2008年10月31日金曜日

空腹と味噌カツ

先日、口とお尻からカメラを突っ込まれた話を書いた。毎年恒例の自分なりの人間ドックのつもりだ。あとは近いうちに肺のCT検査をして、先日の血液検査と腫瘍マーカーの結果を聞いて一丁上がりだ。

口とお尻を撮影された日。当然空腹だ。なんてったって、前日の夜遅い時間から水しか飲めないし、当日は朝から大腸検査用に、全部出しているのだから、体重の割に感覚的にはカラッポ気分。

検査が終わったのは午後2時過ぎだったか。とにかく空腹。今回は小さいポリープも無かったので、気分は爽快。おまけに例の強力鎮静剤の作用が残っていてフワフワしている。

私が行くクリニックは、銀座1丁目、京橋の近く。昼間の銀座、それも1丁目付近は、私には普段用事のないエリアだが、このクリニックに行くときは、終了後に必ず「つばめグリル」に行くことにしていた。

行くことにしていた、と過去形で書いたのは、今回、こつぜんと店が無くなっていたから。ビルごと無くなっている。近くの交番で暇そうにしていた初老のおまわりさんにも確認した。

「つばめグリルがないんですけど・・・」

「あのビル、建て替えるみたいだよ」

見れば分かるのに、あえて交番に確認に行くほど私のショックは大きい。

その日の朝から空腹と闘いながら、「つばめ風ハンブルグステーキ」と「自家製ハムソーセージ盛り合わせ」をライス大盛りでビールとともにドカ食いしようと思っていたのに、恒例の計画が頓挫したのだから、まさに路頭に迷ってしまった感覚。

呆然と次なる計画を練ろうにも、鎮静剤の副作用で思いつかない。漫然と銀座中心部にむかってさまよいながら歩く。

洋食の老舗「煉瓦亭」を発見。でもランチタイム終了で閉まっている。わけの分からない中華屋でラーメンにチャーハンでは、この空腹が許してくれなさそうだ。もっとガッツリした食事がしたい!

結局、4丁目交差点まで来てしまった。3時近く、気の効いた店は閉まっている時間だ。

この時、ガッツリ系の食事ができる店の存在を思い出した。歌舞伎座側に向かって少し行ったところに名古屋味噌カツ専門店の「矢場とん」があるはずだ。

東京では入ったことがないが、名古屋に行く用事があるときには、アチコチ味噌カツを食べ歩く私だ。銀座に矢場とんがあるという知識だけは持ちあわせていた。

迷わず店を発見。まずは生ビール。つまみに特製土手煮をもらう。少し甘さが強いが生ビールが一気に無くなる。さて肝心の味噌カツだ。もともと、八丁味噌仕立ての土手鍋にカツを突っ込んで食べたらうまかったというのが、味噌カツの起源だ。やはりビールに合う。

鹿児島産黒豚鉄板とんかつとかいう大げさな一品を注文。やはり甘みがやや強めだが、スペシャルジャンクフードとして、食べていて楽しい味だ。ジュージューの鉄板につけ合わせのキャベツが敷いてあり、その上に味噌カツがでーんと鎮座している。最後までアツアツでおいしい。

キャベツが熱でシナシナと温かくなってしまうのは好みではないが、カツ自体が主役だから仕方ない。

総合的な感想は、朝から何も食べていない日の午後3時に食べるには最高といったところか。

味噌カツごときの話で、こんな分量の文字数を読んでもらってスイマセン・・・。

2008年10月30日木曜日

高額納税者の怒り

世界恐慌うんぬんの影響で総選挙は延期される公算が強まり、いま政界の焦点は減税問題。

減税といえるシロモノではない給付金方式が採用される見込みが強まってきた。

減税と呼べないシロモノと表現した理由は、給付金方式が選ばれそうな理由のひとつに「税金を納めていない人には減税だと効果が及ばないから」ということ。

分かりやすく言えば次のような理屈だ。



政権さん・・「減税してあげます」。

プータロー・・「でも、僕は税金なんか払ってませんから、何を減らしてくれるんですか」。

政権さん・・「税金を減らしたり、戻してあげたかったのに、そもそも納税してないのですか・・・」

プータロー・・「そうです。減税なんてちっとも僕には意味がないのです」

政権さん・・「じゃあ、面倒だからお金あげちゃいます。次の選挙はヨロシクね!」

まあこんな話だろう。

景気対策のため、何でもやる心がけは結構だが、問題は、今回の減税構想に相も変わらず高所得者差別が盛り込まれそうな点だ。

税金すら払っていない階層にまで、減税用の財源から給付金を拠出して、一定収入以上の高所得者は減税の対象外にするのであれば、こんな馬鹿げた話はない。

無収入のお年寄りなど一般的な社会的弱者であれば事情は違うが、近頃の所得税すら納めていない階層には、確信犯的無税主義者も少なくない。

週刊誌なども最近やたらと「無税族」なる言葉とともに様々な手法を紹介している。いわゆるサラリーマン法人を作った形にして経費をバンバン計上して所得を圧縮するとか、妻の趣味を副業として申告させてアレヤコレヤ操作して結果的に夫の税金を圧縮するとか・・。

合法であれば、とりたてて騒ぐ話ではないが、いずれにせよ「無税者」すべてが弱者だと思っていたら大間違いだ。

「無税者」にも減税の効果を与えるため、給付金をくれてやって、必死に高額納税している人間を放ったらかしにするようなら、モラルも秩序もあったものではない。

景気対策というからには、低所得者層に恩典を厚くしたって、消費を刺激しないことは誰にでも分かる話。高額納税者などの高所得者層にお金を使わせる発想が出てこないところが情けない。官僚支配国家の根本的な弊害だ。これに選挙を控えた政権与党の低級なポピュリズムが加わってトンチンカンな話になる。

高額納税者をないがしろにする国の姿勢が続いたら、前述のチンケな無税族どころか、国を支える貴重な法人、個人が当たり前の行動として国を捨てる。すでに人材などの海外流出問題が指摘されて久しい。そりゃそうだと言いたくなる。

高所得者層、高額納税者層のなかにくすぶる不満はいつ限界に達するのだろうか。

落語家の小朝師匠の元嫁みたいに狂ったように吠えまくる人が出てくるのも時間の問題だ。

2008年10月29日水曜日

おぐ羅と「M」

おでん屋さんが混雑してきた。先日、銀座の「おぐ羅」に運良くふらっと入れたが、夜の8時半頃だったので、ひと波さったタイミングのおかげ。

カツオが大好きな私は、この時期、おぐ羅の定番であるカツオのタタキをちゅうちょ無く注文する。この店の場合、カツオ自体の質はもちろんだが、タップリの薬味とタップリのポン酢で供されるのが特徴。

大げさにいえば、カツオの姿が見えないぐらいの状態だ。この理由は、カツオが無くなってからのお楽しみ。ポン酢と薬味がしっかり残った器にアツアツのおでんの豆腐を入れてもらえる。これが実にうまい。幸せ。

この日はカキフライやしめ鯖、カニミソも頼んで、おでんに移った。尿酸値を気にしていつもは遠慮するタマゴも食べた。

一週間後に最新の血液検査の結果が出るので、タマゴ系を心おきなく食べられるのも今のうちかも。

だいたい、半年に一度は血液検査をしている。いつものパターンは半年おきに節制と快楽が入れ替わる。

つまり、今度の血液検査で尿酸値が9.0とかになっているだろうから、しばし、意識して珍味系を我慢する。結構このあたりは真面目な私だ。すると、半年後の数値は6,8ぐらいまで下がっていることが多い。こうなったら、うっぷんを晴らすかのように珍味攻めが本格化する。毎年この繰り返し。
真面目とは言い切れないのかも知れない。

さて、おぐ羅でホロ酔いになると、よくあるパターンに陥る。地下にあるおぐ羅を出て、階段をあがって地上に出ると、目の前に勝ち組クラブ「M」がある。まさに目と鼻の先だ。数寄屋通りをはさんで真っ正面みたいな位置関係。

