帰国していますが、今日もアーカイブ(過去モノ)を」いくつか載せます。水曜から通常通り更新します。
吉原 意気地
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2012/02/blog-post_27.html
酒の思い出
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/11/blog-post_04.html
父親の存在
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2008/12/blog-post_16.html
2015年3月30日月曜日
2015年3月27日金曜日
アーカイブです
久しぶりに潜水旅行に出かけているので、ちょっとの間、更新をお休みします。
いくつかアーカイブを載せてみますのでよかったら覗いてやってください。
桜の季節
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/03/blog-post_23.html
渋谷 15の酒 毛髪
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/05/15.html
変態バンザイ
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/11/blog-post_18.html
2015年3月25日水曜日
TOTO
80年代を代表するロックバンドといえば「TOTO」だ。先日、元ベーシストが50代の若さで亡くなったニュースを見て無性に懐かしくなった。
YouTubeって実に有難い。いとも簡単にかつての名曲を楽しませてくれる。「TOTO」に関しても、当時好きだったのに忘れていた曲を見つけて妙に熱くなった。
数日の間、自宅のパソコンからはこの曲ばかり流れていた。
「Stop Loving You」という曲である。歌い出しの部分はモゾモゾした感じだが、サビに向かっていくメロディーラインのカッコ良さがタマランちんである。今聴いてもシビれる。
https://www.youtube.com/watch?v=bYr3OJOXk60
20代の頃、恋心を感じるとすぐにこの曲が頭に浮かんだ。いやはや何とも懐かしい。ジーンとくる。あんな感情はもう味わえないのだろうか。いやいや、そう決めつけちゃったらダメである。
さてさて、TOTOといえば、この曲よりも前にピークを迎えていた。誰もが聞いたことがあるはずの「Africa」が大ヒットした前後数年が全盛期だったはずだ。ゴツいアンチャンがリードボーカルだった頃だ。
https://www.youtube.com/watch?v=FTQbiNvZqaY
「Africa」は名曲中の名曲だからyoutubeをアレコレ覗いていると、こんな素敵なおっさんコンビのアコースティックカバーも見つかる。得体の知れないおっさん(有名な人だったらゴメンナサイ)がピザ屋の店先で一生懸命歌ってる姿もかなりイケてる。
やはりメロディーラインが秀逸だから聴き入ってしまう。それにしてもアメリカの人は何であんなに高いキーで歌えるのだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=MLrC7e3vSv8
TOTOの全盛期、私は高校生だった。当時、若者は洋楽を聴くことが一種の嗜みみたいな感じだった。洋楽チャートを毎週気にすることが生活習慣になっていた。
あの頃の若者文化の特徴だった気がする。その後、歌謡曲や演歌、ニューミュージックとは違う若者がカッチョいいと思う邦楽のバンドやミュージシャンがバンバン登場する。そのせいもあって猫も杓子も洋楽を聞きかじる時代は終わった。カラオケの普及が若者の嗜好を大きく変えた形だ。
当時は私も若造だったのでノリノリの洋楽に惹かれたが、ディープパープルやツェッペリンのような激しすぎる感じは性に合わず、かといってエアサプライあたりの爽やかすぎる感じやボズスキャッグスのエロ過ぎる感じも好きだったが少し物足りない感じがした。
そんな中で出てきた「TOTO」はやたらと格好良かった。軽すぎず重すぎず、それなりにハードロック系の迫力もあるのにどこか洒脱なイメージがあって、あの時代の躍動感にピッタリだった。
私が15~16歳の頃のアルバムに収録されていた「Gift With A Golden Gun」、「Goodbye Elenore」あたりにはシビれた。今でも時々鼻歌でフムフム歌っている。
その後、「Rosanna」や「Africa」、「99」あたりの世界的ヒット曲につながっていく。
個人的な感覚だが、同じ時代に人気だった「ジャーニー」や「ボストン」などに比べると、どことなく洗練された雰囲気があった。「シカゴ」も洗練路線?でヒット曲を連発したが、「TOTO」には一種独特な疾走感のような勢いがあった。
メンバーの風貌も何となく普通。そこがまたカッコよかった。「ロックミュージシャンだぜ~」って感じの気合いバリバリの服も着ていない、カメラの前でベロも出さない。
アメリカのそこら辺のアンちゃんみたいな感じが「腕っこきのスタジオミュージシャンあがり」という彼らの経歴も相まって新鮮に見えた。
ノリノリの曲は自分の部屋で爆音で聴き、洒落たバラードはデートの時のBGMに活用した。
https://www.youtube.com/watch?v=r7XhWUDj-Ts
