2023年10月30日月曜日

牛丼、マカロニサラダ


B級グルメという表現はちょっと気の毒だ。それを真剣に作った人やそれを心から食べたいと思った人にとっては間違いなくA級の食べ物である。

 



時折、無性に牛丼が食べたくなる。物凄く食べたい時に食べる牛丼のウマさはミシュランの星付きだとか食べログ4点台の店やらを軽く凌駕する。大げさに言えば毎日でも食べられるような気がする。

 

若い頃は値段の関係で特盛にしたり牛皿を別注することはなかなか大変だった。さすがに今になれば“大人買い”みたいな気持ちでドカドカ注文する。

 

上の画像でも合計1000円程度である。中途半端な鰻重だって3千円はとられることを思えば何とも有難い話だ。円が弱くなったからインバウンドの観光客から見れば驚天動地の世界だろう。

 



肉片がチョロっとだけ載っかってメシばかり目立つ「並」は空腹の時には拷問みたいに感じる。肉をかき分けてもまだ肉があるぐらいドッサリ載せると束の間の幸福感に包まれる。痩せ細った小さい鰻を載せた鰻重を食べるなら絶対にドカ盛り牛丼を頬張ったほうが心が平穏になる。

 

近年は吉野家も松屋もすき家も牛丼以外に焼肉丼やらカルビ丼やらの変化球メニューを投入してメニューに変化をつけているが、あれこれ食べ比べてみてもやはり王道の牛丼が結局一番美味しいと思う。

 



B級扱いといえばモツ焼きも代表格だろう。昔とは違い流通の進化もあって臭いヤツに当たることも無くなった。カシラ、ハツ、タンあたりの歯応えがある路線が私の好みなので割とちょくちょく食べに行く。

 

モツ焼き屋さんのサイドメニューはたいてい簡単なものが多い。冷奴やオニオンスライス、梅きゅうあたりである。さっさと出てくるし、うまいまずいを論じる必要のない安定感が良い。何より低カロリーである。

 

赤ウインナーもあれば頼んでしまう。シャウエッセンのほうが絶対に美味しいのは分かっているのだが、大衆酒場の空気が調味料になるからこのテの店ではついつい注文する。

 



マカロニサラダも私の心をくすぐる。きゅうりやオニオンばかりではさすがに侘しい。炭水化物は正義だから何てことのないマカロニでもマヨ味をまとったぶっきらぼうな姿にグっとくる。

 

時々、妙にウマいマカロニサラダに遭遇すると宝くじで1万円が当たったぐらいの興奮を覚える。マカロニの茹で加減がちょっとアルデンテで味付けもいい塩梅だとお代わりしたくなるほどだ。

 



最近では人形の「カミヤ」というモツ焼き屋で出てきたマカロニサラダが良かった。歯ごたえもあって量も多くてウマいモツ焼きよりもこっちのほうが私をトリコにした。ウマいものを求めてというよりタバコを吸いながら軽く飲みたいぐらいの感覚で暖簾をくぐったのだが、マカロニサラダのウマさに一人でニンマリしまくった。

 

基本的に大衆酒場ではウマくも何ともないマカロニサラダが出てくるのが普通だ。時にビチャっと水っぽかったりヘンテコなカレー味だったりすることも珍しくない。

 

それでもマカロニサラダという固有名詞というか単語を目にしただけで必ず注文したくなる魔力がヤツにはある。自宅で食べたいとは思わないのに大衆酒場ではなぜか外せない。個人的にはポテサラよりマカロニサラダ派である。

 

時にはソースをかけるのも一興だ。目玉焼きだろうがオムレツだろうが唐揚げだろうがソースをかけたくなる私にとって「マカロニサラダ+ソース」という一見摩訶不思議な組み合わせは黒ホッピーを引き立ててくれる逸品になる。

 


こんなことを力説したところで誰の参考になるか怪しいものだが、こうした「B級」と称される食べ物の美味しさにこだわることは平凡な日常にちょっとしたスパイスを与えてくれる気がする。




 

 

 

 

 

 

2023年10月27日金曜日

モンブランの今昔


ハロウィンで街は騒いでいるが、今は栗の季節だ。カボチャのお化けよりもモンブランこそ今の季節の風物詩だろう。私は栗が好きではないがモンブランとなると話は別だ。

 

あのゲジゲジみたいなモンブラン特有のクリームが大好きである。子供の頃、シュークリームよりもショートケーキよりもモンブランには特別感があった。

 

その昔、駅頭でよく見かけた甘栗屋の前を通っても引き寄せられなかったのにケーキ屋のモンブランには胸がときめいた、今もその気持は一緒だ。

 

ホテルニューオータニに3千円を超える値付けのモンブランがあると聞けばわざわざ出かけ、秋に京都を旅した際も旬の和栗モンブランとやらをうやうやしく食べた。

 http://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/12/3300.html

 



ここ数年増えてきた本格派?のモンブランは栗感が強めだ。それはそれで評価は高いのだろうが、個人的には昔のベタなモンブランのほうが好みである。栗っぽさは無いがネットリ甘く官能的な味がした。

 

イマドキの高級モンブランは品があり過ぎて昔のような攻撃的な甘さがちょっと足りないような気がする。私の味覚が子供っぽいせいもあるのだろう。

 

先日、京橋にある「トシ・ヨロイヅカ東京」まで足を運んでモンブランを2つ買ってきた。この店は1階のケーキ売り場とカフェの他に2階にスイーツのコースを提供するサロンまである。

 



職場から歩いていけるので持ち帰りにして職場の個室を締め切ってじっくりうっとり味わった。コンビニスイーツなら2つぐらいペロっと食べられるが、さすがに高級な本格スイーツとなると一つ一つが重い。きっと凄いカロリーを瞬時に摂取したはずだ。

 

通常のモンブランと期間限定のモンブランだった。どちらもちゃんと美味しかったが、やはり私が好んだ昭和のベタなモンブランとは異質だ。片方はやたらとブランデーか何かの香りが強く子供だったら酔っ払いそうだった。

 

でも、コンビニスイーツとは別次元のこういう高級ケーキも時々食べると気分が上がるのは確かだ。つかの間の一息にコーヒー片手にこんなモンブランを突っついていると流れる時間がちょっぴりゆったり感じて落ち着く。スイーツの効能だと思う。

 

モンブランつながりで紹介する次のスイーツはなかなか画期的なシロモノである。日本橋のコレド室町地下にある「栗りん」という店の商品だ。

 



名古屋発祥の和菓子版のモンブラン専門店である。東京には日本橋だけなので自宅が近い私にとっては気軽に買えるのが有難い。上の画像は「栗千本」という大福の上に栗ペーストがどっさり載った一品である。

 

モンブランと言えば栗クリームの下はスポンジケーキなのが普通だが、あの部分はたいていどうでもいい味がする。その昔、子供の私もモンブランの上だけを食べてスポンジを残して親に怒られたことがある。

 

上も下も楽しめたほうが良いに決まっている。女性と同衾した際に「上だけにしてね」などと言われたら絶望の淵に追いやられる。それと同じだ。いや、何が同じなのかわからない…。

 