地上に出た私は、いつも「M」の案内係の青年に瞬時に見つかる。おぐ羅にいるときに雨が降り出したのを知らずに、地上に出て空を見上げていたら、彼の差し出す傘に視線はふさがれ、気付いたらMのソファに座っていたこともある。

この日はMではない店を覗こうと予定していたので、おぐ羅を出て地上に上がる際に、青年に見つからないようにコッソリ横道にそれようと画策。よし、ヤツの姿はない。ウッシッシと思ったら、彼はおぐ羅側のビルの横でサボってタバコを吸っていた。結局、Mに連行された。

随分、狭いエリアで動いている気がする。地下の店から目の前の地下の店へ。なんかモグラみたいだ。

2008年10月28日火曜日

不況と疎外感


先日、銀座で呑んでいて不思議な感覚を味わった。暑くもなく、寒くもない秋のまっさかり。多少空模様が良くなかったものの、大荒れというほどでもない。おまけに週の後半だったのに、妙に人が少ない。

並木通りや新橋寄りの路地路地は、賑やかにザワついていてこそ高揚感があるのだが、通りを歩いている人が少ないし、覗いてみた店もどこも普段より確実に空いている。

世界的な大不況が話題になって久しい。実際、この冬以降、様々な分野でかつてない事態に陥る可能性は強いだろう。

こういう暗い世相はまっさきに夜の世界に影響する。景気動向を端的に示すネオン街から活気が消えはじめている。

私が知っている範囲の狭い世界の話ではあるが、アチコチの繁盛店の繁盛ぶりも、確実に今年の春頃とこの秋では変化の兆しが見える。

冒頭で書いた「不思議な感覚」は、人の少ない銀座の街を歩いていた時にふいに訪れた。

「何やってるんだろう。バカみたいだ」。平たくいえばそんな感覚。普段から、まさにその通りなんだが、ご同類が大勢街に溢れていると、不思議とそういう感覚にはならない。ところが、人気が少ない街にたたずんでいると変な疎外感みたいな気分が強まる。

学生時代に、出勤するサラリーマンを横目に歌舞伎町あたりでヘベレケになってカラスにからかわれていた時の感覚に似ている。

変な疎外感は、当然、その元になった行動への自己反省につながる。

「こんなご時勢に夜ごと飲み歩いていられたら、それはそれでステータスみたいなもんだ」。ある人にそう言われた。なるほど、それも一理あるのだろう。

ただ、たとえ、余裕が人よりあったとしても、人様がおとなしくしているときに相も変わらずの行動をとっていることは、結構格好悪いことのように思えてきた(だいたい最近はビンボーなのに、なんでおとなしくし赤ちょうちんに行かないのだろう・・・)。

人に流されたくない、あくまでアマノジャクを良しとするのが私の基本姿勢だが、不思議と今回感じた感覚は、世間様の動きが妙に気になってのこと。

なんだか、おとなしくしはじめた世間様に置いてけぼりにされたくないような変な感覚だ。これも加齢が原因なのだろうか。それとも本能的にこれから起きるであろう、いろんなヤバさに警戒感を抱いているのであろうか?

思えば、私が感じたこういう心理が世の中の不況風を一層強くするのだと思う。好調な人はもちろん、せっぱ詰まっていない人まで、とにかくおとなしくジッとしていたくなる雰囲気。今の世の中にこの雰囲気が急激に広まっている。

儲かっている会社や人にしても、様子見、動かず、あたりが最近の風潮だ。この悪循環が急激に日本中を支配しているから、これから始まる不況は、相当深刻だと思う。

と、かなり暗いテーマに終始してしまった。ビンボー路線に切り替えてしまったら、「富豪記者ブログ」失格だ。

そこそこ元気を出して、相も変わらない雑文を続けていこうと思う。

でも、最近、確実にこのブログには掲載しない“非富豪的”な店や場所に出没する機会が増えてきた。

もっと頑張らないといけない。。。

2008年10月27日月曜日

荻窪で寿司


私の実家は杉並区の荻窪エリア。生まれてから20年以上をここで過ごした。親が住んでいる関係で、いまでも時たま顔を出す。

その昔は高級住宅街だったという話も、近年はラーメンの街として有名になってしまって台無しだ。

軍人でも大将クラスが住んでいたとか、終戦前後の昭和史を刻んだ近衛文麿の邸宅があったり、失脚した西武グループ総帥の愛人が荻窪夫人と呼ばれていたり、逸話はあれこれとある。私がこどもの頃にも井伏鱒二の散歩姿に遭遇したことがある。

らーめん屋だけでなく、朝からやっている北口駅前ロータリーの焼鳥屋も荻窪のイメージ低下に大きく影響している。なんともビミョーな存在だ。

さて、そんな荻窪で、とあるお寿司屋さんにお邪魔する機会があった。実家の親がちょこちょこ通ってる店で、興味シンシンで同行させてもらった。

南口からほど近い路地にまだ開店して1年ちょっと。店内はいたって清潔で、実に清々しい。カウンターだけの作りだが、15席分がそんなに窮屈ではなく配置されているので、小ぶりな店ともいえない規模。

付け場には、大将と二番手さんが立つ。偉そうな感じや横柄な雰囲気はなく、いたって紳士的。

若すぎる店主が切り盛りする最近ハヤリの寿司屋のなかには、店主の肩に力が入っちゃって、その力みが客席にも妙に伝わって居心地が悪い店が多い。その点、この店は、丁度良い空気感が特徴的だ。

全席禁煙というスタイルも、私にはちっともありがたくないが、飲み屋とは一線を画したいという店主の意気込みなんだろうから仕方ない。

とはいえ、飲み屋的な使いかたをするには実に良さそうな店だったのも事実。ばくらいや酒盗もちゃんとあって、カツオのたたきにも当然、生ニンニクスライスを用意してくれる。

決して、「酒ばっか呑んでないでオレの握りを食ってくれ」みたいな雰囲気ではない。

ネタの質は、お値段相応だろう。正直、オヤ?というものもあったが、最後にお勘定を知って納得。あの値段なら、特上品は揃えていられない。

鮮度の劣るようなものはさすがにないものの、味の濃さの面であと一歩といった印象を持った。もっとも、一度行ったぐらいで評価されたら店側もたまったもんじゃないだろうから、あくまで、この日、私が食べたものの印象です。

それでもサバを頼めば、ごく軽く締めた松輪モノを出してくれるし、総合的には充分楽しめる水準だと思う。心地よい雰囲気の中で気のおけない相手と盃を重ねるには最適だと思う。

聞くところによると、荻窪、西荻窪あたりには、最近、志の高いまっとうなお寿司屋さんがちょこちょこ登場しているらしい。

立地から考えて、当然、お値段は銀座あたりに比べれば安いだろうし、中途半端な街でテキトーな仕事をしても一見さんが多くてつぶれないよう店よりも確実にマシだろう。狙い目なんだと思う。そういうお寿司屋さんを近所に見つけられる地元の人がうらやましい。

2008年10月24日金曜日

ホテルのバー

いきなりだが、麻生首相の肩を持つ。「ホテルのバーは安い」。これは正しいと思う。

総理番のぶらさがり取材で、連夜のバー通いを突っ込まれた麻生首相が、少し逆ギレ気味に若い記者に対応していた。

高級料亭や高級クラブをハシゴしているのなら、庶民感情と合わないという批判も出てくるだろうが、ホテルのバーに通っているぐらいでアレコレ批判されるのも気の毒だ。

まあ麻生首相の場合、「幸い僕にはお金がありますから」と余計なことを言ってしまうので、庶民感情を逆撫でするのだろうが、最近の夜の動静に噛みつきたがっているマスコミの姿勢は気持ち悪い。

首相のぶら下がり取材は、慣例で若手記者が担当する。一流大学を出て難関の就職試験を突破してまだ間もないお子さまだ。

世論という目に見えないものをバックにステレオタイプの質問を繰り返すだけの存在だろう。老練の首相が文句のひとつも言いたくなる気も分かる気がする。

連日連夜、はしご酒的に行動している麻生首相だが、行先がデニーズとか、養老乃瀧とか回転寿司だったら、実に気持ちが悪い。だいたい、あの年齢、あのポジションで、そんなところに通うような人間だったら国の舵取りを託すのはコワイ。

