2024年11月20日水曜日

肉と肉と肉

 

元気なお年寄りはみんな肉をバンバン食っている。そんな話をよく聞く。50代の私が年々牛肉を重く感じるようになったから8090になってステーキを食べるようなお年寄りはそりゃあ元気なんだろう。

 

元気だから肉を食らうのか、肉を食らうから元気になるのか。ニワトリとタマゴの話みたいだが、きっと前者だと思う。私だって大別すれば魚より肉が好きだが、今ではすっかり牛よりも豚や鶏に意識が向かう。

 

付き合いで焼肉屋さんに行くことがある。私にとっては「卒業」したジャンルである。若い頃に一生分の焼肉を食べてしまったようで自ら進んで食べに行くことはない。今では焼肉屋さんに行くと体重が減るほどだ。

 

かといって、野菜をかじってチマチマしているわけではない。肉だって3枚ぐらいは食べる。チャンジャやキムチ、カクテキなどがあれば焼酎片手にダラダラと過ごすことはできる。

 

肉以外の一品料理を頼むのも焼肉屋さんの楽しみ方だろう。ビビンバや冷麺みたいなメニューは焼肉屋さんに行かないと出会わない。そっち系を楽しめば焼肉屋さんも結構楽しい。

 



 

銀座のお隣・京橋の小洒落た焼肉屋「牛印」での一コマだ。肉は赤身肉ばかり注文してヘルシー志向に努めたのだが、この店の名物はシャトーブリアンステーキサンドだと聞き及び注文してみた。

 

夕飯にサンドイッチですかい?って気持ちになったが、そこはさすがに上等なステーキ肉だから気にせずパクつく。肉のソースとパンの相性が良かったからかなり満足した。

 

お次は八丁堀にある「梨の家」というお店。いろんな部位の肉を少量から頼める。個人的には正直言ってちょっと気持ち悪い肉寿司も炙り肉寿司でも提供してくれるので穴場だと思う。

 




今どきは赤身だと聞いて頼んでもやや霜降り系の肉が出てきちゃうのが私にはツラいが、この日も特製コンビーフや生ダコの刺し身というニクいメニューを頼んでホゲホゲ過ごす。焼肉は同行者に任せてレモンサワーをグビグビ。

 

で、後半にカルビ麺を注文。カルビクッパに麺が入っている感じの一品で辛さはなかったので美味しく堪能。こういう料理があれば“焼肉でゲンナリ”という昨今の私の悪いクセも抑えられる。

 

牛より豚のほうが断然好きな私が嬉しかったのが赤坂で入った韓国料理屋さんだ。オヤジバンドのライブ前の最終練習の後にワイワイしに行った。

 

店の名前はハモニ食堂。赤坂と赤坂見附の中間だっただろうか。焼肉屋さんとは異なる本格的な韓国料理専門店だ。まるでワケのわからないメニューが並んでいるのが良い。画像付きメニューを見ると赤色の料理ばかりだが疲れている時にはこういうのも悪くない。

 




 

サムギョプサルはお店の人がカットして焼いてくれるから楽ちん。そのまま食べてもよし、ピリ辛ネギやサンチュやキムチ類をトッピングしても良し。牛肉とは違って重くないのも嬉しい。

 

他にもとてもウマかったのがプルコギだ。こちらは牛肉だが、牛丼屋で出てくるような出がらし系?の肉だからむしゃむしゃ頬張れる。もともと甘い味付けが好きな私だからプルコギは大好物とも言える。

 

もう35年ぐらい前に大好きだった年上の彼女にご馳走してもらったのが私のプルコギデビューである。当時の甘い思い出が甘い味付けと相まって胸キュンの美味しさである。意味不明ですいません。

 

この店はチヂミも非常に美味かった。海鮮チヂミはみんなでアッという間に平らげてしまい、画像の一切れは追加注文したニラチヂミにチーズをトッピングしたものである。

 

チヂミはどこでも目にするが、案外ウマいマズいが極端に分かれる料理だと思う。ここはオススメだと感じた。覚えておくつもりだ。

 

外食といえば、寿司か蕎麦かウナギか洋食屋ばかりになってきたから、時には肉中心のお店にも出かけて自分のパワーを少しでも上げるように頑張ろうと思う。

 

 

 

 

 

 

2024年11月18日月曜日

ハッピーな裏切り

 

今週末はわがオジサマバンドのライブが行われる。1年に一度の大騒ぎの日である。昨年のライブからアッという間に1年が過ぎた。時の経過に関する感覚は確実に老人レベルになっている。

 

今年で11回目のライブになる。会場は例年と同じ青山にあるレストランライブハウスだ。今年も100名ほどのお客さんに見つめられながら美声?を披露する予定だ。

 

バンド活動を始めたのは2012年の秋だった。同級生二人に誘われて何となくノリで始めた。その後は毎年趣向を変えてライブを続けてきた。コロナで2年続けて休演したが、その後も拡大発展!を続けている。

 



当初はアコースティックギター2人と私の3人体制でチマチマやっていたのだが、今年のメンバーはなんと総勢11名である。演目によって入れ替えはあるが曲によっては8人体制でのフルバンド仕様だ。随分と変わったものである。

 

