2019年2月27日水曜日

居酒屋メシ パート2


前回に引き続いて居酒屋メシの話。富豪記者というタイトルにふさわしくないネタだが、エセ富豪である私にとって、銀座のクラブより居心地の良いのが居酒屋だ。

グルメ評論みたいな世界とは別次元のものだが、居酒屋メニューのちょこっとした工夫は家庭料理にも大いにヒントになる。

私が家庭を持っていたら、いろんな居酒屋のメニューを奥さんに伝授して、わが家流アレンジのツマミのラインナップが相当増えるはずだ。

まあ、家庭があったら頻繁に居酒屋には行かないだろうから、そんな話は成り立たない。ビミョーだ。


ササミの串焼きにデロデロ~っとチーズを乗っけた一品である。誰でも出来そうだが、居酒屋メニューにあったからこそ気付くような作り方だ。

ササミの退屈な味がデロデロチーズのおかげで様変わりする。大げさに言えば御馳走っぽい雰囲気になる。


鶏肉をややレアに焼いてキムチとあえた一品だ。これまた酒のアテとして優秀だ。キムチ単体だとツマミとしてはパンチが効きすぎる感じがあるが、鶏肉と混ざることでバランスがよくなる。



ウズラやトマト、半熟タマゴなんかをベーコンやバラ肉などで巻いて焼く一品も同じだ。単体だと面白くも何ともない味だが、コラボ効果?のおかげでニンマリする味になる。

先日、ディープタウン池袋で人気の「ひなた」というやきとん屋に出かけた。割と大箱なのにいつでも混雑している。

小綺麗でメニューも豊富。安くてウマいから繁盛しているわけだが、もずく、めかぶ、キャベツなどは100円というビックリ価格だ。

山芋漬け、梅キュウなども150円、200円という値段だから、肉々しい串モノや揚げ物の合間にドシドシ頼めば、正しい中和作用が働く。


サワーなど割りモノの定番であるキンミヤ焼酎をシャーベット状で出す「シャリキン」が頼めるのもオツだ。画像は大衆酒場の隠れた銘品バイスのシャリキンサワーだ。ただただハッピーである。

銀座のバーでシングルモルトを舐めるより間違いなく幸福だ。いかんいかん、そっちはそっちでダンディージェントルマンを目指す私にとって大事な仮の姿だからディスってはいけない。


いろいろとウマかったが、ネギタップリのレバ串が酒飲み親父にとっては至高の一品だった。

居酒屋メシを楽しむ時は、ホッピーやサワー類を相棒にすることが多い。鰻屋さんやお寿司屋さんとは違う酒の楽しみ方だ。

回転寿司に行ったら、コーンマヨ軍艦やらツナ軍艦、エビマヨ巻きなんかを頼みたくなる感覚と似ている。


こちらはディープタウン池袋の隣のモアディープタウン大塚の居酒屋「えんや」での一コマ。

梅サワーである。梅干しをグチュグチュと潰しながら飲むオジサマ御用達の酒だ。

グラスを代えずにおかわりを重ねるたびに梅干しも追加される。グチュグチュの楽しみが増していく。

グラスの半分ぐらいが梅干しの残骸で満たされると、「オレもいっぱしの酒飲みになったものよの~」とつぶやきたくなる。

ただの塩分過多である。


同じ店で出てきた「エビカツタルタル」である。悶絶した。こういうものをサワーやホッピーで味わうと、我がニッポンの居酒屋文化に最敬礼したくなる。

前回に引き続き、やはり居酒屋メシを書き始めるとキリがない。

この辺にしておく。

2019年2月25日月曜日

居酒屋メシ



大衆酒場でホゲホゲする私である。顔は映っていないが実に楽しげにくつろいでいる。まさに憩いの時間だ。

好きな食べ物は?と聞かれたら答え方はいろいろあるが、突き詰めれば「居酒屋メシ」が一番好きかもしれない。

やたらと豊富なメニューからその日の気分でアレコレ選んでちょっとずつ食べるのが居酒屋メシである。

ある程度ちゃんとした料理を出す居酒屋は、がっつり食べられなくなってきた世の中高年にとってはオアシスだ。



一人暮らしの私は夕飯を自宅で食べることはほぼ無い。外食中心だ。“食の百貨店“みたいな居酒屋は、頼れるダイニングスペース?である。いわば奥さんやお母さんみたいな場所である。