取り囲まれている関係者の数や状況を思うとホテルのレストランかバーを選択するのは至極まっとうなことだと思う。

ホテルのバーってごく当たり前に過ごしていれば、街場の気取ったバーよりも安くあがる。一般人の私ですら困ったときにはホテルのバーを目指す。ことさらひゃあひゃあ言うマスコミの姿勢は共感できない。

いつの頃からだろうか。お大尽が世の中の忌避対象になったのは。その昔は、庶民とお大尽との住み分けはっきりしており、まさに「それはそれ」、「あちらはあちら」的な境界が厳然と存在していた。映画「三丁目の夕日」にしても、そういう当たり前を当たり前として描いている。

戦後民主主義とやらの成熟は、なんでもかんでも平等でなければ悪いことだと言わんばかりの風潮を生み出した。金持ちイコール悪いヤツみたいな変なイメージが強まった。

尊敬とか畏敬の念みたいな感性がすっかり乏しくなり、平準化、均質化ばかりが世の中の基準みたいになっている。

大臣の資産公開にしても、貧乏大臣は妙に嬉しそうに貧乏を自慢し、資産家大臣は逆に悪いことでもしたかのように小さくなっている。

なんか変な話だ。日本人の美徳としての謙虚さは大事だが、成功者とか資産家が正々堂々と胸をはれない社会って異常だと思う。

「ノブレス・オブリージュ」。高い階層にいる者は高度な義務を負うという西洋の考え方だって、ひがみ、妬み、やっかみに萎縮を強要される現状では、成り立ちようもない話だ。

しかるべき経歴、しかるべき収入、しかるべきポジションにいる人間が出入りする場所は、必然的にしかるべき場所になる。

こんな下らないことを問題視する必要はないと思います。

2008年10月23日木曜日

内視鏡の話

口とお尻からカメラを突っ込まれてきた。ちょっとしたMの気分を満喫した。定期的に受けている検査に今年も出かけた。

結果は、逆流性食道炎と胃のびらん、大腸の憩室ぐらいで、いたって健康。いつも1個か2個は取られるミニポリープは今回は無かったようで、私にとっては満足のいく結果だった。

この検査では、麻酔のような強い鎮静効果のある注射を討たれてから内視鏡検査が始まる。おかげでほとんど記憶がない。当然、つらさもキツさも感じないまま終わる。

本当にカメラを入れて検査してたのか、半信半疑になるときもある。その日のうちに画像データを見ながら説明してくれるし、なかなか便利な仕組みだ。

鎮静作用のある注射がクセになる感覚で、いくら抵抗しても、スーッと落ちていく。この落ちかける時の、なんともいえない浮遊感のような気分が実に心地よい。小1時間経って起こされたあとも、しばしフワフワする。

あまり喜んでばかりいると、加勢大周になっちゃうので気をつけよう。

ところで、今回、検査を受けながら、改めて「恥ずかしい」という感覚について考えてみた。

普段衣服で隠しているところをおもむろに見られると恥ずかしい。男も女も同じだ。

パンティーストッキングの上の方の厚みがあって色が濃くなっている部分を見られるのが恥ずかしいという女性は多い。私はその部分を見るのが何より嬉しい。やはり「見せるつもりのないもの」が見られることは恥ずかしいわけだ。

はだけた衣服を見られるのは恥ずかしい、下着が見られるのは恥ずかしい、下着の中を見られるのは恥ずかしいという段階的な流れがある。古今東西これは真理だろう。

だとしたら、内臓を見られても恥ずかしいはずだが、これはちっとも恥ずかしくない。実に不思議だ。

内視鏡検査で胃の中を見られることより、パンチラを見られるほうが恥ずかしいと思う人が大半だと思う。大腸をカメラで見られて、おまけに動画撮影までされても、恥ずかしいのは、お尻を丸出しにすることだけであって、お尻の中を見られていることは恥ずかしくない。思えば不思議な話だ。

いつのまにかヌード写真も、ヘア丸出しが当たり前になり、より過激に進んでいく。
当然、ヘアの次は肝心な所が解禁になり、そこまでいったら、その先はどうなるのだろう?

きっと内臓とかレントゲン写真とか、骨格の画像あたりがフェチの対象になるのだろうか。

2008年10月22日水曜日

伊香保。 岸権、木暮、福一


先日ふらっと伊香保温泉に行ってきた。快晴に加えて紅く色づいた木々を眺めて、しばし癒しモードに浸れた。

手軽に行きやすいことから、ここ数年、伊香保には頻繁に行っている。箱根あたりを選ばない点がアマノジャクチックだが、伊香保の良さは温泉の質だ。中途半端に水道水を湧かしているような宿は、どんなに風情があっても敬遠したくなる。

今回泊まったのは「岸権旅館」。400年以上の歴史を持つ老舗だ。館内に点在する湯は、いずれも黄金色の源泉掛け流し。これが実に濃い。点在する大浴場というか中浴場のサイズが大きくないのがマイナスポイントだが、温泉の質は間違いなく伊香保トップレベルだろう。

今回は広い次の間付きの特別室を選んだが、低層階に位置して眺望が良くないせいで値段は手頃。この部屋の場合、夕食、朝食ともに部屋食になるため、混雑しがちな週末でもノンビリできる。伊香保で凄いモノを食べようとも思っていないので、それなりの料理が出てくれば私は満足。

これまでアレコレと伊香保の宿に泊まってきたが、岸権旅館も再訪候補になりえそうだ。

私が一番好きな伊香保の宿は「ホテル木暮」。こちらも江戸時代からの老舗。大型ホテルだが、部屋や食事を選べば、かなりプライベート感も強まる。何より大浴場の規模が凄い。とくに黄金色の源泉が満ち溢れる露天風呂の広さと風情が関東屈指のレベル。

続いて「福一」も高レベルだ。全体的な質感では、伊香保でトップに該当する。料理の水準は伊香保随一で、オヤジっぽい宿ではあるが、正統な高級旅館。露天風呂のサイズが木暮に比べてかなりこじんまりしているので、私にとってはその点が惜しいところ。

思えば、ここ数年、濁り湯の温泉にやたらと惹かれるようになった。群馬・草津、兵庫・有馬、鹿児島・霧島、北海道・登別・・。ここ2,3年だけでも、濁り湯攻めが多い。

若い頃は、大浴場の風情だけが評価ポイントだったが、温泉成分がやたらと身体に染みるようになった昨今は、ついつい濃いお湯を求めている。これも加齢のなせるワザなのかも知れない。

濁り湯の温泉話はまた改めて書いてみたい。

2008年10月21日火曜日

政党の支持基盤


結局、いつになるか微妙になってきた衆院選だが、立候補者の動きは徐々に賑やかになってきた。

解散風が吹き始めると、風に煽られて走り出したらもう止まらないというのが永田町の常識のようだ。

私のところにも何だか、支持を求めるような案内が舞い込むようになってきた。一般的にDMとかで投票行動が左右されるものだろうか。よく分からない。

次回の総選挙、焦点は政権交代があるのかどうか。民主党単独政権もしくは自民党離党組との連立政権、はたまた自民党の民主党切り崩しだって起こりえる。なんてったって旧社会党と平気で組んだ自民党だけに、思わぬ秘策も出てくるかも知れない。

先日、民主党の立候補予定者の集会を覗いてみた。改めて感じたのは、民主党の支持基盤について。自民批判票と無党派層に近い有権者が核となっているのは確かだが、それ以外に見落とせないのが連合の存在だ。

連合がどれだけ一枚岩になっているか知らないが、日本中の労働組合の総本山だけにその存在は大きい。

ただ、民主党の看板である小沢党首、鳩山幹事長が持っている空気と労働組合の空気って妙に違和感を感じる。

同じ民主党でも、菅副代表には、旧社民連出身のため、労働組合とのタッグはピンと来るが、さすがに昔の自民党を支配していた豪腕小沢氏とスーパーリッチの鳩山氏には、労働組合のイメージがどうもしっくりこない。

