防衛省の守屋前事務次官の逮捕劇は、前次官の妻まで逮捕されるという異例の展開になった。前次官夫人・守屋幸子容疑者は、いわゆる専業主婦。収賄で逮捕される事態に「?」を感じる。
「身分なき共犯」という規定が刑法にあるそうだ。収賄は公務員という身分があってはじめて適用される罪。前次官は問答無用の犯罪人になるわけだが、妻は公務員ではない。本来なら収賄で捕まることはない立場だが、共犯であれば身分が公務員でなくても主犯と一緒に刑法犯になるという理屈だ。
守屋夫人をかばう趣旨ではないが、ちょっと強引な印象はぬぐえない。幸子氏とともに接待の恩恵にあずかっているはずの防衛省幹部の夫人会メンバーや留学の際に何かと面倒を見てもらったとされる守屋家の子どもだって共犯という理屈になる。
共犯といっても、専業主婦。具体的な便宜供与に関する知識などあるはずもないだろう。
まあ常識的に考えて、夫人までとっ捕まえることで「守屋氏個人の暴走」という絵図を描きたいどこかしらの意向が働いていると見るのが妥当だろう。
世間の印象なんてマスコミ報道で決まる。「オネダリ妻」、「墜ちた夫婦」などというフレーズは、「守屋夫妻は悪い奴ら」という極めて矮小化された断面がコトのすべてであるかのような印象をもたらす。
ゴルフの回数、焼肉をたかった回数、海外ブランド品のお土産話などのワイドショー的ネタがぽんぽん出てくれば出てくるほど、防衛省の構造的な問題や防衛利権という闇などどこかへ消え去っていく。なんか不気味だ。
歴史は繰り返すではないが、国が重要課題をめぐってドタバタしている時にはこの手の事件が起きる。
一例として思い出すのが住専問題のさなか、「西の末野、東の佐々木」と称された末野興産と桃源社の両オーナー経営者への集中砲火だ。印象的だったのは、末野興産への国税のマルサがなかば公開型で展開されたこと。
通常、国税の査察(マルサ)は、一般の税務調査とは異なり隠密行動が大原則。国税局の査察部員がガサ入れする当日まで、その地域の税務署長さえ、ガサの事実を知らされないほどの徹底ぶりだ。
ところが、末野興産バッシングがピークだった頃、ある朝、一般紙各紙に「今日にも査察」という見出しが躍った。そして、テレビカメラが準備万端整っている所に大阪国税局の査察部が登場、衆人環視の中での査察という異例の作戦が展開された。
その昔、新聞社系の写真中心のグラフ雑誌で、国税局の査察部が特集されたことがある。本物の査察官は顔出しNGが基本のため、部内の執務風景の撮影では、広報関係職員らが査察官役に扮していたというエピソードがある。それほどまでに隠密主義の査察が、住専問題のあだ花に対して実行したパフォーマンスに公権力の得体の知れない不気味さを感じた記憶がある。
鈴木宗男議員が一斉にバッシング対象になり、外務省の佐藤優氏がラスプーチンという異名とともに悪の権化として描かれた一連の絵図もそうしたキナ臭さがプンプンしていたし、新井将敬、松岡利勝両元代議士の自殺事件にも似たような印象がある。
最近ではライブドア、村上ファンド問題があげられる。今年の夏、ホリエモンと一緒に捕まったライブドアのナンバー2・宮内亮治氏を囲む内緒の会合に参加した。公判中とあって、何かと口は重かったが、公権力が特別な意思を持って動く際の不気味さを随所に感じさせる話が聞けて興味深かった。
今回の守屋事件。主役の逮捕というヤマ場を過ぎ、一連の話題はこれから急速にしぼんでいき、マスコミ報道も急速に次なるターゲット探しにシフトし始める。
誰が損して誰が得したか、誰が消されて誰が守られるのか、結局、歴史になったときにいろんなことが見えてくるのだろう。
2007年11月30日金曜日
妻逮捕 公権力の不気味さ
2007年11月29日木曜日
銀座の路上駐車
最近、銀座の7,8丁目付近をブラブラしていると一昔前とは違う路上駐車事情が垣間見える。
運転手付きの高級車が待機している光景自体は同じでも、クルマの種類がちょっと変わってきた。あくまで個人的な印象だが、以前は、銀座と言えばセンチュリー、プレジデントあたりが主流だったような気がするが、最近はやたらとベントレーが目につく。
センチュリー、プレジデントだと、重役の出世とともに会社から機械的にあてがわれたような雰囲気がある。大企業のサラリーマン重役が乗るクルマという印象だ。後部座席に座る人物の主義主張というか、こだわりはあまり感じられず、お金持ちというより「お偉いさん」という表現がピンとくる。
ベントレーやロールスだと、どことなくお偉いさんと言うより富裕層という臭いが漂う。例えればセンチュリーに乗っているお偉いさんが三越でスーツを買っているのに対し、ベントレーのオーナーは、ブランドブティック。それもアメックスのブラックカード特典で時間外のプライベートショッピングをしていそう。
ベントレーもアルナージではなく、メルセデスとさほど変わらない価格のコンチネンタルの登場で、今風に言うとブレイクした感がある。それでも、いわゆる重厚長大型企業なら社長車として選ばない「顔」をしている。
ベントレーで銀座に繰り出すのは、成功ベンチャー、IT長者、上場で創業者利潤を手に入れたような新興型富裕層が多そうだ。
センチュリー、プレジデントは、例外なく会社名義で購入されるクルマだ。ベントレーも一部の好況企業が社用車で購入しているのだろうが、結構、個人でポンと買う人も多いのかもしれない。
ベントレーの他にも、マイバッハやマセラティ、アストンマーチンやフェラーリ・スカリエッティあたりを見かけることも珍しくない。メルセデスで飽き足らない富裕層の多様化を象徴している。個人的には、これらのうちでもスタイリッシュな2ドアクーペを結構な年のお父さんが運転していると格好いいと思う。50代、60代にこそ乗ってもらいたい気がする。
「税務署の目が・・・」などという感覚で、無難にSクラスを選ぶようだと面白味に欠ける。「24時間すべてが仕事であり生活」が当然のオーナー企業経営者なら尚更だ。
2ドアだと社用車として税務署から否認されるとか、派手な色もダメとか、もっともらしく喧伝されているが、税法や通達にそうした規定はない。儲かっている企業であれば、しっかり法人税を納め、社長も高額な所得税を納め、しっかり遊べば消費税もたくさん納めているわけだから、相応の社用車を購入することは当然の話だろう。
2007年11月28日水曜日
浜本洋好さんの器
唐津焼の陶芸家・浜本洋好さんが作る器が好きだ。わが家の食器の多くが彼の作品。何度も工房を訪ねて、アレコレ選ばせてもらったお気に入り揃いだ。実際に使ってみるまで器の感じは分からない。料理を盛った時の色合いや使い勝手が、購入する前とあとではイメージが違ってしまうことは珍しくない。
浜本さんの作る器は、使ってみると良さを実感できる。自らを陶芸家ではなく陶工と称する彼の謙虚さが表われている。出しゃばらずに素朴で、実用性重視。これ見よがしの良さではなく、さりげなく良い。
唐津焼の中でも人気の作家さんだけあって、各地で個展も開かれる。個展会場では、工房でお会いするときと違って、どことなく「陶芸家の浜本先生」になっているが、旧知の顔を見つけた途端、「陶工の浜本さん」になるところがちょっと可愛い。
唐津焼の有名陶芸家の多くが、豪快で気高い感じの作風だったり、ストイックに稟とした感じをウリにしている。唐津を旅して、飛び込みであちこち作家さんを訪ね歩くと、作品と同様の作家本人の姿勢やオーラに接して結構疲労感を覚える。だから浜本さんの工房はなるべく後半に訪ねることにしている。
どこかホッとするぬくもりを作品同様、ご本人の姿や話から感じることが出来て気持ちがいい。とはいえ、個展出品クラスの彼の作品には、迫力と情熱をたっぷり含んだ逸品も多く、その底力に圧倒される。ポッと出の陶芸家とは一線を画す、熟練陶工の凄さが垣間見える。
団塊世代、シルバー世代の男性に陶芸を趣味にする人が増えているそうだ。ろくろを回すことが目的で始めた人でも、そのうち作るだけでなく、好みの器を集め出すのが通り相場。器好きになったら、必ずはまる唐津焼。浜本さんの器は、ひと言で言って「きちんとしている」。是非、手にとって見られることをオススメする。
2007年11月27日火曜日
お国のために!?
