2024年10月30日水曜日

オスの矜持

 

「禁欲的なことの押し付け」ほどタチの悪いものはない。SNSの普及がもたらしたヘンテコな監視社会が今の時代の特徴だ。人より楽しそうなヤツを見つけるとすぐに“歪んだケシカラン精神”がしゃしゃり出てきてバッシングを始める。

 

先日このブログでも書いたが、政治家が鰻弁当を食べたことをSNSに投稿しただけで炎上しちゃうわけだから薄気味悪い話である。“歪んだケシカラン精神”は単なるヒガミ根性とも言える。

 

禁欲は美徳みたいな感覚は社会に根強くはびこっている。清貧こそ崇高なものという理念は総論としてはアリだが、そこから外れたからといってそれを短絡的に悪だと決めつけるようだとトンチンカンだ。

 

なんだか難しい話になりそうだから軌道修正。今日は単に「好き勝手に生きてみたい」という話を書く。

 

江戸時代の健康押し売り書「養生訓」の影響もあってか、禁欲を中心にした生活が長寿の秘訣みたいに思われている。しかし、禁欲の効果ははたしてどれほどのものだろう。正直言って怪しいものだと思う。

 

「酒もタバコも女もやらず百まで生きた馬鹿がいる」という有名な都々逸があるが、禁欲して長生き出来ても何が楽しいのか甚だ疑問だ。私の周りを見回しても好き勝手に人生を謳歌している人は案外長生きしている。そんなもんだろう。

 

好きなものを楽しく食べたほうがストイックな食生活に励むよりも健康でいられる。当たり前のようなこんな話が昔より世間では一般化してきた。結構なことだと思う。

 

やれ油モノはダメ、揚げ物は控えろ、闇雲に野菜を食え、しまいには外食ばかりじゃダメだ等々、世の中の「禁欲派」はロクに根拠も知らぬまま得意になって私のような「フシダラ派」を非難する。

 

食べ物の話だけではない。とかく世の中では「いい歳して…」という枕コトバを使って大人から活力を奪おうとする。これも一種の禁欲の押し受けであり、根っこには“歪んだケシカラン精神”、すなわちヒガミ根性があるのだと思う。

 

有名人の不倫を異常なまでにバッシングするのだって「あいつ、ウマいことやりやがって」というネタミみたいな感覚が隠れているのだろう。モテない自分、勇気のない自分を認めたくないから正義感ぶって他人の行動に散々文句をつけて溜飲を下げる。ちょっと言い過ぎかもしれないがそんな一面もあると感じる。

 

何歳になろうと男はオスだからスケベ心はいつまでも消えない。でもそんな当たり前の生理現象でさえ「いい歳してバカじゃないか」と責められる。

 

責めるほうがバカだと私は思う。でも、世間では禁欲派がさも正統派かのように振る舞うから、多くの中高年男性、はたまた老年男性がショボンとして暮らしている。

 



これでは社会から活気が失われるのも当然だ。若者は放っておいても元気だが、中高年以降は意識して元気でいようと思わないと簡単に干からびる。オスとしての本能を適度に刺激することはイキイキと暮らすためには非常に大事だと痛感する。

 

そもそも男女のまぐわいを生殖活動以外の快楽として面白がるのは人間だけだ。いわば特殊能力である。だから生殖適齢期を終えても発情し続けるわけだ。歳を取ったからといってそれを闇雲に抑圧しようというのは自然の摂理に反する間違った考えだという見方もできる。

 

セックスを快楽として受け入れてきたから変態プレイに興奮するのも人間の特徴だ。コスプレに興奮したり、拘束プレイにムホムホできるようになったのは大脳が異常に発達したおかげだ。セックスを生殖活動に留まらず快楽目的のレジャーに発展させた生き物は地球上で人間しかいない。

 

生殖適齢期を過ぎても欲求が消えないのが人間だから、オジイチャンがバニーガールの格好をした女の子と拘束プレイを楽しみたいと考えても異常なことではないわけだ。それをオモテに出さないのは世間にはひこる禁欲同調圧力のせいでしかない。いわば単に我慢しているだけだ。

 

とかく健康のために大事なのは「我慢しないこと」だと言われる。我慢はすなわちストレスである。だから健康で長生きするためにはエロに対する我慢も時には発散したほうが良いという理屈になる。

 


 

それなりの年齢になると「子どもの手前…、孫の手前…」等々、エロなんて無縁だみたいな態度をしがちだ。それもある程度は社会秩序のため?に必要だが、人様に迷惑をかけない範囲で“解放”することも大事だと思う。

 

秘密結社じゃないが、オッサン同士、オジイチャン同士で集まってエロ動画鑑賞会を企画するとか、勇気を出して同好の士を集めて風俗店を利用するとか、程度はどうあれ、エロを封印せずに暮らしていくような心掛けはあって然るべきだと思う。

 

世の中、高齢者だらけになってきた。男はいつまでもオスであるという現実をもっとオモテに出すような社会運動?は必ず必要になってくると思う。

 

還暦も近づいてきたのに相変わらず煩悩の塊みたいな私自身を正当化するような話に終止してしまった。

 

いずれにせよ、「いい歳して…」みたいな世間の禁欲的同調圧力には徹底抗戦して生きていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

2024年10月28日月曜日

ボケ

 ボケちゃったのか、今日の分を更新したつもりが忘れていたようなので過去ネタを一つ載せます。10年以上前に書いたネタです。最近はこの頃のように物事を熱く?書くことが減ってきたからちょっと反省してます。


