別荘を持ちたいかと聞かれれば、たいていは持ちたいと答えるだろう。そりゃあ無いよりあったほうがいいが、はたしてホントにそうだろうか。
ステータスとしての別荘の話ではない。どこそこに別荘もってるぜ」というヒエラルキー的な話はそれはそれで富裕層にとって意味のあることだが、今日の話はもっとカジュアルな実用的別荘についてだ。
旅行が好きな人間は、あっちこっちに行ってみたいもの。必死の思いで別荘を手に入れたらそこばかり行くはめになりそうで微妙だ。私もそう思う。
昔、ダイバー仲間と八丈島に別荘を共有しようかと計画したことがある。具体的に計画は進んだが、八丈島だけで潜ることになりかねないので結局断念した。
もっとも、大富豪になれば話は別。私だって、気ままにアチコチに出かけるパターンを維持しながら、函館と那覇あたりに別荘が持てれば理想的だ。
勝手知ったる第二のわが家でゆっくりと静養。バタバタしないで日常生活の延長を自宅と別の場所で過ごすのは確かに魅力的だ。それはそれで憧れるが、旅行好きな私はついつい見知らぬ場所に行ってみたい。
いつも同じ場所にばかり行くのは新鮮味がないし、旅行という範疇からは外れる。結局は別荘行きと旅行は別モノと考えればしっくりくるのだろう。
こんなことを書き始めたのは、根強い人気の会員制リゾートを訪ねたことがきっかけ。
縁あって過去にも何度か滞在している「エクシブ」というリゾートがそれ。
全国各地に運営リゾートがある。どこもゆったりとした造りで施設内には和洋中の数種類のレストランもあり、柔軟に滞在スタイルをアレンジできる。
基本的に何百万円かの区分所有権購入代金と一定の年会費を払うことで、オーナーとしての権利を得る。
詳しい仕組みは割愛するが、確か年間20泊前後の占有保証があって、それ以外にも会員であれば全国のエクシブに優待料金で泊まれる。
占有利用日以外でも、はしょって説明すると、それなりに豪華なリゾートに滞在して、結構豪華に食事をして1泊2食で一人1万円チョットで足りるようなイメージ。
数百万円の出費が元を取れるかどうかは分からないが、オーナーになれば、全国のエクシブが使えるし、アクティブにアチコチ行きたい人には悪くないシステムだと思う。
今回訪ねたのは、エクシブ蓼科とエクシブ軽井沢。蓼科は初めてだったが、温泉大浴場も立派で、食事も想像以上に高水準で満足。
部屋もたまたま上位グレードがあてがわれたため、やたらと広い。画像のリビングの他に大きめのベッドが2台置かれた寝室、そのほかに和室もついていた。
何度か行ったことのあるエクシブ軽井沢のほうが敷地全体が小さめで動線が分かりやすく動きやすい。蓼科は蓼科で広大な敷地ならではの敷地内の散歩が気持ちよい。まあ好みの問題だろう。
施設全体が清潔で従業員教育もキチンと行き届き、レストランも高水準。中途半端なリゾートホテルに泊まるのならこっちのほうが断然良いと思う。
小さめの部屋でも和洋室仕様で、一般的なホテルから見れば贅沢な占有区間がある。繁忙期はなかなか予約が取れないようだが、それも当然だろう。
独自のリゾート運営を根付かせてきたエクシブ。箱根、京都、有馬あたりにも新規のリゾートを展開中で拡大傾向が続いている。
真っ当なレベルのサービス水準をこのご時勢でも維持し続ければ、タイムシェアリングというスタイルはこの国でも一層成熟すると思う。
2009年8月31日月曜日
エクシブ 会員制リゾート
2009年8月28日金曜日
力のおでん
若い頃はオヤジぶりたかった。渋い雰囲気の赤ちょうちんなんかに妙に惹かれた。気取ったカフェバーのインチキ臭さより、オヤジが集う店独特の空気感が新鮮だったのだろう。
オヤジの店というジャンルで外せないのがおでん屋だ。私は元々おでんが嫌いだったのだが、背伸びして渋い店に入るためには好き嫌いなど言っていられない。ある意味、頑張っておでんを食べていた。
そうこうするうちに美味しいおでんにも遭遇するようになり、最近ではすっかり関西風おでんの配下におさまってしまった。
ウマいおでんに遭遇することが多かったのが銀座なので、いまだにおでんを食べるのは銀座ばかり。それこそどんなジャンルの店だって揃っているのに、私の場合、銀座では寿司とおでんぐらいしか食べていない気がする。
先日、久しぶりに7丁目の「力」に出かけた。古い民家風の風情のある建物。ある意味、東京っぽい店だと思う。銀座っぽい店ともいえる。
1階はカウンター中心で、小料理屋、割烹系の佇まい。仰々しくもない代わりに安っぽい感じもない。実にいい塩梅。居心地の良い空間だ。
最初の生ビールが来た段階で名物の牛すじ土手焼をもらう。味噌ダレたっぷりのビールの恋人だ。
おでん以外の一品メニューが豊富なのでアレコレ楽しめる。酢じめしたアジに大根おろし、モミジおろしをタップリ載せてポン酢で味わう特製アジたたきが私のお気に入り。素直にうまい。
この日は、シマアジの刺身、じゅんさい、かき揚げ、長芋そうめんなどを注文。どれも美味しい。おでんにたどり着けずに満足しちゃうわけにはいかないので、おでんに切り替える。
一品ずつ、小鉢で出てくる。上等なお吸い物パレードだ。メカブのおでんなんか実に上品で健康的。トマトのおでんもイヤミのない味に仕上がっていて違和感はまったくない。
定番のおでんダネのほかに、この日、美味しかったのがとうもろこしのおでん。とうもろこしの強い甘みがダシ汁と調和してふくよかな味わい。目からウロコだ。
おでんダネがかなり豊富なのだが、いつも一品料理とアルコールせいで、おでんをたくさん食べられない。寒い季節が来る前に何度か通うことにしよう。
2009年8月27日木曜日
何が変わるのだろう
週末の選挙で民主党が圧勝し、いよいよ政権交代が実現する。なんか観念論みたいなイメージが染みついてきた政権交代だが、実際、何がどう変わるのだろう。
政治体勢が交代する以上、個人の暮らし、企業動向などあらゆる分野に影響を及ぼす。問題はいつからどの程度変化していくかという点だ。
15年前、細川連立政権の誕生で政権交代が実現した際には、あくまで「非自民」という旗印での寄せ集めに過ぎなかった。この点で今回の民主党政権誕生とは大きな違いがある。
また、当時の細川政権は、政治改革だけが使命であるかのような動きを見せたが、この点でも今回の政変劇は意味合いが違う。
決定的な違いになりそうなのが、予算編成の回数だ。細川~羽田と続いた非自民連立政権は、たった1度しか予算編成を担当していない。
社会党の離脱で少数与党になった羽田内閣が総辞職して、非自民連立はあっと言う間に崩壊、その後は社会党を巻き込んだ自民党が政権の座に復帰した経緯がある。
予算こそが政治の権力だ。この権力を1度しか行使しなければ影響力は強まらない。逆に過去何十回もこの権力を行使してきた自民党のパワーもたった1度の“退場”ぐらいでは揺るがなかったわけだ。
今回の民主党政権は、すでに岡田幹事長が発言したように任期中は解散しないという作戦を前提にしている。だとすると4年間は政変が起きない。その間の予算編成は常に政治主導を掲げる民主党が官僚支配を排除しながら行う形となる。
4年もやればアチコチに変化は生じるはずだ。さすがの官僚機構も15年前とは違い、自民党ドップリの軸足をしっかり民主党側にシフトさせる。
もっとも、策士揃いの自民党のことだから、右派、左派分断あたりの手法で必死に民主党の切り崩しに動く。まんまと分裂させられれば早々に政権の座に返り咲く可能性もなくはない。
話がそれてしまった。民主党政権で何がどう、いつから変化するのか。正直ピンとこない人は多い。激変というより、気付いたら随分変わっていたというパターンになるのだろうか。
税金の世界では、さっそく毎年の税制審議スタイルが変わるらしい。政府税制調査会の在り方が全面的に見直され、各省庁に配属される税制担当の政務官(国会議員)が改正要望を集約して、税調で調整する方針。
税調メンバーも政府ポストに就いている国会議員で構成され、下部機関である審議会で学識経験者の助言を仰ぐスタイル。これにともない、立ち位置が曖昧で、癒着、利権の弊害も指摘される党の税制調査会は廃止するという方針だ。