もうすぐ年末調整の時期がやってくる。年末調整のお陰で大半の勤め人は税金の計算をしないで済む。一方で、年末調整で完結する仕組みが、わが国のホワイトカラーからタックスペイヤー意識を奪ったという指摘も根強い。
日本の税制の基本は「申告納税制度」。平たく言えば、自分の税金は自ら申告することで精算しますということ。反対語は「賦課課税制度」。固定資産税のようにお上が決めた金額を支払う仕組みだ。
実際上、大半の勤め人は自分の税金を「申告納税」といわれてもピンとこない。賦課課税的な感覚だろう。
世界中の国税庁長官が集まる国際会議で、日本の年末調整の仕組みが語られた際、他の国のトップ達から驚嘆と羨望が集まったそうだ。たいていの国は、毎月の給料から一定額を差し引く源泉徴収制度はあるものの、年末に最終集計して完結してしまう仕組みは日本独自のものだそうだ。
日本独自の制度である理由として、お上に従順な国民性があげられる。源泉徴収はもちろん、年末調整の作業は誰が行っているのか。言うまでもなく会社である。会社が社員の税金を事細かに計算し、納税を代行している。手数料もなく、「法律だから」という理由のみで、国の税収確保を業務としている。
作業を肩代わりしているのに、感謝もされずに、間違えれば罰せられる。国から見れば実に効率的な制度だ。
先日のブログで、戦前は高額納税者に対して貴族院議員という道が開かれていたと書いたが、この源泉徴収制度に関しても、戦前は常識的配慮があった。民間企業への委託作業という意味合いから、企業側に手数料が支払われていたことがあった。その後、GHQが、法律で規定している以上謝礼は不要という見解を出したことで消滅したらしい。
それでも、国税庁内部から「報いがないのはおかしい」という声が出て、昭和の一時期、「優良源泉徴収者表彰」という制度が設けられていた。結局定例化しなかったわけだが、やはり、民間企業に委託しているという構図は間違いないわけで、経営者からすれば、「感謝ぐらいしろ」と声を大にしたいところだ。
2007年11月26日月曜日
ミシュラン日本版に思う
ミシュラン日本版についてさかんに議論されている。率直に言って「ミシュランの思うツボ」だろう。話題になるほど本は売れる。
味覚は千差万別。本人の好み、体調、そして気分にまで左右されることは自明の理。その店で何度食べたのかも分からない他人の評価、ましてやヨソの国の人がたまたま食べた際の評価を有難がっても仕方ない。
単なる読み物として眺めていればいい話だろう。大体、寿司屋なんてカウンターを挟んで人間と人間が向き合って過ごす場所だ。店主との相性はもちろん、店側との呼吸が合って初めて居心地と味の印象が決まる。グルメ本を見て、ランチに出かけて、お決まりのセットを食べただけでアレコレ語っても仕方ない。
アマノジャクを自認する私は、グルメガイドに載っていない自分だけの美味しい店を見つけることに喜びを感じる。このブログでも、訪れた店の固有名詞を書くことはあるが、本当に好きな店の名前は書かない。氾濫するネット情報だってそれが現実だろう。
寿司屋の話に戻ろう。最近やたらと増えてきたのが「おまかせだけの店」。メニューやお決まりセットなどはなく、出されたものを有り難くいただくスタイルだ。確かに便利だし、社用族にも有り難いだろうし、接待される側も気を遣わなくて済む。
知識のない客でも何となく困らずに過ごすことが出来る。逆に言えば、客を育てないスタイルだと思う。せっかく、プロと正面から向き合うのだから、一方的に食べ物を提供されるだけではもったいない。寿司屋のカウンターに座る意味がない。
客側も客側のスタイルをぶつけた上で相互通行ができた方が楽しい。今風に言えばインタラクティブな世界を作れないようなら、「カウンターで堪能する寿司」という文化の魅力は半減する。
もちろん、季節や産地ごとの魚の旬なんかをすべて覚えることなど素人の客に出来るわけはない。それでも馴染みの寿司屋を作って、時に恥をさらしながら、一応の常識的知識を身に付けた方が、「客としての質」も上がるというもの。
ビミョーな知識をそれなりの店でご披露して悦にいってるオヤジにはなりたくないが、そういうオヤジだって、どこかで一生懸命知識を蓄えてきたのだろうから、捨てたものではない。いわゆるKYの問題であり、出されるものに何の興味も示さない御仁より、店側にとって相手のしがいがある客だろう。
そこそこの知識があれば、出されるものの希少性が理解できたり、逆に店側の姿勢に疑問を感じることもできる。「おまかせ」だけを食べさせられていると、あくまで店の都合を食べていることになる。
20代の終わりから10年近く通った寿司屋があった。客単価は、有名繁華街ではない立地にしては高く、お客さんの年齢層も高く、いろんなことを体験して覚えた。
育った家が肉系西洋料理を好む傾向が強かったので、社会人になってからも「和」より「洋」が中心だった私だが、その店で魚の旨さや日本料理のあれこれを知ることができた。毎週、多いときは週に2回ほど訪れて店の売上げに貢献し、時には店主と旅行に出かけ、土地土地の旨いものを食べ歩いたりした。
結構な投資だったと思う。でもそのお陰で、自分なりの寿司屋で快適に過ごすスタイルが固められた気がする。
そうは言っても、値段が心配というご指摘もあろう。私も一見の店には、普段より財布に余裕を持たせて出かける。でも、まっとうな寿司屋に言って、カウンターに陣取り、自分の好みを押し通すのだから、高額なお勘定は当たり前だと思う。
ついでにいえば、そこそこのフレンチに行って、選択肢の乏しいコース料理を選ばされて、相応のワインを頼んで支払う金額を思えば、寿司屋は決して高くないとも思う。
なんといっても、好きなものを、好きな量、好きなタイミングで、目の前で待機してくれる職人に提供してもらう。このこと自体が、世界にも例のない贅沢なスタイルだろう。安いはずがないと考えた方が自然だ。
高い、高いといっても私の経験では、品性のない同伴ホステスみたいに「ウニ、トロ」ばかり連呼しなければ、一流店と言われる店だろうと目の玉が飛び出るお勘定になることは稀だ。安くはなくても請求される値段がこちらの想像と大きく狂うことはない。歌舞伎町あたりの怪しげな寿司屋の方がよっぽどわけの分からない金額をふっかけてくる。
なんかミシュランから大きく脱線してしまった。とにかく寿司屋のカウンターでしみじみすることが大好きな私としては、お寿司屋さんが表層的に評価される風潮がすごくイヤだ。
2007年11月22日木曜日
将軍と鴨
いよいよ冬だ。何を食べようか迷うことの多い季節だ。あんこうやふぐ、おでん等々、ついつい鍋系が脳裏をよぎる。
ところが、「お酒あっての食」を標榜する最近の私としては、燗酒やお湯割りを想像した途端、鍋の優先順位が下がってくる。鍋の出来上がりを待っている間に充分に暖まってしまう。熱い鍋には冷酒やオンザロックの方がピンとくる。
鍋ではなくて、冬っぽいものを考えていたら無性に食べたくなったものがある。それは「鴨」。野生の真鴨が食べたい!