富豪記者ブログ: 粋と野暮

2024年10月25日金曜日

薄気味悪い…

 

この週末は衆院選挙の投票日だ。自公連立がボロ負けするようだが、その後の連立の組み合わせは不透明だ。安定多数にあぐらをかいてきた自民党の増税一辺倒の姿勢が問われた格好だとも言える。

 

さて、選挙期間中は候補者たちがSNSを活用して投票を呼びかけることが一般的になったが、そこに飛び交うトンチンカンな批判や罵詈雑言を見ていると何だか空恐ろしい気持ちになる。

 

候補者の食事風景にいちいちイチャモンをつけるのも流行りみたいだ。実にバカげた話だと思う。立憲・枝野さんの牛丼屋での食事風景にも「豚汁まで頼んで贅沢だ」といった趣旨の批判が寄せられている。安倍晋三の学生時代に家庭教師をしていたことがウリ?の自民非公認・平沢さんにいたってはコンビニ弁当の食事風景がバッシングされた。

 



すなわち、今どきのコンビニ弁当は高級品だから充分に贅沢だといった批判だ。いやはやもうハチャメチャの八つ当たりみたいな話である。コンビニ弁当が高価だからと叩かれるなんて一昔前では考えられない話だろう。

 

もちろん、コンビニ弁当に手が出ない困窮層がいるのは分かるが、それを食べているヨソの人を叩く心理はちょっと不気味だ。コメント欄を眺めてみたのだが、「名も無いスーパーの冷たいおにぎりで充分」という具体的な提案?まであった。なんだかなあって感じだ。

 

政治家に清貧を求めるのは理解できるが、清貧の定義って謎だ。コンビニ弁当や牛丼屋まで否定されるわけだから意味不明である。

 

以前はれいわ新選組の山本太郎代表の鰻弁当を食べている投稿もさんざんバッシングされていた。普通に働いている人間なら鰻弁当ぐらい食べることもあると思うのだが、いったい政治家に何を求めているのだろう。

 

揚げ足取りに飽き足らず、他人の食事内容まで必要以上に監視して文句を書き殴る。それで溜飲を下げているのなら正直言って気持ち悪いとしかいいようがない。世の中から大らかさが無くなってきた象徴的な話にも思える。

 

別に枝野さんも平沢さんも、もちろん山本太郎代表にも個人的な思い入れは一切ない。むしろ苦手な面々といっても良い。それでもこういう異常な「イチャモンありき」の風潮は行き過ぎだと感じる。

 

政治家の清貧。これは原則論みたいな話ではあるが、全員が全員、名も無いスーパーの冷めたおにぎりを食べる人々だとしたらそれはそれで問題だろう。俗に「お大尽」という言葉があるが、ひとかどの成功者なら貧しいはずもなく高級料理も当然食べる。

 

変な言い方だが、スーパーの冷めたおにぎりばかり食べているようでは、外交の場の晩餐会などで恥ずかしい振る舞いをしちゃうかもしれないという見方だってできる。

 

まあ、政治家は叩きやすい対象だから誹謗中傷に近い言葉がネットに飛び交うのもある意味仕方がない。やたらめったらバッシングしたがる昨今の風潮にあっては一種の有名税みたいな話だろう。でも、それ以外の分野においても何でもかんでも罵詈雑言を浴びせかける今の社会の空気は「さもしい」というちょっと古めいた言葉を今更ながら思い起こさせる。

 

品性が下劣、心根が卑しいというのが「さもしい」の定義だが、ネット上で匿名という安全圏に身を置きながらその場の思いつきで他人を傷つける行為はまさにそれだ。

 

ここでそんな嘆き節を書き殴ったところでキリがない。でも、そろそろ現役世代から旧人類という段階に入る年齢の私としては、牛丼屋での食事やコンビニ弁当をブルジョワの自慢かのように受け止めて誹謗中傷する空気が薄気味悪くて仕方がない。

 



 

 

 

 

 


2024年10月23日水曜日

エネルギーをもらう


今年はやたらと野球にハマった年だった。これも「オジサンあるある」の一種だとしたらちょっとイヤだが、何かに熱中できることは幸せだから良しとしよう。

 

大谷翔平サマの活躍を見るために超重役出勤状態になったことも数知れずだ。まあ還暦近いベテランだから許してもらおうと思う。それだけでなく、人生初のナマ甲子園観戦にも出かけた。暑くて死にそうだったが真夏の甲子園で躍動する高校生を眺めた時間はとても楽しかった。

 

大学野球にも妙にハマった。東京六大学の春のリーグ戦をひょんなことで観戦して以来、ハツラツとプレーする学生のひたむきさに胸を打たれた感じである。

 

今年初めて観たのが東大戦だった。球場がガラガラだろうと見込んで出かけてみた。ほぼワンサイドゲームになる東大戦だから案の定、空席だらけでイニングごとにいろんな角度から楽しむために好き勝手に席を移動して楽しんだ。

 

その後の全日本大学選手権にも行った。聞いたことがなかった地方の大学野球部の奮戦ぶりに目を見張った。全国に26もの大学リーグがあると知って老後の趣味は各地への観戦旅行に決めた。秋のリーグ戦が終われば明治神宮大会が待っている。これまた楽しみである。

 

この秋の東京六大学のリーグ戦もまめに観戦している。時期的にドラフト候補生たちが最後のシーズンに気合を入れているから試合自体も面白い。春の甲子園より夏の甲子園のほうが盛り上がるのと同じで「引退」がかかっているからそのあたりのドラマも楽しめる。

