2024年8月30日金曜日

ソースだよソース


ソースか、醤油か。アチコチで論争が繰り返されているテーマである。主なところではアジフライや目玉焼きあたりだろうか。私は断然ソース派だから問答無用でソースで食べる。

 

ウスター、中濃それぞれ大好きだ。揚げ物に合わせるとんかつソースは世界に誇る日本の魂みたいだと感じる。

 

ソースマンである私は海外旅行に行く際は中濃ソースの小型ボトルを持参する。どこの国に行こうが揚げ物には遭遇するからそこにソースを加えるとマズいものもウマくなる。

 

目玉焼きにソーセージやハムも世界共通で用意されているからソースさえあれば私にとって平和な日常が維持できる。

 



大型スーパーに行くとウスターソースだけでも結構な種類が並んでいる。いろいろ試してみたが、結局は「スーパープレミアムソース」という大げさな名前の商品が私のお気に入りだ。

 

私が朝飯によく作るのが「目玉焼き混ぜ混ぜご飯」である。油を少し多めにひいて目玉焼きを作り、熱々ご飯に混ぜ合わせてソースを掛けてかっこむ逸品である。

 

油とウスターソースの融合ほどエロティックな味わいはない。それが硬めに炊いたアツアツご飯と混ざるわけだから簡単にして最高の一食になる。

 

目玉焼きに関しては想像以上にソース派は分が悪い。醤油派にケチャップ派、塩派などの勢いに押され気味だが、私が精魂込めて制作する「目玉焼き混ぜ混ぜご飯」を口にしたら他派閥の皆さんもきっと悔い改めると思う。

 

先日、テレビ番組でウマそうなエビフライにちょこっとだけタルタルソースを付けて食べているタレントさんがいた。タルタルソースとエビフライはもちろん鉄板の組み合わせだが、私はそこにソースも加える。主役を食ってしまう名脇役みたいに一気に味が広がる。

 

思えば揚げ物にはソースが絶対だろう。アジフライに多い醤油派の気持ちもわかるが、あれは頭の中で「魚にソースは合わないから醤油だ」という思い込みが原因だと睨んでいる。

 

冷静になって「これはレッキとした揚げ物だぞ」と気づけばソースのほうが好ましく感じるはずだ。たぶんそう思う。違ったらごめんなさい。個人的な意見の押し付けです。

 

時々、トンカツに醤油をかける人がいる。申しわけないがそんな変態的行為は私から半径10メートルぐらい離れた場所でやってほしいと思う。醤油トンカツ派の人々はいったい何をきっかけにそんなスペクタルな?世界に行ってしまったのか多いに気になる。

 

私が洋食屋さんを好きな理由もソース天国だからかもしれない。メンチカツだのクリームコロッケだのソースが大活躍する場面が多いのが嬉しい。高級路線の店だとクリームコロッケにデミソースや洒落たオリジナルソースがついてくることがあるが、私はそこにこっそりウスターソースを足しちゃったりすることもある。

 



この「ウスターソースちょいがけ」は案外いろんな場面で使えるワザだ。居酒屋のチャーシューエッグは焼き豚のタレ的な味付けになっていることが多いが、そこにソースを足すとウマさが倍増する。マカロニサラダにだってソースちょい足しを実践すると味が一段階アップする気がする。

 

なんならオムライスにも応用可能だ。オムライスといえばケチャップだ。ただ、ケチャップにもウマいマズいはある。単に酸味が強すぎるケチャップだと肝心のオムライスの味を落としてしまう。そういう時はケチャップに少しウスターソースを加えるだけで味が引き締まる。

 

この夏、甲子園に行ったついでに串カツ屋に行ったり、居酒屋で焼きそばを食べたり、球場でもたこ焼きやソバメシを嬉々として味わった。とかく「西の食べ物」にチャチャを入れて東京の味はこうでなきゃ、などと気取っている私だが、西のソース文化には素直に脱帽だ。

 

コテコテのああいう食べ物がソースではなく醤油味だったらと考えるだけでゾっとする。ベチャベチャベトベトとソースを塗りたくなる点では西のアノ振り切った感じが大好きだ。

 


友人にラーメン大好きな男がいる。ラーメン食べ歩きブログを1000回以上も更新しているツワモノだが、私がこういう話を書くと必ずといっていいほど謎の「ソースラーメン」とやらを勧めてくる。世の中にはそんなケッタイなラーメンを出す店はあるらしい。

 

興味がないわけではないが、私にとってソースはスープ的な存在ではない。あくまで「混ぜる」「染み込ませる」のが基本だと考える。まぜ麺、和え麺的なものならトライしてみたい。

 

ちなみに私にとって死ぬまでにもう一度食べたいソース関連の食べ物は「ソースだけビーフン」である。子供の頃に祖母がたまに自分用にちゃっちゃと作っていた謎の食べ物だ。

 

乾燥ビーフンを戻して、フライパンで炒めて最後にウスターソースをかけるだけの実にシャビーな一品だった。具も一切ナシでヘンテコ極まりなかったのだが、ナゼか抜群に美味しかった記憶がある。

 

大人になってから再現しようと何度トライしたのだが一度も美味しく出来たことがない。乾燥からの戻し加減か、塩コショウを入れるのか否か、はたまた炒める時間なのか、炒め油の問題か、それともソース自体のメーカーの違いなのか等々、いろいろ研究したが祖母が作った味には程遠いマズいものしか出来なかった。

 

まさに幻の味である。いつかまたトライしようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年8月28日水曜日

隠語の奥深さ


ツイッター(現X)界隈でちょっと話題になっていた日本語の“言葉遊び”がある。その名も「#本来の意味が失われエロい使われ方の方がメジャーになった単語」というシリーズである。

