遅めの夏休みで留守にしているので、過去ネタを二つ載せます。
旅の醍醐味についての話
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変態について真面目に考えてみた話
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2019年8月30日金曜日
2019年8月28日水曜日
馬力をつけにいく
2019年8月26日月曜日
夏の音色
子どもの頃、夏の高校野球が終わると何となく切ない気持ちになった。甲子園独特のサイレンの音や金属バットの音、ブラスバンドの音が、翌年の夏まで聞かれなくなることが淋しかった。
春のセンバツ大会でもあの音は聞こえるのに、不思議と甲子園の音は「夏の音」という印象がある。
甲子園だけでなく、いつの頃からか夏の音にはやけに敏感になった。四季それぞれを表す音色はあるが、やはり季節を感じさせる音が多いのは夏だ。
代表的なのが風鈴だ。マンション住まいになってから風鈴と縁遠くなってしまった。あの音色に癒されたくても近所迷惑だろうから買いたくても買えない。
先日、寝る前に短編小説をボンヤリ読んでいたのだが、風鈴が主題のしっとりした話だったので、私の中の風鈴欲求ストレスが爆発した。さっそくAmazonで南部鉄風鈴を二つも買ってしまった。
熱帯夜対策として小型扇風機を夜の間つけっぱなしにしているから、室内でも風鈴の音色は楽しめることに気付いたわけだ。これで私の精神衛生状態は格段に向上するはずである。
話がそれた。夏の音についてだ。
ヒグラシの鳴き声は夏の終わりの郷愁を誘う最高のBGMだと思う。時々、YouTubeでわざわざヒグラシの音色を聞くことがある。
https://www.youtube.com/watch?v=Z-KNyeryzj0&t=31s
あれほど胸に染みる音色はなかなか無い。郷愁という言葉だけでは表現しきれない。日本人の感性に訴えかける独特の響きだ。
夕陽を眺めながらあの音に包まれて過ごせば、悲しいことがなくても涙を流す自信がある。そんな自信があっても仕方ないが、必ず泣けると思う。
それにしても、YouTubeのおかげで、聞きたい音が簡単に聞けるのは有難い。ヒグラシの音色はもちろん、花火の音、祭り囃子、夏の夜の風情たっぷりなコオロギの鳴き声だって聞ける。
今の私は防音性が高いマンションに暮らし、エアコン漬けで窓も開けない日々だ。都会では多くの人が似たような環境で暮らす時代だ。
昔は自然と耳にした「音」を感じなくなっているわけで、ネット上でそんな音をわざわざ探して喜んでいるのは一種の文明病みたいなものだろう。人として退化している部分なのかも知れない。
もうすぐ8月が終わる。この時期になると独特な寂寥感がある。そんな雰囲気を楽しんで身悶えるのが私にとってこの季節のルーティンになっている。
室内で風鈴を鳴らし、パソコンでヒグラシの音色を聴く。ヘンテコだが、それはそれで「いとおかし」である。
2019年8月23日金曜日
梅干し入れ過ぎサワー
まるで中毒のように梅干しサワーばかり飲んでいる。アル中ならぬ「梅チュウ中」である。
夏バテ対策というより、単純にやたらと美味しくてグビグビ飲んでいる。1杯目はたいしてウマくない。勝負?は2杯目からである。
梅干しをグジャグジャ潰して飲むわけだが、2杯目も3杯目も「つぎ足し」で注文する。すなわち、梅干しの残骸を捨てずに、追加の梅干しを投入して楽しむ。
3杯目なら3つ、4杯目なら4つの梅干しをグジャグジャにした“梅エキスサワー”である。
4杯目ぐらいになると梅干しの残骸がジョッキの中に大量にあるから焼酎や炭酸が少ししか入らない。
悪循環である。5杯目を頼む頃には梅干しの新規投入はせずに、出がらし達を改めて潰しまくって楽しむ。
自宅でも時々飲んでいる。“ぶっ潰しマドラー”も調達した。自宅だと、あらかじめ潰しまくってから炭酸を投入できるからジョッキの中をグチャグチャかき回さないで済む。その分、炭酸が逃げないから尚更ウマい。