この栗千本なら上の楽しみと下の楽しみが堪能できる。男心をくすぐる。実に素敵だ。これがまた上も下も美味しいからぶったまげる。栗クリームの下はもちもち大福だ。軽めの食感の大福だから上とセットで食べても重すぎないのが嬉しい。

 


 

先日買ってきたのは「芋千本」という紅芋クリームバージョンである。もはやモンブランとは言えない商品だが、これまたクセになる味わいである。美味しく煎茶と合わせれば至福という言葉以外出てこないレベルだ。

 



紅芋クリームの下には小ぶりの大福が9個隠れている。週末散歩ついでに買ってきたのだが、ダイエット中の娘は1個しか食べなかったので、残り8個は私が土日で平らげてしまった。それはそれで幸せだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年10月25日水曜日

パン抜きハンバーガー

 

このブログでも何度か書いたが、私のハンバーガーの食べ方は不道徳極まりない。パンの大半を残す。もはやハンバーガーを選ぶ意味がない食べ方である。

 



意地汚い性格が多分に影響している。いろんな味を何個も味わいたいからいちいちパンで腹を膨らますわけにはいかない。そのせいで中身ばかり食べるようになってしまった。

 

それがクセになると途端にハンバーガーのパンは邪魔な存在に感じる。皆さんの中にもきっとそう感じている人は結構いるはずだ。その証拠に一部のバーガーショップでは「パン抜き」のメニューが存在する。

 

先日、ウェンディーズにもそんなメニューがあると知って食べに行った。ウェンディーズに足を踏み入れたのはウン十年ぶりである。その昔、華々しく日本にやってきた時はマックとは違う本格志向をウリにしていた。

 

ちょっと高級で肉の感じも猫っぽくないし(分かる人にしか分からない例えですいません)、10代の少年だった私には神々しく見えた。実際にウマかった。

 

その後、後発に押されたのかいつの間にか昔の勢いはなくなり、気付けばファーストキッチン傘下で細々と営業するようになった。

 



昔のイメージがあったから、ウェンディースが手掛ける「パン抜きバーガー」はきっと私を喜ばせる一品だろうと期待していたのだが結果は全然ダメ。シャバダバだった。

 

名前こそ「ワイルドロック」と勇ましいが、可愛い肉片でトマトやチーズ、レタスを挟んだだけの冴えない感じだった。肉がデカいなら満足感もあるが、あくまで肉片と言いたくなるサイズ。おまけに出来立てのくせに全体に冷めていてチーズは冷たいまま。ただただ落胆した。

 

それから数日後、娘が「パン抜きバーガー」の本格派があると貴重な情報をくれた。しかし店の場所は錦糸町と両国の中間ぐらいの辺鄙な場所だとか。わざわざそんなところまで出向く気はなかったのだが、スマホで調べたらウチからタクシーで10分程度だという。

 

日本橋に住んでまだ間がないので馴染みのないエリアとの距離感を案外分かっていない。国技館もタクシーで10分ぐらいらしいから相撲も見に行かないともったいない。

 

で、週末の午前中にタクシーを飛ばして「シェイクツリーバーガー」というハンバーガー屋に向かった。いつも混んでいるらしいので予約しようと電話したら予約枠は既にいっぱいとのこと。仕方ないから11時の開店時間を目指して出かけた。

 

朝飯抜きだから親娘で食べる気満々である。こういう店のハンバーガーは一人一個が定番みたいだが、そんなヌルいことは言ってられない。「パン抜きバーガー」だけでなくパン有りバーガーもとりあえず注文。肉がデカいやつを選んでマッシュルームをトッピングした。

 



それなりのサイズだったので喜ぶ私だ。肉肉しい感じが嬉しい。さすがに繁盛店だ。素直に美味しい。食べにくいから結局、上側のパンは外して下のパンだけを肉とともに齧りながら食べた。

 

肝心の「パン抜きバーガー」はこの店では「ワイルドアウト」と呼ぶらしい。ウェンディーズの名ばかりワイルドに比べれば、こちらの一品はワイルドを名乗る資格はありそうな感じだった。こちらはアボカドと目玉焼きをトッピングした。

 



そもそもパンを捨ててハンバーガーを食べることが基本みたいな私にとっては実にハッピーなメニューである。パンの大半を捨てちゃう行為はやはり人様の目に触れさせたくないから、いつも自宅で不道徳バーガー大会をしている。そんな私が堂々と店に出向いてハンバーガーを楽しめるわけだからそれだけで嬉しい。

 

聞くところによるとこの肉肉バーガーにあえて追加肉をトッピングという形で注文する猛者もいるらしい。もはや肉で挟むというより三重肉の合間にチーズやらトマトが混ざるだけの食べ物だ。次回はそれを食べたい。

 

本格バーガーの店ではサイズ感の関係でどうしたって包み紙にくるんでかぶりつくことになる。だからこそパン抜きでも何も問題はない。糖質制限だとか炭水化物を気にする人は多いからそういう点からもパン抜きバーガーは一定の支持を集めるだろう。

 


この店にはもう一つのパン抜きバーガーもある。レタスとレタスで肉などを挟んだ一品だ。もはやバーガーではなく「サラダ肉」みたいな話だが、ついでだからそれも注文してみた。

 

これはこれで悪くはないが、レタスが主役みたいに威張っているのがちょっと気に入らない。ワイルド感は皆無だ。これを頼む際はもう一枚肉を追加すれば収まりがいいと思う。

 


面白いもので、パンを食べずにハンバーガーをしっかり食べても満腹感はちっとも感じない。いかにパンという存在が世の人々をムダに肥えさせているかを実感した。

 

パン抜きバーガーをまだ未体験の人はまずはマックのビッグマックから試してみることをオススメする。ビッグマックは上から「パン、肉、薄っぺらいパン、肉、パン」で構成されている。


上と下のパンを外してしまえば肉と肉が薄っぺらいパンを挟んだ状態になるのでオリジナルよりも俄然ウマくなる。ちっともビッグじゃなくなってしまうのだが、その分、他の味のバーガーを味わえるから満足度はアップする。

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年10月23日月曜日

ステーキという響き


子供の頃、ごちそうといえばステーキだった。昭和の食いしん坊な子供にとってステーキは魅惑的な食べ物の第一位だった気がする。すき焼きでもしゃぶしゃぶでもなくステーキである。肉の塊が目の前に出てきてそれを独り占めできることが幸せだった。

 

外食産業が今ほど隆盛ではなかった時代だ。時々連れて行ってもらったステーキ専門店は子供の私にはパラダイスだった。1キロのステーキだって平気で食べた。

 

あれこら半世紀近くが過ぎた。すっかり牛肉が苦手になってしまったが、いまだに「ステーキ」という言葉の響きにはなぜか心が揺さぶられる。「焼肉」という言葉からは感じられないロマンがある。

 



先日、日本橋本町に近いエリアにある「せいとう」という老舗のステーキ屋さんに行く機会があった。最近はアメリカあたりからやってきた横文字の名前のステーキハウスがぶったまげるような値付けなのに繁盛しているが私の好みはそういう感じではない。

 

子供の頃に親に連れて行かれたステーキ屋さんは妙に薄暗い照明で重厚感のある造りだった。かといって当時の高級フレンチのような窮屈な高級感ではなく暖炉があるかのようなくつろげる居心地の良い空間だった。

