東京は空が狭い。都心に暮らしていると実感する。便利さの一方で自然界に背を向けたような気持ちにもなる。
なんとなく気取った書き方になってしまうが、私は月を見るのが結構好きだ。でもビルばかりの都会に暮らしていると意識して探さないと月は見つからない。
ヘタすると1ヶ月以上も月の姿を拝んでいないこともある。これって考えてみればとても淋しいことだ。
月の灯りには気持ちを鎮める効果がある。ぼんやり眺めているだけで何となくゆったりした気分になる。かのクレオパトラも月光浴が大好きだったそうだ。私もクレオパトラ並みである。意味不明でスイマセン。
世界中で昔から月は神秘の対象だった。月を神聖視するのは人間の本能みたいなものかもしれない。
日本では明治時代になる前までは月の動きをベースにした暦が使われていた。日本各地で風習やしきたりなどが旧暦を基準にしているようにアジアや中東あたりでも宗教的な行事などは月の満ち欠けを元にした旧暦で行われているそうだ。
いわば、文明の発達とともに自然の営みの原点である月の動きと人間の暮らしが疎遠になっているわけだ。実際に東京で暮らしていると月の存在自体を忘れる。
大昔の人にとって月の存在感は想像以上に大きかったはずだ。ビルも無い電気も無い時代、夜といえば月が支配するだけだ。高い建物がないからイヤでも目に入っただろうし、月の満ち欠けに対する神秘性は畏怖そのものだったことは間違いない。
人間の身体は大半が水分だから月の引力に影響を受けることはよく知られている。実際に出産件数や凶悪犯罪の発生件数などが満月の頃に増えるという話もある。
狼男伝説も満月の日に急にヒゲが伸びた男の話がルーツだという話を聞いたこともある。一連のヒトへの影響に関する科学的な根拠は分からないが、サンゴや海亀も産卵も満月の頃だし、人間だって影響を受けないはずはないのだろう。
最初に書いたように今の私の住まいは当然ながら空が狭い。ベランダから月を見ようとしても簡単にはいかない。わざわざ空が広い場所に見に行かないと無理である。
近所の隅田川沿いの遊歩道まで行けば少しは空が広がる。立ち並ぶタワマンのおかげで夜景は綺麗なのだが、月を見るためにはさすがに照明が騒々しい。都会の空で月光浴を望むのは無理がある。
思えばこれまで月をノンビリ眺めたのは旅先が多かった。東京みたいにビルがないうえに夜まで出歩くことが多いから必然的に月が目に飛び込んでくる。
この画像は随分前に函館で撮ったひとコマ。イカ釣り漁船の漁り火と月の灯りだ。幻想的な光景にしばし見とれた。最近は以前ほどイカが獲れなくなったようで漁り火がまばらになってしまったらしい。
ここに限らず海辺は月を拝むにはもってこいだろう。地上側は漆黒の海だから月の灯りが一層美しく見える。水面で揺れる月の灯りも幻想的だ。波の音をBGMに月光浴に浸れる。
山側や高原でも月の美しさは際立つ。月光のせいでうっすらと浮き上がる稜線や生い茂る木々のシルエットがどこか幽玄な雅趣につながる。
無信心な私は祈る気分にこそならないが、月をゆったりと眺めていると、子供の頃や若い頃の思い出に浸ったり、先に逝ってしまった人のことを思い出したり、どことなくセンチな気分になる。
センチな気分といっても、あくまで郷愁をそそるだけで哀しい気分にはならないのが月の灯りの不思議なところだ。ベタに表現すれば癒やしの灯りとでも言おうか。
電気照明の渦の中で生きているのが現代人の日常だ。やたらと暑い今の季節は室内にこもってカーテンで太陽光を遮断して照明を頼りに暮らしている。いわば人工的な灯りだけで暮らしている。
月の神秘性は占いのベースにもなるように誰もが何となくは理解している。そんな希有な存在の月だが、日常の暮らしでその存在や動きを意識しているかといえばノーだ。よく分からないがたぶんもったいないことだと感じる。
新月や満月など月の動きを意識したうえで気持ちの置き方や行動のヒントにしてみたら案外面白いと思う。
何かを始める時や大事な決断をくだす時、はたまた女性をクドくタイミングも新月や満月を意識してみたら案外バッチリだったりして。
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