定食屋みたいな場所だと、出てきたものをささっと食べて終わりである。ちょっと味気ない。朝飯やランチではない夜のひと時は少しはダラダラしたい。

そんな時こそ居酒屋メシである。「メシを食う」という生きるための行動ではなく「楽しむ」という意味合いが加わる。

当然、アルコールはより取り見取りだし、タバコも吸い放題である。当たり前のことだが、こんなスタイルの飲食店は世界的に見れば貴重な存在だろう。

世界遺産にすべきだと思う。

上の画像は焼きとんに七味をぶりぶりふりかけた状態である。世のグルメ評論みたいな世界では無視されている食べ物だが、実にウマい。

世界遺産にすべきだと思う。

しつこいか・・・。



はんぺんチーズ焼きに馬肉ユッケである。ウッヒョヒョみたいな味がする。こんなツマミを相手にホッピーや梅たたきサワーで喉を潤すと悶絶する。

クソ高いワイン片手に得体の知れないフレンチを食べるのとどちらかいいか。考えるまでもない。ミシュランガイドなんかとは世界観、いや宇宙観が違う。

一連の画像は、池袋にある我が憩いの大衆割烹「南国ファミリー」で出てきた一品である。

遠からず職場が移転する見込みなのだが、池袋で名残り惜しいのはこの一軒である。




こちらは我が親友が昨年末に開いた赤坂見附「七拍子」の愛すべき品々である。

焼鳥の味はかなり高水準だ。何を頼んでも外れはない。店主の焼鳥修行が成果を上げているようだ。

他の二つは牛すじ煮込みとレバー味噌炒めだ。太っちょの店主らしいガッツリ系の味付けだ。まさに男メシと呼びたくなる。

春ぐらいからはメニューが増えるらしい。すっかり胃袋がヘタレ親父になってしまった私としては、アッサリ系のツマミも増やしてくれとリクエストしている。ちょっと情けない。


昭和的大衆酒場の王道メニューがハムカツである。どこの居酒屋にもありそうだが、意外に発見率は少ない。

赤いウインナー、マカロニサラダ、ハムカツが揃っている店が私の理想なのだが、なかなかすべてが良い感じに揃っている店は少ない。

画像は銀座の小粋な小料理屋「おかやす」のハムカツ。場所柄ちょっと上品だ。シソだか大葉が入っている。

ジャンク気分の時にはそんな上品さをビミョーに感じるが、銀座にいるときの私はダンディー紳士のフリをしているので上品に味わっている。


こちらは豊島区某所にある私の秘密基地的な某焼鳥屋での画像。半生の鶏のユッケだ。甘めのユッケダレと味の濃い卵黄が混ざり合ってジューシーな鶏肉を彩る。

サッパリしながらもこってり感もある。これを肴に生グレープフルーツサワーをグビグビ飲むのが暇な日の私のルーティンみたいになっている。

居酒屋メシを語り始めるとキリがないのでこのへんにしておく。

死ぬまでにあと何回ぐらい居酒屋メシを楽しめるのだろうか。1年に25回行くとしたら20年で500回である。

なんかちょっと有り難みが失せた。

2019年2月22日金曜日

ひとり遊びのススメ


いっぱしの大人の男ならひとり遊びの達人を目指したいものだ。

孤独と向き合うなどというと大げさだが、いつでもどこでも誰かとつるんでいると五感や感性は劣化する。

子どもの頃は誰もがひとり遊びを楽しむ。プラモデルを作ったり、絵を描いたり、壁に向かってボール投げしたり、深夜放送に夢中になったり、何かしら当てはまることはあるはずだ。

歳を重ねるうちに、群れの中に居場所がないと落ち着かない気持ちになり、気づけば一人では行動できない大人が出来上がる。

一人の時間は、意識しなくても自分と向き合う時間だ。「個」を確立させるためには大事な時間だろう。

孤独を知るなどと言うとカッコつけすぎだが、時には沈思黙考するのも大事だ。そこから生まれるものもある。


ひとり遊びが上手な人間ほど、いざ人と接した時には、空気の読み方や気配りがキチンとできるような気がする。

生涯独身率は上昇、一方で離婚件数も高値安定、おまけに高齢化にともなって伴侶に先立たれる人も増える。今後の社会を生きる上では、一人をいかに楽しめるかがカギになるはずだ。