2012年に初めて人様の前で歌った直後のこのブログを引用してみる。もう12年も前の話だ。

 

~~~日常生活の中で、あそこまで緊張したり、白くなったり、身体から変な汁(汗ではない。汁だ)が出てくる感覚を味わうことはない。結婚式の主賓のスピーチだろうが、大勢の人を前にした講演会の講師だろうが、美女との初めてのベッドインだろうが、この日の緊張に比べれば鼻歌モノだ。

でも物凄く楽しかった。極端に音程を外すこともなく、喋りのほうもそこそこ好反応をもらったので、バンド結成後初めてのライブにしては上出来だったと思う。寿命はチョット縮んだが・・・。

アコースティックギター2本とボーカルだけというシンプルな構成にしては、いろんなアレンジが出来たと思う。~~~

 

今も当時の異常なまでの緊張を思い出す。書いている通りで変な汗、変な汁?まで身体から滲み出るような経験だった。

 

12年前のその日はワンマンライブではなく対バン形式で他にも4,5組のバンドが一緒だった。そのどれもがプロ級に見えてビビりまくり、楽屋でも他のバンドのこなれた感じを前にオロオロしていた。今思えば懐かしく貴重な思い出である。

 

あれから十数年も経験を積んだわけで、その分のゆとりがあるはずなのだが、今でも本番1週間前ぐらいから妙な緊張感が押し寄せてくる。寝室の加湿器も常に最強設定で普段しないマスクも活用する。わりとアワアワした感じで本番を迎える。つくづく年に一度で良かったと感じる。

 



昨年もオープニングは頭の中が真っ白だった。経験値のお陰で一応こなれた感じで進行はしたものの最初の20分ぐらいはド緊張マックス状態が続いた。

 

メインボーカルというよりMCを無難に回すことが私の最大の使命?である。事前に作った台本をチラ見しながらメンバーの状態をさりげなく観察し、お客さんの反応に応じてMCの強弱なども加減する。

 

なんだか無駄な努力のようにも思えるが、そのあたりのサジ加減がお客さんを含めた会場全体の雰囲気を左右するのも確かだ。口幅ったい言い方になるが世の中の素人バンドの多くが、会場の様子など気にもせず淡々と自己満足的な演奏を披露するだけである。あれでは楽しくない。

 

素人バンドのライブには義理や人情で渋々来場してくれるお客さんが多い。そういう人々に「思っていた以上に楽しかった」と言われることが一番嬉しい。なんならその「ハッピーな裏切り」を目的に活動を続けているのかもしれない。

 

中年になってから何となく始めた趣味なのだが、気づけばどんどんスケールアップして今現在の私の人生における一大イベントになってきた。


いうまでもなく人生を楽しむために何より大事なのは遊び心である。大真面目に遊んでこその人生だ。その点、なかなか得がたいバンド活動という「真剣な遊び」を10年以上も続けていることはラッキーだと思う。

 

いつの間にか凄腕のメンバーも加わり本格的な体制になった我がオジサマバンドである。一昨日、全メンバー揃っての最終練習も無事に終わった。春頃のヨチヨチ練習に比べればまるで異次元の仕上がりになってきた。


お客さんに楽しんでもらうためには自分達が楽しまないことには始まらない。ド緊張にも慣れっこになっているはずだからビビリ気分も面白がって当日を迎えようと思う。

 

★ライブ当日、残席はまだ少しあります。覗いてみようというかたがいらっしゃったらお気軽にお問い合わせください

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年11月15日金曜日

家メシ、コーンスープ

 

どうも今年は体調を崩しやすい。最近もしっかり風邪をひいた。治りが悪いのも昨今の特徴かもしれない。これも寄る年波のせいなのか、はたまた寒い中、大学野球を観戦しまくったせいなのだろうか。来週は明治神宮大会があるから厚着で観戦しに行こうと思う。

 

そんなこんなで家メシの時間が増えた。なるべくコンビニメシは避けているのだが、怪しげなパスタやら菓子パンやらを見るとついつい買ってしまう。

 

ウーバーの利用頻度も増えている。モノグサぶりもすっかり板についた。近所の「なか卯」をよく利用するのだが、そばやうどんがふやけないで届くのが理由だ。その距離わずか200メートルだ。麺が乾かないのが嬉しい。だったら店に行けと叱られそうである。

 

自炊モドキもちゃんとしている。一から料理をするのは面倒だからたいていはレトルトに具材を追加するような簡易版である。パスタソースも最近はウマいレトルトがいくらでもあるからそれをベースにすれば結構満足出来る仕上がりになる。

 



まめに作るのが挽き肉ブリブリミートソースである。レトルトのミートソースやボロネーゼは肉感が決定的に足りないから挽き肉を大量に加えて味を調整するのが私の定番だ。

 

3人前ぐらいのレトルトソースに対して挽き肉を300グラムほど追加、その他、冷凍庫に常備してある刻みタマネギを200グラムほど投入、生のマッシュルームもドサっと加えて煮詰め直す際に野菜ジュースも200mlほど入れると一気に3人前のソースが5~6人前ぐらいのボリュームに変化する。

 

隠し味程度にケチャップ、ウスターソースも加えるほか、ハチミツをしっかり入れるのも私流の味付けだ。やはりミートソースは甘めの味が嬉しい。

 

ボロネーゼなどというカッチョいいパスタを知る前の日本人は甘いミートソースを嬉々として食べていた。私が子供だった時代は間違いなく国民全員が甘いミートソースを愛していたから「家庭のミートソース」は甘さが決め手だと信じている。

 



チキンライスを作る時も市販の素をベースにする。硬めに炊いたコメとチキンを大量に用意して、これまた冷凍刻みタマネギと生のマッシュルームを加えて適当に味を整える。ここでもウスターソースが味を引き締める。

 

最近気づいたのだが、この手の簡単メシを作る際には生のマッシュルームさえあれば何となくゴージャス感が出る。これって大きなポイントだ。缶詰のマッシュルームより美味しいし食感も良い。大ぶりにハサミでカットして大量に投入するとシティーホテルのカフェのメニューかと錯覚するほどだ。大げさですいません。

 

さて、そんな誰の役にも立たない話ではなく、今日の本題は最近のお取り寄せヒット商品についてである。家メシの中でもこれからの季節に欠かせないのが「コーンスープ」だろう。

 

人気商品「じっくりコトコト」シリースを長年愛してきた私だが、クノールの「贅沢野菜」シリーズを知って一気に宗旨替えをした。大量に購入してしまった。

 



ウソかホントか毎年いまの時期しか販売しないらしい。「1年に1度だけ」というネット広告に惹かれてまんまと?買ってみた。3個セットだと割引らしいから15個入りを3箱注文。1袋あたり200円以上はするからインスタントのスープにしては生意気な値段である。

 

で、飲んでみた。とくに感動するほどでもなかったのだが、2口、3口と飲み進むうちに何だか妙にやめられなくなった。ちゃんと美味しい。後味が他のスープとは確実に違う。そう感じてしまうともうトリコである。単純な私は簡単にこのスープのファンになってしまった。

 

まだ42袋ぐらい残っている段階で追加注文までしてしまった。母親の家にも送った。おまけに同じシリーズのトマトスープとかぼちゃスープまで頼んでしまった。クノールの広告担当者が私の行動を知ったらほくそ笑むのは間違いない。インスタントスープにウン万円を払う私は富豪みたいである。

 



で、毎日のように飲んでいる。たいていの粉末状スープはお湯100mlで溶かす仕様だが、こちらは150mlで溶かしても充分に濃いのが嬉しい。素材の味がしっかり感じられて人工的な雰囲気ではない点も有難い。

 

広告では「売り切れたら来年まで飲めない」とさかんに煽ってくる。とはいえ、今も私のスマホに頻繁に表示されるからまだしばらくは買えるはずだ。調子に乗って再度注文しないように気を引き締めている。

 

コーンスープ好きの人なら一度は試してみる価値はあると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年11月13日水曜日

クエ鍋 春菊は敵