この動きが意味するものは、端的に言って「官僚支配から政治主導」。民主党が繰り返し主張してきたお題目だけに、ある意味、当然の路線変更だろう。
政治主導という姿勢は、選挙の洗礼など責任の所在が「官」よりも明確な「政」が重要任務を担うという意味で異論を挟む余地はない。
もっとも、政治主導の実現に必要なのは政治家の質であり、この部分が弱ければ、絵空事に終わる。民主党政治が目指す路線がこの国の「普通」になれば、必然的にアホやバカだと国会議員がやりにくくなる。
さきの税制審議の例も、国会議員の質が問われる取組みだ。各省庁の税制担当の政務官になれば、政策だけでなく、関係する基本的な税の仕組みを理解する必要がある。
「税は政なり」という言葉があるように税制に関する知識は政治のイロハだろう。にもかかわらず、税金を知らない国会議員は想像以上に多い。私自身、これまで仕事で接してきた経験からそう思う。
もちろん細かいことまで精通する必要は必ずしも無いのだろうが、それにしてもお粗末な知識のセンセイが多すぎるのも事実だ。そんなんじゃあ国政を託すには心許ない。
民主党が今後打ち出す戦略によって国会議員の質が高まるのならそれだけでも大いに意義深いことだと思う。
もっとも、小選挙区制によって選挙区での運動が一層シビアになったのが昨今の国会議員だ。彼らが今まで以上に政策遂行と勉強に追われると、次の選挙が危ないという図式も成り立つ。
結局、選挙に強い世襲議員じゃなきゃ政策遂行に没頭出来ないという悪循環も気になるが、それでも国会議員がキチンと仕事をするスタイルが確立されることは大事だと思う。
どうでもいい有名人がどうでもいいスローガンを掲げて当選し、何もしないままセンセイと呼ばれてVIP気分に浸る。こんなバカげた実態が無くなることが真っ先に必要だと思う。
相変わらずまとまりがなくてスイマセン。
2009年8月26日水曜日
4秒間の見つめ合い。
この前の週末、誰でも知っている人、それも強いオーラを持つ人と偶然遭遇した。さすがに相当に強いオーラを放っていた。
過去に仕事関係の祝賀会のような会合で間近に遭遇したことはあったが、今回は、あまりに突然だったため、ちょっとビックリ。
場所は軽井沢。駅近くの道路を運転中、道に迷ってウロウロしていたときのこと。すぐ隣の反対車線から手を振られてしまった。追っかけと呼ばれる人々に申し訳ないぐらい近い距離。
おまけにこちら側の方向には手を振る相手が私ぐらいしかいなかったようで、正面から真横、そして振り返る角度になるまで見つめ合ってしまった。しばし唖然。
もったいぶってしまった。
天皇陛下と大接近遭遇してしまったのがコトの真相だ。
軽井沢駅近くを運転中、駅舎前に日の丸の小旗を持っている人が大勢いるのが目に入った。交通規制の警官に誘導されながら路地を抜け、幹線道路へ出た途端、反対車線前方で白バイの先導する車列登場。
ゆっくりゆっくり進んでくる。沿道は大勢の人だかりで歓声が響く。沿道側の座席には皇后陛下、反対車線側、すなわち進行方向に向かって奥側に天皇陛下が座られていた。
皇后陛下は沿道の人々に手を振られる。天皇陛下はご自分の窓側、すなわち沿道と反対側に会釈される姿勢をとられていたのだが、そこにいたのが私のクルマというわけだ。
以前、新聞協会関係のパーティーにご臨席された際には、私だって仕事モードだ。両陛下が近くを歩かれる際には、キチンとお辞儀をした。ミーハー追っかけオバチャンみたいに手なんか振らない。
そんな私だが、今回は、素直に手を振ってしまった。それも結構一生懸命振ったような気がする。なんでだろう。。
そこそこ右よりな私だ。あとになって思った。
「あの場面はお辞儀だろ、オイ!」。
この日、家族でクルマに乗っていたのだが、助手席の妻も後部座席の娘も口を揃えて畏れ多いことを言う。
「パパにずっと手を振っていたわよ」。
「“お手をお振りになられた”と言い直しなさい」とまでは言わなかったが、家族2名の証言にもあるように、なぜか数秒間手を振り合ってしまった。4秒はあっただろう。わざわざ振り返られるぐらいの姿勢になるまでだ。結構長い時間だ。
後部座席から顔を出して手を振っていた娘ではなく、なぜか私だった。不思議だ。
でも、娘は悪ふざけにしか見えない原色の子供用サングラスをつけていたので、それで良かった。娘のあんなマヌケ顔を陛下に見られなくて良かった。世が世なら犯罪だ。
翌日、娘の絵日記では、黒いクルマの運転席でハンドルを握りながら片手を振る天皇陛下が描かれていた。どうして子どもの記憶って滅茶苦茶なんだろう。
ちなみに手元にあったカメラで撮影することなど思いもせずに手を振り続けてしまった私だ。記者失格だ。当然今日は画像がない。
娘みたいに絵が書ければ貴重な体験をもっと分かりやすく説明できたのだが・・・。
2009年8月25日火曜日
うな藤 穴場
この夏は例年になくウナギに縁がある。このブログでも何度か書いたが、マズいウナギに落胆したり、美味しいウナギに感涙モノだったり。
しっかりと筋の通ったちゃんとした食い道楽ではない私だが、それなりにウマいマズいは分かるつもりだ。ウナギだって当然人並み以上にまともかどうかは判断できる。
そんな私が久しぶりにウナギで大感激をした。以前から気になっていた店で想像以上にウマい白焼きに遭遇。バンザイだ。
店の名前は「うな藤」。杉並区の荻窪と善福寺の間ぐらいにある店だ。実はこのあたりに私の実家がある。そのため、うな藤自体はだいぶ前から知っていたし、出前で食べたこともある。
店に行って食べたのははじめてだ。もっと早く来れば良かった。こんな場所なのに実に真面目に職人気質の仕事を徹底している。店の前には「40分はかかります」と注意書きも貼ってある。
おひたしとかキモ焼き、水茄子をつまみに酒を飲む。一息ついてまもなく、予約時に注文しておいた白焼きが登場。画像のピントが甘くてすいません。
黒龍の大吟醸とともに味わう。ありえないほどウマい。こんな表現しかできないボキャブラリーを反省。“フワフワ、ポチャ”という感じの味だ。実家の徒歩圏内でこんな白焼きがあるとは知らなかった。不覚。
店自体は大きくはない。雰囲気もごく普通。壁に有名人のサインが飾ってあるのは微妙だが、こういう立地にこれだけの人が来ていることは確かに評判が高い証拠だ。わざわざ来る価値はあると思う。
うな重ももちろん、文句なし。ご飯の固さもいいし、タレも軽やか。いくらでも食べられそうだ。出前でボケッと食べていたことを反省。やはりその場で堪能するほうが格段にウマい。
今回、お店に行きたくなったのには理由がある。私がちょくちょく覗いているインターネット上のグルメサイトのせい。
クチコミだけで構成されているサイトなので、投稿数が多い店ならなかなか参考になる。
クチコミの評価が高い順に都内のウナギ屋さんをチェックしてみた。当然のように有名店がラインナップされていたが、なぜか「うな藤」がやたら上位に食い込んでいる。ウナギ好きの人々の熱い支持を集めていてビックリ。
出前で馴染みの店が人気店だとは知らなかったわけだ。行ってみて大正解。実家に行くたびに立ち寄ろうと思う。
やっぱりウナギは最高だ。うな重はもちろん、まっとうな白焼きは日本人が生み出した料理の中でも極上の一品だと思う(大げさでスイマセン)。
キンと冷えた冷酒に極上の白焼き。わさび醤油で堪能。カナカナ~と鳴くヒグラシの鳴き声なんかがBGMに響けば、私にとって極上の夏が完成する。
書いているだけでまた白焼きが食べたくなってきた。
2009年8月24日月曜日
魯山人
ぐい呑みとか徳利などの焼きものに興味を持つと必ずぶつかるのが魯山人モノだ。もちろん、その大半がニセモノ。実用食器を下働きの職人を駆使して大量に生産したこともあってニセモノが生まれやすい。
魯山人モノに詳しくない私ですら一目で「アッチャッチャ・・・」といいたくなる粗末なニセモノがあふれている。ネットオークションで魯山人作品を探すと物凄い数が出てくるが、それ自体おかしな話。
希代の美食家で美食のために陶芸を極めた北大路魯山人。私も焼きものにハマり始めた頃、展示会に出かけたり評伝などを読んだ。
