2018年6月29日金曜日
交際クラブに入ろうか
ボッキュンボンの若い妻、愛犬イブちゃん、デヴィ夫人等々、世間の関心を集める素材にコト欠かないから、動きがあり次第、再びブーム?が再燃するはずだ。
さて、ドンファンさんのおかげで、がぜん注目されているのが「交際クラブ」だ。多くの人がその存在は知っていても詳細がよくわからない世界である。
インチキだ、サクラばっかりだ、デリヘルのボッタクリ版、美人局だろう等々、知らないものに対してはそんなネガティブイメージもつきまとう。
ところが、ドンファン氏が交際クラブをベースに数々の美女とネンゴロになっていたという話が広まるにつれ「ホントに可愛いコちゃんをゲットできるみたいだ」という変な安心感?が生まれているらしい。
というわけで、「交際クラブ」をネットで検索してみた。出るわ出るわ。情報があふれている。入会金、セッティング料金はいろいろだが、男女ともに身元がわかる登録制ということが共通している。
自分の個人情報をさらしてまで登録したくはないが、そんなことを気にしない人にとっては実に簡単な仕組みだ。でも、家庭がある人や勤め先が風紀に厳しかったら二の足を踏むはずだ。実際はどうなんだろう。
男女ともに、そういう場所で知り合ったことは隠すから、実際の体験談を聞きたくてもなかなか難しい。ネットに体験談が出回っているが、あんなものは業者作成のヤラセだろう。
もう15年ぐらい前になるが、仕事で付き合いのあった当時50歳ぐらいの税理士さんが、銀座に拠点のある交際クラブに登録して奮戦していた話を聞いた。
その頃は、あまり興味がなかったのでテキトーに聞き流していた。いま改めて詳細を尋ねてみたいが、その人は2年ぐらい前に若年性痴呆が進んじゃって施設に入ってしまった。残念ながら取材不能である。
ここはひとつ、私が身をもって体験してここで報告したいものだが、そうもいかない。なんとなく躊躇してしまう。
結婚相談所ならともかく、ソッチ系の場合は、はっきり言って肉体関係を前提にした「交際」を有料で斡旋してもらうのが特徴だ。夢見がちなロマンチストである私としては、ストレート過ぎる感じが気に入らない。
セッティングしたらその後は個人の交渉でというスタイルだ。体裁上は管理売春にはならないのだろうが、平たくいえば売春の斡旋には違いない。
別に気取ったことを書く気はないが、どことなくワクワクできない。いや、何だかんだいっても風俗へ行くよりはワンクッションあるからワクワクするかもしれない。
ウダウダ書いている私だって、正直に言えば、個人的に知り合った人と真剣交際というより、ソッチの関係での付き合いを持ちかけることはある。現役の男だし、独身だし、その女性が魅力的なら伏してお願いしたい時だってある。
ぶっちゃけて言えば「チップ」を渡すこともある。人並みにスケベ心を持っているいっぱしのオジサマである。そんな状況になっちゃうこともある。
気の利いたサービスには御礼も必要だろう。心付けを包むのと同じような感覚と言ってもいい。飲みの席に付き合わせて遅くなったらタクシー代を渡すのと感覚的には似たようなものだ。
とりあえず“お金ありき”には抵抗があるが、結果的に相手が何を目的にして、どう思っているかはこっちは知るよしもない。
考えてみれば、いまハヤリの相席居酒屋にしても、パパ活を目的にしている女性と知り合えば同じことだろう。
相席居酒屋に限らず、今の時代は、若い女性と中高年男性を引き合わせる飲み会や食事会などを定期的に開催している飲食店の話をよく耳にする。
そこで展開されている駆け引きや交渉?は、交際クラブのそれと違いはないのかもしれない。
その昔、私が10代後半だったころ、「夕ぐれ族」という斡旋組織が話題になった。俗に愛人バンクと呼ばれて社会問題化したのだが、当時イケイケだった私は世の中のオッサン達の行動が理解不能だった。
あれからウン十年、今の私はバリバリのオジサマだ。当時のオッサン達の気持ちがある程度は理解できる。そこまでして奮戦したがっていた肉食的男気に敬意を表したいぐらいだ。
なんだかすっかり交際クラブ支持者みたいな書きぶりになってしまった。
いろいろと相手にしてくれる人がいなくなったら登録しちゃうのかもしれない。そうなったらここでその事実を白状できるかどうか。。。
ビミョーである。
2018年6月27日水曜日
大衆酒場 ジャンクへの愛
やさぐれた気分の時に目指すのが大衆酒場である。「モツ煮にホッピー」みたいなパターンである。
やさぐれた気分っていうのが自分でもよく分からないが、1年365日もあればそんな日もある。
「雑な感じ」に身を置きたくなるような気分の時だ。不思議とそういう時は「ちゃんとした感じ」から身を遠ざけたくなる。
キチンとした店のキチンとした感じが重ったるく感じて、ちゃんとした料理のちゃんとした感じを敬遠したくなる。
そんな気分の時って誰にでもあるのではなかろうか。私だけだろうか。だったら困る。
もちろん、大衆酒場がちゃんとしてないわけではない。高級店に比べれば不必要に居ずまいを正す必要がないという意味だ。
足を組んだまま斜めに傾いた姿勢で酒をズズズっとすするのもアリだし、タバコを手にしたまま食べ物を口に運ぶのもアリだ。行儀の悪さを気にしないで済む寛容さがある。
鼻毛を引っこ抜きながらホッピーを飲むなんて芸当は着物姿の仲居さんがいる料理屋では無理だ。でも鼻毛を引っこ抜きながらホッピーを飲みたい夜もある。
遠慮なくゲップをかましながら大あくびするなんて芸当はフォークとナイフを並べている洒落た店では無理だ。でもそんなユルユルした態度で過ごしたい夜もある。