単なる個人的感覚、かつ自分の世代的共感ではあるが、80年代の洋楽はいま聴いても古さはちっとも感じない。音がキラキラ輝いていたような気がする。
「TOTO」がバリバリだった時代。
懐かしき青春の日々である。
2015年3月23日月曜日
菩提樹 エビカツ
普段、何でも分かっているような顔をしてエラそうに暮らしているが、その実情はたかが知れている経験とチンケな思い込みが基盤である。
何だか仰々しい書き出しになってしまった。たいそうな話を書こうとしているのではない。
たとえば、女性問題を誰かから相談されたりする。「オレの経験ではさあ~」などと達人ヅラして語ってしまうが、はたして私にどれほどの経験があるというのだろう。
女性に縁がない人に比べれば恵まれていたが、しょせんはチョボチョボである。世の中には100人斬りのマイスター?みたいな人もいる。
まだまだ現役続行である。ドラゴンズの山本マサを見習ってダラダラ頑張らないといけない。
ちなみに、寝付けない夜にヒツジを数える代わりに私が実践するのが「過去の〇〇を数えること」である。
旅行に行ったことがある外国の国名、これまで乗り継いできたクルマの車種、使ってきたカメラの商品名、ハマショーのアルバムタイトルなどなど。
そんな真面目な?テーマのほか、交遊のあった女性を数えるという悪趣味なことにトライすることもある。バカである。
そんなことばかり考えているアホと思われそうだが、そんなことはない。
あくまでブログの内容を楽しく?アレンジするために必死に軟派系の話を無理やり捻り出しているだけだとご理解いただきたい。
普段私が考えているのは、千里同風、恒久平和、経世済民、安居楽業、八紘一宇といったことばかりである。ウソだが。
さて、そっちの話だ。もちろん、深い深い関係になった女性は多くはないから、数えるのは「手をつないだことがある人」とか「1対1で食事をした人」など中学生並みにハードルを下げる。
そこまでハードルを下げると長く生きてきたわけだからそれなりである。幼き日々の甘酸っぱい記憶の中で眠りに落ちたりする。
もしかすると、若かった頃の元気さやマヌケさを懐かしく思い返して、老け込まないように自分を鼓舞しているのかも知れない。
とはいえ、まあ悪趣味な話ではある。またまた自分の恥をブログを通して世間にさらしてしまった。
まあいいか。
それにしても話が大きくそれた。今日書きたかったのは「エビカツ」だった。
冒頭に書いた「自分の経験値など大したことない」という話は、バツグンに美味しいエビカツに遭遇して思い知らされたことだ。
「エビカツ?エビフライじゃなきゃダメだぜ」
これが私の基本姿勢である。というかエビカツという料理自体、そうそうお目にかかるものではない。
エビフィレオとかエビカツバーガーとかその手の店で出てくるぐらいだ。
そうしたファストフードのエビカツは、あくまでコッテリソースと衣を楽しむイメージで、カツの中味は「エビも混ざってる練り物」みたいなイメージがあった。
水道橋にあるトンカツ主体の洋食屋さん「菩提樹」で食べたエビカツは、私にとってのエビカツ概念を覆してくれた。
プリプリのエビの身とタマネギだけで作られているらしい。食感も風味も紛れもなくエビがブリブリ。エビ丸出しって感じだった。素直に美味しい。
エビフライも大好物なのだが、あいつはウホウホ喜んでかじるとすぐにシッポの部分に近づいて切なくなる。
おちょぼ口で少しずつ食べない限りすぐにシッポに到着しちゃう。だからチビチビ食べるハメになる。
その点、エビカツはシッポという残念な箇所がはじめから存在しない。グワシっ!とかじってもシッポが接近してこない。モゴモゴするほど口の中いっぱいにエビカツが溢れる。
味は二の次みたいな書き方になったが、意外にこの点は評価ポイントかもしれない。
エビフライの場合、なぜか衣が剥がれやすい。衣が剥がれちゃった時の剥き出しになったエビの弱っちい姿は見たくない。見てはいけない気がする。エビカツの場合はその点でも安心だ。
この店のタルタルソースもウマかった。エビフライという細い物体にタルタルをトッピングするのは案外やっかいだが、エビカツなら断面にドヒャーとぶちまけてもタルタルソースが脱落することがない。
エビフライから外れて皿に落っこちたタルタルソースほど悲しいものはない。舐めたいけどそうもいかない。フォークでは救いきれない。犬死にである。
エビカツは「タルタル人」である私のパートナーとして信頼できる存在である。
この菩提樹という店は、水道橋に本店を構える「かつ吉」の系列。丸の内や日比谷、渋谷の支店でもエビカツはレギュラーメニューになっているようだ。
トンカツのサイドメニューにオススメである。いや、エビカツがメインでトンカツが脇役でもいい。
どっちでも同じことだが・・・。
オススメです。
2015年3月20日金曜日
偏屈
最近読んだ二冊の本のおかげで「偏屈」をちょっと肯定したい気分になった。
偏屈を辞書で調べると「性質がかたくなで、素直でないこと。ひねくれていること」である。
私自身、年齢とともに偏屈ぶりが加速しているような気がする。このままではイカンと思っている。
でも、偏屈は「こだわり」と密接に関係している。こだわりや主義主張がない男になるのもイヤだから上手に折り合いを付けるしかない。
2冊の本とは「我、拗ね者として生涯を閉ず」(本田靖春)と「あなたに褒められたくて」(高倉健)である。
前者は10年前、後者は20年以上前に刊行された本だ。前者は古本屋で買った。健さんの本は再版本が今も書店で平積みになっている。