 

思い出補正も多分にあると思うが、ステーキ屋さんにはどこかレトロな昭和感を求めたくなる。ヘンテコな私のこだわりだが、初訪問のこの店はどちらかといえばそっち系の雰囲気だったので気分がアガった。一品メニューもいろいろあって気軽に飲み中心で過ごすことも出来そうだ。

 



最初に載せた画像はトマホークステーキという名の骨付きのデカいヤツである。サイコロステーキみたいに細かくカットされちゃうのは面白くない。ステーキというからにはドカンと目の前に置いて欲しい。その点でさすがにこのデカいステーキは合格である。

 

この日は800グラムのステーキだったようだが、脂身の部分を除けばびっくりするほどの量ではない。2人なら余裕、3人なら物足りないぐらいだろうか。2つ目の画像はムール貝のナントカ。ワインのお供にバッチリな濃い目の味付けが良かった。

 

ガーリックライスや牛すじご飯、ウニクリームパスタなどご機嫌なメニューもあったのだが、この日は珍しく炭水化物を抜いたので次回は是非そっち系も頼んでみたい。

 

すき焼き、しゃぶしゃぶ、焼肉のどれも若い頃は大好きだったが、ステーキに別格なイメージを持つのは肉の厚みのせいだろう。ハムカツのハムは薄ければ薄いほうがいいが、ステーキはとことん厚切りであって欲しい。

 

かつてはさんざん脂っぽい肉を喜んで食べていたが、今では赤身部分ばかり食べる。もちろん歳のせいではあるが、昔は社会全体に「赤身より霜降り」みたいな風潮が根付いていた。いわば「霜降り信仰」である。

 

米と魚を食べてきた日本人にとって牛の肉は硬くて食べにくかったから日本独自の肉牛飼育方法を確立することで結果的に「霜降り信仰」が広まってしまったのだろう。

 

適度な霜降りならともかく行き過ぎちゃうと大人にはキツいだけだ。仕事絡みの会食などでは今だに上級ラインだからという理由だけで霜降り肉が出てくる。参加者全員が本当は低級価格帯の赤身肉を恋しく思いながら無理して霜降り肉を食べている。切ない光景だと思う。

 

とはいえ、最近は赤身肉も“復権”してきた。ここ10年ぐらいだろうか、いろんなお店で赤身肉が見直されたことで食べ盛りの若者まで霜降りより赤身を好む傾向にある。正しい方向だと思う。

 

すっかり牛肉を食べる機会が減った私がステーキを食べるのは年に数回である。その大半は「ロイヤルホスト」のワンポンドステーキだ。ファミレスとはいえ5千円もする。

 



ファミレスの中では一歩上の美味しさを誇るロイホだが、ワンポンドステーキ以外のステーキはイマイチである。やはりデカい塊で焼いてこそウマいのがステーキの特徴だろう。

 

ソースも2種類選べるし、焼き方も細かくリクエストできる。450グラム程度の肉だが、2割ぐらいは脂だからそれを除ければ案外ペロリである。ファミレスで5千円も出すのは気が引ける人もいるだろうが、変に気取ったステーキ専門店でどうでもいいステーキに大枚はたくならこっちのほうが賢明だと思う。





2023年10月20日金曜日

谷村新司も教科書だった


世代的に「アリス」を聞いて育ったと言っても過言ではない。「冬の稲妻」「涙の誓い」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」「今はもうだれも」あたりは同世代男子にとって誰もが身近に感じる楽曲だ。

 


谷村新司さんが亡くなったことは結構ショックだった。74歳ともなれば不思議なことではないのだろうが、同世代の歌手の面々はバリバリ元気に歌っている。“エース”である谷村新司がこの世から消えちゃったことがピンと来ない。

 

「いい日旅立ち」「昴」といった国民的楽曲の生みの親でもある。ファンだったかどうかに関係なく一定の年代以上の人たちからは絶対的支持を集めた傑物だった。ロックバンドを従えたら格好良くシャウトする一方、オーケストラをバックにしっとり聴かせても一級品。

 

ロック調、クラシック調だけでなく、かつてエロッぽい演出で話題になった女優とのデュエット「忘れていいの」などはムード歌謡そのものだったし、まさにノンジャンルの人だったと思う。

 

アリスをよく聴くようになったのはご多分に漏れず「冬の稲妻」の頃からだ。問答無用にカッチョよかった。「かぐや姫」的なちょっと陰気な感じでもなく「オフコース」「チューリップ」とも違うワイルドな曲の雰囲気に魅せられた。



 

フォークからニューミュージックに流行が移っていく中で、内省的過ぎず、ナヨナヨし過ぎず、硬派になり過ぎず、丁度いい頃合いのノリで若い世代のハートを掴んだ。

 

私も中学生時代にはアリスの楽曲をあれこれ聞きこんだ。印象的だったのが「帰らざる日々」だ。歌詞が実にドラマチックで歌い出しはやたらと重い。ところが途中からリズム感は大幅に変わり、どこかシャンソンを思い起こさせるような展開になっていく。

 

https://youtu.be/TtF2trMjYbc?si=Gjyb1ydHIodAP7Xg

 

それまで聴いてきた邦楽とはまったく違う雰囲気に引き込まれた。「冬の稲妻」みたいな勢いのある曲ばかり目立っていたが、この曲のような変化球?も見事だった。

 

私が好きな曲の一つが「22歳」である。どことなく「帰らざる日々」を思い起こさせるメロディー進行で歌詞の世界観もなかなか素敵だ。ちなみにふた昔ぐらい前までの22才って今の22才よりだいぶ老けていたのだと感じる。

 

https://youtu.be/FYLX_Y1ynXQ?si=cIblHam8pyJQlWMW

 

音楽活動の凄さとは別に我々世代が谷村新司に抱くイメージは「下ネタ」である。ウン十年前、ラジオの深夜放送ではビニ本のうんちくなどの下ネタを連発していた。単純に面白かった。

 

中学生ぐらいだった私は下ネタに興味津々だったが、まだまだ青春期の入口だったから、大人のくせに明るく爽やかに下ネタを連発する谷村新司の潔い感じを心から尊敬した。

 

下ネタはコッソリ、ヒソヒソと語るものだと思いこんでいた思春期の私にとってはある意味衝撃的だった。その後オトナになって年柄年中、あらゆる場所でワイ談を連発するようになった私だが、原点は谷村新司が「明るく爽やかにスケベを語る」という道を開いてくれたことに尽きる。

 

もちろん、当時から鶴光さんみたいな芸人や山城新伍あたりのオッサンが下ネタに励むことはあったが、カッチョ良かった「アリス」の大半の楽曲を作っている谷村新司が躊躇なく下ネタを炸裂させていたことはインパクトがあった。ワイ談、下ネタ業界としても彼の功績は讃えるべきだと思う。

 

このブログも15年以上続けているが、亡くなった著名人を追悼するような話は少ししか書いていない。自分の“教科書”だった側面がある人だと何か書きたくなるのだが、なかなかそんな人はいないものだ。

 