端的に言って変人であり偏屈者。ちっとも人間的な魅力を感じない。哀れな感じすら漂う。事実、晩年は随分と寂しく過ごしたらしい。
魯山人の芸術性が高く評価されるようになったのはアメリカでの人気が逆輸入されたことがきっかけだ。
魯山人の人間性がまったく知られていなかったから、単に作品のみが絶賛されたわけだ。強烈かつネガティブな個性がマイナスイメージにつながり国内では没後しばらくは評価を得られなかったというのが定説だ。
ヨソの国で人気が出たから国内でも見直されるあたりが、日本人の日和見的性質を感じるが、まあ嫌われかたがハンパじゃなかったらしいから仕方ないのかもしれない。
このエピソードから気付かされたのが、固定観念や思い込みの怖さ。異端や門外漢が嫌われてしまうと結局、世の中から抹殺されかねない恐れがあるということ。魯山人だってアメリカからの賞賛がなければ今の名声があったかどうか分かったものではない。
異端や門外漢を忌み嫌う風潮はどこの世界にもある。その世界が権威という名で確立されたジャンルであれば尚更だろう。
モノの見方、発想に大切なのは、固定観念にとらわれない柔軟さであることは当然だが、それに加えて、異端であっても受入れる度量も大事な要素なのだろう。
もちろん、異端は異端ゆえに正しいかどうかの判断が難しい。かといって、全否定ありきではなく、耳をふさがないという姿勢で対応することは難しくはない。
権威という曖昧な価値観は、ややもすると前例や慣習重視と同じ意味に勘違いされる。これでは柔軟性がまったくない。
同じ仕事を長く続け、自分自身が若者とは言えない年齢になってくると、いろんな意味で柔軟性が足りなくなっていることを痛感する。世の中の多くの中高年がそんな“凝り固まっちゃった症候群”なんだと思う。
仕事にも遊びにも勢いがある人を見ると、共通するのはたいてい発想や意識の柔軟性だったりする。
なんかまとまりがなくなってきた。要するにもっとアレコレと柔軟に対応していこうと思う今日この頃だ。
2009年8月21日金曜日
鬼子母神の大イチョウ
どんなときでも左ウチワでいたいのだが、ご多分に漏れず、わが社でも最近は景気のいい話を聞かない。というか、なかなか大変だ。
ガラにもなく、胃が痛くなることが昔より増えてきた。私自身の身体がだらしなくなったのか、はたまた、業績が深刻なのか、なんともスカッとしない日々だ。
シンドイモードが高まるとプチ職場放棄をすることがある。煮詰まったら外の風を吸うのが一番。たとえ社屋の裏階段の踊り場だろうとも、しばしたたずめばリフレッシュ効果はある。
裏階段の踊り場の一角には私専用の椅子が置いてある。安いアウトドア用の折りたたみ椅子だが、ある意味、私にとって憩いのファーストクラスシートだ。
“血圧上昇中”と感じる時には、よくそこでマッタリしている。ときには隣のコンビニで夕刊紙を購入して、エロ記事に没頭しながら葉巻をふかす。
プチ職場放棄ならぬプチ逃避行というパターンもある。近場への散歩だ。わが社のほど近くに雑司ヶ谷・鬼子母神がある。由緒ある神社で風情もある。
今の時期はセミの大合唱が異次元的な効果を発揮してくれる。セミしぐれに包まれてボケーっとしていると、心と頭がほぐれてくる。こういう時間ってわずかでも大事だ。
さて、鬼子母神の敷地内には東京で2番目に古い大イチョウの大木がデンと構えている。樹齢は何と600年以上だとか。とにかく立派だ。圧倒される。
600歳以上の老木なのにこの時期はしっかり緑で覆われる。冬になれば枯れ葉を落とす。そんな何百年も不変の営みに接すると素直に感動的だと思う。
この大木に私は随分と助けられている。仕事はもちろん、プライベートでもシンドクなると、ここに足を運ぶ。大木をボケッと見るだけなのだが、それだけで効果がある。
大木を見ていると必然的に600年という気の遠くなるような年月に思いをはせる。600年だ。昭和大正、明治時代はもちろん、江戸時代だって通過してきたわけだ。
泰然と生きてきた大木を思えば、自分の心労がイヤでも小さく感じる。「まあいいか」「なんとかなるかも」「どうでもいいか」・・・。前向きなのか、あきらめなのか、投げやりなのかは分からないが、ひとまず心が落着くことは確かだ。
ひとまず落ち着けるというだけで、私にとって大木の癒し効果は抜群だろう。有難い存在だ。
でも、悩みや困っていることがないと大木を見に来ることはない。まさに“苦しい時の大木頼み”だ。
なかなか機会がないのだが、いつか、元気ハツラツ、ストレスゼロの心境でこの大木と向き合ってみたい。きっと弱っている時以上にエネルギーをもらえる気がする。
2009年8月20日木曜日
池袋 鮨処やすだ
“うまいもの不毛の地”である池袋に会社があるおかげで、私のデブ度合いはこの程度で済んでいる。良いことなのか不幸なのか微妙だ。
寿司好きの私にとって、まともな寿司を出す店が繁華街の規模の割に少ないことはストレスだが、考えてみれば、まともな店がたくさんあったら目移りしちゃって困るかもしれない。
さて、そんな池袋で貴重なお寿司屋さんである「鮨処やすだ」に久しぶりに行った。相変わらず美味しいものを安定して出してくれる。お値段も池袋では一級だが、それに見合った内容で楽しめる。
この手の店が増えれば池袋も悪くないのだが、ここが貴重な存在だということ自体が池袋の現実だ。やはり、開業という勝負の場所として池袋を選ぶ人は少数派なのだろう。
関サバや関アジも準備されていることが多い。名ばかりのマズい魚ではなく、ちゃんと独特の食感と味わいが感じられて嬉しい。やはり池袋では貴重な存在だ。
アルコールの品揃えも不満はない。というか普通の呑んべえなら充分満足だろう。日本酒も珍しい銘柄も積極的に用意してあり、気分に応じて楽しめる。
先日は、「翠露」の純米吟醸とやらにノックアウトされた。聞いたことのない銘柄だったが、信州・諏訪の銘酒らしい。スッキリしながらパンチもあってお寿司屋さんの肴とは相性バッチリだ。
この店のエライところは、日本酒の管理状態からも見て取れる。一升瓶であれこれ揃えているが、注文の都度、空気抜きを使ってシュボシュボ。ちゃんと徹底している。
日本酒バーなどでは珍しくないのだろうが、お寿司屋さんでこの姿勢を徹底しているところは少ないだろう。おかげで「口開け直後の酒はどれ?」などという質問をしないで済む。
暑い季節、つい冷酒を頼みたくなる。安心して劣化していない味を試せるのは有難い。
うまい冷酒が出てくれば、珍味系の肴が欲しくなる。もちろん、この店の特徴である味の濃い白身魚の刺身でもいいのだが、やはりひとひねりした肴が欲しい。
この日は、蒸しアワビ、ノドグロ塩焼き、このわた、その他にも魚の種類を忘れたが昆布締めが一品。チビチビ冷酒を楽しむにはもってこいだ。
この酒肴揃いの皿は、その都度メンバーが替わる。しょっぱい系、魚卵系、キモワタ系が中心選手だが、ウナギの白焼きが登場したり変わり種も登場する。
握りを頼む頃にはいつも酔っぱらっているような気がする。先日は、握りを8貫ほどたべたのだが、いつも5貫程度がせいぜいだったので妙に満腹になってしまった。
シャリも美味しい。ちゃんとシャリとしての存在感がある。フンワリとしたシンコの握りを口に放り込むと単純明快に幸せになる。
こんなことを書いていたらまた行きたくなってしまった。
2009年8月19日水曜日
武術好きなお坊さん
以前にも書いたが某占い師のもとにまた出かけた。3~4か月待ちは当たり前という人気なのだが、無理を言って、1か月程度の間隔で再訪した。
方位学、四柱推命とかの古典的スタンダードな占いに加えて、その人独自の“スピリチュアルな能力”があるらしく、今回はその部分を駆使してもらった。
霊能的なものについて、私自身は否定論者ではない。多少、気配とか気のようなものを感じることもあるし、非科学的だと一蹴する自信はない。
その占い師さんにも指摘されたのだが、私には多少そういう方面の“勘の鋭さ”があるそうだ。「子どもの頃には色々なものが見えていたはず」と言われた。
私は覚えていないのだが、幼い頃、得体の知れないものが見えると言って大泣きしていたことを母親や兄が記憶している。もし変なものが本当に見えていたのなら、その能力が年齢とともになくなってくれて有難い。余計なものは見たくない。