今年の春頃、東麻布にある「あか羽」に行った。鷹匠料理とうたうこの店には、これ以上なくこの店の料理にお似合いの人に連れて行ってもらった。徳川宗家十八代の徳川恒孝氏がその人。世が世ならお供を引き連れ、鴨撃ちを楽しまれたであろうお方だ。
徳川氏は日本郵船を副社長で退職後、徳川記念財団理事長として幅広く活躍されている。執筆、講演に多忙な日々を過ごされている。
「あか羽」では真冬の時期に真鴨を食べられるそうだが、訪れたときは季節柄、養殖の鴨をいただいた。鍋の上で煮るのではなく、鉄鍋の上でジュウジュウと焼かれた鴨は甘みが強く美味、肉から出た脂の効果で野菜も美味しく堪能できた。真鴨の季節に是非味わいたいと決意してまだ実行していないのが悔しい。忘れずに近々予約したい。
ちなみに池袋にある「笹周」という店も真鴨が食べられることで知る人ぞ知る店。実際に囲炉裏で焼いた串焼きなどは滋味豊かで満足できるが、池袋的風情が濃厚な立地にあり、出かけるモチベーションの点で問題がある。やっぱり、希少な鴨は将軍のお膝元で食べたい気がする。
2007年11月21日水曜日
誉めることができない愚かさ
「やって見せ、言って聞かせてさせてみて、
誉めてやらねば人は動かず」
山本五十六大将の言葉だったかと思う。ビジネスマンの中にはこの言葉が好きな人は多い。ポイントは、オチの部分、すなわち「誉めてやらねば」だろう。オチになる言葉だけに、この部分が最も難しく、かつ大事な要素なのだろう。
「誉める」。これが下手なのが我が国。勲章を例にとっても、官高民低が普通で、おまけに等級廃止なんかをしてしまったせいで、等級の高い勲章をもらえる予定だった元役人からの批判すら出ている始末。
勲章ついでに言えば、もっとも叙勲対象にふさわしいのは誰かと考えたとき、その答えは、政治家でもなければ役人でもない。高額納税者こそが一番讃えられて然るべきだろう。
納税表彰という制度がある。一般にはあまり知られていないが、全国の税務署で実施されている制度で、管内の選ばれた人を税務署長名で表彰するもの。ランクアップすると国税局長、そのうえの国税庁長官からの表彰もある。
日本語の常識で考えると、この制度は、適正に長年にわたって高額納税をしてきた人が対象と思えるが、実際は違う。
納税表彰の「納税」は、納税者団体という意味合いであり、「納税者団体の活動により税務行政の円滑な運営に寄与した」という功績で表彰されている。
「たくさん納税したから表彰された」という解釈だと大分ニュアンスが違う。そもそも、高額納税という行為自体を賞賛する制度は存在しない。ウン十年にわたってウン十億円の税金を納めてきても、国としては「義務だから」という姿勢で素っ気ない。
警察が安全運転に努力した人を表彰しているが、安全運転だって義務だ。義務だからという理由で放っておかずに、わざわざ表彰するには意味がある。周囲への波及効果と本人の更なる発奮に期待しているわけだ。
納税も同じはず。誉められれば嬉しい。励みになる。どんなに頑張って納めても、無視されたら意欲もしぼむ。
戦前なら、高額納税者には貴族院議員に選出される道があった。真っ当な考えだろう。国に対する「会費」を人よりはるかに多く負担しているなら、相応の権利があってもおかしくない。
現状を考えると、選挙権だってネットカフェをねぐらにするプータローと億単位で納税している人間と何ら変わらず一票は一票。高額納税者にとってはバカみたいな話だ。
「義務だから当たり前」という情緒性のまったくない発想では、いずれその義務自体のハードルを高めてしまうように思える。
2007年11月20日火曜日
謎の整体師
ここしばらく腰痛が長引いて困っていた。普段、どこかが痛いときにかかる整体が今回はまるで効かなかった。この杉並区内の整体は、正直言って変な整体で、身体を引っ張ったり、折り曲げたりするようなことは全くしない。うつぶせか仰向けに寝させられたまま、奇妙な金属棒などで全身の波動か何かを探って、バランスの悪いところを見つけて、ちょこっとさすったり、周辺のツボを痛くない程度に押すぐらいで終了する。
何度通っても何をされているのか分からない。でも、実際に10年来不調だった足の膝裏の関節は一発で直ったし、以前行ったときには腰痛もすぐに回復した。理屈は分からないが、全身のバランスを整える秘策を施しているらしい。
今回の腰痛は、そこに4度も通っても一向に回復せず、整体師に「内臓系の重い病気かも」と脅されてほとほと困っていた。
一般の整形外科でレントゲンを撮影しても特別な異常はなく、ワラにもすがる思いで、人づてに紹介された新たな謎の整体師を訪ねた。
大田区某所の住宅地に謎の整体師はいた。御年80歳近く。やたらと施術前に己の勉強・修行経験を語るのが印象的だったが、要は気功、カイロ、理学療法すべてのいいトコ取りをオリジナルの技に高めたものらしい。
痛いこと、不快なことは一切しないのが特徴だそうで、実際に身体を曲げたり伸ばしたりする作業は僅かで、クライマックスは15分ほどふくらはぎに気を送られること。
仰向けに寝かされているため、足元でふくらはぎを掴まれていることは分かるが、微動だにしない様子に「ひょっとしてオジイチャン寝ちゃったのでは」と不安がよぎる。ところが5分ぐらいして、全身にジュワーッと奇妙な熱気というか何かが充満してくる不思議な感覚を覚え、やたらと気分が爽快になった。
施術後、かすみがちだった視界はやたらと開け、腰も軽くなってびっくり。3日ほどおいて再度整体してもらったら、すっかり快調に戻った。謎の整体師曰く、原因は「歯」とのこと。半年以上にわたって歯医者に通っている間に、首から上の神経系統が不調を興して腰痛を招いたらしい。
効き目があったから信じるしかない。
杉並区の謎の整体も大田区の謎の整体も、当然、医者ではなく、健康保険は使えない。
したがって合計でウン万円に上った今回の腰痛退治作戦費用は「医療費」にはならずに、いわゆる医療費控除の対象にならない。まったく役に立たない整形外科の診察と処方された薬なら医療費控除対象となるのだから、困ったものだ。
整体の世界って、この手の謎のテクニシャンがいっぱい存在するらしい。人体の神秘は一般的な西洋医学の対処療法的な取組みだけでは手に負えないのは確かなのだろう。
私が身をもって経験した2人の謎の整体師のところにも、患者として医師が結構くるらしい。
ところで、わけの分からないコンサルタントから定期的に話を聞くだけでも、その費用は会社の税務上、経費として認められる。その一方で、謎の整体師の費用を経費にすることは難しいのが現実だろう。定期的に身体の調子を整えてもらい頭がスッキリするのなら、世の経営者層にとっては経費に出来そうなものだが、税務署的見解では、ホワイトカラーの必要経費である給与所得控除がある以上、認められない公算が強い。
2007年11月19日月曜日
間抜けな秘書
仕事柄、国会関係者と接触することが少なくない。議員当人だけでなく、秘書との接触も多いが、秘書のレベルが低いと、つくづく議員が気の毒になる。
公設秘書を議員の家族や親戚にしているケースは多いが、このパターンは、秘書給与が税金でまかなわれているため、マスコミの格好の批判材料にされる。いわく公私混同との批判だ。同族会社経営批判と同じ構図だが、間抜けな秘書を見ていると、家族や親戚を秘書にしたい国会議員の心理も理解できる。