一気に冷え込んできたから熱燗を飲む機会が増えた。ぬる燗や人肌燗といった中途半端な温度よりもアッチッチ状態が好みだ。なんなら徳利が持てないぐらいが嬉しい。もともと猫舌のくせに燗酒だけは熱ければ熱いほど好きだ。

 

どうせ5分も置いておけば冷めてくるわけだから始めはチンチンが良い。ちびちびっと口に含んでも身体中に熱い酒が染み渡っていく感じが堪らない。これからの季節ならではの楽しみだと思う。

 



真っ当なお店なら湯煎で燗をつけるから注文から提供まで時間がかかるのが難点だ。おかわりをするタイミングにも神経を使う。そのせいかちょっと緊張感?を伴うのも個人的な熱燗あるあるである。

 

熱々の酒といえばヒレ酒が思い浮かぶ。数え切れないほど味わってきたのにいまだに謎なのが独自の儀式?である。客前でアルコールを飛ばすために火を付けるのはナゼだろう。味に違いはあるのか、酔い加減に差があるのか、サッパリ分からないままウン十年である。

 

ちょっと調べれば理由は分かるのだろうが、知りたいような知りたくないような気持ちで今に至る。思えば世の中には「そういうもんだ」と何も気にせず放置している謎の習慣は他にもあるはずだ。まあ、いいか。

 

さて、冬の訪れとともに食べたくなるものがいくつかある。白子、あん肝、カラスミといった珍味を始め、おでんもその代表だが、鍋物もやはり冬には欠かせない。

 

私は根っからの野菜嫌いなのだが鍋だとどさくさ紛れに少しは野菜も摂取する。でも白菜の芯と春菊だけは何があっても食べたくない。この習慣は死ぬまで変わらないのだろう。

 

春菊は他の具材の邪魔をする存在だと思う。色は出ちゃうし味はマズいし、個人的には親の仇ぐらい嫌いだ。すいません、舌が子供レベルなんだろう。

 

野菜が特に好きな人は別だが、アレをウマいなあと思って口にしている人はどのぐらいいるのだろうか。料理人も単純に彩りのためだけに春菊を最後にポンッと乗っけてるだけだと思うのだが違うのだろうか。

 

春菊ファンの皆様、ごめんなさい。

 

さて、鍋料理の中でもアマノジャクな私が冬になると食べるのがクエ鍋である。東京ではあまり見かけないのが好ましい。人様にご馳走する時に「へー」って言ってもらえるのも良い。

 



旨味の強いデカい白身魚だが、結構な時間煮込んでしまっても身がバサバサにならないのがクエの魅力の一つだ。たいていは熱燗でほろ酔いになっているから鍋から引き上げるのを忘れがちになる。慌てて鍋から回収してもちゃんと美味しい。

 

魚なのに身肉のコシの強さ?が特徴的だ。フグよりも野性味を感じて食べ応えがあるのが嬉しい。普通の白身魚を想像するとまったく別モノの力強さがある。

 



 

都内各地にある土佐料理の老舗「祢保希」が冬の名物として提供しているので、地の利のある銀座店で堪能することが多い。クエの刺し身や唐揚げ、カツオのタタキあたりを肴に熱燗を楽しみながら鍋を待つのがお決まりのスタイルだ。

 

いつも雑炊が出されるタイミングでは満腹になっているのが残念無念である。極上のダシで味わう雑炊なのに一口ぐらいで断念しちゃう。そのくせ数時間後にペヤングを食べたりするから、まさに愚の骨頂だろう。

 

鍋を美味しく味わうために大事なことは飲みすぎないことと春菊を入れないように気をつけること。これに尽きると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年11月11日月曜日

過去モノ

 また熱を出して寝込んでしまった。健康管理を今まで以上に真面目にやらないと不便で仕方ない。というわけで今日は過去ネタを一つアップします。


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/10/blog-post_5.html







2024年11月8日金曜日

人として


人として。武田鉄矢の歌にこんなタイトルがあったかと思う。最近、自分のボケっぷりが人としてマズいと感じる。とにかくよくモノを忘れる。ボケてきたのか、注意欠陥障害なのか、我ながらちょっと怖い。

 

この下半期で財布を忘れたというか、落としたのが2回。財布にはカード以外に保険証や家の予備のカギ、免許証、キャッシュカードなど貴重品が勢揃いしている。それを平気で置いてきちゃう神経が尋常ではない。

 

一度目は某シティホテルでのこと。喫煙専用室にいたときにナゼか財布を置きっぱなしにした。30分ぐらい経ってから気づいて戻ったのだが当然のように見当たらない。ダメもとでホテルのフロントに行ったら運の良いことに親切な人が届けていてくれて無事に手元に戻った。

 

喫煙室には3、4人がいたし、私が去ったあとにも入れ替わりはあっただろうから何とも危なっかしい話である。フロントマンは届けてくれた人が誰だか分かっていると言う。そのくせ御礼したいから繋いでくれと頼んでも「無理です」の一点張り。

 

だったらお礼を包んで渡すからその人に届けてくれと言っても「無理です」と繰り返す。個人情報だか何だか面倒な時代になったせいで感謝すら伝えられない。せめてもと私の連絡先をフロントマンに託したが、まるで恩人さんに「そっちから電話してこい」みたいな流れになってしまうわけでマヌケ極まりない。

 

当然、恩人さんから連絡が来るはずはなく、財布が戻った嬉しさと御礼すら出来ないもどかしさで頭がおかしくなりそうだった。全て自分のせいである。

 

で、その後は財布を無くさないようにかなり神経質に過ごしていたのもつかの間、先日はタクシーの中にしっかり置き忘れてきた。バカ丸出しの自分が悲しくなった。

 

その時は、尻ポケットに入れていた財布を座る際に邪魔になって座席にポンと置いた。目的地に着いて料金を払う際にポケットの小銭で賄えたので財布を手にせずそのまま降りてしまった。不注意極まりない。

 

降りてからわりとすぐに財布を置き忘れたことに気づく。領収書ももらっていない。途方に暮れたが運よくネット配車で呼んだタクシーだったのでネット上の履歴からタクシー会社の連絡先を見つけて電話した。


その日は日曜だったせいか、なかなか電話が繋がらなくて慌てる。次のお客さんが拾ったらネコババされちゃうかもしれない。血圧上昇。

 

ようやく電話が繋がり、タクシーに連絡して折り返すとのこと。ところが10分ぐらい折り返し電話は来ない。冷や汗が5リットルぐらい出た後に連絡が来た。運転手さんが財布を回収して私が降りた場所に戻ってきてくれることになった。

 

戻ってきてくれた運転手さんによると私の次に乗ったお客さんが座席に置きっぱなしの財布を見つけてくれたそうだ。お礼すべき相手はそのお客さんなのだがどこの誰かもわからない。成り行き上、運転手さんにお礼を渡そうと思ったのだが、財布にはナゼか万札しか入っておらず仕方なく運転手さんに1万円を渡すハメになった。

 

財産価値?としてはかなりのものだから謝礼に1万円は安いのだろうが、私にとっては謎の出費になってしまった。自業自得である。

 

財布だけでなく、クルマの鍵やタバコやライター、羽織っていたセーターなど、かなりの頻度で私はあちこちに置いてきてしまうことが増えた。昔はそんなことなかったから歳のせいだろうか。日々、緊張感のない暮らしをしているせいでフヌケになってきたのだろうか。

 

で、紛失した際に音がなったりGPSで場所を教えてくれる便利グッズがあると聞いていつものアマゾンで買ってみた。これはこれでイザという時に多少は役に立つのだろうが、置き忘れ自体を予防するわけではない。やはりチェーンで財布と身体をつなげておくとか、腹巻きを使うようにしてそこに常に入れておくとか、原始的な対策をしないとダメかもしれない。

 



それ以前に緊張感を持った暮らし方を今一度取り戻す努力をすべきだろうか。一応まだ還暦前なのにこんなテーマで悩むこと自体がヘッポコである。

 

3日前の食事も覚えていないし、ヒドい時には半月前ぐらいに会った人のことも忘れている。中高年ってこんなに脳みそがシャバダバなのかいつも疑問に思う。

 

一昔前に渡辺謙主演の若年性痴呆を描いた映画を見たのだが、その主人公も日常のちょっとしたことをうっかり忘れるところからどんどん悪化していく。人ごとのように見た映画だったのだが、最近は結構まじめに怖さを感じ始めてきた。

 