ファストフードは別として、一人でゆったり食事や酒の場を楽しめない人は多い。慣れてしまえば、あんなに快適な時間はない。苦手意識にとらわれているのはもったいない。

ひとり旅も自分を磨くのには有効だ。アウェーに身を置くことで眠っていた感性が目覚める。

知らない人ばかりの場所で、頼れるのは自分だけだ。自分の無力さを感じるし、逆に自分を褒めたくなるような瞬間もある。

未知の場所で一人過ごしていると、日頃の小さなこだわりや自負みたいなものは通用しないし、自分のリズムで動くこともできない。

その分、素の自分が試されるような感覚になる。カッチョよく言えば「おのれを知る」には絶好の機会ともいえる。


素の自分と向き合うことで、気づくこと、思い出すことはたくさんある。そんな刺激を受けることで一種のデトックスみたいな効果につながる。

何もバックパッカーみたいなひとり旅をする必要はない。優雅に過ごす時間を一人きりで楽しんだっていい。

道端のカフェに陣取って、道行く人をボンヤリ眺めるだけでもいろんな発見があるし刺激も受ける。


海外に限らず、国内だって未知の場所にいること自体が刺激的だ。そこにいる自分は単なるヨソ者でしかない。いわば「何者でもない存在」だ。

そんなポジションに身を置くことで無意識のうちに普段とは違う感覚が湧き出てくる。

若者だったら「自分探し」などという青臭い話になるのだろうが、そこはオトナである。「自分再生」とでも呼ぶのが的確だろう。

さまざまな経験を積んだ中高年といえども、行動パターンは意外に単純だ。いや、中高年だから決まり切った動き方しか出来なくなっている面もある。

変化も刺激もない中でいろんなアンテナが機能しなくなる。錆び付いていくようなものだ。

中高年にはさまざまな経験や積み重ねという財産がある。若い頃とは違う広い視野もある。そうした武器を眠らせてしまうのはもったいない。

生き方を新鮮にするためにも、時には一人になって自分の内面をスッピンにすることは意味がある。

一人でふらっと旅に出ちゃうような大人は魅力的だと思う。

2019年2月20日水曜日

おまかせ寿司、みやげ寿司

先週の話だが、生のトリ貝の握りを食べた。初物にしては随分早い。季節ごとにこういう出会いがあるからお寿司屋さんで過ごす時間はハッピーだ。

10年以上前にこのブログでお寿司屋さんに関してアーダコーダと書いたことがある。

10年経ったいま、一定水準の価格帯の店に関しては、おまかせ一辺倒みたいな風潮が更に強まった気がする。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2007/11/blog-post_26.html

良し悪しは一概に言えないが、古いタイプの人間としては、なんとなく違和感がある。

確かにプロである寿司職人に、つまみや握りのすべてを委ねていれば間違いはないのだろう。好き嫌いがまったく無く、こだわりも無ければ便利なシステムだ。

悪く言えば、お店側の都合を一方的に押しつけられているわけで、個人的にはやはり好き勝手に楽しみたい思いのほうが強い。

素人レベルながら、若い頃に頑張って寿司研究?に励んだ私としては、せっかく積み重ねてきたこだわりみたいなものを無視されるのがイヤだ。

さほど好きではないものまで食べさせられるとゲンナリする。昔に比べて食べる量も減ったから尚更だ。

ツマミが8~10品、握りが15貫以上みたいなおまかせコースの内容を聞くと耳を疑う。個人的にはフードファイトにしか思えない。

イキかヤボかで言うならば、そんなに量が出てくること自体がヤボな感じがする。それなりのお寿司屋さんって満腹になる目的で行くような世界ではないような気がする。

個人的な意見です。すいません。


まあ、イキかヤボでいえば、産地の違うウニの握りを一同に並べて味比べするほうがヤボったらしいかもしれない。

さて、おまかせ一辺倒のスタイルでは、大げさに言えば客もちっとも育たない。カウンターで丁々発止?する文化が衰退しかねないと思う。

飲食店がネット上で採点や評価されちゃう時代になったことも影響しているのかもしれない。うまい具合に注文が出来ない客にとって、寿司をお好みで食べるパターンは厳しい面もある。

そのせいでネットに低評価クチコミを載せられたら店側は堪ったものではない。そんな側面もあって、バンバンドシドシ食べさせているのかもしれない。

そんなことはないか。。。単純に客単価を上げるうえでも、おまかせという仕組みは機能しているのだろう。

さてさて、寿司といえば、いにしえの少年時代、祖父の「みやげ寿司」を必死の思いで食べていたことを思い出す。

お土産である。子どもの私が寝ていようが、たたき起こされて食べさせられた。寝ぼけていようが美味しそうに食べるのが暗黙のルールだったので、頑張ってニコニコ食べた。

折りにぎっしりとトロやイクラなど子どもが好きそうな握りが詰め込まれていた。ありがたい御馳走なのだが、お腹は空いていないし、眠いし、メンドーだし、本音ではシンドかった。