 



大学野球の生観戦は学生応援席の盛り上がりを眺めることも楽しみの一つだ。ムサ苦しい学ラン姿の応援団の必死な感じ、それを横目に華やかに跳ね回るチアリーダー、吹奏楽部のはっちゃけた演奏ぶりは見応えがある。

 

年寄りくさい書き方になるが、あの応援席を眺めているだけで若いエネルギーを分けてもらっているような気持ちにさえなる。ほぼワンサイドで負ける東大だって応援席の面々は最後まで必死に頑張っている。

 

必死に勉強して東大にまで入って野球の応援に青春を賭けている若者ってなかなかのものだろう。チアリーダーや学ラン姿の硬派っぽい応援団員も案外大勢いるし、賢そうな顔付きの吹奏楽部の面々も弾けながら頑張っている。

 

絶対に勝てない試合展開でも声を枯らして応援する姿はかなり感動モノである。判官贔屓で東大のユニフォームを着て東大の応援タオルを振って一緒に応援したい気持ちになるが、さすがにそれは我慢している。

 

万一、近隣の席の人に「東大の何年卒ですか?」とか聞かれたら恥ずかしい以外の何モノでもない。「東大に憧れているヘンテコなオッサン」と思われたらシャクだ。

 

あくまで常に劣勢のチームを応援したいだけの気持ちなのだが、東大という看板が看板だけに大っぴらに応援できないのが残念だ。隠れキリシタンみたいなものかもしれない。

 

東大に限らず各大学の応援席ではそれぞれの校歌や応援歌がいろんなパターンで使われ実に賑やかだ。チアリーダーはアクロバチックな動きまで披露してくれるし、時代遅れ丸出しの学ランの男たちも必死に腕を振っている。

 




この歳になるとチアリーダーたちの躍動する姿が素直に清々しく格好良いものに見える。エロ盗撮するようなオタクみたいな心理ではなく、ハツラツとした若さが眩しく見えて一緒になって手拍子したくなる。

 

失礼な言い方になるが、ちょっと遠目に見ていると学生さんの顔立ちまでは分からないから皆さん可愛く見える。実際に熱中して頑張っている表情はきっと輝いているのだろう。

 

先日は、秋の優勝がかかった早稲田対明治の試合を観に行った。いつもより大勢の観客が詰めかけていた。確実に昭和のパ・リーグのプロ野球よりも混雑していた。

 


試合はどちらも譲らず延長線に突入。照明も点灯してナイター状態に。それにしても延長線の攻防が両校気合十分で見応えがあった。結果は4時間半もかかったのに引き分け。

 

14時頃にプレーボール。気持ち良い快晴の下での試合だったのだが、気づけば夕方から夜になり風が冷たくなって観ている側はやたらと寒いし肩は凝るしかなり疲れた。でも非常に楽しい時間だった。

 



明日はドラフト会議だ。今年私がナマ観戦した甲子園や大学野球で活躍した何人もの選手が上位指名候補に名を連ねている。プロに行って活躍できる保証は無い。でもその中から未来の侍JAPANメンバーが生まれるかもしれない。


アマチュア時代から観ていた選手が未来のWBCで活躍してくれたら…。そんなことを想像するだけで大いに興奮する。そんな観点から学生野球を観戦するのも面白いと思う。





2024年10月21日月曜日

劣化の話

 

「昔は良かった」みたいな話をすると年寄りの懐古趣味みたいで嫌われる。私もなるべくそんな路線に陥らないようにしているが、そうは言っても長く生きているといろんな分野の劣化が気になる。

 

日本の家電用品といえばめったに故障しないことで知られていた。現にわが家で愛用しているズボンプレッサーは45年も壊れずに活躍している。まあ、構造が単純だからだろうが、それにしても立派なものだと思う。

 

今の時代、スマホやパソコン関係などでは不具合が起きることがある種の当然として認識されている。フリーズするだの再起動すればいいだの、正常に作動しないことも当たり前になっている。

 

昔の家電と比べるのはピントがズレているかもしれないが、昭和世代としては「不具合が普通」みたいな商品が平気で流通している今の世の中にちょっとイラつく。

 

と、これは前フリである。

 

劣化という意味で最近やたらと気になるのが「誤字脱字」である。テレビのテロップもそうだが、ネット上にあふれるニュース類のダメっぷりは「編集」を商売にしてきた立場からすると実にヒドい。びっくりするほど低レベルだ。下の画像はスマホで読んでいた記事の誤字をスクショして拡大したものだ。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

加熱と過熱、昨日と機能。単なる変換ミスだが、こんな初歩的な間違いが平然と世に出るのはシロウト仕事だろう。担当者は恥ずかしくないのだろうか。個人のブログだったら気にならないが、一応ニュース配信会社が管理しているメディアとしての発信記事である。

 

紙に印刷する媒体なら永遠に間違いが残ってしまうが、ネットならチョチョっと打ち直して修正可能だ。だから校正校閲に対する意識がまるで欠けているのだろう。

 

どんな分野だろうと、恥ずかしい失敗をすることで改善につながるが、ネット記事のシャバダバぶりを見ると間違えることを恥だと思っていないことがよく分かる。これってメディアにとっては自殺行為だ。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

       ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

変換ミスだけでなく純粋な間違いも目につく。書き手の能力なのかチェック機能が働いていないのか、そのいずれも当てはまるのだろう。

 