仕事などで想像を絶する大ポカをやらないか不安だ。気をつけようと思う。

 

 

 

 

 

2024年11月6日水曜日

ラーメンは太るのか


夏になると痩せる人は多いが、私の場合は夏に太りやすい。暑さへのイライラでヤケ食いをするのか、水分過剰の水太りかは分からないが、これまでの人生で夏痩せを経験したことがない。

 

夏に太ると書いてみたが、考えてみれば1年中太っている。体重計に乗らないのが悪いのだが、乗ったら乗ったで表示される数字に愕然としてその日一日メンタルが使い物にならない気がして避けている。

 



 チャーシューがテンコ盛りのラーメンにミニチャーシュー丼まで付けてしまうあたりが私の年齢的にはカロリー過剰なんだろう。これは職場近くの喜多方ラーメン「坂内」で食べた。空腹というよりちょっと小腹がすいたぐらいでこんな注文をしちゃうからダメダメである。

 

先日テレビで先にチャーシューを食べてから麺を食べれば太らないという実験を見た。結果はその仮説通りだったのでちょっとビックリである。はたして先に食べるチャーシューの量はどの程度か、チャーシュー後にどのぐらい時間を置いて麺を食べればよいかは分からなかったが、チャーシュー好きの私には朗報だった。

 

というわけで、太らないためには上のラーメンのようにチャーシューはテンコ盛りの必要がある。2,3切れのチャーシューしか載ってなかったら、先にチャーシューを食べちゃったら最悪である。口の中には常に麺とともに肉が混ざっていて欲しい私にとっては麺だけ大量に残った状態は苦行だ。

 

チャーシューだらけラーメンを楽しめる店をキチンとリストアップし直そうと決意した次第である。

 

ところで、一般的にラーメンは太る食べ物だと認識されている。実際のところは不明だが、某ネットニュースの記事では、年間600700個もの即席袋麺を食べるその道の専門家が太ってもいないし健康状態に問題がないと書かれていた。これも朗報である。

 

その人は子供の頃に「中華三昧」だかの高級袋麺に感激したことをきっかけにウン十年もの長きにわたり即席袋麺ばかり食べているそうだ。まさに勇者である。サッポロ一番を時々無性に食べたく私も勇気づけられた。

 

カップ麺と袋麺だとナゼか袋麺のほうが高尚な?感じがする。鍋にお湯を沸かすという手間をかけるせいだろうか。昨今何かと問題になっているマイクロプラスティックが健康を害するという点でも袋麺のほうが身体に良いイメージがある。

 

とかなんとか言いながら先日は超ジャンキーなカップ麺のアレンジに挑戦してムホムホ喜びながら平らげてしまった。これまた私の年齢で飛びつくようなシロモノではないのだが、私の体内に染み付いているジャンク魂に火がついてしまったから仕方がない。

 



カップヌードルのシーフードバージョンがベースだ。熱湯を入れる代わりに熱々のコーンスープを入れて麺がほぐれたら生卵を投入して混ぜ混ぜする。仕上げに粉チーズをドバっとかけて完成だ。

 

最初は正直言うと失敗した。2回目以降は上手に作れるようになった。何度も作っていることを白状したみたいで恥ずかしいのだが、せっかくなら満足感にひたりたいから美味追求に妥協はできない。

 

失敗の原因は味がしょっぱ過ぎたことだ。改善策はコーンスープを投入する前にカップ麺のスープの元。すなわち乾麺状態の上にどっさり載っている粉末を捨てることである。

 

具は残したいからザルを用意して蓋を開けたシーフードヌードルを逆さまにしてザルに粉末と具を落とす。ザルには具だけ残るのでそれをカップ麺に戻してからコーンスープを投入する。コーンスープは熱々にしないと麺がほぐれないから注意が必要だ。

 

この一手間のおかげで俄然マトモな味になった。生卵を落として混ぜることで味がまろやかになる。ちゃんと美味しい。粉チーズをぶりぶりかけることでカルボナーラ風ラーメンになるのだが、粉チーズを追加するかどうかは好みが分かれるかもしれない。

 

問題は食後の「重たさ」である。若者なら平気だろうが、オジサマの弱々しくなってきた胃袋には結構ズシンと来る。普段から胃もたれしやすい人にはオススメできない。私自身、30年前なら週に5回ぐらい食べられたかもしれないが、今ではそんな勇者的行動は出来ない。

 

きっとカロリーも爆上がりだろう。チャーシューを買ってきて先にそれを食べてからこのアレンジヌードルを食べれば太らないのだろうか。ちょっと怪しい…。

 

 

 

 

 

2024年11月1日金曜日

ジェンダーとやら

 

国連が男子を系統とする天皇制にイチャモンをつけたそうだ。お口アングリみたいな話である。

https://news.yahoo.co.jp/articles/cc14db39775c7eb1f6d24b5d24cb0385ae1dd8d2

 

ジェンダー問題は私が簡単に述べられるようなシロモノではないが、「なんでもかんでも男女は一緒だ」という昨今の行き過ぎた風潮には正直ウンザリする。

 

そりゃあ女性蔑視がいけないことは誰でも理解できるが、蔑視でも差別でもなく区別することは当たり前の話だ。そんな極めて単純な話まで否定されるような空気が気持ち悪い。

 

男子を天皇と定める皇室典範そのものに堂々と是正勧告を出す国連の組織ってどんな面々が集まって議論しているのだろう。偏屈な世間知らず達がそれぞれの国の歴史や背景も考えずに得意になってスットボケた議論をしている絵が浮かぶ。

 

いざ戦争や紛争になっても解決する力も意思もないような組織が国連だ。そういう能力がないならせめて途上国支援に力を尽くせばいい。日本の天皇制を「女が除外されてるからダメだ」とか言ってるヒマがあったらもっとマシなことを考えて欲しい。

 

日本は長い間、国連分担金負担率が実質世界一だった。アメリカは滞納の常連だから日本が中心的なパトロンだ。にもかかわらず、常任理事国にはなれず、おまけに第二次大戦の敗戦国ゆえにいまだに国連憲章では「敵国」と規定されている。

 

実にバカみたいな話。がんがんカネを払わされてるのに「敵」のままで、おまけに国の形、国の基本である天皇制にまでイチャモンをつけられる。かなりの額の税金を払っている側とすればこんな組織にドカドカと金をつぎ込む政府の神経が理解できない。

 

シロウト的意見で言えば「やめちまえ」である。国際捕鯨委員会だって日本は脱退した実績がある。脱退が簡単でないならせめて分担金の支払い停止ぐらいの強硬姿勢を見せればいい。今回の件でも一応政府は国連に抗議したそうだが、抗議するついでにそのぐらいの強硬策をチラつかせたっていい話だと思う。

 

別に私は天皇制大好きの国粋主義者ではない。あくまで日本の歴史や文化、風土を知らないヨソの国々の面々によるナンチャラ委員会が平気でトンチンカンなことを言ってくることを苦々しく感じるだけである。

 

男女平等は大事だが、文化的かつ歴史的経緯を無視したら単なる暴論になる。国技である相撲だってそうだ。女性にもチョンマゲを結わせてオッパイ丸出しのまま裸にマワシ一丁で男性力士とがっぷり四つに組めという話になってしまう。

 

男女平等を考える際には、基本的に生物としての違いや役割の違いを前提にしないとヘンテコな話になる。なんでもかんでも平等なら、たとえばスポーツの全種目も男女が一緒にやらないとおかしいという理屈になる。

 

重量挙げで女性が男性に勝つわけがないから性別を分けて競技している。それを女性差別だと騒ぐ人はいないわけで、すべての分野にそうした区別を前提にしないと話がややこしくなる。

 

男女平等だから女も力仕事をやれ、男女平等だから男もOLと同じ制服を着ろ、みたいなバカげた話を本気で語るヤツが出てくる。実際に喜劇みたいな話を大真面目にしているヤツはいっぱいいる。

 

SDGsだのジェンダーだの、昨今飛び交うコトバは私に言わせればウサン臭いの一言だ。ちょっと言い過ぎかもしれないが個人的な考えなので気を悪くする人がいたらゴメンナサイ。

 

ちょっと話は変わるが、男の子らしく、女の子らしく、みたいな物言いは今の世間ではダメらしい。男の子にはピストルのおもちゃ、女の子にはお姫様ドレスみたいな決めつけもしてはいけないんだとか。何だかなあと感じる。

 