労使関係という形の片一方の主役が労働組合であり、端的にいえば、もう一方の側から見れば相容れない関係にある。

オーナー経営者側の視点で物事を見る際には、当然、労働組合的発想と対立することが常だが、こういう観点で「民主党」を考えると、いまひとつ国民世論をリードしきれない現在の民主党の状況と支持基盤の関係は無関係でないような気がする。

労働組合を基盤とする意味において、かつての代表は旧社会党だ。「何でも反対」的なイメージに加え、いざ政権に取り込まれたら、自衛隊問題など、それまでの歩みを180度転換するような“英断”を連発。結果、消滅していった。何だったんだろう。

政権選択は国家経営を託すということであり、民主党の一部に残る旧社会党的な空気にどうにも違和感を覚える有権者は少なくない。

政権奪取に命運をかける小沢民主党の課題はこのあたりにもあると思う。

2008年10月20日月曜日

基本が大事

基本が大事。いきなりだが、これって最高に本質を突いている言葉だと思う。

仕事や遊び、人付き合い、どんな分野でも真理だ。男女間のまぐわいだって基本プレイ無しに変なプレイに走ったらまずいと思う。これについては言いたいことは山ほどあるが今日は割愛。

仕事を長く続けてくるとマンネリがやってくる。変わったことに挑みたくなって、基本をおろそかにして全部がうまくいかなくなるパターンは珍しくない。

地道な作業、コツコツした作業は大事。それこそが長続きの基本であり、会社を継続して運営していく上でも大事な要素だろう。

こんなことを書き始めたのは、某寿司店での経験がきっかけ。私はあくまで傍観者として見聞したのだが、どことなく「営業の基本」を考えさせられた出来事があった。

ホステスさんとの同伴といえば、ヒヒ親爺が和服姿のオネエサンと一緒にガハガハ言いながら食事をしているイメージがあって、若ぶっている私はあまり得意ではない。

そうはいいながら、デレデレした顔で同伴のお付き合いをすることも少しはある。

そんなデレデレした顔をしたある日のこと。
某寿司店に同伴で出かけた。店の大将は愛想良くオネエサンとも世間話。自然な会話の流れで、勤めるクラブの場所と名前を聞き出す。

その夜、寿司屋の大将からオネエサンの勤めるクラブ宛てに結構な量のちらし寿司が届けられた。

クラブのスタッフ一同は思わぬ差し入れに大喜び。意気に感じたママさんは、数日後、何人ものホステスさんを引き連れて、夜更けの寿司屋にお礼参り。以後、町内会的に付き合いが続いている。

なんてことなさそうな話だが、寿司屋の大将のちょっとしたマメな心がけが客を呼ぶ。簡単そうでなかなかできない心がけだと思う。

競争の激しいエリアでは、メディアに露出することで客の獲得を狙う飲食店は多い。ただ、メディアにノセられた客は一度限りで来なくなるパターンが多い。地元で地に足をつけて商売をしたい場合は、一時的な賑わいは逆効果だったりする。

営業の姿勢って、結局は人と人のアナログ的なつながりに負う部分が大きい。損して得取れではないが、やはり相手の目線になって、喜びを与えればこそ、こちら側にも喜びが帰ってくる。

お寿司屋さんの行動が今更ながら、そんな基本的なことを思い起こさせてくれた。

でも、あの晩のちらし寿司、お勘定は私についていたのだろうか・・・?

2008年10月17日金曜日

和食以外で・・

このブログを始めてから1年になる。改めて読み返してみたら和食の話ばかり。ウェスタンはまったく食べない人みたいだ。

言い訳がましく書くとブログに書きたくなるのが和食系なわけで、一応、西洋料理も食べる。

30代前半までは、逆に和食はさほど食べずに、バターやオリーブオイルがたっぷり使われた食事ばかりしていた。いまでも嫌いではないが、食後の感覚がどうにも和食系のほうが楽なので、コッテリ系はつい敬遠する。

先日、西洋料理を出しそうな店を訪ねたが、結局注文したのは、ウェスタンではなく、日本の洋食。

ビーフシチュー、ポテトサラダ、ホタテのソテー、ブイヤベース風リゾット、おまけにカツサンドまで食べた。

お店は銀座の水郷亭というダイニングバー。サントリーの系列みたいで、「響」とか「山崎」あたりを中心に揃えてある。

店の雰囲気は、店名の通り、流れる水を取り入れ、海の底のようなコンセプト。席の横に水槽なんかもあしらわれ、オヤジ向きではない。まあオヤジも素敵な女性と一緒なら許される雰囲気だ。

この手の雰囲気重視の店は、たいてい美味しくない意味不明のカタカナ料理を出されることが多いが、この店は真面目な料理が多かった。

奇をてらったものはなく、抜群とはいえないまでも、それなりに美味しい。酒を飲みながらカツサンドという組み合わせは変だが、この店のカツサンドは相当ウマい。再訪しても必ず注文すると思う。

店員さんのサービスもしっかりしていて、使い勝手は良さそう。

別の日、池袋のホテルメトロポリタン最上階のレストランが全面リニューアルしたと聞いたので、覗いてみた。

コース中心のレストランと夜景が楽しめるダイニングバーの2系統に別れており、ダイニングバーのほうに陣取ってみた。

席に通されてみて、「こりゃ穴場だ」と思う。妙にスタイリッシュで夜景がバッチリ。池袋でこのテの店を使う人は少なそうだから、混雑もしていない様子。

メニューは少し寂しい。まあ隣接のレストランと区別する意味で、フードメニューは数が限られているのだろう。つまみ系が少ない。

前菜盛り合わせ、フォアグラのナントカ、生ハムとフルーツみたいなもので、なんとか酒を飲む。前菜盛り合わせは、一口サイズのオードブル料理が8種類程度盛ってあったので、そこそこ目も楽しい。

メインになるような料理も5,6種類用意されていた。そこそこ雰囲気のあるところで飲んで食べたいといったノリなら使えそうな店だ。

いい調子で飲んでいたら、突如、ホテル内の宴会の流れだろうか、70歳ほどの男女が30人ほどドヤドヤ入ってきた。きっと同窓会の流れだろう。

わりとスペースに余裕のある店なので、団体は端のほうに固まっていたが、さすがに、じいちゃんばあちゃん大会は騒々しい。

まあ気取った店ではないため、ご愛敬といったところだが、こういうアクシデントがあるから池袋は池袋だ。もし勝負したいデートで使ってみても、じいちゃんばあちゃん大会と一緒になったら切なすぎるだろう。

池袋はやはり油断できない街だ。

2008年10月16日木曜日

パレスホテル

先日、皇居前のパレスホテルで昼食をとった。ランチビュッフェで年甲斐もなく食べ過ぎた。どうも私は満腹感の伝達が脳に届くのが遅いようだ。

以前、レントゲンで撮られた私の食道の画像を見て、医者がひと言。「良く食べるでしょう?」。どうも食道の広さが標準よりかなりあるようで、どんどん胃袋に食べ物が落ちていく。

思えば、急いで食べても喉とか食道に食べたモノが突っかかる経験がない。こういう人は満腹指令が脳に送られる前に胃袋にわんさか食べ物が入ってしまうらしい。困ったものだ。

さて、パレスホテルだ。ロビー階のカフェは、良くいえば昭和レトロ、悪く言えば古めかしい。皇居のお濠沿いに位置し、お濠に浮かぶ白鳥も眺められる。穴場です。

以前、九段下にある分家のグランドパレスのピラフをこのブログで一生懸命語ったが、こちらパレスホテルの食事も「古き良き時代の日本の洋食」を思い起こさせる。素直に美味しい。名物はローストビーフ。