梅干しのクエン酸は夏バテ予防だけでなく、血液サラサラ効果や美肌効果、がん予防効果まであるらしい。
良いことづくめだが、おそらく私の場合は単なる塩分過多だろう。身体に良いか悪いかビミョーである。
一応、毎日きちんと血圧の薬を飲んでいるから気にしても仕方がない。夏場特有の偏執狂的行動だから、まだしばらく中毒は続く。
俗にウナギと梅干しは食べ合わせが悪いなどと言われるが、あんなものは大ウソだ。疲労回復コンビだし、味の相性も良い。絶妙の組み合わせだと思う。
梅干しサワーの利点は、メニューに無くても、たいていの店で作ってくれるところだ。酎ハイ、サワー用の甲類焼酎を置いてない店では、クセのない麦焼酎を炭酸割りにして梅干しを入れれば完成だ。
私の場合、焼酎は芋派なので、麦焼酎を飲むことは基本的にない。とはいえ、梅干しサワー用に麦焼酎をボトルキープしている店がいくつかある。本格的な中毒状態だろう。
カットスイカである。これまた私の夏の定番だ。見つければ必ず買う。ネットスーパーの配達でも頼む。
今更ながらスイカの効能を調べてみたら「余計な塩分の排出」とある。“梅干し入れ過ぎサワー”マニアである私にとっては、スイカは実に頼もしい相棒だったわけだ。
私がここ1,2年で突然好きになった「キュウリ」もスイカと同じ効能があるらしい。飲み屋に行くとたいてい「もろきゅう」や「梅きゅう」を大量に食べるのだが、キュウリにも余計な塩分を排出するパワーがあるんだとか。
我ながら理にかなった食生活を送っているみたいである。
長生きしちゃうかもしれない。
2019年8月21日水曜日
月光にやすらぐ
月を見ていると落ち着く。時々、やたらと月を見ていたい気分の時がある。
なんだかロマンチストみたいな書きぶりだが、別に誰かに恋しているわけではないし、とくに感傷に浸っているわけでもない。
月の光を見ていると安らぐ。せわしない気分が小休止するような感覚になる。
若い頃の話だが、中秋の名月の頃に海の中から月を眺めたことがある。夜の海に潜った時のことだ。とくに見るべき生き物も見つからなかったから、夜光虫がキラキラ光る景色を眺めていた。
ふと水面を見上げると月が見えた。水面のさざなみで月の形もゆらゆらと動く。実に神秘的かつ幻想的だった。
夜の海は静かだ。自分がレギュレーター(呼吸装置)越しに空気を吸う音と、吐きだす泡の規則正しいリズムしか聞こえてこない。それをBGMにして揺れる月明かりに見とれた。
夜の潜水は大学生ぐらいまでしかやらなかったから、まだ20代前半の頃の記憶だ。その後は日が暮れるとすぐに酒を飲むことばかり考えるようになったから、ダイバーならではのオシャレで小粋な月の楽しみ方はそれ以来味わっていない。
さて、高い建物だらけの東京では、月が見える場所を意識して探さないとならない。だから月への関心も低くなるし、畏怖の念みたいな気持ちも薄くなっていく。
地球のすべての場所を古来から照らしてきたのが月の光だ。考えてみるとその事実だけで凄い。
高い建物もネオン街もなかった大昔は、どれほど存在感が大きかったのか想像を絶する。
電気が無い時代、もちろん街灯など無い。家の窓だってガラスではない、行燈の明かりが建物から漏れ出るぐらいだ。集落から離れれば、まさに真っ暗だ。
月の灯りがなければ闇の世界だから、月が隠れてしまう曇りの夜と晴天の夜とでは、まるで異質の世界だったはずだ。
満月ともなれば、月の存在感はとてつもなく大きかっただろう。平安貴族などの間では満月を直接見るのは不吉だとして、水面や杯に映した月を眺めたという話もある。
そんな話に限らず、満月に関連する逸話や伝説は世界中で聞かれる。狼男しかり、かぐや姫しかり。
伝説はさておき、満月の影響は人間にも及ぶのはよく知られている。人間は身体の大半が水分で出来ているから、海と同じで潮の干満のような影響を受けるという話だ。
実際に女性の月経周期は月の月齢周期と同じだし、満月の日に出産が多いとか、満月の日に凶悪事件が起きるという話もある。
カミュの「異邦人」で、殺人の動機を「太陽のせい」とする有名な場面があるが、実際には月のせいで様々な現象が起きているわけだ。