実際、私の会社でそこそこ付き合いのあった某参院議員との付き合いを秘書の間抜けさが原因で切ったことがある。
多少なりとも気の利いた秘書は、親分である議員が引退しても、より有能な議員のところにすぐに引っ張られる。
大物といわれる政治家には必ず名物秘書が付いているわけだから、逆に気の利かない秘書ばかり揃えている議員が大物になることはないのだろう。
企業経営も似たようなもの。単なる秘書ではなく、信頼できる腹心の有無が大きく影響する。中小企業が同族関係者で固めたがるのは、中小企業の現実を考えると、当たり前の発想だろう。
人材確保の限界は中小企業の構造的問題だ。名だたる大企業のようなブランド力もなければ、賃金水準も低い。公務員のような安定性もない。多少頭が悪くても、血のつながりによる結束は捨てがたく、また、多少頭が悪くても、少なからず会社と自身を一心同体として物事を考える習性は、単なる勤め人とは一線を画す。
「多少頭が悪くても」と連発したが、それでも得難いケースは多いわけだが、会社内外の世間様の目線は随分と違う。同族の二世や三世を見る目は必要以上に厳しく、頭が悪いどころか、人並みかそれ以上でも「バカ殿」とレッテルを貼る。人よりかなり優秀な水準で、はじめて普通の扱いを受ける。
それが現実。
政治家も二世や三世ばかりだが、あちらの世界は、「生まれながら国家を考える環境にあった」とか「リーダーの姿を子どもの頃から間近に見て育ち・・・」とやらの賛辞で固めることが多い。一民間企業経営を同族うんぬんと指摘するより、国家運営の世襲の方が確実に異常な話であるはずだが、どうも世間様の目線は微妙だ。
ところで、昔からつくづく思うことが世襲議員の相続税問題だ。税金関係の新聞に長く携わった関係で、アチコチから聞いた意見でもある。世襲議員が当選するための、いわゆる「地盤・看板」の部分って、どう考えても立派な「のれん」、「無形財産」だろう。先代が亡くなって、子どもが弔い出馬すれば、子どもの前職が政治に無関係でも、たいていが物凄い得票率で当選する。これってどう考えても立派な遺産であり、立派な相続財産だろう。
なんか秘書の話から脱線してしまった・・・。
2007年11月16日金曜日
事業を継ぐということ
農家は国策として保護されている。農地を相続しても子どもが農業を続けていれば、農地に相続税がかかることはない。いわば、農地は国民の食を支える大切なものであって、個人的資産とは一線を画すという発想だ。食材を生産するという作業が、その使命ゆえに保護されている格好だ。
なんとなく理解できるが、逆になんとなく腑に落ちない。農地で生産されたコメや野菜を売る商店には、そこまでの優遇策はない。
「国民の食」という考えなら、パン屋さんもそば屋さんも、ある意味居酒屋だって国民生活を支える大切な存在だ。これら一連の事業者の相続と農地の相続はそんなに違うものだろうか。
こうして考えると相続税そのものの存在が妙に気になる。一部の先進国では、相続税を廃止する動きが珍しくない。わが国では、今年末までには決まる来年度税制改正で、事業承継に関する相続税の減税が導入される可能性が高いが、相続税を無くすという発想はまったくない。
難しい言葉で言うと「富の再配分」が相続税の存在理由。資本主義国家でそんなこと言われてもピンとこないが、お金持ちが代々続くことは悪いことという発想に基づいている。
とくに深刻なのが中小企業の株式だ。流通性が全くないのに、事業所の立地などの資産内容によっては、上場会社の株価より高い評価額がつけられる。それを元に税金を換算されても無茶だ。そもそも評価額とは、客観的な交換価値、すなわち売却しようとしたらいくらになるかというモノサシである。
事業を続けているのに、「売っぱらったらコレコレの価値があるんだから、それに見合った税金を払え」という論理で課税される。屁理屈的発想にも思える。
個人的経験だが、先代が亡くなったとき、自社株が先代の遺産のかなりを占めていたため、納税対策には頭を痛めた。実際に経験したことで強く印象に残っているのは、「この会社は先代から受け継いだのではなく、国に大金を払って購入したのではないか」という感覚に陥ったこと。なんとも後味が悪かった記憶がある。
後継者不在による中小企業の廃業が社会問題になっている。子どもがいないのではなく、子ども世代に「親の事業を継ぐ」という意識が薄れてきていることが最近の特徴だ。
技術やノウハウが受け継がれないで廃れていくだけでなく、雇用も廃業の数だけ失われる。国難と言っても決して大げさではない。
中小企業にもポピュラーになってきたM&A。ほんの数年前までM&Aという言葉自体が、経営者階層から忌み嫌われている風潮が強かったが、最近はすっかりネガティブイメージが払拭されてきた。その理由は結局のところ、背に腹は代えられない経営者の実情につきるのだろう。
自分、そして自分の会社を救うためにM&Aが有効な選択肢になることは間違いない。“相続税的発想”にリードされる各種の政策を見続けてきた経営者なら当然の判断だ。
2007年11月15日木曜日
スタイリスト費用を会社で
劇場型という言葉が定番化した政治の世界では、政治家の衣装やヘアメイクにも専門家がアドバイスすることが珍しくなくなった。自分の着るものぐらい自分で考えてもらいたいものだが、しょせん、人間はセンスがある人とない人に分かれるわけだから、見た目を気にする職種なら、こうした努力も必要だろう。
ビジネスの世界において、男はスーツにネクタイが制服。制服とはいえ、着こなしによっては格段にその人の見せ方を変化させる。
高級こそが絶対ではないが、やはり、どんなにセンスが良くても安物は人を安く見せる。
社長という稼業に就いている以上、人からの見られ方は無視できない項目のひとつ。
よれよれなら、会社自体がよれよれに見られる。真っ当な社長は、真っ当と思わせる衣装を着こなしているのが普通だ。
努力の形跡はあっても、しょうもない格好をしている人は気の毒だ。スーツを英國屋で仕立てていても、ワイシャツの柄とあり得ないネクタイの結び方などで、すべてが台無しになっている人は多い。
苦労するのならスタイリストを活用することだってアリだ。季節の変わり目ごとに洋服選びに付き合ってもらって、組み合わせ方を教わるだけで、充分に自身を演出できる。購入する衣装代はさすがに会社の経費には出来ないが、社長業の演出という重要なコストであるスタイリスト費用は、会社の経費にすることは可能だろう。
もちろん、休日用のカジュアルウェアだと、社用としては無理がある。スーツやタイ、靴の組み合わせなど、ビジネス用途なら、常識的な範囲の“コンサル費用”は経費と認識しても不自然ではない。
本来なら、社長業を演出するために必要なスーツ一式だって会社の経費で落としたいところだが、社長といえども税務上は「給与所得者」。いわゆる給与所得控除という制度によって概算の必要経費が認められている以上、こうした発想はまず認められない。
一生懸命おしゃれしても、トンチンカンになってしまう。会社の沽券にも関わるのでスタイリストに指導を頼む-。こんなスタイルも珍しくない時代が来るかも知れない。
社長のブレーンといえば、税理士や弁護士が一般的。占い師やカウンセラーあたりまでは、まあまあポピュラーだが、スタイリストだって顧問契約を考えていい相手だ。
2007年11月14日水曜日
ホームシアター自慢