 

文字通り意味が変わっっていった言葉をいろんな人が紹介している。なかなか面白い。いわば隠語みたいなものだろう。たとえば「本番」。これなんかスケベ男の脳裏にはソッチの意味しか浮かんでこない。

 

「駅弁」もアダルト動画の影響でいつのまにか体力自慢が好むヘンテコな体位の意味で知られるようになった。いまどきは駅で弁当売りを見かけないから若い人には情景が浮かんでくるのか不思議である。

 

アダルトビデオの省略語である「AV」もすっかり定着した。その昔、AVといえば「オーディオビジュアル」を表す言葉でしかなかったことが懐かしい。当時、オーディオ機器に詳しい人を「AVマニア」と呼んだが、今はそんな呼ばれ方をしたら恥ずかしいったらありゃしない話になる。

 

もっと文化的?なものとしては「花電車」という古典的な言葉がある。その昔、路面電車が主流だった頃、宣伝などのために花飾りで装飾した電車を指す言葉だった。その後、ストリップ業界の隠語に発展してエッチな言葉になった。

 

思えば「エッチ」という言葉もニッポン代表と呼べるほどポピュラーになった隠語である。元々は単なるアルファベットの一文字なのに今では多様化した意味で広まっている。

 

Wikipedia先生によると「変態」のローマ字表記の最初である「H」が起源だとか。ちなみに「エッチする」といった言い回しがひろまったのは1980年代に明石家さんまや島田紳助が使い始めたからだそうだ。ふむふむ。

 

「菊の御紋」、「菊門」など菊の花もスケベ方面の隠語としては歴史が古い。菊の花のシワに似た形状から名付けられたわけだが、先人の言語センスの風流な感じにちょっと感心してしまう。「貝合せ」も似たような風流系だろう。

 

最近はあまり聞かなくなったが、夕立ちの朝バージョンである「朝立ち」に至っては気象用語のほうを知っている人が少数派かもしれない。いまやゲリラ豪雨だらけだから風雅な言葉の出番はない。

 

「観音様」「御開帳」あたりも昔からソッチ系の使い方が珍しくない。ただ、年配の人が好んで使うイメージがある。若い人だと通用しない可能性もある。まあ、拝みたい心理は古今東西同じだから今後も使われ続けるはずだ。

 

「聖水」。これまたよくもソッチ系の言葉に変化したものである。幼稚園から高校までキリスト教の学校に通ってミサを受けていた私からすると実に不謹慎に聞こえる。ウソです。

 

個人的に好きなのが「筆下ろし」である。何とも風雅な響きだ。ペンや鉛筆がなかった時代、貴重品だった筆を使い始めるのは気持ちも高鳴っただろう。細長い棒である筆に若造のソレをなぞらえたのはニクいセンスだと思う。

 

その他にも「モザイク」、「尺八」、「自家発電」、「二輪車」等々、本来の意味とはまったく別なセクシャル系隠語になっている言葉は数多い。大げさに言えば日本語の面白さだろう。

 

ついでだから隠語つながりで個人的な思い出を書く。若きの日のこと。いわゆる「肉体関係友達」の女性との間で行為のことを「転回」と呼んでいた。若かったから身体を縦横無尽に動かしていたせい?でそんな隠語を使うようになった。

 

別な友人といる時にもそのコには「後で転回するよ」と伝える。ヨソの人に悟られないように奥ゆかしく?ソッチの誘いに励んでいたわけだ。

 

ある日、かの有名な「アルファイン」に行ってみようという話になり、目的地を探しながらドライブ。まだカーナビがなかった頃だから迷ってしまいフラフラとクルマを走らせていた。

 

ようやくそれらしき場所を見つけて適当にUターンしたのだが、その途端パトカーが登場して停車させられた。道に迷ってしまったと釈明したがUターン禁止の道路だったようで警察官は許してくれない。

 

キップを切られるハメになったのだが、そこには警察官が手書きした文字で「転回禁止違反」と書かれているではないか。こっちは不謹慎ながら大爆笑である。これから励むつもりだった楽しい“転回”を警察に禁止されるとは思ってもいなかった。若かりし頃の楽しい思い出だ。

 

それからしばらくして「転回」という言葉は使わなくなった。近年では「試合」という呼び方を愛用?している。「試合会場に先乗りしてるからね」みたいな実に上品な使い方をしている。

 

バカですいません…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年8月26日月曜日

夏の終わりに


毎年8月も終わりに近づくと森山直太朗の「夏の終わり」を無性に聴きたくなる。実に素敵な歌だと思う。わけもなく泣きたくなる。


今日は更新が間に合わなかったので、晩夏の切なさについて考察?した過去ネタを載せます。


夏が終わる

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/09/blog-post.html







2024年8月23日金曜日

「チラ」の時間


相変わらず暑いし、このブログもネタ枯れの傾向にあるので今日は軽い話をする。「チラリズム」の考察である。パンチラ、胸チラなどの「チラ」である。

 

それにしても「パンチラ」という言葉は「ブラチラ」「胸チラ」といったその他の「チラ」に比べて実に完成度の高い?言葉だと思う。語感の良さが秀逸だ。そのくせ全国民に理解され、かつ男性陣の心を踊らせる魔力を持っているのが凄い。

 


このブログで10年近く前にパンチラ問題を哲学的に深く高尚?に考察した話を載せたことがある。チラリズムの語源についてもそこに書いたのだが、今は懐かしき浅香光代先生がきっかけになって生まれた造語だという。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/12/blog-post_7.html

 