ちなみに、満月の夜は発情する人が多いという言い伝えもある。性欲は人間の根本的な生理現象だから、確かに満月の影響を受けても不思議ではない。
とはいえ、私自身、このウン十年、満月だからといって発情したことなどない。やはり都市伝説に過ぎないだろう。
いや、常に発情していたから気付かなかっただけかもしれない・・・。
ひょっとしたら、満月には発情するのが当然で、現代人は文明の発達のせいで、そうした自然の力を感じなくなっているだけかもしれない。
タイムマシンに乗れたら、江戸時代の月見の名所である九段坂に行ってみたいと考えていたのだが、やっぱり満月の夜の吉原に行ったほうが面白そうだ。
2019年8月19日月曜日
ブルブルマシーンと旅の計画
引越しから2か月。気付けばすっかり新しい土地に馴染んできた。新しい住まいの動線にも慣れた。トイレに行くつもりが納戸の扉を開けたりするバカ行動もなくなった。
誤算だったのは寝室のカーテンを4回も変えたことである。カーテンレールの位置の関係で遮光の加減が気にくわず無駄を重ねた。
前の家で使っていた電動ソファがオーバーサイズ気味だったので、少し小さいのに代えたり、それに合わせたつもりでヘンテコなラグを買ったり、何かとどうでもいいことに神経を使った。
玄関横のシューズクロークが大きめだったのは有難かったが、それでもスペースが足りなかった。
突っ張りラックを2段分、他にも簡易ラックを買い足して何とかしのいだが、それでも入りきらずに納戸にいくつかの靴を仕舞い込んだ。
靴収納だけを考えても、もはや誰かと一緒に暮らすのは無理だと実感している今日この頃である。
すぐ近くにスーパーやコンビニがあるので、何でもかんでもストックするクセが改善されたことは喜ばしい。ストック癖は一歩間違えると何かに追われているような心理状態になるから精神衛生上よろしくない。
問題はウーバーイーツを頼みまくるようになったことだ。中央区という場所柄、銀座、日本橋あたりの店からもいろんなモノを配達してもらえるので、ついつい頼んでしまう。
新居の前の大通りを挟んだ向かいに吉野家があるのだが、そんな徒歩15秒ぐらいの店にまでウーバーイーツの注文を入れてしまう。
260円の配達料も繰り返せば大いなるムダ遣いである。分かっているのだがエンゲル係数破たんオヤジとしては、熱々状態で運ばれてくることが妙に嬉しい。
心なしか、目の前の吉野家から持ってきてくれる配達の人が私を見る目がちょっと恐い。
そんなフラチな暮らしだと身体がなまってしまうから、マメに散歩は続けている。でもさすがに暑いから、先日思い切って秘密兵器を購入した。
テレビの通販番組にそそのかされて「乗っかっているだけでブルブル震えて筋肉が鍛えられるマシーン」を衝動買いした。
かなりコンパクトに進化したらしく、実際に置き場所には困らない。おまけに結構パワフルで想像以上に筋肉に負荷がかかる。
膝を曲げて強力振動の上に乗っかっていると、ほんの2,3分でも筋肉がキツくなってくる。スクワットマシンより断然効果はありそうだ。
問題は使い続ける意思だろう。今の時期は毎晩「熱闘甲子園」を見ながらブルブル震えている。必死に戦う球児達を見習って頑張れるのだが、甲子園が終わってしまったらヤメちゃいそうで心配だ。
今年は4月に職場が移転して、6月に自宅も変わった。気が張っていたせいで何となく乗り切ったが、最近は暑さも加わって今更ながら疲れが溜まっていることを痛感する。
というわけで、近いうちに休みを取ってリフレッシュすることを決めた。しこしこ貯めまくってきたマイレージを活用して遠出しようと考えている。
このマイル残高だと、ビジネスクラスでハワイ往復が5回ぐらい無料で出来ちゃうレベルだ。
で、北欧あたりで涼しく過ごそうとアレコレ調べたのだが、行ってみたいのはスウェーデンの「アバ博物館」ぐらいだったから改めて計画を練り直した。
あれこれ乗継ぎスケジュールや空席状況を調べて、全行程が無料航空券で済ませられる旅程を一応プランニングしてみた。
リゾート地でもあるクロアチアのドブロブニクをメインにポーランドのワルシャワにも立ち寄るスケジュールだ。いずれも行ったことがない場所だ。