我が家の自慢のひとつがホームシアター。100インチのスクリーンに5・1チャンネルのサラウンドスピーカーがリビングに設置してある。これ見よがしに機材が露出しているのは格好悪いので、困ったのがスピーカー選び。リビング空間に異物感なく収めるために選んだのが、米国・スピーカークラフト社の天井埋め込み型の逸品。写真のダウンライトの横に移っている円形のユニットだ。埋め込み型の利点は、なんと言っても見栄えだが、音響特製は当然まっすぐ方向だけに照射されるため、臨場感がすべてのサラウンドには不向きだ。
ところが、スピーカークラフト社の埋め込み型スピーカーは独自の特許とやらで、ベース自体は埋め込まれるものの、ツイーター、ウーファーユニットの角度が30°まで可動するため、前方3つ、後方2つのスピーカーをきちんとベストポジションに向けて鳴らすことが可能。戦争映画のヘリコプター音などは本当にグルグル回っている感じだ。全部が上方向から鳴っている点にはやや不満もあるが、ひと月に2~3度という映画鑑賞頻度からすれば充分だ。
スクリーンも普段は邪魔なので、家具を工夫して収めることにした。普段は50インチのプラズマを置いてある家具の上部にスクリーンを収納できる箇所を作り、使うときだけ電動で降りてくる仕組みに仕上げた。上下2枚の写真を比べてもらうと分かりやすいかと思う。
最近のプロジェクターは、ひと昔前のそれと違って、映画館のように真っ暗にしなくても充分の明るさがある。生活空間を兼ねたリビングでも暗室並みに暗くしなければならなかった昔の機材に比べると非常に優秀。
ちなみに業者さん曰く、10年ちょっと前なら我が家のプロジェクターの性能ならば3ケタ万円だったそうだ。技術の進歩のお陰で、我が家のプロジェクターは10万円台前半で買えた。
さて肝心のテーマが鑑賞する作品だ。ケーブルテレビでやっていた「Gメン75」をスクリーンで見ても、なんとも画像が荒くて全然良くない。やはり近作DVD以外はまるでダメ。テレビもデジタル云々言ってもサラウンド対応じゃないと100インチではしっくりこない。
アクションものも舞台や背景が都会系だと、チラチラしすぎな感じになる。大自然系のスペクタル系(なんだ?)がもっとも集中して楽しめる。宇宙モノとか、天災モノなどは大画面・サラウンドと相性がいい。
大スクリーン向きという点では次のような映画がオススメ。現役の米国大統領が宇宙人に向かって戦闘機で出撃する「インディペンデンス・デイ」とか、氷河期が突如やってくる「ザデイアフタートゥモロー」、彗星が地球に衝突する「ディープ・インパクト」など。
アクションやサスペンス系ではなく、じっくり見せる映画にも大画面向きの作品は結構あるが、そちらは後日紹介したい。
ちなみに最近のアニメ大作は、子ども向けなどと侮れない。クマノミが出てくる「ファインディング・ニモ」とかマンモスが出てくる「アイスエイジ」などは、大スクリーンとスーパーウーファー付きのサラウンドで鑑賞すると結構大人も見入ってしまう。普段、漫画本やおたく系アニメとは無縁だが、実写とは違う独自の世界に不思議な魅力を感じる人が多いことが少し理解できた気がする。
2007年11月13日火曜日
気にしすぎな社長
「税務署の目が気になる」。そこそこ儲けている社長さんからこんな言葉を聞くことが多い。銀座あたりで豪遊しすぎて、税務調査でおとがめを受けるのではといった心配だ。
もちろん、自分の純粋な遊びだけが目的なら、その費用は、いわゆる社長の個人的なものとして税務署がチェックする。とはいえ、実際に業務に活かされているのなら、税務署にとやかく言われる話ではない。
守屋前防衛事務次官を接待付けにしていた御仁も、年間何十回ゴルフをしようが、実際にそれが業務実績に直結していたなら、ゴルフ費用にビタ一文ポケットマネーを使わなくても何ら問題はない。たとえ、自分自身の趣味がゴルフであって、接待といえども楽しくてしょうがなくても、あんな利益を生む接待なら、全部が全部会社の経費で当然だ。
会社でベンツを買おうが、ベントレーを買おうが、基本的に業務に利用するのなら税務署がアレコレ言うことはない。
社用車の色は、紺や黒など地味にしないと対税務署的に危ないなどという心配意見を聞くことがある。はっきり言って都市伝説の類だ。2ドアやRVも同様。そうだからといって会社での経費購入に規制があるわけでではない。強いて言えば、その存在に気付いた税務署員から、業務との関連性を問われることがあるという話。常識的な判断で済むレベルだ。会社に関係のない大学生の社長の娘に真っ赤なボルボを買いましたなどという図式では、税務署にどう主張しようが無理なのは当たり前。常識的に判断して極端に非常識でなければ、あまり気にする必要はない。
税金関係の専門新聞を発行していると、とかく「会社名義ネタ」の記事に問い合わせが寄せられる。社長宅、別荘、社長車等々、世の社長さん達がこれらのテーマに結構神経を使っていることが分かる。その多くが、心配しすぎという感じがする。
2007年11月12日月曜日
同族会社の味方です
同族会社という言葉には独特な響きがある。レッキとした法律上の言葉であるにも関わらず、妙に手垢がついているイメージだ。
身内だけで好き勝手やっている、公私混同が日常茶飯事などなど。同族という言葉自体が、物凄く排他的な印象を与える。部外者は部外者として中をのぞけないというか、口も出せないというか、なんとなく閉鎖的な印象はぬぐえない。
とはいえ、400万社ともいわれる日本の企業の9割以上が同族会社。サラリーマン階層がどうイメージするかは勝手だが、日本経済の屋台骨は、同族会社のパワーが支えているのは疑いようのない事実だ。
税法上、やたらと規制的要素の強い取扱いが同族会社には適用されている。法律を作る側、それを執行する側が公務員である以上、同族会社を色眼鏡で見ることが発想の根源であり、同族会社を利することは悪とみなされる。
大いなる誤解に基づく妬み思想がそこにはある。相当な犯罪行為があっても決して首にならずに身分が保障される役人からは、想像もつかないリスクを同族会社経営者は抱えている。崖っぷち感覚と表現すべき精神状態の中で日々闘っている。
無節操、無秩序な公私混同は、税務上の規制を受けるわけだが、会社が破綻するほどの公私混同など当の同族経営者がそうそうしていられるわけではない。このバランス感覚が役人的発想では分からない。
「会社の金であんないいクルマ乗りやがって」とか「会社の金でホステス口説きやがって」みたいな、まさに枝葉末節レベルの表層だけを見て、「ケシカラン同族会社」と安直に結論づける。実に不毛だ。
安泰生活を送る人間よりベネフィットが多くなければ、誰が中小同族会社の経営など引き受けるだろう。それが公私混同という曖昧な批判にさらされるのは偏見だ。
中小企業の世界にもM&Aが広がっている。中書企業白書にも、「子どもがいても後継者になってくれない現実」がさんざん書かれている。その理由は、「苦労したくないから」。裏返せば、中小同族会社経営の実態が裏付けられている。
国が認めているこの現実を無視するかのように、税制をはじめとする諸制度は、中小同族会社経営者を差別し続ける。中小企業の活性化を与党も野党も叫んでいるが、発想の根源を正さなければ無意味。中小同族会社経営者だけを思いっきり優遇する政策を打ち出すぐらいじゃなきゃ何も変わらない。