戦後間もない頃に流行した女剣劇の立ち回りの際にチラリと見える太もものエロさを見た新聞記者が作った言葉だそうだ。名もなきその記者さんの卓越したセンスに脱帽である。その後にパンツ、パンティーと合体して「パンチラ」に昇華させた人のセンスにも感服である。

 

Wikipediaでチラリズムを調べてみたら、その定義の大げさな書き方にちょっと感動した。いわく「全裸や性器の露出といった直接的な性的アプローチではなく、時間的もしくは空間的な制約の中で、偶発的に目に入る下着や素肌などが醸し出す淡い色気の方に興奮する性的嗜好を指す」である。

 

なんともまあ学術的な言い回しである。「パンチラだ!ウェ~い!」などと軽々しく叫んでいる自分を反省したくなる。Wikipediaの解説からすると一種のフェティシズム的な要素であることも分かる。

 

まあ、興奮をもたらしてくれるなら個人的には何でもアリだが、チラリズムを楽しめるのも洋服を発明してくれた先人のおかげだ。猿やゴリラみたいに生まれたままの姿だったらチラ見せという概念自体が成り立たない。

 

何が書きたいのだろうか。暑さでおかしくなってきたのかもしれない。


考えてみれば「チラ見せ」は男女関係だけでなくあらゆる分野に存在する。広告の世界はちょっとづつ魅せるティーザーという手法が主流だし、ネットに溢れるリール動画やTikTokなんかもチラ見せコンテンツばかりである。


ちょっとだけ見せられることは人間の欲求をくすぐるのにはド定番な手法というわけである。

 



女性の目線からでもチラリズムの興奮は存在するらしい。男性のシャツの胸元から見える鎖骨に興奮するという話を実際に聞いたことがある。サッカー選手がゴールを決めた瞬間にユニフォームの上着を脱いで上半身裸になる瞬間に興奮するという女性もいた。世の中の嗜好は実にさまざまだと感じる。

 

男性の場合、女性からそういう目線で見られているという自覚はない。その時点で既に闘いに向けた準備としてダメである。女性の場合はチラリズムをあざとく“戦術”にするケースは多い。

 



以前、夜の世界の女性から聞いたのだが、髪をかきあげるついでにワキを見せつける、うなじをあえて見えるような姿勢になる等々、パンチラ作戦や胸チラ作戦だけでなくいろんなパターンで男性をメロメロにするためにチラ見せを利用するそうだ。大したもんだと思う。どんどんやっていただきたい。

 

私はいわゆるオッパイ星人ではない。お尻派である。夜の世界で胸元を強調された服で接客されれば嬉しそうな顔をするが、ボディコン的衣装のヒップラインのほうが断然ムホムホした気分になる。


その延長で太もものラインに魅せられる。だから短いスカートを着用した女性は大好きだ。隣り合わせに座ってもらうと感謝しかない。

 



麗しい女性といざ試合に発展した場合、ハダカになってしまえば「チラ」はもうどこにもない。「モロ」になってしまう。それはそれでハッピー満開ではあるが、どことなく寂しさもある。


思えば昔から私は「モロ」になる前段階の「チラ」の時間を不必要に長めにキープするように努めてきたような気がする。これも一種の性癖ってヤツなんだろうか。

 

今日はヒネりもトンチも結論も教訓も示唆になるような部分もまるで無い話に終始してしまった。暑さのせいということでご容赦願いたい。

 

まあ、こんな話をダラダラと書いていられることは日々の暮らしが平穏無事な証拠だから良しとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年8月21日水曜日

鰻屋さんのツマミ


夏が終わりに近づいていることを「松屋」と「なか卯」で知った。期間限定のウナギが終了していた。「吉野家」ではまだ用意されていたが、ファストフード屋のウナギが終わっちゃうと秋も近いわけだ。

 

いっぱしのウナギ通みたいな顔をして生きている私だが、今年は牛丼屋の鰻丼を結構食べる機会があった。数年前に比べて格段に美味しくなったので、老舗の鰻屋さんに通う一方で、ウーバーで気軽に寄り寄せてむさぼっていた。

 

牛丼屋のウナギを嬉々として食べるのは老舗の鰻屋さんに対する浮気みたいなものだが、これも私にとっての期間限定である。

 


 

専門店でウナギをじっくり味わう時は酒も一緒だ。鰻重に到達する前の時間こそが鰻屋さんで過ごす醍醐味だろう。だから私は昼時に鰻屋さんに入ることは基本的にない。夜専門だ。

 

名店と呼ばれる鰻屋さんの中には酒の肴になるようなメニューを用意していないところも少なくない。あれは興冷めだ。「ウチは飲み屋じゃないぞ」と力まれている感じがして嬉しくない。

 

ロクなツマミも無いまま小一時間黙って待ってろ、みたいな店には行きたくない。私語禁止のラーメン屋があるらしいが、それと同じだ。まるで理解不能である。

 

というわけで私がちょくちょく行く鰻屋さんのツマミの話を書いてみたい。一定水準以上の鰻屋さんともなればメインの鰻重で期待を裏切られることはあまりない。好みの違いはあるだろうが、大ハズレという心配はない。だからこそ気の利いたツマミがあるかないかが大事だと個人的には感じる。

 




日本橋本町にある「大江戸」。冒頭の画像のようにご飯がまるで見えない鰻重の存在を知って通うようになった店だが、今ではこのサイズだと食べきれない。実に残念だ。この店は肝心の鰻重も美味しいのにツマミ類もかなり充実している。それらを含めた総合点で私が大好きな店である。

 