過去に書いたのは高倉健と田村正和ぐらいでその他はちょっと思い出せない。ハマショーにハマってそっちの“信者”だった私は谷村新司のファンだったわけではないが、それをさておいても彼がいなくなってしまったことは妙に切なく哀しい。

 

高倉健

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2014/11/blog-post_26.html

  

田村正和

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/05/blog-post_26.html

 

我がオヤジバンドは過去10回ほど人様の前でライブを開催しているが、「今はもうだれも」をオープニングでやったこともあるし「冬の稲妻」もしっかりカバーした。「チャンピオン」に至っては3回ほど演目にした。私が50の手習いでギターを買った時もアリスの楽曲を当然のように練習曲にした。なんだかんだ言ってとくに意識することもないほど「身近な存在」だったわけだ。

 

合掌

 

 

 

 

 

2023年10月18日水曜日

夜遊びと貫禄の話


夜遊びをしなくなった。これは現役男子としてマズい問題である。とっとと帰宅してノンビリする時間がやたらと増えた。同居する娘のほうが遅く帰宅することが多い。

 

このままでは好好爺になってしまいそうで問題である。コロナ禍をきっかけに飲酒量が激減したのが理由だと思う。なんなら禁酒も出来ちゃうぐらい酒を飲まなくなった。自宅ではほぼ飲まないので夜遊びもしない今では肝臓もきっと元気ハツラツだ。

 

先日、銀座の某クラブに義理で出かけた。行けば行ったでしっかり飲んで楽しく過ごすのだが、何となく飽きちゃうのが早くなった気がする。10年前なら2軒、3軒とハシゴするのが普通だったが、今は1軒顔を出したら満足して帰りたくなる。

 



夜遊びとは家に帰りたくない男の逃避行動が原動力なのだろうか。そんなことを真剣に考えてしまう。何度目かの独身生活も10年を過ぎ今は家庭内ストレスとは無縁だから職場からまっすぐ帰宅することにまったく抵抗がない。

 

男たるもの、止まり木に立ち寄ってこそホンモノだと昔から信じ込んでいた。仕事とプライベートを切り替えるために欠かせない儀式だと思っていた。止まり木を必要としない今の状態はおそらく仕事にも真剣味が足りないのかもしれない。気をつけないと…。

 



夜のクラブ活動にマメに励んだのは30代後半からの10年ぐらいだろう。そりゃあ今よりいろいろ元気だった。まだまだ睡眠不足もモノともしないパワーが有った。たっぷりな睡眠を求める今とは大違いである。

 

やはり身体には「慣れ」が大事だ。酒をグイグイ飲める肝臓も睡眠不足でもシャキっと出来る脳みそも日々の習慣が大きく影響する。惰性で繰り返すことこそが「訓練」の役割を果たし、肉体も意識もそれを標準として過ごしていけるようになるのだろう。

 

ノホホンとした最近の私の暮らしぶりには「訓練」と「慣れ」が足りない。3年もの長きに渡ってコロナを理由にグータラしていたツケが今の好好爺モドキに繋がってしまったみたいだ。

 

このブログの閲覧履歴を調べてみると過去の「銀座ネタ」が今でも読まれていることが多い。蕎麦を食っただのトンカツがウマかったといった話よりも、やはりちょっと神秘性のある夜の銀座を題材にしたほうが興味を持ってもらえるのだろう。

 

実際、以前にはよく銀座ネタを取り上げた。夜のクラブ活動に何らかの意味を見出したかったみたいで随分とあれこれ考察した。やはり習慣化しているからこそ見えてくる景色や思うところがあったのだろう。

 



グーグルのweb検索で「富豪記者 銀座」と検索してみたが過去ネタはあまり表示されなかったので、画像検索を試してみた。こちらのほうが過去ネタが表示される数が多かった。かつて「習慣」としてホステスさん達のセクシー画像を撮らせてもらったことがひょんなことで役にたったわけだ。

 

ついでだから目についた過去の銀座ネタを4つほど載せてみる。

  

銀座のクラブ SとM

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/01/blog-post_25.html

 

銀座 夜の部活

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/08/blog-post_7.html

 

銀座のクラブ 同伴 アフター

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/04/blog-post_11.html

 

何を言っとるんだ、チミは!

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/04/blog-post_16.html

 

 個人的には昭和の森繁さんの映画に影響された4つ目の話が気に入っている。銀座ウンヌンという話からは逸れるが、5年前に感じていたことが今でも克服できていないのが残念である。

 

三つ揃いの背広のベストのポケットに両手の先を突っ込みながら「何を言っとるんだね、チミは!」と言えるような貫禄溢れる姿にちょっと憧れているのだが、今の私にはまだまだそんな老成感は無い。

 

森繁さんが昭和の名作「社長シリーズ」に出演していたのは主に40代の頃である。にも関わらずアノ貫禄溢れる姿にはただただ感心する。50代も後半になった私に足りないのは貫禄である。

 

貫禄を出すためにも夜の銀座あたりで腹を付き出しながら「おい、そこのチミ、チミだよ、チミ!」などと社長シリーズを見習った行動を習慣化してみようかと思う。

 

 

 

 

2023年10月16日月曜日

麗しのエビフライ


数ある食材の中でもちょっと不当な扱いを受けているのがエビだと思う。同じ甲殻類でもカニのほうが珍重されている。エビ業界で偉そうな顔が出来るのは伊勢エビぐらいで、その他は常に脇役みたいな地位に甘んじている。

 

全ての元凶は回転寿司などで出てくるペラッペラに薄くて小ぶりな“謎エビ”のせいだろう。味も素っ気もないあのインチキみたいなエビが出回ったことでイメージが悪化したような気がする。

 

もともとエビは「長いヒゲと曲がった腰」が長寿を表すものとされ縁起の良い食べ物の王者として君臨していた。おまけに目が飛び出している姿から「メデタイ」象徴とも目されていた。

 

ウマいエビは本当にウマい。当たり前の表現だがそれに尽きる。マズいエビが溢れかえっているせいでそんな事実がないがしろにされている。実に残念だ。

 



江戸前寿司の花形は昔からエビである。にもかかわらず今ではボタンエビや甘エビなどの生モノ系に人気を奪われ茹でエビはどこか肩身の狭そうな気配を漂わせている。

 

一定水準以上の真っ当な江戸前寿司の店で食べるべきは茹でた車海老であり、穴子、小肌とともに“三巨頭”だと私は確信している。

 

寿司以外でもエビの影はやや薄い。エビフライという国民誰もが好きなはずの一品もナゼか“ついで”みたいに扱われている。トンカツ専門店はあってもエビフライ専門店が見当たらないのがその証だ。

 

もっとも私自身、あえてエビフライを主目的に外食先を選ぶことはほぼ無い。洋食屋さんやトンカツ屋さんでついでに頼むことが多い。でもウマいエビフライに当たるとこっちを主役にすべきだったと思う。

 



この画像は自宅の近所のトンカツ屋さんで注文したエビフライである。非常にウマかった。衣と身のバランス、揚げ加減、そしてボリュームもバッチリだった。主役であるトンカツを凌駕するほど魅力的だった。

 