でも、ムシャムシャ食べる私の姿を祖父はニンマリと眺めていたから、あれも一つの孝行だったのだろう。

私も大人になり、家庭を持ち、子どもも出来て、いつかは私も「みやげ寿司」を持って家に帰ることに憧れを抱くようになった。

子どもが小さい頃は叩き起こせないから、もう少し経ったらと思いつつ、気づけば離婚してしまった。家庭生活の唯一?の心残りである。

「みやげ寿司イコール親父の権威」である。眠そうな子どもに無理やり食べさせてニンマリするという私のささやかな希望は実現することなく今に至る。大問題である。

最近は、太巻きやバラちらしが寿司屋の土産の定番だ。時間が経っちゃった握り寿司より、そっちのほうが賢明なのは分かるが、みやげ握りには何となく“ロマン”がある。

中途半端に乾き始めて形も怪しげに崩れかけ、ぎゅうぎゅう詰めだから隣同士のネタの味や香りが混ざっちゃうようなアノ独特の寿司には素敵な哀愁があった。

持ち帰り専門の寿司店やコンビニが無かった時代の話だ。あれも昭和の文化だったのだろう。

2019年2月18日月曜日

なんてったって中高年


気づいたら「磯野波平」と同年代になってしまった。ビックリである。頭の中は若い頃とたいして変わっていないが、身体はそうもいかない。

健康第一という言葉が身に染みるお年頃である。健康じゃないと酒もメシも楽しめないし、もちろん、女性のお尻を追いかけられない。

世の中の高齢化にともなって、やたらと健康食品やサプリの広告が目につくようになった。中高年の心理に一番刺さるのだろう。

健康に注意することは大事だ。でも、過敏に神経質になるのもどうかと思う。


血液検査の数値がちょっと基準値を超えたぐらいで大げさに心配する人が多すぎる。

お医者さんも商売だから、基準値を少しでも外れていれば、もっともらしい顔で注意する。とはいえ当の本人だって全部の数値が基準値内に収まっているはずもないだろう。

コレステロールや尿酸値、中性脂肪にガンマGPT等々、私も基準値を出たり入ったりを繰り返している。

酒で肝臓がバテていることを示すガンマ値はこの25年ぐらい常に基準値をオーバーしている。でも、その他の基本的な肝機能の数値がいつも基準値内だから気にしていない。

オーバーしている幅が少しだったらどうでもいい話だろう。基準値の3倍、4倍になっちゃったら別だが、1割、2割オーバーしたぐらいで四の五の言っても始まらない。

なんてったって中高年である。すべての数値が正常値の枠内に収まっていたら逆に気持ち悪いだろう。

暴論でスイマセン。

コレステロールなどのその他の数値も同じだ。私の場合、基準値を超えたとしても、せいぜい1割、2割程度のレベルだ。個人差の範囲だと思う。

数値が少し基準値から外れただけで、まるで死にそうな顔で憂鬱な顔になる人がいる。そんな気分になることのほうが健康を害している。

そういう人は闇雲に節制してストレスを溜めまくる。一気に食生活まで変えちゃって、わざわざ医者に頼んでさほど必要のない薬をもらい、せっせと服用する。

自分から病人になっちゃうわけだ。バカみたいな話だと思う。

こんな話を書いていると、無頼派を気取って強がっているみたいだが、私はサプリ大好きなプチ健康オタクである。ちゃんと血液検査の結果はしっかり頭に入れている。

要は、ちょこっと基準値を外れたぐらいで慌てる必要はないということを力説しているわけだ。

もう十数年続けている青汁を筆頭にビタミン類やプロポリス、セサミンなどのサプリに加えて、半年ぐらい前から「ナットーキナーゼ」も飲んでいる。


血栓予防に有効という話を聞いて、寝る前に飲んでいる。効き目は不明だが、信じる者は救われると思い込むことが健康の秘訣だろう。

そういえば、昨年の秋の検査で大腸に小さなポリープがあったのだが、なぜかその場で切除してもらえず、3月か4月にちょん切ってもらう予定だ。

もし、そいつが悪性だとしたら、今日ここで書いたようなことを反省しなきゃならないから、ただのデキモノであって欲しいと切に願っている。

2019年2月15日金曜日

ジャンク上等


ジャンクフードの「ジャンク」とは、ガラクタとか屑という意味なんだとか。何だか凄い言葉だ。

マックのハンバーガーだって作っている人は一生懸命だろうから屑とか言われちゃうとチョット気の毒だ。