あん肝山椒煮と子持ち昆布は欠かさず注文する。山椒煮という名称だが、実際には甘く濃いあん肝煮付けみたいなイメージだ。酒のアテに最高の一品だ。一年中食べられるのも有難い。

 

店名の通りで総じて一品料理の味が濃いのがこの店の特徴だろう。東京っぽい味と表現してもいい。子持ち昆布しかり。見るからに味が濃い雰囲気だが実際に濃い。そのしょっぱさで酒が進む。あん肝の甘さと子持ち昆布のしょっぱさが相まって至福の時間になるわけだ。

 

日本橋に引っ越したせいで「大江戸」も自宅から徒歩圏になったのだが、同じく徒歩圏にある渋い鰻屋さんが「喜代川」だ。兜町近くにある。建物自体も文化財らしい。こちらも季節ごとにニクいツマミを用意しているので、白焼きから鰻重という後半の流れに至る前にアレコレとつまんで気分を高める。

 





どこの店にもある「うざく」だが、この店のうざくは切り身も大きめで丁寧に仕上げられている感じが嬉しい。やっつけ仕事?みたいなうざくを出す店も多いが、この店で食べると別物に感じる。

 

肝の煮たやつもウマかったし、生ウニとじゅんさいの和えモノも良かった。主役のウナギにたどり着く前にサッパリ系のツマミでウォーミングアップするのも悪くない。

 

続いては築地にある「宮川本廛」だ。前に住んでいた家から歩いていける距離だったので時々通うようになり、今も近くにいるときにはつい寄ってしまう。ここも安定の味が楽しめる。

 


 この店では「お通し」と称する小鉢がいくつも用意されている。私が必ず注文するのがコハダの酢の物だ。これも後半になって食べるウナギとは対極みたいなサッパリさだが、うざくや肝串と一緒に並べて酒の肴にするとバランスが良い。

 



酒の品揃えが少ないのがこの店の弱点?だが、昔ほど冷酒の銘柄を気にしなくなったせいで何とか凌いで?いる。いつも300mlサイズの小瓶を頼んでボケっと飲むのが私のスタイルだ。

 

他にもいろいろな店でウマいツマミを味わった後にメインのウナギと向き合っている。年々、食べられる量が減ってきたせいでウナギの前段階で結構満足しちゃうことも増えた。

 


ウナギを入れた卵焼きの「う巻き」も食べたいのだが、あればかりはどこの店でも結構な量があるので一人メシの際には注文できないのがツラい。同行者がいたとしても白焼きやらその他のツマミを頼むとう巻きまで手が出ないことが多い。そんな時だけは誰よりも暴飲暴食に自身があった昔の自分に戻りたくなる。

 

まあ、何だかんだ言ってツマミ類や白焼きまで食べたうえで最後の鰻重も必ず完食するわけだから、まだまだ私の胃袋は元気である。

 

 

 

 

 

 

 

2024年8月19日月曜日

霊という存在


「霊の話」。そういう非科学的なことはバカバカしいと反応する人は多い。私だって「さっき幽霊を見ちゃったよ」などと言われたらバカじゃないのか?と受け流すだろう。

 

とはいえ、私には霊感的な要素が少しだけあるらしい。過去にそっち系の人から何度かそう言われた。変なものを見ちゃった経験はないが、さまざまな場所の「気」などにはちょっと過剰に反応する。

 

もともと誰にでもいわゆる第六感みたいな能力はあるそうだが、文明の発達によってどんどん退化して今に至るらしい。だとすると古代人はいろんなものを見てしまったり察知できたりしたはずだから現代人よりも何かと大変だっただろう。

 

霊的なものなどと書くとさも怪しげだが、日本人にとって霊とはごく日常的な存在とも言える。毎年815日に行われる全国戦没者追悼式を例にとっても「戦没者之霊」と大書きされた祭壇に向かって天皇陛下を始めとする列席者が深く哀悼の意を示す。「霊?、そんなものくだらない」などと簡単には言えないわけだ。

 

いっぱしのオトナがお化けだの幽霊だのと言うと何だかバカにされちゃうイメージがあるのも確かだが、個人的にはちょっぴりそっち系の話を信じている。世の中には山ほどあふれる怪談話だって一定数はきっとホントの話だと思っている。

 

この種の話は「宇宙人の話」と同じで全否定できないところがミソだろう。広大な宇宙に地球人しか生命体が存在しないとは考えにくい。地球人しかいないと考えるほうがある意味で異常だ。

 

幽霊系もしかり。実物に遭遇した人はそうそういないのだろうが、絶対にウソとは言い切れないような逸話は全世界にいくらでもある。肯定して考えたほうが何かと想像力が膨らんで楽しい?ような気もする。

 

今日は何が書きたかったのかよく分からなくなってしまったが、日本中が「霊的なもの」に影響されるお盆シーズンが終わったことで何となくそんな話を取り上げてみた。

 

ついでに10年近く前にこのテーマについてアーダコーダと書き綴った話を載せておきます。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/06/blog-post_3.html

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年8月16日金曜日

糖分バンザイ


日々ダルさが抜けない。加齢のせいか、夏バテのせいかと思っているのだが、もしかしたら糖分の摂り過ぎかもしれない。糖分過多はダルさの原因になるらしいからその可能性は充分にある。

 

糖質制限などまるで考えていないからコメも麺もバンバン食べている。それだけでなく甘いモノもガンガン食べてしまう。コンビニのサンドイッチやパスタなどの怪しい科学物質だらけの食品を避けるようになったのにコンビニスイーツは普通に食べてしまう。

 

帰宅ついでに近所のパン屋で翌朝用のパンを買うことがあるのだが、甘いパンばかり買ってしまう。ピーナッツクリームぶりぶりのコッペパンやメロンパンなんかを嬉々として食べる。