そんなこんなで、そういう能力を全否定できないわけだが、かといって、そういう能力というか口八丁で人の心を変に揺さぶる商売をする人については大半が眉唾モンだろうと思う。
今回見てもらった占い師さんは、どうなんだろう。闇雲に信じるのも恐いし、疑いだせばキリがない。インチキババア、インチキジジイには過去に何度か遭遇したことがあるが、その手のうさん臭い人種とは違うように思う。
具体的なやり取りは、こういう場所で書くようなものではないが、率直に言って、“なるほど、びっくり”という印象と“うーん、チト怪しいなあ”という印象が相半ばという感じだ。
少なくとも心酔する気にはならないが、頭から全否定も出来ない感じ。なんとも微妙だ。あと数回、それも結構な間隔を置いて言われたことを検証しながら判断するのが賢明なんだろう。
今回印象的だったのは、今は亡き人について“特殊能力”を使ってもらった時のこと。
突然、私の体調がおかしくなって、冷汗が滝のようにあふれた。少し不思議だったが、何か得体の知れないパワーとか波動のようなものってあるのかもしれない。
話の流れで、“守護霊的なもの”についてもアレコレ話を聞いた。占い師さんは、そういうものを見ると物凄く疲れると言う。そうはいってもせっかくの機会なので、四の五の言ってたら見てくれた。
私のバックにいるのは「日本の古いお坊さんで、武術を得意としていた人」だとか。もちろん、私に思い当たるフシはない。でも、盗っ人の親分とか、女衒だとか言われなくてホッとする。
実は高校生の時、少林寺拳法をやっていたことがある。「お坊さんの武術」である。旅先で古い寺を見るのも大好きだ。そう考えると妙に納得してしまう。
もっとも、古い寺だけでなく、城を見るのも大好きだし、少林寺拳法よりも野球やテニスのほうが好きだったから、「玉遊びが好きだったお侍さん」と言われてもおかしくないわけだ。
まあ、その辺の所をアレコレ追及しても仕方ない。
いずれにせよ、あの手の占い師さんの役割は一種のカウンセラーに近いのだろう。アメリカのようにセラピストが身近ではないこの国では、この手の人達が経営者や政治家などの相談を受けるケースが多い。
確かに、話を終えて帰る頃には、疲労感は強いものの、スッキリ感も確実にある。こういうスッキリ感って日頃なかなか経験しないものだと思う。
適度な距離感を忘れずに付き合っていければ一種のブレーンにもなりえるのだと思う。
2009年8月18日火曜日
100インチの蘭ちゃん
お盆の週末、奥方様が子どもを連れてお里帰りあそばされた。帰省といっても、クルマで小一時間の距離なので、いつもせいぜい2泊程度で帰ってきてしまう。
そんな短期間じゃこっちも悪さなんか出来やしないが、不在は不在。この貴重な時間をどう使おうかいつも大いに悩む。
家中、ムダに冷房を入れまくって、ムダに電気をつけっぱなしにするだけで妙に解放感を味わう。ガミガミ言う人はいない。もちろん、裸族として過ごせるのも嬉しい。
録画したまま見ていない映画やドラマを見ようかと思ったが、最近、なかなか活用していないホームシアターを思い出した。100インチスクリーンを久々に稼動させる。
酒を飲みながらキャンディーズと桜田淳子のDVDを心おきなく鑑賞することにする。
写真のようにリビング正面の壁には飾り棚兼テレビ台があるのだが、この家具の上部にスクリーンが格納されている。部屋の反対側の壁面にプロジェクターがあり、そこから映写する。
プロジェクターといえば、その昔は、真っ暗な暗室のような部屋じゃないと見られなかったが、最近は随分改善され、そこそこ周囲が明るくても充分鑑賞可能。わが家のプロジェクターは5年ほど前のものなので、最新式ならもっと進化していると思う。
桜田淳子サマの画像がプロジェクターを下ろした状態だ。最初の写真に写っている50インチテレビ4枚分の大きさになる。下側に映っているDVDプレイヤーの大きさと比較してもらうとイメージしやすいと思う。結構迫力だ。かわいい淳子サマはよりかわいくなる。
ちなみにこの数日前、全盛期の淳子サマがなぜか私の幼なじみという設定で夢に出てきた。なぜかふたりで蚊帳の中で子どもの頃の思い出を語り合うという切ない夢だ。この日、そのせいもあって映像を見ながら妙に親近感を感じてしまった。バカなのだろうか。
友人がくれたスペシャルDVDは、デビュー前のオーディション風景から少しずつ成長する淳子さまの軌跡が網羅された作品。
この友人も最近、mixiの日記で「淳子論」を熱く熱く語っている。実に深い深い分析と考察がmixiのなかで展開されている。
私の場合、昔、モーレツなファンだったことは事実だが、大人になってから発売された回顧録のようなDVDボックスとか大全集みたいな商品を買っていない。その辺も迷わずコレクションしないとダメだと思う。反省。
ところで、あの時代のアイドルの賞味期限の短さに改めて驚く。二十歳も過ぎれば、一気にカワイコちゃん路線からしっとり系に転換させられる。
今の時代は30歳ぐらいでもヒラヒラした格好でカワイコぶっていられるのだから隔世の感がある。昔はオトナになるのが早かった。というか、いまの日本人がみんな幼いのだろうか。
さて、わが家のホームシアターだが、スクリーンよりも音響の良さが自慢だ。いにしえのアイドル歌謡だってバッチリ。自分の声が聞き取れないほどの音量にして歌っていたので、きっと隣の家は迷惑だったと思う。
マッカランのロックを片手に、ツマミはカッパえびせんとキャベツ太郎だ。結構酔う。裸族で酔う気分はすこぶる楽しい。いまさらながら草彅クンの気持ちが良く分かる。
さて、お次はキャンディーズだ。すり切れるほど見た解散コンサートのDVDだ。やはり蘭ちゃんの可愛いさは圧倒的だ。
子どもの頃、平凡だか明星で、蘭ちゃんの実家が杉並区にあるという情報をキャッチ。杉並区に住んでいた私はいてもたってもいられず、休みになると自転車で徘徊。「伊藤」という表札の家を見つけるたびに勝手に感動。「きっとここだ」と思った家が5~6軒はあった。バカみたいだ。
話を戻そう。キャンディーズのDVDを見ても思うのだが、MCを聞いていて、当時の若者の話す言葉は実にキチンとしている。立派にオトナだ。とくに蘭ちゃんだ。礼儀正しいし、素晴らしい。ただのエコヒイキかもしれない。
やっぱりキャンディーズ、というか蘭ちゃんはベリーグッド!だ。こちらも2~3年前に発売された4枚組DVDを値段を理由に買わなかったことを後悔する。
すぐにパソコンを起動して、ヤフオクで未開封品を見つけて落札する。よく見るとちっとも安くない。出品数も少ない。考えてみれば、今更キャンディーズのDVDを買う人は限られているだろうし、売りに出す人もいないだろう。
買えてよかった。家宝にしよう。
2009年8月17日月曜日
オバマさんと被爆地
11月にアメリカのオバマ大統領が来日する。早くから焦点だった広島・長崎の被爆地訪問は残念ながら見送られることになりそうだ。
歴史的訪問への期待がかつてなく高まっていただけに見送りは率直に残念。以前から「核なき世界」を声高に提唱するオバマ大統領だけに被爆地訪問というトピックの実現が強く期待されていたわけだ。
「核なき世界」を理想論という批判もあるが、世界唯一の被爆国としては、理想の実現を切に願うしかない。そうじゃないと“日本も核武装しましょう”みたいな物騒な話が広がっていく。
今回の被爆地訪問見送りは、日程的な問題も大きかったようだが、謝罪外交的印象を避けたい米国側の政治的思惑が影響している。
初訪問が謝罪イメージで受け止められるわけにはいかないというメンツの問題だ。原爆投下については米側にも言い分はあり、政府関係者としては、友好ムードを演出する儀礼の場で歴史認識で紛糾することは避けたいというのが本音だ。
ここで少し気になるのが、「現場訪問イコール謝罪外交」という硬直したイメージについて。訪問はあくまで訪問であって、謝罪とセットで認識するのは物事を複雑にしてしまう。訪問自体を謝罪を意味するものとして定義してしまうと今後も被爆地訪問は難しくなる。