イキな男や本当の紳士ならば、どんな安酒場だろうとキリっと背筋を伸ばして静かに盃を傾けるのが正しい。それは分かっている。そんな男になりたいものだが、凡人にはそれが出来ない。
雑な状態の中に身を置くと、大げさに言えば鎧兜を脱いだような軽快な気分になる。昼間の放電がじんわりと充電される感じ。
こんな飲み物をガーって飲み干す感じにもワクワクする。「カチカチレモンサワー」なる飲み物だ。要は凍らせた大量のレモンをチューハイにぶち込んである。
暑い季節には最高だ。上野の大衆酒場で飲んだ。上野という場所がミソだ。アメ横のそば、御徒町にも近い側にディープな大衆酒場が集まっている。
一種の観光名所的なエリアでもあるので、客層は普通である。ケッタイなおっさんがクダまいているパターンは意外に少ないように思う。
あえて名前は書かないが、もっとディープな下町エリアなら普通の人が少ない。私が大好きなテレビ番組「月曜から夜ふかし」で扱われるようなグダグダな街だったら、独特の空気感に気圧されちゃったりする。
最近やたらと目に付くようになった関西風の串揚げ屋も好きだ。なんてったって「ソースマン」である私にとっては、どんな具材だろうとソースで食べるという分かりやすさが嬉しい。
エビやキスのような魚介類も自分がソースをまとわされるとは予想しなかったはずだ。そう考えると、醬油派とソース派に二分されるアジフライだって、ソースこそが正解だと胸を張りたくなる。
紅ショウガやチーズ、タマゴといった変わり串だろうとソースが女房役になるわけだ。バンザイである。おまけに安い。
富豪を目指している私だから、フトコロに余裕がある時もある。そんな時でも大衆酒場のほうが快適な時もある。値段の問題ではない。
何だかんだと結局はジャンクフードっぽいものに郷愁を感じているのかもしれない。ハムカツやマカロニサラダなんかが出てくると条件反射のように興奮する。
ジャンク魂を揺さぶる究極の存在がペヤングだが、いま話題のギガマックスが気になって仕方がない。食べた人の意見は皆同じ。「味は普通のペヤングですよ」である。
そういう問題ではない。1.3リットルの熱湯を用意するという非常識な感じや、単に普通のペヤングを4つ入れてある安易な感じにジャンク業界の王道っぽさを感じる。
4つ分のペヤングにソースをかけてワシワシと混ぜ合わせる作業がやってみたい。立て続けに大口開けて頬張っても残りの分量を気にしないで済むという贅沢感に浸りたい。
ここ数日、そればかり考えているのだが、50歳をとっくに超えたオジサマとしては、ついブレーキをかけてしまう。そんな自分で残念でならない。
2018年6月25日月曜日
ウソがヘタ
知り合いにウソばかりつく女性がいる。自慢げに見せられた彼氏の画像と、以前に見せられたストーカーだという人物の画像がどう見ても同一人物だった。
ストーカーだった人が彼氏に昇格したわけではなさそうだし、どうも妄想癖があるようだ。そういう人をメンヘラというのだろうか。
こういうウソにツッコミを入れたら気の毒なので、こちらは気付かないフリをする。ひとしきり話を聴いてふんふんとうなずく。それが賢明だ。
あくまで推測だが、どうやら自分には言い寄ってくる男もいるし、日々あれこれバタバタしてるんだぞというアピールに励んでいるみたいだ。ご苦労なことである。歪んだリア充である。
リア充アピールが世の中に広まったせいで、くだらないウソが大量に出回っているのが今の社会だろう。
まあ、見栄みたいな可愛いウソに目くじらを立てる必要もない。人間なんて基本的には、いわゆる承認欲求みたいな心理で生きているから、自慢めいた言動に走りがちだ。
そうはいっても、私も若い頃だったら今のような他人様のリア充アピールの洪水の中で、すべてを鵜呑みにしちゃって悶々としたかもしれない。
ある程度の年齢になって、それなりに達観すれば周りがヤイノヤイノしていても普通にやり過ごせるのだが、若い頃はさすがに他人様が気になっていた。
やたらと誰かと比べたり、少しばかりの優劣を気にしていた。それが若さなんだろう。逆にそれが向上心や負けじ魂の元になっていた部分もある。
SNSに害されている今どきの若者は大変だと思う。背伸びすることに疲れてメンヘラ状態な人も大量発生しているはずだ。少し気の毒に思える。
さて、ウソの話である。冗談としてのウソは私の得意技だ。「実は父親がクロアチア人なんだ」とか「プロボウラーの資格を持っている」とかのバカげたウソを日夜連発している。
でも、ちゃんとしたウソ?が苦手だ。もっと器用にウソがつけたら違った人生があったんじゃないかと思えるほどだ。
ウソをつくと目が泳ぐ。表情が変わる。これではダメだ。ドッシリとした様子で表情一つ変えずに大胆なウソを語ってみたいものである。
吉田茂だったか佐藤栄作か忘れたが「心の底から真剣にウソをつけば真実になる」と語っていたらしい。なんかカッチョいい話だ。
ヘタれた私の場合、人の目を見てウソをつくことができない。だから相手の鼻先や眉間を見つめて頑張ってみる。しっかり目を見て話しているように錯覚してもらえる。でも、身体や表情がぎこちなくなるのは避けられない。気が弱いんだと思う。
堂々と相手を信じ込ませるウソがつける人は詐欺業界なんかでは引っ張りだこだろう。見え透いたウソをつくバカとは違って、一種の才能だ。ビジネスの面などでは大いに参考にしたい。
もちろん、対女性問題でもアノ才能があれば世の中が楽しくなるはずだ。女性という生き物は男に比べて「疑いのカタマリ」である。身を守りたいというDNAのなせるワザだろう。