ただ、タルタルソースが用意されていなかったことが残念だった。地団駄踏んで悔しがりたい気分になった。洋食屋さんじゃないから仕方がないが、やはりエビフライにはタルタルソースは欠かせない。タルタル人である私にとってはそこは譲れない一線だ。

 



こちらは銀座というかほぼ新橋にある小料理屋「かとう」で出てきたエビフライ。居酒屋的な気軽な店ではサワー系の飲み物に合わせたくなるのが揚げ物だ。たいていは鶏の唐揚げや軟骨やタコの唐揚げぐらいしか用意されていない。エビフライがある店はそれだけで惚れたくなる。

 

でも、居酒屋系の店の多くがタルタルソースまでは用意していない。レモンを絞ってソースをかけて食べることになるが、いつもタルタル恋しさで悶々とする。小袋に入れた「マイタルタル」を日頃から持ち歩こうかと真剣に考えてしまう。

 



こちらは銀座の洋食店「スイス」のエビフライ。なんだかんだ言ってタルタルソースである。ヤツの存在がエビフライの美味しさを5倍にも10倍にもしてくれる。老舗洋食店の場合、タルタルソースもこだわって作っているから嬉しい。

 

レモンを絞るだけの一口、ソースだけの一口、タルタルだけの一口と何段階かに分けてエビフライを味わう時間は幸せの極地である。最終的にはレモン、ソース、タルタルソースをすべてベットリつけて食べる。もはやエビの風味は感じられないのだが、そんな味も紛れもなくエビフライの味である。

 

同行者がいる場合は洋食屋さんで必ずエビフライを注文する。一人メシだとシチューにオムライス、コキールにハヤシライスなどを注文してしまいエビフライを逃しがちだ。揚げ物を頼むにしても“べシャメル星人”である私としてはクリームコロッケを優先してしまう。

 



誰かがいれば普段よりたくさん注文できるのでエビフライの出番がやって来る。相手が若い女子であればテキトーに肉類をいっぱい食わせる作戦を立てる。若い女子は肉に気を取られてくれるから麗しのエビフライの大半は私のモノになる。

 

この画像は日本橋「たいめいけん」の2階席のエビフライである。2階席だとそれなりに値は張るがいい感じのサイズのエビがたくさん盛られてくる。たいていの場合、エビフライは1~2本味わってオシマイというパターンだが、ここならドッサリ食べられる。エビフライ気分の時には最高だ。

 

ここまで書いてきて改めて実感したのだが、エビフライを大絶賛しているくせに、結局は私自身がヤツを二番手、三番手の食べ物として扱っている現実だ。それこそがエビフライを取り巻く不幸な現実である。

 

主役にはならないがバイプレーヤーとしては超一流。そういう意味ではエビフライは柄本明みたいである。

 



以上です。

 

 

 

 

 

 

2023年10月13日金曜日

男の威勢


もうすっかり過去の話みたいになったコロナ禍の社会。変われば変わるものである。ほんの3年前はこの世の終わりみたいにドンヨリしていたことを思うと今の状況が素直に嬉しい。

 

コロナによる社会の変化は他方面に渡る。難しいテーマはさておき、今日は男性のオシャレについて書いてみる。いっぱしの大人の男の身だしなみについてだ。

 

近年、ビジネスシーンにおいてもラフな服装は普及した。昭和の頃は誰もがスーツにネクタイだったことを思うと隔世の感がある。夏の猛暑は昔とは次元が違うから軽装で済むのは大歓迎である。

 

軽装のシーズンも終わったいま、街を歩く大人世代を眺めていると何だか随分とシャバダバな格好が目につく。別にキチンとピシッとスーツを着こなせとまでは言わないが、家でくつろいでいる時のようなちょっとだらしない格好が目につく。

 

コロナ禍で外に出なくなったせいで身だしなみに気を配らなくなった人は増えた。その後遺症は今も確実に世の中にはびこっているように感じる。

 

人様がどんな格好で行動しようがもちろん自由だが、いっぱしの現役を気取るビジネスマンなら多少はキリっとスカしていて欲しいと感じるのは時代錯誤なのだろうか。

 

私は古い人間だから夏の暑い時でもスーツが絶対だった。ネクタイこそしないが上着は必ず手に持って行動していた。侍の鎧兜ではないが「常在戦場」の意識で過ごしているから(ウソです)、一種の制服のようにスーツは欠かせない。シャツももちろん長袖である。半袖シャツは高校生の制服の頃から着ていない。

 

バカだと思う。非合理的だと思う。でも身だしなみって突き詰めればバカで非合理的なことにこだわるものだと思う。やせ我慢の美学という考え方もある。

 

イキかヤボか。昔からの東京人の行動規範である。厳密にはどちらがイキでヤボか分かりはしないが、自分なりのこだわりを持って我が身を装うことは心意気の問題でもある。ラクなほうに逃げるのはイキだとは思わない。

 

最近はシュっとしたビジネスバックを持つスーツ姿の人が減った。トートバッグやリュックをスーツ姿の大人が普通に使っている。個人的にはあれは格好良くないと思う。4年前にそれについて考察したことがある。

 ★スーツ姿とリュックの関係

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/11/blog-post_8.html

 

そちら側の愛用者からすれば大きなお世話だろうが、個人的には妙に気になる。ショルダーバッグの斜めがけなどもスーツ姿とは相容れない。ヘタするとスーツ姿にウェストポーチという組み合わせの御仁すら存在する。実にビミョーだと思う。

 

他人から見られる自分の姿を意識することはどんな場面においても大事だと思う。長く生きてきて断言できることは「人は見た目」という言葉は9割がた正しいということである。

 

だらしなく見える人は論外だし、汚いのも論外、中身も同じだろう。ヨレている服を平気で着る人も中身はヨレている。高級ではなくても己のスタイルに的確に合ったスタイルを確立している人はマトモだ。

 



靴もしかり。自分が靴好きのせいか、街を歩いていると人様の足元をついつい眺めてしまう。ピカピカに磨かれた靴を履いている人は案外少ない。駅頭に靴磨きが並んでいた時代のサラリーマンの方がよほど足元に美意識を持っていたのではないか。

 

駅前に靴磨きがいた時代はまさに高度成長期の頃である。時代の移り変わりとそれによってヌルくなってしまった世の中の空気を象徴する部分が大人の男達たちの靴の輝きなのかもしれない。

 

そういう私も最近は暑さのせいで靴磨きをサボっていた。簡単な手入れにとどめていたから近いうちにまとめて専門店に持参して助けてもらおうと思っている。

 ★靴は人なり

 http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/01/blog-post_25.html

 

時々顔を出す銀座のクラブでも他のお客さんの格好は気になる。確実にこの20年ぐらいで随分とラフになった。時代の流れという一言で片付けるのは惜しいことだと思う。

 

私が20代の終わり頃に迷い込んだ夜の銀座では格好良い紳士をたくさん見かけた。中にはトンチンカンな色の服の組み合わせもあったが「男の威勢」を感じさせるような姿をよく目撃した。

 

結局はTPOをわきまえることが段々と疎かにされてきたのだろう。直近の四半世紀の変化はそこに尽きると思う。夜の銀座に繰り出す際の自意識や美意識もそうだが、職場という舞台を前にしたオンとオフの明確な切り替え意識も薄らいできたのかもしれない。