もちろん、人類史上もっとも凄惨な大量破壊兵器による無差別殺戮は歴史の事実であり、何よりもまず謝罪を求めるという声もあるだろう。
そうした意見も正論であり否定する気はない。ただ、それとは別に現場を見てもらうことの意義、現場を見せる義務の大事さについてもっと理解が深まってほしいと痛感する。
まず現場を見てもらう。このことの意義って、表層的な発言を引き出すことより優先されていい。実際に見た人は分かると思うが、広島、長崎にある資料館などの被爆関連施設が放つメッセージ性は強烈だ。
被爆後64年が経っても、悲惨な事実を語る声なき声は弱まることはない。あの手の施設を見るたびに日本人はもちろん、来日する外国人すべてに見てもらいたいと思う。
アメリカに限らず各国の指導者にはぜひ足を運んでもらいたい。また、そう働きかけることは外務省をはじめとする外交当局の重要業務だと思う。
東京訪問が基本の諸外国の指導者は地理的問題を広島・長崎への訪問断念の理由にする。だったら、東京にも被爆関連施設を設けたっていい。被爆地ではなくても、被爆国家の首都であり玄関だ。各種資料や写真を展示する施設を作ることは難しいことではないはずだ。
歴史認識や立場の違いを議論することも大事だが、何よりも凄惨な実態を淡々と知らしめることこそがこの国の使命だろう。
2009年8月14日金曜日
メモリーキーパーの娘
久しぶりに映画で号泣してしまった。とはいっても、「ET」を見ても「ゴースト」を見ても号泣し、寅さんを見てもたまにチョイ泣きする私だ。あまり参考になるかどうかは分からない。
映画の名は「メモリーキーパーの娘」。劇場公開作品ではなく、テレビ映画のようだが、数年前にアメリカでベストセラーになった小説の映像化作品だ。
アメリカ人の琴線と自分のそれとは根本的に違うと思っていたが、どうしてもその本が読みたくて、数ヶ月前に翻訳本にチャレンジした。
元来、翻訳本が苦手なので半分ほど読んだところでギブアップしてしまった。ちっとも没頭できなかった。DVDが8月に発売されるという話を聞いたので、小説は放っぽらかしにしていた。
翻訳本は無駄な表現というか意味不明な直訳的装飾言葉が山盛りで、作家の微妙な意図が伝わらないように思う。
待ちに待ったDVDは、それなりにストーリーが割愛されていたが、配役のイメージも原作に近い感じで素直に作品に集中できた。
ストーリーは、単純に表現するとざっとこんな感じ。
~~1964年、大雪の夜。医師デビッドは、初めてのわが子を自らの手で取り上げた。生まれたのは男女の双子。だが娘は障害を持っており、とっさに彼は、立ち会っていた看護師に娘を施設に連れて行くよう依頼する。
妻には「娘は死産だった」と偽った。幼い頃、病弱な妹を亡くした彼は、母の悲しむ姿が忘れられなかった。最愛の妻を苦しませたくない。その一心での決断。間違いのない決断のはずだったが、その嘘がやがてすべての歯車を狂わせていく。
赤ん坊を託された看護師は行方をくらまし、障害をもつ赤ん坊を自分の子として育てはじめる。死んだことにされた娘をとりまく人々の25年とは・・・~~。
ざっとこんな感じ。思い出すだけでもウルウルしてしまう。デビッドの心情を思うと切ない・・。
翻訳本を読んでいる時にはピンとこなかったが、映像作品を見て、ようやくアメリカで500万部を超えるベストセラーになったことが理解できた。
キリスト教的バックボーンを持つ彼らには堪らないストーリーだろうし、筋立てが実にドラマティック。はまる人ははまると思う。
私がウルウルしてしまったポイントは、登場人物の誰ひとりとして責められない切なさに尽きる。大きく狂っていく歯車だって、もともとはその時々で真剣に考え、判断を下した結果だ。歯車を狂わせようなどと考えていた人はいない。
医師である主人公が持つ専門知識や社会的な時代背景も考慮すると、主人公の選択は安直にエゴだとは言い切れないし、その業を負ってしまった彼のその後の葛藤を思うと実に切ない。
映画を見終わった後、変な話、男の平均寿命が女より遙かに短いという現実に妙に納得してしまった。そんな感想を抱くようなストーリーだ。
中年男にこそ見て欲しい作品だ。
2009年8月13日木曜日
ウナギ 大江戸
7月の終わりにウナギを外しまくった話を書いた。安直に買ってしまった蒲焼きや適当に入った店の鰻重などがダメダメ続きでまいった。
8月の頭に、ちゃんと真面目にウナギと向き合おうと決意してわざわざ日本橋まで出かけた。
新しい下着を身にまとい、散髪も済ませて(ウソです)わざわざ訪ねた店は「大江戸」という老舗。他にも名店はいくつもあるが、予約できないとか、酒飲みにはあまりにメニューが少ないとか、いろんな要素を考えて選んだ。
ウナギの名店の中には、酒肴メニューは邪道とばかりに何も用意していないところもある。まともなウナギなら調理に時間がかかる。その間、ただ修行僧のように待たせるのではなく、楽しく呑ませてくれた方が良心的だと思う。
下戸で小食ならいざ知らず、私の場合、肴がなきゃ酒が呑めないし、結構な量の肴を食べたからってメインをおろそかにするほど無粋でもない。
あれこれつまみを楽しみながら酒を楽しみ、その後、白焼きを愛でながら酒を仕上げて、鰻重をかっ込む。これが理想だ。
そんな基準で選んだ「大江戸」。お金持ちは玄関正面の入口からお座敷に行く。私は、玄関右手の“食堂”と書かれた扉を開く。
私の弁護のために書くと、お座敷でどうでもいいコース料理を食べるより、アラカルトでじゃかじゃか注文したかったので、「非お金持ち用入口」をくぐったわけだ。
席ごとにのれんが掛かった面白い造りなので個室感覚でしっぽりできる。割と酒肴メニューが多いので、このパターンは正解だ。
キモの煮付けがあると聞いたので、キモ焼きではなく、そちらを頼む。カツオのタタキやイカ刺しにコノワタがトッピングされた一品などを頼む。
ウナギ屋さんのつまみだ。うざくも外せない。さっぱりと夏のウナギモードだ。冷酒が進む。
この店、冷酒メニューが豊富。ウナギ屋というジャンルにしては充分すぎるほどラインナップされている。1合づつあれこれ頼む。
1合といっても、片口で供される冷酒は7勺程度か。ちょっと少ない。だからいっぱい注文してしまう。酔う。
そうこうしているうちに、白焼きが登場。ウットリする。「冷酒に合う肴コンテスト」で20年連続1位に輝いているだけに最高だ。
そんなコンテスト、聞いたことがない人も多いと思うが、それもそのはず、私の頭の中で随時開催されているコンテストだ。私しか知らない。
脂ののった白焼きにワサビをしっかり載せて醤油で味わう。ガツガツ噛むと言うより、軽めに歯を立てて、ほっこり崩れて行く身を惜しむかのように口の中で転がす。
舌の上で広がりかける脂をワサビがせき止める。醤油が混ざることで油とワサビは風味という名に変身する。そこにキンと冷えた辛口の純米酒あたりを流し込む。
天国だと思う。抱かれてもいいと思う。
こちらの店は鰻重がウナギの量の違いで確か5段階ほどに分かれていた。私は上から2番目のサイズを選ぶ。一番デカイのにしたかったが、なんかオトナとして恥ずかしかったので仕方ない。
フタを開けるとご飯が見えないほどウナギが鎮座している。目の保養だ。見ているだけでウットリする。今の私には、平凡パンチとかのグラビアより、鰻重を眺めているほうが興奮する。
ムシャムシャ食べる。タレが甘すぎず主張しすぎず美味しい。ご飯も柔らかくなく美味しい。肝心のウナギも率直に美味しい。四の五の言っても仕方ない。まったく問題なし。
もっと美味しい店もあるだろうが、トータルな居心地やサイドメニューの感じなどを考えると充分満足できた。失敗続きだった今年のウナギ戦線、ちゃんとした路線に戻って来たような気がする。
鰻重の最後にはご飯だけ残ってしまいがちだが、今回はウナギたっぷりだったので、ウナギ自体も最後まで付き合ってくれた。幸福だったのでついつい撮影。
最後にひとつ、余計なことを書いてみる。キモまでひっくるめてウナギをいっぱい食べても、昔のように“翌朝の反応”がないことが少し寂しい。
2009年8月12日水曜日
リゾート踊り子 青山やまと