私が若い頃はまだ原稿を手書きで作成していたから印刷工場の担当者が打ち直す作業が必要だった。当然、人のすることだからミスも起きる。どんなに良い原稿が書けても誤字脱字が一箇所あればその記事は0点だ。書き手としてのチェックはもちろん、校正担当者も鬼のような目で間違いを探していた。

 

当時の紙媒体の世界では、他紙や他誌の「お詫び」欄をこぞってチェックするのがならわしだった。恥ずかしいミスをバカにすることで自分たちの戒めにしていた。だから昭和の新聞や雑誌に単純な誤字を見つけるケースは非常に稀だった。

 

一般的な紙媒体だけでなくエロ本だって同じだった。一般誌より誤字脱字を見つけることは多かったが、そっち業界でも名のある出版社が発行元のエロ本だと校正校閲がしっかりしていた。若い頃はそんな観点から贔屓のエロ本を決めていた。

 

誤字誤植を強烈に恥だと感じることは記者や編集者の最低限のプライドだろう。誤字のまま記事が世に出ることはちょっとした誤報と同じぐらいの恥だった。

 

編集という分野に限らず、どの分野の仕事にもミスを猛烈に恥ずかしく思う極めて日本的な「恥の文化」が浸透していた証だろう。ちょっと説教臭くなってしまうが、今の時代は「恥」の概念が変わってきてしまったのかもしれない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー ー


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 とかなんとかエラそうなことを書いているが、このブログも誤字脱字はしょっちゅうである。商業媒体ではない個人の雑文日記だから仕方ないと自分を甘やかしている。反省しないといけない。でもこのブログに誤字があるといつ某友人が朝一番で教えてくれる。有難いことだ。

 

今では、その友人が誤字を見つけず私自身がアップ後しばらく経ってからミスを見つけると「ちゃんと校正してくれ」とわざわざ筋違いの文句をつけるほどだ。彼としてはいい迷惑だろうが、私としては彼を「富豪記者ブログ担当校正部長」だと勝手に認識しているので今後も頑張っていただきたい。

 

その友人もラーメン専用のブログを長年書き続けているのだが、ヤツのヨタ記事?にはいつも誤字が見当たらない。きっとネット上にアップする前に真剣に校正作業に励んでいるのだろう。私も見習わないといけない。

 

なんだかヘンテコな結論になってしまった。

 

 

 

 

 

2024年10月18日金曜日

歴史モノ


オジサンになると歴史が好きになる。そんな認識が世間では一般的だ。若い頃より歴史に興味が湧く人は多い。私もそんな一人である。

 

もっとも、私の場合は子供の頃からプチ歴史好きだった。小学生の頃に親にせがんで忠臣蔵を偲ぶために赤穂まで連れて行ってもらったり源義経物語を夢中になって読んだりしていた。

 

一応、歴史好きとしてのキャリアは長いのだが、プチで留まっていたから詳しい人と議論を白熱させるほどの知識はない。もっと真剣に学んでいればいっぱしの歴史オタクになれていたかと思うと残念だ。今からでも生涯学習講座に通ってみようかとちょっと本気で考えている。

 

ところで、中高年になると歴史が好きになるのはナゼだろう。おそらく自分の残り時間が少なくなっていることと関係している気がする。どんな凄い人やどんな偉業もすべては過去のことだ。とはいえ、現在にもその影響は残っているから継続性という意味で自分の人生も悠久の歴史の一部に過ぎないと感じることが理由だと思う。

 

自分で書いておいて何を言っているのかよく分からなくなってきた。平たく言えば今現在も歴史の流れの一部であって、どういう経緯で「今」につながってきたかを自分の人生とひっくるめて考察することが楽しくなってくるのだと思う。

 

自分の人生に意味を見出すみたいな大げさな話ではなく単に「つながっている」という事実を面白く感じているわけだ。だから大半の人が日本の歴史に興味を持つ。私自身もヨソの国の歴史にはちっとも興味がわかない。

 

自分の生まれ育った場所、いま住んでいる場所、旅先に選んだ場所それぞれの場所に関して歴史的なエピソードを見聞きすることに浪漫を感じる。旅先で城を必ず見たくなるのもその時代を想像することが面白いからだろう。

 



 暇つぶしに本屋さんに行くと条件反射のように歴史コーナーに足が向く。古代史とか平安朝とか極端に古い時代には興味がないのだが、それ以外は全部買いたくなってしまう。

 

一時期は戦国時代モノが好きだったが、その後、江戸時代の暮らしや風習みたいな分野に興味が湧くようになった。自分が凡人だから偉人の一代記より普通の人の日常がどんな様子だったのかを知るほうが楽しい。

 

幕末や明治維新に関しては江戸っ子が田舎モノの軍門に下ったという点でちょっと敬遠していた。人物の相関関係が複雑で面倒だったのも理由だが、漠然とそっち系の本を読んだり、テレビの歴史モノを観ているうちに以前より興味が湧くようになった。大河ドラマで西郷さんや渋沢栄一を真面目に見ていたことも影響している。

 


 

最近読んだそっち系の本もなかなか面白かった。「岩倉使節団」と「西郷従道」を扱った新書だ。岩倉使節団といえばオールドパーを持ち帰ったことしか知らなかったのだが、考えてみれば一大スペクタル物みたいな話である。

 

革命政府の大幹部が国の作り方に悩んで大勢で内政を放っぽり出して先進国の実情を長期間調べに行った。随分と大胆な行動である。浦島太郎ばりに見るもの聞くことすべてに度肝を抜かれたはずだから面白くないはずがない。実際に面白かった。