二世と役人上がりばかりの政治家には理解できない話だろう。ほんの10年間だけでいいから、国会議員を企業経営経験者、それも同族系もたくさん入れた状態で構成したら面白いと真剣に思う。
2007年11月9日金曜日
腰が痛い
ここ数日、腰痛でダメ。去年まで腰が痛くなったことがなかったのに、今年に入って3度目のひどい常態。座っていられない、靴下がはけない、歯磨きも厄介、寝返りがうてない、トイレが難儀、アレコレ悲惨な状況になると、介護の必要なお年寄りなどの気持ちが1000分の1ぐらい分かる気がする。
楽しくない。この一言。酒は飲めても、酒場に行けない。まいった。さっきは、横断歩道をトロトロ渡っていたら、信号が変わって、ドライバーに睨まれた。
世の中、健康体、健常な人を前提に出来ていることを今更ながら実感。クルマに乗っていても、路面がでこぼこだと、通過するだけで腰に響く。いつも掘り返して迷惑千万だと思っていた道路工事も、税金のムダ遣いという観点は別にして、その意味が少し分かった。
我が家は割と最近の作りなので、浴室、トイレ、階段などやたらと手すりが付いている。でも、そんなものが付いていることを腰痛になってはじめて知ったような気がする。
コルセットを装着すると、ズボンがゆるゆるで、ブートキャンプに成功したかのような気分になったことだけがプラスポイント。
でも腰痛が治まったら、きっと上に書いたような殊勝な気持ちもどこかにいっちゃうのかもしれないので、定期的に身体に不具合が起きることは、きっと意味があるのだろう。
2007年11月8日木曜日
クルマの話
クルマの話を書いてみる。エンスーでもなんでも私としては、詳しいことは書けないが、クルマには、自分の“アマノジャッキー”を表現してきた歴史があるので、その点を中心に書いてみたい。
昭和も終わりに近づいていた頃、鮮烈なデビューを飾ったトヨタ・ソアラ。友人のソアラを借りてみたが、確かに上等、格好も良い。でも私が選んだのはニッサン・レパード。ソアラの陰で売れなかった素敵なクーペだ。初期の「危ない刑事」で柴田恭兵が乱暴に運転していたことだけが知られているクルマだ。
その前は、若者の間で、繰り広げられる不毛なクルマ自慢が鼻につき、どうせならと思って、当時は誰も見向きもしなかった四輪駆動車の世界に足を突っ込んだ。その世界では、すでに三菱パジェロが覇権を握っていたので、私が選んだのは、ニッサン・サファリ。本当に街で見かけなかった。その点だけがお気に入りだった。その後、四輪駆動車が大流行し、「街乗り4駆」なる言葉まで聞かれるようになった時には、あえて幌付きのラングラージープにも乗った
富豪っぽいクルマとしては、思い出深かったのがBMW850。メルセデスのSLばかりがもてはやされていた気がして、迷わず選んだ。「ソアラの向こうをはって乗ったレパード」みたいな感じですごく好きだった。
その後も、絶対数の少なかったジャガーXK8に長く乗った。最近は、とにかくアルコール優先の生活になったので、クルマへのこだわりが以前より薄れてしまい、某アメ車が車庫に眠っている。
国内旅行先でレンタカーを借りることも多いが、最近の国産1500㏄クラスはかなりカッチリ出来ていて実に快適。正直、都会生活には、それらがベストマッチと思っている。とはいえ、道路上で繰り広げられている厳然としたクルマヒエラルキーの現実を思うと、いわゆる高級車然とした顔の大切さも痛感する。
会社にある雑用専門の旧型マーチを運転していると、いろんなクルマにぶっ飛ばされそうな目に遭う。運転が下手なのではない。やはり見た目は大切だ。
おまけにひとつエピソード。その昔、渋滞中に前を走っていたサニーだったか、なんか可愛げなクルマにチョコッとぶつけてしまった。傷もつかない程度の接触だったが、そのクルマから大仏のような髪型の大男が2人降りてきた。
こちらはビビリまくったが、そのオジサンの第一声が「普段は、こんなガキの使いみたいなクルマに乗ってるわけじゃねえんだ!」。
私も、そのオジサンが下さったハンカチみたいに大きな名刺(大日本なんとかカンタラとか言う文字が毛書体で書いてあるやつ)を見ながら、「それらしいクルマに乗っとけよ」と大きな声で叫んだ(もちろん心の中で)。
幸い大仏ヘアーのオジサンはいい人で、小言を頂戴しただけで済ませてもらった。でも今でも思う。やはりアレは反則だろう。あの方々には、それらしきおクルマに乗っていてもらわないといけない。ちゃんとお約束通りのクルマだったら、後続車の私もきっと必要充分の車間距離を取っていたはずだ。
この教訓から得たものは、しみったれたクルマだと、周りが気にも留めてくれずに、かえって危ないということ。技術革新でさまざまな安全装置が開発されているが、クルマ自体の姿や形、ツラ構えが安全対策上もっとも大事な部分だと思う。
2007年11月7日水曜日
アマン
昨日少し触れたアマンリゾートについて書いてみたい。アジアを中心にリゾート展開するアマングループは、それまでにない徹底したハイエンドターゲット戦略で確固たる地位を築いた。
タイ・プーケット島のアマンプリ、インドネシア・バリ島のアマンダリなどの登場は、ホテルフリークをびっくりさせる出来事だった。
極端に宿にこだわりのない私としては、そうした動きを横目で見ていたが、大の南国好き、とくにバリ島への偏愛を自負する身としては、アマンの何たるかを覗いてみたいと思って、数年前にアマンダリを訪ねた。
バリのビーチエリアではない、高原エリア(ライステラスなどに囲まれている山側)にたたずむアマンダリは、拍子抜けするほど、これみよがしの装飾などはなく、エントランス付近も実に素っ気ない。予備知識がなければ、なんとも味気ない印象だろう。
リゾートに付きものの高揚感とかワクワク感とは一線を画し、シンプルな静寂が漂う。ベーシックな部屋の室料だけで、1泊7~8万円も取られる秘密はどこにあるのかとチョッピリ不安になる。
案内された部屋も特別な仕様があるわけではない。空間の広さ、天井の高さは充分だが、それだけで満足するわけにもいかない。
滞在中、アマンの人気の理由をなるべく探ろうと心掛けて過ごしたが、その結果は納得することばかり。味気なく感じていた部屋も、ベッドの質、枕の質、置かれている籐製ソファの座り心地など上質な素材に満ちていた。したがって眠りも深く、目覚めの心地良さは旅先であることを忘れるほど。
サービスの特徴のひとつが、滞在している客の名前をスタッフが頭に入れていること。部屋係だけでなく、プールスタッフ、レストランスタッフからも、名前で呼ばれたのには感心。でも、どうやって、私が何号室の誰だかを把握しているのか、ちょっと監視されているみたいな緊張感も覚えた。
細かなハード、ソフトの説明はガイドブック類にまかせるとして、エピソードをひとつ紹介したい。
滞在中、日本への帰国便の日程変更をフロントスタッフに頼んでおいた。あいにく希望便に空席が出ずに、チェックアウトの際に、当のスタッフから「力になれずにスイマセン」みたいなことを言われた。その話はそれで終わり、つかの間の世間話を続けた。チェックアウト後にバリ島の別エリアに移動することを話すと、親切にそちら方面のオススメ情報を教えてくれ、型通りの挨拶をしてホテルを後にした。