かじった後の画像で恐縮だが、マックのダブルチーズバーガーのバイバージョンである。すなわち倍である。4枚の肉だ。

ウーバーイーツでデリバリーしてもらった。家でコッソリ食べるのに向いている。こんなものを人様の目線にさらされながら食べる勇気はない。

まさに肉肉しい。あのベタなケチャップ味や安っぽいピクルスの味とのバランスがまるでとれていない。肉の味ばかりが口に広がる。

悪口を書いているようだが、悪口ではない。ジャンクなものを食べたい気分の時にはこういうヤケッパチみたいな味にウットリする。

ジャンクと言っても悪意はない。繊細な味の対極にあるガツン系の食べ物が食べたい時もちょくちょくある。


池袋「大勝軒」のつけ麺である。何年かぶりに食べてみた。大勝軒には、年に1度か2度は足を運ぶのだが、いつも決まってチャーシューメンを注文する。

つけ麺自体があまり好きではないからなのだが、この日は気の迷いでチャーシューメンではなくチャーシューつけ麺にしてみた。

もともと、つけ麺で名を馳せた店だ。周りの人もつけ麺ばかり食べている。で、何年かぶりに食べてみたが、やはり苦手だ。

熱盛りという麺が熱い状態で出てくるヤツにすればマシだったのだろうが、そもそも冷たい麺に温かいスープという組み合わせがダメだ。

チャーシューは完食したが、麺は半分以上残してしまった。ファンの人、スイマセン。


こちらは久しぶりにうどんを食べた時の一コマ。新宿の「つるとんたん」で出てきた「明太子クリームうどん」である。

昭和人としての感覚では、得体の知れないブキミなうどんに見えたのだが、かなりウマい。若い人ならバンザイしたくなる味だと思う。さすがに人気店だ。


こちらはスンドゥブうどんである。こりゃまたケッタイなものが出てきたと思ったが、見た目よりはるかに美味しかった。

辛くて食べにくそうという想像を覆す、ほんのり甘味を感じる食べやすさだった。これも若い人だったら大量に食べられそうだ。

最後に紹介するのは、ジャンクというには材料費がかかり過ぎているシーフードパスタである。精力増強のためにカキを大量摂取しようと作ってみた自家製である。


カキを10個ぐらい投入して、他にもアサリやタコ、海老を加える。材料費だけで3千円ぐらいかかったような気がする。

バカである。ジャンクどころか富豪フードである。

最近お気に入りなのが、はごろものポポロスパ低糖質シリーズである。糖質制限も有難いが、単純に食感が好きでこればかり食べるようになった。

標準茹で時間よりだいぶ早めに茹で上げると、なんとなくポソポソした食感になる。苦手な人も多いかもしれない。


悪い意味ではなく、どこなく安っぽい乾麺のポソポソ感である。個人的にはモッチリよりポソポソぐらいのほうが嬉しい。

ポソポソ麺だから、カキやアサリの旨味が絡まらず、口に入れると麺とシーフードがそれぞれ別個の味を主張する感じになる。

文字にするとマズそうだが、私にとってはそのヘンテコな味わいが妙に美味しく感じる。

私の味覚自体がジャンクなのだろう。

2019年2月13日水曜日

脚と太もも


女性の足、いや、脚、いや、太ももを見るとドキっとするのはナゼだろう。

短いスカートでパンチラ寸前なら“禁断の三角地帯”が見えることを期待してドキッとする。


でも、パンチラに関係なく、脚線美には魅せられる。ショートパンツやキュロットだろうとも男の目線は女性の脚のラインに吸い寄せられる。

男が脚線美に魅せられる理由には諸説あるらしい。

男とはまるで形状が違うから気になる、お尻に続く導入部分だから目が行く、等々。もっともな理由だ。

また、そこだけ露出している、すなわち“部分的ハダカ”だから見てしまうという分析もある。

確かに短いスカートからのぞく脚は面積的にはかなりのものだ。そこだけハダカみたいなものである。

もし、全裸だったら他の部分に目がいって、きっと脚や太ももを凝視することはないかもしれない。


小学校高学年の頃だっただろうか、保健体育の教科書に思春期の男女の体についての記述があった。

女子については「丸みを帯び」と書かれていたのだが、そのフレーズにドキドキした覚えがある。いまだに私は「丸みを帯び」という言葉が大好きである。

女性の脚は膝をポイントにして、ふくらはぎと太ももという「丸みを帯び」が連立している。おそらくそれも大きなポイントだろう。