 

甘いパンを砂糖入りの珈琲とともに食べるわけだからダメダメだろう。遺伝的に糖尿の気配が無いから何も気にせずに甘いモノを摂取してしまう。

 



我が家の冷凍庫には練乳ミルクアイスのような甘ったるい商品が常備してあるし、サーティーワンの「ポッピングシャワー」も週に23回は食べてしまう。

 

それにしても甘いモノを手軽に食べられる時代で良かったと思う。生きている時代が数十年違っていれば砂糖は高級品で簡単には口にできなかった。江戸時代あたりなら砂糖は薬の一種だったらしいからそれを思えば天国みたいな話である。

 

先日行った甲子園でも観戦中に12回ぐらいかき氷を食べた。昔ながらのシロップがかかっただけのヘナチョコかき氷だったが、暑い陽射しの下で食べたから極上鰻重なみに美味しく感じた。

 

最近、ついつい食べたくなるのがドーナッツである。「ドーナツ」と書いたほうが今風か。ちょくちょく朝からウーバーを使ってスタバの珈琲を取り寄せるのだが、目当てはドーナツである。甘味のない珈琲と甘ったるいドーナツの組み合わせは最強だと思う。

 



スタバでは普通のシュガードーナツとミルクティー風味のドーナツが定番だが、それぞれ店舗で温めてもらった状態でデリバリーしてもらう。ぬるく温まったドーナツのまったり感がクセになってしまった。

 

といいいながら先日久しぶりに「ミスタードーナツ」をデリバリーで頼んであれこれ食べてみたら、スタバのドーナツはたいしてウマくないことに今更ながら気づいた。さすが専業メーカー?である。

 

ダウンタウンの浜ちゃんが不倫相手にミスドのドーナツをもらって泣いたらしいが、気配りに感激したわけではなく美味しさに感激したせいだろうと私は睨んでいる。

 



同居する娘に「こんなに頼んでバカじゃないの!?」と言われたのだが、気づけば二人で全部完食した。幸せだった。有難いことにミスドのラインナップにはグラタンパイやカレー味など甘くない商品もあるから交互に食べれば際限なく食べ続けることが出来てしまう。

 

別な日、ミスドより後発の「クリスピークリームドーナツ」をデリバリーで注文した。この時も9個も頼んでしまったのだが、娘が3つ食べて私が6個食べてアッという間に無くなってしまった。

 



どちらかといえばミスドのほうが好みだが、こちらもスタバよりはもちろんウマい。強いていえばこちらは甘いメニューしか無いのが残念だ。ミスドは甘くないラインナップを揃えるあたりがニクい。

 

発祥の地アメリカでは消滅したらしいが、受け継いだのが日本企業だけに今やニッポンの食文化の一翼を担うような有りようだと感じる。ちょっと大げさか。

 

いずれにせよ、私の味覚は「子供舌」を通り越して「異常甘味欲」になってしまっているようだ。おやつではなく食事としてこんなに甘いものを食べていたら間違いなく糖分過多だろう。

 

思えば子供の頃よりも甘いモノを積極的に食べるようになった気がする。我ながら不思議だ。いったい何が私をこんなにも甘いものに向かわせるのだろうか。何かの病気なのだろうか。謎である。

 

今の時期は水まんじゅうや水ようかんなど冷やし系あんこもマメに食べてしまう。インバウンド特需が賑やかな昨今、寿司、天ぷら、すき焼き、ラーメンなどだけでなく「あんこ」の美味しさも世界中に知られる日も近いと思う。

 

上質なこしあんは世界レベルでみても稀有な美味しさだと思う。そう遠くない未来には世界のどこを旅しても「和の甘味」に出会える日が来るのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

2024年8月14日水曜日

坊主頭、中川家、甲子園


野球少年だった頃、プロ野球選手にはなりたかったが甲子園に出たいとは思わなかった。その理由は坊主頭がイヤだったことである。なんとも軟弱な子供だった。

 

それから半世紀近くを経て初めて甲子園に行ってきた。仕事関係で世話になっている人を表敬訪問する予定があったから、そっちの用事をチャッチャと済ませて他の時間は野球観戦に明け暮れた。開会式から3日間観戦しまくってきた。

 

ちなみに多くの高校球児が坊主頭じゃなかったことにビミョーな気持ちになった。坊主頭はイヤなのにナゼか坊主頭のチームを応援していた。このあたりが私が既に「昔の人」であることの証である。

 

さてさて、ナマでみた開会式はなかなか壮観だった。千人ほどの球児が行進して例の「栄冠は君に輝く」が鳴り響く。数十年に渡ってテレビで見てきた光景が目の前で展開されている。かなり気分がアガった。選手宣誓にちょっとウルウルしそうになった。

 



 

最初の3日間は午前の部と夕方の部の2部制。私は帰京する日の午前の部までのすべてのチケットを「チケットぴあ」で頑張って入手した。発売初日に速攻で買った。プロ野球のチケットよりははるかに安価だからガンガン「大人買い」をしてみた。

 

球場の座席図とにらめっこしながら通路横の席を確保することにこだわった。ある時は1塁側、ある時は3塁側、はたまたある時は内野最上段に設けられたテーブル付きボックス席まで押さえてみた。いろんな角度から観戦できて楽しかった。

 

テレビ中継ではたいして映らないチームが入れ替えになる際のガチャガチャした感じやグランド整備の様子、試合前のノックの風景など試合以外の時間もみっちり観察してきた。ついでに言えば、智弁学園の試合でブラスバンドが響かせる魔曲「ジョックロック」をナマで聴けたのもラッキーだった。