今どきの外資系高級ホテルの気取ったビュッフェレストランに行くなら、この手のオールドファッション的ホテルのほうが私には満足度が高い。

ホテルマンもなかなか高ポイント。「古き良き時代のホテルマン」的なウェイターやソムリエが、さすがの目配りで客を快適に過ごさせてくれる。

ウェイターさん連中に中年が多いように見えたが、これってある意味安心できるポイントだ。

疲れちゃった雰囲気を醸し出されたら困るが、サービス業のプロとしての安定感は、年齢を重ねた人特有の空気になって、客を安堵させる。

私が何度も何度も飽きずに出かけているバリ島でも、「古いホテル」に魅力を感じる。
毎年新しいリゾートホテルが進出するが、出来たてのホテルのバタバタ感というか、落着きの無さは私にとって嬉しくない。

雑誌などはこぞって新しいホテルを特集するが、ハヤリモノではない古いホテルは捨てがたい。

サヌール地区の「バリハイアット」は、その点、穴場だ。スイートじゃないと客室が狭すぎるのが難点だが、広い敷地全体が歴史とともに苔むしている。咲き乱れる花や植物類の素晴らしさは、長い時間だけが築き上げられる芸術だろう。

系列の高級版「グランドハイアット」もさほど遠くないエリアに立地しているが、私にとっては古いほうがお気に入りだ。

闇雲に古いものが良くて新しいものがイヤだったら、ただの偏屈になってしまうが、私にとって、新しいものにありがちな薄っぺらさが見えてしまうと妙に居心地が悪くなる。

古いものにありがちな、怠慢や疲労感のほうには割と寛容なので、こればかりは性格だろう。

大げさにとらえると東京は、破壊と再生を繰り返すMっ気のある街だ。大震災や大空襲、乱開発などなど時代とともに、ぶっ壊されては姿を変えてきた。

古いものは、当然ながら無くなっていく順番が迫っている。私のハヤリモノ嫌いは、遠からず消えていくものが持つ「残り少なさ感」に惹かれることが原因なんだと思う。

2008年10月15日水曜日

東京ドーム

プロ野球のおもしろさは、シーズン終盤のこの時期に限るが、思えば随分と球場に足を運んでいない。

実家や会社でウン十年持っていた年間指定席を手放したことがきっかけ。後楽園球場から東京ドームに舞台は変わっても、プラチナチケットとかいわれて、貴重な扱いを受けていたのも今や昔。

一度手放したら、なかなか年間指定席は手に入らないという都市伝説のような情報に支配されていたが、あることがきっかけで、アホらしくなって継続契約を取りやめた。

簡単に手に入らないはずの年間指定席募集のDMが、わが社の関連会社宛に送られてきたことがきっかけ。

DMする際に、企業名が違ったので名寄せ作業から漏れていたのだろう。こっちは、年間席の中でも、より良い位置に移動してもらおうと何度も交渉していたが、「解約は滅多に出ない」と言われ続けて我慢していた。

にもかかわらず、ウチが持っていたレベルの年間席を平気でDMしているのだから、なんか釈然としない。中途半端なDM営業って場合によっては、失礼にもなるし、リスクがあることを痛感する。

さて野球だ。熱狂的なファンではないが、東京生まれで東京育ち、後楽園球場にしょっちゅう祖母に連れて行かれた私は、基本的に巨人ファンである。

とはいえ、最近の若手選手の名前や顔はよく知らない。

その昔、大ファンだったのが高田選手!現・ヤクルト監督だ。バットもグローブも「高田モデル」を親にせびった。

3回ほど夢にも出てきた。なぜか、いつも歩き疲れている私の横にスーと車が横付けされ、開いたドア越しに高田選手が「乗っていくかい」と声をかけてくれる夢だ。

いまの原監督が鳴り物入りで入団し、高田選手の背番号8をつけたことが気に入らなかった。そのせいで、原ファンだったことは一度もない。

私の祖母は、熱狂的な巨人ファンで、昭和30年代には後楽園球場のバックネット裏の年間指定席を持っていたほど。

物心ついて、祖母に連れられていった後楽園では、巨人が勝てば、試合後にお土産コーナーで何かを買ってくれたが、負けた日は非常に不機嫌になって恐かったことを思い出す。

当時、後楽園球場は日本ハムも本拠地にしていて、なんと巨人戦の年間指定席を買うとおまけに日本ハム戦の全試合チケットがついてきていた。

暇な休みの日など、誰もいない観客席で横になって熟睡したこともある。いまでは想像もできない。

王選手の800号ホームラン、暴れん坊・シピンの大乱闘など結構レアな試合現場を生で見ることができたのはいい思い出だ。

大リーグ選抜が来日する際には、たいてい読売新聞社が絡むため、東京ドームで数試合行われる。この場合、年間指定席オーナーには、事前に優先割り当てがあるので、極上席でサミー・ソーサ、バリー・ボンズを見ることができた。

そういえば、以前、草野球に精を出していた頃、深夜から明け方にかけて、6チームで東京ドームを借り上げて試合をしたことがあった。

眠くてしょうがなかったが、天下の東京ドームのマウンドに立った印象は、「キャッチャーが近く感じる」ということ。マウンドの傾斜は小山のようで、実に投げやすい。

でも、想像以上にキャッチャーの後ろを中心としたファウルグラウンドがだだっ広く、暴投したら、草野球の場合、目も開けられない展開になる。

いまでも、飲み屋で「昔はドームでも良く投げたもんだ」と遠い目を作ってシンミリ野球崩れのフリをして語ってみることがある。

しょうもない小ネタです。

今日はほんとに雑文になってしまった。

2008年10月14日火曜日

仮想旅行

北海道に行ってしまった。
というのはウソで、ある店で旅行したような気分に浸ることができた。

以前にも書いた銀座の「鮨・九谷」にふらっと立ち寄ったときのこと。たまたまお客さんが少ない日だったため、アレコレ珍味をオネダリすることができた。

ツブ貝を山ワサビで味わい、運良く遭遇した鮭児を刺し身でもらい、うっとりとした時間がスタート。

脂ののったブリの刺し身も山ワサビをタップリつけて食べてみた。ひと味違った旨味が感じられてご機嫌。いい調子でグビグビお酒にひたっていた。

「珍味さんは何がいらっしゃる?」。おカマのような私の問いかけに応えて登場したものが、私をすっかり旅行気分にさせてくれた。

「イバラガニの内子」が本日の主役。今年7月24日付、3月5日付の当ブログでもさんざん激賞した、私が最も好きな酒肴だ。

北海道でも、最近はタラバの内子こそあるものの、イバラの内子は入りにくくなっているらしい。そんな貴重な逸品と銀座で出くわすとは感激だ。

貴重品らしく、ちょこっとしか盛ってくれなかったのが残念だが、ちょこっとだからこそ有り難い味が強まる。

そのあと、ニシンの切り込みも登場。麹漬け塩辛のようなこの珍味も、北海道では定番だが、東京では珍しい部類に入るだろう。

そして鮭トバの白味噌漬けも出てきた。この3品を目の前に並べているだけで、一瞬、北海道に飛んできたような錯覚を覚える。
酒はどんどん進む。

尿酸値とか塩分とか血圧とか言う言葉を頭から振り払って、続いて注文したのが毛ガニ。

「九谷」では、質の良い毛ガニを常備していて、つまみでも握りでも、ほぐしたカニ身の上に黄金色に輝くカニミソをしっかりトッピングしてくれる。

普段はカニミソだけがトッピングされるのだが、この日はあまりにもイバラガニの内子に大げさに感激していたせいで、板さんが、内子までサービストッピングしてくれた。

単純な私は、こういうサービスに滅法弱い。男だろうが構わずプロポーズしたくなる。

食べずに眺めているだけでも何杯も酒が進む感じだ。

握りに移ってからも、私の仮装北海道旅行は続く。旬の生イクラの醤油漬け、海水漬けの極上ウニ、松皮ガレイと道内産の美味しさを堪能した。

しめ鯖、コハダも握ってもらい、相当にご機嫌になって、ネオン街のパトロールに向かった。

書いていて思い出した。「九谷」の特徴でもある極上ボタンエビを食べ忘れた!