対する男はウソがヘタだ。これも古くからの因習で「男らしく」「男たるもの」みたいな固定観念のせいで、ウソを闇雲に罪悪と思い込んでいることが背景にある。だからアタフタする。
確かにウソは悪いことだが、必要なウソもあれば、許される程度のウソもある。そんなウソならサラっとこなしたい。
ちなみに私が最近ついたウソで、相手が信じちゃったやつをあげてみる。
「大学生の頃、アルバイトで渡哲也の付き人をしたことがある」。
「マレーシアに旅行したときにマントヒヒのモモ肉を食べた」
「初体験の相手が友人の母親だった」
こういう話をすると、周辺事情というか、枝葉の話について質問攻めにあう。そこを乗り切るのがポイントである。
経緯や細かいディテールを聞かれても、その場でもっともらしいウソを上塗りできれば完璧である。
瞬時に整合性の取れた話を構築するわけだから脳ミソはフル回転だ。ボケ防止に非常に有効だと思う。
ただ、最後には「ウソだよーん」と明かしてしまう。そこが私の限界である。シレっとした顔でそのままに出来たら私もいっぱしの詐欺師予備軍になれるかもしれない。
2018年6月22日金曜日
眠い話とサッカーの話
2018年6月20日水曜日
オコメに悶絶
硬めに炊きあがったコメが好きだ。コメも麺も硬いほうが良い。軟派な人生を過ごしてきた私だが、せめて口に入れるものは硬めに徹したい。
寿司飯にしても粒立ってこそのものだと思う。ビチャ、ベチャ的な形容詞がつくようでは食べる気にならない。
ベチャベチャしたコメを食べるぐらいなら、水加減を間違えてパサパサになっちゃったコメのほうがマシだ。
お茶漬けやスープカレーみたいに汁と混ぜる場合でも、硬めのコメが正解だろう。ベチャベチャしたコメだと埋没する。「粒立った」という言葉のイメージ通りにコメの存在感をしっかり感じられる方が美味しい。
ヨソの国のコメだって同じ。口の中でポロポロ転がるように一粒一粒のコメが独立して存在を主張するような感じが嬉しい。
というわけで、久しぶりに無性にビリヤニが食べたくなってインド料理屋さんに一人ふらっと行ってきた。炊き込みご飯「ビリヤニ」が標的だ。
銀座8丁目の「天国」の隣のビルにひっそり佇む「アナム」という店だ。以前は6丁目あたりにあった店だ。この周辺にはすぐ近くの博品館ビルの中にその名も「カーン・ケバブ・ビリヤニ」という人気店がある。
いつのまにか、昔は幻?だったビリヤニがアチコチで食べられるようになった。パサっとしたコメが好きな人には良い時代になったものだ。
辛さが選べたので、ごく普通にしてもらったのだが結構な辛さだった。個人的にはもう少しアッサリ目の味付けのほうが好みだが、これはこれでウマい。
まあ、私も着実に老化が進んでいるから、昔より味の好みが弱っちい方向に向かっている。インド料理をムホムホ食べたい若者なら大満足だろう。
鶏肉料理やマトン系のカレーも美味しく食べたのだが、食後5時間ぐらい経っても腹の中がスッキリしなかった。店のせいではない。私の身体が正しく年齢相応に反応したのだろう。ちょっと淋しい。
こちらは私のソウルフードだ。九段下にあるホテルグランドパレスのピラフである。シャトーソースという名の謎の液体をぶちまけることで至福の味が完成する。
40年以上前の子どもの頃、近くの学校に通っていたせいで親に連れてきてもらった頃から変わらぬ味だ。ピラフの粒立った感じはソースと絡み合うことで逆に引き立つ。
この日は大盛りにしてもらったのだが、ペロペロと完食してしまった。九段下は今の私の家からさほど遠くないので、もっと頻繁に食べに行きたいのだが、意識してブレーキをかけている。しょっちゅう食べたらデブまっしぐらである。
デブまっしぐらといえば鰻重問題も私にとっては悩ましい話である。鰻屋さんに行くのがこの上ない喜びなのだが、私にとってウナギは酒とともに味わいたい。
白焼きやうざく、その他のツマミを肴にしっかり飲んでからシメに鰻重というパターンだが、鰻重をしっかり食べたらデブまっしぐらである。
仕方なくいつも「ご飯は極小で」と注文する。鰻重はタレの染みたご飯とともに頬張るのが最高にウマいのだが、ダラダラ飲んでいると、ついついご飯の上のウナギをツマミにして延々と飲み進んでしまう。
冷めないようにお重の蓋を開け閉めしてウナギだけをチマチマと食べていくうちに、気付いたらご飯だけが残ってしまうという残念な事態に陥ることがある。
無残な姿である。ここで終了すればカロリー摂取の面では良いのだろうが、店の人の手前、そんなフシダラなことは出来ない。しかたなく、主を失ったご飯だけを半分ぐらいは黙々と食べることになる。
金欠でウナギのタレだけでドンブリ飯を食べた侘びしい若い頃を思い出す光景だが、実はこれがやたらとウマい。
ウナギの風味が少し残ったご飯に程よい加減でタレが染みこんでいる。私が出向く鰻屋さんはご飯も硬めに炊いてある。こういうシンプルな「タレご飯」は必然的にウマい。
酔いも手伝って、半分だけ食べるつもりだったのに、気づけば完食してしまう。コメの魔力がウナギのタレの魔力と混ざり合うわけだから、私の意志なんて瞬殺される。
痩せるはずがない。いや、この程度のデブで済んでいることが奇跡かもしれない。
2018年6月18日月曜日
銀座の部活
私にとって一種の潤滑油が夜のクラブ活動だ。ムダといえばムダ、有意義といえば有意義なのがオトナの部活である。
銀座7丁目8丁目あたりの夜の空気感に惹かれてウロウロするわけだが、そんな場面でも自分の老化を感じて残念な気分になる。
昔より長っ尻になってしまった。以前ならテキパキと小一時間ぐらいで店を移動するエネルギッシュさがあったが、最近はドカンと腰をおろすと長々とバカ話に花を咲かせる。