 



なんといっても猛暑である。スタンドより地表温度が高いはずのグランドで躍動する高校生の勇姿に感心した。完投するピッチャーなんてもはやイジメの世界かもしれない。でも汗と陽射しこそ夏の甲子園である。私も冷感スプレーや冷感タオル、小型扇風機など対策グッズを持ち込んで頑張って観戦した。




 甲子園名物「かちわり」の有難さと有用性も身を持って経験した。首や後頭部を冷やしたり椅子と背中の間に挟んでみたり短パンや半袖からむき出しの足や腕に当てて冷やしてみたりマメに活用してみた。あれは甲子園観戦の必需品だろう。

 




球場グルメ?もあれこれ堪能した。牛すじ焼きそば、カレーに唐揚げ、牛すじ丼にタコ飯おにぎり、そばめし等々、コテコテ系を中心に面白がって食べてみた。シチュエーションのせいで全部ウマく感じた。人間の味覚なんてそんなものだろう。

 





 炎天下の昼に飲むのは熱中症が怖かったから夕方の試合ではしっかり生ビールやハイボール、サワー類を楽しんだ。必死に頑張る球児には悪いがのんびりと風を感じながら過ごす晩酌タイムは最高の時間だった。

 

ラジオを持っていったのも正解だった。イヤホンで中継を聞きながら観たほうが詳しく状況がわかる。個々の選手の特徴も把握できて、注目すべき選手の登場場面も見逃さずに試合に熱中できた。

 




野球好きになって半世紀。ちょっと大げさだが、死ぬまでにちゃんと「聖地」での熱闘をナマ観戦できたのは我が人生における一つのトピックだったと言えよう。

 

午前の部と夕方の部の空き時間も無駄にせずに動き回った。球場併設の「甲子園歴史館」もなかなか見応えがあって時間を忘れて展示品や昔の映像などに見入ってしまった。バンビ坂本、荒木大輔フィーバーなどリアルに記憶している出来事が既に「歴史」と化していることに我が身の加齢を実感した。

 






別な日の空き時間は阪急電車に乗って梅田経由で「なんばグランド花月」にも行ってみた。これもまた一種の聖地である。運の良いことに私が大好きな「中川家」が出演中でナマで爆笑漫才を見ることができた。ブラマヨなど有名漫才師も出ていたがやはり中川家は別格だ。円熟の域にあると思う。

 




朝から甲子園で熱戦を見て、昼間に串カツ屋で軽く一杯やってから中川家の漫才を見て、夕方からまた甲子園で酒を飲みながら野球観戦である。なんとも贅沢かつ充実した時間である。生粋の東京人にとっては極上の「コテコテ関西の旅」である。

 

ホテルも甲子園球場から徒歩3分の「ヒューイット甲子園」をかなり前から予約した。普段より高い値段設定だったようだが、人生初の甲子園体験だからケチってはいられない。午前の部と夕方の部の合間には部屋に戻ってシャワーを浴びてリフレッシュできたし、コスパをまるで無視した計画だったが結果的には正解だったと思う。

 




なんだか、すべてが抜かりなく、かつ順調に運んだので我ながら妙な充実感と達成感を味わえた34日だった。

 

 

 

 

 

2024年8月9日金曜日

Temuの世界


ネット通販の世界で旋風を巻き起こしているのが「Temu」だ。アメリカだか中国だかよく分からないネット通販サイトだが、なんでもかんでも安いことで爆発的にユーザー数を増やしているそうだ。

 



日本にも昨年から進出して一気に利用者が増えているようだが、怪しいサイトだ、危険なサイトだといった悪評もよく耳にする。そんなに悪質ならはたして世界中で人気を集められるものなのかと、不詳、私も会員登録して使い始めてみた。

 

謎に90%オフだとか無料提供だとか消費者心理をくすぐるポップアップが画面上に乱発されるのだが、そのあたりの仕組みが私にはまだよくわからない。でも出てくる商品が総じて安いからついつい見入ってしまう。

 

クレジットカード登録は何となく怖いから支払いにはPayPayを利用している。もう4,5回の買い物をしてみたが今のところ何も問題なく安物がたくさん届いている。

 

安物買いのナンチャラみたいな気もするが面白がっていろいろ買ってみた。バンドのライブに向けた衣装小物用のチョーカーみたいなヤツは250円。やたらと通気性の良い軽い散歩用のキャップは700円だった。“ゼニ失い”とまではいえないような一応問題なく使えるレベルの商品が届いた。

 



 何年も前に買ったフランス製某ブランドのベルトがヘタってきたので同じようなシンプルなデザインのベルトを探していたのだが、勇気を出して?「Temu」で見つけたベルトを買ってみた。900円だった。たぶんちゃんとした皮で出来ている。

 

愛用していたベルトに比べて20分の130分の1の値段である。どう考えたってロクなものは来ないのではと思っていたが、画像のように何も問題ないごく普通のしっかりしたベルトが届いた。

 

他にもやたらと涼しさを強調していたTシャツなんかも買ったが、すべて問題なし。なんだかキツネにつままれた感覚である。

 

物価高が騒がれるようになった今、こんな格安サイトが人気になるのも当然だと感じる。富豪を目指す私としては「Temuで嬉々として買い物をしちゃう自分」がちょっと残念なのだが、マトモな商品が安いなら使わない手はない。

 

富豪には程遠い感覚だが、数百円ぐらいの商品ならたとえ失敗してヘンテコなものが届いても腹が立たない。これって実物を見ないで買い物するネット通販にとってアドバンテージになるのだと思う。ハマってしまって不要なモノまで買いまくりそうでちょっと心配している。