本田靖春さんという人は高度成長期の読売社会部のスター記者で、その後フリーになってノンフィクションの名手として活躍した。
晩年の病床で生涯を振り返る鬼気迫る回想録である。
なんてったって自ら「拗ね者」を自称するだけに偏屈ぶりは相当なものだ。好き嫌いがはっきりしているというか、全部が嫌いなんじゃないかというほど舌鋒鋭い。
回顧モノだから自らの武勇伝自慢がちょっと鼻につくが、そういう箇所の書きぶり一つとっても予定調和のような謙遜はなく、ただただ潔く自分の思うがままを吐き出している。
現在よりもムラ社会的要素が強かった昭和の日本で徹頭徹尾、自我を押し通した生き様は驚異的だ。
好き勝手に生きることは誰もが憧れるが、この人ぐらい突き抜けていると見知らぬ人、ましてや故人なのに心配したくなる。
きっとあらゆる局面で軋轢に押しつぶされそうになったはずだ。肩に力を入れ続けて生きていたのではないか。
いや、ひょっとするとそんな気負いなどまるで無く自我を押し通すことが自然体だったのかもしれない。そうでもなければ拗ね者を徹底することは不可能だ。
だとしたら、ある意味とても羨ましい。でも、この人のことを嫌っていた人は多そうだ。きっとナベツネさんなんかハラワタ煮えくりかえっているような気がする。
お次は健さんである。「高倉健」のイメージを壊さないために相当な努力していたようだが、良くも悪くも「偏屈」だから、アノ姿を徹底できたのだろう。
エッセイの中にもそんな姿を感じさせるエピソードがいくつもあった。
村田兆治投手の引退をテレビで知って無性に花を届けたくなった健さんは、付き合いがあるわけでも無い村田投手の家を探し出して不法侵入?ばりの意気込みで手紙と花を置いていく。
感激した村田夫人経由で新聞記事になりそうになるが、健さんはそれを頑なに拒否する。拒否することを素直に詫びているのにナゼだか公にすることを嫌がる。
見方によっては単なる頑固である。健さんも自ら素直ではない性格のことを認めている。冒頭で書いた「偏屈」の意味を見ても分かる通り、端的に言って健さんも偏屈である。
変な言い方になるが、「健さん」のカッコ良さは「偏屈」が大前提になっていたわけだ。
「男の中の男」。健さんを象徴するイメージだ。いわば、「男の中の男に必要なのは偏屈である」という三段論法が成立する。
偏屈バンザイである。
いまの世の中に足りないものは「健全な偏屈」ではないだろうか。偏屈というと誤解を招くが、最低限の自己主張は必要だ。
長いものには巻かれろ、物言えばくちびる寒し・・・。これらの考え方は日本人の一種の美徳かも知れないが、行き過ぎると何も考えない弊害を生む。
何も考えずボケっとしていたらラクチンだろうが、時には自分のこだわりを押し通すのも人生を豊かにする一助になる。
2015年3月18日水曜日
オトナの注文の仕方
「情報を食べる」という言い方があるらしい。安直なグルメブームを揶揄した言い方だ。
「雑誌に紹介されたから」「ミシュランの星がついたから」「食べログの評価が高いから」等々、結局は飛び交う「情報」に引き寄せられて嬉しそうに列に並ぶ。
味覚なんか二の次で、単に情報を確認しているという話である。評判の良い店に行ったという事実だけが喜びになっているらしい。
もちろん、判断材料としてそうした情報を参考にするのは普通のことなのだろうが、巷に飛び交う「情報」を盲目的に頼って自分の好みや自分の判断を引っ込めちゃうことがもったいないと思う。
お寿司屋さんやちょっとした料理屋での「おまかせ」というスタイルもビミョーである。
カウンターで食べる店だったら尚更である。板前さんと対峙する意味がまるでない。料理する側だって間違いなく張り合いがないと思う。
「何を頼んでいいか分からないから」。そういう気持ちも分かる。でもそれなら尋ねればいいだけの話だ。
自分はどんなものを食べたいのか、どんなイメージでその店に来たのか等々、いくらでも伝え方はあるだろう。
ロクに答えない店なら、ビール1本飲んで帰っちゃえばいいし、実際にはマトモなレベルの店ならそんな心配は不要だろう。
「常連でもないのに尋ねにくい」。そんな考えもある。それも気にしすぎだ。尋ねる行為に常連もヘチマもない。威張る必要はないが、こっちはお客様である。
「前に違う店で食った〇◎がウマかったから、それはあるか?」とか「この店には◎△産のマグロはあるか?」とか、知ったかぶって余計なことを言い出す野暮天は問題外だが、普通にオススメを聞いて自分の好みも伝えれば充分だろう。
「ネタや食材に詳しくないし・・・」。そんな理由で押し黙っちゃう必要はない。こっちは料理人じゃないんだから詳しくなくて当然である。
こってり系が欲しい、サッパリ系が欲しい等々、そんな程度の要求で充分だと思う。
お寿司屋さんを例に取るなら、せめて「ツマミを4、5品欲しい。温かいものも入れてくれ。その後で握りを5貫ぐらいもらえればいい」といった程度の希望を伝えるだけで、店側もやりやすくなる。
それだけの情報があれば店としても的確に段取ることができる。食材に詳しいかどうかなど関係ない。
当り前のことのようで、意外に難関に思っている人が多い。謙虚な日本人の特徴だろうか。いや、謙虚と萎縮は違う。最低限の自分の意見は伝えた方がいいと思う。
意見や希望を伝えることは我を通すことやワガママとは違う。大げさに言えば一期一会を大事にすることにだってつながる。
あくまで店が大忙しの時には遠慮する必要はあるが、たとえば、揚げ場や焼き場があるお寿司屋さんだったら、牡蠣をフライにしてもらったり、アジフライ、エビフライだってワガママというほどの注文ではないと思う。