その店が楽しいとか、お気に入りの女性がいるならともかく、そうじゃない時でもダラダラしている。腰が重い。あまりカッチョいい話ではない。
サッと顔を出して風のように去るのがイキなのかもしれないが、ダラダラしちゃうのは感度が鈍化しているからだろう。
一度座ると立ちたくない。職場でも非常階段の踊り場にタバコを吸いに出ても、ついつい階段に腰をおろしてしまう。爺さんみたいである。もっと足腰を鍛えないといけない。
さて、クラブ活動の話である。付き合いのある黒服さんが店を移ったとのことで、初訪問の店に出かけた。
ボトルをプレゼントされちゃったから、感激屋の私は今後もちょこちょこ顔を出すことになるのだろう。そんなものだ。
初めて行く店、あまり馴染みの無い店はそれなりに楽しい。常連顔でホゲホゲできる店のほうが何かと快適だが、初めての店は顔見知りもいないから、「寡黙で渋いダンディーなオジサマ」を演じるチャンスがある。
何度も通っている店だと、私のアホバカぶりはバレている。今になってカッコつけようとしても手遅れである。「ワイ談大魔王」という定着したイメージから逃れることは出来ない。
その点、馴染みのない店では、田村正和ばりの苦み走ったいい男を演じても、ウソだとは思われにくい。高倉健のフリだって可能だ。
だから頑張ってカッコをつけてみる。席に着く女性陣もかしこまった感じで「謎めいた私」の様子を探ってくる。良い感じだ。
「こういう店には滅多に来ないから何を話していいか分からないな」などと硬派な男を演じたりして自己満足の時間を楽しむ。
しかし、コトはそう簡単に運ばない。馴染みの黒服さんがやってきて、場を盛り上げようと「この人のワイ談は奥が深い」などとアッサリ私の素性を暴露してしまう。
そんな展開になったら、根っからのワイ談インストラクターである私は、アッという間に「いつもの自分」に戻ってしまう。待ってましたとばかりにワイ談大会が始まる。
「謎めいていた私」は15分ぐらいで終了である。仮面は剥がれ、単なるスケベだという事実がそこの店でも記録される。
おまけにサービス精神旺盛の私は、初訪問ゆえに何かと話題が少ないその場の雰囲気を盛り上げようと、普段よりもワイ談のギアを上げがちだ。
その結果、ワイワイと楽しい席にはなるものの、「モテる」という展開には程遠い流れになるわけだ。なんとも切ない展開である。
ワイ談と一口に言っても、そんな生易しいものではない。ただ下品な話をするようではズブの素人である。高尚な次元を目指す私にはそれなりのコツや流儀がある。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/08/blog-post_19.html
一方的に語るだけでなく、その場の皆さんで「百物語」のように語り合うのが大事だろう。
この鉄則?に沿って今も各地でワクワクするような話を入手している。そのおかげで自分も新ネタを増やすために頑張ろうという気持ちになる。
老け込んじゃイカン。自分でそう思えるわけだから、夜の部活でワイ談に励むことは私にとっての健康法になっている。
ジムに行って身体を鍛えるより有意義かもしれない。そんなケッタイな言い訳をつぶやきながら夜の街に絡め取られている。
2018年6月15日金曜日
お子ちゃま的な味覚
食べ物をウマいと感じるかどうかは「甘味」に左右される。個人的に強くそう思う。スイーツの甘さではない。普通の料理における甘味のことである。
グルメな評論などを読んでいると「野菜の甘味が溶け出して・・・」といった言い回しを見かける。
ハンバーグに混ざっているタマネギの甘味などがその典型だろうが、そういうまどろっこしい甘味とは別に、単純に「砂糖」の甘味はもっと評価されるべきだと思う。
時々訪ねる銀座の小料理屋さんのポテトサラダにいつも感激する。芋芋した固形感がまるで無いマッシュポテト状のポテサラなのだが、甘味が絶妙である。聞けば砂糖の甘味だとか。
とかくマヨネーズやコショウの加減ばかりに意識が向きがちなポテサラだが、砂糖という秘密兵器のせいで、類いまれな美味しさに仕上がっている。
ほぼすべての国民が愛してやまない焼鳥やウナギにしても、味の決め手であるタレには砂糖が不可欠だ。すき焼きの割下だって同じ。
昨年このブログで私のお気に入りレトルトカレーを紹介したことがあるが、味のキモみたいな部分は砂糖だった。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/08/100.html
根っからの東京人である私は卵焼きも甘い方が好きだ。う巻きしかり、お寿司屋さんでシメにもらう卵焼きも甘くないと嬉しくない。
考えてみれば、私が何より大好きな「ニッポンの洋食」にしても「甘味」が最大の魅力なのかもしれない。
調理の過程で砂糖を使っているかどうかは知らないが、クリームコロッケ、メンチカツ、グラタン、各種のシチューなどはどことなく甘味を感じる。
先日、銀座3丁目にある洋食の老舗「グリルスイス」に出かけた。ちょくちょく洋食大会を楽しむ「煉瓦亭」のすぐ近くにある。
「天皇の料理番」として有名なナントカさんの流れを汲むお店だ。カツカレー発祥の店としても知られる。長嶋茂雄の前にジャイアンツの背番号3を背負っていた千葉茂さんのリクエストからカツカレーは生まれたそうだ。
アマノジャッキーな私はカツカレーには興味がない。ミックスフライをアテに飲み始める。帆立フライ、エビフライ、クリームコロッケの盛り合わせである。何かと矜持のある洋食屋さんは総じてタルタルソースがウマいのが嬉しい。