そのせいか、大半の男は細すぎる脚を好まない。いまどきの若い女性はパリコレのモデルのようなマッチ棒的な細さを追求しているが、男目線では「丸み」こそが大事な要素だ。

まあ、動物的な見方や哲学的な分析をしたところで始まらない。四の五の言ったところで、「パンチラへの期待」という部分も脚線美を考える上では外せない。


脚は見られたいけどパンツは見せたくない。短いスカートを履く女性は皆さんそう言う。

見られたくない、すなわち隠したい部分だから見たくなる。それが男の気持ちだ。全女性がパンチラに抵抗感がなかったとしたら男としても張り合いがない。

隠しているものがチラっと見えるから尊い。見えそうで見えないまま終われば敗北感、一瞬でも見えたら何かに勝ったような気分になる。

ちなみに、日本におけるパンチラ文化は数十年程度の歴史しかない。日本女性がパンツを履くようになったのが1930年代ぐらいだとか。

その後、スカート丈が短くなってきたことで生まれたのがパンチラという概念!?である。


パンチラに一喜一憂する習慣は、日本の長い歴史の中では、まさに「昨日今日」程度の話に過ぎないわけだ。

パンチラ文化が花開いた今の時代に生きていることは、歴史的見地からすると非常にラッキーなことである。

男として生まれた以上、そんな幸運をかみしめながら日々生きていきたい。

2019年2月8日金曜日

ヤンチャとアホ


「ゆるくご飯でも行きましょう」。そんなことを言われると「ゆるく」が引っかかる。

気軽に、かしこまらずといったニュアンスなんだろうが、昭和人である私の耳は偏屈である。なんだか気持ち悪い。「ご飯がゆるい」みたいだ。

まあ、言葉は時代とともに変わるから目くじらを立てても仕方がない。私も若い頃はきっとヘンテコな言葉を乱発していたのだと思う。

「昔はヤンチャだったんだよ」。最近こんな言い回しをよく聞く。ヘンテコだ。「ヤンチャ」の意味合いが歪曲されている。

ヤンチャとは、いたずらっ子とか、元気が有り余っている際に使う言葉だ。行き過ぎた不良行為を意味する言葉ではない。

尾崎豊ばりに♪盗んだバイクで走りだす♪みたいなパターンはヤンチャではない。純粋に窃盗罪。単なる犯罪だ。

犯罪レベルの悪事に励んでいた過去を大したことではないようにボカす意味合いで「ヤンチャ」が乱発されるのはどうかと思う。

未成年者が酒を飲んだりタバコを吸ったりする程度がヤンチャの意味としては妥当だろう。いや、ひょっとするともっと軽微なイタズラ程度が本来の意味だ。

子どもが駄々をこねる際の「イヤじゃ、イヤじゃ」が訛って「ヤンチャ」という言葉になったという説がある。

そう考えると、不良を意味する言葉ではなく、ひねくれ者あたりに使うほうが語源としては近いのかもしれない。

まあ、そんな屁理屈を語っても仕方がない。「ちょっとした不良」という意味で広まっている以上、私がウダウダ言ったところで屁の突っ張りである。

でも、あくまで「ちょっとした不良」までで留めるべきだと思う。凄い悪事まで「ヤンチャ」の一言で片付けられるのはダメだ。

若い頃の悪事をみんなひっくるめてヤンチャだというなら、学生運動で国家転覆を企んだ過激派の面々だって、ヤンチャの一言で済まされてしまう。

強姦魔や人殺しまでしちゃう半グレとか、シャレにならないレベルまでヤンチャという言葉で済まされたらたまったものではない。

YouTubeで注目を浴びようと度が過ぎたオフザケに励む若者が世界規模で増えている。

ヤンチャで済むようなものから犯罪と呼べるものまでさまざまだ。若気の至りで笑える程度なら悪くないが、死人まで出ているとか。

命がけでふざけるなんてアホの一言に尽きる。ヤンチャはヤンチャ。犯罪は犯罪。その中間ぐらいに「アホ」というジャンルがあるわけだ。

「オレって昔は結構ヤンチャだったんだぜ」とか語っているヤツの多くが、「オレって昔はアホだったんです」と言い直したほうが正しいと思う。

自分の若い頃を棚に上げてイヤミったらしくこんなことを書いている私もスットコドッコイである。

意味不明だ。

2019年2月6日水曜日

六本木の夜


その昔、六本木でよく遊んだ。10代の終わり頃からノコノコ出かけて、20代の10年間は主戦場だった。

それ以前からアレコレと思い出はある。小学生の頃、祖父に時々連れていってもらったステーキハウスは六本木だったし、同じ頃に初めてバニーガールに遭遇したのも六本木のプレイボーイクラブだった。