高速料金の割引のせいで、休日の混雑が結構シビアらしい。そんな時に好き好んで運転したくない。すっかり長距離ドライブとご無沙汰している。
先日も伊豆半島まで1泊で出かけたのだが、結局電車を使った。いままで電車で伊豆方面に行く場合、新幹線と在来線乗り換えで出かけていたのだが、今回初めてスーパービュー踊り子に乗ろうと計画。
熱海まで1時間ぐらいかかるらしいので、いままでは半分ぐらいの時間で済む「こだま号」一辺倒だったわけだ。でも旅行気分を味わうには、それっぽい特急もいいかもしれない。
週末絡みだったので、「スーパービュー踊り子」の適当な時間帯は結構混んでいた。仕方なく、聞いたことのない電車を予約した。
その名は「リゾート踊り子」。
名前が楽しそうで良い。単なる「特急踊り子」はかなりシケシケらしい。“リゾート”という冠をわざわざ付けるからにはきっとイケてるはずだ。
冒頭の画像がその列車の画像。妙に天井が高くて窓もだだっ広い。なんかウキウキだ。外装もカラフルで単純明快に“遊びに行く電車”というオーラに満ちている。
とはいえ、変なところがダメダメ。矢沢永吉風に言うと「シャバダバ」だ。まず車内販売が無い。これって萎える。普段買わないような弁当とかお菓子を空腹でもないのに買ったりするのが電車旅の醍醐味だろう。
寝台特急北斗星に乗った時には、車内販売が来るたびに「きのこの山」とか変なクッキーとかを必ず買って喜んでいた私だ。「リゾート踊り子」は、この部分だけでシャバダバだ。
続いての問題点は、屋根の広がり間が重視されているせいで、荷物を載せる網棚がないこと。すべて床置きだ。それに加えて、窓の横にあるはずの上着をひっかけるフックもない。脱いだ上着は行き場がない。変な話だ。
それ以外にも椅子の背にポケットがないから何も入れておけない。決定的なのはそれぞれの椅子にテーブルがないこと。今回は弁当を食べなかったが、駅弁タイムを楽しみに乗り込んだ人には最悪だと思う。全体にのっぺりしすぎ。
一応、グリーン車なのにこういう現実だ。全然、客の目線で考えていない。この「リゾート踊り子」は週末限定運転らしい。だから中途半端な装備でも許されているのだろう。そういう姿勢って何かイヤ。シャバダバな感じだ。
さてさて、この中途半端な特急が本領を発揮するというか、急にヤル気を出すのが、熱海を過ぎたあたりから。長いトンネルに入るとドーム状の天井が大変身。
特殊塗装とイルミネーションの演出で天井が画像のように変化する。一種異様だ。凄いことは凄い。ちょっぴり興奮した。
でもよくよく見ると悪趣味とも言える。妙に写実的な南国の魚がたくさん描かれていて少し不気味。クリスチャン・ラッセンの絵をヘタクソにした感じ。長いトンネル内は本来真っ暗に近い状態なので、イルミネーションの彩りが妙にグロテスク。
まあ話のタネにはいいかもしれないが、かといって、前述した数々の不都合装備の問題点をごまかせるほどのインパクトはない。
正直なところ「そんな変なパフォーマンスするぐらいなら、基本装備をしっかりしやがれ」って言いたい感じだ。
さて、この日訪れたのは伊東の「青山やまと」という宿。良い評判を聞いていたので以前から行ってみたかった宿だ。
思っていたより大箱の旅館だ。もう少し凛とした感じを想像していたが、良くも悪くもカジュアルな様子。
大浴場、食事など全体の印象は正直言って普通。さほど特徴的な要素はなかった。可もなく不可もなくって感じ。
宿のことより、シャバダバな列車の印象が強い週末旅でした。
2009年8月11日火曜日
ハマショーと五木ひろし
名曲のカバーブームが続いている。徳永英明の“女性ヒット曲集大成功”がきっかけだ。
思えば、「流行歌」の歴史が浅いせいなのか、日本では過去のヒット曲のカバーは今までポピュラーではなかった気がする。
80年代のアメリカでは、50~60年代のヒット曲のカバーが随分さかんだった印象がある。モータウンの名曲を路線の違うロックミュージシャンがカバーするようなパターンだ。
日本の場合、言葉の使い方が時代によって大きく違ったこともあるのだろう。とくに昭和40年代ぐらいまでの歌は言葉自体が極端に古いので、リバイバルカバーにつながらなかったのだと思う。
裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の歌詞なんてあの時代でなければ成り立たないし、「こんにちは赤ちゃん」とか「憧れのハワイ航路」あたりもシラフで口ずさむには勇気がいる。
徳永効果で随分いろんなカバーを耳にするようになったが、単にカバーのためのカバーで終わっているのが今の姿だ。
カバーとはいえ、カバーした歌手の代表曲といわれるぐらいに大ヒットする名曲を聴いてみたい。
さて、前振りが長くなった。今日、こんなネタを書き始めたのには理由がある。笑いと涙なしでは聴けない物凄いカバーを発見したことを書きたかったわけです。
「五木ひろしが熱唱するハマショーの歌」。
結構衝撃だった。
実は私は30年来のハマショーファンです。最近のライブではオトナ買いでチケットを入手して地方会場まで旅行を兼ねて行ってしまうほど。
昔あった“カルトQ”というオタク的クイズ番組に「浜田省吾編」があったら結構いい成績を残せる自信もある。
そんなハマショーファンの私が、iPodに新しい曲を追加しようと専用の楽曲購入サイト(iTune)であれこれと検索をかけていた時に事件は起こった。
ハマショーの曲はソニー陣営なのでiPod用に購入することは出来ない。そんなことは百も承知なのだが、このサイトの検索機能がスグレモノで、オプションで「作曲者で検索」とかいう機能がある。
ハマショーファンとしては、この機能で「作曲者・浜田省吾」で見つかる曲を探したくなる。ハマショー以外が歌っているハマショーの曲を見つけられるわけだ。
検索すると結構出てくる。さすがに史上最高の音痴アイドル・能勢慶子の「アテンションプリーズ」(昭和54年)を作曲したこともある我らがソングライター・ハマショーだ。
検索結果の一覧表示を見ていたら、歌手名「五木ひろし」を発見。曲は「悲しみは雪のように」。昔のドラマ主題歌でヒットしたアレだ。
♪だ~れもが~、ウォウォウォ~♪
演歌の大御所が何を血迷ったかカバーしている。迷わず視聴もせずに1曲200円で購入。
ダウンロード後、じっくり聴いてみた。
イントロの演奏がオリジナルに近い。もっと演歌風、五木ひろし風にすればいいのに・・。五木ひろし、随分とチャレンジャーだ。
聴いている間、なんかゾクゾクした。頑張っているんだけど気持ち悪い。悪いけどそういう表現が的確だろう。
よくカラオケスナックとかで、オヤジが無理に若い歌を歌っているイタい光景を目にするが、まさにあんな感じ。
私の知り合いにも、いまだに光GENJIの「パラダイス銀河」を歌う70歳近い人がいる。いつもリアクションに困る。
さて五木さんだ。とくにサビがつらい。どう頑張っても五木節だ。五木ファンには五木節で歌うロック調の曲がたまらないのかも知れないが、ハマショーマニアの私としては逆立ちしても納得できない。
ハマショーはどんな顔して五木ひろしサイドの申し入れを承諾したのだろう。。。そして五木ひろしはどんな顔してあの曲を聞き込んだのだろう。。。
想像すればするほど不思議な世界だ。iPod愛好者はぜひ、ハマショーの五木ひろしバーションを聴いてみてください。
2009年8月10日月曜日
優しくない温泉
先週書いた“第二の故郷”草津温泉の話を少し補足してみる。
温泉天国ニッポンのなかでも草津の湯の強さは驚異的だ。大昔から「恋の病」以外は治すと言われてきたが、あながち大げさではない。
子どもの頃、初めて行った草津の湯でバシャバシャと騒いでいたら、目に温泉が染みて痛くて泣きそうになったほど。
大腸菌などはわずか数秒で死滅させるほどのパワーがあるお湯だ。思春期のニキビ退治にも威力を発揮した。
ニキビ面の当時、2~3日滞在するだけで、ウソのように肌は綺麗になった。東京に戻って数日経つとニキビ面は復活してしまうのだが、子どもの頃から効能を実感するには充分な体験だった。
日本を代表する温泉地だけあって、草津では、多くの温泉宿が宿泊客以外にも大浴場や露天風呂を使わせてくれる。お湯に関しては、もったいつけない感じが嬉しい。