帆立フライが妙に甘くてウマかった。さすがに砂糖ではなく帆立自身の甘味だ。お寿司屋さんでもいつも思うのだが、貝類は火を通した方が甘味が増す。これもその典型的な味だった。
ビールやハイボールでフライものを楽しむのは至上の喜びだ。ついでにいえば、フライに合わせるウスターソースも原料として砂糖が定番である。私が醬油派ではなくソースマンである理由も「甘味」に惹かれるからだろう。
フライの後はハヤシライスである。甘味を感じる官能的な味だった。変な酸味が目立つハヤシライスとは違い、この店の場合、深いコクのあるデミグラスソース系のまろやかな味。肉もゴロゴロ入っていて、甘味のあるビーフシチューって感じ。洋食ファンとしては納得の一品だった。
いま思えば、子どもの頃、家庭で食べていたものの多くが甘味を感じるものだった。麻婆豆腐なんて中華っぽい要素はまるで無く、挽き肉と豆腐と多少のとろみが砂糖ベースの味付けで出てきた。
まったくの創作料理とも言えるが、あれが妙にウマかった。魚の煮付けなんかも砂糖が多めだった。
お子ちゃま時代の味覚は中高年になっても厳然と身体の中に染みついていることを実感する。
糖尿の気配がまったくない家系だったおかげだ。今後も砂糖とは仲良く付き合いたい。
2018年6月13日水曜日
バカを自覚する
バカを自覚することは大事だ。自覚しているバカと自覚していないバカでは、同じバカでも雲泥の差だ。
恥ずかしながら私自身も30歳ぐらいまではバカを自覚していなかった。若気の至りだ。今はちゃんとバカの自覚があるから大丈夫!?である。
なにが大丈夫なんだろう・・・。
仕事の上でも問題だらけだ。相手の言うことを深読みできない単純さしかり、固定観念に縛られて効率性をおろそかにする鈍感さしかり、勢いにのって突っ切るべき場面で、慎重なフリしてコトを停滞させる優柔不断さもそうだ。
「バカだなあ~」。心の中でしょっちゅうつぶやく。自己嫌悪に陥るが、年の功で割とすぐに忘れてしまう。それもまたバカだ。
人様の前で「バカですいません」と自虐的に頭を下げられるのは若いうちだろう。50ヅラ下げてそんな態度はなかなか取りづらい。
そんな気取った姿勢もバカにとっての悪循環の一つかもしれない。
ここで言うバカとは勉学におけるそれではない。「先が見通せない」「空気が読めない」「想像力や創造力がない」という意味でのバカさ加減を書いているつもりだ。
先日、とある飲み屋のカウンターで店主相手にイヤな感じで絡み始めたオッサンがいた。普段はそんなものは気にしないのだが、段々と声が大きくなって周りに対して聞こえよがしな感じになってきた。
さすがの私もイラついてきた。とりあえず、やんわり間に入ろうと座る姿勢を変えて向き合ったのだが、それを察した店主が視線で私を制止してきた。
店主のアイコンタクトの必死さのせいで、しばし静観。ほどなくオッサンは店を出て行った。店主いわく、いつものことらしい。瞬間湯沸かし器のように一騒ぎしてサッと帰る客なんだとか。
おまけに店にとってかなりの太客を大勢紹介してくれた恩人だという。私がヘタに絡んだら面倒な話になったから知らん顔がベストなんだとか。
なんだか腑に落ちない気もしたが、確かに店主とオッサンの関係性を知らずにエエカッコしいに走ろうとした私はバカである。ちょっと想像力を働かせば余計なことは考えなかったはずだ。
別な日、とある女性からデートに誘われた。ウッシッシな話である。夜の店を辞めて現在無職の女性である。「時間を気にしなくていいの」などと男心を揺さぶる。
下心がチョモランマ状態で小洒落たレストランでディナー。その後の展開を勝手に妄想していたのだが、「これから行きたいところがあるの」と切り出された。
余裕のあるオジサマを演じていた私は「うん、どこだって付き合うよ」などとダンディーなふりをして微笑む。
「来月から勤めることになったお店に顔を出したいんだけど付き合ってくださる?」。
ドッヒャー!である。言ってみれば形を変えた同伴じゃあーりませんか。まんまと策略に引っかかってしまったわけだ。
これをバカと呼ばずして何と呼ぶ。仕方ないから連行された高級クラブで、そのコを無視してハシャぎまくって帰宅した。完全敗北である。
バカが経済を回している。それはそれで真実だと思う。
私の残念な話ばかりでは哀しいので、最近の気になるバカをいくつか書きたい。
「〇×通りを左折する形を取らせていただきます」。タクシーの運転手さんの言葉である。いったいどんな形なんだろう。意味不明だ。左折だから直角か。
「大きい方が3千円になります」。1万円札で7千円分を払った際の店員の言葉だ。言うまでもなくお釣りは千円札が3枚だけである。大きい小さいウンヌンはもちろん「なります」という日本語もヘンテコだ。
「〇月×日は私の生誕祭なんです~」。キミはいったい何者なんだ?と聞きたくなる。生誕という言葉は、既に亡くなった偉人の生誕100年記念みたい場面で使うのが普通だ。
だんだんイジワルジジイみたいな書きぶりになってきたが、まだ続ける。
30歳を過ぎたようないい年したオトナが「見守ってくれたお父さんに感謝します」「私のお母さんは厳しかったので」などとメディアの前で語っている姿も好きではない。
「父」「母」という言い回しが出来ないのは小学生レベルだろう。感動のインタビューみたいな場面でもその一点が気になってしまう。
「解禁」という言葉の乱発も気持ち悪い。
「コンサートツアーの日程が解禁になりました」「新しいCMが解禁になりました」等々、テレビを見ていると頻繁に聞こえてくる。