男らしさ、女らしさまで否定されちゃうと生きにくい人も逆に増えそうだ。変な話、男勝りのアクティブ?系みたいな女子にはジェンダー問題に神経質な社会はハッピーかもしれない。でも昔ながらの女らしい路線で生きていたい女性だって相当な数にのぼる。

 

男性だって専業主夫が向いている人は相当数存在する。しかし、ジェンダージェンダーやかましい時代になった今でもそっち系の男性が積極的に評価されることは稀だ。世間の目は「アイツ男のくせに家事だけを嬉々として励んでいるぜ、変なやつだ」と言われがちだ。

 

男女の役割の違いは社会の根っこに根深く浸透している。そのすべてが否定されるものではない。差別や不平等という考え方以前の単なる役割の違いを冷静に見極めないとトンチンカンな話になる。

 

差別と区別を混同してはおかしなことになると思う。

 

今日はオチのない話をダラダラ書いてしまった…。

 

 

 

 

2024年10月30日水曜日

オスの矜持

 

「禁欲的なことの押し付け」ほどタチの悪いものはない。SNSの普及がもたらしたヘンテコな監視社会が今の時代の特徴だ。人より楽しそうなヤツを見つけるとすぐに“歪んだケシカラン精神”がしゃしゃり出てきてバッシングを始める。

 

先日このブログでも書いたが、政治家が鰻弁当を食べたことをSNSに投稿しただけで炎上しちゃうわけだから薄気味悪い話である。“歪んだケシカラン精神”は単なるヒガミ根性とも言える。

 

禁欲は美徳みたいな感覚は社会に根強くはびこっている。清貧こそ崇高なものという理念は総論としてはアリだが、そこから外れたからといってそれを短絡的に悪だと決めつけるようだとトンチンカンだ。

 

なんだか難しい話になりそうだから軌道修正。今日は単に「好き勝手に生きてみたい」という話を書く。

 

江戸時代の健康押し売り書「養生訓」の影響もあってか、禁欲を中心にした生活が長寿の秘訣みたいに思われている。しかし、禁欲の効果ははたしてどれほどのものだろう。正直言って怪しいものだと思う。

 

「酒もタバコも女もやらず百まで生きた馬鹿がいる」という有名な都々逸があるが、禁欲して長生き出来ても何が楽しいのか甚だ疑問だ。私の周りを見回しても好き勝手に人生を謳歌している人は案外長生きしている。そんなもんだろう。

 

好きなものを楽しく食べたほうがストイックな食生活に励むよりも健康でいられる。当たり前のようなこんな話が昔より世間では一般化してきた。結構なことだと思う。

 

やれ油モノはダメ、揚げ物は控えろ、闇雲に野菜を食え、しまいには外食ばかりじゃダメだ等々、世の中の「禁欲派」はロクに根拠も知らぬまま得意になって私のような「フシダラ派」を非難する。

 

食べ物の話だけではない。とかく世の中では「いい歳して…」という枕コトバを使って大人から活力を奪おうとする。これも一種の禁欲の押し受けであり、根っこには“歪んだケシカラン精神”、すなわちヒガミ根性があるのだと思う。

 

有名人の不倫を異常なまでにバッシングするのだって「あいつ、ウマいことやりやがって」というネタミみたいな感覚が隠れているのだろう。モテない自分、勇気のない自分を認めたくないから正義感ぶって他人の行動に散々文句をつけて溜飲を下げる。ちょっと言い過ぎかもしれないがそんな一面もあると感じる。

 

何歳になろうと男はオスだからスケベ心はいつまでも消えない。でもそんな当たり前の生理現象でさえ「いい歳してバカじゃないか」と責められる。

 

責めるほうがバカだと私は思う。でも、世間では禁欲派がさも正統派かのように振る舞うから、多くの中高年男性、はたまた老年男性がショボンとして暮らしている。

 



これでは社会から活気が失われるのも当然だ。若者は放っておいても元気だが、中高年以降は意識して元気でいようと思わないと簡単に干からびる。オスとしての本能を適度に刺激することはイキイキと暮らすためには非常に大事だと痛感する。

 

そもそも男女のまぐわいを生殖活動以外の快楽として面白がるのは人間だけだ。いわば特殊能力である。だから生殖適齢期を終えても発情し続けるわけだ。歳を取ったからといってそれを闇雲に抑圧しようというのは自然の摂理に反する間違った考えだという見方もできる。

 

セックスを快楽として受け入れてきたから変態プレイに興奮するのも人間の特徴だ。コスプレに興奮したり、拘束プレイにムホムホできるようになったのは大脳が異常に発達したおかげだ。セックスを生殖活動に留まらず快楽目的のレジャーに発展させた生き物は地球上で人間しかいない。

 

生殖適齢期を過ぎても欲求が消えないのが人間だから、オジイチャンがバニーガールの格好をした女の子と拘束プレイを楽しみたいと考えても異常なことではないわけだ。それをオモテに出さないのは世間にはひこる禁欲同調圧力のせいでしかない。いわば単に我慢しているだけだ。

 

とかく健康のために大事なのは「我慢しないこと」だと言われる。我慢はすなわちストレスである。だから健康で長生きするためにはエロに対する我慢も時には発散したほうが良いという理屈になる。

 


 

それなりの年齢になると「子どもの手前…、孫の手前…」等々、エロなんて無縁だみたいな態度をしがちだ。それもある程度は社会秩序のため?に必要だが、人様に迷惑をかけない範囲で“解放”することも大事だと思う。

 

秘密結社じゃないが、オッサン同士、オジイチャン同士で集まってエロ動画鑑賞会を企画するとか、勇気を出して同好の士を集めて風俗店を利用するとか、程度はどうあれ、エロを封印せずに暮らしていくような心掛けはあって然るべきだと思う。

 

世の中、高齢者だらけになってきた。男はいつまでもオスであるという現実をもっとオモテに出すような社会運動?は必ず必要になってくると思う。

 

還暦も近づいてきたのに相変わらず煩悩の塊みたいな私自身を正当化するような話に終止してしまった。

 

いずれにせよ、「いい歳して…」みたいな世間の禁欲的同調圧力には徹底抗戦して生きていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

2024年10月28日月曜日

ボケ

 ボケちゃったのか、今日の分を更新したつもりが忘れていたようなので過去ネタを一つ載せます。10年以上前に書いたネタです。最近はこの頃のように物事を熱く?書くことが減ってきたからちょっと反省してます。


富豪記者ブログ: 粋と野暮

2024年10月25日金曜日

薄気味悪い…

 

この週末は衆院選挙の投票日だ。自公連立がボロ負けするようだが、その後の連立の組み合わせは不透明だ。安定多数にあぐらをかいてきた自民党の増税一辺倒の姿勢が問われた格好だとも言える。

 

さて、選挙期間中は候補者たちがSNSを活用して投票を呼びかけることが一般的になったが、そこに飛び交うトンチンカンな批判や罵詈雑言を見ていると何だか空恐ろしい気持ちになる。

 

候補者の食事風景にいちいちイチャモンをつけるのも流行りみたいだ。実にバカげた話だと思う。立憲・枝野さんの牛丼屋での食事風景にも「豚汁まで頼んで贅沢だ」といった趣旨の批判が寄せられている。安倍晋三の学生時代に家庭教師をしていたことがウリ?の自民非公認・平沢さんにいたってはコンビニ弁当の食事風景がバッシングされた。

 



すなわち、今どきのコンビニ弁当は高級品だから充分に贅沢だといった批判だ。いやはやもうハチャメチャの八つ当たりみたいな話である。コンビニ弁当が高価だからと叩かれるなんて一昔前では考えられない話だろう。

 

もちろん、コンビニ弁当に手が出ない困窮層がいるのは分かるが、それを食べているヨソの人を叩く心理はちょっと不気味だ。コメント欄を眺めてみたのだが、「名も無いスーパーの冷たいおにぎりで充分」という具体的な提案?まであった。なんだかなあって感じだ。

 

政治家に清貧を求めるのは理解できるが、清貧の定義って謎だ。コンビニ弁当や牛丼屋まで否定されるわけだから意味不明である。

 

以前はれいわ新選組の山本太郎代表の鰻弁当を食べている投稿もさんざんバッシングされていた。普通に働いている人間なら鰻弁当ぐらい食べることもあると思うのだが、いったい政治家に何を求めているのだろう。

 

