良い。ミョウガとキュウリを和えた一品やウニをそのままつまみで頼み、ホロ酔いになりかけた時にウナギ串が出てくると最高だ。

 


 

夏こそ寿司だなあなどと独り言をつぶやいてしまう。日本人に生まれて良かったと心底実感する。同じ日本人でも100年前に生まれていたらこんな贅沢は出来なかっただろうから飽食三昧の現代人に生まれたことは実にラッキーだ。

 



 

マグロのヅケや茹でた車海老、煮ハマグリの握り、最後にかんぴょう巻きか玉子の握りといった、いわゆる“仕事系”の寿司を堪能すれば私の寿司時間は無事に終了する。

 

満足感に浸って帰路につくわけだが、これで終わればイキな江戸っ子みたいな話である。でもそうはならないのが私の悪い癖だ。

 

ナゼかお寿司屋さんに行った後には口直しならぬ“口壊し”がしたくなってしまう。昔は寿司からのフィレオフィッシュという謎の組み合わせにハマった。今は寿司の後に「肉々しい味」が欲しくなる。

 

ウーバーイーツという私にとっての悪魔?のせいで帰宅して15分もすれば牛丼が私の目の前に鎮座している。後悔することは分かっているのに根っからのバカなのだろう。

 



でもこの頃は「特盛り」は頼まず「頭の大盛り」に留めている。随分と進歩したものである。特盛りを我慢したという勇者的判断のおかげで多分カロリーはゼロだ。

 

 

 

 

 

2022年8月3日水曜日

玉蜀黍…。なぜ漢字?


夏だ。トウモロコシが美味しい。気取った料理屋だとメニューに漢字で書いてある。「玉蜀黍」。普通は読めない。ナゼわざわざイヤミったらしく漢字にするのだろう。



 

まあ、そんなイチャモンを書いているあたりが私のオッサンたる所以である。暑いから世間のいろんなことに文句をつけたくなる。

 

銀座のクラブでコースターの裏にすらすらと「薔薇」や「檸檬」と書いて女性の気をひく作家さんの話を聞いたことがある。玉蜀黍を漢字で表記するのもそんな心理?かもしれない。

 

さて、最近はトウモロコシを使った炊き込み飯にハマっている。妙に美味しい。トウモロコシは炭水化物だからなかなかカロリッシュ?である。焼きそばパンみたいな話である。

 

なんだかヘンテコな書きぶりになってきた。軌道修正。でもカロリッシュってなかなか画期的な言葉だ。これからドシドシ使おうと思う。

 

娘との共同生活をきっかけに以前よりは自炊っぽいことに励むようになった。親として娘にコンビニ弁当やサッポロ一番ばかり食わせるのはダメだという真面目な動機で始めたのだが、この頃は単に自分の楽しみになってきた。

 

ネットに溢れる簡単調理を紹介する動画をやたらと見るようになり、その中でも超簡単路線のものをマネするようになった。ちなみに健康面は無視している。

 

「悪魔のバターコーン炊き込みご飯」というシロモノを真似してみたのがトウモロコシご飯にハマったきっかけだ。

 

炊飯器だけで完結するのが良い。基本は塩コショウにバターとコーンと鶏ガラだしである。コーンとともにいろんな具材を合わせる。組み合わせを考えているだけでヨダレが出る。

 



 

わが家からさほど遠くない月島エリアにウマいチャーシューで有名な店がある。「肉のたかさご」という精肉店だが、ここで買えるチャーシューが私好みなので、これを細かくしてコーンの相棒にしてバターをまとわせて炊いてみた。

 

マズいわけがない。コーンも偉大だが、やはりバターは神である。味付けは好みに応じて蕎麦つゆを入れるのもアリだし、隠し味にウスターソースを使うのも悪くない。

 

個人的に豚肉が大好きだからチャーシューがイチ押しだが、焼肉のタレにつけ込んだ牛肉を細かく投入してもステーキチャーハンみたいで美味しいかもしれない。

 



 

続いてはシャウエッセンを投入したバージョンと極上コンビーフを入れたバージョンである。どちらも間違いのない味だが、米2合に対して少しだけ具材が少なかったように思う。

 

シャウエッセンは一袋、コンビーフは一缶を使用したが倍の量にしたほうが贅沢感が増すような気がした。せっかくの自宅メシだから具材をケチってはいけない。

 

コンビーフはちまたで大人気の高級品を使ってみた。「十勝ハーブ牛と塩だけで作ったコンビーフ」である。


たかがコンビーフと侮れないウマさだ。買えば一缶でゆうに千円以上もするのだが、ふるさと納税で仕入れているので実質タダみたいなものだ。

 


 

これに限らずふるさと納税で手に入れた食材は惜しげもなく使ってしまう。実質タダだと思えば調理に失敗しても許せる。ちなみに我が家の米もすべてふるさと納税で入手している。

 

コーンばかりでは面白くないので、禁断の「たらこバター」にもトライしてみた。たらこだけでも良いのだが、シメジを手でちぎって投入してみた。とにかく包丁やまな板を使わないことが私のポリシーである。



 

その昔、北海道の安宿で昆布ダシとたらことバターだけの一人用釜飯が出てきたことがある。見た目は随分と安っぽく感じたのだが食べてびっくり、非常に美味しかった。そんな記憶をヒントに作ってみた。

 

たらことバターの相性はさすがの一言である。味があざとい?明太子より私は塩たらこ派なのでこの炊き込みご飯でとてもハッピーになれた。

 

器に盛ってから大葉と刻み海苔をトッピングして完成。いっぱしである。失敗しないように控えめに味付けしていたから醤油をちょろっと足して味を引き締めた。なかなかウマかった。

 



あれこれと自炊メニューを書き並べてみたが、どれも不健康な内容だ。私にとって自炊は健康のためというよりも一種のレジャーになりつつある。

 

わざわざ台所に立つ以上、野菜を煮たり魚を焼いたりするより、ガツンと口の中で衝撃を感じるようなカロリッシュな一品を作りたくなる。


きっとまだ若いのだろう。いや、単に味覚がお子様レベルなのかもしれない。