よく分からない未知の場所に身を置いて、五感を研ぎ澄ましてこようと考えている。
リフレッシュというより、初訪問の場所に興奮しちゃって散策しまくったあげく疲労困憊になる可能性のほうが強そうだ。
2019年8月16日金曜日
「普通に美味しい」が嬉しい
自宅の徒歩圏にそれなりの飲食店が揃っていることは有難い。シングルライフを過ごす私にとってライフラインである。
いくつかのウマい店でプチ常連になっているが、開拓精神のせいで今もいろいろな店を覗いている。
新富町、八丁堀あたりは街の古さもあるせいか、地に足のついた真っ当な食べ物を出す店が多いように感じる。
私のアンテナが優秀?だからか、今のところマズくてビックリみたいな店に当たったことはない。
とんがった店やオシャレな店、グルメうんぬんを語りたくなるような店ではなく、「普通に美味しい店」だと何となくホッとしたような気持ちになる。
八丁堀の「山城屋」というお店だ。基本はトンカツの店だが、夜は割烹というかオジ向け居酒屋として使える路線だ。
お客さんが老眼世代ばかりだからか、メニューがあきれるほどデカい。でもそれが妙に有難い。世の中のすべての飲食店のメニューがこのぐらいの文字サイズだったら便利である。
店の外観は立派な古民家風で一見すると敷居が高そうなのだが、入ってしまえば普通のトンカツ屋さんの空気だ。ちょっと高級な定食屋みたいな風情だから肩肘張らずノンビリ飲み食いできる。
枝豆、しめ鯖をツマミに晩酌を始めて、途中で焼鳥や鰻串を注文する。普通に美味しい。中途半端な焼鳥屋に行くより真っ当な味わいだ。鰻も作り置きの蒲焼きにしては充分満足できるレベルだ。
そんな流れのあとでシメにトンカツだ。オジ向けというより男なら誰もが喜ぶハッピーラインナップである。
お次は新富町にある「さくら家」と「義常」。どちらも焼鳥屋だ。奇をてらわず正しく美味しい店だと思う。
スタイおリッシュ、モダン、ジャズがBGM・・・等々、いまどきの焼鳥屋はすっかり進化を遂げたが、この2軒は昔ながらの焼鳥屋のイメージそのまま。
さくら家は創業が大正時代だとか。史跡みたいな店である。焼鳥も高水準の味だったが、ぬか漬けの古漬けが用意されているのが素晴らしい。
浅漬けしか見かけなくなった昨今、変色してしなびちゃったぬか漬けは昭和ノスタルジーそのものである。わけもなく今は亡き祖母を思い出した。
「義常」も毎晩オジだらけで賑わう良い店。タラコを炙ったヤツとか白レバの軽く炙ったヤツをツマミにグビグビ飲んで焼鳥を堪能。ホッピー気分の時に使い勝手がいい店だろう。
新富町と八丁堀の間にある「BOICHI」という店も何度か訪ねた。肉キッチンと名乗っているカジュアルなビストロ風の店。
牛、豚、鳥だけでなく鹿や鴨などメニューは豊富だ。カウンター席もあって一人飲みも問題なし。
牛肉がウリみたいだが。すっかり牛が苦手になった私は、ハイボールやスパークリングワインを片手に自家製ソーセージや鴨肉を頬張る。普通に正しく美味しい。
先日は半身のひな鳥をオーブンで丸焼きにした一品を食べた。普通に美味しい、ではなく絶品だった。バサついた部分はまったく無く全てがジューシーだった。クセになりそうな味だった。
最後は八丁堀の龍馬という馬肉メインの居酒屋。怪しげな店構えにビビりながら店先に出ていた馬中心のメニューに釣られて入ってみた。
決してデートなどに使うような雰囲気ではないが、馬肉料理は普通に美味しくて充分満足した。
馬の串焼き、馬のモツ煮、馬のレバ刺しである。これもホッピーや梅干しを何個も投入したサワーをがぶがぶ飲みながら頬張るのが最高だろう。
今日書いた店はどこも富豪っぽくない!?店だ。でも、そういう路線の店でケチケチせずに豪快に飲み食いするのが楽しい。
そんなこんなで今日もまたエセ富豪としての日常を過ごしている。
2019年8月14日水曜日
パスタとスパゲッティー
パスタなんて呼び方を日本人が知らなかった大昔からスパゲッティーが大好きだった。スパゲティではない。スパゲッティーである。