なんで「公開」と言わないのだろう。それを見せられる人にとって「禁が解かれた」感覚などない。見てもらう側が「禁を解く」感覚だとしたら随分と高飛車な話だ。上から目線かつ“大きなお世話感”に溢れた言い回しだと思う。
なんだか話の流れが、単なる私のウップン話に変わってしまった。ブレまくりである。
やはりバカなんだろう。
2018年6月11日月曜日
ヤフオクでエドワードグリーン
ヤフオクで靴を買ってしまった。試し履きもしないで靴を買うのは危険極まりないが、ちょうど私自身にピッタリの靴だったので迷わず落札した。
エドワードグリーンのウェストミンスターである。新品なのに定価の半額ぐらいで買えてしまった。バンザイである。ジョンロブを筆頭に数多くのダブルモンクの靴が世の中には存在するが、このウェストミンスターが世界で一番美しいと勝手に思っている。
出品説明にサイズだけでなく、木型(ラスト)の型番まで表示されていた。E888というラストである。
このラストで作られた同じサイズの靴を持っていたおかげで自分の足に合うかどうかを心配しないで済んだ。ラッキーだった。
数ある私の靴の中で一番好きなのがバーガンディーカラーのウェストミンスターである。
このブログにも載せたことがある。ワインレッドの靴についてアレコレ書いた時に冒頭の画像で紹介した。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/07/blog-post_25.html
これとまったく同じ型番、サイズで焦茶色である。いつか欲しいと考えていたが、突然ひょんなことから手に入ってしまったわけだ。神のお導きに違いない。
ヤフオクをしょっちゅう覗くわけではない。時々思い出したように活用する程度だからラッキーな巡り合わせである。
まあ、そんな偶然の巡り合わせが頻繁に起きたら私の財布がカツカツになっちゃうから、なるべく靴のページは覗かないようにしようと思う。
ヤフオクを初めて使ったのは2001年。自分の履歴をさかのぼったら「美濃焼の灰皿」を落札したのが始まりだった。
焼きもの収集にはまっていた頃だったから、そっち方面の落札履歴がたくさん残っている。手に入れるだけでなく売りに出したことも何度もあった。記録によると32回も出品している。
30代の頃は窯場をめぐる小旅行によく出かけた。ついつい買い過ぎても人気作家の作品ならヤフオクで換金できた。それを次の旅の軍資金に充てたりした。
8万円ぐらいで買った作家モノの徳利が13万で売れたこともあった。5万円もした有名作家のぐい呑みが欠けちゃったにも関わらず、買値以上で売れたこともあった。
もっと真面目に利益確保を狙っていれば結構な小遣い稼ぎになったはずだ。そういう執着心が足りないから今もピーピーしているのだろう。
今はメルカリというサイトが人気らしいが、古い体質の私はヤフオク派だ。焼きものの売り買いはしなくなったが、今も困ったときにはヤフオクを使う。
中古品でも構わない水中撮影機材のパーツを探すことが多い。キャンディーズのDVDや、他にも有料配信サイトで見つからなかった昔の曲が収録されているCDを落札することもある。
カーオーディオに繋ぎっぱなしのiPodの予備なんかもヤフオクで安い中古品を見つける。野球のWBCのチケットもヤフオクで入手した。飛行機に安く乗るために株主優待券を格安で落札したこともあった。
エロ方面?に関してはAmazonに頼っているので、ヤフオクではジャンルを問わずレアなものを探す感じだ。
今の時代、Amazonを開けばありとあらゆる商品が売っている上に、ヘタすれば即日配送も可能だ。Amazonに無いものでもヤフオクみたいなサイトを使えば見つけることが出来る。
実に便利な時代になったものだ。今後、断捨離みたいな風潮が強まれば、不要品がバンバン世の中に出てくる。ネット社会そのものが新しい流通形態でもあるから、今以上に「モノを手に入れる形」が便利になっていくのだろう。
というわけで、私も不要品をただ捨てるのではなく、誰かの有効利用につながるように考えないといけない。
まずは処分に困っているラッセンのデカいリトグラフをヤフオクに出品してみようか。
いや、今更ロクな値段は付かないようだから、梱包の手間を考えるだけでウンザリする。
遠い昔の若い頃、ハワイの画廊で脳ミソが煮えたぎるほど悩んだ末に、なけなしのお金をはたいて買ったラッセン・・・。私にとってはバブルの遺物?である。
粗大ゴミになる日も近いかもしれない。
2018年6月8日金曜日
肉肉しい
なんだかんだと焼肉屋に行く機会が多い。若い頃に死ぬほど愛した焼肉だが、最近は重く感じる。
寿司屋や焼鳥屋のほうが嬉しいのだが、若いオネエサンの気を引きたい等々のオトナの事情で焼肉大会になることが多い。
焼肉屋では私は単なるスポンサーである。一応、いっぱしのオジサマだし富豪を目指す立場としては、そういう場面で安いメニューは選びにくい。
「上」「特選」といった妙に高いヤツを注文するハメになる。高くなるほど脂っぽいのが焼肉屋の決まりだ。これがツラい。
上の画像は特選タン塩である。タンといえばサッパリ系だと思っている私にとって、この白っぽさは厳しい。一切れで充分だ。
下の画像の盛り合わせも結局は白っぽい。若い人はガシガシ嬉しそうに食べるのだが、私はこっちも一切れで満足である。
20代の頃は脂っぽい肉が大好物だった。カルビだけで満足だった。白い部分が多ければ多いほど喜ばしかった。
焼肉屋での話ではないが、すき焼き鍋に始めに塗りたくる牛脂ですら食べちゃったこともある。
栄枯盛衰。変われば変わるものである。加齢の現実だ。