また行かねば・・。

2008年10月10日金曜日

老ける仕事

仕事柄、税理士や公認会計士の方々と接する機会は多いが、この業界もご多分にもれず、高齢化は加速度的に進んでいる。

都道府県別に見ると、某県ではエリア内の税理士の平均年齢が80歳を超えるところもある。

終身資格であり、国税職員を勤めあげた、いわゆるOB組は、新規開業しても60歳ぐらいなので、必然的にお年寄りの比率は高まる。

税制の複雑化、税務行政のIT化もあって、正直、ついて行けていない人も少なくない。

それでも長年付き合いがある顧問先企業の日々の記帳代行を中心業務にしていると、「大過なく」過ごせている事務所も多い。

中小零細企業の事業承継問題が大きな社会問題になっているが、税理士の世界でも事情は同じ。高齢化だけでなく、国家資格を前提としているだけに、後継者難はより深刻。

税理士業務の場合、顧問先企業との継続的な取引が基本で、突然廃業するようなことになれば、クライアントにも大きな影響が生じる。

そのため、事務所ごと譲り渡すM&Aがここ数年、着実に広がっている。毎月毎月、顧問料という安定収入を持つ業務だけに、普通に業務展開している事務所であれば、譲り受けを希望する同業者は数多い。

いまどき、新規に顧問先企業を開拓するのは難しく、それならばスタッフごと受入れて規模の拡大を狙う事務所が多いわけだ。

譲り渡す側、すなわちリタイアする税理士にとって、“親族外承継”の寂しさは察するにあまりある。心血注いだ仕事に幕を下ろすわけだから、決意を固めたようでいて、いつまでも心は揺れ動く。

わが社は、戦後60年間にわたって税理士業界に密接に関係してきたため、こうした事業承継サポートのリクエストが数多く寄せられる。

やはり、M&Aを成功させるには、冷静かつ親身で経験豊富なサポーターが必要だが、わが社の担当者も、日々全国でさまざまな人間模様に接している。

テクニカルな話よりも人生相談的要素が必然的に強まるようで、担当者達は実年齢よりも確実に老けて見える。

はるかに年長の人生の先輩相手に、ともに泣き、ともに熱くなり、時には厳しくも接するうちに、彼らのオッサン化は加速度的に進む。

オッサン化が進めば進むほど、苦悩する税理士が癒されてハッピーになれるのなら、彼らのオッサン化はとても尊い現象だと思う。

税理士業界の事業承継サポートに取り組む担当者たちのナマの声を掲載しているホームページを紹介したい。

www.e-syoukei.com

サイト内の「ブログ」欄で、先行き不安に悩む税理士と日々全国で接する担当者達の肉声を掲載している。リアルな現場事情に関心のある方は、ぜひご一読を。

2008年10月9日木曜日

江戸の仇を・・・

「江戸の仇を長崎で討つ」。意外な場所で昔の恨みを晴らすといった意味で使われる言葉だ。

税務調査に関するニュースや話題に仕事柄ひんぱんに接するが、この世界にも冒頭の言葉のような現象が起こりえる。

反税団体の幹部が経営する会社とか財務省批判を展開した出版社などへの税務調査など、俗に報復調査と呼ばれるものは、昔から噂も含めてアレコレ言われている。

お隣韓国なんかでは、政権と不仲の大企業にしょっちゅう税務調査の洗礼があるようだし、アメリカでも、かつてクリントン不倫疑惑の頃、糾弾の急先鋒だった関係先に税務調査が続いたことで、報復調査の存在が指摘されていた。

今回、紹介するのは、その手の報復調査の話とはちょっと違う。報復と言うには意味合いが異なるが、過去の事例が未来に飛び火するパターンだ。

相続税の税務調査は、一定の資産家には高い確率で実施される。オーナー企業の創業者などは、まず間違いなくターゲットにされる。

おまけに調査が入った件数の80~90%から、平均で1千万円近い金額の申告もれが見つかるのが知られざる現実だ。

脱税の意図がなくても、そもそも帳簿などは存在せず、当事者は既に亡くなっている。また、故人の資産なのか遺族の資産なのか判然としないものもあるため、結果的に申告もれは簡単に発生する。

相続税の税務調査では、税務署は、故人に関する生前の資料を徹底的に分析する。ここでポイントとみなされているのが、故人が経営する会社に行われた過去の税務調査実績。

会社への法人税調査と、故人の相続税調査では、まるで種類が違うように思えるが、税務署が重視するのは「姿勢」という点。

生前、経営トップとして、会社の税金とどのように向き合っていたのかがチェックされるわけだ。

過去の法人税調査で、不正がいくつも見つかっていたり、不正まで行かなくても、エグイ節税スキームに精を出していたような実績があると、いざ相続が起きた際にも、“逃税DNA”が根強く残っているのではと色メガネで見られるわけだ。

もちろん、相続税を申告するのは、亡くなった本人ではなく遺族である。遺族の税金への姿勢が問われるのが本当だが、やはり、故人が税嫌いだった場合、生前に相続税逃れを考えていたはずだと疑われるわけだ。

会社への税務調査で、闇雲に税務署に抵抗したり、徹底して非協力を貫く社長さんもなかにはいるようだ。それはそれでポリシーなのだろうが、自分の死後の相続税調査においても、その姿勢が影響してくることは頭の片隅に入れておいたほうがいいかも。

なにかと厄介な相続税の税務調査。ご心配な向きは、日本で唯一の体系的な対応ツール「相続税調査のすべて」を参考にしていただきたい。

2008年10月8日水曜日

報道と税金

選挙が近づいてきたことで、永田町では、マスコミ対策が大きな課題になっている。

小泉郵政選挙の際のマスコミ報道は、自民党内の刺客騒動一色に染まり、民主党がどんなに立派なことを叫ぼうが、世の中の関心は自民党ばかりに向けられた。結果は自民党の歴史的圧勝。民主党はまるで放置プレイ状態だった。

選挙報道は公正中立が建前といえども、ワイドショーの脳天気な演出に、メディア映えする候補者が出てくれば、対立候補は当然不利。厳密には公正な報道が徹底されていないのがテレビの世界だろう。

もう15年も前の話になるが、テレビ朝日の報道局長が、非自民連立政権実現を目指す報道を指示した事件が起こり、マスコミの姿勢が厳しく問われた。その後も、政党の取り上げ方への政治的公平性は選挙のたびに問題になる。

近く行われる総選挙では、マスコミ的関心は、ただひとつ。すなわち「政権交代があるか否か」。

守る側、攻める側の対比となれば、映像上、攻める側に活気がみなぎるような印象を受けがちだ。変化自体を面白がる大衆心理もあなどれない。

おまけに混乱や失政、閉塞感や社会不安というネガティブな要素は、必然的にそれまでの政権への不満に直結する。現時点では、想像以上に民主党が議席を躍進させることは確実だと断言できる。

そうなったらそうなったで、マスコミは政権政党となった民主党をこき下ろしはじめる。経験不足、きれいゴト集団、寄せ集め・・。いまから目に浮かぶ。

権力監視というメディアの使命は大事だし、尊重されるべきではある。ただ、なにぶんにも巨大メディアには「是々非々」という姿勢がない。いつ、どのようなテーマであっても、旧社会党のような反対・糾弾こそすべてという路線に変化はない。

国の民度にも多分に影響する話だが、政権政党だってスター政治家だって、マスコミを敵に回すことはない。

俗にマスコミ(とくに巨大メディア)は第四の権力といわれ、四権分立なる言葉が使われることもある。そうであるなら、偏向報道の問題は、もっと深刻に考えないといけないし、業界の内輪で浄化を目指すだけでは済まない話だろう。

とはいえ、厄介なのは、この第四の権力があくまで民間の営利会社である点だ。税金で運営されるわけではないため、マスコミ人はもちろん公僕ではないし、利益が上がってこそナンボという価値観で運営されている。