 

「ヨソイキ」という言葉もすっかり死語になった。世の中から活気や勢いが失われてきたこととも無関係ではないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年10月11日水曜日

変態仮面


口に出すのが恥ずかしい言葉はいくつもある。その代表格が「パンティー」だ。「パンツ」なら平気で大声で口に出せるがナゼか「パンティー」は禁句にも近いぐらい発音したくない言葉である。

 

「ツ」なら大丈夫で「ティー」だから恥ずかしいわけで実に不思議だ。紅茶のことを「ティー」と普通に言えるし「ティーショット」「ティーシャツ」も大丈夫なのに「パン」が頭に付くと途端にダメだ。

 

文字で書く分には恥ずかしくないから何度でも「パンティー」と書き殴ることが出来る。でも口に出して言えない。男性なら分かってくれるはずだ。

 

発音した時の響きが可愛い過ぎるのだろうか。あの布地の中に収まっているモノのスペクタルな感じに比べて言葉の響きが愛らしいから頭が混乱するのかもしれない。

 

たいていのエロ系の言葉を堂々と口に出せる私だが、パンティーだけは違う。街ですれ違う人に「パンツ見えてますよ」とは言えるが「パンティー見えてますよ」とは言えない。

 

親しい間柄の女性に「今度来る時はパンツ履かずに来いよ」とは言えるが「パンティー履かずに来いよ」とは言えない。

 

あくまで小さい布地のことなのに何をそんなに恥ずかしがるのか自分でも分からない。でも、口に出すのも恥ずかしいモノだから見たくなってしまうという論法も成り立つ。強引か。

 

「パンツ見せましょうか?」「パンティー見せましょうか?」。前者なら断れるが後者なら黙ってうなずいてしまう。いや、前者でも「はい、よろしく」と言ってしまうかも知れない。

 

あの小さな布地を見たくなる男の心理は隠されているものを見たいという単純な欲求だ。堂々と見せられていたらたぶん23分で飽きる。相手が見せたくない、隠したいと思っているからこそ見たくなるわけだ。

 

その点、女性の脚線美は事情が違う。人によっては隠すどころか見せたい心理すらあるわけだから男側もしっかり眺めさせてもらえる。「太もも」「ふくらはぎ」という言葉も「パンティー」みたいに恥ずかしくない。

 



女性が脚を出す時代に生きていることは幸せなことだ。日本はもちろん、昔のヨーロッパでも女性の脚は隠すものだったらしい。胸元はパカンと開いているようなドレスでも例外なくスカートは超ロングであり、人前で脚が見えてしまうことは失態だったとか。

 

その時代の男性がタイムマシンで今の社会を見たら鼻血ドバドバだろう。今の時代の我々からすればすべての女性がパンティー姿で街を歩いているような光景に見えるのかも知れない。

 

脚線美を普通に目にすることは現代社会ならではの特権?だから世の女性陣にはロングスカートではなくミニ丈の服装をもっと愛用してほしいものである。

 

ハイヒールにしても元々はふくらはぎをキリっと引き締めて脚線美を際立たせるために存在する。すなわち、ハイヒールだったらふくらはぎを隠すようなスカートは論外だということになる。

 

日本でも女性が脚を見せるようになったのは戦後のこと。それ以前は脚を出す習慣はなかった。古典的な和装に脚を出す発想はないし、洋装に近づいた頃だってモンペが主流の頃もあった。まさに今は脚見せ時代と言えるわけだ。

 

パンティーという恥ずかしい言葉から随分と脱線したが、パンティー問題と脚線美はある意味で切っても切れない関係にある。美しい脚のラインの先に隠された三角地帯があるわけだからセットで男心をくすぐる。

 

脚は見られたいけど下着は見せたくない。この相反する心理というか真理が男性陣を悶々とさせるのだろう。

 

何が言いたいのかわからなくなってきた。

 

今日このテーマで書き始めたのには理由がある。私が好きな俳優の一人が「鈴木亮平」だ。徹底した役作りで知られる名優だ。彼は自分の代表作を尋ねられて「変態仮面」という映画をあげたそうだ。

 



鈴木亮平といえば外語大卒のインテリであり、大河ドラマ「西郷どん」で主役を演じ、テレビドラマ「天皇の料理番」では結核で早逝する主人公の兄としてゲソゲソに痩せ細った姿で熱演、かたやヤクザ映画「孤狼の血」では狂気に満ち溢れた極道役を見事に演じた。

 

どんな役でもこなす彼が「変態仮面」に思い入れがあると知って妙に嬉しくなった。パンティーを被った途端に悪を倒すスーパーヒーローに変身する設定の奇天烈な映画である。この役を演じるためにムキムキの身体作りに励んだらしい。

 

あの名優が「パンティー」という言葉を連発するだけでなく顔面に被って暴れまわる姿は何とも言えないシュールな姿である。でもその潔さ、その本気度、その振り切った姿勢は男として見習うべきだと感じた。

 

ちょっと違うか…。

 

 

 

 

 

2023年10月6日金曜日

ホタテ水着など


国の横ヤリで10月から「ふるさと納税」のウマ味が削られた。地方に好きにさせたくない国の意地悪ぶりが納税者として実に腹立たしい。自治体の財政支出に国がイチャモンを付けるわけだからタチの悪い話だ。

 

というわけで、いつもは年末が近づくとドカドカと寄付していたのだが、9月末に慌ててあちこちに大盤振る舞いをしておいた。ウン十万の前払いは嬉しくないが、後々戻ってくるのならおトクに返礼品を貰わないともったいない。

 

ふるさと納税は我が国の税制上で唯一と言っていい金持ち優遇制度だ。年収が高いほど寄付の控除額も大きくなる。大雑把に例を出すと年収800万円なら10万円、1500万円なら35万円、3千万円なら100万円ほどの枠が使える。寄付に応じて欲しい物を返礼品として貰えれば、その分は一種の減税になる仕組みだ。

 



近年、高所得者層に対する細かな制度変更で税負担が上昇している。増税への意趣返しとしてせっせと寄付をして返礼品をたくさん入手するのは一種の自衛策だ。

 

わが家のコメはもう長い間、ふるさと納税の返礼品で賄っている。今は山形の「雪若丸」一択である。ここ10年ぐらいの間で日本中の銘柄を試してみたが、硬めに炊くにはこれが日本一だと思う。

 

いつまでも鮮度が落ちない2合ごとの真空パックがウチの定番だ。炊飯器との相性もあるが、かなり硬めに炊くとこのコメの良さを実感できる。“硬派”の皆さんには強くオススメしたい。

 



バスタオル、フェイスタオルも定期的に取り寄せる。タオル類は古くなると何かとストレスを生むから贅沢ながら割と頻繁に新調している。お金を出して買うとなるとちょっと我慢しちゃうような生活必需品のプチ贅沢こそふるさと納税を活用するのが賢明だ。

 

生活必需品というと食料品やタオル類といったベタな連想しか出来ないのが私のダメなところで、よくよく考えればその範囲は広い。漠然と定例で買っている家電やサプリなど生活必需品の多くが専用サイトを探せばいくらでも実質タダで手に入る。