馬や羊の肉が美味しく感じるようになったのは中年になってからだ。牛肉を重く感じるようになったことで、アッサリした肉に引き寄せられたのだろう。
池袋の「辰」という羊肉専門店での画像だ。見るからにサッパリだ。脂身の部分も重くない。こういう肉をつまんでハイボールをグビグビするのが無難である。
物流が良くなったせいか、昔のように匂いが気になることもなくなった。羊肉はカロリーも低いし、ビタミンも豊富でコレステロールを減らす効果まであるらしい。
同じ店の醬油煮込みである。これも酒のアテとして悪くなかった。何よりも食べ終わった後に重たい感じがしない。中高年向きだと思う。
別な日、私がボーカルを務めるオジサマバンドの練習後に出かけた居酒屋でもラムを食べた。池袋にある「芝浦食肉」という店のラムだ。
ピンク色のレア状態で食べ頃らしい。サッパリしている割には肉をガシっと囓る喜びもある。おかげで黒ホッピーを飲み過ぎてしまった。
別な日、肉専門のファミレスに行く機会があった。「肉の万世」である。ファミレスだとナメてかかっていたのだが、メニューをじっくり見ると結構な価格帯の商品が多い。ガストに比べると3倍ぐらいの予算が必要かもしれない。
変な話、高いということはある意味で安心だ。安さ優先の店で食中毒になって死んじゃうのは切ない。年齢的にもいろんな菌に抵抗力が弱まっているから少しぐらい高いほうが安心である。
スペアリブと粗挽きハンバーグだ。ファミレスに行っても酒のツマミになりそうなものを頼みたいから、高いステーキよりもスペアリブのほうが嬉しい。
スペアリブを囓りながら骨を引きはがす瞬間にエクスタシーを感じる。きっと太古からのDNAのしわざだと思う。「はじめ人間ギャートルズ」の骨付マンモス肉に憧れた世代にとっては共通の感覚だと思う。
粗挽きハンバーグはハンバーグのくせに2500円ぐらいの値付けだ。強気である。でも肉肉しくてウマかった。変に柔らかいグニュっとしたハンバーグが幅をきかせる世の中にあって、肉っぽさをガッツリ押し出した男っぽい雰囲気だ。また食べたい。
今日は肉の脂っぽい部分を考察するつもりだったのに、結局は池袋の居酒屋とファミレスで食べたものを得意になって語ってしまった。
富豪への道は険しい。
2018年6月6日水曜日
美人 ブス
自分に自信が無い男がブス専になるという見方もあるようだが、はたしてそんなそんな単純なものだろうか。ちょっとヘチャムクレな顔立ちに独特な色気を感じることは往々にしてある。あれは一種の麻薬みたいなものかもしれない。
生まれて初めて飲んだビールが苦いだけでクソまずかったのに、いつのまにか大好物に変わっていくように、好みなんてものはコロっと変わる。ヘチャムクレちゃんに惹かれるのは、こっちに自信があるとか無いには無関係だと思う。
それはそれとして、美人を敬遠する心理も分からなくはない。美人はチヤホヤされがちだから高飛車だといった分析も概ね正しい。悪の権化みたいな美人は多い。死んじゃった紀州のドンファン氏だって、さんざん美人にカネを持ち逃げされていたらしい。
2018年6月4日月曜日
朝御飯 迷走
朝はしっかり食べる。何十年も変わらない私のライフスタイルだ。1日の中で朝がもっとも空腹を感じる。脳に刷り込まれているのだろう。
以前は、起きたらソッコーで食べることを考えていたが、最近は20~30分ぐらい経たないとダメだ。さすがに劣化してきた。
それでもカレーだろうとラーメンだろうと朝からドッカリ食べる。世間一般にイメージされる「朝食っぽいもの」は逆に苦手だ。
クロワッサンにコーヒーなんて許しがたい。シリアルにフルーツなど論外だ。塩ジャケにご飯というパターンもイマイチである。もっとズッシリ食べたい。
とか言いながら、最近は週に一度ぐらいは弱っちい?朝御飯を選ぶ。白米は欠かせないが、おかずをタラコとなめ茸みたいな「朝食っぽいもの」で済ませる。ちょっと劣化してきている。
なめ茸が子どもの頃から好きだ。この画像の商品がお気に入りで常備している。ご飯に合うのはもちろんだが、大根おろしにトッピングすれば酒のツマミにもなる。
一人暮らしだから朝食のポイントは手軽さに尽きる。湯煎かレンジでチンすれば食べられるものが基本になる。
最初の頃はちょっと侘びしさも感じたが、今どきのレトルト系は妙にウマい商品が多いから、侘びしいなどと言うのはピント外れかもしれない。
手作りの味が一番と言われれば返す言葉はないが、それだって料理上手な人が作ればの話である。
マズい味噌汁を美味しそうなふりをしてすするより、今どきのフリーズドライの味噌汁のほうが私を幸せにしてくれる。
さて、ドカ食い朝飯に話を移す。週末の朝は豚肉を炒めることが多い。その日の気分の市販のタレを選んで味付けを調整する。ウナギのタレを使うのもオススメだ。
余裕のある平日には鶏肉を炒めることもある。最近のお気に入りは市販の塩ダレだ。私の中では朝食っぽい一品になる。軽く塩コショウで下味を付けてフライパンで焼き上がる寸前にタレを絡めておしまい。猿でも出来そうなほど簡単だ。
鶏肉炒めの場合、一応、調理っぽい作業が必要になるので、目覚まし時計が鳴る前にスッキリ起きたような時だけの楽しみである。
それ以外の日は湯煎が大半だ。今の季節は冷やし中華の出番が多い。麺を茹でている鍋にレトルトの豚の角煮なんかを一緒に入れちゃう。鍋一つでアッという間に主菜と副菜が仕上がる。
湯煎するレトルト商品の中で最近のイチ押しが滝沢ハムの「黒と黒のハンバーグ」である。スーパーで400円ぐらいするからレトルトハンバーグの中では高級だ。