アルデンテなんて言葉も誰も知らず、ミートソースかナポリタンぐらいしか普及していなかった時代を経て、カルボナーラ、ボンゴレあたりがグイグイ出てきたのが40年ぐらい前だろうか。
その後、バブル全盛時にパスタというシャレオツな存在として日本中を席巻するに至った。まさに“スパゲッティー”の成長物語である。
20代から30代の頃は、やたらめったらイタリアンを食べに出かけた。前菜やメインも仕方なく注文したが、食べたかったのはパスタ類だけだった。
馴染みになった店では、マナーもルールも何のその、前菜もメインも無しでパスタだけ3種類ほど一人で食べたりした。
家庭人だった頃、料理上手な元奥さんに頼んで週末の朝昼兼用メシは決まって2種類のパスタを作ってもらった時期があった。
ポルチーニ入れまくりパスタとか、牡蠣てんこ盛りパスタなどアレコレ食べまくってぶりぶり太った。
イタリアに旅行に行っても、取り憑かれたようにパスタを食べまくる。各地で名物パスタをさんざん食べてきた。
ボローニャのボロネーゼ、ジェノバのジェノベーゼ、ローマのカルボナーラはそれぞれ現地で何度も食べた。赤ワインで煮込んだパスタやトリュフのパスタなどもゲップがノンストップになるほど食べてきた。
大好きなのに日頃イタリアンに出かける機会は滅多にないから、なんとなく昔よりパスタに縁遠くなっている。
先日、娘のリクエストで中野駅に近いパスタ屋さんに出かけた。その名も「パスタキッチン」である。
娘が幼稚園、小学校の頃、通学経路で中野駅を使っていた関係で知った店だ。娘はその後も時々食べているようだが、私としては5年ぶりぐらいの訪問。
ウニのパスタ、カルボナーラ、海老とキノコのオイルパスタを分け合って食べた。ただただ美味しくて感動した。何度もうなり声をあげたほどウマかった。
この店は本格的なイタリア料理店ではない。パスタがメニューの大半を占める、いわば日本型パスタ専門店というジャンルだろう。
若い頃は、つい本場モノじゃなきゃダメだみたいなヘンなこだわりがあったが、この店の日本的パスタのウマさを味わうと、そんな固定観念がバカらしくなる。
もちろん、本場の味を忠実になぞるのも凄いことだが、日本的アレンジが絶妙だったら単純に口の中がハッピーになる。
考えてみれば、子どもの頃に食べてきたスパゲッティーなるものは、本場モノとは異質だった。アレを喜んで食べまくったわけだから、大人になってからエラそうに本場の味ウンヌンなどと気取っても仕方ないのかも知れない。
たとえば、本場のカルボナーラは生クリームや牛乳は使わず、ショートパスタで味わうのが普通だ。大半の日本人にとっては繊細に仕上げられた日本型カルボナーラのほうが美味しいと感じるはずだ。
そういう意味で、「中野のパスタ屋」は日本人が日本人のために完成させたパスタとして素晴らしいレベルだと思う。
昨年、娘をローマに連れて行って、さんざんパスタを食べさせまくった。高校生だから涙を流して感動するかと思っていたのに、どこで食べてもたいして感動しなかったのが不思議だった。
あの時の謎の答えが中野駅にあったわけだ。こんな最上級にウマい日本型パスタを幼い頃から味わっていれば、本場イタリアだからといって私のようにいちいち感動しないのも当然である。
というわけで、旅先では味覚や店の評価が極端に甘くなる私の底の浅さ?をひょんなことで思い知らされた。
日本的パスタは世界最高だと断言しちゃっていいと思う。
2019年8月9日金曜日
歴史散歩
このところ散歩にハマっている。暑さにもめげずに休日の朝や夕方にぶらぶら近隣散策に励んでいる。
中央区界隈はさすがに江戸時代からの歴史を感じさせる場所が多い。昔の時代に思いを馳せながら歩いていると束の間のタイムスリップ気分になる。
“歴史さんぽ”、“古地図で歩く”みたいな本もアレコレ買った。どれも同じことしか書いていないのだが、その場所の古いエピソードや由緒を知ると散歩も文化的趣味?みたいな気分で楽しめる。
新富町は花街、八丁堀は与力・同心の街、佃島の住人達が造成した築地をめぐるエピソードなどにフムフムうなずきながら、その時代を勝手に想像すると飽きない。