 

全国の自治体が天文学的な数の返礼品を用意しているので、欲しい物を探し出すのは結構面倒である。AIが進化しているのだからもっと細かく検索出来るようにならないものだろうか。

 

貧乏性の私はウン十万円の枠があるのにチマチマと1万円ぐらいの寄付を多数繰り返している。そのせいで返礼品選びが面倒になっている。以前、娘が欲しがっていたドライヤーのために7万円の寄付をしたことがあるが、そのぐらいの金額を基本にすればラクになるのだろう。

 

というわけで、昔より貰えるための寄付額が上がってしまったハズキルーペも改めて入手することにした。我が家に3個か4個ぐらいあるハズキルーペはすべて返礼品だ。56年前なら確か18000円の寄付で貰えたはずだが、今は4万円の寄付が必要だ。戻ってくるお金とはいえ何だか損した気分になる。

 

暇な週末にセコセコと返礼品選びをしていたので同居する娘が割り込んできてテキパキと欲しい物をリクエストしてきた。身繕いばかりに気を取られている若者ならではで妙に高そうな化粧品みたいなものをずいぶん申し込まされた。

 



税金にドカンと持っていかれるよりはマシだ。国は私に何もしてくれないが、一応娘の存在は私を真人間でいさせてくれている。多少は甘やかすのもアリだ。

 

でも化粧品以外に、たかだか髪をとかすクシのために長野県駒ヶ根市に15000円、顔のムダ毛剃りシェーバーのために名古屋市に18000円も寄付させられたのは意味不明ではある。

 

ちなみに私の簡単調理は豚肉を炒めるのが基本。わが家の冷凍庫は牛肉は皆無で豚肉ばかりだ。いつもネットスーパーでどうでもいい豚肉を買っているのだが、考えてみれば常に冷凍保存しているわけだから返礼品でブランド豚の冷凍品を入手するほうが賢明である。

 

ようやくそう気付いて沖縄や鹿児島の良さそうな豚肉を申し込んだ。ここで問題になるのがサイズである。イクラなども同じだが、小分けされているかどうかが一般家庭では大事だ。ちょうどよく小分けされている商品を探すのがちょっと大変だ。

 



さきほども書いたが、専用サイトはこのあたりの納税者側の厄介さをあまり考えていない。デカい塊肉が送られてきても扱いに困る。イクラも然りだ。キロ単位で冷凍品が来ても厄介なだけ。カユいところに手が届くサービスが切に望まれる。

 

ちなみに私の友人が青森県むつ市の返礼品「ホタテ水着」を入手して私に活用してくれと送ってきてくれた。決して私が注文した返礼品ではない。その友人はきっと私がホタテ水着を着用している姿が見たいのだろう。性加害みたいな話だ。

 

仕方ないから知り合いのナイスボディなオネエサンに着てもらって友人にはその画像を高い値段で売りつけようと思う。

 




そう考えたらエッチ系のグッズなども返礼品に採用する自治体が出てきてもいいと思う。ホタテ水着がアリならバニーちゃんやミニスカポリスのコスプレ衣装があってもいい。もっと言えば大人のオモチャだって需要はあるはずだ。

 

ついでにいえば、ふるさと納税のせいで本来入るはずの税金がヨソの自治体に流出しちゃうことを怒っている東京の自治体も発想を変えて独自の返礼品を用意すればいいと思う。

 

台東区であれば吉原のソープランド優待券、新宿区だったらホストクラブ無料ボトル券、銀座を抱える中央区だって夜のクラブ活動周遊優待券みたいな返礼品を用意すればいい。それぞれ立派な地場産業である。

 

なんだか話がとっ散らかったが、これから年末に向けて皆さんも有意義なふるさと納税活動に励んでいただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年10月4日水曜日

下町散歩 人形町


私の生まれ育ちは東京の荻窪だ。良いところだと思うが東京の中でも中途半端?な場所でもある。山の手でも下町でもない。ビミョーな立地である。


祖父より上の先祖は浅草界隈の人だったから個人的には山の手より下町に親しみを感じる。若い頃はダウンタウンボーイという佐野元春の歌をよく口ずさんでいた。


そんなこんなで昔から下町散歩が好きだ。文京区に住んでいた頃にも谷中、根津、千駄木あたりをよく散策していた。なんてこと無い路地を縫うように歩き築ウン十年の古い建物を眺め、そこで営まれている暮らしを想像したり、年季の入った喫茶店で一休みしてから老舗の寿司屋、蕎麦屋などを覗くのが楽しかった。

 

前の住まいは八丁堀の隅田川に近いエリアだったから、ぶらぶらと永代橋を渡って門前仲町をあてもなく散策するのが好きだった。豆菓子を買ったり深川めしをかっ込んだり、甘味処でのんびりしたり、怪しげなレコード屋さんのラインナップを眺めたり、あの街は私のレトロ志向を満足させてくれた。

 


 

今年の春からの住まいは三越前駅に近いのだが、そっちとの反対方向には人形町がある。人形町もまたレトロ志向というか、昭和感に浸りたい私の心をくすぐる街だ。

 

田舎から出てきた若僧が憧れるオシャレな雰囲気とは一線を画しているのが良い。都内各地のオシャレ指数(何じゃソレ?)が高いエリアはそれはそれで東京っぽいのだろうが、あれは土着の東京とは違う。

 

あっちは地方から東京デビューしてイキっていた人たちが築き上げた新興の“トーキョー”である。江戸の名残りを感じる東京とは別なイメージだ。私が好きなのは当然昔ながらの東京だから自ずと江戸文字で表記するのが似合う街ばかり興味が湧く。

 

というわけで最近は門前仲町通いをしなくなった分、人形町通いに精を出すようになった。小物屋さんを覗いたり甘味処で茶をすすったり、目に入る和菓子屋にはついつい吸い込まれる。

 

家で食べるスイーツもすっかり和菓子が増えた。最近よく買いに行くのが水天宮よりの「三原堂」。季節ごとにニクい和菓子を揃えている。他にも甘酒横丁の入口の「玉英堂」や東京三大鯛焼きの一つとも言われる「柳屋」、他にも売り切れ必至のどら焼きの「清寿軒」、小さいお店でも「縫月堂」「彦九郎」など書き始めたらきりがない。

 

観光客向けかと思って食べてみた「重盛の人形焼」も思った以上に美味しくてビックリした。この界隈は和菓子好きには天国みたいなエリアだと思う。

 

有名料理店にしても鶏鍋の「玉ひで」(改装中)、すき焼きや鉄板焼きで人気が高い「今半」や「日山」、江戸前鮨の名店「㐂寿司」、ねぎま鍋で人気の「よし梅」、洋食の名店「芳味亭」などの高級路線からそれこそ数え切れないほどの居酒屋や大衆酒場がテンコ盛りだ。

 

ヨレたTシャツに薄汚れた短パン、サンダル履きで散策している私は気軽な店ばかり覗いてしまう。まだ高級店を攻めきれてない。富豪と名乗る割にはどうでもいい店ばかり探検している。

 

この街を歩く時は一人散歩か娘と二人である。テキトーな店に入ってそこが当たりだった時の喜びを求めてさまよっている。「どうでもいい店」と書くと失礼極まりないが、「知る人ぞ知る店」を求めてさまよっているわけだ。