揚げ足取りに飽き足らず、他人の食事内容まで必要以上に監視して文句を書き殴る。それで溜飲を下げているのなら正直言って気持ち悪いとしかいいようがない。世の中から大らかさが無くなってきた象徴的な話にも思える。

 

別に枝野さんも平沢さんも、もちろん山本太郎代表にも個人的な思い入れは一切ない。むしろ苦手な面々といっても良い。それでもこういう異常な「イチャモンありき」の風潮は行き過ぎだと感じる。

 

政治家の清貧。これは原則論みたいな話ではあるが、全員が全員、名も無いスーパーの冷めたおにぎりを食べる人々だとしたらそれはそれで問題だろう。俗に「お大尽」という言葉があるが、ひとかどの成功者なら貧しいはずもなく高級料理も当然食べる。

 

変な言い方だが、スーパーの冷めたおにぎりばかり食べているようでは、外交の場の晩餐会などで恥ずかしい振る舞いをしちゃうかもしれないという見方だってできる。

 

まあ、政治家は叩きやすい対象だから誹謗中傷に近い言葉がネットに飛び交うのもある意味仕方がない。やたらめったらバッシングしたがる昨今の風潮にあっては一種の有名税みたいな話だろう。でも、それ以外の分野においても何でもかんでも罵詈雑言を浴びせかける今の社会の空気は「さもしい」というちょっと古めいた言葉を今更ながら思い起こさせる。

 

品性が下劣、心根が卑しいというのが「さもしい」の定義だが、ネット上で匿名という安全圏に身を置きながらその場の思いつきで他人を傷つける行為はまさにそれだ。

 

ここでそんな嘆き節を書き殴ったところでキリがない。でも、そろそろ現役世代から旧人類という段階に入る年齢の私としては、牛丼屋での食事やコンビニ弁当をブルジョワの自慢かのように受け止めて誹謗中傷する空気が薄気味悪くて仕方がない。

 



 

 

 

 

 


2024年10月23日水曜日

エネルギーをもらう


今年はやたらと野球にハマった年だった。これも「オジサンあるある」の一種だとしたらちょっとイヤだが、何かに熱中できることは幸せだから良しとしよう。

 

大谷翔平サマの活躍を見るために超重役出勤状態になったことも数知れずだ。まあ還暦近いベテランだから許してもらおうと思う。それだけでなく、人生初のナマ甲子園観戦にも出かけた。暑くて死にそうだったが真夏の甲子園で躍動する高校生を眺めた時間はとても楽しかった。

 

大学野球にも妙にハマった。東京六大学の春のリーグ戦をひょんなことで観戦して以来、ハツラツとプレーする学生のひたむきさに胸を打たれた感じである。

 

今年初めて観たのが東大戦だった。球場がガラガラだろうと見込んで出かけてみた。ほぼワンサイドゲームになる東大戦だから案の定、空席だらけでイニングごとにいろんな角度から楽しむために好き勝手に席を移動して楽しんだ。

 

その後の全日本大学選手権にも行った。聞いたことがなかった地方の大学野球部の奮戦ぶりに目を見張った。全国に26もの大学リーグがあると知って老後の趣味は各地への観戦旅行に決めた。秋のリーグ戦が終われば明治神宮大会が待っている。これまた楽しみである。

 

この秋の東京六大学のリーグ戦もまめに観戦している。時期的にドラフト候補生たちが最後のシーズンに気合を入れているから試合自体も面白い。春の甲子園より夏の甲子園のほうが盛り上がるのと同じで「引退」がかかっているからそのあたりのドラマも楽しめる。

 



大学野球の生観戦は学生応援席の盛り上がりを眺めることも楽しみの一つだ。ムサ苦しい学ラン姿の応援団の必死な感じ、それを横目に華やかに跳ね回るチアリーダー、吹奏楽部のはっちゃけた演奏ぶりは見応えがある。

 

年寄りくさい書き方になるが、あの応援席を眺めているだけで若いエネルギーを分けてもらっているような気持ちにさえなる。ほぼワンサイドで負ける東大だって応援席の面々は最後まで必死に頑張っている。

 

必死に勉強して東大にまで入って野球の応援に青春を賭けている若者ってなかなかのものだろう。チアリーダーや学ラン姿の硬派っぽい応援団員も案外大勢いるし、賢そうな顔付きの吹奏楽部の面々も弾けながら頑張っている。

 

絶対に勝てない試合展開でも声を枯らして応援する姿はかなり感動モノである。判官贔屓で東大のユニフォームを着て東大の応援タオルを振って一緒に応援したい気持ちになるが、さすがにそれは我慢している。

 

万一、近隣の席の人に「東大の何年卒ですか?」とか聞かれたら恥ずかしい以外の何モノでもない。「東大に憧れているヘンテコなオッサン」と思われたらシャクだ。

 

あくまで常に劣勢のチームを応援したいだけの気持ちなのだが、東大という看板が看板だけに大っぴらに応援できないのが残念だ。隠れキリシタンみたいなものかもしれない。

 

東大に限らず各大学の応援席ではそれぞれの校歌や応援歌がいろんなパターンで使われ実に賑やかだ。チアリーダーはアクロバチックな動きまで披露してくれるし、時代遅れ丸出しの学ランの男たちも必死に腕を振っている。

 




この歳になるとチアリーダーたちの躍動する姿が素直に清々しく格好良いものに見える。エロ盗撮するようなオタクみたいな心理ではなく、ハツラツとした若さが眩しく見えて一緒になって手拍子したくなる。

 

失礼な言い方になるが、ちょっと遠目に見ていると学生さんの顔立ちまでは分からないから皆さん可愛く見える。実際に熱中して頑張っている表情はきっと輝いているのだろう。

 

先日は、秋の優勝がかかった早稲田対明治の試合を観に行った。いつもより大勢の観客が詰めかけていた。確実に昭和のパ・リーグのプロ野球よりも混雑していた。

 


試合はどちらも譲らず延長線に突入。照明も点灯してナイター状態に。それにしても延長線の攻防が両校気合十分で見応えがあった。結果は4時間半もかかったのに引き分け。

 

14時頃にプレーボール。気持ち良い快晴の下での試合だったのだが、気づけば夕方から夜になり風が冷たくなって観ている側はやたらと寒いし肩は凝るしかなり疲れた。でも非常に楽しい時間だった。

 



明日はドラフト会議だ。今年私がナマ観戦した甲子園や大学野球で活躍した何人もの選手が上位指名候補に名を連ねている。プロに行って活躍できる保証は無い。でもその中から未来の侍JAPANメンバーが生まれるかもしれない。


アマチュア時代から観ていた選手が未来のWBCで活躍してくれたら…。そんなことを想像するだけで大いに興奮する。そんな観点から学生野球を観戦するのも面白いと思う。





2024年10月21日月曜日

劣化の話

 

「昔は良かった」みたいな話をすると年寄りの懐古趣味みたいで嫌われる。私もなるべくそんな路線に陥らないようにしているが、そうは言っても長く生きているといろんな分野の劣化が気になる。

 

日本の家電用品といえばめったに故障しないことで知られていた。現にわが家で愛用しているズボンプレッサーは45年も壊れずに活躍している。まあ、構造が単純だからだろうが、それにしても立派なものだと思う。

 

今の時代、スマホやパソコン関係などでは不具合が起きることがある種の当然として認識されている。フリーズするだの再起動すればいいだの、正常に作動しないことも当たり前になっている。

 

昔の家電と比べるのはピントがズレているかもしれないが、昭和世代としては「不具合が普通」みたいな商品が平気で流通している今の世の中にちょっとイラつく。

 

と、これは前フリである。

 

劣化という意味で最近やたらと気になるのが「誤字脱字」である。テレビのテロップもそうだが、ネット上にあふれるニュース類のダメっぷりは「編集」を商売にしてきた立場からすると実にヒドい。びっくりするほど低レベルだ。下の画像はスマホで読んでいた記事の誤字をスクショして拡大したものだ。

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加熱と過熱、昨日と機能。単なる変換ミスだが、こんな初歩的な間違いが平然と世に出るのはシロウト仕事だろう。担当者は恥ずかしくないのだろうか。個人のブログだったら気にならないが、一応ニュース配信会社が管理しているメディアとしての発信記事である。

 

紙に印刷する媒体なら永遠に間違いが残ってしまうが、ネットならチョチョっと打ち直して修正可能だ。だから校正校閲に対する意識がまるで欠けているのだろう。

 