古い時代を想像することは、自分が生きている今現在そのものもしょせんは歴史の一瞬の通過点であることを実感する。
そう思うとちょっとした悩みや葛藤もちっぽけに感じて大らかな気持ちになれる。なるようにしかならないという達観した気分になれるのが歴史散歩の効能だと思う。
10年前にこのブログで、樹齢数百年の木を眺めに行く話を書いた。長い時の流れを実感して郷愁に浸るのは、どうやら私の趣味みたいだ。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/08/blog-post_21.html
それにしても、江戸時代の地図と今とを比べると、よくもまあこれほどまで埋め立てをしたものだと感心する。
ベイエリアだ、ウォーターフロントだといったエリアはもともと全部海だったわけで、最先端マシンなど無い時代にあれだけ地面を増やしたわけだから。先人の苦労は相当なものだっただろう。
添付したのはネットで見つけた古地図と今の比較画像が載っているサイト。記事の真ん中あたりに一目瞭然の画像が載っていて興味深い。
https://kawlu.com/journal/2017/01/24/5001/
さて、地名の由来ひとつとってもさまざまなウンチクがあって楽しい。築地は文字通り土地を築いたからその名がついたわけで、月島ももともとは築島と表記されていたそうだ。築地と区別する意味や、月見の名所だったこともあって現在の表記に変わったらしい。
橋が付く地名の多さも歴史を感じさせる。日本橋、京橋、新橋。みんな橋である。いかに川や堀だらけだったかを想像するだけで面白い。
昔は水運中心だったから東京湾に面した今の中央区あたりは川や堀が張り巡らされて物流を支えたわけで、古地図を見ると水の都と呼びたくなる。
考えてみれば銀座通り(中央通り)、電通通り(外堀通り)、昭和通り、新大橋通りといった幹線道路は、もともと川だったからスッキリと道路に出来たわけで、近代化は埋め立ての歴史そのものだと実感する。
江戸時代はしょっちゅう大規模火災が起きたからガレキが大量に出て、その後も震災や戦災のガレキが元になって現在の都市の姿になったわけだ。そう考えると散歩の時の足元ひとつからロマンを感じる。
私の家の近くも入船橋、新富橋など、川は無くても橋だらけである。かの三島由紀夫の小説にも新富町界隈のいくつもの橋をめぐる女の情念を描いた作品があるらしい。
私が散歩の際に風を浴びながら気分良く渡るのが佃大橋だ。築地側と佃、月島を結ぶ立派な橋である。
池波正太郎の江戸散歩本では、この橋が酷評?されていたのが印象的だった。「味も素っ気も無い鉄橋」が出来たことで、若き日の池波少年たちは失われた風情に大いに落胆したらしい。
なんだか脈略が無い話になってしまったが、こんな調子で散歩を続けていたら、そのうちどうでもいいウンチクばかり語りたがる偏屈な爺さんになりそうな気がする。
2019年8月7日水曜日
負けた気がする
負けた気がするー。誰かと争っているわけでも何かに勝ちたいと思っているわけでもないのに、“負けた気がする”ような気分になるのが苦手だ。
ちょっとの差でエレベーターが通過しちゃったとき、あと一歩で電車に乗れなかったとき、タクシーに勇んで手を上げたのに「回送」や「迎車」の表示だったとき等々、日常生活のあらゆる場面で“負けた気がする”場面はやってくる。
寿司屋のカウンターでウニを頼むつもりだったのに、隣の客が先に注文しちゃうと、何となく負けた気がする。マネしたみたいでシャクだから違うネタを注文する。
ちなみに、ウニを誰よりも先に注文したからといって、勝った気になるわけではない。端的に言ってバカである。自意識過剰だ。
並ぶことが嫌いだから、コンビニに行ってもレジに4~5人並んでいたら引き返す。常に並ぶ場所なら我慢もするが、普通は並ばない場所で並ぶハメになると途端に負けた気がする。
スーツをオーダーで頼むようになったのも、既製品だと試着の際にズボンが入らないという“大敗北”を食らうことが多かったことがきっかけだ。