 

お次は西郷従道だ。近代の歴史モノでよく見かける名前だが、今ひとつどんな働きをした人か分からなかった。西郷隆盛の弟なのに西南戦争の際には新政府側の中枢で兄と敵対し、その後は総理大臣に担がれそうになっても逆臣の弟であることを理由にあくまで脇役に徹した人である。

 



 新書を読んでみてふむふむと感心しながらかなり魅力的な人物だったことを知った。それこそ朝ドラや大河ドラマで主役に据えた物語を作ればかなり面白いと思う。

 

維新後の開明期を描いた映画やドラマは数々ある。現在NHKで再放送中の傑作「坂の上の雲」も非常に面白い。あれは当時の軍人さんが主役だが、激動の時代だったから主役にする人物次第ではいくらでも新たな傑作は生まれるはずだ。従来とちょっと違う視点からの物語として西郷従道さんをキーマンにしたら間違いなく傑作になりそうだ。

 

さてまとめに入ろう。

 

なんだかんだ言って歴史モノの本を楽しく読む時間は日常の厄介なヨモヤマ事を忘れさせてくれる。何か教訓を得ようとか、はたまた朝礼のスピーチ用の素材にしようとか、余計な邪念は抜きにしてボンヤリとその世界に没頭するのが一番である。単に「ふむふむ」とうなずければそれで充分だろう。

 

 

 

 

2024年10月16日水曜日

甘い生活

 

酒より甘味。ここ1,2年そんな路線になってきた。もちろん酒をやめたわけではないが、甘味に妙に惹かれる。


ほんの5年ぐらい前は朝からカレーや牛丼を嬉々として食べていたのだが、最近はドーナッツを前の日にわざわざ買って朝からコーヒーと一緒に味わうこともある。変われば変わるものである。

 



糖分のとり過ぎは疲れやすくなると言われるが、ご多分に漏れず私も疲れやすい。たぶん糖分過多のせいだ。でもやめられない。ウマい甘味は心を豊かにしてくれるし、モヤモヤした気持ちが一気に吹き飛ぶほど幸福感に包まれる。ちょっとぐらい疲れたって甘味は大事だ。

 

先日、銀座のクラブに行った際に土産として虎屋の最中詰め合わせをもらった。想像以上の美味しさに翌週もその店に顔を出してしまった。店側は別の土産を出してきたのだが、虎屋の最中じゃなきゃいらないとワガママを言って同じものを強奪して帰ってきた。

 

最中はもともとそんなに好きではない。コロモが喉の裏側に引っ付くような感じが苦手で敬遠しているのだが、虎屋の最中はそんな問題以前にアンコが美味しくて感激した。こしあん、つぶあん、白あんのどれも好みだった。

 

 

上野にあるどら焼きの名店「うさぎや」の最中も非常に美味しい。こちらもアンコが絶品でコロモが控えめな薄さなのが有難い。最中を敬遠していたのはきっと若い頃にダメダメな一品に遭遇したせいなのだろう。「ちゃんとしたヤツはウマい」という当たり前のことを今更ながら痛感する。

 

日常の買い物の大半をネットスーパーの宅配に依存しているのだが、ここでも甘味はついつい注文してしまう。どうでもいい感じの「すあま」を買ってはそのどうでもいい感じにナゼかホッとしたりする日々だ。

 

ネットスーパーに常備されている甘味などロクなものはないだろうという先入観があったのだが、なかなかどうして実際に頼むと結構ウマいものも多い。最近のお気に入りは「あわしま堂」の商品である。

 https://www.awashimado.co.jp/index.php

 

個人的には聞いたことがない会社だったのだが、ネットで調べたら愛媛に本拠がある結構な名門企業みたいだ。やたらと高級ブランド化しているメーカーの妙に高いまんじゅうなどよりは手軽な値段だ。私が使うネットスーパーやウーバーで宅配してくれるスーパーなどでやたらと目にするのがこの会社の商品だ。

 

ネットスーパーで買い物する際にはサイト内検索でわざわざこの会社名を入れてその時に置いてある商品を反射的に買ってしまう。たいていウマいのが嬉しい。我が日常のちょっとした喜びになっている。

 

この夏に感激したのが人気店「赤坂青野」の冷やし流し小豆羹」である。モチっとした水ようかんみたいな商品だ。抜群だった。季節限定なのが実に惜しい。この店では「冷やしみたらし」が大人気らしいのだが、個人的にはそっちよりウマいと思う。

 




 今の住まいは日本橋三越が近いので、デパ地下に行けば日本全国のウマい甘味が簡単に買える。これってかなりラッキーなことだろう。夏場もわが家の冷蔵庫には「たねや」の水ようかんを常備していた。

 

三越だけでなく日本橋界隈には各県のアンテナショップがいくつもある関係で散歩するたびについつい未知の甘味を買ってしまう。つくづく糖尿の家系ではないことに感謝しながら糖分まみれの日々を過ごしている。

 

先日は三重のアンテナショップに「赤福」が置いてあったので当然のように買った。新幹線に乗る時にしか買えないイメージがあったのだが、散歩中に手に入れたことにちょっと興奮した。こういう小さな喜びの積み重ねが楽しく生きる原動力になる。大げさな表現だが案外そういうものだと思う。

 



赤福を初めて食べたのは小学生の頃だろう。家族の誰かが土産で買ってきたのを食べて衝撃を受けた。今でも「ニッポンのこしあんの究極系」の一つだと感じる。日本茶とセットで味わってこそウマさが引き立つ。