当然、ショーアップによる高視聴率狙いは至上命題になり、政治的公平性にも問題が生じる。なんともグチャグチャした構造だ。

ところで、マスコミを疎ましく思っている国家権力サイドがあたためている伝家の宝刀がある。

広告費課税がそれ。景気にかかわらず、好調な企業の広告需要は安定している。逆に言えば好調企業ならこぞって広告費に儲けを投下する。ここに税金をかけようという発想だ。

企業会計の原則から見て、支出費用に更に税金をかけようというのは痛い話。もし実現すれば不要な経費かさ上げ用の広告支出は当然減ることになる。

一見、好調企業からの税金徴収に見えるが、広告費課税の真の狙いは、国によるマスコミ対策。広告出稿が減れば営利企業であるマスコミの懐に直接響くわけだ。

国としては、いざというときのために、この構想をチラ見せするだけでも、マスコミコントロールに有効だ。

実現させなくても、実現させる用意があると匂わせるだけで効き目はそれなりにあるわけだ。

なんか今日はまとまりのない話に終始してしまった。

2008年10月7日火曜日

組み合わせ

調味料は奥深い。当たり前のようだが、醤油や酢、ワサビとかショウガといった脇役の存在感って今更ながら凄いと思う。

誰かがエッセイで書いていたが、どんなにスペシャルな本マグロのトロだって、醤油がなければ食えたものではない。調味料はやっぱり奥が深い。

先日、カツオの刺身を、酢醤油と洋ガラシで食べた話を書いた。ショウガ醤油かニンニク醤油、はたまたポン酢などカツオだけでもアレコレとバラエティーに富む。

これとは別にカツオ好きな私が、最近教わったのが「エシャロット」攻撃。そんな西洋料理系の洒落た名前の薬味が、豪快なカツオのたたきに合うはずないという思い込みは一口食べてみて崩壊した。実に旨い。

味わいが広がるというか魚と野菜の旨味同士が妙に共鳴し合って飽きない味。カツオとエシャロットを一緒に食べる人は珍しくないそうで、知らなかったことを少し後悔。

薬味エシャロットがやたらと気に入ったので、他にも合うものはないか聞いてみた。

出てきたのは、クジラの尾の身。これ以上ないってぐらい相性がいい。もともと肉のような鯨の味わいを引き立てるには実に絶妙な組み合わせ。鯨の刺身といえば、カラシ醤油かショウガ醤油、酢味噌あえばかりだと思っていたが、意外な伏兵に感心した。

意外な組み合わせの美味しさは誰もが自分独自の好みを持っていることでもわかる。

私の知り合いにソースやきそばに大量の酢をかけて食べる人がいるが、味の好みは人それぞれ。人に嫌がられても結構旨い組み合わせはある。

私が高校生の頃、はまったのが、焼鳥のつくねとマヨネーズ。つくねのたれ味とマヨネーズが渾然一体となることで、テリヤキバーガー風味になって、いくらでも食べられた。いまだに食べたくなる。

醤油ラーメンに大量のお酢を投入する食べ方も一時期はまった。でも、みんな同じ味になるのがたまにキズだった。

お寿司屋さんで巻物を頼むときも、ちょっと変わったものを頼みたくなる。

カッパ巻きにあり得ないほどのすりゴマを混ぜてもらうとモゴモゴとした食感にキュウリがアクセントになって、変な満足感を味わえる。

穴子とタクアンで巻物を作ってもらうこともある。ポイントはアナゴのタレを入れないこと。といって白焼き穴子ではなく、濃いめの味で煮られたアナゴを使い、タクアンと(できれば千切り)ランデブーさせる。

しっかりした穴子の味とサッパリしたタクアンがケンカせずにうまく合流してくれて素直に美味しい。トロタクよりも美味いと思う。

話は飛ぶが、食べ物の組み合わせで意外に美味いのがクリームチーズをおかかと醤油で食べるパターン。

和食系のつまみが食べたいのにチーズしかないような時でも、一気に問題を解決する。

ホワイトソースのグラタンにワサビをいっぱい入れて混ぜ合わせても、意外に和風味になって捨てがたい味になる。

ヤギ刺しに酢醤油とか、貝類に山ワサビとか、いろいろと過去に食べた美味い組み合わせを思い出してきたが、だんだん、一般的な食材から離れていくので、今度改めて整理して書いてみよう。

2008年10月6日月曜日

難しい漢字


若い頃、職場の音といえば、ガーガーやかましく鉛筆削りがうなる音とピーヒャラわめく電話回線FAXの音だった。

当時、編集の職場で使う鉛筆は、洒落た細身のHBとかではなく3Bの太さ。データ入稿という便利な技があるわけでなく、印刷工場の人達のため、文字は、あくまで濃く大きく書くことが普通だった。

当時わが社の原稿用紙は、B5サイズの用紙に72文字しか書けないほど1マスが大きく、相当乱暴に書き殴っても、字が判別できるようになっていた。

ペンダコという言葉が死語になるのにともない、今や職場の音は、キーボードのカタカタ音ばかり。メールのおかげでFAXの音もたまにしか聞こえない。

若手記者の多いわが社の編集現場では、40代の私などは旧人類で、苦手なデジタル系の話が分からずに恥ずかしい思いをしょっちゅうしている。

旧人類記者として何が得意で威張れるのか考えてみた。漢字に強いほうだと自負していたのだが、キーボードカチャカチャ組に仲間入りして以来、すっかり漢字が書けなくなった。

「薔薇」とか「檸檬」とかをスラスラ書けたら格好いいと思うが、今の私には無理な注文だ。読むほうはそこそこ自信があるが、昔は書けたはずの漢字が随分と書けなくなってしまった。

檸檬や薔薇という字をコースターの裏にさらりと達筆で書いて見せて、ホステスさんを口説いている作家の話を聞いたことがある。案外、格好いい戦略かも知れない。

それなら、読むほうに自信がある私には、どういう戦略が成り立つだろうか?

料亭旅館あたりでは、墨で書かれた達筆のお品書きが登場する。あれをすべてサラリと読みこなして解説してあげたら、結構格好いいかもしれない。

でも、旅館にたどり着いているのなら、口説き終わっているだろうから、そんな場面でハッスルしても仕方ないかも。

そんなことで気を引こうと思うのなら、和歌や短歌、漢詩でもそらんじて見せたほうがよっぽど粋だ。

そっち方面の勉強でもしようかと急に思い立ってしまった。

ところで、冒頭に載せた写真は、とある場面で遭遇した料理のお品書き。

「とうもろこし」と読めたことを、やたらと大げさに誉めてくれた人がいたので、読むだけでなく書けるように練習するため撮影してみた。

いったい、私は何がしたいのだろうか・・。

2008年10月3日金曜日

止まり木と渡り鳥


夜の銀座をぶらついていると、ホステスさんが客を見送る場面をよく見かける。

客の姿が見えなくなるまで素敵な笑顔満開の女性陣。その後の表情はさまざま。客が見えなくなった瞬間にホッとする顔、次なる闘いに向け、表情をキリリと切り替える顔、ひどいのになると舌打ちも見かける。

見送りの際に後ろ姿に向かって舌打ちとかされてしまったら悲しい。私の場合も、アッカンベーとか、中指だけ立てられたりしているのかも知れない。

なかには、客を見送ったあとまで楽しそうな笑顔でたたずんでいる女性もいる。そんな店には行ってみたくなるが、さすがに飛び込みで店を開拓するような世界ではないため、いつも見て見ぬふりをして通り過ぎる。

夜のクラブ活動で新しいお店を開拓するのは結構面倒だ。仕事の関係者に連れられて行った店だと、たとえ気に入っても、紹介者にしょっちゅう会っちゃいそうな気がして、行かずじまいになる。