オーダーならばスマートな店員さんに「アンタみたいなデブが着る服なんか無いぜ」と心の中でつぶやかれる心配はない。
厄介なのが、人様からケチなヤツだと思われたくない気持ちが強いところだ。それこそ負けた気がする。
牛丼屋で「並」を頼んだら負けた気がするから、たいして空腹じゃなくても「特盛り」を頼んでしまう。
職場の近くのプロントにタバコ休憩に行っても、一番安いコーヒーを頼むと負けた気がするから、いつもナゼかちょっと高いカフェモカを頼む。
ピーピー、カツカツな時でも、メニューの中の安いヤツは頼めず、「並」と「上」があれば「上」を選び、「小」「中」「大」があれば、間違っても「小」を選べない。
考えてみれば「特盛り」「上」「大」なんかを選べば、勝つのはあくまで店側である。ホントは負けまくっているわけだ。バカである。
近距離をタクシーで移動して初乗り料金の410円のままだと落ち着かないが、到着寸前に490円に上がると少しホッとする。ここまでくるとチョット異常な感覚かも知れない。
焼酎や日本酒の品揃えが豊富な店でも、一番安いヤツはなんとなく避けて真ん中あたりの価格帯から選んでしまう。
ボトルを入れるはめになっても、一番安いヤツを選ぶと負けた気がするから、下から3番目ぐらいを指さす。
実にくだらないこだわりだが、こればかりは性格だから仕方ない。見栄っ張りなんて何の役にも立たないが、ついつい無駄を重ねてしまう。
女性とネンゴロになっても、絶対に負けた気分になりたくないから、必死に頑張って余計なことに励んだりする。常にヘトヘトだ。
巨乳の女性と遭遇しても、巨乳自慢みたいな流れに乗っかると負けた気がするから、必死に視線が胸元に行かないようにする。ついでに自分は胸より尻派だと大げさに強調して涼しい顔を心がける。
だったら何でこんな画像をしょっちゅう撮らせてもらっているのかは我ながら謎である。
というわけで、このところずっと暑さに負けている。暑さ対策として「スイカのお酒」とやらを買ってみた。
マズいなどと言っちゃうと負けた気がするから味についてはノーコメントである。
2019年8月5日月曜日
宮川本廛 皿の不思議
“土用の丑の日騒動”も終わり、ウナギ愛好家にとって平穏が戻ってきた。
もともと丑の日に“う”が付くものを食べると夏バテ対策になるという風習が原点だから、牛でも馬でもウリでもウサギでもいいわけだ。
「ウナギの日」みたいな扱いになってしまったから、前後の日も含めて普段は入りやすい鰻屋まで並んでしまう。困ったものだ。
ウナギスト?を自認する私はこれまでアチコチの名店と言われる店を覗いてきた。正直なところ、一定水準を超えている店であれば十二分に満足できる。
あとは居心地や私個人のちっぽけなこだわりによって、その店が好きかどうかの分かれ目になる。
ウナギ以外まったくサイドメニューが無く、ただ黙々と小一時間おとなしく待っていやがれ的な店は好きではない。
ああいう路線は客目線に欠ける。不思議なことにそれを有難がるマニアックな客がいるから、店もそれが当然という態度で平気な顔をしている。
なんだかな~って感じだ。
名店だの格式だのと聞かされただけで、そんな営業姿勢に疑問を感じずにひれ伏している客に限って、安い店ではちょっとしたことにクレームをつけたりする。
鰻屋に限らず、それがイマドキのグルメ事情ってやつなのかもしれない。
なんだか随分イヤミな書きぶりになってしまった。
話を戻す。
真っ当な鰻屋であればしっかり待たされるのは仕方ない。その分、気の利いたツマミが揃っていて、ゆったり酒を飲みながら過ごせるなら、待ち時間も楽しみになる。
先日、築地にある「宮川本廛」に出かけた。超有名店だが初訪問。今までは私にとって中途半端な立地のせいで行く機会がなかったのだが、新居から徒歩圏内になったのでいそいそ出かけてみた。
とりあえず老舗の大看板だから、気の利いたツマミがまったく無かったらどうしようと思ったが、さすがにそんなヤボな店ではなかった。
前菜、刺身、酢の物。大ざっぱだがメニューに書かれていて一安心。それ以外の「お通し各種」なる記載が気になったので尋ねてみた。