 

朝から「コーヒーとドーナツ」を楽しみ、のんびりした時間には「あんことお茶」でホッコリする。つくづく飽食の時代に生きていることの幸せを痛感する。

 

考えてみれば高度成長期で国が豊かになってきた頃にモノゴコロがついて以来、昭和元禄だ、バブルだと続き、世界中のウマいものが集まる都心部で社会人生活を過ごしてきた。外食産業の隆盛から宅配メシの発達まで「食べる」ことに関して恵まれ過ぎた暮らしをほぼ60年にわたって続けている。

 

親ガチャだ、国ガチャだといった「◯☓ガチャ」という考え方からすれば非常にラッキーなタイミングで生きてきたことは確かだ。生まれるのがほんの数十年ズレていただけで全然違う状況だったはずだし、同じ時期に生まれたとしてもアフリカの奥地とかだったらこんな楽しみは皆無だった。ただただラッキーだ。

 

神に感謝である。

 

 

 

 

 

 

2024年10月11日金曜日

EMSの効き目

 

ちょっと風邪をひいたつもりが一週間以上も体調がすぐれなかった。これも加齢のせいなのだろうか。体調を崩すたびに悩んでしまうのが日頃まめに服用しているサプリなどの効果だ。

 

青汁やらビタミン類、クエン酸やらチアシードやら毎日いろんなものを摂取しているが、それが無意味なのか、はたまたそれらのおかげでこの程度の体調不良で済んだのか、答えのないテーマに悶々とする。

 

もっと言えば、最近は意識してコンビニ飯やカップ麺など怪しい食べ物を以前より制限するようになったのだが、はたしてそれも無意味だったのかと、再びそっちの道に戻りたくなったりする。

 

サプリ方面?に関してはかなりの健康オタクみたいな私だが、その実態は真面目に健康管理を考えているとは口が避けても言えない。なにしろまったく運動をしない。徒歩15分で職場に着くのに日々タクシーの世話になっている。スマホ内臓の万歩計の履歴をみると数百歩しか歩いていないという異常な数値の日も珍しくない。

 



 先日、仕方なく足の筋肉トレーニング用の機械を買ってみた。実際に足踏み運動をする器具を買おうかと思ったのだが、それも面倒だからいわゆるEMSのヤツにしてみた。電気で筋肉を刺激するやつだ。足踏みすらしない時点でやる気がない…。

 

こんなものに3万円も支払った。シャクだから一応ほぼ毎日使用している。足を乗せるだけだから努力のカケラもない。思った以上に筋肉がプルプルして効果がありそうな気もする。でも翌日以降にまったく筋肉痛にならないから実際に効き目があるのかは謎だ。

 

こういう器具で筋力アップを本当に実感した人がいるのだろうか。足を乗せるだけでなく太ももなどに巻くパッドも付いているのだが、これがピリピリしてやたらと痛い。感覚的にこっちのほうは確実に無意味なような気がしている。

 



これまで生きてきた中でジム通いをしたことは何度かある。一時期はまあまあマメに通ってみたのだが、どうしてもあれを面白いとは思えない。別に面白くなくても続く人は続くのだろうが、黙々と鍛えるだけのあの作業が退屈で仕方がない。

 

卓球やバトミントン、羽子板あたりなら相手との勝負を楽しんで汗ダラダラで倒れそうになるまで頑張れると思うが、勝ち負けもなく単に自分をイジメる作業なのが気に入らない。

 

以前、住まいのそばにバッティングセンターがあった時は炎天下でも数百球打ち込みに行くことがあった。鍛える、運動するという感覚ではなくジャストミートの快感を味わいたいという欲求のなせるワザだった。

 

還暦が近くなった今だってバッティングセンターが徒歩5分ぐらいの所にあるような住まいに引っ越せば運動不足解消は確実だと思う。

 

何年か前は毎朝ラジオ体操第一をフルパワーで連続2セットこなしていた。気づけばすっかりサボっている。今では月に2,3回やる程度だ。久しぶりにやってみるとフルパワーだと連続2セットが出来ない。ヤバい事態である。せめて週に4,5回は1セットだけでも忘れずにやろうと決意している。

 

気づけば50代最後の誕生日が過ぎた。ほんのちょっと前に50歳を迎えたばかりだと思っていたが、本当に時間の進み方が早くなった。

 

この10年、自分の中で少しでも進歩したことがあるのか真剣に考えてみたが皆無だった。このまま劣化が進むだけなのはさすがに怖い。とはいえ具体的にどうしようか何も考えていないのが私のダメなところだ。

 

いっそのこと結婚するとか、子供を作ってみるとか奇天烈な行動に走れば一気に風向きが変わるのだろうが、今更そんな面倒なことはお金をもらってもイヤだ。などとウジウジしている間にどんどん老化は進むのだろう。怖い怖い。

 

そんな私にとって希望の光は今年の初めに痛めた膝の調子がかなり良くなってきたことだ。チャリで大転倒して以来、もうすぐ9ヶ月になる。数ヶ月も続いた湿布生活もあまり効果はなく、夏にちょっと取り組んだストレッチが効いて以来少しづつ快方に向かっている。

 

一時期は小走りすら出来なくて難儀していたが、今は点滅する歩行者信号を前にしても諦めずに軽く突進することができるようになった。正座はまだ出来ないのだが、大転倒する前の状態を100とすると85ぐらいまでは回復した。

 