いくつか種類があるのだが、ホワイトマスタードソースが最高である。ちょっとタルタルソースっぽい感じでレモン汁の風味も相まって私の中では「朝食っぽいハンバーグ」である。
セブンイレブンの「金のハンバーグ」が一世を風靡?したが、あれに比べると食感が柔らかすぎず、良い意味で味に複雑さがあって飽きない。肉好きな人なら間違いなく気に入る逸品だと思う。
「朝からパスタ」も私の中では定番だ。茹で時間が3分ぐらいで済む生パスタを常備してあるので、これまた麺を茹でる鍋でレトルトパスタソースを温めて手軽に味わっている。
そんな簡単な作業すらやる気が出ない時は冷凍食品の出番である。最近の冷凍食品の進化は物凄い。なんとなくイメージだけで敬遠している人はゼヒ一度食べてみることをオススメする。
日清の「もちっと生パスタ」シリーズも大したものだと思う。スーパーやコンビニの弁当コーナーにあるパスタをチンして食べるならこっちのほうが断然美味しい。
初めて食べたときはちょっとビックリした。以来、わが家の冷凍庫には画像のクリーミーボロネーゼが常備されている。
本音を言えば、さすがにこれは朝には重すぎる。昔はどんなにクドくても朝からドッカリ食べられたのに、ちょっと口惜しい。
気付けばもう6月だ。これからは「そうめん」の出番も増える。「朝からそうめん」は私にとっては暑い季節の定番である。
せっかくだから過去のそうめんネタを二つ載せることにする。必殺のスーパーゴマだれバージョンの話と、やたらと高いけど一度は経験して損はない特別なそうめんの話である。
よかったら覗いてください。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/04/blog-post_24.html
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/08/blog-post_7.html
2018年6月1日金曜日
エッチな画像
平成がまもなく終わる。どんな時代だったかをいろんな人がいろんな角度から語っている。アッという間の30年だった。
あらゆる分野で「え?平成生まれなの?」という驚きがあったのも既に過去の話。平成生まれの人ですら30歳になっているわけだから当然だ。肛門やりたがり、いや光陰矢の如しである。
唐突な話だが、近年当たり前のようになったのが「エッチな画像の一般化」ではなかろうか。プライベートで撮るソッチ系の画像だ。
先日、一緒に飲んだ知人が自分で撮影した秘蔵フォトをたんまり見せてくれた。別な日も友人がマニアっぽい画像を見せてくれた。
見せる方も見る方も、当たり前のようにアーダコーダと解説、分析、品評?に励んだのだが、考えてみれば一昔前までは珍しい光景だったと思う。
もちろん、今も決して一般的ではないだろう。私の周囲に変態チックな人が多いだけかもしれない。でも、間違いなくそんな画像を隠し持っている人は爆発的に増えた。
以前、知り合いの女性からその人自身のあられもない画像を見せてもらって鼻血が出そうになったこともある。女性でもこっそり隠し持っているわけだから時代は変わった。
いうまでもなく、携帯やスマホの普及によって「誰でもどこでもカメラマン」という時代になったせいだ。
テレビのニュースですら「視聴者撮影」という現場動画がバンバン使われている。画像や動画がやたらと身近になったことは平成という時代のトピックスだろう。
撮られる側の意識も大きく変わった。昔だったらカメラを向けられただけで身構える感覚があった。カメラが目の前にあるだけで“特別な空気”が漂ったものだが、今ではそれも過去の話だ。
その昔、ビデオデッキの普及に大いに貢献したのが「エロ」である。エロビデオを見たいという理由だけでビデオデッキを買った人が数十万人はいた。いや、もっといた。間違いない。
私自身、大学生の頃に自分の部屋に初めてマイ・ビデオデッキを設置した時は、頭の中はエロ爆発だった。ネットの無料動画など無い時代ならではの懐かしい話だ。
ビデオデッキに限らず、新しい分野の商品が一気に広まる際に「エロ」が起爆剤になることは珍しくない。いまやカメラ機能がスマホ選びの重要な要素になっているらしいから、その裏にエロ意識が隠れていたって不思議ではない。
このブログで銀座の夜のセクシー画像を載せることがあるが、あれだってスマホだから気軽に撮らせてもらえる。カメラ片手に身構え始めたら成り立たない。
だいたい、昔はカメラを日常的に持ち歩くことはなかったから、酒場でパシャッという行為自体があり得なかった。
エロ現場でのパシャッも同じだろう。今では、いつでもどこでもカメラがあるわけだ。ついつい怪しげなものまで撮ってしまう。
カメラを構えるのか、スマホをちょこっとかざすのか。どう考えてもカメラよりスマホのほうが「つい撮っちゃった」「つい撮られちゃった」という顛末になる。
昔のカメラの時代はフィルムを現像に出してプリントしてもらう必要があったから、エッチな画像はその点でも身近なモノではなかった。
ウソかホントか、そっち系の写真は現像屋さんからプリントを拒否されるという話も世間の共通認識だった。
四の五の書いてきたが、そういう分析を重ねれば重ねるほど、エッチな画像のハードル?が下がってきたことは明らかだろう。
少年時代に街の自販機のエロ本ですら手に入れるのが大変だったことを思うと、まさに隔世の感がある。
それにしても皆さんはソッチ系の画像をどのように保管しているのだろうか。普通にスマホの画像フォルダーに残しているとも思えないし、隠しフォルダーを上手に活用しているのだろうか。
ちなみに私はそういう画像はすぐに消去します。ホントです。だいたい消します。