次に向かったホテルはビーチエリアの老舗リゾート。アマングループとは関係のないホテルだ。のんびり過ごしていたある日、部屋の電話が鳴った。かけてきた相手は、アマンダリのフロントスタッフ。私のチェックアウト後も、帰国便変更の件で2日間ほど航空会社に確認を続けていたそうだ。これにはびっくり。チェックアウトの際、次に泊まるホテルをきちんと伝えておいた記憶もなかっただけに、気配りの凄さに心底驚き、「アマンの魔力」が垣間見えた。
今回の写真は、アマンダリではなく、バリ島東海岸にあるアマンキラのプール。水平線に飛び込むようなデザインは、その後のリゾートプールに多大な影響を与えた。
アマンキラは、海辺の絶景を上手に取り込む設計上、階段がやたらと多く、この点は正直減点要因。アマンダリとアマンキラしか知らない私がアマングループの何たるかを語るのは、ちょっとおこがましいが、もっと富豪になって、世界のアマンを渡り歩きたいものだ。
2007年11月6日火曜日
東南アジアの力
20年以上前から趣味で水中写真を撮っている。ダイビングをするには、やはり南国の暖かい海が最適。若い頃は冬の伊豆でも平気で潜ったが、最近は沖縄あたりでも真夏以外は寒くてイヤだ。
必然的に選ぶ旅先は南国になる。ハワイもよく行ったが、レストランで一応メニューの値段を気にするぐらいに物価が高いので、ついつい東南アジアに目が向く。
アマンリゾートをはじめとする高級路線が増えてきたとはいえ、まだまだ一流ホテルのスイートが日本円で3万円ぐらいで泊まれるし、飲食代においては、メニューの値段を気にしないレベルの店が圧倒的だ。
ダイビングの費用もプライベートチャーターをすれば、その安さが実感できる。沖縄あたりなら、ちょっとしたクルーザーに、他のダイビング客と混載され、水中でも現地ガイドの引率で、他のダイバーと一緒に潜らされ、1日2回潜って、2万円近くとられることも珍しくない。フィリピンあたりなら、場所によっては、同程度の料金で、小型の舟と船頭さんと水中ガイドをまるごとチャーターして1日中好きなだけ、自分のぺースで遊んでいられる。
このブログ、タイトルの割に、富豪っぽくない内容ばかりという批判を受けたが、今回もセコセコとお金の話を書いてしまった。
もちろん、コスト面の安さは大事だが、遊びという場面で、いかに富豪的見地に立てるかは大事だ。
さっきのダイビングの話だと、一般的な乗り合い型ダイビングは、団体観光バスツアーみたいな位置付けであり、チャーターベースは、文字通り、わがままオリジナルツアーということになる。
先進国の弊害のひとつが、レジャー産業の人間がサービス精神に乏しいことがあげられる。ダイビングの世界しかり、カリスマガイドとかなんとかいって自分の価値観を押しつけようとする勘違いちゃんが多い。そうではなくても、すごくビジネスライクな傾向が強く、東南アジアの人々から受ける奉仕の方が心地よい。チップが目的であっても、客を殿様気分にさせてくれる姿勢に感心する。
上手に彼らのホスピタリティを享受して過ごせば、アジアの旅はかなり快適。くだらないことばかり書いてある旅行ガイドブックだと、「空港で荷物を持ってくれるポーターはチップをしつこく要求するので要注意」みたいなことが書いてある。
バリ島あたりの空港では、長いフライトに疲れた到着したての日本人観光客が、汗だくになってスーツケースを運んでいる光景が普通だ。なかには、ポーターを物盗りを蹴散らすかのように追い払っている人もいる。
ターンテーブルから荷物を下ろすことに始まり、空港の外で迎えの車のトランクに積んでもらうことまでやってくれて、せいぜい数百円のチップだ。なかには、もっと寄こせと言ってくるものもいるが、放っておいて問題ない。
ポーターを使うことすら遠慮していたら、滞在中の行動も推して知るべしだろう。
「言ったもん勝ち」。リゾート、とくにアジアでは、これが極意だ。チップはつきものだが、それで快適さを買うと思えば安いもの。
タイ・バンコクから日本に帰国する際、深夜で疲れていたこともあり、空港まで手配したドライバーに、搭乗手続き、荷物検査、はたまた出国検査まで代わりにやってもらったことがある。日本円で1000円もしない金額のチップに心から感謝してくれて、こちらも気持ちよく帰国の途に就いた。こんな経験、アジアなら普通かも。
2007年11月5日月曜日
温泉旅館
先週末、仙台の秋保温泉に行ってきた。ところどころ紅葉も楽しめたし、お決まりの松島観光も好天に恵まれ、つかのまの命の洗濯になった(最近は、しょっちゅう命の洗濯をしている気がする)。
評判の高い「佐勘」という宿に連泊したため、好きなものを食べ歩けたのは、2回の昼飯のみ。2回とも寿司にしてみた。ランチのお決まりだけだと味気ないし、お決まりプラス好きなものをいくつか頼んでみた。
最初に行ったのは、仙台のお隣・塩竃の有名店「すし哲」の仙台支店。駅に隣接する複合ビル内の支店ということで、さほど期待しないでいたが、お決まりのレベルはさすが高水準。ところが、お好みで頼んだ「ぶどうえび」にびっくり。お会計のときに知った「一貫2千円」という強気のプライス。10貫ほど盛り込まれているお決まりの中で一番高いものが3800円だったから、ぶどうえびの別注(2貫分)だけでそれ以上。富豪でもちょっと驚いた!?。
次の日に行った塩竃市内の「丸長寿司」で頼んだぶどうえびの方が大ぶりで味も濃厚だったが、そちらは一貫800円。せいぜいそんなもんでしょう。今更ながら有名大型店の必然というか、有名大型店に成り上がっていく必然を学んだ気がする。
ところで両方のお店で共通していたのがマグロの美味しさ。塩竃は生マグロの水揚げが日本一だそうで、まっとうな店のマグロは、赤身はもちろん、トロが素晴らしかった。
個人的な好みで恐縮だが、あまりトロは好きではない。年齢とともに、しつこさが口に残る気がして、とくに大衆路線の店では敬遠している。
今回食べたトロは後味がスッキリしており、脂の旨みに加えて、マグロ特有の鉄分の味わいも感じられる逸品。いくつでも食べられそうなほど。旬を迎えつつある松島産生ガキの握りとともに印象的だった。
さて肝心のお宿「佐勘」。大箱旅館のわりに細かい点まで気が配られていて気持ちいいお宿という印象。風呂がいくつか点在して、湯めぐり気分を味わえるが、強いて言えばサウナがある場所が限定されており、そこだけがサウニストの私にとって不満。まあ不満がそんな程度だから、全体に高得点。
夕方、ロビーに数十人の中国人の団体が来ていたので、ぎょっとしたが、なぜだか大浴場では遭遇しなかったことが幸い?だった。それにしても、最近は大型旅館だとアジアからの団体を見ることが多くなった。まれにロシアから一団も見かける。
一時期、隠れ家系の小さな温泉宿ばかり行っていたので、気付かなかっただけかも知れないが、最近は大型旅館に目を向けることが多くなったため、随分と気になるようになった。
宿側も入浴マナーを教えるなどの努力をしているようだが、彼らの根本的な知識の乏しさは、日本人に不快に映ることは多く、いい評判は聞かない。まあ温泉というか温泉旅館という形式自体が日本の文化のようなものだから仕方ないか。どうしても抵抗感があるなら、個人客相手の小型旅館に行けばいいわけだし、これも時代の流れだろう。
「佐勘」に話を戻そう。一番感心したのがチェックアウトの時間。お昼の12時までOKなのはあまり例がない気がする。高級旅館なら11時アウトも珍しくないが、お昼までとなると、素直に宿の経営姿勢を賞賛したくなる。