刺身で食べられる上モノのサンマをあえて塩焼きにしてもらえば絶品だし、生牡蠣を焼き牡蠣にしてもらったり、その他の魚だって鮮度が良いのだから焼きモノにしてもウマい。
こういう注文をワガママとは言わない。タルタルソースまで作ってくれとか寿司飯で炒めご飯を作ってくれといった悪ノリはワガママだが、イクラの握りを海苔無しで食べたいから小鉢にシャリとイクラだけを入れてくれと言ったってワガママという程ではない。
なんかキリがなくなってきた。
ちょっと話を変える。
先日、護国寺近くのホテル椿山荘に出かけてきた。フォーシーズンズホテルが撤退して大家だった椿山荘が直営する形になってから初訪問である。
カフェレストランで腹ごなしをしたかったのだが、昔あったはずのオムライスがメニューから消えていた。
仕方なくカレーでも食べようかと思ったのだが、ボーイさんが「オムライス、お作りしますよ」と微笑んでくれた。
私の名誉?のために補足すると、ボーイさんには、かつてのオムライスが美味しかったことをちょこっと伝えただけである。断じて恐い顔で強要まがいの物言いをしたわけではない。
こういうのはワガママとは言わない。私の紳士的な?物腰と上等なサービスを会得している店側との呼吸が合ったという話である。
実に有難かった。近いうちにまたオムライスを食べに行きそうだが、その時もあくまでコッソリと「相談」という形でオーダーすることが大事だと思う。
冒頭からウジウジ書いてきたそれっぽい店のカウンターでの過ごし方だが、意見や希望、好みを伝えるという行為のキモは「相談」に尽きる。あくまで相談するという姿勢が大切だ。
お仕着せに満足するだけでなく、腕の立つプロの板前さんや職人さんを奮い立たせるような「相談」をどんどんするのがベストである。
2015年3月16日月曜日
たんや又兵衛
白子とかアンキモとか珍味ばかり食べていた頃は尿酸値が高くて困っていたが、最近はだいぶ改善された。
以前より珍味に萌えなくなったことが理由だが、世の中そんなに甘くはない。今はコレステロールの数値が高値安定状態である。
コレステローラーである。
生卵かけご飯を筆頭にタマゴ方面はすべて好きである。イクラもタラコも愛している。肉に関してもレバーなど内臓系が好きだ。ウナギも好きだ。乳製品も好きだ。
そんなヤツがコレステロール値が低いはずはない。わかっちゃいるけどナンチャラである。
ということで、牛タンを食べに行ってきた。意味不明でスイマセン・・・。
牛タンはヘルシーなイメージがある。内臓系のこってりしたウマさとも違うし、脂ギトギトってわけでもない。
あとあと調べてみたら、サーロインよりコレステロール含有量が多いらしい。見かけ倒しである。あの軽やかでサッパリした牛タンがコレステローラーの敵だったとは驚きである。
でも牛タンはウマい。とくにウマい店の牛タンは目ん玉飛び出そうになるほどウマい。
焼肉屋の牛タンは薄っぺらいことが多くてイヤだ。麦飯とセットで定食風に食べさせる仙台系?の店の牛タンのほうが好みだ。
厚切りにしてこその食感である。
で、富豪を名乗っている以上、仕方なく最上級の牛タンを食べに行った。いつもピーピーしている割にはエンゲル係数がハチャメチャである。
前振りが長くなりすぎてしまった。
「たんや又兵衛」である。10年以上前に六本木の店に何度か行ったことがあるが、この日は銀座店。数寄屋通りにぽつんと佇む店だ。
数寄屋通りは銀座の中で私が一番好きなエリアだ。おでんのおぐ羅、魚河岸料理を名乗る佃喜知、レバ刺しも常備されている東京やきとり亭、シメの皿うどんにソースをかけて悶絶する割烹おかやす等々が点在している。
ヨダレがぶりぶり出てしまう通りである。「ヨダレ通り」である。銀座を代表するクラブ「麻衣子」も数寄屋通りにある。違う意味でヨダレが出てしまう私だ。
話がそれた。牛タン専門店の話だった。
熟成肉とやらがブームになる以前から熟成させた上質な牛タンにこだわる店だ。3本も食べたら満腹になりそうなほど大串にドカンと刺さって供される。
値段が高いのがこの店の特徴だ。高いけどウマい。いや高いからウマいのか、実に悩ましい問題である。
単品で注文したら1串2千円、いや3千円近かったような気がする。調子に乗ってオーダーすると結構青くなるので、コースを頼んで足りなければ追加するというのが精神衛生上はオススメである。
ただ、個人的な意見だが、牛タン以外の串は「普通」である。あのぐらいなら気の利いた肉料理屋なら食べる機会はある。
この店では牛タンに集中したほうが楽しめる。酒の品揃えも豊富で、店内の雰囲気はいたって普通。少し高級な串焼き屋といった風情である。
メニューに一切値段が書かれていない。普通はビビる。私もビビる。でもMな私には堪らない。
客層も余裕のありそうなオッサン中心である。良くも悪くも銀座っぽい店と言える。
敷居が高いわけではないが誰でもウェルカムっていう雰囲気ではない。変な緊張感は無いものの分かっている客しかいない独特な空気感がある。
そういう店が好きな私にとっては居心地が良い店だ。コレステロール問題と相談しながら時々出かけようと思う。
2015年3月13日金曜日
野菜というシロモノ
人生で初めて野菜を心からウマいと思った。一種の事件である。
時々、ぶらっと訪ねる銀座のお寿司屋さん「さ久ら」で食べた「すっぽんスープ大根おでん」とでも呼びたい一品がそれ。
その名の通り、おでんのような感じだが、出し汁は長時間丁寧に取ったすっぽんスープである。
まいったまいった。絶品だった。ふくよかな旨味、食感、香り、すべてが完璧だった。