中学の頃、悪友の家が六本木にあった関係でヤツの家に泊まりに行きがてら夜遊びを覚えた。

心配した母親に深夜の六本木交差点で待ち伏せされて拿捕されたこともある。

初めてディスコに行ったのも六本木だ。名高いスクエアビルである。中学3年の頃、高1のオネエサマに連れていってもらった。なんとも可愛らしい話だ。

大学生の頃は知り合いに夜ごとクラブ活動に引っ張り出された。ハタチの誕生日も六本木のクラブで生バンドで盛大に祝われた。バブル前夜ならではの脳天気な時代だった。

その後は調子に乗って遊んでいた。裸足で逃げ出したり、やたらとハラハラするような思い出もある。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/02/blog-post_26.html

今ではすっかりご無沙汰になった。なぜだか足が向かない。きっとさまざまな経験を“思い出カプセル”に閉じ込めたくなったのだろう。

いや、そんなセンチな話ではなく、銀座の方が居心地が良くなっただけの話である。単なる加齢だ。

先日、久しぶりに六本木に行った。わがオジサマバンドメンバーと打ち合わせと称して飲んだ後に生演奏で歌える店に流れた。


エルアミーゴという店だ。かれこれ50年近く続く老舗だとか。昭和感ムンムンの店の雰囲気が妙に落ち着く。

ギターで伴奏してくれる腕っこきが2人。なんと2千曲もレパートリーがあるらしい。おまけにやたらと上手だし、ハモリも素晴らしい。すべて即興なのに歌う客を陶酔させてくれる。

銀座にあるこういう路線の店にも行ったことがあるが、こちらは六本木っぽい空気をしっかり感じる。銀座とは毛色が違うオトナの空気だ。

30年ほど前にわけが分からないまま六本木で深夜までヘロヘロしていた時の気分が甦る感じだった。

店のオーナーと雑談を交わすうち、随分と共通の知り合いが多いことにも驚く。さすが老舗だ。そんなサロン的な気配が古くからアノ街で続く店の個性なんだと思う。

来ているお客さんもさすがに歌が上手い。知らない人のカラオケを聴かされるのは普通は苦痛だが、この日ばかりは生ギターのアレンジにも興味シンシンだったからかなり楽しめた。

バンドメンバーもギター演奏におけるポイントみたいな部分を熱く語り合っていた。次回のライブに向けて大いに刺激になったようだ。

ワイワイと過ごした後、どこにも寄らずにお開きになった。こういうフヌけたところが加齢、いや年の功である。

銀座に比べて夜が遅いのが六本木の街だ。お開きになった時間はアノ街では宵の口である。

わずかながら昔世話になった店も残っているのだが、結局すごすごと帰ってしまった

♪つまらない大人にはなりたくない♪と佐野元春ばりに気取っていた日々ははるか昔のことである。

でも楽しかったからまた行きたい。

2019年2月4日月曜日

バニーガール 首と肩


バニーちゃんが好きになって40年以上が経つ。小学校の頃に初めて見たバニーガールの衣装に衝撃を受けたのがきっかけだ。


三つ子の魂ナントカで、きっと死ぬまで変わらないと思う。人生ずっとバニーガールに恋い焦がれるのも悪くない。

10年以上前のこのブログでもバニーフェチについて熱く語っていた。そういえば、この10年ぐらいはいろんな人にバニーちゃんのカッコをさせてニンマリしている。

ハロウィンのせいでコスプレに抵抗がないイマドキの若者は結構ノリノリでバニーちゃんに変身してくれる。

ハロウィンが大っ嫌いな私だが、その点だけは感謝である。みんながバニーちゃんになってくれるなら365日ハロウィンでもOKだ。

若い頃はそんなコスプレごっこみたいな要求も恥ずかしくて言い出せなかったが、今ではヘッチャラだ。

歳を取ると余計な気取りが消えるからラクチンである。いや、そういう図々しさは私だけの特徴かもしれない。

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/01/blog-post_15.html

50年以上生きていると、好みが変わるものと変わらないものに別れる。

私にとって変わらないものの代表はバニーちゃんだが、それ以外にもウナギがとことん好きだとか、ジーンズが苦手だとか、ラークマイルド以外は吸わないとか、短編小説が好きだとか、あれこれとこだわりはある。