10時チェックアウト、大浴場の利用は9時までなんていう宿は、サービス業精神のかけらも感じられない。評価の高い宿は総じて、チェックアウトの時間に余裕があることと、大浴場にタオルがふんだんに置いてあること。この2点が共通している。要は客をせかせかさせない、みみっちい思いをさせない。この2点が徹底されていれば、ほぼ間違いなく快適な時間が過ごせる。
2007年11月2日金曜日
NOVAの社長室
語学学校NOVAの創業者である猿橋前社長が使っていた豪華社長室が何かとマスコミを騒がせている。高級酒を揃えたバーカウンター、ベッドルームやサウナもあり、豪華ホテルのスイートのような作りだ。
さて、この社長室を「けしからん」と見るか、「オッ、羨ましいね」と見るか、ここがオーナー経営者と従業員とのモノの見方の根本的な違いだ。
テレビや雑誌は、あくまで大衆の味方であり、お金持ちや成功者を「妬む視線」で取り上げる宿命にある。
マスコミが垂れ流す“情報”(あて報道とは言いたくない)を鵜呑みにする人々にとっては、アノ社長室は「悪」となる。
もちろん、あの会社が引き起こした授業料返還問題や労働問題自体は「悪」だが、成功した社長が豪華社長室を作ることは、決して悪ではない。
社長室の賃料が高額だったとか、豪華だったというステレオタイプの批判は、破綻した会社だから叩かれるのであって、業績好調の会社の社長室なら、どんどん豪華にすればいいと思う。
しっかり会議スペースを使い、豪華応接セットも実際に商談に使い、得意先や社内の慰労のためにバーコーナーを使い、頻繁に深夜まで業務をするのなら、風呂やベットがあったって問題ない。
上記のような実態があれば、税務署だって、その社長室の存在を問題視しきれないはずだ。
会社の規模や、売上げ、経常利益、納税実績等々から考えて、社用としての機能を立証できるなら、大衆的視線で豪華・高額に見える家賃だって、税務上、会社の損金(必要経費)になるのは当然だろう。
経営者の公私混同批判も相変わらず減らないが、非上場会社の場合なら、ある意味当然の思考であり、その部分こそが、中小同族会社のパワーでもある。
「会社は誰のもの?」。この命題に対するストレートな答えは「株主のもの」である。上場会社の場合と違い、非上場会社であれば、経営者イコール株主というスタイルが一般的であり、こうなれば「会社は俺のもの」という考えは当たり前の正論となる。
だいたい法律自体が中小同族会社を、通常の会社と区別している。税務上の各種差別的制度がその象徴。留保金金課税しかり、役員報酬の一部損金算入制限などいろいろある。
中小同族のオーナー企業は、公私混同が行われることを前提に、こうした制限なり規制を受けているわけだ。裏返せば、これらの洗礼を受けたうえでの行為は、やましいことではないという理屈も成り立つ。
サラリーマン向けではなく、経営者向けのメディアが常に頭を痛める問題がある。それは製作している人間自身が経営者ではないということ。致命的な欠陥だろう。
オーナー経営者の視線とそうでない人の視線の違いは、巷にあふれる巨大メディアの情報からは決して浮かび上がってこない
会社経営に携わる人間は、アノ社長室ぐらい立派な居場所を作りたいと誰もが考えている。ケシカラン的思考はそこにはない。
ちなみに朝のワイドショーでNOVAの社長室問題を取り上げていた「みのもんた」の表情がおかしかった。彼自身、親が興した水道メーター会社の現役社長であることは有名な話。
年金問題では怒りまくっていた彼の顔は、例の社長室問題では、ニヤニヤしていた時間が長い。「何してたんでしょうねー」とつぶやく表情は、どことなく、オーナー経営者の顔。私には彼の表情が「結構いい部屋作ってたんだねー、なかなか面白そうじゃない」と感心していたように見えてしかたなかった。
2007年11月1日木曜日
神楽坂の鮨とおばけ
東京で風情のある街といえば神楽坂。JR飯田橋駅から地下鉄神楽坂駅に向かう通りの左右に趣のある路地がいくつもあり、しっぽり系の店が並ぶ。
夜の路地はどこなく妖艶な感じが漂う。歴史のある街特有の気に満ちている。京都の祇園あたりもそうだが、花街としての歴史がある界隈は、どこか淋しげな気配がつきもの。
人通りがそこそこあっても、活気とはちょっと違う。妖気といったら大げさかも知れないがそんな感じ。逆にそうした「気」が、そぞろ歩きに非日常感をもたらす。
しょせん、私の神楽坂行きはアルコール摂取が最大の目的である。考えてみれば、酩酊、すなわち酔っぱらうこと自体が魔界をさまようようなもの。妖気に浸りながら魔界をさまようのもオツなものだ。
寿司屋を中心に和食系の店をアレコレ覗いてきたなかで、印象深かったのが、とある路地を入っていった雑居ビル2階にある寿司屋でのこと。店構えと控えめな看板に惹かれて、常連で混雑しそうな時間を避けようと早い時間を狙って、のれんをくぐってみた。店内の感じもイメージ通り。一歩踏みいると人あたりの良さそうな大将と顔があった。ところが意外な展開。
「ウチはどなたかのご紹介でないと・・・」。
いわゆる“一見さんお断り”だという。ただ、その物言いが、実に丁寧で感じよく、私も妙に納得してしまった。丁寧といっても、慇懃無礼な感じだったら、気まずさついでに腹を立てたかも知れないが、なぜかその時は不快な感じがしなかった。
誤解のないように言えば、その日の私は、身なりが悪かったわけでなく、もちろん、間違えて高級店に迷い込んでしまった若者という年齢でもない。あえて言えば、“しっかり高いお勘定を請求しても良さそうな気配の客”だったはず。そんなことお構いなしに仲間に入れてもらえなかった私の感想は「神楽坂おそるべし!」。
もちろん、これは特異なケースだ。普通は、パっと見、敷居が高そうな店でも、居心地のいい店が多い。名店と呼べるレベルにある「よね山」という寿司屋もそのひとつ。
ビルの奥まった場所に入口があり、店の様子が外から見えない。それだけで構えてしまうが、入ってしまえば、ごく普通の空間。私が何度か行った時は、少し乱雑気味に感じたぐらいで、妙に凛とし過ぎていない分、居心地は悪くない。
基本的に食べ物はおまかせ。本来、おまかせというスタイルが嫌いな私だが、「肴中心で」もしくは「握り中心で」程度のリクエストをしておけば、こちらの様子に合わせて満足させてくれる。
お勘定は銀座並み。それに見合った内容なので問題なし。
ある料理屋さんで教わった不思議なクラブの話を書いておく。銀座じゃあるまいし、若者相手の大衆キャバクラかと心配して行ってみたクラブだ。
路地の外れ、ほとんど住宅街にあったその店は、古い町家風の一軒家にあった。
外構えとうって変わって、店内は妙に重厚なヨーロッパ風の造作。店内の照明は極限まで絞られ、派手さの代わりに重さばかり感じる。結構お金もかかっていそうな感じで、40歳程度のママさんと若い女性が5名ほど働いていた。
神楽坂の路地と同じ特有の空気感が店にも漂う。妖艶より妖気という表現がまさに当てはまる。
雰囲気に呑まれたのか、女性陣と怪談話をしていたときの事。「あの辺に何か感じる」とママさんが一角を指さす。みんなで目を向けた瞬間、その周辺の照明が3つほど、一斉にバチッという音ともに切れた。
それからあの店には行かなくなった。もう数年前のこと。あまり賑わっていたのを見たことがなかったから、いまだに営業しているかは不明だ。
今になって思うと、訪ねるときはいつも酩酊気味だった。ひょっとすると、あのお店自体が魔界の幻だったのかもしれない。