結局頼りは、女性陣の移動についていくパターンになる。

ホステスさんも違う店に移れば、旧知の客に案内を出す。そこにノコノコ渡り鳥のようについていくと新店が開拓できるわけだ。

大箱か小箱か、しっとり系かガチャガチャ系か、初めて行く店は、事前に様子が分からないから、知らない土地に旅行するような楽しさがある。

先日、8丁目のビルの地下に構える小ぶりな店に初めて出かけた。

小ぶりで感じのいい店を開拓したかった私にとっては居心地の良さそうな店。ノンビリ一杯やるには適度な感じ。ちょこちょこ顔を出すことになりそうだ。

この日は偶然、仕事上で少々縁のある民主党の代議士が一人ポツンと飲んでいた。二言三言あいさつ程度の言葉を交わした。

「こんな時期に、政権協議もせずにマッタリ飲んでいていいのかな」。さすがに口にしなかったが、あの種の人々は、隠れ家で飲んでいても、周囲にそんな目で見られるのかと思うと少し気の毒。

止まり木で見かけても、ソッとしておいてあげねば。

2008年10月2日木曜日

世の中が止まっている

ある知人の話。大卒後就職した大手企業で学んだ知識を活かして、会社の先輩とともに起業。必死に集めた自己資金数千万円を投資し、経営の中枢に。

起業した会社は順調に成長、上場を果たす。出資分に応じて持っていた株式も時価数億円に跳ね上がった。

これがわずか2,3年前の話。いま、彼の持株の時価は数百万円にまで低下。紙くず寸前。最近の金融引き締め策で、会社が急激に傾いてしまい、全従業員の3割以上をカットする方向にある。いつつぶれてもおかしくない段階。

数千万円が数年で数億円、そして数年で数百万円に下落。まさにジェットコースター。

誰もが思う。「あのとき売っておけばよかった」。まったくその通りだが、心血注いで情熱を持って経営の中枢にいれば、株価がピークの時点で売り払うことは考えない。

株価が下がりはじめた時点なら尚更だろう。盛り返すために必死にもがく。単なる投資での株所有なら、適当に損切りする発想も生まれるが、経営陣はそうはいかない。

世の中全体の閉塞感は、最近の株暴落、金融不安という流れの中で、より混迷の色を深めている。

ひと言でいうなら、世の中が止まっている状態。危なくない優良会社も、様子見姿勢に終始し、動きが極端に鈍い。危なっかしい会社は、あっさり退場宣告を受ける。

資金が動かなくなっているから黒字企業だって資金ショートで簡単につぶれる。どうにも息苦しい状態になっている。

さっきの知人は、起死回生の作戦をアレコレ考えている。もともとバイタリティーがあったからこそ、いっときの急浮上を経験したわけだから、それなりの道を見つけるのだと思う。

さて、オーナー経営者にとっては、ここで紹介した知人の話は切実だ。上場して莫大な利益をゲットするという図式とは違う小規模会社でも、トップであれば不測の事態にさっさと船を下りられないという苦悩は深い。

個人保証が当然のようについて回る会社経営だが、それ故にいざ会社がひっくり返れば個人資産もスッカラカン。

リーマンブラザースの経営陣のように、好調時に天文学的規模の報酬を受け取っているわけでもなく、そのリスクの重さは洒落にならない。

せめて好調時にしっかり報酬を取ろうにも、日本の税文化のもとでは、すぐに「過大報酬は損金不算入」だとか「定期同額で支払われていないと損金にできない」とか、なにかと厄介な事も多い。

個人資産を失うところまで引っ張らずに会社を清算したいと思っても、現実はそう簡単ではない。

敵前逃亡のように思われたくないし、自分が舵取りをしている事業だけに再浮上を信じて耐えているわけだから、ちょっとした資金繰りの担保などに個人資産をあてがう。個人資産をあてがわなければ、つなぎの資金が回ってこない。

この悪循環の中、立ち行かなくなったら、スッカラカンに借金まみれという結末を迎える。

低迷する会社をどう着地させるか、この課題に対する明確な答えほど難しいものはない。

再浮上すれば、経営者の努力は英雄視されるが、すべてが破綻すれば社会的に抹殺されるほどの痛手を負う。

近年、社会変化のスピード感はかつてなく激しい。迷い悩んでいるうちに手遅れになるケースも多い。

闇雲な努力か、死なばもろともか。この二者択一しかないと思い込んでいる経営者は多い。はたしてそうだろうか。

事業譲渡の手法が市民権を得て久しい。ひと昔前なら、それこそ、船長が船員を残して退艦してしまうようなネガティブイメージもあったが、そんなイメージが誤りであることが知られるようになってきた。

従業員の技能や経験をそのまま引き継げる新たな船長のもとに船ごと託してしまうことは、“前船長”の判断として間違っていない。

船員まで巻き込んで路頭に迷う結論になるのなら、すべてを譲り渡すほうが雇用維持の点でも正解だ。大局的観点に立った正しい決断だと思う。

後継者がいない、健康状態が不安、意欲がなくなった。事業を譲渡したい経営者の心理は様々だ。いずれにしても、手遅れにならないうちに譲渡を決断することは、ビジネスマン人生における最高の判断になりえる。

中小企業のM&Aをサポートする「NP事業承継支援協会」に寄せられる相談は着実に増加傾向にある。ただ残念なのは、手遅れのケースが想像以上に多いこと。

にっちもさっちも行かなくなった会社を欲しいと考える会社は常識から考えて存在しない。

「会社は売り物などではない」という考えはまっとうだ。ただ、いざ売ろうと考えた時点では、ドライに「売り物」という尺度で買い手はとらえる。

キラリと輝いているのか、ボロボロなのか、売り物を見極める買い手の目線は単純だ。

手遅れになる前にいかに手塩にかけてきた会社を磨いておくか。少しでも将来不安を持つ企業経営者であれば、今後こうした視点は必要になると思う。

ハッピーリタイアを成功させた人々は、手遅れになる前に事業の整理の仕方を研究し、しかるべき手法を講じている。

敵対的だとか友好的だとか、そのような単純な捉え方は、中小企業M&Aとはマッチしない。もっと切実で純粋な人間ドラマのような気がする。

2008年10月1日水曜日

親の気持ち


いきなり怪しいAVのような画像で恐縮です。

先週末は土曜、日曜ともに結婚式に呼ばれた。中年になると冠婚葬祭の葬ばかり増えるので、おめでたい席に呼ばれるのは有り難い。

でも2日連続だと、自分もまた結婚したくなるから困る。

久しぶりに若い人の宴席を眺めていて、自分の変化に今更ながら気付いた。どうも自分の意識や目線が親の立場になっている。

ひと昔前なら、新郎の衣装が似合ってないなあとか、新婦のスタイルが抜群だなあとか、新婦友人席に美人はいないなあとか、自分の時はこうだったのああだったのと、あくまで主役側の目線で眺めていた。

でも今回はどうも感じが違う。新郎新婦の生い立ち紹介とかを聞いていても、そんな短い時間でまとめられたら、親はタマンないだろうなと考える。

スライド上映(スライドと表現すること自体、大昔の人みたいだ)にしても、幼少期の画像をもっと入れて欲しいなとか、つい自分の思考が、娘を送り出す親側の前提になっていた。

クライマックスで新婦が親に手紙を読む。昔なら興味もなく聞き逃していたが、ついつい真剣に聞き入る。自分もいっぱしの人の親なんだと感じる。

隣に座っていたわが社の某役員。娘を持つ父親としてもらい泣きしている。でも奴の娘さんは1歳にもなっていない。大げさすぎ。ちょっと間抜けだ。

親側目線ついでに昔から思っていた疑問が頭をよぎる。披露宴の席次で親はどうして、一番端っこに置かれてしまうのだろう?

私の一度目の時も確かにそうしたが、もっとよく見える席にしてあげられないものだろうか。お客さんを招く側が特等席に座るわけには行かないのだろうが、隅っこでは少し気の毒。

今回、新郎の父親がギターを抱えてはなむけの歌を歌う場面に遭遇した。若い友人代表の熱唱より、さすがに情を感じる。いいものです。

やっぱり親がもっと前面に出ちゃっていい気がする、などと自分に言い聞かせる。

私もその日が来たら熱唱してやろうと決意した。隣に座っていたわが社の某役員と何を歌えばいいか相談してみた。結論はスンナリ出た。

松村和子の民謡風の大ヒット曲「帰ってこいよ」に決まりだ。

今日から三味線の練習をしようと思う。