変わったものといえば、焼肉が苦手になったとか、ナゼかうどんを食べなくなったとか、ぽっちゃりタイプの女性が苦手になったとか、これまた結構ある。

最近は焼肉屋に行っても鶏肉や魚介類を注文しちゃうようになった。毎日3食カルビだけでもいいと思っていた若い頃には考えられない変化だ。


考えてみれば30代後半ぐらいの頃の行動パターンや好みが、最終段階の自分の好みとして確立されるような気がする。

昔は、ちょっとぽちゃっとした女子が好きだったが、最近はやや細めの人ばかりに目が向く。

いつのまにか女性の首や肩のラインの美しさに魅せられるようになった。そのせいで細めの女性が好みになったのだろう。

胸やお尻ばかりに興味があった時代を過ぎ、太ももやふくらはぎへの執着?も卒業して、たどりついたのが首や肩なのかもしれない。


いや、今でも胸や尻や脚もすべて好きだから、そんなシャレた書き方は正しくない。要は全部好きだという話である・・・。

いま気づいたのだが、そういえばバニーちゃんのカッコは首と肩が必ず露出している。

ひょっとすると、昔から私が目を奪われていたのは、胸の谷間でも食い込み気味のヒップでもなく、あくまで首や肩の曲線だったのかもしれない。

そんなはずないか。

2019年2月1日金曜日

草笛光子マジック


運動不足である。最近やたらと疲れが取れないのも運動不足が根本的な原因だろう。

身体がちゃんと代謝していないからダルダルになるような気がする。

この前の週末、あまりに身体がダルダルなので頑張って早足で1時間ほど散歩した。

それだけで足先の冷えが収まり、身体全体のエネルギーが適切に循環し始めたような気がした。

年々着実に衰えは感じているが、ここ1~2年はとくに顕著だ。衰えていく流れが加速度的に早まっている。

以前はオジサン、オバサンが公園などでせっせと身体を動かしている姿が不思議だったが、今になってその大切さが分かる。


私が“草笛光子マシン”と呼んでいるレッグマジックも1年に1度ぐらいしか使っていない。このままでは草笛さんのように元気な80代になるのは無理だ。

草笛さんの宣伝は新しいステッパーに移行したようだ。上の画像で紹介したレッグマジックに引き続き、草笛さんの引力で下の画像の商品も買おうと思ったのだが、似たような商品を既に持っているので断念した。

もちろん、そのステッパーもちっとも使っていない。やはり、ここは気分一新のために新たな“草笛マシン”を買うべきだろうか。


BSなどでやっている通販番組で草笛光子さんが出てくると、なぜか真剣に見入ってしまう。謎だ。草笛マジックである。

先日も通販番組をきっかけに「ビッグビジョン」という拡大鏡を買ってしまった。1000円追加で2本買えるというキャンペーンに惹かれた。

いや、お得なキャンペーンのせいというより宣伝キャラクターが草笛光子だったから買った。草笛マジックである。


拡大鏡といえば、いま大人気なのがハズキルーペである。実は私はハズキルーペを3つも持っている。ふるさと納税の返礼品である。

寝室とリビングと書斎スペースに置いて使っている。既に3つもあるのに新たに2つも拡大鏡を入手したわけだ。

草笛マジック恐るべし。今後も草笛さんが推す商品はマークしていこうと思う。意味不明である。

運動不足解消に話を戻す。

なんだかんだ言っても足腰の鍛錬こそが大事なので、毎日スクワットに励もうと思うのだが、なかなか億劫である。

太ももの筋力強化は男性機能にも直結する。億劫とか面倒などとあきらめてしまってはいけない。

牡蠣やウナギやトロロばかり食べても限界がある。やはり筋力の衰えに対して何らかの手を打たないとダメだろう。


というわけで、スクワット椅子を購入してみた。野球用品で有名なミズノの商品らしい。

椅子の棒部分がシリンダーになっていて、座ったまま上下動するとスクワットと同じ効果がある。

実際にやってみると思った以上にキツい。膝上の前側の大腿部の筋肉に結構な負荷がかかる。

問題は日々の習慣としてやり続けられるかどうかだ。正直言って、飽きちゃうことが心配だ。既に飽きそうな気分だ。

私のモチベーションを保つためにも、草笛光子さんがこの商品のイメージキャラクターに起用されることを願う。