どんな分野だろうと、恥ずかしい失敗をすることで改善につながるが、ネット記事のシャバダバぶりを見ると間違えることを恥だと思っていないことがよく分かる。これってメディアにとっては自殺行為だ。

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変換ミスだけでなく純粋な間違いも目につく。書き手の能力なのかチェック機能が働いていないのか、そのいずれも当てはまるのだろう。

 

私が若い頃はまだ原稿を手書きで作成していたから印刷工場の担当者が打ち直す作業が必要だった。当然、人のすることだからミスも起きる。どんなに良い原稿が書けても誤字脱字が一箇所あればその記事は0点だ。書き手としてのチェックはもちろん、校正担当者も鬼のような目で間違いを探していた。

 

当時の紙媒体の世界では、他紙や他誌の「お詫び」欄をこぞってチェックするのがならわしだった。恥ずかしいミスをバカにすることで自分たちの戒めにしていた。だから昭和の新聞や雑誌に単純な誤字を見つけるケースは非常に稀だった。

 

一般的な紙媒体だけでなくエロ本だって同じだった。一般誌より誤字脱字を見つけることは多かったが、そっち業界でも名のある出版社が発行元のエロ本だと校正校閲がしっかりしていた。若い頃はそんな観点から贔屓のエロ本を決めていた。

 

誤字誤植を強烈に恥だと感じることは記者や編集者の最低限のプライドだろう。誤字のまま記事が世に出ることはちょっとした誤報と同じぐらいの恥だった。

 

編集という分野に限らず、どの分野の仕事にもミスを猛烈に恥ずかしく思う極めて日本的な「恥の文化」が浸透していた証だろう。ちょっと説教臭くなってしまうが、今の時代は「恥」の概念が変わってきてしまったのかもしれない。

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 とかなんとかエラそうなことを書いているが、このブログも誤字脱字はしょっちゅうである。商業媒体ではない個人の雑文日記だから仕方ないと自分を甘やかしている。反省しないといけない。でもこのブログに誤字があるといつ某友人が朝一番で教えてくれる。有難いことだ。

 

今では、その友人が誤字を見つけず私自身がアップ後しばらく経ってからミスを見つけると「ちゃんと校正してくれ」とわざわざ筋違いの文句をつけるほどだ。彼としてはいい迷惑だろうが、私としては彼を「富豪記者ブログ担当校正部長」だと勝手に認識しているので今後も頑張っていただきたい。

 

その友人もラーメン専用のブログを長年書き続けているのだが、ヤツのヨタ記事?にはいつも誤字が見当たらない。きっとネット上にアップする前に真剣に校正作業に励んでいるのだろう。私も見習わないといけない。

 

なんだかヘンテコな結論になってしまった。

 

 

 

 

 

2024年10月18日金曜日

歴史モノ


オジサンになると歴史が好きになる。そんな認識が世間では一般的だ。若い頃より歴史に興味が湧く人は多い。私もそんな一人である。

 

もっとも、私の場合は子供の頃からプチ歴史好きだった。小学生の頃に親にせがんで忠臣蔵を偲ぶために赤穂まで連れて行ってもらったり源義経物語を夢中になって読んだりしていた。

 

一応、歴史好きとしてのキャリアは長いのだが、プチで留まっていたから詳しい人と議論を白熱させるほどの知識はない。もっと真剣に学んでいればいっぱしの歴史オタクになれていたかと思うと残念だ。今からでも生涯学習講座に通ってみようかとちょっと本気で考えている。

 

ところで、中高年になると歴史が好きになるのはナゼだろう。おそらく自分の残り時間が少なくなっていることと関係している気がする。どんな凄い人やどんな偉業もすべては過去のことだ。とはいえ、現在にもその影響は残っているから継続性という意味で自分の人生も悠久の歴史の一部に過ぎないと感じることが理由だと思う。

 

自分で書いておいて何を言っているのかよく分からなくなってきた。平たく言えば今現在も歴史の流れの一部であって、どういう経緯で「今」につながってきたかを自分の人生とひっくるめて考察することが楽しくなってくるのだと思う。

 

自分の人生に意味を見出すみたいな大げさな話ではなく単に「つながっている」という事実を面白く感じているわけだ。だから大半の人が日本の歴史に興味を持つ。私自身もヨソの国の歴史にはちっとも興味がわかない。

 

自分の生まれ育った場所、いま住んでいる場所、旅先に選んだ場所それぞれの場所に関して歴史的なエピソードを見聞きすることに浪漫を感じる。旅先で城を必ず見たくなるのもその時代を想像することが面白いからだろう。

 



 暇つぶしに本屋さんに行くと条件反射のように歴史コーナーに足が向く。古代史とか平安朝とか極端に古い時代には興味がないのだが、それ以外は全部買いたくなってしまう。

 

一時期は戦国時代モノが好きだったが、その後、江戸時代の暮らしや風習みたいな分野に興味が湧くようになった。自分が凡人だから偉人の一代記より普通の人の日常がどんな様子だったのかを知るほうが楽しい。

 

幕末や明治維新に関しては江戸っ子が田舎モノの軍門に下ったという点でちょっと敬遠していた。人物の相関関係が複雑で面倒だったのも理由だが、漠然とそっち系の本を読んだり、テレビの歴史モノを観ているうちに以前より興味が湧くようになった。大河ドラマで西郷さんや渋沢栄一を真面目に見ていたことも影響している。

 


 

最近読んだそっち系の本もなかなか面白かった。「岩倉使節団」と「西郷従道」を扱った新書だ。岩倉使節団といえばオールドパーを持ち帰ったことしか知らなかったのだが、考えてみれば一大スペクタル物みたいな話である。

 

革命政府の大幹部が国の作り方に悩んで大勢で内政を放っぽり出して先進国の実情を長期間調べに行った。随分と大胆な行動である。浦島太郎ばりに見るもの聞くことすべてに度肝を抜かれたはずだから面白くないはずがない。実際に面白かった。

 

お次は西郷従道だ。近代の歴史モノでよく見かける名前だが、今ひとつどんな働きをした人か分からなかった。西郷隆盛の弟なのに西南戦争の際には新政府側の中枢で兄と敵対し、その後は総理大臣に担がれそうになっても逆臣の弟であることを理由にあくまで脇役に徹した人である。

 



 新書を読んでみてふむふむと感心しながらかなり魅力的な人物だったことを知った。それこそ朝ドラや大河ドラマで主役に据えた物語を作ればかなり面白いと思う。

 

維新後の開明期を描いた映画やドラマは数々ある。現在NHKで再放送中の傑作「坂の上の雲」も非常に面白い。あれは当時の軍人さんが主役だが、激動の時代だったから主役にする人物次第ではいくらでも新たな傑作は生まれるはずだ。従来とちょっと違う視点からの物語として西郷従道さんをキーマンにしたら間違いなく傑作になりそうだ。

 

さてまとめに入ろう。

 

なんだかんだ言って歴史モノの本を楽しく読む時間は日常の厄介なヨモヤマ事を忘れさせてくれる。何か教訓を得ようとか、はたまた朝礼のスピーチ用の素材にしようとか、余計な邪念は抜きにしてボンヤリとその世界に没頭するのが一番である。単に「ふむふむ」とうなずければそれで充分だろう。

 

 

 

 

2024年10月16日水曜日

甘い生活

 

酒より甘味。ここ1,2年そんな路線になってきた。もちろん酒をやめたわけではないが、甘味に妙に惹かれる。


ほんの5年ぐらい前は朝からカレーや牛丼を嬉々として食べていたのだが、最近はドーナッツを前の日にわざわざ買って朝からコーヒーと一緒に味わうこともある。変われば変わるものである。

 



糖分のとり過ぎは疲れやすくなると言われるが、ご多分に漏れず私も疲れやすい。たぶん糖分過多のせいだ。でもやめられない。ウマい甘味は心を豊かにしてくれるし、モヤモヤした気持ちが一気に吹き飛ぶほど幸福感に包まれる。ちょっとぐらい疲れたって甘味は大事だ。

 

先日、銀座のクラブに行った際に土産として虎屋の最中詰め合わせをもらった。想像以上の美味しさに翌週もその店に顔を出してしまった。店側は別の土産を出してきたのだが、虎屋の最中じゃなきゃいらないとワガママを言って同じものを強奪して帰ってきた。

 