その昔、京都・祇園の鮨割烹で食べたカブラ蒸しを「野菜のくせにウマい」と感激したことがある。ただ、あくまで「野菜のくせに」という前置き付きでの話だ。
今回の大根は肉や魚や炭水化物と同じ土俵で語ったとしても問答無用に美味しかった。
おでんといえば大根が王様みたいな顔しているが、私はおでんの大根が好きではない。そんな私が卒倒したのだから我ながらビックリである。
話は変わるが、大根が苦手というだけでなく、私はおでん自体が好きというわけではない。
今もおでん屋さんは、その場の雰囲気だけに魅せられて通っていると言ってもいい。
その昔、銀座あたりの大人がくつろぐ高級おでん屋でしっぽり一人酒を気取る姿に憧れた。
おでん嫌いだったのに、背伸びしたい、カッコつけたい一心で、それっぽいおでん屋に頑張って通った。
練り物ばっかり食べて大根なんか無視していたが、そのうち、おでん屋の大将と顔馴染みになってくると、「大根がちょうどいい感じですよ」とか言われる。
悪魔の囁きに聞こえたが、こっちはカッコつけたいバカだから「やっぱり、大根は外せないっすよ~」と満面の笑顔でウソをついていた。
不思議なもので、そのうち、大根もコッソリ飲み込まずに、しっかり嚙んで味わいように進化した。今では空腹だったら普通に食べるぐらいになった。
でも、あくまで「普通に食べられる」というレベルであり、好物ではない。しみじみウマいな~と感じることは無い。
そんな大根をしみじみウマいと思ったのだから嬉しいような、負けちゃったような複雑な気分である。
さてさて、野菜である。実に悩ましい存在である。天敵である。マズいし、苦いし、臭いし、すべての形容詞を使って悪口を言いたい相手である。
先日、食事を共にした女性が「バーニャカウダ」を注文した時には、その人が鬼畜に見えた。
あのバーニャカウダとやらは何なんだろう。腹が立つ存在だ。シャレたネーミングで気取ってやがるが、平たくいえば「ウサギのエサ」ではないのか。
その時は「ウサギのエサ」に付属していたタレ?をチビチビ舐めて酒のアテにしてみたが、草は食べないで済ませた。
職場で青汁を飲むようになって7~8年になる。日々500㎖を摂取している。なかなか優秀である。
そんな私が野菜を食べることは青汁に対する裏切りである。背信行為である。倫理にもとる話である。
毎日、会社で粉末青汁を水に溶かしてペットボトルに用意してくれる女性社員に対しても申し訳ない話である。
だから安易に野菜を食べてはいけない。野菜が主役になっている料理はもちろん、付け合わせの野菜だって同じである。
レストランでハンバーグやステーキに添えられるニンジンとか草とかにしても、次のお客さんに使い回ししてもらうために一切手を付けないのが私のマナーである。
あんまりフザけたことばかり書いていると叱られそうだから適当にしよう。
野菜を毛嫌いしてきたのに半世紀近く病気らしい病気になったことはない。骨折したり、扁桃腺が腫れたり、尿管結石になったぐらいだが、野菜とは無関係なものばかりである。
今日は何を書こうとしていたのだろう。そうだ。ウマい「すっぽんスープ大根」の話が脱線してしまった。。。。
お店ではたまに作る料理とのことで、次にいつ味わえるか分からないのがタマランチンである。
ところで、野菜嫌いに話が戻っちゃうのだが、これを書いていて一つの真理に気付いた。私が異常なまでにウナギを愛する理由についてだ。
白焼きだろうと鰻重だろうと、ウナギを思い浮かべると野菜がまったく出てこない。同じ器に付け合わせで野菜が乗っかっていることもない。
これって凄いことだ。蒲焼きが単品で出てくる時でも付け合わせなど皆無である。なんとまあ潔いことだろう。
ますますウナギに惚れている私である。
2015年3月11日水曜日
ギタリストへの道
あっという間に半年が経ってしまった。突然の神のお告げでギターを始めてから半年である。
挫折していないことは凄いことである。飽きっぽい性格だし、無器用さではアジアチャンピオン級の私にとって歴史的な珍事と言ってもいい。
でも弾けない。それが現実である。半年もポロポロいじっていれば1曲ぐらい弾けそうなものだが、まだまだである。
しかし、私なりに成長を感じる部分もある。ひと山越えそうな予感もちょっぴりある。これは凄いことである。
主だったコードはなんとなく身についてきた。難関の「F」だって少しずつそれっぽくなってきた。コードチェンジが難関だが、カメの歩み程度には進化中である。
藤井フミヤの「TRUE LOVE」のイントロがそれっぽく鳴るのだから半年前に比べれば飛躍的な上達ぶりである。まあ、あのイントロはコードはたった一つである・・・。
他にも自分が好きな曲の一部だけがそれっぽく弾けると妙に楽しい。1週間ぐらい山にこもって練習に専念すれば結構いけるかもしれない。
一番の問題が左手と調子を合わせる右手のストロークだが、難攻不落、意味不明、絶対不可能だと思っていた動きが、少しずつ「理解」できるところまで来た。
オレのおかげである。
いや、ギター教室のおかげだ。割とサボり気味だが、一応、月謝が自動引き落としだから何とか継続している。
マンツーマンのギター先生も商売上は大喜びだろう。グングン上達したら、とっとと独学の道に進んじゃうから、私のヘタレぶりは彼らとしてはウッシシである。
そうは言っても、格段に進歩した点は教室での私の質問である。数ヶ月前は何を尋ねていいかすら分からなかったが今では質問攻めである。
返ってきた答えに「なるほど!」と目からウロコチックになることも増えた。問題はそこからである。