 

ちなみに私は慢性的な“マクラ難民”である。毎年何回も新しいマクラを買ってはあーでもないこーでもないとウジウジしている。物置には10個ぐらいマクラが溜まってしまった。

 

で、「Temu」でもマクラを探してみたらアレコレ良さそうな商品がいっぱい出てくる。あまり安いのもきっとダメダメだろうから、このサイトにしては高級な?3千円ぐらいのマクラを4つも買ってしまった。

 

バカである。

 



以前から使っているマクラも1軍、2軍とお気に入り度によって分類しているが、新たに買った4つのマクラのうち2つが1軍メンバーになった。残りのうち一つは柔らかすぎて3軍、もう一つはサイズがデカ過ぎて2軍落ちである。

 

とりあえず半分が1軍入りしたわけだからまあまあ上等な結果だと思う。食料品のネットスーパーを含めてAmazonによって成り立っていた私の暮らしに新たな選択肢が加わったわけだ。

 

海外から発送される割には今までの注文はすべて1週間程度で予定通りに到着している。梱包状態もとくに問題はない。小物なのにデカい箱に梱包してくるAmazonのマヌケな感じよりマシかもしれない。

 

とはいえ、まだ値の張る商品に手を出していないから今の段階で褒めまくるのもどうかと思うが、少なくとも「どうでもいいような日用品」を買うならかなり使い勝手は良いと感じている。

 

ちなみにAmazonの注文履歴を遡ってチェックしてみたのだが、私が本格的に使い始めたのは2010年からだった。ほんの10年ちょっとである。今ではほぼすべての買い物をネットで済ませるようになった。今更ながら時代は刻々と変わっているのだなあなどと痛感した次第である。

 

 

 

 

 

 

 

2024年8月7日水曜日

継続

 

何だかんだで15年近く続いているのがバンド活動という趣味である。年に一度のライブのために春先から練習を始めて夏の終わり頃から真剣味が増す。秋風が吹く頃には慌てるのがいつものパターンである。

 


始めた頃はアコースティックギター2本とボーカルだけというシンプルな構成だったが、今では腕っこきメンバーが続々と参加してバリバリのフルバンドに進化した。

 

途中から加わってくれたメンバーの力量がかなりのレベルなので今や昔の面影がまったくないバンドになった。変わらないのは頼りのない私のボーカルだけである。総勢10名ほどの規模のバンドになったから全員が集まっての練習はなかなか難しい。録音した練習音源を共有して各自がしっかり仕上げている感じだ。

 

先日、ウチで練習音源を聴き直していたら横にいた娘が「バンドのレベルが格段に上がったのにボーカルのダメっぷりが昔のままだからバランスが最悪だ」と厳しいことを言ってきた。痛いところを突かれたような話である。

 

でも確かにそんなことはバンドメンバーは指摘してこない。皆さん優しいから諦めの境地なんだろう。娘の指摘は身内ならではの愛のムチともいえる。遅ればせながらボイトレをちゃんとやろうと決意したところである。

 

元々はアコースティックだけで爽やか?に演奏するスタイルだったが、今年の11月のライブではボンジョビまで演目に入れた。凄い進化である。


私をはじめとする基礎メンバーより10歳以上若いドラマーとパーカションの女性がそれはそれはグルーブ感?バリバリだからどんな曲でもサラっとこなしてくれる。

 

今年は個人的にハマショー師匠の某楽曲のコピーがイチ押しである。その昔、アコギ伴奏だけで披露したことがあったが、いま思えばちょっと無謀とも言える挑戦だったかもしれない。

 

「家路」というその曲はいわば壮大なスケール感をウリにする?系統の楽曲だ。肝になるピアノや卓越したドラムが不可欠である。先日のスタジオ練習で腕っこきメンバーがしっかり仕上げてきてくれた状態で歌ってみた。自分で歌っているクセに妙に感激してウルウルしそうになった。

 

この曲は私の人生の節目に寄り添ってくれた思い入れのある1曲だ。もう20年近く前だろうか、様々なネガティブ要素に襲われ大混乱になってウツウツ状態だった時に私を支え奮い立たせてくれた。そんな歌を高い技量のバンドをバックに歌うわけだから心が震えてしまう。

 

わがバンドは素人バンドにありがちなマスターベーション的選曲は避け、お客さんにとって耳馴染みがある楽曲のカバーを中心に構成している。そんな中、この曲だけはたいていの人が知らない一曲である。あえて私のワガママで演目に加えた。50代最後のライブだからある意味、これまでの活動の集大成的な位置づけで熱唱しようと思っている。

 

それ以外の演目は、ユーミンありブルーハーツあり、ジュリーあり、ゴダイゴ、RCサクセション、チャゲアスなどの人気曲がテンコ盛り?である。静かな曲も用意しているが割と賑やかなラインナップだ。


昨年のライブで「バブルガムブラザースのオリオリオリオー」と「ヒロミゴーのアチチの歌」で会場が予想以上の大盛りあがりになったことに気を良くして今年は割と元気いっぱいの曲を演目に加えている。




 

先日、わがバンドの基礎メンバー3人によるSNSのチャットをひょんなことから10年近く前まで遡って読み返してみた。中年男とは思えないアホバカ会話のオンパレードだった。とはいえ毎年ライブ直前のやり取りはかなり真面目に語り合っていて懐かしい気持ちになった。

 

印象的だったのは「還暦までは頑張ろう」という趣旨のやり取りを何度もしていたことだ。いよいよ来年は3人ともに還暦を迎える。あとちょっとで目指したところまで到達するわけだ。妙に感慨深い。