すると感じの良い仲居さんがアレコレと5つぐらい紹介してくるではないか。オジ感激である。「ウチは鰻屋でい、黙って待っていやがれ」的な店ではこうはいかない。
で、コハダと子持ち昆布をもらう。「お通し各種」という位置付けの通り、量は少なくて逆に有難い。だいたい、ツマミ用にコハダを用意してあるなんて実にイキである。単純な私はそれだけでファンになった。
肝焼きも頼んで、冷酒をグビグビ。コハダに子持ち昆布、肝焼きで一杯やりながらウナギを待つのは、オジ的には至高の時間である。
そうこうするうちに白焼きが登場。これがまた良かった。蒸しも焼きも丁寧な仕事ぶりが感じられる仕上がり。塩加減も強すぎず文句なし。
感心したのが白焼きを載せた皿だ。特殊な皿なのか、特殊な熱し方をするのか、ダラダラつまみながら飲んでいても最後まで皿中心部が暖かく、白焼きが冷めなかった。
パッと見は普通の皿に見えたのだが、このあたりの気配りに名店の矜持を見た思いがした。
そして鰻重がやってきた。一番最初の画像だ。ツマミが小量だったおかげで、まだまだ腹は膨れていない。フタを開け、あの香りに包まれた瞬間に“ウナガー魂”に火がついて、バクバクウシウシがっついて食べた。
実に幸せだった。
ウナギをこういう風に味わえる国に生まれたことは、人類史上という観点から見て、宝くじに当たったどころではないほどラッキーなことだと思う。
2019年8月2日金曜日
シャンパン風呂、タルタル風呂
まったり過ごしたい、ではなく、こってり過ごしたい気分の日々だ。最近はあっさり系の食事を心がけているせいで、ふと、ベタベタこってりしたものが恋しくなる。
もちろん、極端に節制しているわけではないから、ウーバーイーツでとんかつを頼んでもサイドオーダーでエビフライも注文してタルタルソースたっぷりで食べることもある。
でもコレステロールを気にして食べるモノに少し気をつけているので「こってり欲求」が強まっている。
先日、このブログでも書いた「サバ缶スペシャル炊き込みご飯」みたいな食事が続くと、さすがにベタっとしたもの?が恋しくなる。
例えるならこんなヤツである。バターたっぷりのオムライスとタルタルべっとりのエビフライだ。発情しそうになる。
タルタルソースだけでなく、ベシャメルソースも時々無性に食べたくなる。普段、エラそうに滋味だの素材がどうだのと語っているクセに、結局は「お子ちゃま味覚」なのが私の実態である。
タルタル、ベシャメル・・・。なんなら子供用のビニールプールに満たして全身を浸してみたいぐらいだ。
子どもの頃、悪友達と回し読みしたエロ漫画に妙に刺激的な描写があった。裸の女性に蜂蜜を垂らしてウヒウヒ舐める悪徳オヤジの話だった。
私だったらタルタルソースかベシャメルソースを使う。
その昔、ミッキーローク主演の映画「ナインハーフ」で話題になったのが目隠しプレイのシーンだった。
目隠しした女性相手にミッキーロークが氷のかけらを使って愛撫する設定である。当時アレをマネするカップルが続出した。
でも、今の私だったら、氷のカケラではなく、タルタルかベシャメルを使う。
義理みたいな会合で行きたくもない西洋料理屋さんに行っても、こってりソースがウマいとムホムホ気分になる。画像はウニのクリームソース。
これまたビニールプールに満たして浸ってみたい感じだった。
そういえば、エロの求道者的なフランスの物好きは、いわゆる「女体盛り」をキャビアで実行すると聞いたことがある。
日本の女体盛りの場合、載せるのは刺身だから必然的に箸が必要だが、キャビアなら箸は不要だ。直接食べるわけだ。そこがポイント?らしい。
ついでに言うならその昔の貴族の間では「シャンパン風呂」という道楽もあったらしい。確かにシュワシュワして気持ちよさそうだし、エロティックな遊びではある。
私も富豪を目指している以上、そのぐらい豪勢な路線を目指すべきかも知れないが、どうせやるなら「タルタル風呂」「ベシャメル風呂」のほうが嬉しい。
相変わらずバカげた話に脱線してしまった。
タルタルソースをてんこ盛りにしたタコ焼きでも食べて反省しようと思う。