「なるほど!」だけで満足して復習するのに間があいちゃう。すぐに反復練習すれば身につくのに、結局「なるほど!」の内容を忘れてしまう。
つくづく中高年の習い事の壁を感じる。熱い心を持った中学生なんかは毎日5時間も6時間もギターを抱えて上達への道をたどる。
オッサンはそうもいかない。大体、熱い心の中学生より遙かにやることが多い。
まず酒という壁が立ちはだかる。夜は基本的に酔っ払っているから指先に神経をとがらすギター練習が出来なくなる。
ホロ酔いならともかく、泥酔していると自分がギターを買ったことすら忘れる。
酒以外にも、ギター練習を妨害するさまざまなオトナの事情が溢れている。
酒を抜くためにサウナに閉じこもったり、録画が溜まった映画を見たり、無料アダルト動画をウホウホ言いながら見たり、高倉健のエッセイを読んだり、時には乙女を口説こうとして玉砕したり、あれやこれやで忙しくてしょうがない。
先日もギター練習のために酒を軽く舐める程度で済ませ、意気揚々と早めに帰宅したのにサバにあたって全身が痒くなったので練習を断念した。
ここに書いたような事情は、熱い心を持った中学生には無縁だろう。彼らが黙々と練習できることに比べて大いなるハンデである。
まあ、こすっからい言い訳ではある。
でも逆にいえば、そんな事情の中、せっせと練習しようという意気込みだけは続いているのだから良しとしなければならない。
一応、超ゆっくりではあるが、それっぽく曲らしき音が出るようになったのだから自分なりにはチョッピリ楽しい。
すっかり「弾ける人」のフリして鼻歌歌いながらハマショーのバラードとかを演奏している(つもりになっている)今日この頃である。
上手に弾ける人が10、そこそこカッチョ良く弾ける人が8、昔は少し弾けたけど今は触れていないという人が6、初心者でも半年ガムシャラに頑張った人が3だとしたら、今の私は2ぐらいである。
目指すレベルは5ぐらいである。わがオヤジバンドでは私を真ん中にして右大臣、左大臣がバッチリなギターを奏でる。だから私は間奏のストロークなんかをそれっぽい風情を醸し出しながら弾けばいいわけだ。
それだって今の私にはハードルが高い。
2~3年経った頃に今日のブログを読み返して、「オレもあの頃はヘタレた腕前だったなあ」と思うか、「あのまま続けていれば今頃は弾けたのになあ」と思うか、どっちに転ぶかが楽しみである。
2015年3月9日月曜日
日本橋 いづもや
ウナギの話を書く。
ワサビ醬油で味わう白焼き。私の頭の中で毎年開催されている「冷酒のつまみコンテスト」で20年連続1位に輝いている。
白焼きだけではない。蒲焼き、鰻重もホントに大好きである。
ウナギ好きを自認してウン十年。資源が枯渇しているからハレの日だけに食べるぐらいの気配りが必要だが、ついつい普段からウナギを食べまくっている。
好きな店もいくつかある。人気店もいくつも覗いてきた。そんな私が未体験だった絶品ウナギを先日味わってきた。
一応、オトナだから物静かにうなずきながら食べたのだが、実は心の中は狂喜乱舞。まいったまいった。感動した。
日本橋の外れにある「いづもや」。何年か前にテレビの散歩番組で見た覚えがあるので、結構な有名店なんだろう。
今まで行かなかったことを激しく後悔した。ウナギには一家言あるみたいな顔をしていることが恥ずかしい。いや、ウナギがとことん好きだからこそ、今回の逸品の良さを痛感したのかも知れない。
写真では違いが伝わらないが、「生醤油き」と「魚醤焼き」である。聞き覚えのない調理法である。ハーフサイズでも注文できるのが有難い。これに通常の白焼きも注文してそれぞれ味わった。
正直なところ、聞き覚えのない二つにはさほど期待していなかった。世の中のウマいウナギといえば白焼きか蒲焼きである。以前、某所でウナギの西京焼なる一品を食べたが端的に言ってマズかった。一般的ではない調理法は単なるウケ狙いだと思っていた。
ところが、この二つはそんな先入観をいとも簡単にぶっ壊すほどウマかった。どうしましょう!って感じ。
白焼きもバツグンだったが、それと同点かそれ以上という印象だ。次も必ずこの3種類をツマミに冷酒をかっくらうつもりだ。
生醤油焼きと聞いて、しょっぱいだけの珍味っぽい味をイメージしていたが、味付け加減が絶妙。まさにいい塩梅。醬油だけが勝っちゃっていることもない。ふっくらしたウナギが醬油の焼けた上品な風味をまとっている。
冷酒グビグビ、うっしっし、ワッハッハって感じである。
魚醤焼きは、「いづも焼き」と命名されている。世界でもここだけのオリジナルだそうだ。ウナギだけで作った魚醤を蒸したウナギに付け焼きする贅沢な一品。こちらも魚醤の味が強すぎず、ウナギの旨味を壊さない絶妙な味付けだった。
とかく味を強めにしてインパクトを出したがる料理が巷に溢れる中、この店の味付けは実に繊細。ウナギを大事に大事に調理しているのだろう。
酒の品揃えもかなりのもので、ウナギ以外に気の利いたツマミも用意されている。最高である。当然のごとく鰻重も美味しかった。強すぎないタレの味が私の好みにもマッチしたのでバンザイ三唱である。
今までこの店を知らなかったことが残念である。大げさに言えばこの店を知らずに死なないで良かったと思ったほどだ。
礼儀正しい若旦那が積極的に客先に来てあれこれとウンチクを語ってくれる。私も世の中の有名ウナギ店の多くが酒肴一つ用意せず、客を修行僧のように待たせることを当然かのように思っている誤った常識をしきりに嘆いてみた。
若旦那自身も個人的にウナギの食べ歩きをする中で、そんな店が多い状況を憂いていたらしく店のメニュー構成に工夫しているそうだ。よっしゃよっしゃ!