リゾートマンション族としては、この点が便利。マンションの大浴場も源泉掛け流しで泉質に文句はないが、やはりいつも同じだと飽きがくる。風情のある老舗旅館に気軽にお湯をもらえるところが草津の利点でもある。
最近は、宿以外に日帰り入浴施設も充実してきたので、長期滞在もオススメだ。アホみたいに巨大な西の河原露天風呂とか施設充実の大滝乃湯あたりは、たしか町営で料金も安い。
なんといってもヘンピな山の中だけに食事の点では特筆すべきことはない。旅館に泊まらないマンション族にとっては、なおさら食の不満は大きいが、こればかりは仕方ない。お湯の良さで我慢するしかない。
そば屋とうどん屋ぐらいだ。一応、中華とか焼肉屋もあるが、美味しいものを食べに観光客が来る場所じゃないし、そういう意味では普通の田舎の村みたいなもの。私もヘタすればコンビニめしで済ます。
何よりのご馳走は「空気」。標高の高いところに位置する草津は、真夏でも朝夕は涼しい。マンションにエアコンが無いのがその証だ。暑がりの私が夜中に寝苦しさを感じない。これって夏場は天国だ。高原の空気がご馳走などというと洒落ているが、ウマイものが皆無なだけにそんな気分がするわけだ。
ここ5年ぐらいの間だけでも随分と日本中の名湯に出かけた。登別、有馬、霧島、雲仙などのにごり湯をはじめ、箱根・伊豆方面、伊香保、水上などの群馬エリア、西のほうでは四国の道後、山陰エリアの皆生、三朝など。それ以外にもマイナーな所も入れれば数え切れないぐらい行った。
それぞれの良さがあるものの、泉質の凄さという点では草津がトップだと思う。長い付き合いゆえのひいき目もあるが、やはりお湯の強烈さは随一。
逆にいえば、イヤされるというより強い湯で身体中が刺されるぐらい刺激的。弱っている時だと簡単に湯あたりする。
変な言い方をすれば、優しく穏やかな温泉ではない。強い湯とがっぷり四つに組むぐらいの覚悟が無いとダメ。なんか大げさでスイマセン。
それにしても30年以上も前にわざわざ草津にリゾートマンションを購入した祖父の発想に感心する。軽井沢とか八ヶ岳とかその手の高原リゾートを選ばないアマノジャクぶりがチョットおかしい。
温泉ならば近場の熱海や箱根だってよかったのに、どうして草津だったのだろう。当時は高速道路だって今ほど便利じゃなかったし、なかなか個性的な判断だと思う。
定番とか流行が苦手な私としては、今になって草津を選んだ祖父の気分が分かる気がする。せっかくだから、“ありがち”ではなく“ひとひねり”したかったんだろう。
ひとひねりのおかげで、30年以上経った今でも飽きもせず快適な場所として使っている。
2009年8月7日金曜日
押尾学 性癖
一体なんなんだろう。押尾学。
もともとドラマや映画で見た記憶はない。ワイドショーでしか見たことがなかったタレントだが、いま最高に話題沸騰中だ。大出世だ。
31歳だとか。亡くなったお相手は30歳のホステスさんだったそうだ。
セックスの興奮を高めるために薬物を使おうとして事故につながったと見るのが妥当だ。そういう仮定で話を進める。
31歳のセックスにそんなものが必要なのだろうか。なんだかなあ~。自然にノーマルで頑張れないのかなあ~。バイアグラとかレビトラあたりの薬物なら同情するが、覚醒剤モドキじゃあ話の外だ。
下ネタを率直に書いてみる。30歳を過ぎた頃、若さの勢いだけじゃなくなって“余計なこと”を考えはじめるのはよくある話かもしれない。私自身にも思い当たるフシはある。
せいぜい、コスプレとか怪しいオモチャとかその程度の“非日常効果”にウハウハ興奮してお茶を濁していれば何も問題はない。普通はその程度でしのいでいる。
それ以外には、ハプニングバーを入口とする“グループ系”なんかで展開される、見たり見られたりの非日常性とかにハマる人もいる。
人の趣味ってホントにそれぞれだが、そうした“余計なこと”にはまってしまった後の落とし穴って意外に恐い。
この手の“変な趣味”の話って、自分自身ではついつい刺激に麻痺しちゃっている部分がある。酒飲みついでに悪友にポロッと話したりすると異様に興奮されて逆に驚くことがある。
そうか、そんなに変なことだったんだと改めて思い直したりする。「普通のこと」の「普通」の尺度がずれてきていることに気付かないことがある。
こうなると、なかなか元に戻るのが大変。どんどん変なほう変なほうへと進んでいく。結果、人様に言えないような行為じゃなきゃ満足しなくなる。軌道修正はそれなりに大変。
いろんな“おイタ”があるのだろうが、幻覚作用を求めるような薬物に手を出すようじゃ救いはない。「性癖」などと言って済む話ではない。
とはいえ、「違法薬物だと思わなかった」、「薬物は(死亡した)女性からもらった」との押尾容疑者の発言も気になる。もし本当にそうだったのなら、誰でもこんな怪事件に巻き込まれる可能性があることを意味する。こわいこわい。
エロ道を追求することは健全なスケベ男なら自然なこと。ただ、その追求がエスカレートしていけば、やがて危険な領域に入りかねないというわけだ。
話を変える。セックス方面に限らず、普通のことが普通に楽しめなくなることは悲劇だ。この事件の印象はそれにつきる。やはり「普通のこと」ってもっともっと有難く感じていたほうがいい。
つくづく「足るを知る」ことの大事さを思い知らされる。どんなジャンルでもエスカレートしていく途中段階は楽しい。ワクワクするし、「もっともっと」となりがちだ。ただ、行き着いた先には枯渇感というのか、不満足しか残らない。
もともとは有難かったものが、やがて当たり前になり、それだけでは不充分になり、最後には不平や不満だけが支配する。こんな悪循環は物質社会の都市生活者に特有の症状だろう。
先日、8歳の娘がいい子チャンだったので200円あげた。物凄く喜んでいたが、きっと5年もしたら変わっているはずだ。ご褒美がわずか200円だったら不平不満爆発だろう。
なんか例えが変だが、要はそういうこと。
「足るを知る」ことの大事さと「足りていることに気付かない」愚かさは、つい見失いがちな真理なんだと思う。
ビジネスをやっている以上、あくまで儲けることを目指す。前期よりも前年よりもいい数字をあげたい、もっと稼いでもっと高い給料を取りたいと考える。それこそがエネルギーの源だ。逆にいえば、この発想が弱い人は経営者に向いていないのかも知れない。
社会貢献だとか綺麗事を言っても儲けがなければ始まらない。儲けるためには、がめつさが必要だし、どん欲さも大事だ。ある意味「足るを知る」ことの対極にある姿勢だ。
従業員を雇用し、その家族を含めた人々を結果的に養っていく以上、がめつく、どん欲に上を目指さないと、すぐに事業なんて吹っ飛んでしまう。「足るを知る」などと言っているようだと、世知辛い世の中、あっと言う間に商売敵に総攻撃されて終わってしまうだろう。
私の場合、個人的に色々思うところあって、数年前から「足るを知る」という言葉や考え方に惹かれるようになった。なるべくそういう意識を強く持ちたいと考えている。
なんか仏教的な言い回しになってしまうが、「当たり前のことへの感謝」、「普通という有り難さ」みたいな思考をモットーにしたいと考えるようになった。
一応、ビジネスの現場にいて従業員も抱えている以上、あまり綺麗事をブツクサ言っているわけにも行かないのだが、個人的には「足るを知る」という発想を見失いたくない。
儲けを目指す発想とは相容れないわけで、なんともバランスの取りにくい話ではある。
なんか今日は話にまとまりがなくなってしまった。31歳にもなったタレントが引き起こした怪事件が腑に落ちなくて、あれこれ書き殴ってしまった・・。
とりあえず、押尾学を反面教師にしてみよう。まずはアッチ方面に関してノーマルで満足するよう心掛けることから始めたいと思う・・・。
2009年8月6日木曜日
草津温泉
このブログ、400回以上も更新しているのに書き忘れていたことってまだまだあるようだ。
そんなことに気付いたのは“第二の故郷”とも言うべき草津温泉について書いたことがなかったから。