来月は毎年恒例のオヤジバンドライブが控えている。飛んだり跳ねたりしながら歌うことも出来そうだ。というわけで50代最後の1年も無事に乗り切りたいと思う。

 

 

 

 

 

2024年10月9日水曜日

学生野球と推し活の心理

 

米・メジャーリーグのポストシーズンでは日本人選手がバリバリ活躍している。昔の日本野球を知る昭和の人間からすれば夢のような話である。

 

野球を好きになって半世紀。長島の引退試合をテレビで見たあたりから野球少年になった。以来、週刊ベースボールを毎週熟読して王貞治物語みたいな伝記モノも読んだ。

 

当時、メジャーリーグといえば異次元の世界だった。漫画の名作「巨人の星」では誰も打てないような魔球を「大リーグボール」と名付けていたが、あのネーミング自体がアチラとの距離感を表していたのだと思う。

 

今のようにメジャーリーグ中継があったわけではないから、向こうの野球事情を知る由もなく少年の私は日本の野球に夢中だった。一番好きだったのは巨人の高田選手だった。

 

高田選手は私が野球好きになった頃には既にスター選手だった。そのせいか、なんとなく出遅れ感?は否めずに必死に若手選手や新人の中からお気に入りを探そうと頑張り、淡口選手なんかをマークしたのだが、結局は高田選手のカッコ良さにしびれていた。

 

その後、一からその選手が成長していく姿を見るのが楽しくなった。アマ時代から見ていた選手がプロで大活躍するのはストーリーとして面白い。アマのスターからプロでもスターになる選手、名前ばかり先行してプロでは大成しない選手など、一種の人生劇場みたいに眺めていた。

 

アマ時代からその後の成長を時系列で見られた最初の選手が原辰徳だったと思う。東海大相模で甲子園に出場、大人気になり、その後は東海大でも活躍して、確か神宮大会では法政の江川からホームランを打った記憶がある。その後、巨人に入って高田選手の後任として背番号8を背負い、最後は日本代表監督にまで上り詰めた。昔から見ていた側としては感慨深い。

 

私の子供時代に甲子園で活躍した選手のことはずいぶんと記憶している。初期のPL旋風当時の西田・木戸のバッテリーは揃って法政に進みお互いプロでも活躍した。あの頃の法政には広島で活躍する小早川もいて常勝チームだった。

 

プロ野球選手になるという子供の頃の夢はこの頃にはまるで無謀な戯言だと実感するようになっていた。牛島・香川の浪商バッテリー、報徳・金村投手、横浜・愛甲投手などのふてぶてしい感じにおののき、早実・荒木大輔のキレっキレぶりに畏怖を覚えた。

 

それぞれその後はプロでそれなりに活躍したわけだからたいしたものだと思う。当時、甲子園を騒がせた有名選手でも長崎海星のサッシーこと酒井投手、横浜商業のジャンボ宮城投手などプロでは活躍できなかった選手も大勢いた。一軍でレギュラーになっただけで凄いことだと思う。

 

その後、池田高校の水野や清原、桑田、その後の立浪などのPL勢など高校生時代を見ていた選手がプロでスターダムに登っていく姿を見るのは楽しかった。もっと無名な選手でも選手名鑑などで「あー、あの時のアイツか」と知るのはちょっと変わった野球の楽しみ方としてオススメだ。

 

Wikipediaでは過去100回ほどの甲子園における試合詳細や主な出場選手が見られるからたまに暇つぶしに覗いている。

 



東京六大学は私自身が大学時代の頃に何度か観戦した。当時は早稲田が低迷しており、法政と明治が抜きん出て強かった記憶がある。法政では左腕・猪俣(阪神)がいつでも勝っていた記憶がある。明治では竹田(大洋)、広沢(ヤクルト)、福王(巨人)がバリバリで、立教には長嶋一茂、慶応ではプロ入りを拒否してサラリーマンの道を選んだ志村が奮闘していた。

 

こんな思い出話を書いていてもキリがないのだが、今年は夏の甲子園にも行き、六大学野球もマメに観戦しているので、今後プロに入って活躍する選手を“青田買い”みたいな気持ちで見ているのが楽しい。

 

夏の甲子園で印象に残ったのは花咲徳栄の石塚選手、健大高崎の箱山選手、早実の宇野選手あたりか。現地で双眼鏡を駆使して必死に観察してみたが、皆さん太ももが半端なくパンパンで高校生らしからぬ力強さがあった。未来の侍JAPAN戦士になってくれたら私の観察眼を世間に自慢できるから頑張ってほしい。

 


 

大学野球では明治の宗山選手がピカ一だろう。今年のドラフトでは一位指名の競合が確実視されている。獲得した球団は「向こう15年はショートに困らない」と言われるほどの逸材だ。

 

実際、何度も宗山選手のプレーをナマで見たが、素人目に見てもモノが違う。やや線の細さはあるが、走攻守すべてに無駄な動きがなく、変な表現だが打撃も守備も美しいという表現が的確だ。

 

先日の観戦中もカメラを向けたらいとも簡単にホームランを売った。無理に強振するわけでもなく美しいホームランだった。守備の巧みさもyoutubeに山ほど投稿されているので興味のある人はご覧いただきたい。

 


 

個人的には今年のドラフトでどこの球団に行くのかとても楽しみだ。次回のWBC、もしくはその次の大会では日本の中心選手になっていると思う。

 

日本全国城巡りとともに全国各地の学生野球観戦が私の老後の趣味の有力候補である。マメに観戦して次世代のスター選手を無名な段階で発掘してみるのは地下アイドルを必死に応援するオッサンたちの心理に似ている。一種の推し活だ。