最中はもともとそんなに好きではない。コロモが喉の裏側に引っ付くような感じが苦手で敬遠しているのだが、虎屋の最中はそんな問題以前にアンコが美味しくて感激した。こしあん、つぶあん、白あんのどれも好みだった。

 

 

上野にあるどら焼きの名店「うさぎや」の最中も非常に美味しい。こちらもアンコが絶品でコロモが控えめな薄さなのが有難い。最中を敬遠していたのはきっと若い頃にダメダメな一品に遭遇したせいなのだろう。「ちゃんとしたヤツはウマい」という当たり前のことを今更ながら痛感する。

 

日常の買い物の大半をネットスーパーの宅配に依存しているのだが、ここでも甘味はついつい注文してしまう。どうでもいい感じの「すあま」を買ってはそのどうでもいい感じにナゼかホッとしたりする日々だ。

 

ネットスーパーに常備されている甘味などロクなものはないだろうという先入観があったのだが、なかなかどうして実際に頼むと結構ウマいものも多い。最近のお気に入りは「あわしま堂」の商品である。

 https://www.awashimado.co.jp/index.php

 

個人的には聞いたことがない会社だったのだが、ネットで調べたら愛媛に本拠がある結構な名門企業みたいだ。やたらと高級ブランド化しているメーカーの妙に高いまんじゅうなどよりは手軽な値段だ。私が使うネットスーパーやウーバーで宅配してくれるスーパーなどでやたらと目にするのがこの会社の商品だ。

 

ネットスーパーで買い物する際にはサイト内検索でわざわざこの会社名を入れてその時に置いてある商品を反射的に買ってしまう。たいていウマいのが嬉しい。我が日常のちょっとした喜びになっている。

 

この夏に感激したのが人気店「赤坂青野」の冷やし流し小豆羹」である。モチっとした水ようかんみたいな商品だ。抜群だった。季節限定なのが実に惜しい。この店では「冷やしみたらし」が大人気らしいのだが、個人的にはそっちよりウマいと思う。

 




 今の住まいは日本橋三越が近いので、デパ地下に行けば日本全国のウマい甘味が簡単に買える。これってかなりラッキーなことだろう。夏場もわが家の冷蔵庫には「たねや」の水ようかんを常備していた。

 

三越だけでなく日本橋界隈には各県のアンテナショップがいくつもある関係で散歩するたびについつい未知の甘味を買ってしまう。つくづく糖尿の家系ではないことに感謝しながら糖分まみれの日々を過ごしている。

 

先日は三重のアンテナショップに「赤福」が置いてあったので当然のように買った。新幹線に乗る時にしか買えないイメージがあったのだが、散歩中に手に入れたことにちょっと興奮した。こういう小さな喜びの積み重ねが楽しく生きる原動力になる。大げさな表現だが案外そういうものだと思う。

 



赤福を初めて食べたのは小学生の頃だろう。家族の誰かが土産で買ってきたのを食べて衝撃を受けた。今でも「ニッポンのこしあんの究極系」の一つだと感じる。日本茶とセットで味わってこそウマさが引き立つ。

 

朝から「コーヒーとドーナツ」を楽しみ、のんびりした時間には「あんことお茶」でホッコリする。つくづく飽食の時代に生きていることの幸せを痛感する。

 

考えてみれば高度成長期で国が豊かになってきた頃にモノゴコロがついて以来、昭和元禄だ、バブルだと続き、世界中のウマいものが集まる都心部で社会人生活を過ごしてきた。外食産業の隆盛から宅配メシの発達まで「食べる」ことに関して恵まれ過ぎた暮らしをほぼ60年にわたって続けている。

 

親ガチャだ、国ガチャだといった「◯☓ガチャ」という考え方からすれば非常にラッキーなタイミングで生きてきたことは確かだ。生まれるのがほんの数十年ズレていただけで全然違う状況だったはずだし、同じ時期に生まれたとしてもアフリカの奥地とかだったらこんな楽しみは皆無だった。ただただラッキーだ。

 

神に感謝である。

 

 

 

 

 

 

2024年10月11日金曜日

EMSの効き目

 

ちょっと風邪をひいたつもりが一週間以上も体調がすぐれなかった。これも加齢のせいなのだろうか。体調を崩すたびに悩んでしまうのが日頃まめに服用しているサプリなどの効果だ。

 

青汁やらビタミン類、クエン酸やらチアシードやら毎日いろんなものを摂取しているが、それが無意味なのか、はたまたそれらのおかげでこの程度の体調不良で済んだのか、答えのないテーマに悶々とする。

 

もっと言えば、最近は意識してコンビニ飯やカップ麺など怪しい食べ物を以前より制限するようになったのだが、はたしてそれも無意味だったのかと、再びそっちの道に戻りたくなったりする。

 

サプリ方面?に関してはかなりの健康オタクみたいな私だが、その実態は真面目に健康管理を考えているとは口が避けても言えない。なにしろまったく運動をしない。徒歩15分で職場に着くのに日々タクシーの世話になっている。スマホ内臓の万歩計の履歴をみると数百歩しか歩いていないという異常な数値の日も珍しくない。

 



 先日、仕方なく足の筋肉トレーニング用の機械を買ってみた。実際に足踏み運動をする器具を買おうかと思ったのだが、それも面倒だからいわゆるEMSのヤツにしてみた。電気で筋肉を刺激するやつだ。足踏みすらしない時点でやる気がない…。

 

こんなものに3万円も支払った。シャクだから一応ほぼ毎日使用している。足を乗せるだけだから努力のカケラもない。思った以上に筋肉がプルプルして効果がありそうな気もする。でも翌日以降にまったく筋肉痛にならないから実際に効き目があるのかは謎だ。

 

こういう器具で筋力アップを本当に実感した人がいるのだろうか。足を乗せるだけでなく太ももなどに巻くパッドも付いているのだが、これがピリピリしてやたらと痛い。感覚的にこっちのほうは確実に無意味なような気がしている。

 



これまで生きてきた中でジム通いをしたことは何度かある。一時期はまあまあマメに通ってみたのだが、どうしてもあれを面白いとは思えない。別に面白くなくても続く人は続くのだろうが、黙々と鍛えるだけのあの作業が退屈で仕方がない。

 

卓球やバトミントン、羽子板あたりなら相手との勝負を楽しんで汗ダラダラで倒れそうになるまで頑張れると思うが、勝ち負けもなく単に自分をイジメる作業なのが気に入らない。

 

以前、住まいのそばにバッティングセンターがあった時は炎天下でも数百球打ち込みに行くことがあった。鍛える、運動するという感覚ではなくジャストミートの快感を味わいたいという欲求のなせるワザだった。

 

還暦が近くなった今だってバッティングセンターが徒歩5分ぐらいの所にあるような住まいに引っ越せば運動不足解消は確実だと思う。

 

何年か前は毎朝ラジオ体操第一をフルパワーで連続2セットこなしていた。気づけばすっかりサボっている。今では月に2,3回やる程度だ。久しぶりにやってみるとフルパワーだと連続2セットが出来ない。ヤバい事態である。せめて週に4,5回は1セットだけでも忘れずにやろうと決意している。

 

気づけば50代最後の誕生日が過ぎた。ほんのちょっと前に50歳を迎えたばかりだと思っていたが、本当に時間の進み方が早くなった。

 

この10年、自分の中で少しでも進歩したことがあるのか真剣に考えてみたが皆無だった。このまま劣化が進むだけなのはさすがに怖い。とはいえ具体的にどうしようか何も考えていないのが私のダメなところだ。

 

いっそのこと結婚するとか、子供を作ってみるとか奇天烈な行動に走れば一気に風向きが変わるのだろうが、今更そんな面倒なことはお金をもらってもイヤだ。などとウジウジしている間にどんどん老化は進むのだろう。怖い怖い。

 

そんな私にとって希望の光は今年の初めに痛めた膝の調子がかなり良くなってきたことだ。チャリで大転倒して以来、もうすぐ9ヶ月になる。数ヶ月も続いた湿布生活もあまり効果はなく、夏にちょっと取り組んだストレッチが効いて以来少しづつ快方に向かっている。

 

一時期は小走りすら出来なくて難儀していたが、今は点滅する歩行者信号を前にしても諦めずに軽く突進することができるようになった。正座はまだ出来ないのだが、大転倒する前の状態を100とすると85ぐらいまでは回復した。

 

来月は毎年恒例のオヤジバンドライブが控えている。飛んだり跳ねたりしながら歌うことも出来そうだ。というわけで50代最後の1年も無事に乗り切りたいと思う。