 



 

先日、ふらっと入った大衆割烹「京家」は絵に描いたような昭和レトロ感が漂う風情。かの吉田類も訪ねた店だとか。ユッケなどくじら料理も各種取り揃え、気の利いたメニューがたくさん揃っている。オジサマのオアシスそのものだった。「人形町っぽい」と言いたくなる小粋な空間だった。

 

別な日に入った居酒屋はフレンチ経験のある主人がジャンルに囚われないウマい料理を出してくれた。残念ながら店の名前を忘れた。㐂寿司のすぐ近くだった。ホッケの干物と上質な牛粗挽きハンバーグを一緒に食べられるような快適な店だった。

 



つい先日、夕飯にサッパリしたものが食べたくなって一人で人形町界隈をぶらついた。酒を飲みたくなかったので適当な店が思い浮かばない。頼みの居酒屋系もノンアルだと収まりが悪いし、その他の私が入りたい店は酒が前提みたいなところばかりである。

 

で、通りすがりに「普通のお蕎麦屋さん」が目についたので突撃してみた。「松竹庵」といういわゆる街場の蕎麦屋だ。ところが、メニューには気の利いた蕎麦屋的つまみが揃っていた。カツ煮まである。危うく飲みそうになったが何とかこらえて「冷やし鶏天そば」を注文する。

 



蕎麦自体は特徴もなくごく普通だったが、鶏天ぷらはちゃんと揚げたてで、つゆも辛めで悪くなかった。凛としたイマドキの高級蕎麦も捨てがたいが、こういう国民食的なフツーの蕎麦はやはりホっとする。

 

ちゃんと蕎麦湯も出してくれるし、そういう基本的な部分を手抜きしない点が良い。古い街だからこそのコンサバ志向が私のような世代には心地よい。

 

また別な日、人形町の目抜き通りにある「どうでもいい感じのラーメン屋」に入ってみた。なんてことのない造りで店名もベタに「人形町ラーメン」である。通りすがりに常に客が入っているので気になっていた店だ。

 



豚骨醤油が基本の味みたいだが、ノンポリみたいにいろんなメニューがあるところが逆に普通っぽくて良い。私は当然チャーシュー麺、一緒にいた娘は油そばを注文。ごちゃ混ぜにして食べるこの油そばが妙に美味しかった。専門店より上じゃないかと思える味だった。

 

ラーメンに美しさやモダンな感じ、凝りすぎたこだわりなどは不要だと信じる私のような昔の人間にはなかなか快適な店だった。イマドキのラーメン界隈においては「どうでもいい感じの普通」ってなかなか貴重かもしれない。

 

何だか誰に参考になるのかサッパリ分からないような話に終始してしまった。とりあえず“ご近所自慢”だと思ってご容赦ください。

 

 

 

 

 

 

2023年10月2日月曜日

ほとんどビョーキ


「ほんとんどビョーキですね!」。その昔、日活ロマンポルノの山本晋也監督がハヤらせた言葉だ。風俗店のルポなどで決めゼリフになっていた。私にもソッチ方面で“ほとんどビョーキ”みたいな面はあるが、今日はソッチの話ではない。

 

人それぞれ暮らしの中でヘンテコなこだわりは持っているが、私の場合、日用品などをたくさんストックしたくなる癖は“ほんとんどビョーキ”と言える。大人のおもちゃだって必要以上にストックしていないと不安になる。ウソです。

 

トイレットぺーパーは一人暮らしの時から常時20ロール以上はストックしていないと落ち着かない。ハゲ予防の塗り薬にしても半年分ぐらいのストックがないと気持ち悪い。サッポロ一番や気に入ったジュース類なども同様だ。職場で手軽の飲むスティックコーヒーも100本入りを買ってしまう。何でもかんでも常に必要以上にストックする。

 

不安障害みたいな心療内科レベルの話ではないものの普通の人よりはそちらに近いのかもしれない。私の場合、不安のためにストックするというより満足感のためにストックしたがる。

 



先日、コーンポタージュスナックを30袋も買ってしまった。ネットスーパーでなかなか見つからず、食べたい時に悶々とするのがイヤで思い切って段ボール買いをした。しょっちゅう食べるわけでもないのに大量に在庫があると優雅な気持ち?になる。

 

気に入った食材も日持ちするものはついつい多めに買い揃えてしまう。我が家の台所周りのスペースはいつも大混雑状態で定期的に賞味期限チェックに励んでいる。ちょっとバカだと思う。

 



レトルトカレーやパスタソース、即席麺に数々の調味料などのストックはまるで籠城する準備かのように揃っている。何があったか時々チェックしないと同じものを買い足すミスにつながる。

 

そのくせレトルト食品を食べるのは月にせいぜい12回だ。パスタだって似たようなものだ。大量に食料のストックがあるのにウーバーでデリバリーを頼む頻度のほうが高い。バカみたいだ。

 




以前の住まいには予備の冷凍庫まで用意して大量に冷凍食品もストックしていた。引っ越しの際にスペースの関係で泣く泣く予備冷凍庫を処分したおかげでムダな冷凍保存品は激減した。それでも生活に何の変化もない。ムダなストックが多かった証だ。

 

冷凍といえば、最近ようやく我が家の「タマネギ問題」が前進した。私の簡単調理は「まな板と包丁を使わないこと」が基本だ。何かと重宝するタマネギだが、皮を向いたり、ざく切りやみじん切りに励むことは出来ないわけだ。

 

とはいえ、私が頻繁に作るチキンライスやドライカレーにはタマネギは欠かせない。結果、冷凍タマネギを活用している。みじん切りになった冷凍タマネギはネットスーパーでも普通に買えるから冷凍庫にいくつもストックしている。

 

ところが、豚の生姜焼きなどに加えたいザク切りやくし切りのタマネギとなると市販品を見つけるのは厄介だ。スーパーに行けば数多くのカット野菜が売っているが、カットタマネギはなぜか見つからない。冷凍モノもネットスーパー各社を調べたがどこも取り扱っていない。

 

業務用のキロ単位の冷凍カットタマネギだと邪魔だ。使い勝手の良いサイズに小分けされていないと現実的ではない。そんなこんなでこの10年もの間、私の簡単調理はみじん切り以外のタマネギとは縁がなかった。

 

そんななか、ひょんなことで頃合いのサイズの冷凍カットタマネギを発見した。Amazonさまさまである。国産で200グラム単位で買える。さっそく取り寄せて使ってみた。

 



冷凍したまま炒めていればすぐに良い感じに解凍されて味もちゃんと美味しい。豚肉を生姜焼きのタレやその他の好みのタレで味付けしてカットタマネギも一緒に炒めてみたら一気に本格的な料理みたいになった。

 


つくづくタマネギから出る旨味や甘味は肉を美味しく彩ることを痛感した。豚肉炒めは月に45回は作るほど私の大好物である。冷凍カットタマネギのおかげでより一層充実したポークライフ?が過ごせることが嬉しくて仕方がない。

 

でもストック癖のせいで冷凍庫がカットタマネギに占拠されそうなことが新たな課題である。