第二の故郷などというと大げさだが、今は亡き祖父が35年ぐらい前に草津温泉のリゾートマンションを購入した関係で、私も子どもの頃から草津温泉と付き合っている。
1年に5回ぐらい行ったこともあれば、2~3年の間一度も行かなかったこともある。なんだかんだでトータルで数十回は行っている。
実家は取り壊されて新しい建物になったが、草津のマンションはリフォームはするものの昔のまま。この歳になるとどことなく郷愁を感じる。祖父母と来た時のこと、疎遠になった親戚と来た時のこと、若気の至りで使い倒していたこと、あれこれと甦る。
マンションも管理組合の努力のせいか古ぼけて汚らしいということはなく、地下にある温泉大浴場などは今風に新装されて快適。
思えば、温泉といえば、私の基準は草津だったはずだ。小学生時分から源泉掛け流しの強酸性の温泉に浸かり、温泉パワーの恩恵を受けてきた。
草津といえばもともと江戸時代に性病に抜群の効果を発揮する湯治場として全国的に人気を博した。今ですら交通の便がさほど良くないのにそこら辺の温泉とは別格の人気を誇る。そのぐらい強烈な効能のあるお湯だ。
こんなお湯が24時間かけ流されているマンションに来ないで、沸かし湯もどきの箱根あたりのラブホまがいの宿に行くようじゃマヌケだ。もっと草津を活用しようと決意する。
草津温泉に関しては、そんな経緯があるので、街全体の地理も頭に入っている。当然、迷わず歩けるし、見どころや食べ処もそこそこ熟知している。
祖父母と歩いた山の道も今では自分の子どもの手を引いて歩いている。そんな時間の流れを定点観測してきたマンションがあることは幸せなことかもしれない。
思えば一人旅好きな私が、人生初めての一人旅をしたのも草津だった。確か15歳だった。まだ不安もあったので、勝手知ったるマンションをベースに1週間ほど周辺をウロウロしていた。
草津散策だけでなく、バスで軽井沢に行ったり万座のほうへ行ったり、当時の自分としては充分エキサイティングだった。
あの頃、ソニーのウォークマンが大人気で、カセットテープを何本も持って行ったことが懐かしい。佐野元春を聴きながら随分歩いた。
先日、草津を久しぶりに訪ねた時、iPodを持って散歩に出た。佐野元春を聴きながら歩いたみた。流れてくるのは「ガラスのジェネレーション」。
約30年の歳月は重い。なんてったって、
タッタッタとは歩けない体重になっている。あの頃より20キロは重い。体重だけでなく、いろいろと背負ってるものも年相応に重くなってしまった。
歌詞にもちっとも共感できない。つくづく中年マインドを実感。それはそれで悪くはないのだが・・。
いずれにせよ、草津温泉は私にとってノスタルジーを強く感じる場所みたいだ。
2009年8月5日水曜日
おぐ羅
去年も同じようなことを書いた気がするが「夏こそおでん」だと思う。冷房が効いた場所にいることが多いと意外に身体の芯が冷えている。
そんなときにおでん屋さんの暖簾をくぐると何となく温まる気がする。たとえ最初の1杯がキンキンの生ビールでも、おでん鍋から立ちのぼる湯気を見るとホッコリする。
銀座の「おぐ羅」に立て続けに2回行った。夏場は比較的入りやすいが、寒い季節はまず座れない。おでん屋さんというカテゴリーで考えれば異常に高い店だが、それでも大人気だ。
そんなおぐ羅にも不況風が吹いている。夏場だからとはいえ少し寂しい。ふらっと入りたい私なんかには嬉しいことだが、この店なんかが暇になるようだと真剣に日本経済が怪しい。ちょっと心配になる。
おぐ羅での時間は、まず大将がオススメをアレコレと説明する。これに乗っからないと済まないような独特な空気がこの店の特徴だ。おでんというジャンルで客単価を上げるための工夫だ。でも美味しいから仕方ない。素直に乗っかる。
今の時期は、サンマも釣りの逸品。塩焼きにしてガッツリ食べる。幸せ。刺身類も種類限定で置いてあるわけだからモノは良い。まあ、あの価格なら美味しくて当然ではある。ついつい酒が進むような酒肴もあって、なんとも快適な時間が過ごせる。
サンマの塩焼きに喜んだ翌週に訪ねた時は、アジフライを注文してみた。さすがに最高だ。高級品に仕上がっている。いくらでも食べられそうな味わい。
イマドキの牛丼が5、6杯は買える値段なので美味しくて当然だ。とはいえ、この手の高級アジフライは貴重だ。ありそうで中々見つからない。
小骨を歯ぐきに突き刺しながら皿を汚く散らかして必死で食べるようなアジフライならどこでも安価で食べられる。でもたまには割烹料理のようなアジフライを堪能したい時もある。そんな気分の時にはピッタリだ。
さてさて、おでんだ。こちらは関西風。透き通った琥珀色の出汁だ。東京人のおでんは真っ黒けが定番だったが、いつのまにか関西風に席巻されたみたいだ。
実は私、子どもの頃おでんが大嫌いだった。東京人なので大嫌いなのは当然真っ黒けのおでん。実家でもたまに真っ黒おでんが登場したのだが、ホントにひとくちも食べなかった。
真っ黒おでんが嫌いだった反動もあってか、大人になって知った関西風おでんに妙に惹かれた。関西の軍門に下るようでちょっと気に入らないが美味しいから仕方ない。
さて、おぐ羅の話だ。ここの名物が出汁かけ茶飯。茶飯におでん出汁をたっぷりかけて少しのネギをトッピングして食べる。単純明快に旨い。
冬場ならヘタをすると夕方6時過ぎには売り切れてしまう人気の一品だ。ところが、夏場の閑散期、夜の10時過ぎにこの名物にありつけた。
嬉しいけどチョット複雑。不況の深刻化を象徴しているような気がした。
2009年8月4日火曜日
ファン・ロペス
禁煙してから2か月が経った。さすがに成功と言っていい時期だろう。でもまだ隣の席から漂ってくる煙についつい誘惑される。
「もっと副流煙をちょうだい」。そんな気持ちでいっぱいだ。
禁煙した途端、タバコをこれみよがしに毛嫌いする人がいる。あういう人間性はいかがなもんだろう。一度愛した人を口汚くののしるヤツみたいでダメダメだ。
だから私は禁煙してもタバコ否定論者になる気はない。実際に旨いものだと思うし、「百害あって一利無し」とは思わない。三十八利ぐらいはあると思う。
禁煙挑戦とともに葉巻もしばらく控えていたのだが、最近こっちは解禁。一応、吸い込まないという一点のみで紙巻きタバコとは明確に一線を画す。肺がんにはならずとも咽頭がん、舌ガンのリスクは物凄く高いそうだ。困ったものだ。
禁煙という文字面だけみれば、葉巻もやめなければならないが、私が実行中なのはあくまで禁タバコ。ふかすだけの葉巻は嗜好品として愛用し続けるつもりだ。
数年前の一時期、毎日毎日ハバナ産のロブストサイズをアレコレふかしていた。1日2本平均のペースだったので、資金的にマイッた。
日本での定価が1本1500円ぐらいはザラ。2本もふかしたら1日3~4千円の出費だ。エセ富豪としてはキツイ。
そんなこんだで、インターネットを活用した海外直輸入を研究・実践して格安で入手するようになった。まとめ買いだと割引率も高く、50本単位のキャンペーン商品に当たると日本の定価の3分の1ぐらいで上物が入手できる。
最近は、ばかばか吸わないので、以前に大量入手した葉巻が自宅のヒュミドールに随分と眠っている。
もちろん、わざわざ持ち歩かなくても六本木・銀座あたりのバーや一部のクラブにもハバナ産の葉巻が常備してある。この手の店ではさすがに保存状態も良く、安心して購入できる。
私がもっとも好きなのはファン・ロペスのロブストだ。セレクション№2という銘柄だが専門店以外ではなかなか見つからないのがシャクだ。
ほんのり甘めのフレーバーだが、軽すぎず、しっかりと煙の存在感を楽しめる。個性的ではないという評価もあるようだが、私との相性はすこぶる良好。
ロブストと言えばコイーバ・ロブストの絶対的美味しさも捨てがたい。ロメオ・Y・ジュリエッタのショートチャーチルもアロマは弱めに感じるが安定的に美味しい。
他にもロブストサイズには名品が多いが、アマノジャクな私としては、ウレ線ではないファン・ロペスに妙に惹かれる。
葉巻のウンチクを書き始めたらキリがない。私自身の葉巻デビューがカリブ海ばかり旅していた頃なので、思い出もいっぱいある。
機会があったらそんな話も書いてみたい。