「年相応に」。何気なく使っている言葉だが、考えてみればこれって一種の圧力みたいなものだろう。中高年やお年寄りから活力を奪いかねない怪しい言葉?かもしれない。
「いい歳してそんなことして・・・」等々、私自身も普通に使っている。自分の行動を反省する際にも自虐的に使ってしまう。
「いい歳」って一体いくつのことなんだろう。「もう中学生になったのだから・・・」「高校生にもなってそんなことを・・・」など“いい歳攻撃”は既に子供の頃から機能している。
中年にもなればどんな場面で何をしようとも「いい歳」という魔法の言葉で行動が邪魔される。「いい歳してそんなことも知らないのか」「いい歳してそんなに食べやがって」「いい歳してエロ動画を見てるのか」など例を挙げればキリがない。
わきまえや分別は確かに大事だ。でもそれを拡大解釈することで誰もが平均的かつ平凡に目立ったことをしないよう抑えつけるために「いい歳して」が使われる。
よく考えればバカみたいな慣習?だと思う。時にはもったいない事態を招く。せっかく“据え膳”にありつけるのに遠慮したり、大はしゃぎできる場面で渋い顔を作ってみたり・・・。ついでに言えば、綺麗な脚の大人の女性がミニスカートを履かないことや、たかだか30歳ぐらいでビキニの水着を選ばないことだって女性社会における“いい歳攻撃”の弊害だろう。
例えがヘンテコになってしまった。
もちろん、最低限の常識やわきまえのない人間に対しては抽象的な圧力で頭を抑えつける必要もある。放っておくと暴走するバカ(私もそれか)は多いから社会秩序を守る意味では一種の必要悪みたいなものだろう。
とはいえ、世の中の変化はめまぐるしいから昭和の感性で「いい歳」を捉えるとズレも生じる。たとえば72歳の男がキザったらしく若い女性を口説くことを想定してみる。サザエさんパパ・磯野波平だって50代半ばの設定だ。72歳といえば立派なジイサマ?である。
当然、いい歳して何をしてるんだ!と世間様は言いたくなる。でも「72歳の男」の部分を「館ひろし」に読み変えたらどうだろう。なんとなく納得してしまう。いや、許せてしまう。言うまでもなく館ひろしは72歳である。
他にもある。「70歳にもなって現場で犯人と格闘している」。そう聞くと凄いブラック職場みたいだ。これもどう考えたって「いい歳」の極みみたいな話である。ちなみに水谷豊は70歳だ。
なんだか話が迷走してきた。
先日このブログで50歳をゆうに超えてからドラムを始めた友人の話を書いた。50を過ぎてから趣味を持つのは良いことだなどと分別くさく書いてしまったのだが、そう考えるといくつになっても新しいことに挑んだり、若い頃と変わらない感覚でアレコレ奮闘することはちっとも特殊ではない。
四十の手習いなどという言葉がある。あれだって今や死語に近い意味合いだろう。あの伊能忠敬センセイだって江戸時代に50歳を超えてから日本地図を完成させるために行動を始めた。
寿命が激的に延びた現代では四十の手習いという言葉があること自体が中年の行動を無駄に制限する風潮につながっているように思う。
まったく話は違うが、かつてのキリスト教社会では同性愛が発覚すると死刑になることもあった。いまやアメリカのすべての州で同性婚は合法とされている。社会の常識や感覚ってそれほど大きく変化するわけだ。
我々が漠然と思っている常識やしきたりはしょせん根拠の曖昧なものが多い。極論すれば世界の常識になっている一夫一婦制だって、モテ男に対する非モテ男の単なる嫉妬が生んだ宗教的戒律を隠れ蓑に編み出された制度である。
よく考えれば、たかだか20代の若さで死ぬまで他の人に心変わりしませんと神様に誓わされるわけだから無理な話である。神様に誓ったのに離婚しちゃう人は地獄に落ちるのだろうか。だとしたら地獄は大混雑である。
そこまで書くといろんな人に叱られそうだから適当にしておく。
というわけで、私みたいな「いい歳」したオジサマがまだまだ色恋に励むのはちっとも特殊なことではない。若い女の子の尻を追いかけることだって何も悪いことではない。
壮大な自己弁護になってしまった。
最近の週刊誌を読んでいると中高年向きの死に支度の話ばかりが特集されている。一時期みたいに「死ぬまでセックス」みたいな下ネタ特集が減っていることがちょっと気になる。
そりゃあ今まで生きてきた年月より死ぬまでの年月のほうが遙かに短いわけだからセックスどころではないと編集者が思い直すのも無理はない。
でも、だからこそ楽しいネタをもっと前面に押し出してほしい。死んだ後のことまで必死に考えたところでその時は既に死んでいる。
刹那的と言われようとも元気でいる間は「煩悩バンザイ精神」で過ごしていたいものだ。