いづも焼き自体、まだ開発して数年だとか。ニューウェーブなのに老舗の伝統料理のような落ち着いた味わいに仕上げているのがニクい。
年齢とともに「初めて食べるもの」はどんどん減ってくる。「初めて食べるウマいもの」なら尚更である。
今回食べたウナギは食事としてのウナギというより、「酒飲みのためのウナギ」として画期的な初めての味だった。
書いているだけでまた行きたくなってきた。
2015年3月6日金曜日
お尻とスケベ
時々、コンビニで変な本を買う。入浴中に読む週刊誌を買うつもりがコンビニ限定のヤクザ漫画とか世界史残酷物語、世界の拷問なんちゃらとか、そんなムック本なんかも買ってしまう。
変な本などと言うと真面目に作っている人に申し訳ないのだが、あえて言うなら変な本である。サブカルとも違う不思議なジャンルだ。
先日は、「実話裏歴史 昭和のタブー」というムック本を買ってしまった。正直なところタメになる話?は皆無だったのだが、「ケツの魔力・お尻の日本史」という特集だけは真剣に読んでしまった。
先日、このブログで「オッパイ星人とお尻フェチ」という生真面目で高尚な論文じみた話を書いたせいで、その特集がどういう方向で「お尻考察」をしているか大いに気になったわけだ。
私としては「オッパイ星人という呼び方が定着しているように、お尻好きにもカジュアルな呼び名が欲しい」という論陣を張った?のだが、ヘンテコ本の主張のほうが私の主張より真っ当だった。
要約すると次のような内容である。
女性の尻を愛好することは、フェティズムや変態趣味ではなく生物としての種族維持本能の発露に過ぎない。単純な本能に過ぎないわけだから、そこから乖離した「尻フェチ」などという言葉がもてはやされるのは本末転倒である。
すなわち、お尻を愛好することは男として至極普通なことなのだから、あえて特別な呼び方をつけたり、特別な現象として捉えるのは不自然だという論法である。
おまけに美尻、巨尻などをことさら特別視する風潮は「欲情が妊娠出産と結びつかなくなった人間の性本能の歪みを象徴するもの」と結論づけている。
なんとなく居直ったような、斜に構えたような分析である。目からウロコってわけではないが、実にマトを得た指摘とも言える。
女性のお尻にウキウキするのは極めて普通のこと。ごくごく日常的なこと。要はそういうことである。バンザイ。
結論は結論で結構なのだが、この本の特集では、昭和のお尻文化?が時系列で解説されていた部分もとても参考になった(何に参考にするのかサッパリわからないが・・・)。
昭和20~30年代の裸同然だった海女さんの姿に欧米人が驚いたこと、漫画やドラマで人気になった「ハレンチ学園」、映画での由美かおる、松坂慶子らの後ろ姿のヌードポスター、武田久美子のふんどしヌード、森高千里の見せパン衣装、飯島愛のTバック、韓国のアイドル「KARA」のヒップダンスなどなど・・・。
なかなか読み応えのある特集だった。変な本もなかなか侮れない。全国でどれほどの人がこの特集を読んだかは知らないが、多分私が日本で一番ジックリ読んだはずだ。
ということで、ついでだから私が旅先で出歯亀カメラマンになって撮った画像をいくつか載せておこう。被写体はすべて見知らぬ西洋の人々である。国際的犯罪行為?である。
なんだかスケベなことを一生懸命になって書いている自分が少し切ない。欲求不満なのだろうか。
でも、スケベは人類にとって非常に大事である。作詞家のなかにし礼さんも1か月ほど前の新聞のインタビューでそんなことを力説していた。
エロスや笑いを失った社会に平和などないという素晴らしい主張である。
愚かしいことやちょっとハメを外すとネットで炎上するから、世の中自粛ばかりになり、エロチックなこともそのうち許されない社会になりそうだという趣旨だった。
まったくその通りだと思う。そんな世の中になるのは心底恐い。やはりスケベな話でキャッキャと騒げる社会は素晴らしいと思う。
最近はアケスケにワイ談を展開する若い女子が昔より確実に増加している。実に結構なことである。グッジョブ!って感じである。
スケベにオープンな社会を作ろうという私の昔からの地道な活動が実を結んでいるようで喜ばしい限りだ。あとはコッソリとワイ談の内容を私相手に実践してくれる女子が増加することを祈るのみである。
ということで、私自身、人生の折り返し地点を過ぎたぐらいで変に老け込むことなく今後もスケベ道を突き進んでいこう。分別なんて横に置いて頑張ろう。スケベで結構、それこそが平和の証である。
2015年3月4日水曜日
自分
「自分に腹が立つ」、「自分が許せない」。時々そんな言葉を耳にする。「自分探し」、「自分癒やし」、「自分磨き」などなど「自分」をめぐるキーワードもいくつもある。
今日は「自分」について書いてみたい。私のことではない。
自分に腹が立つとか、自分が許せないというのは建設的な反省の言葉だから心構えとしてはご立派である。
まあ、こういう表現を好むのはたいてい若い人である。いっぱしの年齢になると、そうそう自分をイジめてはいられない。
頼れるのは自分だけ、信じられるのは自分だけ。そんな現実に何度も直面していると、自分というものがそれなりに大切になってくる。
「もっと自分を大事にしろよ!」。ドラマや映画のクサいセリフも、若者に大して向けられるもので、オッサンやオバサンはそんなお叱りは受けない。
いっぱしのオトナであれば「自分」は出来上がっているから、自分を頼りにもするし甘えもする。嫌っている余裕はない。