 

 

 

 

 


2024年10月7日月曜日

お休み

 なんだか体調不良が続いて更新出来なかったので過去ネタを一つ載せます。



自分

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/03/blog-post_4.html





2024年10月4日金曜日

アーカイブ

 体調不良で更新が間に合わなかったので過去ネタを2つ載せます


ゆず・すだち問題

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/11/blog-post_6.html


私に電話してください

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html













2024年10月2日水曜日

粒立ちこそ

 

嗜好の変化は私にもある。野菜嫌いは相変わらずだが、中年になってから薬味として細かくなった野菜は好きになった。ネギ類やみょうがなんかもソーメンつゆにどっさり入れたくなる。

 

親の仇ぐらい嫌いなピーマンでさえ、ナポリタンにはちょこっと入っていて欲しい。昔はどんなに小さなピーマンでも上手に避けて食べたが、不思議と最近は必要不可欠に感じている。

 

今年は人生で初めてピーマンを買った。あんなものにお金を出す日が来るとは我ながら信じたくない。妙な敗北感さえ感じた。事件だと言えよう。

 

自宅でナポリタンを作るために仕方なく買ったのだが、ナポリタン以外にはまったく用は無い。ナポリタン完成後に残ったピーマンは速攻で捨てた。

 

嗜好の変化と言うにはちょっと大袈裟だが、歳とともにいろいろと好みは変わってくる。女性の好みだって同じ。昔はムチムチプリン派だったが、今ではスッキリした体型に魅力を感じるようになった。たぬき顔一辺倒だった好みにしても今では猫顔にも魅力を感じる。まあ、これについては「相手にしてもらえれば誰でも良くなった」というのが真相かもしれない。

 

話を戻す。

 

食事の基本である白米に関しては物心ついてからずっとブレずに「コワメシ」派だ。すなわち硬く炊いたご飯じゃないとダメだ。コメ界隈で良い意味で使われている「もっちり」という表現も私に言わせればウマそうには聞こえない。

 

大学生の夏休み、男女混合で友人の別荘に行った際、料理を担当した女子チームがコメの炊き加減を間違えたことがあった。水加減がまるで足りなかったせいでコメの芯が感じられるほどゴリゴリに炊きあがってしまった。

 

当然、失敗したコメには皆が手をつけず放置されていたのだが、私にはさほどヒドい出来には思えず一人むしゃむしゃと食べ続けた。すると女子チームが何を勘違いしたのか私のことを気配りのできる紳士だとやたらと褒めまくる。男チームは「モテようとして無理に食ってんだろ?」などと言う。

 

もちろん、どちらも不正解である。ビチャっとした柔らかいコメを食べさせられるより遥かにマジだから無心に頬張っていただけである。あの時ほど人間なんてしょせん分かり会えない存在だと感じたことはない。

 



先日、自作した挽き肉炒めメシである。硬く炊いたコメが主役だ。挽き肉とみじん切りのタマネギ、マッシュルームを加えて、塩コショウ、粉末コンソメ、ウスターソースで仕上げた。

 

チャーハンなど炒めメシ系はとにかくコメが粒立った感じじゃないとそれだけで失格だと思う。もっちりしているようでは油や具材の水分と混ざってビチャっとしてしまう。

 

時々無性にチャーハンが食べたくなって行き当たりばったりに町中華の店やカジュアルな中華料理店に入るのだが、粒立ちパラパラチャーハンに遭遇するのは34回に1回ぐらいだ。しっとりチャーハンなる言葉もあるようだが、個人的にはその名称自体が論理破綻だと思う。

 

高級中華料理店では感心するほどパラパラに仕上げたチャーハンが出てくることがあるが、あれはあれで上品すぎるきらいがある。町中華的なジャンクな気配を漂わせながら粒立ち感が際立つチャーハンに出会いたいのだが、なかなか難しい。

 



もちろん、炒めメシに限らず、普通の白米だって鰻重のご飯やドンブリモノのご飯も粒立っていて欲しい。寿司も然り。ウナギや寿司の店で柔らかいコメに当たると心の中で罵詈雑言を叫んでいる。何だかとても損した気分にもなる。

 

世の中、私が思っているほどコメの炊き加減にこだわっている人は少ない。もちろん、偏屈なこだわりなど持たないほうが平和で済むのだが、日本人の食事においてコメは基本中の基本、一丁目一番地である。多少なりとも自分が幸せを感じるような炊き加減にこだわりたい。

 



わが家の炊飯器にはあらかじめ主要な米の銘柄が数十種類登録されていて、それぞれのコメの特徴に合わせて炊きあがりを調整する機能がついている。そう書くとさも立派だが、いろいろ試したがたいして違いを感じたことはなかった。

 

結局、今は山形の「つや姫」から派生して人気銘柄になった「雪若丸」の無洗米を最も簡単な「早炊きモード」に設定して炊くのが私のド定番になった。

 

水加減は2合のコメに対して1.67ぐらいの目盛りに合わせると実に幸せな粒立ち感に仕上がる。もちろん、炊飯器のクセ、コメとの相性によってどこの家にも当てはまるものではない。ただ、自分なりのパターンを確立しておけば毎回炊き加減に一喜一憂しないで済む利点はある。

 

あれこれと書き連ねたが、読み返してみると何だか自分が偏屈な神経質オヤジみたいに感じる。もっとおおらかにテキトーに暮らしていかないと老後が厄介なことになりそうだ。