 

軽い気持ちで始めた試みが趣味といえるレベルになって十数年も続いたわけだ。やはり継続は力なりだと思う。コロナ禍で2年休んだ時には、このまま自然消滅しちゃうのかと心配もしたが、一昨年の復活ライブが成功して昨年も大盛況だった。もうしばらくは何とか続けられそうだ。

 

歌は喉が決め手、喉は筋肉である。放っておくとどんどん弱くなっていくのは自然の摂理だ。バンドメンバーの進化を続ける探究心に敬意を表して、私も喉筋肉の強化ぐらいの努力は怠ってはいけないと痛感する。

 

とはいえ、もう8月なのにまだボイトレ教室を決めきれていないあたりがシャバダバである。大いに反省しようと思う。



 

 

 

 

 

2024年8月5日月曜日

エンゲル…


エンゲル係数を気にせず暮らしていることは物凄く幸せなことだと思う。いや、贅沢の極みである。言うまでもなく生活費の中に占める食費の割合のことだが、キツキツにこの部分を気にせず済んでいることはひょっとすると中途半端な宝くじに当たるより幸運だろう。

 

そりゃあ少しは気にする。星付きの高級レストランに通うわけではない。一人5万もとるようなバカげた寿司屋にも行かない。とはいえ外食は厭わないし、それよりコスパが悪いウーバーイーツも週に何度も頼んでいる。

 

さっぽろ一番みたいな袋麺を食べる際には、量が少ないから必ず2袋茹でる。富豪みたいだ。今は食べるのを禁止中のコンビニメシだって一度に2個は食べていた。イマドキのコンビニメシは昔より高価になったから富豪みたいな行動だ。

 

例えがちっとも富豪ではないが、レトルトカレーだって高いヤツばかり買ってしまう。レトルトの傑作「カレーマルシェ」は350円ぐらいで買えるが、私の場合、カレーマルシェの上級バージョンをわざわざ買って悦にいっている。

 



このレトルトは600円オーバーだったからなかなかの値付けだ。10年ぐらい間にレトルトカレーをアチコチから取り寄せて自分好みの逸品を探す大研究に励んだことがあった。なかには13千円というスットコドッコイの商品もあった。

 

結論としては大手メーカーが出している高めのレトルトは総じてウマいという事実にたどり着いた。普通は2~300円も出せば買えるレトルトカレーだから600円オーバーぐらいだと間違いがない。

 

いわゆる御当地カレーは別だ。あれは総じて高いのだがマズいのも多い。2千円を超えるようなレトルトも何度か食べたがシックリこなかった。一概には言えないが多くが弱小メーカーゆえにスーパーで売っているような大手のレトルトのような値段設定が出来ないのだろう。

 

その点、流通に強みがあってコスト管理が徹底している大手メーカーが普通より2倍ぐらいの値段までつけて販売している商品はかなりの本気度を感じさせるものが多い。エスビー食品のフォンドボーディナーカレーシリーズのレトルトも高い値付けの上級バージョンはかなりウマい。

 

エンゲル係数という話の割には手軽なジャンルの食べ物ばかり書いている、手軽なジャンルだからこそ贅沢しちゃうという悪いクセからは抜けきれないみたいだ。

 



飲食店ではたいてい余計なものも頼んでしまう。一個で済ませればいいのに複数並べたくなる。ウマいとんかつ屋として何度かここでも紹介している築地の「はせ川」に行っても揚げ物以外に豚トロソテーみたいなニクいメニューを見つければ追加注文する。

 



牛丼屋でも必ず余計な注文をしてしまう。牛丼の特盛りを黙って食えばいいのにナゼか追加牛皿まで頼む。子どもの頃、並の牛丼の肉があまりに少なくて悲しかった思い出が今もトラウマになっているのだと思う。

 

牛皿とろろ定食みたいな小鉢もついている商品を注文する時でも条件反射のように牛皿を別途頼んでしまう。間違ってもおくらには手を付けないからその分が減ってしまうことがシャクで牛皿で穴埋めしている感じだ。

 



先日、バンド練習の後の飲み会を経て神保町の笠岡ラーメンの店に突撃した。たいして空腹でもないのにここでも私は「チャーシュー大盛り」という選択をしてしまう。

 

ラーメンはかなり美味しかったのだが、笠岡ラーメンとやらは「鶏」が基本形らしく、チャーシューと称している肉も鶏肉だったのがちょっと残念だった。それでもそんな肉まで別注しちゃうわけだから私の強欲はちょっと問題かもしれない。

 



時々は自宅で簡単調理をする。得意なのはミートソースである。多めに作って冷凍保管している。ここでもエンゲル係数を考えない私は、ベースにする高級レトルトパスタソースに高い挽き肉をドバドバ追加する。有機生マッシュルームもドバドバ入れる。

 

おまけに一気に飲みきれる程度の量なのに400円ぐらいする高級ニンジンジュースなんかもソースの味をまろやかにするためにガンガン投入する。基本のレトルトソースだけで茹でた麺にかければ充分に一食になるのに我ながら馬鹿みたいだと思う。

 

冬場だったら一人で食べるパスタに生牡蠣を20個以上入れることがある。他にエビなども買うし、1回か2回しか使わずに捨てることになるアンチョビソースもそのために買っていると気づくとバカみたいな一食単価になっていることがある。

 

料理にはちょっと興味はあるのだが、主婦的なやりくり感覚が皆無だから、本気でやり始めたら財政破たん必至である。それなら外食していたほうが割安だ。

 

そんな言い訳で今日も明日もあさっても無駄に食費がかさんでいく日々である。