その分、若い頃より「自分」に対して叱咤することや鼓舞する場面も増える。結局、大事な相棒みたいな存在になっていくわけだ。
「自分大好き」みたいなナルシストは気持ち悪いが、「自分」としっかりした信頼関係を築くことは大事だ。少なくとも「自分が嫌い」だとウジウジしているよりはマシだろう。
長年苦楽を共にした夫婦がお互いを「空気のような関係」と表現することがあるが、「自分」との付き合いも似たようなものだ。
若い頃は尾崎豊の歌みたいに「自分」と上手に折り合えなかったりするが、年齢とともに素直に付き合えるようになる。そのうち「自分」というもの自体をアレコレ考えることさえ無くなってくる。
変な言い方になるが、「自分」って結構有難い存在である。ウマいものを食べさせてくれるし、綺麗なものを見せてくれるし、アヘアヘ言っちゃうような気持ちよいことを経験しようと奮闘してくれる。
もっとも、バカな考えにとらわれたり、恥ずかしい失敗もしでかす。後悔だらけのマヌケな行動もすべて「自分」がもたらしたものである。
でも、トータルで考えれば結構頑張ってくれているのではないか。元気に過不足無く暮らしていること自体、「自分」がそこそこ踏ん張っているからだろう。
これって「自己愛」とかそんな変な意味ではなく、大過なく過ごしている大人なら誰にでも当てはまることではないだろうか。
「自分が許せない」とか「自分が好きになれない」と思っている人は、日々の暮らしの中の楽しい部分にもっと目を向けた方がいい。
自分を傷つけたりしていると、いつか違う自分からシッペ返しを食らうような気がする。
いい年して「自分探し」などとアホみたいなことを言っている人がいるが、そんなヒマがあったら、もっと自分とフランクに付き合って楽しい時間を増やすようにすればいいと思う。
2015年3月2日月曜日
軽薄
昭和の終わり頃、世の中には「軽薄」という言葉が溢れていた。時代の空気を象徴する言葉として使われていた。
昭和軽薄体なる文体が話題になったことも懐かしい。「すごくEねえ」、「ヒジョーに楽しい」、「あーだこーだ」等々、変にくだけた文章表現がそう呼ばれた。
あの時代に青春を謳歌?していた私も昭和軽薄体にかなり影響されたようだ。このブログを読み返してみると無意識にそれっぽい言い回しを使っている。
まあ、私自身の日々の活動が軽薄だからそんな言い回しが普通になってしまったのだろう。「重厚な男」になってみたいが、いつも10秒ぐらいで挫折してしまう。
その後、バブル時代になって世の中の軽薄さには拍車がかかった。バカなこと、バカであることが美徳だった不思議な時代だった。
時は流れ世知辛い世の中になった今も「時代の軽さ」が話題になる。すべてが便利になったコンビニ・ネット社会を分析する際には「軽さ」がキーワードになる。
昭和晩期と現在それぞれにおいて「軽さ」が時代のキーワードになっているが、そこには少し違いがあるような気がする。
80年代やバブルの頃は、軽薄を自覚して、軽薄であることをある意味自虐的に認識していた気配があった。そこが今の時代の「軽さ」とは違う。
最近では軽薄という言葉自体、すっかり聞かれなくなった。ひょっとすると軽薄さを自覚できないほど世の中が「超軽薄化」しちゃったのかと心配になる。
ちょっと前の話になるが、「安倍首相のヤジ」にはビックリ仰天した。国会の委員会の場で野党議員に対して総理大臣ドノがヤジを飛ばす光景など前代未聞だ。
究極の「軽さ」だ。おまけにヤジの内容が正しくなかったと後になって訂正するお粗末ぶり。ブサイク極まりない話だった。
私は野党支持ではない。労働組合が支持母体の民主党はイヤだし、共産主義は嫌いだし、左翼にも興味がない以上、取捨選択すれば自民党寄りだ。そんな私でも総理大臣の軽薄さにはムシズが走った。
あの異常性は何なんだろう。昨年、ワーワーキャーキャー号泣して世間を呆れさせた元兵庫県議と大して変わらない。立場をわきまえていない軽さが実に不思議だ。
政治家の「軽さ」を感じるようになったのはいつ頃からだろう。そう感じるのは自分が年を取ったせいだと思っていたが、昨今の世相を見る限りそうではなかったみたいだ。
メディアの監視が昔より厳しくなり、いにしえの政治家が得意とした料亭政治みたいな荒技、裏技は影を潜めた。それはそれで結構なのだろうが、その結果はどうだろう。
「真面目な僕ちゃん」や「ガリ勉優等生」ばかりがもてはやされ、ぱっと見や大衆ウケだけがリーダーの条件になってしまった。
妖怪や怪物などと呼ばれるような一種独特なツラ構えの得体の知れないオッサンやジイサンが永田町を跋扈していた頃のほうが確実に「然るべき重厚感」があった。
重厚感こそ大事などとは言い切れないが、それでも国を率いる面々には相応のドッシリ感を求めたい。
ちなみに国会での暴言と言えば大昔の吉田茂内閣のバカヤロー解散が有名だ。大騒動というイメージがあるが、実際にはバカヤローと叫んだわけではない。
答弁を終えて席に戻りかけた吉田首相がボソっとつぶやいた一言をマイクが拾ったのがコトの発端。質問者をさえぎってヤジを飛ばす安倍さんの異常な軽さとは次元が違う。
「軽さ」を突き詰めれば「ひ弱さ」である。勇ましいことを言おうが、頼もしいことを言おうが、ひ弱な体質が透けて見えるようでは説得力などない。
なんだか堅苦しい話を書き殴ってしまった。この辺でやめよう。
やはり昭和軽薄体にのっとってお気軽な話題を書いていた方が楽しい・・・。